みな様こんばんは、期せずして岡田斗司夫、GACKTを倒した男となった兵頭新児です。まあ、一般的な視点からすれば「ブログ炎上」という現象に巻き込まれただけなのですが……。
さて、以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。
こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。
たらたらしてたら「時差」が埋まらないので、今回は『バックラッシュ!』の(始末記)と(仁義なき戦い編)をまとめてアップします。
文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。
* * * *
●バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)
しつこいようですが、この本についてです。
前回の件については、小山エミ師匠とツイッター上で長い長い議論になってしまいました。
それら議論は以下のリンクで読むことができます。
「ジョン・マネーの「双子の症例」の否定は、フェミニズム理論の否定にもつながるか?」
「上野千鶴子師匠は「双子の症例」を否定したか?」
一つ目は小山師匠のお友だちがまとめてくださったものです。
小山師匠のお友だちは、
「ボク、全然知識が無いから詳しく説明してよ!」
「英語は読めないふぇぇぇぇぇん(><)」
「上野千鶴子は欺瞞が多いので、上野千鶴子が紹介するマネーの業績全部が欺瞞?」
「嘆き」
などと下品な見出しをつけることで相手を貶めるのみならず、
「マネーのトランスセクシュアル研究はジェンダーフリー教育などで利用すべきか?」
など、どう考えても議論と関係ない見出しをつけてもいます。
フェミニストへの信頼感が、いや増しますね。
二つ目はその後のやりとりをぼくがまとめたものです。
ぼくの方も下品な見出しをつけてバランスを取ろうとしたのですが、情けないことにやり方がわかりませんでした。
結局、議論としてはぼくの方が(ちょっと本業が忙しくて……)放り出してしまった形になり、悔いの残るものになりましたが、それだけではあんまり中途半端なので、ここでちょっとまとめめいたことでも書いておこうかと思います。
さて、小山師匠とぼくとの論点は、「マネーの『双子の症例』は前世紀末に否定された。それ以降、果たして上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けたか、否か」という点についてでした。
前回のブログ記事で、ぼくは上野師匠の著作『差異の政治学』を調べ、「上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けた」と結論しました。
ところが、小山師匠の意見では、「それは違う」という。
両者の争点をでき得る限り価値中立的にまとめるなら、
兵頭:確かに上野師匠の著作に「双子の症例」についての言及はない。しかし「マネーがジェンダーアイデンティティは後天的に決定されることを実証した(大意)」と言っているではないか。これは「双子の症例」を論拠にしている証拠だ。
小山:いや、違う。マネーは「双子の症例」とはまた別な、性同一性障害者の臨床例などからそのようなケースを見出した。上野本で述べられているのはそれらの例についてだ。
といったことになるでしょうか。
確かに、上野師匠の本はやや曖昧な記述ではあるものの、確かにそのように読めなくはありません。「双子の症例」が否定されたことについても明示されてはいないものの、それを指し示したらしき記述もあります。また、『バックラッシュ!』におけるインタビューも、小山師匠の解釈の妥当性を揺らがせるものではありません。
ただ、とは言え、ぼくには疑問が残りました。
結局、「性同一性障害者の症例」を一般的なものとして敷延できるのか。前回にも書いた通り、「性同一性障害者のジェンダーは男脳/女脳という先天的な要因に左右されている」と考えた方がいいのではないか、と思えるのです。
しかし小山師匠は(やや、言葉としては曖昧に思えましたが)取り敢えず、性同一性障害者の症例を敷延することに問題はない、という立場のようです。
正直、疑問ではあるものの、ぼくもその辺りについてどう考えるのが妥当なのか判断し兼ねます。
この辺り、ちゃんと調べてみようとも思ったのですが、なかなか時間も取りにくいので一応、ペンディングにしておこうかと思います。
一方、「とは言え、前世紀まではフェミニストが『双子の症例』を大いに論拠にしていた」こと、「上野師匠は置くとしても今世紀に至ってもいまだそれを続けているフェミニストだっている」こと、この二点は動かしがたい事実であるように思います。
(この二点については、残念ながらお答えをいただけませんでしたが……)
以上のような理由から、上野師匠の例を除き、やはりぼくは前回の記事について訂正の必要を覚えないのですが、いかがでしょうか。
●バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(仁義なき戦い編)
皆様、もういい加減飽きていらっしゃるでしょうが、この本についてです。
今回、大変驚くべき事実が判明しました。
ミルトン・ダイヤモンド博士が「ジェンダーフリー」に賛成していないということが、はっきりと実証されたのです。
「何をバカな」とおっしゃる?
