本作については今までも時々、口に出すことがあったかと思います。
もちろん、あまりいい評価をしてはいませんでした。
記憶で書きますが、当ブログでの本作について語る時の論調は、「オタク女子」ものコンテンツのワンオブゼムとして、という感じだったでしょうか。
十年ほど前まで、オタクコンテンツにおいてはラノベなどを中心にオタクそのものを主人公にした作品、オタク業界をネタにした作品が隆盛を誇っていました。恐らく元祖と呼べるのは『らき☆すた』でしょうか(『げんしけん』は何か違うんだよなあ)。
正直、それらにぼくはそこまでの評価を与えていませんが(これは先行して『こみっくパーティ』という大傑作が存在していたせいもありましょうが)、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』についてはかなり高い評価を与えていました。オタクのルサンチマンに切り込んだ形で描写していたところを、評価していたのです*1。
『俺妹』も『らき☆すた』も、そして『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』も、主人公は少女とされていました。その「萌えキャラ」に読者の男の子たちが自己投影するというのが(他の多くの萌え作品同様)この種の作品の構造といえました。
しかし近年、その流れは途絶えてしまった。
目下、『わたモテ』といえば『私がモテてどうすんだ』だし、『うまるちゃん』、『オタクに恋は難しい』など、「オタクネタ」のコンテンツは専ら女性向けのものに限られるようになってしまいました。これは『電車男』以降、ちょっとだけオタクがポップなものになるや『801ちゃん』が出てきたことと「完全に一致」している、忸怩たる思いだ、そんなふうに言ってきたかと思います。
――さて、そんな流れの果てに登場したのが本作。
実のところディープな特オタ、ぼくが注目しているような人までもが本作を絶賛しているのですが、正直ぼくはあまり感心しない。単行本を数年前、四、五巻辺りまで読んだのですが、本作からは作者の「特オタである自分」が好きで好きでたまらないという感情はひしひしと伝わってくるものの、特撮への愛はあんまり感じることが、少なくともぼくにはできなかったからです。
母親との確執、ドルオタ女子との確執のエピソードは、そんな中では読ませるものになっていましたが、それは皮肉にも話題が特撮から離れていたからこそという面があったように思います。
*1 そして、そうした作品に対して半狂乱で怒りをぶつけていたのが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」であることは、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」などで採り挙げました。
……そんなことをつらつら考えている折に、NHKでのドラマ化の報。もうNHKで、しかも実写化というだけで嫌な予感しかせず、観ることもなかったのですが、先日の一挙全話放送でついつい重い腰を上げてしまいました。宮内洋のサプライズゲストが気になっていたという理由もありますが。
そういうわけでドラマを観た感想に加え、数年前に読んだ原作のおぼろげな記憶を動員し、少し語ってみることにしましょう。
まずは、どうにも観ていて目に留まるのが会社のチャラ男。原作にも出てきていたのでしょうが、あまり印象にない。それがドラマ版ではやたらと前面に出ているのです(或いは、忘れているだけで原作でも目立っていたキャラなのかもしれませんが……)。まあ、男が見て楽しいものではありませんが、こうした描写は平成ライダーでも目にします。専ら女性に向けて作られている地上波ドラマでは、恐らくこういうのが必ず入るお約束になっているのでしょう。
当ブログをお読みの方には説明の用もありませんよね。要するにこれ、『ワカコ酒』です。「特撮ヒーローに夢中なワタシ、男なんか目じゃない、しかし男はうるさく言い寄ってくるのよねー、ぷしゅー」。
つまりこれは由美かおるの入浴シーンの女向け版であり、これをさらに「こじらせる」とフェミニズムという名の性犯罪冤罪となる。もう、詳しく述べるまでもなく、みなさんおわかりのことでしょう。
さらに言えば上に書いたドルオタ女子の話、これもそうした女性向けならではの仕掛けがふんだんに施されています。まずはこのドルオタ女子(北代さん)は当初、大変に陰湿で不愛想なキャラとして登場してきます。そして、そこで主人公(仲村さん)はどうやら北代さんに「オープンオタ」であると思い込まれているらしきことがわかる。
