ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅の終わりに …… アドリア海紀行(11)

2016年02月13日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

          ( 城壁から見たドゥブロヴニク )

旅の終わりに 

 塩野七生の 『海の都の物語』 は、ヴェネツィア共和国一千年の歴史物語である。かつてヴェネツィアの商船が行き交った海、アドリア海を見てみたい …… そういう思いでツアーに参加した。

 「紺碧のアドリア海感動紀行10日間」というタイトルのツアーだったが、実際にアドリア海沿岸地方を巡ったのは3日間だけだった。それでも、青い空と青い海、島々と、入江と、海に迫る山並みと …… そして、ヴェネツィアの東方貿易の拠点となった幾つかの歴史的な港湾都市を訪ねることができ、満足した。

 帰国してブログを書き始め、改めて、自分がツアーで訪ねた国々やその周辺国 ━━━ スロヴェニア、クロアチア、さらにアドリア海に沿って南下すればモンテネグロ、東に向かってボスニア・ヘルツェゴビナ、さらに東へ行けばセルビアなど ━━━ これらの国々の歴史や文化について、ほとんど何も知らないことに気づいた。

 書くために調べ、調べるにつれて興味が深まり、書くことによって頭の中を整理をし、せっかく得た知識を忘れないために書いた。

 スラブという枠組みが、例えば、ゲルマンという枠組みと同じで、自分たちを支配するオスマン帝国やハブスブルグ帝国からの自立を目指すという点では一致できても、一つの統一国家をつくるほどの絆にはなりえなかったのだということを初めて知った。

 ボスニアになぜイスラム教徒が多いのかと言えば、この地方には、もともとキリスト教から異端とされ、迫害を受けていた人々がいて、オスマン帝国に征服されたとき、それならいっそうイスラム教に改宗しようということになったのだ、ということも初めて知った。

 確かに、例えば、イベリア半島でも、シチリア島でも、イスラム勢力が政治的に支配していたときには、各自の信仰はほぼ保障されていたが、キリスト教勢力が支配すると、イスラム教徒やユダヤ教徒は厳しい迫害を受けた。歴史的には、イスラム教の側の方が寛容であった。

 ドゥブロブニクが元はラグーサ共和国で、ヴェネツィアに反旗を翻し、小なりと言えども自立した都市国家であったということも、これまで知らなかった。

     (海上からドゥブロブニク)

  虹のように架かる高い石橋の上から少年たちが川に飛びこむ映像をテレビでみたことがある。今回の旅で、その世界遺産の橋のあるモスタルという町を訪れるようとは、思ってもみなかった。

 帰国して調べていたら、その町は、サッカー日本代表監督ハリルホジッチが高校時代を過ごし、やがてその町のプロチームに所属し、ヨーロッパで華々しい活躍をした後、監督として戻ってきた町であることを知った。内戦のとき、彼は、一人の市民として多くの人を助けたが、重傷を負い、全財産を失って、フランスに脱出しなければならなかった。 

          ★

 調べていて、一番、心を奪われたのは、1991年に始まる内戦のことだった。

 内戦のことを調べながら、今、ヨーロッパを揺り動かしている難民受け入れ問題が気になった。

 犬養道子の『ヨーロッパの心』(岩波新書) は、古いけれど、名著だと思う。その中のスイスの項に、

 「 ( スイスでは ) 外(国)人労働者の大方は (フランス、ドイツのように) 『 汚れ仕事 』 に従事しない。道路清掃 ( フランスではアルジェリア人とほぼ決まっている ) やゴミ処理は、スイスの人間が主となってやる 」。

 「 難民受け入れのやり方や態度に至っては、わが日本は爪の垢でもいただきたいほど ( 注 : 1980年ごろのベトナムからのポートピープル受け入れのことを言っている)。定住センターなどつくるかわりに 、各共同体の各員が家を提供し、語学を教え、職をさがす」。

 日常の言葉すらわからない「難民」を、本気で受け入れようとすれば、こうしなければならないのだろうと思う。地域共同体ごとに、難民の一、二家族を、包み込むように受け入れなければ、うまくいかない。「お上」(国や自治体) にできることは限られている。                   

 ドイツ・メルケルは百万人の難民を受け入れると言い、EU各国も、競うように受け入れ目標を発表した。

 社会的合意が不十分なまま、どんな受け入方をするのだろう??

 遠いヨーロッパのことではあるが ……。

    (スロベニア・ブレッド湖)

    ★   ★   ★

 「年末に印刷機を買い替えたので、試運転してみました」と、新年早々、知人からカレンダーをいただいた。見れば、わがブログの写真で作ったカレンダーである。

 1月~6月の写真は、昨年の秋に行った「フランス・ロマネスクの旅」。オーセールの町の橋の上からの景色で、「ヨンヌ川の青い空と白い雲」。

 7月~12月は、今回の「アドリア海紀行」から、プリトゥヴィツェ湖国立公園の「森のはずれの休憩所の黄葉」である。

 新年早々、思いがけず、たいへん感激しました。ありがとう。こんなにカッコイイカレンダーになるとは、思ってもみませんでした。

 

 ( ずいぶん長くかかってしまいましたが、これで「アドリア海紀行」は終了します。ご愛読、ありがとうございました)。

 

 

 

 

 

   

 

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サラエヴォに思う……アドリア海紀行(10)(修正版)

2016年02月10日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月30日(続き)

< 首都サラエヴォに入る >

 バスはサラエヴォの市街地に入った。

 大都会である。なかなか町の中心部に到着しない。

 道路の道幅も広く、オフィスビルや綺麗なショップがつらなり、チンチン電車が走っている。日本と異なるのは、そのなかに、瀟洒なキリスト教の教会と、イスラム教のモスクがあることだ。最近建設されたように見える新しいモスクは、SFの世界のようだ。

 ( 車窓風景 : キリスト教教会 )

 

   ( 車窓風景 : モスク )

 そういう街並みのなかに、火災で全焼したような、骨組みだけの廃墟のビルがあった。内戦の記憶をとどめる遺産として残そうとしているのだろうか?? 周囲の街並みが平和であるから、余計に異様に見える。

  ( 車窓風景 : 廃墟のビル )

        ★

 旧市街の近くでバスを降りて、サラエヴォのガイドとドッキングし、街の中心部を歩く。30歳過ぎ? ハンサムで物静かな青年だ。

 はや日は傾き、石造りの建物の間から、赤みを帯びて射し込む太陽の光がまぶしい。

 いきなり目を引く大きな建物があった。今はシティホールとして使われているが、オーストリア・ハンガリー帝国時代に、市庁舎として建てられた。ネオ・ムーリッシュ風というそうだ。

 内戦中の「サラエヴォ包囲」のとき、砲撃によって炎上した。内戦後、残っていた外壁をもとに修復されたという。中に入れば、ステンドグラスやイスラム風の美しい柱や壁が迎えてくれるそうだ。

 (ネオ・ムーリッシュのシティ・ホール)

         ★

< サラエヴォは冬季オリンピックの舞台だった >

 「サラエヴォ」と言えば、私たちの世代の記憶にあるのは、1984年の冬季オリンピック。

 日本人にとって、同じヨーロッパでもイギリスやフランスと違って、「ユーゴスラビア」は遠い国である。学校で教わった知識と言えば、首都がベオグラードということぐらいであろうか。サラエヴォという都市の名も、ほとんど知らなかった。

 冬季オリンピックによって、雪と氷の祭典にふさわしいファンタジックで、ロマンチックな町、というイメージができた。

 その冬季オリンピックから10年もたたないうちに内戦が勃発した。他国との戦争ではない。昨日まで同じ国民であった人間同士が、それぞれの「民族主義」を掲げて、凄惨な戦いを繰り広げたのである。

 日本人だけではない。世界の誰もが、あの「平和の祭典」は何だったのかと、思った。

        ★

< 第一次世界大戦のきっかけとなったテロ事件発生の町 >

 大学受験で世界史をしっかり勉強した人は、冬季オリンピックや内戦以外に、もう一つ、サラエヴォについて知っていることがある。(私は、しっかり勉強しなかったグループらしい)。

 この町は、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエヴォ事件」の起こった場所である。

 1878年、ボスニア・ヘルツェゴビナの統治権は、オスマン帝国から、オーストリア・ハンガリー帝国に移った。

 1914年、ボスニア出身のセルビア人の青年が、サラエヴォを訪れていたオーストリア・ハブスブルグ家の大公夫妻を、ミリャツカ川に架かるラテン橋の上で射殺した。

 ( ミリャツカ川に沿う美しい街並み )

      ( サラエヴォ事件のあった橋 )

 このサラエヴォ事件をきっかけにして、オーストリア、ドイツ、オスマン帝国などの中央同盟国と、イギリス、フランス、ロシア、そしてボスニアなどの連合国とが戦争に突入した。

 ヨーロッパにおいて、「大戦」とは、第一次世界大戦である。一つの戦線だけでも、昨日は両軍併せて1万5千人が死傷した。今日は1万人が死傷した。明日は2万人の若者が死ぬか、障害者になるだろうというような、惜しげもない「人命の消耗戦」を、双方が繰り広げた。多くの青年男子が死に、生きて帰って来た者の多くも、障害者として生きなければならなかった。戦後、二度とこのような戦争をしてはいけないという反省が、ヨーロッパ中に沸き起こった。際限のない「人命の消耗戦」で、死ぬか、障害者になるのは、図上で作戦を立てるエリート将軍や参謀ではなく、若者たちである。このような戦争を二度とやってはいけない ━━━ という反省が、ヨーロッパにおける第一次世界大戦である。(第一次世界大戦を直接に経験しなかった日本は、同じこと── 人命の消耗戦 ── を第二次世界大戦でやった)。

 それでは、ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦とは何であったのか?? それはホロコーストである。

 ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦の死傷者は、第一次世界大戦の死傷者の10分の1にとどまった。

 ホロコーストとは、戦争の混乱の中で偶発的に起こってしまった事件 (例・南京事件) などとは、根本的に異なるものである。中国共産党は同じだとPRしているが、ちょっと経過を知っていれば、わかることである。

 ナチス・ヒットラーは、「民族の浄化」を掲げ、一つの民族(ユダヤ人)の「種」を根絶するために、工場を作って、計画的かつ大量に、地上から抹消しようとした。「アウシュビッツ」は、戦争の中で起こったが、戦争そのものではない。ヒトラーは戦争で「狂気」になったのではなく、「選民思想」「民族浄化」の「狂人」だったのだ。そのようなおぞましい思想と行為が、事もあろうにヨーロッパ文明の中から生まれた、という反省がヨーロッパにおける第二次世界大戦である。

 だから、クロアチアやボスニアで起こったこと、例えば、スレブレニツァの虐殺は、ヨーロッパにおいて、「民族浄化」のナチズムの延長線上でとらえられる。ヨーロッパにおいては、二度と見たくない行為であり、断固、裁かれるべき行為なのである。

 話を第一次世界大戦に戻す。大戦の結果、オーストリア・ハブスブルグは敗戦国となり、その支配を脱したボスニア人、セルビア人、クロアチア人らが、スラブ民族の王国を建てた。その王国は、第二次世界大戦を経て、ユーゴスラビア社会主義連邦となる。

 このような経過から、かのテロリストである反オーストリア民族主義の青年は、「愛国者」として大いに称賛された。彼が人を殺した橋のたもとには、彼の彫像や彼を称揚するパネルが麗々しく飾られた。

 この事件を説明するパネルは、今も橋のたもとのビルの壁に掲示されているが、今は ── テロ事件という歴史的事実を淡々と記述しただけのものに変えられている。

 テロリストを英雄視してはいけない。テロリズムの称賛は、国民の中にあるナショナリズムに火を付け、一端、火のついたナショナリズムは炎となって燃え広がり、やがては国を焼き滅ぼす。ユーゴスラビアの内戦は、それを証明している。

※ 時代錯誤も甚だしいが、テロリストの像を英雄として中国とともに建立したわが隣国も、随分、以前から、国民の中のナショナリズムの炎を、政府が制御できなくなってきているように見える。もともと歴代政府が学校教育で焚き付けてきた結果であるが、炎上・自爆しないようにしてほしい。

 ナショナリズムは、憎悪の感情である。

 隣国から飛んでくる憎悪の火に点火されないようにすることは、国内問題である。飛んできた火は黙々と踏み消すことが大切である。例えば、ヘイトスピーチを許さないこと。日本国と日本国民を守りたければ、このような憎悪の炎を燃え上がらせようとする行為を許してはいけない。また、在日韓国人を大切にするべきである。民族浄化は国を亡ぼす。

         ★

< イビチヤ・オシムのサラエヴォ

 92年からのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のとき、サラエヴォはセルビア勢によって包囲された。近現代の戦争の中で、最も長期に渡る都市包囲であったと言われる。その包囲の中に、イビチャ・オシムの夫人と娘もいた。

 この包囲戦で、12000人が死に、50000人以上が負傷した。死傷者の85%は一般市民であった。

 イビチャ・オシムは、1986年に旧ユーゴスラビアの代表監督になった。(結果的に、ユーゴスラビア代表チームの最後の監督である)。

 民族の対立はもともと根深く、ユーゴスラビア代表の出場選手を決める際にも、歴代監督はさまざまな「配慮」をしてきたが、オシムは、スポーツはスポーツであり、出身民族に関する配慮は一切しないと公言し、実際、それを貫いた。そして、そのことによって、ユーゴスラビアのサッカー界で、誰よりも信頼された。

 (内戦が終わったあとも、3つの民族で構成されるボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー界が内部で対立し、世界サッカー連盟から排除されたとき、これを説得し、一つの協会にまとめたのは、日本代表チーム監督を辞したあとのオシムであった)。

