兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

セーラームーン世代の社会論Crystal

2017-09-15 23:29:29 | アニメ・コミック・ゲーム


 本稿は「セーラームーン世代の社会論」の続編です。
「次回へ続く」と言っておきながら、他の記事にかまけてすっかりうpするのを忘れておりました。
 そんなわけなので、前回記事を未読の方は、そちらの方から読んでいただくことを強く推奨します。

 以前、KTBアニキのご著書をご紹介した時のことをご記憶でしょうか。
 アニキは同書の中で「結婚はおわコンおわコン」と一億回くらい繰り返しているのですが、見ていくとどういうわけか、見合い文化や、長年連れ添った老夫婦を称揚する箇所に出食わします。
 どうもアニキは「ロマンティック・ラブ・イデオロギーの否定」というフェミニズムの主要な考えをご存知ではないらしく、ぼくはそれを根拠に、彼には(フェミニストの)バックはいないと想像しました。
 また、ぼくは以前、フェミニズムを「サイエントロジー」に準えました(正確にはeternalwindの指摘です)。それなりに勢力を持っているカルト組織なのですが、信者にすら知らされていない、「宇宙帝王がどうのこうの」という突拍子のないトンデモ教義が「密教」として存在し、ステージを昇り詰めた者だけが、その「密教」に触れることができる、というモノですね。
 フェミニズムについては、実はそのあまりにも奇矯かつ反社会的な「教え」は別に隠されているわけではなく、どこの図書館にでもある本の中に書かれているのですが、フェミニズムに絶対服従を誓っているはずのリベラル君たちはどういうわけか、そのフェミニズムの「密教」部分を知らない。多分、グルに図書館に行くことを禁じられているか、或いは字が読めないのだと思います。
 いずれもフェミニストが大好きなクセに、フェミニズムについての正確な知識に欠けている。それは彼らがフェミニストという「ママ」に萌えるためには、「フェミニストの真実の姿」が邪魔だから、と考える他はない。
 そして、稲田豊史師匠もまた彼らと同じ特徴を持っているのではないか……というのが、本書を読んでのぼくの感想です。

 第四章後半から、「母としてのセーラームーン」という節タイトルが付されるなどして、「セーラームーンの母性」を大いに礼賛する流れになります。
 この辺りからぼくは、薄氷を踏むような気持ちで本書を読み進めました。
 何しろ、「母性」「結婚」を弱者男性の一兆倍憎むのがフェミニストです。本書の姉妹編とも呼ぶべき『ドラdisり』――じゃなかった、何だったっけ、忘れちゃった――でもママが目を三角にして怒りそうな記述がぼくをはらはらさせましたが、本書では「セーラームーンの母性」がどのような評価を与えられているのか……いえ、考えるまでもないでしょう。「何も考えず称揚を続ける」に一京クリスタル。
 ぼくはそう予想し、その予想はまんまと的中しました。
 本作の主人公(つまり、セーラームーンの普段の姿)は月野うさぎという女子中学生ですが、『R』からはちびうさという、うさぎを小さくしたような少女が登場します。当初は謎の少女であったちびうさは、次第に「未来から来たうさぎの娘」との正体が明かされ、セーラーちびムーンへと変身し、ついにはうさぎとのダブル主役状態になり……とその物語上の比重を増していきます。
 これを師匠は

 そう考えると、『セーラームーン』の物語構造はなかなかに革新的だ。
(中略)
 その延長としての「結婚」を匂わせることはあっても、うさぎのように未来の夫、未来の娘がすぐ隣にいる状態でドラマが展開するのは珍しい。
(p144)