オープンオタって言葉もあまり聞きませんが、要するに隠れオタと相対する概念。北代さんも仲村さんも両者ともに隠れオタであるにもかかわらず、北代さんは誤解して仲村さんを敵視してくる。隠れオタにとってオープンオタは腹立たしい存在なのだから……いえ、本当にそういう「オタクあるある」があるのかどうかぼくにはわかりませんが、そして本作でもそれほどその辺りの心理が説明されるわけではありませんが、観ていくとそういうことなのだとしか解釈しようがありません。
ちな、原作ではここで「オープンオタな仲村さん」を仲村さん本人がイメージするシーンが入ります。会社の同僚に「特撮グッズ買っちゃった」などと明るく話している自分自身の像。何というか、敢えて言えばぼくがこの作品(原作)を読んでいて唯一「萌え」を感じた、キャラクターを可愛らしいと思えるシーンでした。
すなわち、「理想像」としての「オープンオタク」というものがあり、仲村さん自身もそれではないのだけれども、そういう存在と思い込まれて「嫉妬」されている。北代さんはぶっちゃけ不愛想な上にブスとして描かれ、しかし同じ隠れオタといえ、まだしも堂々としている仲村さんの方が格は上である。そうした構造が設定されているわけです。
何しろ、(まあ、お約束としかいいようがないことですが)仲村さんは会社ではチャラ男が象徴するように男女共に慕われる、「イけている」存在。「リア充」と「オタク」という選択肢を二つ用意された上で、敢えてオタクを選び、「飲み会ウザい」と困っている(まさにチャラ男に対する反応と同じですね)存在なのです。
観ていて、どうにも受け容れにくい描写がありました。会社である人物がミスをして、仕事が増える。「みんなで残業して頑張ろうぜ」と音頭を取るのが例のチャラ男。ところがこのチャラ男は「同調圧力をみなに強いる悪」として描かれるのです。「こいつが余計なことを言わなければ、とっとと帰れたのに」と。
しかし、いかに自分の責任ではないとはいえ、みんなでことに当たるのは当たり前なんじゃないのかなあ。「好きな番組をリアタイで観たい、しかしそんなオタク的価値観はみんなにはわかってはもらえない」という葛藤が、ここでは語られるし、まあ気持ちはわかるのですが。
これ、仮にですが仲村さんが「会社ではぼっち」として描かれていれば、心情としては同意できるんですよね。それをなまじ「できるOL」のように描くから観ていて納得しがたくなる。とたんに話が嘘松になってしまうわけです。
そう、本作は「特撮愛」を語る作品などでは決してなく、「オタクとしての肩身の狭さ」へと仮託することで、「女性の虚栄心を巡る諸相」を描く作品であったと言うことができるのです。
そもそも「オープンオタク」という用語自体がそうですが、他にも本作では「ドルオタ向けグッズには(アニメグッズなどと違い)一見してアイドルグッズとはわからないものがある、それは独自のロゴマークのあしらわれたものであり、これを持っていれば周囲にはドルオタとはバレずに、ファン同士でだけわかりあえるサインとしての役割を果たしてくれる」といった描写があり(すんません、専門用語があったはずですが、忘れました)、それ自体は面白いのですが、女性独特の文化だよなあ、と思わずにはおれません。
この北代さん編、そうはいっても不愛想な北代さんが次第に心を開いていく過程など、観ていて楽しめる部分も大いにあったのですが、意地悪な見方をしてしまえば「ブス」「不愛想」「(モテないが故に)イケメンに夢中」というネガティビティをドルオタ女子へと「押しつけた」構造になっているんですね。
事実、本作にはスーツを着たヒーローが縦横無尽に登場するのですが、「変身前」のキャラの露出は驚くほど少ないのです。仲村さんが男性に恋をした……と思わせておいて、その男性はヒーロー役者にそっくりであったがため気になっていただけ、ちょっとお芝居をしてもらったらバイバイ、といったエピソードもありました。普通に考えれば好きな声優さんにそっくりの女性がいたら、彼女になって欲しいですよねえ。
つまり、作者の中に「イケメン好きだと思われたくない」との過度の恐れがあり、それがまた作品を嘘松にしている、とぼくには思われるのです。
ちな、「十年前のオタクネタコンテンツ」では、「拙者は萌えアニメのヒロインに萌えているのではござらん! この萌えアニメを、萌え目当てではなくSF作品として視聴している変わり者なのでござるよ!」と主張するような、まさに「予め、仲村さんを、風刺した」キャラが溢れていたのですが*2。
*2 厳密にいえば上のキャラは『ダンガンロンパ』の山田君で、作品自体がオタクネタというわけではありませんが、ともあれそうしたキャラが当時は大勢いたということは、「今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」参照。
――ここまでお読みいただいていかがお感じでしょう。
リベラル君がもし本稿を読んでいたら、発狂寸前かもしれませんね。