それではじっくり見ていきましょう。
詳しくは前回、前々回、前々々回の記事を見ていただきたいのですが、本書において、またご自身のブログにおいて、小山エミ師匠はミルトン・ダイヤモンド博士と連絡を取り、彼はジェンダーフリー賛成派だ、との言質を得たとの報告をなさっています。
事実、ダイヤモンド博士は一時期、ジョン・マネーのジェンダー論のウソを暴いた人物として、日本の保守派の反フェミニズム論に担ぎ出されていましたが、この辺りをきっかけに保守派も彼の名を出すことがなくなっていったように思います(と言うか、保守派のジェンダーフリー批判、フェミニズム批判自体が目立たなくなった感があります。ぼくが無知なだけで今もさかんになされているのかも知れませんが)。
さて、実はその時のメールは、小山師匠ご自身がブログで紹介なさっています。
正確には、保守派記者の山本彰氏がダイヤモンド博士にラブコールのメールを出し、博士が「ごめんなさい」メールを返した。
その「ごめんなさい」メールを小山師匠が(博士の許可を得て)公表した、という経緯です。
何しろ英文ですし、ぼくもその全文を細かく当たったわけではありません。
しかし小山師匠自身がそのメールの解説をブログに上げていらっしゃいます(http://macska.org/article/111)(http://macska.org/article/112)ので、それを見ていくことにしましょう。
まずは最初のエントリです。
なるほど、文面を見れば確かにダイヤモンド博士は
基本的に、わたしはジェンダーフリーの考えを支持している。
とおっしゃっている。小山師匠が文章を捏造していない限り、英文でも
Basically I do support gender-free ideas.
と書かれています。
何が「ダイヤモンドはジェンダーフリー派じゃない」だ!!
はっきりとジェンフリ派だと明言しているじゃないか!!
【メシウマ速報】兵頭新児、中一レベルの英語も読めずwwwwwwwwwww
いやいや、そうでしょうか。
前にも書いたようにそもそも「ジェンフリ」自体が向こうで浸透した言葉とは言い難い。
一体、このgender-freeという言葉を、ダイヤモンド博士はどう捉えているのでしょうか?
先に進みましょう。
ダイヤモンド博士はこうおっしゃいます。
あなたに話した通り、わたしは人々はみんな可能な限り自分の望む通りに学び成長する広い機会を持つべきだと思っているよ。わたしはたしかに男性と女性は生物学的にやや違っていると思うけれど、どの個人がどういった教育や機会を活用できるかなんて誰にも分からないのだから、全ての人が同等の機会を与えられ、対等に扱われるべきだと信じている。それぞれの男性なり女性が個人として自分にふさわしい居場所を見つけられるチャンスを与えられるべきだ。
これをして、小山師匠は
ここを読めばどう転んでもダイアモンド氏が保守派が望んでいたような「反ジェンダーフリー」「反フェミニズム」の立場を支持する論者でないのは明々白々だ。
と勝ち鬨を上げられるのですが……果たして博士が支持した考え方を、一般的に見て「ジェンダーフリー」と呼べるでしょうか?
いや、仮にここでダイヤモンド博士が定義づけたものを「ジェンダーフリー」とするならば、これに反対する保守派ってどれだけいるんでしょう?