 と驚いて見せますが、当然、知識不足による誤謬です
 むしろ「女児向け」としては「娘を育てる」という要素が登場するのは鉄板と言っていいのですから。
『セラムン』後、『プリキュア』以前に放映された東映アニメ『おジャ魔女』シリーズもそうですし、リカちゃん人形もまた、ママや赤ん坊のキャラクターがセットになっていました。もっともリカちゃんの場合、赤ん坊はあくまで「妹」ではあるのですが。そしてまた、確かに、タキシード仮面というパパ役が設定されること自体は、そこそこ珍しいかも知れません(女児向け作品では父親なり、男子の影が薄いのがお約束です)。
 しかしこれは『セラムン』が当初から内包していた「女児向け」という要素と、「高学年向き」の大学生との恋愛、という要素が化学変化を起こして生じた、偶然の産物という見方をするのが正しいように思われます。
 いずれにせよこうした世代を繋いでいく要素は、女児向けのコンテンツの基本と言っていいように思います。『プリキュア』はたまに小学生戦士が加わるくらいでちびムーン的ポジションのキャラはいませんが、赤ん坊的なマスコットは常に出て来ますしね。
 そう、つまり『セラムン』は最初から答えていたのに、師匠だけが気づいていなかったのです。
 前回、師匠の『セラムン』は「老いに怯える成人女性」を敵としながら、実際にそうした年齢にさしかかった女性への答えを用意していなかった、との評に対し、ぼくが『セラムン』は明快に答えを提出している、師匠は理解できないだろうから、後に説明して差し上げると予告したことをご記憶でしょうか。
 上の構造が、その答えです。
 そう、次代を育てることで、自らの生命を繋いでいくことこそが、「母であるセーラームーン」の出した答えでした。
 こうなるとセーラームーンの敵の正体も明らかでしょう。
 そう、「男性」を、「結婚」を、「家庭」を何よりも憎む者たち。
 師匠のグルのガールフレンドたちを倒すために、セーラー戦士たちは出現したのです。
 しかしそれに気づかず、師匠はセーラームーンを礼賛し続けているのです。
 フェミニズムの「密教」をいまだ、知ることなく。

 何しろ師匠は月野うさぎに孤独な魂を救済されたセーラー戦士たち、という物語テーマについて、或いはまた、敵キャラクターをもその悪しき心性を「浄化」する展開が多いことについて、極めて熱の籠もったペンを走らせているのですから。
 いえ、それをぼくは、否定しようとは思いません。
 詳しい方は想像がおつきかと思いますが、ここで採り挙げられるのは劇場版『セーラームーンR』。本作は長きに渡る『セラムン』の歴史の中でも間違いなく最高傑作と言っていい出来であり、ここにおける師匠の熱い語りについて、(先のEDテーマへのリスペクト同様)ぼくは素直に賛同の意を表します。
 ……が、同時にここでぼくは二点、指摘しておかないわけにはいかないのです。
 師匠は劇中の名セリフ、

「大丈夫よ、セーラームーンはみんなのママだもん」


 を引用するのですが、少なくともフェミニストは彼らのママではないということがまず一点。
 そして、実は師匠が劇場版『ドラえもん』の勇敢なのび太を「授業参観日だけ優等生を演じているだけなのだ」と一蹴して見せましたが、もしそれが正しいのであれば、うさぎちゃんもまた……ということが二点目です。
「うさぎの友情によって救われたセーラー戦士たち」とのモチーフは劇場版のみならず、テレビ放映版にも時おり姿を見せるものです。が、まあ、顕著なのはクソ真面目なガリ勉だったセーラーマーキュリーだけではないかなあ……とぼくは感じます。セーラージュピターもまた、初登場時は不良のようだと恐れられていたところをうさぎに声をかけられる、といったエピソードがありましたが、以降、それを引っ張るわけではない。
 セーラーマーズはうさぎと一番親しい間柄ではあれ、「それ以前は孤独」だったのか。セーラーヴィーナスはどうか。劇場版を観てもこの二人の「かつて、孤独だった」描写はいささか強引であったことは見て取れるはずです。
 これらはちょっとした瑕疵であり、娯楽作品としての『セラムン』の価値を損なうものではありません。しかし(何らかの政治的意図を持って)やたらと「セーラームーンの母性」を賛美されると、「良質な娯楽作品」であった本作までが、何やらうさんくさいものに見えてきます。
 というのも、上のような側面を全面的に否定する気はありませんが、仲間たちの関係性の中で、うさぎはどちらかと言えばスキルのある他の少女たちに比べてみそっかす、変身後も「守られるべき姫」としての側面の方がむしろ、強いように思われるからです。師匠は彼女を

 うさぎは楽天的で物怖じや人見知りをしない、“近所の世話焼きおばさん”気質だ。
(128p)