「特撮を男のものであるというマッチョで偏見に満ちた意見を持つ、老害オタクが何か言っているぞ!!」と、こちらの一言も言っていないことを文面に見て取り、内心ではチンポ騎士として振る舞えることに随喜の涙を迸らせながら、加野瀬未友に倣ってデマを流し*3、叩いてやれと思っているところかもしれません。
例えばですが上の「仲村さん、変身前のイケメンに関心を示さない問題」について、口角泡を飛ばして主張したい方がいらっしゃるかもしれません。「それはつまり、仲村さんが(そして絶対的に作者が)そうしたものに関心がないからだ、お前のような老害オタクがオタク女子への偏見でモノを見ているのだ!!」。
はいはい、そう興奮なさらないでください(幻聴へのツッコミです)。
いや、そりゃ、そうかもしれません。
事実、仲村さんが特オタとバレそうになったら「言い訳として」、主演のイケメンのファンだと「ウソをつく」シーンもあります。
しかし、(作者がどんな方なのかは存じ上げませんし、ドラマの登場人物の設定に文句をつけても仕方がないものの)実際の特撮オタク女子について考えれば、それはやはり一般的な傾向とは呼べないのではないでしょうか。
しかしその設定が受け容れられ、ドラマ化までしてしまう辺りに、やはりぼくは女性の虚栄心を感じないわけにはいかないのです。
*3 当ブログの愛読者の方はもう周知でしょうが、「オタク女子を政治利用しようとする一般リベ」によってそういうことが行われたことがあったのです。詳しくは「『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件」、「「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち (兵頭新児)」など。リベラルというのが、ただ「デマで政敵を貶める」ためだけにこの世に存在している人たちであるということが、これでわかりますね。
北代さんに比べれば重要度はぐっと減るのですが、本作には「任侠さん」というキャラが登場します。オタク陣営では唯一の男性。あだ名の通り強面なのだけれども、実は特オタ。それどころか萌えオタでもある……いえ、「魔女っ子アニメ」のファン、という言い方をすべきでしょうか。『ラブキュート』という『プリキュア』みたいなアニメのファンなのです。子供の頃から同作を熱心に見ており、母親は「犯罪者になるんじゃないか」と心配していた(というシビアな話が、過去のこととして、かなりあっさりと描かれる)。
おわかりでしょうか。
ぼくには、オタク女子の苦悩というものは実感できません。腐女子には腐女子なりの苦悩があるでしょう。しかし、この「任侠さん」の登場は明らかにしてしまっているのです。
やはり、オタクとしての苦悩は、男の方がキツいに決まってるよな、ということを。
そうじゃないとおっしゃるのであれば、では、アニメを観たくらいで犯罪者予備軍扱いを受けたオタク女子というのは、どれだけいらっしゃるのでしょうか?
しかし、にもかかわらず、この任侠さんは、言うまでもなくこの種の話にありがちなように、そしてまたおもちゃ屋さんという設定が象徴的なように、描かれ方としては仲村さんに対する援助者という役割であり、(上のようなエピソードが挟まれるにもかかわらず)さほど内面が描かれることはありません。彼のオタク性も肯定的に描かれてはいるものの、作品全体を見るとあくまで「特撮女子」のオマケという感じ。
一昔……というか、三十年くらい前の少女漫画には時々、「化け物のようなオカマ」が登場していました。作品からはそうした「オカマ」を「女性」として認めているのだぞと著者のダイバーシティへの認識の深さを誇り、押しつけてくるオーラが濃厚に漂っていますが、しかしその「オカマ」の化け物のようなヴィジュアルは著者の「しかしヒロイン(ないし、実際の女性)よりは格下」との無意識下のヒエラルキーを見る者に直感的に伝えてきます。そう、それはまさにヤクザみたいなツラの「クセに」美少女アニメが好きな「任侠さん」のご先祖様です。
もう一つ言うと劇中に登場する『ラブキュート』のイラスト、本当に慣れない絵師さんが無理に描いたであろうあんまりな出来で、何というか、本作のスタッフたちの「萌え? 知るかそんなモン!!」という力強い叫びが聞こえてくるようです。
さて、本作を最も特徴づけているのは、仲村さんの母親の存在でしょう。最終二話はこの母親との対立がメインで描かれます。
仲村さんは子供の頃から筋金入りの特オタで、ヒーローのおもちゃを欲しがっていたが、お母さんは可愛いものが好きで、『ラブキュート』など「女の子らしい」おもちゃを買わせようとしていた。そしてある時とうとう、お母さんは彼女の大事にしていた『テレビキッズ』(『テレビマガジン』のような子供向けテレビ情報誌)を焼いてしまう。それ以降、仲村さんは特撮好きな心を封印してしまった。