 彼に率いられた代表チームは、1990年のワールドカップでベスト8になった。準々決勝の相手はマラドーナを擁するアルゼンチンだったが、延長戦を戦い、最後にPK戦で敗れた。そのときのチームには、後に名古屋グランパスの名選手、そして監督として活躍したストイコビッチもいた。彼はセルビア人である。

 だが、翌年の91年には、スロベニアとクロアチアが独立宣言をし、オシムの代表チームから2国の選手が離脱した。

 92年には、自分の国であるボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言した。彼が息子とともに所用でベオグラードに赴いていたとき、ユーゴスラビア軍が独立宣言したサラエヴォに侵攻し、包囲した。夫人と娘はサラエヴォに閉じ込められた。オシムは事態に抗議し、代表監督を辞任する。

 以後、彼は、ギリシャやオーストリアで監督を務めながら生計を立て、夫人と娘はサラエヴォ包囲の中を生き延びた。オシムが夫人と再会できたのは94年である。

         ★

 我々を案内してくれたガイドの青年に、あなたにとってあの内戦は何であったか、と聞いた。少し考えて、彼はひとこと、「運命だった」と答えた。

 彼の家族や、親族や、友人が、どのような目に遭ったのか、知る由もないし、聞くわけにもいかない。しかし、まだ10代の前半であった少年にとって、それはそのように答えるしかないだろう、と思った。

 いや、オシムのような大人で、しかも、オシムのような賢人であっても、「運命」としか答えられないのではなかろうか?? 巨大な渦巻の中でもまれながら、最低限の誇りを胸に、ただ生き延びようとするほかに、何ができただろう……。

         ★

< 夕刻、サラエヴォの中心街を歩く >

 サラエヴォの中心部の一角には、イスラム教の格式高いモスクも、キリスト教正教会の大聖堂も、カソリックの大聖堂も、たいして距離を置かずに、立っている。それぞれに美しい。

 

 ( カソリックのサラエヴォ大聖堂 )

 ( モスク入り口と手洗い場の井戸 )

 わずかな自由時間。イスラム教の寺院のそばにある町の公共トイレで、一行の中の一人の女性が財布をスラれた。順番を待って並んでいるとき、そばにいる若い女性が体を押すようにくっつけてきて、その女性が離れたとき、おかしいと思ってバッグを見たら、口が開けられ財布がなくなっていたと言う。

 手口から見て、ロマ(ジプシー)であろう。大阪のおばちゃんでも、日本人は優しすぎる。

 スリはサラエヴォの住民ではないだろう。たいてい、観光地を渡り歩く流れ者だ。自分もパリで愛用の一眼レフとレンズを盗られたことがあるが、その町とその町で生活している人々に対して、敬意を失ったことはない。

         ★

 フェルハディア通りは、サラエヴォ一で第一のショッピング通り。全長1キロの歩行者天国である。

 ( フェルハディア通り )

  各国からの観光客もいっぱいの通りをぶらぶら歩いていたら、道に書かれた「Sarajevo  Meeting of Cultures」という文字が目にとびこんだ。そして、実際に、眼前に、突然、異なる文化が出現した。西欧的なオシャレなショッピング街が、突然、アラビアンナイトみたいというべきか、ネオ・ムーリッシュ風というべきか、あのモスタルで見たバザールのような商店街を高級にしたようなショッピング街になった。

 面白いと思った。ここは、本当に、異なる文化が共存する街なのだ。多分、その共存は、日本人が考えるような甘い、綺麗事の共存ではない。今も苦く、時に怒りや涙を伴い、握手できないまま肩を並べているだけなのかもしれない。

 1泊して、ゆっくりこの街の「空気」に触れたい、と思った。もう少し、町と人から、何かを感じたい。

        ★

 バスに乗り、空港に向かった。

 車窓から見る夜のサラエヴォの賑わいは、大阪や、ローマや、パリと少しも変わるところのない大都会である。あの内戦の悲劇は、どこに行ったのかと思うほどに。

   ( 大通りに沿う商店街 )

 最後に、もう一人、日本人としては、書き洩らしてはいけない人がいた。

 緒方貞子。

 1990年、国連総会において、第8代国連難民弁務官に選出された。

 翌年、ユーゴスラビア内戦が勃発する。

 以後、連続して再任され、2000年に退官する。

 まさに、期せずして、ユーゴスラビアの内戦のために選出されたような人だった。

 様々な国籍をもつ部下、多くの国連職員を指揮し、大胆、かつ、繊細に、何千、何万という難民の命と向き合って、時には、いつ砲弾が飛び交うかわからないひと時の休戦の現場に飛び、両軍司令官と交渉し、ある時は、部下の殉職に涙を流し、不眠不休の活動をした。

 あのころ、日本の若者、なかんずく若い女子の尊敬する人の第1位は緒方貞子だった。誇るべき日本人である。

 あれから20年、日本の社会も、もうそろそろ「男社会」には縁を切るべきだ。そして、ぜひとも「1億総活躍社会」の実現を。日本そのものが「限界集落」化しないうちに。

         ★

 20時25分発、イスタンブール行きに搭乗。

 翌10月31日、早朝、イスタンブールを発ち、同日、夜、無事、関空に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ボスニア・ヘルツェゴビナの悲しみ……アドリア海紀行(9)

2016年01月23日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

   ( 共生と和解を象徴する橋 )

11月30日 

 昨夜はこの旅の最後の夜。「晩餐」のためにホテルのレストランに集まった一行の皆さん、そろって小奇麗な服に着替えておられ、自分一人が、相変わらずの薄汚れたシャツにダウンのチョッキ。少々気恥ずかしい思いをする。偶然なのか?? それとも、日本人ツアーの新しいマナーなのだろうか?? …… あのまま街に残って、街角の和食レストランで、行き交う人々を眺めながら、気ままにワインを傾けるべきだった…。                              

 それでも、まあ、こうしてツアーに入ると、一応、行く先々の土地の料理が出され、何より味が日本人向けにアレンジされていて、量も少なめで、日々、かなり完食できた。

 そのせいもあってか、旅を通じて元気だった。一番良く歩いたのはプリトビチェ湖国立公園のハイキングで、約15000歩。しかし、参加者の年齢が高く、ゆっくりゆっくりしたペースだったから、腰痛も翌日に持ち越さなかった

 ただ、こういうツアーの唯一・最大の欠点は、几帳の奥の姫君を、几帳の隙間からちらっと垣間見るような感じで、次々と連れまわされる旅であるということだ。姫君にお目通りしたことがあるとか、姫君を存じ上げている、と言うには、多少とも、姫君と顔を合わせ、言葉を交わしたことがある …… という程度の、主体的な何か……「経験」が必要であるように思う。 … それは、「体験」を取り入れたツアーなどということではなく…… 「経験」とは、一人一人の心の中に起き、対象との心の対話によって成立し、大なり小なり個人を変えるものである。

         ★

つ目の国へ国境を越える >

 今日は国境を越える。

 ドゥブロブニクを出発して、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のモスタルへ約140キロ、3時間。モスタルで昼食と簡単な観光の後、首都サラエボまでも約140キロ、2時間30分。サラエボの街を簡単に観光して、夜、サラエボ空港から、イスタンブール行きに搭乗。深夜、イスタンブールで、関空行きに乗り継ぐ。

         ★

 いつもより30分ほど早く、7時半にホテルを出発した。

 いいお天気だ。旅行の間ずっと、お天気に恵まれた。気温も、旅の期間を通じて想定していたより10℃ほど高く、大阪の秋と変わらなかった。

 バスは、しばらく、一昨日来た道を、アドリア海に沿って北上する。

 秋の朝、太陽の位置はまだ低く、空気が澄み、光は斜光となって陰影をつくる。青空を映す紺碧の入江。深い入江をつくる延びた半島。そして、小さな島々…。

      ( 車窓風景 : アドリア海の美しい入江 )

 やがて、ボスニア・ヘルツェゴビナ領がアドリア海に達している箇所 (ネウム)まで来て、スーパーマーケットでトイレ休憩。

 バスは、その先、クロアチア領のプロチェで道を右折した。アドリア海と別れ、内陸部へ向かう。

 これでアドリア海ともお別れである

  ( 車窓風景 : さらば!! アドリア海 )

 野や畑や山あいの道となる。

   ( 丘の上の墓地のある教会 )

 やがて、道路が山間部に入って、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境の検問所に着いた。

 多少の緊張を覚える。

 我々の前に観光バスが1台停められていて、降りて様子を聞きに行った運転手と添乗員が言うには、随分時間がかかっているらしい。しかし、そのバスがスタートすると、我々のパスポートを一括して検問所に持って行った運転手と添乗員は、すぐに検査を終えニコニコして帰ってきた

 3つ目の国の国境を越えた。

 …… バスの車窓から見るボスニア・ヘルツェゴビナの山村風景、農村風景は、心なしか、スロヴェニアやクロアチアよりも貧しいように思う。

 山は、灌木がまばらに生えただけで、麓の村にはモスク (イスラム教の寺院) の塔が、まるで発射台のロケットのように見える。

    ( 車窓風景 : 山並み )

 道路の横をずっと川が流れている。あるときは村の中を。あるときは原野を。そしてあるときは山峡を、川が流れ、バスは川に沿いながら走る。

 そう言えば、アドリア海岸から国境までも、バスはおおむね川沿いを走っていた。同じ川が、ボスニア・ヘルツェゴビナ領に入っても、ずっと続いているのだろうか??

 地図を見ると、ネレトヴァ川。ボスニア・ヘルツェゴビナを代表する河川の一つで、アドリア海へ注ぐ。これから行くモスタルの町を流れる川も、この川だ。

 

     ( 車窓風景 : ネレトヴァ川 )

                       ★

< ボスニア・ヘルツェゴビナの悲哀 >

 外務省のホームページ等を参照にし記述すれば、ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史はおおよそ次のようである。

 古代ローマ時代は端折る。

 14世紀、南スラブ民族の一派が、ハンガリー王国から独立する形でボスニア王国をつくった。

 1463年、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を滅亡させたオスマン帝国が、ボスニアを征服。以後、1878年にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に入るまで、400年以上もこの地はオスマン帝国領であった。

 なお、ボスニアには、カソリックから異端とされ、激しい迫害に遭ってきた人たちがいた。オスマン帝国が侵略してきたとき、この人たちは、キリスト教徒になるよりもイスラム教に改宗した方がマシだと考えて、ムスリム(イスラム教徒)になった。今、ボシュニャックと呼ばれる人たちである。

 第一次世界大戦後、敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国から独立して、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人によるスラブ民族の王国ができた。この国は、その後、第二次世界大戦を経て、ユーゴスラビア社会主義連邦になる。ただ、この間、スラブ民族による統合とは言え、セルビア人の支配が強いことに対する不満が、他の民族のなかに、常時、底流としてあった。

 1991年にスロベニア、クロアチアが独立宣言をしたのに続いて、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいても独立を求める声が多数となり、92年、内戦に突入した。

 スロベニアは、ほとんどの住民がカソリック系のスロベニア人だったから、あっさり独立してしまった。

 クロアチアでは、多数のクロアチア人に対して少数 (人口の25%) のセルビア人(正教系)が抵抗し、そのセルビア人をユーゴスラビア軍(セルビア軍)が助けたため内戦は激化、双方に虐殺や暴力事件が起こった ( 当ブログ「アドリア海紀行 4」参照 )。

 ボスニア・ヘルツェゴビナにおいては、事態はさらに複雑で、深刻であった。

 内戦勃発時における、ボスニア・ヘルツェゴビナの人口は430万人。その民族構成は、ボシュニャック (イスラム教徒) 系44%、セルビア系33%、クロアチア系17%であった。3つの民族のうち、独立を目指したのはボシュニャックとクロアチア系で、独立を阻止しようとしたのはセルビア系住民とこれを応援するユーゴスラビア軍(セルビア軍)であった。

 内戦は3年半に渡り、3つの民族が全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた。その結果、死者数20万人、難民200万人という、大戦後の欧州で最悪の悲惨となった。

 1995年に和平合意成立。

 その内容は、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、ボシュニャックとクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という二つの主体から構成される一つの国家である、というものであった。

 今も、例えば、元首について言えば、3つの民族から選出された3名による大統領評議会メンバーが、8か月ごとの交代制で議長を務めることになっている。

        ★

< 「スレブレニツァの女たち」 > 

 昨年(2015年)、BSで、「スレブレニツァの女たち…虐殺の町・遺族の20年…」というレポートが放映された。

 ボスニア・ヘルツェゴビナの東部にある小さな町・スレブレニツァは、キリスト教の教会 (正教)とモスクが仲よく並んで建つ平和な町であった。住民の7割はボシュニャック (イスラム教徒)、3割が正教徒で、互いに同じ職場に勤めて仲よく働き、家族的な交流もあった。

 そこへ内戦が勃発。国の東部はセルビア系が支配したから、ムスリムの多いスレブレニツァは孤立した。国連平和維持軍が町に入って守っていたが、セルビア軍はかまわず侵攻し、国連軍は町を明け渡して、撤退した。

 侵攻してきたセルビア軍は、女性と子供を支配地域から追い出し、男性は皆殺しにした。虐殺された人数は、8千人と言われる。

  今、町に共同墓地がある。墓地には6千の墓標が並ぶ。 

 しかし、今も、女たちは月に1回、写真を掲げてデモをする。内戦が終結してすでに20年、まだ発見されていない私の夫や息子の遺骨を早く見つけてほしいと、当局に訴えるデモだ。

