え~と、というわけで続きです。実はサブタイトルの「メイド喫茶」云々を回収しておりませんでした。
今回それと共に、前回取りこぼしたことを拾い上げていきます。
前回記事をお読みでない方は、そちらから読んでいただくことを強く推奨します。
また、前回記事も当記事も、作品のオチまで全てネタバレしていますので、これから本編を読もうとしている方は、ここから先はお読みになりませんよう。
本作の主人公は筒井君、ヒロインは色葉ちゃんですが、実のところ本作はオタク文化でいうところの「部活もの」ともいうべき、友情というかお友だちグループを描くことをこそメインとした、群像劇としての側面を持っているのです。
7巻では文化祭の様子が描かれます。そうしたことに消極的な筒井君ですが、実行委員に選ばれてしまい……。
はい、もうおわかりですね。
そう、メイド喫茶回です。
ただ、色葉ちゃん、筒井君とは別のクラスだからメイドコスしないんですね。また、綾戸さん(腐女子ちゃん)も「メイド喫茶のバイトをしている」というエピソードが描かれるんですが、何しろこの人、後輩で学年自体が違います。
え? じゃあ、誰がメイドに……?
はい、みなさんのご想像通りです。
そう、見せ場は伊東君の女装ですねw
このメイド喫茶が綾戸さんとのフラグになり、二人がくっつくきっかけになります。つまり、何のかんの言ってこの二人はうまくいくわけで、まあ、めでたい限り。とはいえこの綾戸さん、伊東君の女装を見ても、特にきゃあきゃあ喜んだりもしないんですよね。後、一応腐女子と繰り返してはいますがこの人、筒井君と伊東君が仲よさげなのを覗き見て萌えるとか、そうしたシーンも一切ありません。
思えば『ここはグリーンウッド』でも腐女子を意識したセリフなどあったわけで(まあ、これについては男子寮が舞台な辺りでお察しですが)、やはり本作、リア充向けの作品なのでしょう。
何しろ伊東君、綾戸さんにふられた時に(髪を切ると共に)猫耳を外します。これはむろん、「大人になる」ことの象徴ではありますが、と同時にこれは「オタク性」の象徴でもあった(と、何しろ当人の口から明言されている!)のだから、ちょっとどうなんだという感じです。普段から女装していたわけではないとはいえ、順序として、猫耳を取り、メイド服を脱いでから綾戸さんとおつきあいすることになるのだから、まさにここは「脱オタ≒男になる」というイニシエーションを象徴するシーンなわけです。
言ってみれば、「女装した伊東君に萌えない綾戸さん」というのがこの作品を貫く価値観を象徴しているわけですね。それは要するに「あるべき男女のジェンダー規範を、重視せよ」というものでしょう。
まあ、それはいいんですが(いいのか)、この「メイド喫茶回」というのが、もう何というか、見ていて切なくなります。現実のメイド喫茶もある意味ではそうですよね、あれも「俺たちの文化を3D女どもが剥奪しやがった」という気分が、ないではありませんでした。しかしさらに言えば、前回にも書いた差し詰め「オタクにすり寄るリア充バッシング」のごときことをぼくたちが盛んにしていたのも、今は昔。そもそも萌えアニメのテコ入れで「メイド喫茶回」をやるなんてのも、オタクが勝利していた頃の美しい思い出だよなあと。それとも今の転生アニメでもメイド喫茶回ってあったりするんですかね。
いや、本作を(少なくともこのエピソードを理由に)過度にdisる意図はないんですが、それでも「ぼくたちの文化を、よその子がパクっている」という部分は多分にある。それは例えるなら、少し前に書いたアレ*、どう頑張っても萌えようがない三流劇画タッチの和服の未亡人がヒロインというオッサン向けのエロゲで、そのヒロインがメイドコスプレでご奉仕しているシーンを横目で眺めている時と同じような、「おもちゃを取られた」感です。
はい、サブタイ回収しました。
オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残ったわけです。
ボードリヤールは実体を持たない記号、対応する現実を喪失した記号のことをシュミラークルと呼びました。それを説明するため、「街が滅びたのに、そこに街の原寸大の地図だけが残っている」といった比喩を使ったのですが、何だかそれを思わせるハナシです。
すみません、シュミラークルそのものについては、ぼくはよく知りませんし、むしろ萌えキャラ、萌えアニメのメイド喫茶回こそ、本来の女性やメイドのシュミラークルでしょう。しかしオッサン向けエロゲ、及び本作のメイドコスプレは、さらにそのシュミラークルとして、「本来の萌え記号としての意味」をも喪失した存在であるように思います。