 と形容していますが、そしてこれもそれなりに当を得てはいるのですが、上に書いた劣等生的な部分を見ずにこうした点ばかりを強調するのは極めてアンフェアです。

 いえ、それに留まりません。
 ご覧になったことのない方には感覚が伝えにくいですが、『セラムン』というのは基本、こんなシビアなお話ではないのですから。セーラー戦士たちは放課後、ファミレスに集っては、地球の平和について(彼氏が欲しいというガールズトークの合間に)語りあいます。当時、『セラムン』評論で著名な志水一夫氏が彼女らについて「汗一つかかず正義を守る」とちくりと揶揄していた記憶があります。師匠はタキシード仮面について、「実はセーラームーンに依存している」などと腐していますが、実際はセーラームーンが危機に陥ると、タキシード仮面は率先して楯になるんですね。そして、肉弾戦を展開する(『セラムン』の女児向けリファインとも呼ぶべき)『プリキュア』の戦士たちとは異なり、ムーンは実質的には相手にエネルギーを照射してヒーリングするだけの、「キレイな戦い」しかしない。
 実のところ、『プリキュア』に慣れた後、『セラムン』を観るとかなり驚かされます。肉弾戦の有無もそうですが、先のガールズトークに見られる(今の感覚で言うと)ビッチぶりと、そして、戦いの「不真面目」さ。
 正直、ここについては当時の感覚を正確に把握していないと語ることは困難です。
 セーラー戦士たちのバトルを観返すと、極めてコント的であることに驚きます。これは『ゴレンジャー』に端を発する戦隊のバトルがコント的であること、そして(『ゴレンジャー』自体は74年の放映であり、源流はドリフなんじゃないかと思うんですが)それが80年代的ニヒリズムに源流を持つことを知らないと理解ができないのですが、ともあれそうしたバックボーンのせいもあって、実はセーラー戦士たちの戦いはかなり、コミカルなものであったのです。