 ある高齢の女性は言う。「夫の遺骨は10年前に見つかり、墓地に埋葬できたが、夫の横に埋めてやりたい息子の遺骨は未だに発見されない。私の今の人生は、そのためだけにある。もう20年も待ち続けている。20年よ!!」。「息子は25歳だった。私たちが避難先へ向かうとき、男は全員殺されるという情報が入って、落ち合う場所を決め、息子とはここで別れた。息子は何度も振り返りながら、森の中へ消えた。彼は優しい子で、少年時代から詩を書いていた。内戦には参加していないし、武器も手にしていない。森の中で殺されたという情報があるが、未だに遺骨は発見されていない」。

 発見しにくいのは、虐殺を隠すため、セルビア軍が無数の地雷を敷設したからだ。遺骨を探すということは、地雷を一つ一つ除去していく、という作業なのだ。まさに、1センチずつしか進めない。遺骨を発見できても、DNA鑑定のために、長い年月がかかる。

 「当局」の中にはセルビア人もいる。彼は言う。「セルビア人も、この町で3千人が殺された。まだ、遺骨が発見されていない遺族もいる。なぜあなた方の息子だけが『虐殺された』被害者として世界から同情され、優先されるのか!!」。

 こうして、人口1万人のこの小さな町で、今も2つの民族は憎しみを克服できず、対立し、住み分けて暮らしている。小学校の授業も、歴史の時間だけは分かれて行う。

                          ★

< EUの亀裂、ロシアの思惑、アメリカの力の低下 >

 ボスニア・ヘルツェゴビナのNATO、EUへの参加は、まだ認められていない。多民族の共生を謳うヨーロッパ共同体への参加は、ボスニア・ヘルツェゴビナの宿願とされている。しかし、昨年 (2015年) の暮れに放送された「NHKスペシャル・シリーズ  激動の世界」の第2回「大国復活の野望…プーチンの賭け」を見ると、その行方は、必ずしも明るいとは言えない。

 まず、EU自身、「ヨーロッパ共同体」という理念に、亀裂を生じている。

 EUの中で、貧富の差が広がっている。金持ちの国 (ドイツ) は一人勝ちし、いくつかの国 (イタリア、スペイン、ギリシャなど) の財政基盤は脆弱となっている。最貧国・ギリシャに対する持てる国ドイツ・メルケルの措置は非情で、もはや「共同体」とは言えない。

 難民受け入れ問題でも、ヨーロッパの世論は真っ二つである。「右翼政党」が政権を握ったハンガリーは、難民受け入れ拒否の柵を国境に張り巡らした。フランスでも受け入れ反対とEU離脱を訴える「右翼政党」が選挙で大勝した。ドイツでも、メルケルの難民受け入れ大風呂敷に、各地で反対の声が上がっている。一番多く難民が流入してきているのは、ギリシャである。国民も飢え、難民も飢えている。

 (ドイツの地域住民の、「静かな地域共同体が壊される」「増大する難民を全部受け入れるなんて無理な話だ」、という当然の不安に対して、頭から「それはナチズムだ」「極右」と決めつける人権派の住民の感情的な非難にも、疑問を覚える。戦前、戦中に、「お前はアカだ」という非難の仕方をした人たちと同じである。黒か白かの二元論しかない世界は怖い。世の中の多くのことは、日本の梅雨の時期の木々の緑のように、同じ緑と言っても微妙な色調と濃淡にけむり、多元的であるはずだ)。

 当然のことながら、ロシアは、自国の国境線までNATO、EUに迫られることを良しとしていない。 EUかロシアかというウクライナ内部を二分した対立は、NATO、EUとロシアとの間のウクライナ争奪戦に発展した。ロシアは決してクリミア半島や東ウクライナから手を引かないだろう。

 バルカン半島の旧ユーゴスラビア地域には、まだNATO、EUに加盟していない国がある。その一つがボスニア・ヘルツェゴビナ共和国である。

 そこには、不満を募らせる少数派のセルビア人がいる。セルビアは、伝統的にロシアに親近感をもつ。「ロシアと連帯し、セルビア人の独立した国家を!!」━━━ こういう政治的動きが、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国内のセルビア人住民の間に広がりつつあり、その後ろにプーチンの影がある、というのである。

 以上は、公平中立を旨とするNHKが取材・報道した内容の紹介である。ただし、(    )の中は、報道内容に私的意見を入れた。

 冷戦が終結したころの一時代は終わった。あのころ(ベルリンの壁が壊れたとき)、東欧諸国のどの国も、EUに入ることに未来の夢をつないだ。ヨーロッパという、民族を超えた「共同体」に参加したいと思ったのだ。

 しかし、今、そのEUにも、亀裂が生じてきている。

 一方、中国も、ロシアも、国民のナショナリズムに火を点けて、勢力圏を拡げようとしている。

 アメリカにおいても、大統領候補者たちのスピーチは、一様に排外主義的で、国民のナショナリズムを煽り、大衆迎合に走っている。

 アメリカの力が弱まって行くにつれて、世界は互いにエゴとエゴをぶつけ合い、混迷の度を深めていく。

 我々日本人も、もう一度、全員で世界の情勢をよく見て、その上で、さて、日本をどうするか、考えた方がよい。

         ★

 < 世界遺産のスタリ・モストと旧市街を見学する >

 サッカー日本代表監督ヴァヒド・ハリルホジッチは、モスタルで高校生活を送り、才能を認められて、18歳でモスタルのプロチームに入り、プロサッカー選手としてのスタートをきった。

 選手生活を引退した後、モスタルに帰って、古巣のチームの監督もしたが、そのとき内戦が勃発。自身、銃撃戦に巻き込まれ、重傷を負い、全ての資産を失ってフランスに亡命した。今はフランス国籍である。

 バスがモスタルの町に入り、バスを降りた所は、何の変哲もない地方都市だった。

 が、しばらく歩くと、突然、異文化の世界が出現した。イスラム圏のバザールのように、道の両脇に、スカーフ、カバン、金属細工の様々な装身具類、陶磁器などを売る小さなショップが並び、飲食店もあり、その向こうにイスラム教のドームやミナレットが見えた。

              ( モスタルのバザール )

 やがて、スタリ・モストと呼ばれる石橋があり、橋の先にも、しばらくショッピングエリアは続く。

 スタリ・モストとは、「古い橋」という意味らしい。

          ( ネレトヴァ川とモスタリ・モスト )

 橋の幅は4m、全長30m、川面からの高さは24m。橋を守るために、要塞化された塔(モスタリ)が両側に配置されている。モスタリとは「橋の護衛者」という意味で、モスタルという町の名は、ここに由来するそうだ。

 オスマンの旅行者は、「橋は一方の崖から他の崖へと延び、空まで舞い上がる虹のようだ」と書いた。

   ( スタリ・モストから川下の橋を見る )

 ボスニア・ヘルツェゴビナの「ヘルツェゴビナ」とは、ボスニア地方の南隣にあるヘルツェゴビナ地方のことだが、その語源は、「公爵」(ヘルツェグ)らしい。つまり、ヘルツェゴビナとは、「公爵領」というほどの意味合いをもつ。

 1440年代に、スチェパン・ヴクチッチという公爵の爵位をもつヘルツェゴビナの領主が、ここに木製の橋と2つの塔を築いた。

 しかし、1468年、この地は、侵攻してきたオスマン帝国の支配下に入る。

 ごくごく小さな村だったモスタルは、オスマン帝国の下で、アドリア海への交易ルートの中継地として発展していく。

 1566年には、スタリ・モストは、ネレトゥヴァ川を渡る重要な橋として、石橋に架け替えられた。命じたのは、オスマン帝国の英雄・スレイマン1世である。当時において、最も高い技術による建造物だった。

 橋の両側には「旧市街」が発展し、人口は1万人に及び、ヘルツェゴビナ地方の行政の中心地となっていった。

 1992年からの内戦のとき、ユーゴスラビア軍はこの町のモスクやカソリック系の教会を破壊した。そのあと、町に入ったクロアチア軍は正教会の建物を破壊した。93年、クロアチアの民族主義的民兵によって、スタリ・モストとその周辺の旧市街は破壊された。

 司令官は、今、虐殺の罪も含めて国際法廷で裁かれ、服役している。

 紛争終結後、スタリ・モストと旧市街の復興が進められた。橋はユネスコの支援を受けたトルコの企業により、当時のままの技法で再建され、2004年に完成した。

 2005年、スタリ・モストとその周辺は、ユネスコの世界遺産に認定される。認定に当たっては、再建を経ることによって、多民族・多文化の共生と和解の象徴になった、という側面も評価された。

  (次回、サラエヴォへ続く)

 

 

 

 

 

 

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アドリア海の真珠と称えられたドゥブロヴニク … アドリア海紀行(8)

2016年01月10日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

 10月29日

 海のほとりの眺めの良いホテルに2泊し、今日は一日かけて、ドゥブロヴニクを観光する。しかも、午後は自由時間 …… 旅はかくあるべし。気持ちもゆったりし、街の歴史・文化、空気を感じることができる。

         ★

< 「アドリア海の真珠」と称えられたドゥブロヴニク >

 ドゥブロヴニクが海洋貿易で活躍し、多くの富を集めて最も輝いたのは、15、16世紀のころである。ヴェネツィアが 「アドリア海の女王」 と称えられたのに対して、ドゥブロヴニクは 「アドリア海の真珠」 と称賛された。17世紀の大地震で、城壁とスポンザ宮殿を除いて街は一度崩壊するが、その後、再建された。

 城壁に囲まれ、海に臨む、中世そのままの美しい街並みは、今、クロアチア旅行の人気ナンバーワンである。

 1979年に世界遺産に登録された。

 しかし、1991年の内戦時には、セルビア軍によって70日間包囲され、数千発の砲弾が撃ち込まれたともいう。

 95年の内戦終結後、ユネスコの支援によって世界中から各分野の専門家がボランティアで集まり、街の修復に取り組んだ。その結果、98年には街は元通りに修復され、「アドリア海の真珠」は再びその美しさを取り戻した。

         ★

< ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の「飛び地」である >

 ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の最南端にある。すぐ南に国境があり、国境の先はモンテネグロ共和国。国境を越えると、東ローマ(ビザンチン)帝国の文化圏である正教の国になる。

 ドゥブロヴニクには、北側にも国境がある。

  昨日、スプリットから、アドリア海の海岸線をドゥブロヴニクへ向かう途中、1カ所、ボスニア・ヘルツェゴビナ領を横切った。ここだけ、ボスニア・ヘルツェゴビナ領が西に伸びてきて、アドリア海に達している。その海岸線の巾は約20キロ。だから、クロアチア共和国の最南端のドゥブロヴニク一帯は、飛び地なのである

 前回の記述で、この奇妙な国境線は内戦によるものであろうと軽々しく推測したが、違っていた。この奇妙な国境線のいわれは、もっと歴史的なものだ。

 現在のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、かつてはそっくりオスマン帝国領として組み込まれていた。オスマン帝国領が、今見るような形で、アドリア海に突き出ていたのである。

 その時代、その北側のアドリア海沿岸の諸都市 = スプリット、トゥロギール、シベニクなど = は、「アドリア海の女王」と呼ばれたヴェネツィア共和国の傘下にあって、超大国・オスマン帝国と対峙していた。ヴェネツィアは都市国家だったが、頑張っていた。

 1571年、西欧キリスト教国とオスマン帝国の海軍、双方合わせて20万人が激突したというレパントの海戦において、キリスト教国側の軍船の半分はヴェネツィアの艦隊であったが、このとき、ダルマチア地方出身の海の男たちも多数、参戦していて、ヴェネツィアと運命を共にしたのである。(塩野七生『レパントの海戦』)。  

 このころ、ドゥブロヴニクは、ラグーサと言い、ヴェネツィアの傘下を出て独立し、海洋国家として羽ばたいた。オスマン帝国に対しては、いわば朝貢関係にあった。ラグーサ共和国なりのリアリズムである。ヴェネツィアの勢力圏とラグーサ共和国との間に割って入る形で、オスマン帝国領があったのである。

        ★ 

< ドゥブロヴニクは、歴史上、「ラグーサ共和国」として登場する >

 ダルマチア地方は、早くから古代ローマの一部であった。

 西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の版図となるが、東ローマ帝国の力は弱く、7世紀ごろからスラブ系民族が侵入し、10世紀にはクロアチア王国を立てた。そのクロアチア王国も、やがて、ハンガリー王国に組み込まれる。

 ただ、アドリア海の海岸沿いの港々は、そもそもの起こりが、古代ローマ時代にラテン人が築いた町であった。

 故に、10世紀、ヴェネツィアが海洋貿易に乗り出したとき、その傘下に入って共に戦い、それまで多大の被害を被って来たスラブの海賊を、アドリア海やダルマチア地方の川筋、谷筋から、追い出した。

 これらの町の呼称も、シベニクは、当時はイタリア語でセベニーコであった。スプリットはスプラート、そして、今はスラブ語 (クロアチア語) でドゥブロヴニクと呼ばれるようになっているが、この港町が「中世の博物館」のような町になる前、海洋貿易によって活況を呈していた中世の時代には、イタリア語でラグーサと呼ばれていた。ラグーサ共和国である。

 ヴェネツィアはやがて、アドリア海の女王から東地中海の女王へと飛躍していく。このヴェネツィアに対して、東方貿易の市場を争って、150年の間に4度の竜虎相打つ戦いをしたのが、ジェノヴァであった。

 特に第四次ジェノヴァ戦争 (1378年) は、ひどかった。東の陸地からはハンガリー王国に攻められて、ダルマチア沿岸の港町は全て取られてしまう。ハンガリー王は、これらのヴェネツィアの基地の利用をジェノヴァに許し、ジェノヴァ海軍はアドリア海の奥深く攻め入ってきたのである。さらに、西の陸地からはパドヴァ軍が攻め入る。3方から攻め込まれ、ヴェネツィアは、リド島の内側に籠って、孤立無援の戦いを戦ったのである。