高校卒業と同時に特撮熱が再燃、想像するに大学で一人暮らしを始めたのでしょう、今に至るまで特撮グッズで埋まった自室へと、お母さんを入れないようにしていたのですが、そこを合鍵で部屋に潜入、今だ彼女が特オタであることを知ってしまう……というのがクライマックスの展開です(そもそもそんな母親に合鍵なんか持たすなよ!!)。
それを知り、仲村さんはお母さんへと「縁を切る!!」と激昂。その時、「お兄ちゃんも私もお母さんのことが嫌いだった」と言ってしまったがため、お母さんはお兄さんのところへも「今まで無理をさせていてすまなかった、これからは正月も無理に帰郷しなくていい」といった旨のメールを送ってくるのですが、それを知った仲村さんは「同情を買おうとするいつもの手だ」などと言うのです(「同情」だったか、正確な言い回しは失念しましたが)。
もちろん、母親をよく知る仲村さんの見立てなのだから、正しいのかもしれません。口先で謝罪しつつ、自分が被害者の側に立とうとするテクニックは確かに、女性の得意とするところです。しかし――そうしたテクニックのことを、学術用語で「女災」というのですが、それにしても、その「女災」理論の提唱者たるぼくの目から見ても――仲村さんはキツいなあ、と思います。もちろん大事な本を焼く、勝手に部屋に入るといった一線を越えた行動をしているのは、常にお母さんの方とは言え(一体に、女性向けの作品ではこうした「女災」を鋭く認識し、しかし専ら自分に降りかかる厄災として描く傾向があるような気がします。即ち、彼女らは男性が鈍感であることとは対照的にこの世に「女災」というものがあることを敏感に察知しつつ、それが「女性ジェンダー」にヒモ付いたものであることについては、理解が及んでいない……ぼくにはそう思われるのです)。
しかし、果たしてこの母親の描かれ方は適切なのでしょうか。
このお母さん、「あなたはいつまでも、周囲のオタ友が結婚して、一人になってもオタク活動を続ける気なのか」などと言います。ですが、女性はまだしも、そうしたことを続けられることが許された側でしょう。ただ、理解のある旦那を見つけるか、或いは一人で稼いでいけばいいだけの話なのですから。お母さんの言葉、特オタなんぞやっていたら出会いもなく、結婚してよりは自由になるカネもなくなる、男性に向けられたものでなければ説得力がないのです。
本作ではひたすらに「特撮女子」が理解されえない存在として描かれます。
イメージソング(なのか? OPテーマじゃないようだし)はゴールデンボンバー。「この世でたとえ一人になろうとも」「思いを秘めて生きてきた」といった歌詞が並び、本作のテーマを実に見事に歌い上げています*4。
そして、その「特撮オタクを理解しない世間」を象徴するのが、母親というわけなのですね。
本作の本質は、何でしょうか。
冒頭で挙げた『俺妹』のように「オタク男子の不遇感に寄り添い、共感してくれるオタク女子の話」でしょうか。或いはそのようにとれる人もいるのかもしれません。それはそれで、幸福なことでしょう。
しかし今まで見てきたように、少なくとも本作が描いているのは徹底的に女社会の話(友人関係であり、母子関係)。少女漫画というのは――これは、少女漫画ヒョーロンなどを読んでの受け売りですが――とにもかくにも母親との葛藤をテーマにしてきたといいます。本作もその意味で、頭のてっぺんから足の爪先まで、「少女漫画」なのですね。
まあ、それ自体は悪いことではありません(困ったことに、大変残念なことに、本作の掲載誌は少女漫画誌ではないのですが……)。しかし、本書を読んで感じるのは、母親に「社会」を体現させ、その前でただひたすらでんぐり返って「おもちゃ買って」と泣きじゃくっている小さな女の子の姿です。
象徴的なシーンがあります。
マクドで小さな女の子が特撮ヒーローのグッズを欲しがり、母親に『ラブキュート』を押しつけられるのを見て、仲村さんは幼い頃の自分の姿を見て取り、そして、大変ご丁寧なことに、彼女が「黒いランドセル」を背負っている姿を夢想するのです。「男も女も関係ない、自分の好きな色を選べばいい」というわけですね。
あ~あ、という感じです。
しかし……ぼくとしては大変に言いにくいことなのですが、果たして本作でメインテーマとなっている「特撮オタクである女子の、被差別性」というのは「本物」なのでしょうか。
「女の子が仮面ライダーを好きになったっていいじゃないか」的な話題、togetterでも思い出したように繰り返し繰り返し語られます。しかしこの種の「ジェンダーフリー」論って「女性の男性化」のみが専らいいことのように語られ(男性性が好ましいという価値観と、しかし男性そのものは悪であるとの価値観が前提され)、裏腹に男性の女性化はより以上に困難で、蔑視される対象であるにもかかわらず、軽く口先でだけ称揚するのみというトリプルスタンダードそのもの。
