天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

冬木

2019-12-21 18:56:12 | 日記
 昨春のアメリカ旅行ではルート66がアメリカらしさを感じた場所の一つの代表だったなあ。ニューメキシコのモーテルでは、「さあ勝手に泊まっていけッ」という開放感がある一方、コーヒーサービスや利用の仕方を聞けば、丁寧に教えてくれるフレンドリーさもあった。フロントに鎮座していたマスコットの犬は、アーネスト・ボーグナインみたいな怖い顔をしていた割には、日本人にも人懐こかった。
 日本の割と近くにもルート66を看板にした洒落た喫茶店がある。旅の思い出を反芻して寛ぐのにちょうどいい。アメリカの郵便が届きそうな民家もあり、この辺りは通称アメリカ村と呼ばれている。だから散歩の遠出も苦にならない。
 冬の景色は鳥が風味を増してくれる。採り入れの終わった休耕畑には取り残した種を啄む姿が見られる。柿の実を鳥たちのために放置している木には、ムクドリやら何やらがやってきて、葉が散り切った侘し気な枝に活気を与えている。
 世界卓球釜山大会日本代表選考会をテレビ観戦しながらのクリスマス・ディナーはトマトピューレ・スパゲッティも牛肉シチューも我ながら上出来だった。昼にラーメンを食べたばかりの孫が美味しいといってかなり食べてくれたのだから、恐らく店の物を上回っていたのだろう。
 小手鞠るいの『空から森が降ってくる』で、山登りの途中に行き交った親子の会話のくだりがある。歩き疲れた子供が、頂上に何があるのか尋ねたのに対し、父親が「頂上には何もない」「到達したという満足感だけがある」と答えたそうである。それを引き取って著者が、「この人生を生き終えたら、そこには何があるの? 何もない。ただ生きたという満足感だけがある」と展開している。何もないと分かって生きないと、自分を探したり、意義を求めたりすると、無いことの空しさに苛まれてしまうので、冬のカラスに食いむしられた裸木の柿のように居ようと思う。

熟れ尽きて
半ば鴉に
食はれけり
いま果てんとす
柿の実の寂び




















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