 結局は、ヴェネツィアの不屈の戦いが起死回生の勝利を生むのであるが、このころ、ラグーサはハンガリー王国に付き、やがて、ラグーサ共和国として独立し、オスマン帝国が侵攻してきたときにはこれに貢納する形で、名を捨てて実を取り、小さいながらも海洋貿易国家として全盛期を迎えるのである。

 なお、この頃には、ドゥブロブニクは、流入してきたスラブ系民族であるクロアチア人(カソリック)を受け入れ、二つの民族が共存するようになった。

         ★

< ロープウェイでスルジ山へ上がる > 

 朝、混まないうちにと、いきなりロープウエイ駅に案内され、スルジ山に上る。

 スルジ山はドゥブロヴニクの背後にある標高412mの山。繁栄したラグーサ共和国の水源の山である。

   ( スルジ山のロープウェイ )

 なにしろ、ドゥブロヴニクはクロアチア観光のハイライトだから、朝からツァーの観光客が方々のホテルから湧きだしてくる。われらが添乗員は、ベテランでかつ賢い女性だから、いち早くロープウェイ乗り場に導き、陣取りして、たいした待ち時間もなく頂上へ。

 頂上の展望台に立つと、ガイドブックやパンフレットの写真でよく見る、城壁に囲まれた旧市街の全貌が見えた。

 城壁の長さは、全長約2キロ。要所には要塞や塔があり、高い所では海から25mの高さがある。

 城壁の上を歩いて1周することができ、その眺めは素晴らしいとガイドブックにある。午後の自由時間の最大の期待である。

 町の東側 (写真の左側) には、聖イヴァン要塞と聖ルカ要塞に守られた旧港がある。

 

  ( スルジ山から見下ろした旧港 )

   港に臨む大きな建物は、手前からドミニコ会修道院 (今は美術館)、スポンザ宮殿 (かつての税関、今は古文書館)、総督邸 (元老院などの機関も並置されていた) である。

 この港から遊覧船に乗り、紺碧の海からこの街を眺めることもできると、『地球』に書いてある。午後の自由時間の二つ目の楽しみである。

         ★

< ドゥブロヴニクの街を歩く >

  城壁の中の旧市街には、旧港の反対側・町の西を守るピレ門から入る。門の上には、この町の守護聖人である聖ヴラボの像が立つ。

 

                ( ピレ門 )

 ピレ門の脇の城壁はいかにも高い。上にはクロアチア国旗が翻っている。

(城壁の上にたなびくクロアチア国旗)

 ピレ門をくぐると、メインストリートのプラツァ通り。

     ( プラツァ通り )

 門のすぐ左手にフランシスコ会の修道院があるが、ここには1391年に開業したというヨーロッパで3番目に古い薬局がある。一行のおばさんたちが早速、ハンドクリームなどを買っていた。(そういうことは午後の自由時間にやってほしいものである … とは決して言わない)。

 ヴェネツィアが都市国家であるように、小なりとはいえ、ドゥブロヴニクも共和国であるから、城壁の中ですべてが完結するように町は整備されている。スルジ山から引かれた水は、ピレ門を入った所の広場の噴水となり、上下水道も完備している。ペストなど伝染病が発生したときのための隔離病棟、養老院や孤児院も整備され、成文法によって統治されていた。

 石畳が美しい。これは、ドゥブロヴニクだけでなく、クロアチアに来て、ずっと感じていたことである。

   ( 市街地 )

 プラツァ通りを300mほども進むと、もう反対側の城壁近くのルジャ広場に出る。

   正面に立つのはバロック様式の聖ヴラホ教会。ドゥブロヴニクの守護聖人を祀る。

 街全体がバロックでてきている感じだ。バロックの街として最高に素晴らしいのはやはりローマであるが、ここも小なりとはいえ、美しい町である。

 ただ、ドイツの多くの教会などもそうだが、教会の中に入ると、バロック様式やロココ様式の内部装飾には辟易する。昨年、フランスのゴシック大聖堂を見て回り、この春、ブルゴーニュ地方のロマネスク大聖堂を見て回った目には、それらのもつ清らかな美しさや鄙びた美しさと比べて、バロックの装飾過多は、かなりしんどい。これは、個人の感じ方であるが、同時に、応仁の乱以後に形成された日本人の美意識でもあると思う。金箔で飾られた寺院や仏像よりも、古色を帯びた寺や、寺の跡に心惹かれ、白木のままの神社のたたずまいにゆかしさを感じる。そして、20世紀に入って、西欧諸国においても、人々の感性に大きな変化が起こった。豪華絢爛や成熟の美よりも、古拙の美や鄙びたものの美しさ、簡素なもののもつ美を好む感性が主流となってきた。人は感性においても、不変ではない。

 午前の観光の最後に、旧港のそばのレストランで昼食をとった。この時間には、小さな旧市街の中は、世界からやって来た観光客であふれ、とりわけ中国人の団体客の多さには驚く。

   ( 旧港の船着き場)

         ★

< 紺碧のアドリア海から、ドゥブロヴニクを遠望する >

  天気は良いが、風が強く、波が高い。

 船酔いしたら苦しいだろうと、ちょっとためらったが、思い切って海上遊覧に参加に手を挙げた。添乗員のSさんがレストランの主人に掛け合ってくれる。レストラン経営に加え、遊覧船も経営しているようだ。海が荒れて、客が減り、午後は出航しないつもりだったらしい。

 大丈夫かな? と思われるような小型の船に、参加者はわずかに6名。接岸している岸辺ですら、船は激しく揺れている。カメラをしっかり手にし、出航する。

 

          ( 出 港 )

 船の進む前方は見ない。遠ざかる街の方へカメラを構える。

 揺れが大きく立っていられないから、床に腰を下ろして、ファインダーの狙いを定める。

 船は、横波を食らわないよう、波に対して直角に進む。

 大波に直角に当たり、乗り上げる。前方を見ていないから、不意打ちである。

 体全体が跳ねとばされるように持ち上がる。

 波だけが写っている。

 船酔いするような、優雅な航海ではない。

 

    ( 海の中にいる!! )

 それにしても、紺碧のアドリア海に、不沈戦艦のように浮かぶラグーサ共和国の大城壁と赤い屋根の家並み。カッコいい。遥々と来たかいがあった。

          ( ラグーサ共和国だ!! )

 さらに街から遠ざかり、波頭に浮かぶドゥブロヴニク。そして、スルジ山。

 この辺りから船は引き返した。 

 

 (波頭に浮かぶドゥブロヴニクとスルジ山)

  出航して約1時間。無事、港に帰ってきた。ただただ、感動 みなさん、参加すれば良かったのにネ。

 よく見ると、こんな荒れた海で、突堤から魚を釣っている人がいる!! 西欧人も、もの好きだ。

 

    ( 旧港に帰る )

        ★

< 城壁を歩く >

 城壁の上は、守備側の兵士たちの戦いの場。そこは要塞の一部である。

 ヴェネツィアのように広大な潟で守られた水の上の都ではないから、城壁を破られ、町に攻め込まれたら、どうしようもない。ここは最後の防衛線なのだ。それにしても、これだけのものを造るのは、並大抵ではなかろう。

( 城壁の上は守備兵たちの戦いの場 )

 城壁の上からは、街並みや、教会のたたずまいもよく見える。

 下の写真は、メインストリートのプラッツァ通り。通りの左側の建物は、薬局のあるフランシスコ会修道院だ。

( メインストリートのプラッツァ通り )

  空は晴れ、風は心地よく、海に臨んで開放感があり、赤い屋根の街並みはエキゾチックで美しい。ルンルン気分で歩く

  城壁の外に、小さな谷を隔てて、ロヴリイェナツ要塞があり、街を守護している。

 

  ( 右側にロヴリイェナツ要塞が見える )

 

       ( 大砲と、ロヴリイェナツ要塞)

  ( ロヴリイェナツ要塞遠望 )

 今は快適な散歩道となった城壁の道を行き、途中、カフェがあって、コーヒーを飲んだ。トイレも借りる。

 旧港付近まで来て、聖イヴァン要塞の辺りから、旧港を写す。

   ( 旧港の風景 )

 海の反対側までやって来た。赤い屋根が続き、所々に教会の円い塔があり、遠くに港が見え、海には島が見える。

 アドリア海は島だらけだ。だから良港ができ、海賊も隠れやすい。

 そういえば、ドゥブロブニクは「魔女の宅急便」や「紅の豚」の舞台として使われたという。

  ( 小さな島がちらばる )

  1周して、城壁を降りると、日が傾き、もう集合時間だった。

 満足した。

 このままこの町のテラス席で、ワインを傾けながら夕食を食べ、やがて夕暮れとなり、ライトアップされたこの街を少し歩いて、それからタクシーで海辺のホテルまで帰っても良かったが、そうした方が、もっと街の空気を感じることができると思ったが、添乗員はそうしてもよいと言ってくれたのだが、本当は一緒に帰ってほしそうだったので、行動を共にした。

        ★

 この旅も、明日で終わる。

 明日は、バスで、ボスニア・ヘルツェゴビナに入り、夜、首都サラエボから飛行機に乗って、イスタンブール経由で、明後日の夕方に関空へ着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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元皇帝ディオクレティアヌスの悲哀とスプリット……アドリア海紀行(7)

2015年12月22日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

       ( アドリア海 )

10月28日 

 今日の午前中はアドリア海沿岸で最大の港町・スプリットを見学し、午後は観光バスに乗ってアドリア海をさらに南下、一路、ドゥブロヴニクへ向かう。

        ★

< 皇帝ディオクレティアヌスの宮殿が町になった!! >

 スプリットもまた、かつてヴェネツィアの「サービスエリア」として機能した港町の一つである。だが、この町が多くの観光客を引き付けるのは、もっと大きな別の理由がある。

 ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌス (在位AD284年~305年)は、自ら帝位を退いたあと、余生を送るために、この地に宮殿を築いた。

  「ディオクレティアヌスが生まれたのは、ダルマチア地方の一都市でアドリア海に面したサロナエだとされているが、彼が余生を送るのに選んだ地は、そのすぐ近くにありながら人里からは離れたスパラトゥムであった。ルネサンス時代はヴェネツィア共和国が基地にしていたのでイタリア語式にスパラトと呼ばれていたが、今はクロアチアに属し、名もスラブ式にスプリトと呼ばれている」。(塩野七海『ローマ人の物語13 ━ 最後の努力━ 』)

 その宮殿は、海側が180m、奥行きが215mあり、周りを厚さ2m、高さ20mの城壁で囲まれていた。

 「『別邸』 でも 『宮殿』 でもなく 『城塞』 と呼ぶしかない広大な建物が、ローマ帝国を元首政から絶対君主政に変えた男のついの棲みかであった」(同上)

 確かにこの宮殿は、そのイカツイ感じから言って、「城塞」と呼ぶ方が適切なのかもしれないと思う。

 話は一気に時代を下り、西ローマ帝国滅亡後のこと。この地方にも異民族が大挙して侵入し、ほとんど無政府状態になった。その混乱の中、この辺り一帯の居住民は、命の危険に迫られると、頑丈な城壁で囲まれ、今は廃墟となっているこの宮殿の中に逃げ込んでだのである。最初は逃げ込むだけだったが、やがてそこが生活の場になっていく。

 こうして、人々は廃墟の宮殿をだんだんと町に変貌させていったのである。

 宮殿が町になるというのは珍しいが、似た例ならたくさんある。

 例えば、ウィーンは、もともと、ドナウ川を防衛線とするローマ帝国の、第13軍団6000人を収容する前線基地だった。ローマ軍は兵站(ヘイタン)でもつ、と言われるが、ローマ軍にとって兵站とは、前線の軍隊に送る武器や食料のことだけではない。前線にしっかりした軍団基地を築くのも兵站である。故に規格が定められていて、1辺は400m、堀と城壁で囲まれていなければならない。緊急の出動に備えて、基地の中は立派な道路が縦横に走り、メインストリートは城門を出て街道につながる。また、広場があり、士官や兵士の兵舎は言うまでもなく、浴場や病院や時には劇場までもが完備されていた。文明の果てる辺境の地にあって、それはもう立派な町である。ドナウ川の水運に生きる商人や付近の住民は、朝、広場に市を立てて交流する。何しろ、ここは安全が保障されていた。

 ローマ帝国が崩壊し、今まで安全を保障してくれていたローマ軍が去ったあと、ドナウ川の水運に生きる商人たちや住民たちは、異民族によって荒らされ、破壊されたとはいえ、なおそのあとをとどめるローマ軍団基地の城壁の中に住みつくようになる。それが、歳月を経て、都市へと発展したのが、あのちょっと気取った音楽の都・ウィーンである。

 それにしても、宮殿が町になったのは、珍しい。ユネスコの世界文化遺産である。

        ★

< 宮殿の名残りを留める街を歩く >

 スプリットはアドリア海に臨み、その海岸線はプロムナードになっていて、しばらくその散歩道を行く。よく晴れ、秋の日差しが降り注ぎ、海に開けて開放感がある。

        ( 海岸のプロムナード )

 元宮殿の南側の門(「青銅の門」)を入り、地下に降りた。

 降りた所で、石の壁に掲示されたディオクレティアヌスの宮殿図を見ながら、現地ガイドの説明を受ける。一番後方からツアーグループの頭越しに宮殿図を撮影したら、ガイドの手の影まで写ってしまった。

   (皇帝ディオクレティアヌス宮殿図 )

  現在のスプリットは海岸線がプロムナードになって、宮殿は海から少し奥まった所にあるが、シルエットの指が指し示すように、建設当時の宮殿は、南側の城壁を波が洗うほどに海に接して建てられていた。海側の城壁の上方には回廊があり、引退した元皇帝ディオクレティアヌスは、毎朝、この回廊から、朝日にきらめく紺碧のアドリア海を眺めていた。

 この海側の南向きスペースは、宮殿の主である元皇帝とその妃の居住部分だった。外敵に攻撃されるようなことがあっても、攻撃は陸側からで、宮殿内では最も奥まった、しかも、眺めの良い、南向きの空間であった。

 皇帝の居住部分の北側、真ん中より手前の部分には、左側(西側)にユピテル神殿があり、右側(東側)には自分の死後のために造らせた霊廟があった。

 ユピテルは英語読みではジュピター。ローマの神々の中の最高神で、ディオクレティアヌスは自分をユピテルに見立てていた。「ローマ帝国を元首政から絶対君主政に変えた男」(同上)は、自らを神格化しようとした。

 北半分、即ち、図の真ん中より奥の部分には、元皇帝を守るための兵士たちの住む兵舎、事務室、作業場があった。

 しかし、この宮殿が建てられてから百年後には、国教化を勝ち取ったキリスト教徒たちによって、ユピテル神殿はキリスト教の洗礼堂に変えられ、ディオクレティアヌス廟は大聖堂に変えられた。異教徒の代表である皇帝の遺骸は、海にでも投げ捨てられたであろうか?