*「アイとフェミニストは共存できるか」においてここ十年くらい、廉価版エロゲなどで三流劇画的な絵が多くなってきていることを指摘しました。
さて、もう一人、本作には重要な人物が登場します。
石野さんという筒井君の同級生。勝気な姉貴分といった風で、恐らくヤンキーではないのでしょうが、ぼくの感覚ではヤンキーに見えます。
で、ちょっと首をかしげるのはkey的な「悪のモブキャラ」とも呼ぶべき女生徒たちが伊東君と綾戸さんの様子を見て、「地味同士つきあってる」「小さな恋の始まり」と笑いあっているところを、この石野さんが一喝する、というシーンが描かれることです。確かに見ていてぼくもイラついたシーンではあるのですが、モブ子たちは当人たちをはやしたわけでもなく、それほど非道いことを言っているわけではない(ように、ぼくには思えます)。似たシーンが後にも描かれるのですが、その時など、石野さん自身が微笑まし気に綾戸&伊東カップルを見守っていたくせに、(多少、悪し様な言い方ではあれ)似たようなことを言ってるだけの連中に噛みついています。別にいじめてたわけじゃないし、そこまで怒らなくても、と思います。揶揄気味かどうかという差はあれど、いずれもオタクに対してウエメセという意味では同様で、なぜ石野さんがここまでイイモノとして描かれるのか、よくわかりません。
オタク人権も随分上がったと感じると共に、「それはDQNのヒエラルキー体系に組み込まれることだ」と思ったり思わなかったり、「考えると今のオタクもサブカルのヒエラルキー体系に組み込まれてるなあ」と思ったり思わなかったり。
この石野さん、常に筒井君たちの相談役みたいな上位者として描かれます。
思い出してしまうのが『モテキ』のヤンママキャラ。何だか妙に主人公に対して偉そうで、「あぁ、作者の価値観では、ヤンママという存在がすごくエラいことになっているんだなあ」と感じたものです。
その意味では『モテキ』こそ、実は本作のご先祖様とでも称するべき作品なのです。あれの主人公、藤君は「フジロック」という、何かよく知りませんがサブカルのコミケみたいなのに参加している、いわゆるサブカル君。彼は(現時点ではしていないのに)高校生時代にギャルゲーをやったり萌え漫画を描いたりしている様が、ドラマ版だか番外編だかでは描かれておりました。つまり、彼は「オタクを卒業して、サブカルになった」者なのであり、「オタクは我々の下位存在なり」とのサブカルならではの現実が見えていないレイシズムを象徴するキャラとなっておりました。
そして本作もまた、それを継承してしまっているのです。
恐らく『モテキ』の作者はサブカル寄りであり、本作の作者は恐らくギャルというかヤンキーというか、リア充寄りでしょうが……。
前回にご説明したように、筒井君にロリコン犯罪者の濡れ衣を着せたDQN、高梨君は何ということもなく友だちになってしまいます。つまり先に「群像劇」と書いたように、この作品の主役たちは筒井君、色葉ちゃん、伊東君、綾戸さんと、そして石野さん、高梨君の六人、ということになるのです。
石野さんもそして高梨君も、読んでいけばそんな嫌なヤツではなく、それなりに愛着も湧くのですが、この「群像劇」には結局、DQNが上でオタクが下とのある種のヒエラルキーが内在しており、ぼくとしてはそれはあまり面白いものではないわけです。
何しろ本作、最終巻では七年後の世界へ飛び、社会人になった一同が描かれるのですが、ラストは石野さんと高梨君の結婚式です。まるで『じゃりン子チエ』の最終回がカルメラの嫁の出産エピソードだったことを思い出します(どういう例えだ)。いえ、カルメラ兄弟は『チエ』後期では実質上の主役と言っていいほどの比重の高いキャラになるのですが、石野さんと高梨君をクライマックスに持ってくるのはちょっと……という感じです。本当の本当の最後には筒井&色葉の結婚式も描かれるのですが。
そして、実は……この社会人編、伊東君はアニメのメカデザイナーとして活躍する姿が描かれるのですが(どういうわけか劇中では「メカニカル」と呼ばれます)、綾戸さんが出てこないのです。ずっと。
ちらっと「結婚してから忙しくなったんだよ」とだけ触れられ、どうなってるんだと思っていると。
最後の最後に出てきて、バツイチになったとさらっと語り、伊東君が復縁しようと声をかけるところで終わりです。
非道い!!
非道すぎる!!
どうなってるんだ!?