つまりここでダイヤモンド博士を「ジェンダーフリー支持者」とすると、日本の保守派のかなり大部分までが、やはり「ジェンダーフリー支持者」であるというフェミニストには絶対認めがたい事態に、どうしたってなってしまうわけですw
ぼくは先日、前回記事の(ニコブロの方の)コメント欄でまさにこのダイヤモンド博士の「ジェンダーフリー支持発言」について、
結局「ジェンダーフリー」の定義が千変万化しちゃってることと、「男女平等」という程度の意味あいだと強弁されちゃうと、言い返せなくなっちゃうことですね。
と危惧しました。
それがまんまと的中してしまっているように、ぼくには思われます。
(ただし後に述べるような理由で、山本氏が反対している男子生徒、女子生徒の呼称を「さん」で統一する問題について、ダイヤモンド博士は「いいじゃん」と肯定しているなど、当然両者のスタンスに違いは見られます)
二つ目のエントリでは、小山師匠は「差異の政治学」が発表されたのが1997年であるから、上野師匠が「双子の症例」の失敗を知らなくても仕方ない、と居直っていますが、当ブログでも指摘した通り、2002年に出た単行本では訂正の機会があるのだから、これも無意味な言いがかりです(もっとも小山師匠が繰り返す通り、2002年版では「極めて消極的な訂正」と思しき記述が加筆されてはいます)。
以下、山本氏へのツッコミが延々と続きます。
その中には単純なミスの指摘など、恐らく正しいのだろうと思われる部分も多々あるのですが、まあそこはいいでしょう(ただしメールの中でダイヤモンド博士は「かつてアメリカでは台風に男性名がつけられていた」と言ってるんだけど……これ、「女性名」の間違いじゃないのか?)。
見ていくと、小山師匠の文章は非常に不誠実に感じられます。
例えば山本氏は、日本におけるジェンダーフリー教育の一例として、お役所主導で「ひな祭り」や「男児に男性的な名前」をつけることなどに異議を唱えるパンフレットを配っていたことを批判します。これに対して小山師匠は「押しつけ」ではなく「問題提起」だからいいじゃんと開き直り、ダイヤモンド博士の
男の子の祝日と女の子の祝日を対等に祝うことは、わたしから見れば害のない慣習だと思う。しかし、女の子の中には兜やその他男の子の祝日に関係したプレゼントを欲しがる人もいるだろうから、それは認めるべきだ。男の子が人形を欲しがった場合も、同じように認められるべきだ。
とのコメントを「自分たちと同じスタンスである」と牽強付会します。
山本氏含め、保守派の人に幼い娘さんがいるとして、『プリキュア』を見せていないとは、ぼくには思われないのですが。
(言っておきますが、面倒なので元のパンフなんて確認していませんよ。小山師匠の自己申告を読んでそれでもなお、小山師匠の言い分は極めて欺瞞があると、判断せざるを得ないのです)。
エントリの後半では、ダイヤモンド博士が答えを濁している、との記述が多くなります。むしろ山本氏は後半でこそ、日本のヌエックや内閣府など行政側の組織がマネーの後天説に基づいたジェンダー観を持っていることについてなど、重要な質問を行っているのですが。
ここはどうも、一度上野師匠を批判したことをフェミニストに騒がれて懲りたのか、日本の国まで敵に回したくないのか、(或いはまた単に長文メールに「三行で頼む」な気分になっていたのか)いささいかダイヤモンド博士側も不誠実な対応のように思います。
小山師匠が訳した一文が象徴的で、ダイヤモンド博士は
ここ米国でも日本でもフェミニストたちが双子の症例をどのように利用しているのかわたしには全く検討も付かないよ。
と答えています。何だかやっぱり、イデオロギー闘争に巻き込まれてイヤになっている、という感じが、しないでもありません。
小山師匠の言う「ダイヤモンド博士の、親ジェンダーフリー発言」、いかが感じられたでしょうか。
極めて象徴的なことですが、(上の画像にはありませんが)『バックラッシュ!』の帯には「男女平等で何が悪い!」と大書されていました。
繰り返しになりますが、保守派もほとんどは「男女平等は悪だ」などとは言わないことでしょう。ただ、「ジェンダーフリー」と「男女平等」は違うぞ、と言っているだけです。
しかしその両者を混同し、「こいつらは男女平等に異を唱えるレイシストだ!!」と叫ぶことで、一体どれだけの発言を沈黙させることができるのか……こうしてアメリカの大科学者の対応を見るに、フェミニストたちがいかなる手法で自分たちの主張を通してきたかが今回、仄見えているのではないでしょうか?