   ディオクレティアヌスのあと皇帝となったコンスタンティヌスは、313年、有名な「ミラノ勅令」によって、信仰の自由を再確認し、キリスト教を公認した。だが ……

 「ミラノ勅令で公認された信教の自由が、なぜ1400年も過ぎた啓蒙主義の時代になって、再び声を大にして主張されねばならなかったのか。答えは簡単だ。その間の長い歳月、守られてこなかったからである」(同上)。

 信仰の自由なら、古代ローマ時代の方が、中世キリスト教世界より、遥かに保障されていたことは確かだ。信仰の自由を認めるローマ社会において、時折、皇帝がキリスト教徒を弾圧したのは (キリスト教史観に言うほどひどいものではなかったにしても)、キリスト教徒だけが他者の宗教を認めなかったために、ローマ市民の反発を招いたからである。

  ( 城壁の外から見た大聖堂と塔 )

 宮殿の海側の部分、皇帝が生活した居住空間は、今は地盤沈下して地下宮殿のようになっている。長い歳月の間に宮殿であったことは忘れ去られ、人々は暮らしやすいようにその上に次々と建物を造り、宮殿の方は地下の物置き場として使われたり、ゴミ捨て場になったりしていった。

  (皇帝の居住した部分は、今は地下宮殿に)

 皇帝の居住部分と、ユピテル神殿 (洗礼堂)と 、霊廟 (大聖堂) とに囲まれた石畳の広場があり、それぞれの入り口に面していて、列柱が立ち並んでいる。

 その広場の正面に、謁見場がある (下の写真)。10段分ほど高くなったバルコニーになっていて、元皇帝がアーチ状の門から出てきて、兵士や官僚たちに手を振った場所である。

 (中庭から謁見の間を見る)

 現在の広場には、赤いマントを着て、赤い羽根の付いた銀の兜をかぶり、剣をぶら提げた、大男のローマ兵が二人いて、おカネを払えば、剣を抜き、怖い顔をして、一緒に記念写真に収まってくれる。客はなぜか女性ばかり。(ばかばかしい。そんなことにカネを払えるか!! というのが洋の東西を問わず、お父さんたちの感覚ようだ)。

 皇帝の霊廟として造られ、その後、大聖堂に変えられた建物の内部は、ローマの皇帝の霊廟であったという名残はほとんどなく、キリスト教の小さな大聖堂である。とは言え、今はその役目も終え、歴史的文化遺産となって、観光客で混み合っていた。

 洗礼堂に変えられたユピテル神殿は、わずかにローマのパンテオンを思わせ、簡素で晴朗な趣がある。

 洗礼者ヨハネの像の手前が洗礼盤。そこに彫られているのは、冠を被った中世前期のクロアチア王国の国王の像。古代ギリシャやローマ時代の洗練された彫像と比較すると、いかにも稚拙である。歴史は時に逆行するものらしい。彫像が彫像らしく、もう一度洗練されたものになり、その容貌に人格や個性が表れるようになるのは、ルネッサンスの前、ゴシック大聖堂を飾る聖人像からであろうか?

 

 (洗礼堂の洗礼盤)

 大聖堂、洗礼堂、広場などのあるディオクレティアヌス宮殿の南半分を見学し終えると、あとは普通によくある旧市街の細い通りになるが、ここも宮殿の中である。通りを北へ歩いて行けば、やがて宮殿を囲む城壁の門に出る。北側の門は「金の門」と呼ばれた。

 

 (ここも宮殿の中)

(宮殿の門の一つ・金の門)

 広場から西の方へ歩いて行くと、「鉄の門」があり、門を出ると、空が広く、開放感があった。レストランのテラス席が並び、魚市場もある。そこを越えると、新市街である。

        ★

< ドゥブロヴニクへ >

 昼食後、観光バスに乗って、今回のツアーの第一のお目当てであるドゥブロヴニクへ向かう。スプリットから210キロ。4時間半。

  (車窓風景…海に迫る国境の山並み)

 南へ南へと続くダルマチアの海岸部に、樹木の育たない、ゴツゴツした白っぽい山々が迫る。その山並みの向こうにはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がある。

 その南下するクロアチアの海沿いの道路を断ち切るように、ほんのわずかな距離、ボスニア・ヘルツェゴビナの領土が海に突き出ている。まるで火山が爆発して、その噴火口から流れ出た溶岩流が地形をつくっていくように、ユーゴスラビア連邦が解体する混迷の中で、そういう国の境が生じたのであろう。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ領のコンビニでトイレ休憩。

 暗くなって、ドゥブロヴニクに着く。

 ドゥブロヴニクの郊外、森と畑の中のレストランで、自家製の野菜と、ワインと、3人組の演奏する民俗音楽付きの食事をした。

 今夜も大きな月が出て、空気は澄み、明るい。

         ★

< 元皇帝ディオクレティアヌスの悲哀 … 塩野七生『ローマ人の物語13 ━最後の努力━ 』を踏まえて

 ローマ史上、五賢帝の時代と呼ばれるのはAD96年~180年のことである。大雑把に言えば2世紀。

 この時代、ローマの版図は最大となった。防衛線であるライン川、ドナウ川、チグリス・ユウフラテス川に沿って軍団が配され、この広大な地域を、約30万人の兵力で守った。

 防衛線の内側は空っぽである。わずかに首都ローマに近衛軍団がいるのみ。それでも、人々は、平和を謳歌できたのだから、パクス・ロマーナと呼ばれる所以である。

 だが、塩野七生は、五賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスを描いた『ローマ人の物語 11』の副題を「終わりの始まり」としている。「終わり」とは、もちろんローマ帝国の滅亡のことである。

 このころ、防衛線を越えようとする蛮族(バーバリアン)の活動が活発化する。危機感を抱いた皇帝マルクス・アウレリウスは自ら出陣し、ライン川からドナウ川を守る軍団長を集めて作戦を練るが、戦果を挙げられないまま、軍団基地の一つであった現在のウイーンで病没した。

 これに続く3世紀は、パクスロマーナを享受してきた人々にとって、悪夢のような世紀となった。幾度にも渡って、蛮族がライン川、ドナウ川の防衛線の間隙を突破した。そこを突破すれば、あとは無人の野を行くように帝国の奥深く侵攻かる。人々は殺され、家は焼かれ、略奪をほしいままにされた。遠く、本国イタリアにまで達したこともあった。

 ローマ軍が敗けたのではない。防衛線の間隙を抜かれたのだ。防衛線を守る軍団がそのことに気づき、やっと彼らを捕捉しても、戦場となるのは帝国内部である。

 そればかりではない。チグリス・ユウフラテスで境を接している大国ペルシャとの戦いもあり、皇帝と軍団がペルシャの卑怯な計略にかかってまるごと捕虜になり、再び帰って来なかったというローマ史上最悪の屈辱的な事件もあった。また、それまで比較的安定していた北アフリカでも、砂漠を越えて、盗賊集団に侵攻されるようになった。

 元老院は機能せず、兵士たちに推されて立つ軍人皇帝の時代になったが、その皇帝が相次いで部下に殺されるという政治の不安定さが、帝国の危機に輪をかけた。

 国土の安全が保障されなければ、どうなるか。各地を結ぶ商業活動は衰え、農民は外敵に荒らされた耕作地を放棄し、難民化した人々が都市にあふれた。治安が悪化すると、ローマ軍の動きを知り尽くしたローマ軍の脱走兵の集団が強力な盗賊集団と化して各地を荒らしまわった。人心は荒廃し、国家の財政もひっ迫する。

 このような時代に登場し、284年から305年まで皇帝としてローマ帝国を統治し、宿敵ペルシャを封じ込め、蛮族の侵攻を完全にシャットアウトしたのが、皇帝ディオクレティアヌスであった。

 塩野七生の『ローマ人の物語』において、皇帝ディオクレティアヌスが登場するのは、巻13である。そのサブタイトルは「最後の努力」。

 「20年の間、自分の家の中に蛮族や盗賊が押し入ってくることもなく、庭の中が、それらの敵を追い払うために駆け付けたローマ軍との戦場と化すこともなくなった当時のローマ人が、どれほどの安堵の想いにひたったかは想像も容易だ。平和は、人間世界にとっては最上の価値なのである。ただし、何もしないでいれば、それはたちまち手からこぼれ落ちてしまうのだった」(同上)。

 彼は、崩壊しかけていた帝国を、ブルドーザーで更地にするようなやり方で、徹底的に、立て直したのである。引退し余生を送るために造った宮殿が、城塞のようにイカツイのも、まさに彼の性格を表している。

 彼は、ローマ帝国を4等分し、自らを含めて、4人の皇帝と副帝を置いた(四頭制)。帝国を分割したのではない。防衛分担したのである。彼らはその生涯のほとんど、ローマの元老院に出席することもなく、それぞれ最前線に近いところに首府を置いた。そして、防衛線の間隙をついて侵入してくる敵をせん滅するために、防衛線を守備する従来の軍団以外に、それぞれの手元に遊撃隊を置いたから、兵員の数は従来の2倍になった。当然、何百年間も維持されてきた税制は変えられ、大幅な増税となる。

  ローマの皇帝は、中国の皇帝や、ロシアのツァーリや、オスマン帝国のスルタンとは違う。彼らは絶対専制君主であったが、ユリウス・カエサルが発想し、オクタビアヌスが用心深く作っていった(ローマの)皇帝は、「元首」であった。ローマの主権者はあくまで元老院と市民であり、皇帝は、元老院と市民に統治権を付託されるのである。

 5賢帝の一人、ハドリアヌスの、次のエピソードは、とても面白い。

 「皇帝ハドリアヌスが祭儀を行うために神殿に向かっていた途中で、一人の女に呼び止められた。女は皇帝に何かの陳情をしようと、途中で待ち構えていたのである。だが、それにハドリアヌスは、『今は時間がない』と答えただけで通り過ぎようとした。その背に向かって女は叫んだ。『ならばあなたには、統治する権利はない!! 』。振り返った皇帝は、戻って来て女の話を聴いたのである」。

 それから、150年。ディオクレティアヌスは、ローマの皇帝を、アジア的専制君主と同種のものに変えたのである。

 それまでも皇帝は法律を発することはできたが、それはあくまで臨時法で、永続法は元老院によって制定されてきた。ところが、ディオクレティアヌスは元老院の存在を無視し、「皇帝勅令」を発した。

 これでは、ローマは、ローマでなくなった、と言ってもよい。

 当然、一人で物事を決める専制君主には、君主の手足となる官僚群が必要になる。ディオクレティアヌスは、膨大な官僚組織を作り上げた。当然、彼らを養うためにまたもや大増税が必要となる。

 彼は、30代のころ、能力も高く、人格も高潔で、兵士たちにも愛され、弱体化する帝国を救うと思われた皇帝が、それも相次いで、つまらない部下に殺されるのを見てきた。危機のさ中、一人の優れた皇帝の死は、帝国の息の根を止めるほどの衝撃であった。故に、彼は、皇帝は決して部下に気さくであってはいけないと考えた。神のように尊い存在でなければならない。彼は、東洋の皇帝のように宝石をちりばめた冠をかぶり、衣装を飾り、高い所に坐し、自己の神格化を図ったのである。

 こうして彼は、21世紀の現代から見れば民主主義に反し、人権尊重の流れに逆行すると思われるような数々の改革を断行し、ブルドーザーのように働いたあと、皇帝になって20年後だが、やるべきことは全てやり遂げたというふうに、権力に固執することなく、「若く優秀な者に仕事を譲ろう」と、部下であったもう一人の正帝とともに引退して、後輩に道を譲ったのである。彼が育て信頼したそれまでの副帝を正帝とし、新たに副帝2名を決めた。

 彼の引退後のことも、また、いつ死去したかも、よくはわからないらしい。

 だが、あれほど完璧につくり直したはずのローマ帝国は、彼の引退後、すぐに崩れ始めた。彼が期待した、帝国を守ることを使命とするはずの 4人の皇帝・副帝は、さらに「俺も資格あり」と言う者も現れて6人になり、権力争いをし、内戦となり、結局、内戦を勝ち抜いた副帝コンスタンティヌスが唯一の皇帝として統治するようになる。自分が皇帝になるために、ただそれだけのために帝国内を戦場と化し、多くの兵士を戦死させたのである。…… 隠居所の宮殿の中で、ディオクレティアヌスはこの争いを、どのような想いで見ていただろうか。おそらく、眠れない日々が続いたに違いない。

