今回は女災とあんまり関係ない新規記事です。
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風流間唯人の女災対策的読書・第51回「女子はレ○プをいただき続ける」
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では、そういうことで……。
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さて、『1日外出録ハンチョウ』と『野原ひろし 昼飯の流儀』、いずれも大人気漫画のスピンオフであり、食がテーマとなっていることが共通していますが、前者が好評なのに比べ、後者はネットで際物として扱われるばかり。
そんな『ハンチョウ』の16巻で、実験的に「AIの考えた話を漫画化した」回があるのです。今回のテーマはそれについてなのですが、まあ、まずはご存じない方のために表題の二作をそれぞれを軽くご紹介して、本題に入るとしましょう。
まず『野原ひろし』。
以前、よくネタになっていたし、ぼくもよく揶揄するようなことを書いていました。
ぶっちゃけると野原ひろしは近年「できるサラリーマン」的な憧れの男性像にされていますが、しかし漫画の主人公になるほどのキャラではない。
言うならば企画そのものがクリエイティビティから一兆光年は隔たった、編集者の人気漫画のスピンオフを『孤独のグルメ』をパクってやっちゃえばいいという安易な発想から成り立っているのです。
何故本作はここまでつまらないのか。やはり作者にやる気がなく、なおざりに描いているからでしょう。作画そのものもなおざりで、写真素材の取り込みと思しいもので1pを消化した回も話題になりました。
しかしそこから心の底からやりたくないと思いつつ描かされている作者の内面が想像でき、いたたまれなくなり、そこにぼくは何とはなしに共感を感じてしまうんです。
この漫画家さん、食ネタには一切興味がなく、「アレだろ? 何か大げさな演出してあるあるネタ言うんだろ?」と思いながら描いているところが想像できてしまうんですよね。
いや、その考えそのものは確かに間違ってないんだけど、そこをなおざりになぞっただけなところに、作者の興味のなさが如実に作品に顕れているのです。
例えば唐揚げ回(タイトルは知らん)。
チェーンなどではない個人経営の食堂にふらりと入ったひろし。
唐揚げ定食が安いので頼んでみると、いくら何でも500円でこれはあり得ないというとんでもない山積みの唐揚げが出る。
腹が一杯になりつつも、出されたものは完食せねばと奮闘するひろし。
「今の俺にはこの唐揚げが、巨大な化け物に見える!」とつぶやくと、「にょきにょきにょき」という感じに唐揚げが巨大化する。
しかしここは「敢えての塩」で味つけ、味変することで無事完食する。
以上。
いや、この唐揚げが化け物化する辺りが本当に、『味っ子』をAIに書かせたらこうなるだろうという絶妙さです。
「敢えての塩」は、「味変で食べられるようになった」という一応の工夫というか、このエピソードの根幹であるのですが、この「敢えての塩」というのが稚拙というか、ここで奇抜な味変でも考えていれば、それなりに作品として成立していたところを「何も思いつかなかったんだなあ」と思わせる辺りが、またこの作品の「なおざりさ」を顕しているわけです。そんなの、ウルトラマンが強敵の怪獣を「敢えてのスペシウム光線」で倒したようなもので「いつもといっしょやないかい!」という。
さて、言うまでもなく『ハンチョウ』はよくできたエピソードが多いのですが、AIに書かせることで『昼飯の流儀』に近い「なおざり」さの味が生まれた、というのが今回のテーマです。
ぼくはAIによるストーリーの生成というのがどういう具合になされるのかを知りませんし、或いは作り手が(当然、AIを否定したいだろうから)バイアスのかかった作りをした可能性もあるが、ともあれ絶妙なのです。
そう、まさに「中学生が考えたよう」でもあり、『野原ひろし』のようでもありました。
まずは「大槻は偶然にも地上に出ることができた」というナレーションから始まり、また大槻が訪れた食べ物屋のオヤジも、かつて地下帝国の住人であったような描写があるなど、この辺りは明らかにAIが作品設定を解していないことによるミスであり、これがまた「ヘンな夢」を見た時のような辻褄のあわなさを感じさせ、何とも言えないのですが、まあ、その辺は措きましょう。
