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はい、続きです。
『トクサツガガガ』について、ことにドラマ版について書くべきことがあったにもかかわらず、前回はそれについて述べることができないまま終わってしまいました。
というわけで、前回記事を未読の方は、本エントリの前にお読みいただくことを強く推奨します。
また、これ以前に本作について述べた記事、『フェミナチガガガ』*1を併せて読まれますと、より内容が深く理解できようかと思いますので、そちらの方も是非。まあ、全部読むとかなりなテキスト量になっちゃいますけどね。
*1 過去の記事は以下を参照。
フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)
また、当エントリにおいてはこの一番最初の記事(無印)を便宜上、(その1)と表現します。
●笑え!大きな口で
本作は「負のポルノ」そのものである、というのが前回記事におけるまとめでした。
本作ではチャラ男や小野田君のみならず、初期はネパール料理店の店員など、仲村さんの「子分」的な男性キャラがより取り見取りで揃っていた。仲村さんが彼らに慕われつつ、彼らを雑に扱うことこそが、本作の見どころとして設定されている。言わば本作は「逆乙女ゲー」だったのです。
また、前回記事で、仲村さんの「笑い」について書きました。どうも対外的には本作は、「仲村さんはニコニコ笑っている」キャラにしたいようなのに、実際にはしかめっ面ばかりしている。これはどうしたことか。
確かに連載開始当初の仲村さんは、会社の同僚などには笑っていた。美人が(まあ、美人かどうかはわかりませんが)会社で同僚の男性にモテるものの、それをスルーするという「負のポルノ」であった。
とはいえ、一応モテているのだから、まだしも一般的な「女の子向け」の側面もあった。
しかしすぐに仲村さんは「笑わなくなった」。
これはつまり、仲村さんが女性性を発揮しなくなったことと、同義です(現実の世界でもやたらと愛想の悪い女性って、いますよね。あれは彼女らにとっては笑うことがピンクの服を着ること、ミニスカを穿くことと同義だから、なのでしょう)。
いえ、そもそも表紙絵を見ていただければおわかりになる通り、この作家さんの絵柄自体がいわゆる「萌え」にはほど遠いもの。正直絵については詳しくないのですが、こうした絵柄の構築自体が、「笑わない」、換言するならばキャラクターに女性性を発揮させない方向で作られたものと言っていいでしょう。
以前書いたように、ぼくが仲村さんに対して唯一萌えを感じたのは、「オープンオタな仲村さん」を自分でイメージするシーンであり、ここで仲村さんは「大きく口を開けた、萌え笑い」をしているのです。
「萌え笑い」といっても、そんな言葉もないことでしょうが、要するに丁度、今回上に挙げた10巻表紙のような笑いです。この「萌え笑い」は、上に書いた時以外は、確か子供相手にお芝居をしてあげるという話で一度出て来ただけだったように記憶しています。
この「口を開けた笑い」、劇中でもテーマとなった回があります。幼い女の子が『ラブキュート』(劇中に出てくる『プリキュア』的アニメ)の真似をして、口を開けて笑うが、現実の世界では不自然になる、というお話。いえ、このエピソード自体、別に『ラブキュート』やその「口を開けた笑い」を否定して終わる話では(確か)なかったのですが、ともあれ、この「萌え笑い」をさせれば、「仲村さんですら可愛い」。しかし、仲村さんは、笑わない。
いえ、「笑わない」と繰り返してはいますが、もちろん、前回挙げた17巻表紙のような「微笑」であれば、劇中にも度々描かれています。ただ、この「萌え笑い」をさせないという描画法そのものが、キャラクターに女性性を発揮させないという作者の方針そのものを表しているわけです。
この17巻のような「微笑」、つまり1巻の冒頭で描かれたような「一般ピープル相手に愛想笑いをする」シーンすら、中期以降減っていったと思うし、以前も書いたように、後期の本作では女ばかりでつるんでいる「喪女漫画」めいた描写が目立つようになるのです。
実はこの「喪女漫画」的描写、それそのものはぼくも見ていて不快感はない。おそらくですが、初期に半ば義務的に「イケてる女」としての描写を済ませておいて、そこそこ長期連載を勝ち取った人気作になって以降は作者が好きな描写を重ねている、というのが正直なところなのではないでしょうか。それはちょうど、学園漫画でごく初期だけは申し訳程度に授業風景を描写して見せるのと、同じ感じで。
つまり、これは仲村さんが仲間内の関係に引きこもり、いよいよ笑わなくなった、比喩的に言えば身だしなみに気を使わなくなった、「女性性」の発揮を拒否するようになったことの現れなのだ、と言えるわけですね。