  「仕事」というものは、そういうものである。結局、それは「人」によって築かれ、「人」によって崩れていく。期待した「人」が、たいていの場合、跡を継ぐほどの「器」ではなかったということだ。謙虚な人は、自分ができたことは優秀な後輩たちにもできる、と考える。しかし、彼らが輝いているように見えたのは、「彼」がいたからにすぎない。大局を見ることができ、志と持続する不屈の意思をもつ「器」は、少ないのである。

  引退後、彼の妻と娘が旅行中に、一人の副帝の「領地」で拘束され、幽閉された。ディオクレティアヌスはこれに抗議し、送り返すよう申し入れたが、無視された。引退し、権力を失った彼は、自分の妻子さえも守ることができなかった。

 塩野七生によると、ローマ史の研究者の中には、元首制から専制君主制となって以後のローマについて、これはローマではないとして、研究しない人もいるとか!! その気持ちはよくわかる。皇帝が専制君主となり、自らを神格化するローマに、何の魅力があろうか。

 だが、一方で、21世紀の価値基準を振りかざして、過去の歴史を裁くような歴史観に何の意味があろうか、とも思う。当然、いつの時代にも、「時代の制約」がある。さらに、その時代にはその時代の大きな「課題」がある。大切なことは、その「制約」の中で、その「課題」に対して、「人間」がどのように立ち向かい、克服しようとしたか、である。それを読み取るところに、歴史を学ぶ面白さも、意義もある。

 ディオクレティアヌスは、「ローマという文明社会」を絶対に亡ぼしてはならない、絶対に守り切ろうという使命感に生きた人ではなかろうか、とも思う。そのためなら、どのようなこともやりきる。リアリズムに撤する。必要があれば、大増税もする。自らを神格化もする。それでも、守り抜く価値があるのがローマだと、彼は考え、行動したのではなかろうか。

 専制君主になっても、自己を神格化しても、彼の中では、ヒットラーやナポレオンに見られるような「自己肥大化」「自己絶対化」はなかったのではないか?? それでなくては、あの鮮やかな引退劇は起こらないように思う。

 

 

 

 

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アドリア海・岬巡りのバスの旅……アドリア海紀行(6)

2015年12月09日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月27日 

アドリア海へ >

 このツアーに参加した目的は、アドリア海を見たかったから。ツアーのタイトルも「紺碧のアドリア海感動紀行」だ。今日は、そのアドリア海へ向かう。

 「早く紺碧のアドリア海を見たいですねえ」 「でも、紺碧、というのはなかなかむずかしいかもよ」 「よほどお天気が良ければ」 「季節も関係するかもね」 「見られなかったら、運がなかったと潔くあきらめます」 「でも、紺碧、を見られたらいいですねえ」

 独り言のようなわがロマンティシズムが、買い物好きのおばさんたちの中にもすこーしだけ伝染し、「紺碧」が、おばさんたちの旅のボキャブラリーの一つとして使われ出した。

 「紺碧のアドリア海」は、どこに? すでに旅に出て6日目である。雑貨店巡り、チョコレート屋巡りをするために、ここまで来たのではない!! …… などとは、思っても、決して口走らない。だから、おじさん族はやりにくい、と白い眼で見られるだけだ。

       ★ 

 本日のバスの走行距離は約280㌔。走行所要時間は5時間。途中、シベニク、トゥロギールという二つの海港都市を観光するから、宿泊地スプリットに到着するのは、午後6時ごろの予定。

 プリトゥヴィツェ湖群国立公園を出て、山あいの道路を走り、やがて野や畑や林の道路となり、どんよりと曇った車窓の景色にも退屈してきたころ … 高速道路の長いトンネルを抜けると、いきなり、まぶしい光とともに、真っ青な空が広がった。ほどなく、海らしきものが見え始める。

 地図を見ると、ザダルという港湾都市の辺りと思われ、細長く半島が伸び、島々が連なって、海峡のような景色になっている。

       (車窓から)

       ★              

< アドリア海の東岸・ダルマチア地方 >

 クロアチア共和国は、L という文字を上下、ひっくり返したような形をしている。首都のザグレブから西へ西へと行くと、アドリア海に出る。

 アドリア海に出ると、国土は南へ南へと細長く伸びる。この細長く伸びたアドリア海沿岸地域を、ダルマチア地方と呼ぶ。

 海とはいえ、大海原が広がる景色ではない。入り組んだ海岸線に、千近くも島々がある。日本の瀬戸内海に似ているだろうか。

 天候が悪化すれば、島蔭や入江にすぐに逃げ込めるから、古くから天然の良港があった。貿易港である。

 南北に細長いのは、すぐ背後までディナルアルプスが迫っているからである。樹木の生えない、白っぽい岩山の連続で、その向こう、山並みの東側には、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国があり、さらに東にはセルビア共和国がある。

 遠い昔、王国があったらしい。紀元前2~3世紀、その王国は併合されて共和制時代のローマの属州となった。由来、この地に住む人たちの中には、我らは最も早くからローマ文明圏にいた、というアイデンティティがある。もちろん、ここで言うローマとは、後の東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のことではなく、パクスロマーナ時代のローマである。

 4世紀、皇帝ディオクレティアヌスの時代に、ローマは4人の皇帝、副帝によって分割・防衛されることとなり、アドリア海以東は、東ローマ圏に入った。

 476年の西ローマ帝国滅亡後、ダルマチア地方は、侵入してきたゴード族の支配下に置かれるが、535年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が侵攻・奪還する。

 しかし、その後、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)は衰退に向かっていき、この地の防衛に手が回らない。

 7世紀、ダルマチアに、クロアチア人(スラブ系)が移住を始める。

 774年、フランク王国が南下して、ダルマチア地方を支配したが、ビザンチン帝国との衝突を避けて引き上げた。しかし、このとき以来、この地方の住民はカソリック教徒となった。

 「宗主国」は依然として、一応、ビザンチン帝国。宗教的には、山の東側のボスニア・ヘルツェゴビナやセルビアは正教。ダルマチアやそれより北方の地はカソリックとなった。ゆえに、この地方の人々の中には、自分たちはカソリックを信仰するラテン系の民族であるというアイデンティティがある。

 998年、無政府状態になり、スラブ系の海賊が荒らしまわっていたダルマチア沿岸部に、通商国家を目ざすようになったヴェネツィアが乗り出してくる。

 その後は、一時、クロアチア王国が生まれ、その国もハンガリー王国の支配下に置かれ、そのハンガリー王国もまたオスマン帝国に滅ぼされるという歴史の大変動があった。

 が、これらの領土国家や膨張する強大国に対抗して、山の西側の海岸線の主要な港湾都市を、15世紀以降18世紀までの4世紀の間守り続けたのは、「アドリア海の女王」と呼ばれたヴェネツィア共和国であった。

        ★

< アドリア海はヴェネツィアの海だった >

 以下、塩野七生『海の都の物語』(中公文庫)の「第二話 海へ!!」からの引用。

 「航海することによって、豊かになる道が二つある。

 一つは、交易に従事することであり、他の一つは、海賊を業とすることである。

 生まれたばかりの海洋国家ヴェネツィア共和国は、第一の道をとる。となれば、彼らの最初の対決の相手が、ヴェネツィア商船の航行の安全を脅かす海賊となるのは当然である」。

 「海賊にとっては、格好の地形であったに違いない。入り江にひそみ、物見の知らせる商船が近づくや、快速船を駆って襲う。隠れ場所にもこと欠かない。海賊の横行が、アドリア海の西岸ではなく東岸に集中したのも納得がいく。10世紀当時のアドリア海に出没した海賊は、ローマ帝国崩壊以後南下をはじめていた、スラブ民族であった」。

 「西暦998年の5月、キリスト昇天祭の日を期して、37歳になっていた元首ピエトロ・オルセオロ二世は、多数の軍船を率いてヴェネツィアの港を出帆した。行先はザーラ(現ザダル)である。その地には、(海賊から) ヴェネツィア共和国の保護を求めてきた、20以上のアドリア海東岸の都市の代表が、保護を与えられる代わりに恭順と服従の誓いを捧げようと待ち受けていた」。

 (こうして、海賊の掃討作戦は徹底的に遂行される)。

 「この勝利に満足したビザンチン帝国皇帝は、(ヴェネツィアの)元首に「ダルマチアの公爵」の称号を与えて、その労をねぎらった」。

 「ヴェネツィア共和国は、…… アドリア海東岸の諸都市の恭順と服従に、ほぼ完全な自治権を与えることによって応じたのであった。ヴェネツィアの義務は、その海軍によってこれらの都市を守ることであり、それに対する諸都市の義務は、ヴェネツィア商業の基地の提供と、水夫の調達を許すことであった。スキヤヴォーニと呼ばれるこの地方出身の水夫の数は多く、ヴェネツィアの街の港の一つは、『リヴァ・デリ・スキヤヴォーニ』、スキヤヴォーニの河岸、と、現在でも呼ばれている」。

        ★

 こうして、ヴェネツィア共和国は、アドリア海の港湾諸都市に、船の修理工場、倉庫、病院などを造り、要塞を築いて、「高速道路のSA」のようにして、ビザンチン帝国(のちにはオスマン帝国)やエジプトなどとの東方貿易の足場にしたのである。

 ヴェネツィアがダルマチア地方を自国の領土としなかったのは、当時、人口10万人程度の都市国家に過ぎなかったヴェネツィアには荷が重すぎたからである。そのようにして領土国家として発展するよりは、海洋貿易国家として羽ばたく方を選んだのである。

 この後、ヴェネツィア共和国は、地中海貿易の覇権をめぐって、半分海賊国家であったジェノヴァ (あの7つの海を遊弋したイギリス海軍も、元は海賊船の寄せ集めだった) や、強大国・オスマン帝国と、幾度にも渡って戦うことを余儀なくされたが、ヴェネツィアの商船や軍船には、いつもスキヤヴォーニと呼ばれるこの地方出身の水夫たちも乗り、ヴェネツィアとともに戦ったのである。

        ★  

 < 石畳の美しい海港都市・シベニク >

 シベニクは、クロアチアのアドリア海岸のほぼ真ん中にあり、クロアチア人がつくった最古の町とされる。中・近世には、やはりヴェネツィア共和国の支配下にあった。

     ( 海に臨むシベニクの町 )

     ( 海岸通り )

 海岸通りを歩き、右に石段を上がって行くと、聖ヤコブ大聖堂がある。

 

   (聖ヤコブ大聖堂と校外学習に来た子ら)

 シベニクは教会の多い町だが、その中でも「シベニクの宝」とされるのが、ユネスコの世界文化遺産に認定された聖ヤコブ大聖堂。

 1431年から100年以上かけて、当初はゴシック様式で、途中からルネッサンス様式で建設された。レンガや木の補助を全く使わずに建てられた石造建築としては、世界一の大きさを誇る。しかもその石は、イスタンブールのアヤソフィア、ヴェネツィアのドカーレ(元首)宮、そして、ワシントンのホワイトハウスと同じ最高級の石材が使われているそうだ。

 

 ( 教会が多い町 ) 

 古い路地を歩くと、石畳の美しさに気づく。

 ヨーロッパの町を歩くと、すっかり摩耗し、凸凹ができて歩きにくい石畳もあるが、ここはほどよく丸みを帯び、光沢があって、陰影が美しい。

 オスマン帝国の侵攻に備え、ヴェネツィアはこの町を守るために4つの要塞を築いた。その一つ、聖ミカエル要塞はすぐ街はずれにあり、今は廃墟となったこの要塞からの眺望は素晴らしいという。だが、ツアーは、世界遺産の大聖堂を見て、街中をブラブラ歩いたら、おしまい。残念……。

        ★

< 岬巡りのバスの旅

 岬巡りのバスの旅は楽しい。車窓風景に飽きない。

 トゥロギールへ行く途中、綺麗な景色があるからと、バスを駐車させ、しばらく写真撮影の時間をとってくれた。地図を見ると、プリモステンという小さな町のようだ。

 秋の日ははやくも傾き、「紺碧の海」というわけにはいかないが、美しい風景である。

        ★

 < 城壁に囲まれた小島の町・トゥロギール >

  トゥロギールは、本土とチオヴォ島の間にある小島につくられた町である。

 その中心部 (旧市街) は城壁で囲まれ、その中の狭い空間に、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど、さまざまな時代の教会、塔、宮殿、住居がひしめいている。

 街の起源は古い。BC3世紀、ギリシャ人の植民都市としてスタートした。古代ギリシャ、古代ローマ、そして、ヴェネツィア共和国の影響を受けて造られてきた街である。

   ( 本土と隔てる海 )

 運河のような海溝に架かる橋を渡ると、城門があり、旧市街の中へ入る。

  

    ( トゥロギールの町 )

    ( 男性4人のコーラス )

  街角の美しい回廊で、アカペラの男性合唱を聞いた。クロアチアの民俗的なメロディ、古典的で端正な回廊、回廊のもつ音響効果などが相まって、すばらしかった。彼らのCDを買う。しかし、ここで聞くから感動するのだろう。

 写真の、石のベンチに座る2人目のエキゾチックな長身女性は、現地ガイドである。

         ★ 

< 閑 話 >

 歴史的文化遺産や自然遺産は、それぞれの国にとって誇りである。ヨーロッパではどこの国でも、ツアーの添乗員が、「にわか勉強の生半可な知識」や「勝手な思い込み」、時には「反〇的歴史観」で、観光客に説明をすることを、法令で禁じている。(夫婦や友人同士は別)。