話としてはフードトラック回とでも称するべき、大槻が様々なフードトラックを堪能するエピソードで、ネタとしてはこれはこれで実際に本来の作者が考えた話として描かれていてもいいようなもの。
が、出てくる言葉がいちいち稚拙なのです。
グルメを堪能した大槻がつぶやくのが「これぞ人生だ」、「まるで別世界だ」。
この「別世界」もよくわかりませんが、おそらく「美味しいものを食べて景色が変わって見えた」とか、「こんな美味しいものを食べられる地上は地下とは別世界だ」とか何か多分、そんなことです。いえ、AIの考えたことなのだから、最初から意味なんてないのですが。
食後、「地下とは違うグルメを堪能した」というナレーションが入るのですが、これも何だか妙ですよね、間違っちゃいないけど、地下には別なグルメがあるようにも読めますし。
最後は「幸福は自分と向きあうことで見えてくる」とか「正解が何かはわからないが後悔はしたくない」とか、また何というか、絶妙に深いことを言っているようで、その実大した意味のない言葉で締められます。
……ただ、このネタ、考えようによってはなかなか的確に『ハンチョウ』の要素を抜き出しているとは言えるのです。
大槻がケバブ屋のオヤジに「美味い肉、ありますか」と尋ね、「美味い肉があなたを待ってます」と言われるシーンがあります。演出が妙に意味ありげなのですが(いえ、AIが作ったのはプロットだけでこの演出は漫画家さんのものでしょうが)。
何だか妙なシーンですが、ここは実のところ「外食とは店とのある種の勝負である、店長の意図するところを汲み取り、それを堪能できるかどうかのバトルなのだ」とでもいった食コミックの本質を、稚拙なレベルではあれど、考えれば極めて的確に表現しているわけです。
先に中学生と書きましたが、「しょせんAIなんてこの程度」と取るべきか、むしろ「AIなのに人間の中学生レベルなのだからすごい」と感嘆すべきか。
ただ、その上で、ぼくはこれを見ていて「ひとネタ足りない」と感じました。
『ハンチョウ』の要素を的確に捉えてもいますが、本来ならその上で、「何か」がプラスされる必要がある。
「これぞ人生だ」といっても人生の中のどうした感情を刺激されたのか、「まるで別世界だ」と言うがどこと比べてどう違うか、「店長との勝負」ならば、「これこれが店長の意図だ」との気づきこそがクライマックスになるべきだが、本エピソードにはその「何か」が丸っきり抜け落ちている。
少なくともぼくならばお話を作る時、その「何か」がなければ筆を進められないが、AIはできてしまうのです。
先に『野原ひろし』のエピソードの「敢えての塩」を「工夫」、「根幹」と表しましたが、これは「テーマ」と言い換えてもいいし、上の「何か」と言い換えてもいい。
例えばですが、普通ならこの塩が過去の思い出につながっているとか何とか、そうした盛り上がりがあるはずなのです。
『野原ひろし』は「何か」がものすごくしょぼいが、AIはそれがそもそも、ない。
その意味で前者は大変に稚拙な作品でしたが、後者は作品ですらない、大袈裟に言えば魂がないと、ぼくにはそのように思えます。
さて、まとめというか、本作の「テーマ」です。
ところが、近年の、ソシャゲの仕事ではその「何か」がないことが求められます。
面白い作品もあるんでしょうが、時々ぼくがシナリオを書くと、決まって「何か」を削られてしまいます。
そう、大変残念なことにソシャゲの作り手の九割は、おそらく本話を見て「すごいなあ」と口をぽかんと開けるだけであろうし、そうしたものが市場性を得ている以上、読者の何割かも同じ感想を抱くだろうとしか、思えないのです。
星新一のエッセイを読んでいると、「私の好きな外国の学者の言葉」として、何度も引用される言葉があります。
「機械がいかに人間に近づこうが、それは脅威ではない。人間が機械に近づくことこそが脅威だ」。
具体的には何という学者の言った言葉なのかいまだ判然としないのですが、まさに今にこそ思い出される警句――というよりは、既に手遅れな気がします。
『ハンチョウ』はAIが何も感じずに作った作品です。
もしこれを本当に(先のソシャゲを鑑みるに)何も感じず受け容れる人間が増えているとしたら。
それはもう、70年代のSFで共産圏を風刺して描かれた、何ら感情のない人間がコンピュータの命令通りに行進する管理社会というのが既に訪れつつある、ということです。
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