今日も日々是好日

思うままに綴っています
ブログによって新たな自分を発見!?

両親、ご先祖様に対する思い

2012-10-11 09:46:43 | 日記(~2023年)
今日はスピリチュアル的な内容が含まれています。
不快な方はスルーしてくださいね。


昔、悩んだこと…
長男と結婚するということは、将来お仏壇を守っていくということ
姑と嫁は何かしらの確執があるのは覚悟していたし、自分の両親でさえ生きている時には喧嘩もたくさんしたし、軽蔑するようなこともあった。
ご先祖様の中には尊敬できない人や、他人を傷つけた人もいるだろう…そのような人達に対して、将来感謝の気持ちでお仏壇のお世話をすることができるのだろうか??
自分も知らない所で人を傷つけているだろうし、立派な人間ではない。
そんな私も将来子孫から同じように思われるのだろうか??

それが、先日、ある本を読んで目から鱗が落ちました。(「暮らしの哲学」池田晶子(著))
母が亡くなった時も、父が亡くなった時も、「さよなら」ではなく「ありがとう」という言葉だった。何かをしてもらったことに対する感謝ではなかったように思うけれども、それが何に対する感謝、“ありがとう”だったのかは分からなかった。
それに対する答えのような文章があったので引用しますね


(引用開始)

彼(父)の生前、彼に感謝の情を覚えたことなんて、実はなかったんですよ。なのになぜ、死んだ後のこの感謝なのか。するとこれは生前あれやこれやをしてもらった、育ててもらった、愛してもらった、などのへの感謝ではないようです。いや逆に、いまでも腹が立つこといっぱいあります。思い出しては腹が立つ。この感情は彼が死んでも変わらない。しかし、許せなくとも、許せないまま、それでもいいんですよ。たまたま彼は父であり、たまたま私は娘だった。
なぜか二人は親子としてしばしの時間を共にした。このことがこのことだけで、ありがたいこと、奇跡的なことだと感じられるので、この出会いの奇跡に思いが及ぶと、得難いなぁ有難いなぁ、ありがとうと素直にこうなるのです。

(引用終了)


私もこういう気持ちだったのかもしれない。
それからは、周りの嫌な人に対しても今までとは違った見方ができるようになりました。
実家、義実家の仏壇の前に座った時は、今まで以上に素直に手を合わせられるようになったと思います。

そして、あいはら友子さんのブログに書かれている内容(先祖様への正しい接し方)も素直に受け入れられました。