 勉強し、試験を受け、資格を認定された専門職としてのガイドがいて、行く先々で彼らを雇い、彼らに案内してもらい、彼らの説明を聞かなければならない。もちろん、ガイドは専門的な知識を持つだけでなく、自分たちの誇るべき文化遺産や自然遺産に対するツアー客のマナーにも注意を払う。行く先々のガイドから、中国人観光客のマナーのひどさ、ガイドのボヤキを聞いた。

 それでは添乗員の仕事はというと、英語で話すガイドの説明を翻訳するのである。もっとも、それぞれのツアーにはそれぞれのツアーの都合 (回りたい場所や時間の制約、ツアー客の興味・関心など) もあるから、ガイドと添乗員の関係は、阿吽の呼吸ということになる。

 日本で、マナーの悪い東アジア系のツアーに、地方の神主さんが激怒しているという話も聞く。ホテルの備品が盗まれるくらいではすまない。下手をすれば文化財が破壊される。日本の歴史や文化についても、どういう説明がされているのかチェック機能もない。「爆買い」ばかり喜んではいられない。 

         ★

  南の城門を出ると、視界が大きく開け、広々とした波止場に出た。

  ( 城門を出る )

 波止場の先には、チオヴォ島があり、橋で結ばれている。

 橋に、釣りをするおじさんがいた。さっきから釣りの仕掛けを作っている。

 

  ( 釣りをする人 )

 すでに日は傾き、西の海の方から降り注ぐ斜光が赤みを帯びている。

     ( 橋からの眺望 )

 波止場を歩いて行くと、ギターを弾くおじさんがいた。こうして、今日一日で、どれほどの収入があったのだろう。

    ( ギターを弾く人 )

 波止場の端に、15世紀にヴェネツィアが築いたカメルレンゴの砦がある。残念ながら、冬時間の今は不定期にしか開けないらしい。

 ( ヴェネツィアが築いたカメルレンゴの砦 )

 秋の日の落ちるのは、釣瓶落としの日本よりも早い。

  ( 黄昏のトゥロギール )

 トゥロギールから、今夜のホテルのあるスプリットまでは、バスで30分少々。

 …… しかし、全身で、その街の空気を感じるには、その街で1泊はしないと…ネ。2時間ばかり、さあっと歩いて、その街を見た、ということにはならないなあ。そう、五感で感じるには、街の夜のにぎわいも味わい、早朝の冷たく、澄み切った空気にも触れることが必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

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プリトゥヴィツェ湖群国立公園の森の中を歩く……アドリア海紀行(5)

2015年11月30日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

 ヨーロッパツアーのなかで、イタリア、フランス、ドイツ、スペイン、スイスなどへのツアーを 「卒業」 した日本人に、今、いちばん人気があるのが、クロアチア・アドリア海方面へのツアーである。

 その人気コースの中で、欠かすことのできない訪問先の一つが、プリトゥヴィツェ湖群国立公園。

 もう一つのハイライトは、「アドリア海の真珠」と言われるドゥブロヴニク。私のお目当てはこちらの方。

 それはともかく、この国立公園の、ブナとモミにおおわれた広大な森の中には、大小16の湖と92の滝がある。

 最も高い位置にある湖と、一番低い位置にある湖の標高差は500m。その間を階段状に92の滝が結んでいる。チョウや小鳥、コウモリ、清流に泳ぐ魚、何と!! ヒグマまでいるそうだ。

 1979年、ユネスコの世界自然遺産に登録された。

 広大な自然公園のなかの森と湖と滝の間を縫うように、ハイキング用の小道が整備され、徒歩以外には、エコロジーバスが上部と下部を、遊覧船が大きな湖の渡し場と渡し場を結んでいるだけだ。

        ★

 公園内のホテルに2泊し、朝の9時から夕方の4時過ぎまで、この自然の中を歩いた。美しく色づいた森の葉に、目が黄色くなった。

 お年寄りも、肥満した人も、足腰の悪い人も、付いて歩ける速さで、ゆっくり、ゆっくりと。

 午前は曇っていたが、午後はすっかり晴れ渡って、木々はすっかり秋の色、水はエメラルドグリーンに澄んでいた。

 自然以外には何もない世界を一日中歩いたのは、若いころ、登山をしていたとき以来だろうか。一日の歩数、15000歩。午後から腰や膝が痛んだが、翌日に持ち越さなかったから、良い運動だったのだろう。

        ★

 さて、たくさん撮った写真のほんの一部を掲載する。

(高台からの景観…連続する滝)

    ( 木の間隠れの滝 )

 

   (水、水、水、地球は水の星)

  

(小道の脇の野の花と清流のカモ)

   ( 大きな湖を渡る遊覧船 )

  (森のはずれにある休憩所の黄葉)

(雨上がりには、増水で通れなくなる遊歩道も)

   ( 澄んだ湖面に黄葉が映える )

       ★

 一昨日訪れた「アルプスの瞳」と言われるブレッド湖 …… 湖の中に小島があり、小島には小さな教会が立ち、教会の鐘の音が湖面を流れ、湖のはずれの絶壁の上には古城が立つ …… あのメルヘンチックな風景こそ…… ヨーロッパ !!

 むき出しの「自然」ではない。ヨーロッパの風土と歴史と文化が作り出した、ヨーロッパ的な自然の景観である。

 湖に浮かぶのは、この地方独特の手漕ぎの舟だけ。

 多くの観光客を受け入れても、別荘やレストランは、風景を損なうようなかたちでは、許可されない。

 「個人の勝手でしょう!!」は、戦後の日本の社会で、子どもの間でさえよく言われた言葉だ。

 しかし、個人主義は、市民精神の上に立脚する。市民精神とは「公」の精神であり、自立した個人が共同体に対して責任の一端を担おうという精神。各自の家の中は、各自の勝手。一歩、家を出れば、そこは、公の場所。個人が勝手にして、良いわけがない。

        ★

 このプリトゥヴィツェ湖群国立公園もまた、同じである。しっかり入場料を取る。そして、人間の歩く遊歩道を効率的に整備し、それ以外には立ち入らせない。公園内のエコロジーバスも、遊覧船も、レストランも、しっかり管理し、生態系を守る。

 例えば、富士山もそのようであってほしい。ゴミの処理や糞尿の処理がきちんとでき、生態系が守れる範囲に入山者数を制限すべきだし、そのために必要な費用は、入山料として取るべきだ。それが、「公」の精神であり、後世への「責任」というものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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内戦による心の傷痕を乗り越えて……アドリア海紀行(4)

2015年11月26日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月25日 

< 冬時間へ切り替える >

 今日は10月の最終日曜日。ヨーロッパ中が、午前0時をもって、サマータイムを冬時間に変える日。旅行中にこういう日に出会うのも珍しい。

 日本との時差は、7時間から8時間に。時計は、どうしたら良いのでしょう? 1時間進める? 1時間遅らせる?

 考えると、頭がこんがらがる。

 正解は、遅らせる!! これで、昨日まで7時半だった日の出が6時半に、日の入りも、18時だったのが、17時になった。

 なにしろ、旅行社から自宅に郵送されてきた日程表にも、1か所ミスがあった。1か所だけだから、かえって気づきにくい。それも、帰りの飛行機の、イスタンブールで深夜に乗り継ぐ日本便の出発時間が、夏時間のままで修正されていなかった。これは結構、ヤバい。

 今日は、首都リュブリャナのホテルに別れを告げ、観光バスで1時間のポストイナ鍾乳洞を見学する。

 昼食後は、国境を越え、クロアチアの山間部にあるプリトビチェ湖群国立公園へ向かう。午後の走行距離は231㌔。約5時間。このツアーで一番長いバスの旅だ。

        ★  

< ポストイナ鍾乳洞を見学する >

 『地球の歩き方』によると、ポストイナ鍾乳洞はヨーロッパ最大の鍾乳洞。毎年50万人の観光客がやってくるそうだ。

 (鍾乳洞の入り口付近はきれいな景色だった)

 見学は、個人やツアーのグループを適当な人数でひとまとめにして、暗い洞窟の中を、ガイドが引率する。見学時間は約90分。日本語のイヤーホーンも渡された。

 まずトロッコ列車に乗って、洞窟の中を2キロほど疾走。

 なかなか爽快で、映画『インディー・ジョーンズ』の1シーンを思い出した。もちろん、この洞窟に聖遺物はないし、聖遺物を横取りしようとする悪漢たちもいない。

 下車後は、洞窟の中を1.8キロ、ひたすら歩く。

 先頭をゆっくりと歩くガイド。その後ろを、写真を撮り、時折はイヤホーンを聞きながら、付いて歩く。

 『地球の歩き方』には、洞窟内の写真撮影は禁止されているとあるが、今はフラッシュをたかなければOK。

 数年くらい前までは、例えばルーブル美術館などでも、世界中からやってきた観光客が (日本人も含めて)、コンパクトカメラでパチパチ撮影し、あちこちでフラッシュが発光した。もちろん、あの「モナリザ」の前でも。当然のことながら係員から鋭い叱声が飛ぶ。それでも、コンパクトカメラをオートでしか扱えない人が多く、係員は一日中、怒っていなければならない。で、寛容なフランスの多くのミュージアムでも、写真撮影が禁止となった。

 それ以前はどうであったかというと、カメラを持って観光しているリッチな旅行者は、日本人だけだった。だから、スリ、かっぱらいに狙われる。時に、重いカメラを持ち、行く先々で撮影する自分の見学スタイルに疑問をもったこともある。手ぶらで、自分の目だけで観光している西欧人を見て、あれが正しい観光のスタイルではないかと……。

 しかし、今、世の中は驚くほどの速さで様変わりした。欧米人の観光客も、最近、ヨーロッパの街角にあふれるようになった中国人観光客も、みんな立派な一眼レフやタブレットを持ち歩き、行く先々で撮影しまくる。国籍・民族を超えて、若いカップルから、写してくれとカメラを差し出されることもよくある。

 現在の高級なカメラは、フラッシュなしでも、感度も良いし、手ぶれもしない。

 さて、洞窟を歩き始めたときは、その規模の大きさに驚いたが、もともと興味のない人間には、しだいに単調になる。そもそもが、奇岩絶景や謎の遺跡を求め、わが目を驚かせたくて海外旅行をしているわけではない。

 最後にまた、トロッコに乗って、地上に出た。

        ★

< 国境の検問所を越える >

 一昨日越えた国境の検問所を、再度、越える。

 出国するスロベニア側は、観光バスの運転手が書類を見せただけで、乗客はバスに乗ったまま通過した。テロリストがいても、出ていくのだから問題ない。入国するクロアチア側は、そうはいかない。検問所の係員がバスに乗り込んできて、一人一人のパスポートをチェックした。

 ところが、──  バスがクロアチア側の検問所に入った途端、ぽかぽかとあまりにお天気が好く、しかも昼食をとってまもなくだったから、それに旅の疲れもあったのだろう、どうしようもないほどの睡魔に襲われ、最後尾の座席を幸いに、パスポートを手にしたまま眠ってしまった。

 呼びかけられて、はっと目を覚ますと、検査官の若者が笑い顔で立っていた。国境を越えるというのに、「平和ボケ」でした。

 スロベニアは1991年に独立宣言し、2004年にNATOとEUに加盟した。2007年には通貨もユーロとなり、シェンゲン協定国にも入った。だから、オーストリアやイタリアからスロベニアに入国するときには、パスポート検査はない。

 一方、スロベニアと一緒に独立宣言したクロアチアは、独立を巡って激しい紛争が勃発した。紛争・内戦は、1995年まで続いた (「クロアチア紛争」) 。

 そのため、NATOへの加盟が許可されたのは2009年、EUへの加盟は2013年。通貨はまだクーナ。シェンゲン協定国に入っていないから、スロベニアとの国境で、パスポート・チェックがある。

        ★

< 「クロアチア紛争」とは、何であったのか >

 1453年、オスマン帝国が、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を亡ぼした。フィレンツェで、ルネッサンスの華が開いたころである。

 1526年、すでにセルビアを併合したオスマン帝国が、破竹の勢いでハンガリー王国も征服する。クロアチアはハブスブルグ帝国の庇護下に入った。

 1529年、オスマン帝国の第1回ウイーン包囲。

 こうしてクロアチアは、16世紀から18世紀の末まで、オスマン帝国とハブスブルグ帝国の激突する、文明の衝突の地となった。

 オスマン帝国は、クロアチア人が逃げ去った土地に、セルビア人など正教徒たちを入植させた。一方、ハブスブルグ帝国も、コソボ地域のセルビア人を国境警備兵として、多数入植させた(「大移住」と呼ばれる)。

 幾世代を経て、オスマン帝国も衰え、ハブスブルグ帝国も弱体化、その間隙を縫って、南スラブ民族という大きなまとまりで、セルビアをリーダーとするユーゴスラビア連邦が誕生した。

 その一番北にあったスロベニアは、13世紀に既にハブスブルグ帝国に併合されていた地域で、その文化的影響が強く、もともとスラブというくくりになじめない。民族的にもほとんどがスロベニア人であったから、ユーゴスラビア連邦が綻びかけたとき、いち早く独立した。

 一方、クロアチアには、人口の25%というセルビア人の入植者がいた。

 彼らは、クロアチアの独立に反対し、セルビアをリーダーとするユーゴスラビア連邦を支持した。

 こうして、今まで隣人として暮らしていた者同士が戦いを始め、クロアチアのセルビア人を連邦政府軍が助けて介入したから、激しい内戦になった。文字通り、昨日まで隣人として暮らしていた者同士が、憎み合い、殺し合った。