●桃ガキ大・大キライ
え~と、すんません、何だこのタイトルと思われたでしょうが、「青ガキ隊大キライ」のもじりです(また説明しなきゃわからんのかよ!!)。
さて、そんなことだから、本作は巻が進むにつれ「負のポルノガガガ」として先鋭化していきます。
仲村さんがピンクが大嫌い――否、世間がピンクを押しつけてくるのが気に入らない、と自称しているけれども、実際には自分の中のピンクに対する愛憎を他人の目に投影して、自らの感情に向きあっていないのではないか――であったことを(その2)の「●怪異! フェミ女」で書きました。これもまた、仲村さんの女性性に対する屈折を象徴するエピソードであることは、言うまでもない。彼女が笑おうとしないことと全く等価と言えるのです。
ぼくは(その3)の「●特オタの母は太陽のように」において、本作の結末自体を「仲村さんとピンクの和解」にすべきだと書きましたし、それは言うまでもなく、彼女が「負のポルノ」から解き放たれ、幼女を泣かすこともなく、小野田君を傷つけることもなく、女性性を受け容れるようになるエンディングである、と想定していました。
しかしこの仲村さんのピンクとの確執は、いよいよ大きなものとなり、結局、本作のメインテーマにまで成長してしまった。
そう、蒸し返しますが、仲村さんのお母さんは特撮嫌いで彼女の趣味を認めない横暴な人物として描かれます。が、同時に「可愛いものが好きで、それを(幼い日の)仲村さんと共有したいと願っていた」人物としても描かれているのです。これはどちらかと言えば、この後者こそが重要なのではないでしょうか。
即ち、お母さんとは仲村さんに女性性、ピンクという価値を押しつける「外圧」の具象化として描かれている。これはいわゆる、「ブンガクっぽい少女漫画」にもどうやら共通のモチーフのようです。
しかし、ところが、言い続けてきたように、作者がこの母親に投影して描いた、(作者自身が現実世界で感じてきた)「外圧」というのはむしろ作者の自意識が生んだ「幻聴」ではないのかなあと、ぼくには思われる。これは本作を見ていて常に感じることで、北代さんの「周囲が自分の趣味を正確に把握してくれない、自分はアイドルと結婚したいと思っているわけではないのに、それを訂正しても訂正してもわかってはもらえない」という甘ったれきった嘆き、寿退社するOLの、読んでいて何が不満なのかどうにも理解できないエピソードのような形で、本作に折に触れ立ち現れています。この辺りは(その2)の「●怪異! フェミ女」で書きましたね。
本作は「オタク差別」に仮託して、「ピンクを押しつけてくる、女性差別社会」への怨念を、否、「自分の中のピンクへの屈折を社会のせいにする過程」を描く物語であった。「ワタシは特撮オタクという(男性ジェンダーを獲得した)存在だから、『プリキュア』のようなピンクを好まないのだ」との、壮大なる「言い訳」であった。
ぼくは「十年目の『ぼくたちの女災社会』」*2において「学園祭のメイド喫茶で、コスプレでノリノリになる仲村さん」という「二次創作SS」を展開しました。これはオタク文化とは女性のピンクへの(専ら自意識内での)葛藤を、フィクションというエクスキューズを用意してあげることでソフトに解消させてあげる、女性にとっても救いとなる文化となり得るのではないか、ツンデレちゃんを、デレさせてあげるための方法論ではないか、とでもいった仮説でした(換言すれば、オタク文化とは「魅力的過ぎるピンクそのもの」であり、フェミニズムがそれを目の敵にするのは当たり前すぎるほどに当たり前のことでした)。
しかし仲村さんはぼくたちの手から「オタクコンテンツ」を奪い取り、自らのピンクへの屈折を他者のせいにするためのツールにしてしまった。それはまるで、表現の自由クラスタのように。
端的に表現するならば、仲村さんはぼくたちが読んでいた『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』を取り上げ、その内容にペンでいろいろと加筆をして「本当に、一切もこっちに非がなく、ただ周囲が悪いせいで彼女がモテない、モテないのはただ社会が悪いのだ」という漫画に描き換えてしまったのです。
この辺りは実のところ既に本田透氏が『電波男』において、女性向け文化には男性向け文化と違い、内省的なコンテンツがほとんどない、と鋭く指摘していました。ぼくたちがもこっちという「萌えキャラ」に自らを仮託し、自らの「痛さ」を笑い飛ばしていたところへ持ってきて、女性たちはそのもこっちを連れ出し、無理からにメイクを盛って「可愛い」を連発し出したのです。
*2「十年目の『ぼくたちの女災社会』」の「●時代が進んでしまった点――その時、女たちは婚活していた」など。
●さらば仲村よ!特オタの母よ!