綾戸さん、少なくとも劇中で男の影は(伊東君以前には筒井君に横恋慕していたことを除けば)なかったわけで、このバツイチの相手は全くもって不明。そんなオチにする必要が、どう考えてもないのです。また彼女、本来ショートカットであったのが、社会人編ではロングヘアで描かれます。彼女は「オタク≒コドモ」である伊東君とのままごと恋愛を「卒業」し、「バツイチ」という「聖痕」を得ることでようやくロングヘアに、即ち女になった。
それは丁度、「オタクを卒業してサブカルになった」藤君と同様に。
伊東君は猫耳を卒業したはずが、(あ、高校時代に綾戸さん相手に童貞も卒業してました)オタクは卒業できず、アニメ関係者となった。だから、綾戸さんを手に入れることができなかったのです。
恐らく作者の論理では、「そうあらねばならなかった」のです。
これが、腐女子が自身をモデルにしたオタク女子の漫画であったなら、必ず「即売会間際で修羅場ってるあたし、泣きついてくる彼氏」という、つまりは「彼氏も趣味もゲットしたあたし」という妄想が開陳されるでしょう。綾戸さんが、即売会に行くシーンが絶対に描かれているところだったでしょう(メイドさんだけはやっている辺りがまさに「外の目から見たオタク像」です)。
アニメ関係者となった伊東君ですが、裏腹に綾戸さんが何をしているのかは描かれません。オタク女子が描いていたら絶対漫画家になったというオチをつけていたところです。
しかし、男の子にそうした振る舞い(オタクとして全てを得る)は許されてはいないのだ、というのが本作のテーマでした。まあ、成人後の筒井君もアニメを観てはいるのですが、何か商社みたいのに務めていますし、要するにオタクという「穢れ」は伊東君が引き受けたわけですね。
前回、ぼくは『3D彼女』の妄想最終回をちょっと書いてみました。
が、あれはある種、「オタク勝利」史観ともいうべきものに則っていました。
しかしそれは既に、古びた見方かもしれません。ここでは再度、「オタク敗北」史観に則った最終回を仮想してみましょう。
――あれだけオタク文化の優位性を説いていた筒井君だが、日本ではオタクが負けてしまった。久し振りに色葉ちゃんが日本に戻ってきた時、そこには規制によって萌えキャラの姿が失われていた。
オタクをキモいといじめる高校生たちの姿をふと見かけた色葉ちゃんは、そのいじめる側に自分の影を見て取ると同時に、いじめられているオタクの持つ美少女マスコットを見て、筒井君のことを思い出す。
「あたしは何故、こんなにも日本に戻りたかったのか。日本に戻って、しかし何故心満たされなかったのか……『萌え』がないからだ。あたしに『萌える心』、つまり自分を愛することを教えてくれたあの人がいないからだ。
あのオタク少年がいじめられていることと、あたしが美貌故にいじめられていたことは同じ。そしてまた、そのいじめていた側は大人になって、日本から萌えを奪ったのだ……」
一番最初のデートで連れられたアニメショップに赴き、色葉ちゃんは筒井君と再会。
「萌えは、まだ死んでないよね」と確認しあい、エンド。
――と、まあ、そんな感じのオチが、考えられるでしょうか。最後はムリヤリハッピーエンドにしちゃいましたが。
いえ、前回の繰り返しですが本作、あくまで少女漫画なのであって、上のような展開は、読者には望まれないことでしょう。
しかしそれこそが、つまりオタクなどに興味も何もないであろう読者層を対象にした少女漫画誌がこのような作品を世に送り出したことこそが、ぼくには「オタクが負けた」ことを象徴しているように思われるのです。
オタクはもはやただの「モテない男」でしかないのだと、本作は高らかに謳ったのですから。
いえ、違いますね。
世間の認識は以前からずっとそうだっただけのことです。オタクは一瞬だけ口を開きかけましたが、世間の無理解に失意し、『電波男』のページを閉じ、口を閉ざしてしまっただけなのです。
世間は「オタクとしての価値観」、言い換えれば「男の子の内面」を、認めません。
自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは今日も「オタクの矜持などバカバカしい」「オタクという自意識など、もうすぐ消滅するのだ」と絶叫を続けています。
何故か。
破壊したいからです。
支配したいからです。
男の子の内面を破壊し、元の奴隷生物に戻し、自分のお稚児さんとして支配したいからです。
ぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような「オタク文化人」は実のところ三十年ほど前まで、少女漫画というモノを「聖骸布」のように神聖視しておりました。これぞ女性様の内面を写し取った聖なる紙なりと。 そこへおにゃのこの真似をして、何か紙に描き出した男の子たちへの彼らの憎悪はいかばかりであったことでしょうか。
「お前たちに内面などない。俺たちの奴隷生物に戻れ!!」
それが暗黒大首領からの指令であったのです。
そう、本作は高らかに謳い上げたのです。「オタクなどいなかったことになった」というこの国が認めた「ファクト」を。
まあ、せっかく読んだのだからという気分もあって二回に渡って『3D彼女』評をお送りしました。ぼくがこれを知ったきっかけは先にも書いたように映画のCMを見てのことです。
本当、当記事を執筆するに当たってwikiを覗くまで、既に今年、本作がアニメ化されていたことすら知りませんでした。
気が向けば、これらの評をお届けしたいと思います。映画、なかなか観に行くタイミングがないんですけどね(あ、勝手ですが漫画の方のネタバレはご遠慮願います)。
というわけで、今回はこんなところで。