■少しはマジメに戦えと言いたい。

 つまり、『セラムン』は変身ヒーローのパロディとして誕生した。
「パロディ」であるが故に必然的に「コント」性を獲得したとも言えるが、いや、実のところ「元ネタ」である『ゴレンジャー』が元からコントであり、それを引き継いだという感が強い。それは時代背景故の必然とも言える。とは言え一番大きな理由は、やはり女児にシビアなバトルが期待されていなかったから、ということに尽きるのではないでしょうか(プリキュアは肉弾戦で戦う勇壮な戦士ですが、当然、女児の喜ぶ生活描写やモンスターのコミカルさは遵守されています)。
 ちなみにこれは余談ですが、217pではタキシード仮面は「滑稽」な存在であり、それが「茶化される」場面もあるとの指摘がなされています。それは全く、間違いではありません。しかし上の動画を見ればおわかりになるのではないでしょうか。そう、タキシード仮面が「滑稽」なのと同じくらいに、セーラー戦士たちもまた、「滑稽」であることに。だからこそ彼女らは愛すべき、実際に愛されたキャラなのです。それは丁度、のび太と同様に
 むろん、彼女らは最後の最後までおちゃらけているわけでは全くなく、「やる時はやる」のですが、それが皮肉にも日常描写との連続性を断ってしまうという事態を引き起こすこともありました。
 例えば、ファーストシリーズのクライマックスはどうだったでしょうか。
 ムーン以外のセーラー戦士たちは敵と戦い、一人、また一人と倒れていきます。
 何というか、『聖闘士星矢』みたいな感じです。
 実のところ、セーラームーンが敵に勝利した時点で奇跡が起こり、仲間たちは何ごともなかったように復活するのですが、この最終回が前後編であったがため(つまり、仲間が死んで前編が終わってしまう!)、女児たちがものすごいショックを受けたといいます。
 当たり前です。
 恐らくですが、女の子向け作品であるにもかかわらず、スタッフがつい男の子向けアクションを作っていた時の手癖を出してしまったのではないでしょうか。
 そのせいで言わば、女児向けアニメで描かれるべき日常の楽しさとバトルのシリアスさに齟齬が生じてしまった。その亀裂の大きさは残念ながら、劇場版と通常回ののび太の比ではなかった
「滑稽」さと言うことでいえば、忘れてはならないことがあります。
「原作」では二の線であるセーラーマーズがアニメでは二枚目半にされたことです。
 詳しくない方のためにご説明が必要となりましょうが、『セラムン』の「原作者」が若い女性であったことは、比較的有名かと思います。しかし、この「原作者」とアニメ側に確執めいたものがあるらしきことも、ファンの間では有名です。
 もちろん、そうした情報は明確に可視化される形で表に出てくることはありませんが、「原作者」が(先に挙げた『R』ではなく『S』の)劇場版の脚本を担当し、そのクオリティが低かったことに対しての苦言を書いたアニメスタッフのブログ記事がアップされていたことがあったはずです。
「原作」漫画の連載開始時期とアニメの放映開始時期を見ても、企画が同時進行していたことは、ほぼ、間違いがありません。また、本作の雛形となった漫画『コードネームはセーラーV』を見ると、言っては悪いのですが非常に拙い作で、『セラムン』のプロットや設定を本当に「原作者」が作ったかどうかは疑問が残る。この「原作者」は、東映にありがちな、実質的には「キャラデザ及びコミカライズ担当」というパターンだったのではないでしょうか。
 そして、先に書いたマーズは「ハイヒールでおしおきよ!」が決めゼリフの女王様的キャラで、男嫌い。「原作者」のトークを見ていくと、彼女のホンネをかなり表したキャラだと想像できます。いえ、他のセーラー戦士たちも「原作」版ではムーンのナイトという性格が強調されており、そこにはアニメ以上に百合的なムードが立ちこめています(「原作」ではセーラー戦士たちが「彼氏が欲しい」と漏らした後一転して、「私たち本当は姫にぞっこんで、男なんか目じゃない」と啖呵を切る、アニメへの「返歌」とも思えるシーンがありました)。
 即ち、「原作」版のセーラー戦士たちは女子校的厨二的ミサンドリーをこじらせた存在と言え、中でも「恐い」印象を与えるマーズは、前回もちょっと書いたように女児人気が最低でした。
 しかしそのマーズを、アニメスタッフたちは「気取ってはいるがドジで、本当は気のいい少女」としたのです。「男無用の勇ましい女」であるはずが、衛(後のムーンの彼氏)に横恋慕して周囲をうろちょろしてはドジを踏むという、かなり辛辣なギャグまでも演じさせられていました。ついには「アニメファン」という設定までが与えられてしまったのですが、これもどちらかと言えば格好が悪い感を出すためのものでした。こうした改変はキャラクターの魅力を引き出すためである、との旨が、当時のスタッフインタビューで語られています。
 もちろん、こうした流れについて、本書は一行たりと触れていません
 本書は専らアニメ版に限定して批評すると明言されており、「原作」を扱わなかったのでしょうが、それでもこのマーズの改変は、記しておくべきだったでしょう。「男性に依存しない、毅然とした少女」という師匠の淫夢を明快に否定したのは他ならぬ、このアニメ版マーズだったのですから。
 もう一つ触れておくべきことがあります。
『S』のクライマックスはどうだったでしょうか。
 病弱な少女・ほたるの中に眠る悪の戦士「セーラーサターン」。それが覚醒しては地球が滅びる。セーラームーンたちの先輩であるセーラーウラヌス、セーラーネプチューンは大の虫を生かすため、ほたるを殺すべきと主張。しかしうさぎたちは誰も犠牲にしない道を選ぶべきだと対立します。
 しかし!
 ここで普通ならば、うさぎたちの理想論が勝利するのが正しいエンタメであろうに、こともあろうに彼女らは、ほたるを救うために具体的な行動を起こさない。ウラヌスたちがほたるに危害を加えようとした時にだけ、場当たり的に理想論を吐くだけです。
 結果、ほたるは覚醒し、街は廃墟と化し、仲間の戦士たちも倒れるというのがクライマックスの展開です。
 ウラヌスが「全てはお前の甘さが引き起こしたことだ。これで満足か、セーラームーン!」と絶叫する中、ムーンは為す術なく立ち尽くすのみ。
 もっとも、その後はまた奇跡が起こり、事態はウヤムヤで収束するのですが――。
 この『S』のクライマックス、エンタメとしてはあまり評価できません。
 純粋に、(それこそ『エヴァ』のラストのように)話を上手くまとめられなかったが故のヤケクソの展開であったかのようにも見えます。しかし――いや、むしろだからこそ、ここにはスタッフたちの美少女戦士に対する悪意が透けても見えます。作品世界の綻びを、スタッフは悪意でもって意図的にクローズアップして見せた。その時のスタッフの声はきっと、ウラヌスの声と「完全に一致」していたのではないでしょうか。
 それはつまり、「女性性を放棄しないまま、しなやかに地球を守る」というフレコミの「母性の戦士セーラームーン」の「誰も犠牲にはしない」との言葉は、内実を伴わない甘言だ、と――。

