天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

秋霜

2019-07-24 14:32:18 | 日記
ホームセンターの株を大損で売却してタケノコ生活に入った。愛猫が亡くなって1年以上経ち、カリカリやトイレ砂、関連グッズ、ガムテープを買う必要がなくなったこともある。カリカリはサイエンスの高級品に、鶏のささ身や生が出た時のビンチョウマグロなど、目一杯健康に気を使ったのに18歳で冥途に旅立つとは、わが人生設計の誤算だった。発泡酒をビールに昇格しても元が取れても、連結すれば簿外の赤字がきつい。猫草など一向に口にしなかったけれど、枯らしては買い直していた。散歩時にエノコログサを見付けると連れて行ったけれど、1-2枚で興味を失っていた。昔、がつがつむしゃぶりついていたのは別の葉っぱだったようだけれど、今となっては何でもよい。
「佐川氏ら再び不起訴へ」か。国有財産を法外処分しても、適当に文書改ざんしてもそうなんや。警察が上級国民に手心を加えるなら、検察は上級役人に手が出せないのは当たり前といえば当たり前。八百万の神は厳格なことを仰られない。正義も一人一人の正義があると言われれば、返す言葉がない。法は百面相あり、要は法の内側の住民か、外側の住民かで裁きが異なる。『秋霜烈日』変じて、『秋霜劣質』か、はたまた寒さに萎れた『秋霜枯菊』やなあ。
「時代閉塞の現状』という小文で石川啄木は
『毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼等に何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼等は実にその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足するはずがない。かくて日本には今『遊民』という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業性がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食い滅す事と無駄話をする事だけである」
などと書いている。明治43(西暦1910)年の筆の時から、今もそんなに状況が変わっていない。啄木は今為すべき唯一のことは「明日の考察!」であると言い、「必要!」に向かって進めと檄を飛ばした。力む割には処方箋として新味はなく、今も時代は同じ症状に悩んでいる。文筆を生活の糧とする人はその時に売れれば良く、百年後にまで責任を持たなくていいのである。いや、新たなメディアの普及によって、明日さえ担保しなくて良くなっている。

秋まだき 枯れ葉舞ひ散る 曠野には
夏に雪降る 『天気の子』かな