本作もまた、それが前提されています。だからこそ先にも描いたように、ぼくには本作が、「オタク男子」を押し退けて、「オタク女子」ばかりが自分語りをしている作品のように思えるのです。
それはまさに、フェミニズムが「被差別者」たらんとしてひたすらに「女性差別」の捏造を続けているのと同様に。
例えば、作者が個人的にこのような「特撮女子」としての「差別」を受けた経験があるのかもしれない。母親は、或いは非常にキツい人だったのかもしれない。しかしいずれにせよ「それが普遍的だから、特撮女子全般が被差別者だから」本作は受け容れられたのでしょうか。むしろ、「被差別者になりたいというニーズを満たす」コンテンツだから受け容れられたのではないでしょうか。それは女性向けのポルノに男性向け以上にレイプがあふれていることと「完全に一致」しています。
え~と、今さら遅いかもしれませんが、まさに上に「ポルノ」と書いたように、本作が女性向けとして発表されていれば、ぼくは文句を言う気は全くありません。しかし先に述べたように本作は少女漫画誌やレディースコミック誌に連載されている作品ではありませんでした。いえ、それでもNHKによってドラマ化されなければ、文句をつけてはいなかったはずです(事実、数年前に読んだ時に、文句をつけることはしませんでした)。
冒頭で書いたように、ぼくは原作漫画については数年前、四巻辺りまでを読んだだけです。そこでは母親はとある一話に登場しているだけで、ここまでの修羅場を演じるものではありませんでした。これももちろん、ぼくが見ていない先の話でドラマ同様の展開が描かれている可能性は十二分にありますが、ともあれこのドラマ版によってぼくの中の本作に対する印象は大きく変わってしまったのです。
このドラマ版は、「NHKが、手頃な原作を見つけ出して来て、恣意的な脚色を施してフェミ布教のパンフレットに仕立て上げた」ものに、ぼくには見えてしまいました。
仲村さんは「女の幸せは結婚だ」と主張するお母さんに「今は30になって独身なのも普通だ」と反論します。ここも、フェミニズムのテキストを見るかのようであると同時に、女性の虚栄心(恋愛や結婚に興味がないわけではないのに、それへの欲望をまさに北代さんの時と同様に外部化している様)が如実に現れています。
女性作家が「何か、思ったことを描いた漫画」と、NHKの悪魔合体。
それが本作だったのではないでしょうか。
*4 正直、80年代の特撮冬の時代を生きたオタクは比喩でもなんでもなく「この世で一人になろうとも」という思いを持っていました。しかし、平成ライダーが既に二十作を迎えた現代において、この言葉はリアリティがあるのでしょうか。こんな年寄りの愚痴みたいなことは言いたくないのですが、本当なんだからしょうがありません。
まとめましょう。
漫画とは、「脳内に浮かんでいる曖昧模糊とした何かを紙の上に再現する表現」です。
否、当初は「大人が、子供に(或いは大人に)描いてあげる表現」であり、ある種の抑制があったはずですが、社会というものとのしがらみを持たない女の子たちが、まずそれを始めたのです。一時期のフェミニストはやたらと少女漫画を称揚し、またサブカル文化人もそれに続きました。少女漫画とはまさに、女性の内面というものをそのまま外部世界へと持ち出してきた、「暗黒大陸の発見」にも等しい表現だったからです。
そして、女の子たちに比べれば「自由」というものを与えられていなかった男の子たちも、80年代になると彼女らに倣うだけの豊かさを享受できるようになり、「脳内に浮かんでいる曖昧模糊とした何かを紙の上に再現」し始めました。それは「ロリコン漫画」と呼ばれ、「萌え」を産みだしたのです。
オタク文化は「常に第三者であり続けた男性が、ようやっと自分自身について語り出した初の表現」でした。
だからこそ、ラノベなどでオタクネタが流行しました。
しかし、オタクの上の世代の連中であるサブカルは、オタク(男子)への深い深い憎悪を秘め、そうした「オタクネタ」を快く思いませんでした。
いえ、これは純粋に市場性の問題だろうと言いたい人がいるかもしれません。しかしそうしたサブカル的な感性は、市場を握る送り手側にも色濃く影響を与え、オタクの自己表現を阻んできたのです。
そうこうするうち、そうしたオタクネタは女子に取られてしまいました。
千載一遇のチャンスを、ぼくたちは、またしても、サブカル君に阻まれ、女子に取られてしまったのです。
あ、ちなみに宮内洋の出演シーンですが、十秒ほどでしたわ。
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