 師匠の弱者男性への見ていて退いてしまうような憎悪について、ここしばらくずっとご紹介を続けてきました。前回も、本書にまでのび太をdisる箇所があることを、お伝えしました。
 本書のそうしたのび太disりコーナーの節タイトルに「運命の相手を“待っている”のは、のび太系男子」というものがありました。この種の「男の子は白馬に乗ったお姫さまを待ち望んでいるが、女の子たちはそんな男の子たちを見捨て、一人で旅立ったのだ」的な言説は、本当にバブル期によく見られたものです。というか、この文章自体が内田春菊師匠が出て来た時に大塚英志氏の書いた作品評を記憶で再現したものです。
 しかし、内田師匠の凋落ぶりは、言っては悪いですが本作の「原作者」である武内直子氏のそれと、かなり近い。
 そして――ここまでくれば、もうおわかりになるかと思います。師匠がここでも重大かつ悪辣な事実の隠蔽を行っていることに。
「待っている」のはむしろ、セーラームーンの方であった、ということです。
 何しろ師匠が否定してみせたEDテーマ、「プリンセス・ムーン」には「恋人が来るのを待っている」と歌われているのですから。
 公式設定で、うさぎの将来の夢は「お嫁さん」であるとされているのですから。
 そして、そうした事実を隠蔽してまでママのキスを待っているのは、のび太系男子ではなく師匠に代表されるリベラル君であった――どうやら、そんなオチがつきそうです。
「女の時代」のアイコンとして燦然と輝いていた『セーラームーン』、しかしその「原作者」はいささかその才能に疑問の残る、キツい言い方をすればお飾り。
 そして――実際の『セラムン』のクオリティを保っていたのは佐藤順一、幾原邦彦といったシリーズディレクター、当時まだ二十、三十代だった若い男性スタッフたちの働きによるものが大きかったように思われます。これはまた、「萌え」や「アキバ系」が先端文化として採り挙げられる時、決まってアイコンである二次元美少女やそれの模倣であるコスプレイヤーの少女たちが持ち出されるのに対し、実際の作り手たちの多くが男性であったこととパラレルでしょう。
 彼らはアニメのクオリティを上げると共に、セーラー戦士たちを「気取ったムカつく女」から「親しみやすい俗っぽさを持つ少女」にすることで、女児たちの支持を得たのでした。
 しかし、それは「生命懸けで何かをなす」こととは齟齬が生じる。だからこそ女児やセーラーウラヌスが泣き叫ぶ結果となったのです。
「女の時代」の寵児であったセーラームーンは、「ステキな美少年」――というには微妙かも知れませんが、事実、幾原はイケメンでした――にツッコミを受け、フェミニズムのウソの全てを暴き、その敗北を予言した――そんなところが実態だったようです。
 師匠は「原作者」のインタビューを引き、

「女子の欲望すべて」。これほどまでに『セーラームーン』という作品の魅力をひと言で言い表した言葉はない。 それまで、「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとっていた女子たちが、「誰かがいいと思うもの」ではなく「私がいいと思うもの」に価値観をシフトさせた。それがコギャルであり、セーラームーンだった。
(175-176p)


 と語ります。
「男子の欲望」は全て否定する師匠が、どうして「女子の欲望」はここまで全肯定なのかと問いたくなりますが、「女は全て正しく男は全て間違っている」が師匠の所属する闇の結社のドグマなのだから、仕方がありません。
 それよりも気になるのが、ここでも師匠が事実をスルーしていることです。
『セラムン』は『ゴレンジャー』のパロディであり――そしてまた、オタク男子たちがOVAなどで描いていた「戦闘美少女」もののパロディでもありました。ようやっとアニメが若者文化として根づき、作り手にも若手が育ちつつあったこの頃、オタク男子の、オタク男子による、オタク男子のための「強い美少女が戦う」OVA(テレビメディアなどには乗らない、ビデオとして販売されるアニメ)が佃煮にするほど作られました。『セラムン』は明らかに、その延長線上に存在しているのです。
 以前、ぼくの周囲のオタク男子たちが、『セラムン』が女児向けであると理解できず、「オタク男子の欲望」をこそ受けて作られたものと頑なに信じ込んでいたことを、ご紹介しましたが、それにはそうした理由があったからなのです。そうそう、放映当時、テレ朝(キー局)の社員でも口の悪い者は、本作を「キャバクラアニメ」などと呼んでいたとも聞きます。
 そう、ぼくたちが女の子に「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとわせていたところに、セーラームーンは現れて、こう言ったのです。
それいいじゃん」と。
キミがいいと思うもの」を「私もいいと思ったよ」と。
 師匠だけが、それを理解できていません。
 そうして、『セーラームーン』は女児の快楽原則に従った、極めて良質なエンタメになったのです。
 決して、フェミニズムのプロパガンダやリベラル君に「ママのキス」を与えるために描かれたものではありません。
 だからこそその実態は、フェミニストやリベラル君たちの妄想からは、遠く遠く隔たっていた。
 そういうことだったのです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