え~と、それで、です。
「最終回」について書きましょう。
上にも書いたように、ぼくは(その3)の「●特オタの母は太陽のように」で「ぼくのかんがえたさいきょうの『トクサツガガガ』さいしゅうかい」を展開してみましたが、ここでもう一度、「本作がランディングすべき、よき最終回」について考えてみたいと思います。
てか……すみません!!
前回書いたように、最近、ドラマ版の「最終回」を見直す機会に恵まれました。
そして、ぼくの「NHKをぶっ潰す!!」は冤罪に根ざした主張であったことが判明したのです。
ゴメン(軽い謝罪)。
軽くご説明しましょう。もちろん、最終回の手前で母娘の破局が描かれること自体は、間違いありません。しかし最終回の本当にラスト手前、和解もちゃんと描かれていたのです。短い描写であるために印象に残らなかったようです。ゴメン(軽い謝罪)。
ふとおもちゃ屋に立ち寄った仲村さん、幼い日の母との思い出を想起します。それは母が買ってくれようとした犬のぬいぐるみを気に入らないと拒絶した記憶。母親が大の可愛いもの好きであるとわかっている現在の仲村さんは、
自分が好きなものを否定され続けて感じていた想いを、私もお母ちゃんに感じさせていたんだ……。
と思い至ります(ただし、ほぼ同主旨の描写は、原作にもあったはずです)。
仲村さんはまた母の下を訪れ、彼女へとウサギのぬいぐるみを渡す。
え……?
いや、ここがよくわからんのですが。
仲村さんが幼い日、勧められたのは犬なのに、仲村さんがお母さんに差し出すのはウサギです! ここは同じ犬にすべきだろ!! 何か深い意味があるのか!?
ともあれ、この一連のシーンは短く、セリフも少なく、極めて暗示的に語られます。ドラマスタッフにしてもケンカをさせたまま終わらせるわけにはいかない、という大人の判断はあった。しかし連載中なので、あまり先走った描写もできない。そこで多分にイメージ的な処理で片をつけたわけなのでしょう。
しかしこれは母との和解を描くと共に、仲村さんが「母の好きなもの」をも受け容れるという大変にいい描写になっていたと思います。
最終回のサブタイトルは「スキナモノハスキ」。そう、仲村さんもそうだけど、お母さんも「スキナモノハスキ」であったという、これは見事なエンディングなのです。
もちろん、文句をつけようと思えばつけられます。好きと嫌いは等価なのであって、「キライナモノハキライ」なのだという一面もある。そうした母親の特撮嫌いというネガティビティまで仲村さんは受け容れられるのか。といったところにまで踏み込んでない、とも言えましょう(このケチは、表現の自由クラスタにはいくらつけてもつけ足りないのですが)。
また、ここで犬(だかウサギだか)を持ってくるのも一種の逃げではあります。あれだけ特撮と『ラブキュート』を女性性と男性性の対立の象徴として使っていたのだから、こここそラブキュートにすべきだろうと思います。
ただ、ここは当然、スタッフもわかっていて、そこまで(原作に先んじて)踏み込むわけにはいかないと、確信犯でぬいぐるみに逃げたのでしょうし、犬とウサギを併置させたのも敢えて解釈するならば、男性的、女性的な動物を並べてジェンダーレス性を演出したと、まあ、言えなくもありません(順当な想像をするなら、ぼくが忘れているだけで、かつての回でお母さんが「娘は可愛いものより格好いいものが好きだから」と、ウサギが好きなのに娘に「歩み寄ろうとして」犬を差し出した、というエピソードでもあったのでしょう)。
ただいずれにせよ、連載途中の漫画の最終回という制約の中でやったことであり、ドラマ版スタッフもいい仕事をしたと思います。
というのも、これはある意味では「私は、私は」とひたすら繰り返していた本作への、強烈なカウンターですらあるように、ぼくには感じられたからです。
上にも書いた、北代さんの「訂正しても訂正してもわかってはもらえない」とのセリフ、本当に今年の流行語大賞に選びたいくらいにお気に入りのフレーズです。ぼくたちも是非、実生活においても相手が自分の身勝手な好みを解さなかった時、このフレーズを放ってみましょう。たちどころに孤独になると思います。
そんな、家来の察しが悪いことをただひたすら嘆くことがテーマの、お姫さまの描いた漫画への、この「お母さんを慮る」エンドは極めて痛烈なカウンターと言えるのではないでしょうか。ぼくが書いた空想最終回はそこに、「実はそのウサギのことも、仲村さんは好きであった」とオチをつけたものでありました。
「ピンク」からの逃走を続ける漫画版仲村さんに対し、(大変残酷なことに美人の演ずる)ドラマ版仲村さんはウサギのぬいぐるみ(という、「ピンク」を提示することで)で、引導を渡したのです。