生まれてきたから生きる無目的な人生に特段生き甲斐のような物を持たなかったけれど、このところ前にも増して無気力になってきた。何にも見たり聞いたり読んだりする興味が湧かないし、政府にも近所にも勤め先にも腹を立てて文句を言い立てる気がしなくなった。その原因、きっかけをつらつら思い返すに、眞子さまの縁談への世の狂気に無情を感じたこともあるけれど、それよりもやはり猫の餌説教に行き当たる。やっとの思いで巡り合えた気の合うノラ猫に、散歩にいつも常備のカリカリを上げていると、近所の通行人に、無責任にエサを与えるのは近所迷惑であるが分からないのかと、こんこんと説教され、縁を絶たれた。人間生活上、潔く諦めるのも仕方のないことである。去年のコロナ蔓延緊迫時に、若い男にマスクを着けていないことを注意したお年寄りがボコボコにされ、重大な後遺症が残ったような悲劇を思えば、蛙の面に小便ほどのこともない。
そのことに拘わらなくても、せっかく固まってきたように思えたかさぶたから、また膿が噴き出してきた。猫との強制離別となると、どうしても3年半前に死別した愛猫のことが生き返ってくる。抑えて、抑えて、やっと仏様との当たり前の挨拶ができるようになってきたのに、また直後の喪失の悲しみ、苦しみが襲ってくるようになった。彼なくして、同行二人の伴侶は存在しない。一緒に旅立とうと何度も約束していたのに、不意に何の予告もなく先立たれてしまった。まだまだやり残したことが山ほどある。どんなヒューマンリレーションとも掛け替えができない。事の重大性は予測していたけれど、それ以上だった。何の為に、誰の為に、残余があるのか分からない。楽しかったね、ミャー太ちゃん。
あてもなき 旅路に連れの 先発てば
足あと見えぬ 冬の夕暮れ