 内戦は4年間続き、最後は、総攻撃をかけられたセルビア人30万人が、今まで住んでいたクロアチアから、セルビアやボスニアに難民として脱出するという悲惨な形で、終息した。

 結果的には、一種の「民族浄化運動」ととらえられないこともない。それなら、ナチスと同じだ。しかも、虐殺などの犯罪的行為も多々あった。もちろん、双方に。

 ゆえに、NATOの加盟も、EUの加盟も、容易ではなかった。

 EU加盟の条件として、犯罪行為に対する決着や民族同士の和解が求められた。クロアチア政府は、全面的にこれを受け入れた。

 クロアチアから脱出したセルビア人30万人のうち、すでに半数がクロアチアに戻っている。

 親を殺され、子を殺され、愛する者を殺された、一人一人の心の傷痕 ── 悔しさ、恨み、怒り、憎しみ、悲しみが癒されたわけではない。まだ、20年しかたっていないのだから。

 しかし、岡崎久彦氏が言うように、歴史のくぎりは1世代、20年である。

   ( 無謀な戦争をし、国土が焦土となり、数えきれないほどの若い命を失って迎えた敗戦の日から、東京裁判を受け入れ、講和条約に調印し、経済を復興させ、技術を磨き、ついに新幹線を走らせるようになるまでが、20年である )。

 和解することが、死者への償いである。生きている者同士が許し合うこと以外に、どのような償い方ができるだろう。

        ★

< この旅の目的、ヴェネツィアの海が見えた >

 バスの中、みなさん、午睡に入る。

 しかし、私は旅に出て、乗り物の中で、めったに寝ない。旅は、「点」と「点」ではなく、移動の時間の …… 車窓風景そのものが、旅である。風景には、その国の文化・風土がある。家々の姿や、街のたたずまいや、畑や、森や、山や川や海が、その国を表現している。それを見るために旅をしているのであって、鍾乳洞の中に、スロベニアがあるとは思えない。

   ( クロアチアの田園風景 )

 のどかな田園風景が変わり、車窓右手に、わずかな時間、2度、3度、海が見えた。アドリア海である。午後の日差しの中で、眠るような海。この海が見たくて、ここまでやってきた。

    ( アドリア海が見えた )

 ヴェネツィアの商船や軍船が行き交った海。しかし、歴史を調べれば、もっと近くに、たくさんの悲しみを見てきた海でもある。

 やがてまた、バスはクロアチアの内陸部へ入っていく。

 途中、道路の脇の小さな広場に、内戦時代の遺物が置かれていた。いつかもっときちんとしたミュージアムにするという。

    ( 内戦の遺物 )

 道は田園風景から、奥へ奥へと入って行き、日は沈み、灯のない山道となる。疲れたであろうドライバーのことを気にしていたら、月が出た。驚くほど大きく、明るい満月だ。

 今夜は、プリトビチェ湖群国立公園内の、3軒しかないホテルの一つに泊まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

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「アルプスの瞳」・ブレッド湖を観光する …… アドリア海紀行(3)

2015年11月21日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

「ドナウ川の白い雲」は、今回で、第150号になりました。今まで読んでいただいた方々に、心からお礼申し上げます。人気のブログではありませんが、読んでいただいている方々がいらっしゃるということ ── そのことが、唯一の、そして最大の励みでした。これからも、応援をよろしくお願いいたします。今夜は (も?)、/

   ★   ★   ★

10月24日 のち   

 今日は、午前中に、今、ヨーロッパ観光の中でも人気絶好調、「アルプスの瞳」と称されるブレッド湖を訪問する。午後はスロベニア共和国の首都リュブリャナの見学。

     

   ( ブレッド湖とブレッド城 )

< 小さな共和国・スロベニア >

 スロベニア共和国は、スイスよりもひと回り小さい。

 南側は、昨日、国境を越えたクロアチア共和国。旧ユーゴスラビア社会主義連邦から独立した国の中で、いちばん北に位置する。

 北はオーストリア、西はイタリアと長い国境線を接し、東側をわずかに接するハンガリーも含めて、いずれもカソリックの国。スロベニアもカソリック文化圏に属してきた。ちなみに、旧ユーゴスラビアのリーダー格であったセルビアの宗教は、セルビア正教である。

 それに、スロベニアは (クロアチアも )、社会主義時代から、風光明媚なアドリア海を目指す西側諸国からの観光客を受け入れてきた。何より、経済的に、旧ユーゴスラビア圏のなかでは豊かであった。

 そういうこともあって、1990年には自由選挙が行われた。翌年、クロアチアとともに独立を宣言。クロアチアは苦労したが、スロベニアはわずか10日間のユーゴスラビア軍との戦争を経て、独立してしまった。

 今は、EUに加盟しているだけでなく、旧ユーゴスラビア圏で唯一、通貨もユーロに移行している。

       ★

< 「アルプスの瞳」と呼ばれるブレッド湖 >

 ヨーロッパアルプスは、フランスの南東部、スイス、イタリアの北部に高い峰々を築き、さらにオーストリアの西部からスロベニアの北部に稜線を延ばしている。

 スロベニア北部のアルプス山系をユリアンアルプスと言うそうだ。イタリア、オーストリアとの国境を成す。

 その最高峰はトリグラフ山。標高2864m。そう高くはないが、印象的な山だ。

 スロベニア国旗の中に国の紋章があり、紺碧の空を背景にした白いトリグラフ山と三つの星が描かれている。つまり、トリグラフ山は、スロベニア共和国の象徴である。

 そのトリグラフ山系を湖面に映す、ロマンチックな湖がブレッド湖である。

                    ★

< メルヘンチックな湖の上の教会 >

 首都リュブリャナから、のどかな田舎の景色を楽しみながら、観光バスで1時間。約50㌔。

 あいにくの曇り空だったが、バスを降りると、山々に囲まれた美しい湖面が広がっていた。静寂 ……。

 湖の中に小島があり、その小島はまるで、小さな愛らしい教会を建てるために、太古からそこに存在したかのようである。水に浮かぶ、青い屋根の白い塔が印象的な聖母被昇天教会……このメルヘンチックな教会のゆえに、景色全体が美しい。

 ( 聖母被昇天教会と手漕ぎの舟 ) 

 観光客はみんな島へ渡る。ただし、手漕ぎの舟しかない。昔ながらの手漕ぎの舟は、湖の静寂を保つためである。

 舟を漕ぐ船頭の仕事は、代々引き継がれるそうだ。今、ここは、日本人観光客も含めて人気絶頂の観光地だから、特に夏のシーズンは大いに稼げるだろう。しかし、1艘に10数人乗せて1人で漕ぐのは相当の力仕事である。

 美しい自然の景観や都市の歴史地区の景観を守るという点で、西欧は見事なほど徹底している。何よりも、その方が、そこで暮らす人々にとって誇りとなり、その上、その方が観光客を呼び続けることができ、経済的に地域が長く潤う。

 こういう点、成熟社会に入った日本も、学ぶべきだろう。

 若かったころ、高度経済成長の時代だが、あこがれていた信州の湖に行ったら、観光バスが何台も来ていて 、それは仕方がないとしても、湖畔に土産物屋が並び、大音量で演歌が流され、すっかり興ざめしたことがある。富士五湖も、湖の向こうにそびえる富士山を見に行ったのに、湖の向こうには旅館や飲食店が立ち並んで、わびしい。琵琶湖では水上バイクが暴走している。そのようにして客を呼び込み、仮にいっときの間は儲けることができたとしても、結局、一代もたたないうちに閑古鳥が鳴きだす。しかも、失われた景観、美しかったときのイメージは、もう戻ってこない。

 要するに、自分が生まれ育った国土を愛し、自分の国と郷土の、歴史や文化を大切にせよ、ということだ。そういう心が感じられるところに、結局は、観光客もやってくる。

  

  ( 舟着き場から教会へ上がる石段 )

 小島に着き、舟を降りると、教会の入り口へ続く石段がある。

 このメルヘンチックな教会で結婚式を挙げる花婿は、花嫁を抱いてこの階段を上がらなければいけないそうだ。

     ( 聖母被昇天教会の内部 )

 教会の中に入ると、外からみるよりも小さな教会である。

 現在の教会は、17世紀に土地の領主によって建てられた石造りの立派な教会だが、8、9世紀ころには、今よりもずっと小さく素朴な教会があった。だが、ここには、それよりもさらに遠い昔、まだキリスト教がこの地に及んでいなかったころに、人々が自分たちの神を祀った痕跡も残っているそうだ。ここを祈りの場としたいと思ったのは、キリスト教徒だけではない。

 鐘楼の鐘を衝く順番を待つために並ぶ。添乗員から、心に祈って鐘を鳴らせば願いがかなうと教えられたが、順番を待っている間にすっかり忘れて、ただ鐘を鳴らした。

 それにしても、一神教のキリスト教世界を何度も旅して思うのは、彼らがいかに迷信めいたことが好きかということである。到る所に、願い事をして撫でさすられ、すっかりピカピカになった聖人像の足だとか、頭だとかがある。「ロミオとジュリエット」のジュリエット像の片方のオッパイがピカピカだったり、金具や取っ手や鎖のたぐいもある。西欧人の観光客は、ニコニコ、多少照れながらも、みんなちゃんと撫でていく。もちろん、19世紀にマリアが現れて病を治し、奇跡をおこした泉だとか、そのあとに建てられた教会だとかというのもある。これはもう、迷信ではなく、信仰である。

< ブレッド城から望む「アルプスの瞳」 >

  ( 手漕ぎ舟と岩壁の上のブレッド城 )

  手漕ぎ舟に乗って、もとの舟着き場に戻り、観光バスで断崖の上のブレッド城へ向かう。

 曇っていた空が晴れ、雲一つない青空になった。

  

 

    ( ブレッド城からの眺望 )

  観光バスを降り、石段を少し登ったブレッド城の上は、頑丈そうな城壁と、石造りの建物がいくつかあり、そこは今、ミュージアムやレストランになっていて、 ── 別の建物の中では、修道士が中世風の印刷機で印刷したモノクロのブレッド城の絵や、客の名をその場で印字したワインを売っていた。

 城塞からの、湖の眺めは素晴らしかった

 あまりに好いお天気で、光の量が多く、それに、見た目にはわからないが、湖には靄がかかっているらしく、鮮明な写真が撮れない。

 が、しばらくはただ眺望を堪能した。

 

  ( ブレッド城からの眺望 )

       ★

< 西欧の一員として ── 首都リュブリャナ >

 ユリアンアルプスから南東へ50㌔の盆地に開けた首都リュブリャナ。(この名前は、旅が終わった今も、覚えられない)。人口は27万人。オーストリア・ハブスブルグ家の影響下で発展してきた。

 町の中をリュブリャニツァ川が流れる。川の南東が旧市街、北西に新市街が開ける。

 旧市街を散策する。

 まず、ケーブルカーでリュブリャナ城に上る。

 13世紀初頭にこの地方の領主が築き、その後ハブスブルグ家のものとなった。今は、市が所有。

 一つの建物で結婚式が行われたらしく、着飾った人々が広場に出てきたところだ。

 眺望が良い。

  ( リュブリャナ城からの眺望 )

 町の向こうに、ユリアンアルプスが衝立のように立っている。その向こうはオーストリア。

 首都から見渡せる範囲に国境があるこじんまりした国は、国民が肩寄せ合うようで、落ち着けるかもしれない。

 しかし、あの近さで、ハブスブルグ帝国や、ハンガリーや、オスマン帝国などの大国と接し、圧倒的な大軍をもって侵略・併合された長い歴史を思うと、決して心やすらかというわけにはいかないだろう。その不気味さ、恐怖心は、憲法9条があるから安心と言う日本人には、ちょっとわからない。

 

  ( 旧市街から見上げるリュブリャナ城 )

 

    ( 旧市街の街並み )

  ( リュブリャニツァ川の遊覧船 )

 リュブリャナの旧市街の街並みは美しい。街並みを美しくしようという市民の意志が感じられる。

 それに、パリやミラノの有名ブランド店もあるが、町の職人の手作り、一点ものの店も多い。いつかは、この町から、ブランド商品の発信を。

 リュブリャニツァ川は、旧市街と新市街の間を流れ、セーヌのような滔々と流れる大河ではないが、観光客を乗せて遊覧船が町を巡る。中心部の川岸には、ずらっと飲食店のテラス席が並んでいた。今日は土曜日。若い市民の憩いの場なのだろう。

 西欧の「はずれ」にあって、しかも、或いは、それ故に、おそいスタートを切ったが、それでも西欧都市の一員として価値観をともにしながら、これから伸びて行こうというスロベニアの首都の志を感じた。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

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ちょこっと、クロアチアの首都ザグレブの旧市街…アドリア海紀行(2)

2015年11月14日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月23日(金)  のち

< 西へ西へと飛ぶ……カスピ海も、黒海も横断して >

 前夜、20時30分に関空に集合した。

 22時10分、トルコ航空で出発する。 (定刻より20分も早く出発した!?) 。

 ヨーロッパ旅行で、ヨーロッパ系航空会社以外の飛行機に乗るのは初めてだ。トルコ航空は夜行便である。

 旅行社の企画するヨーロッパツアーに、中東系の航空会社の企画がどんどん増えている。安いし、往復が夜行になるから、観光に効率的なのだろう…?

 ヨーロッパ系の便なら、初め、北西に針路を取り、そのあとは西へ … シベリアの大地の上を延々と西へ飛んで … ウラル山脈を越え、さらに西へ。秋や冬なら日の落ちたアムステルダム、或いは、フランクフルト、或いは、パリ、或いは、ローマへ到着する。

 初めてヨーロッパへ飛んだとき、地図帳で頭の中に形成されている遥かなるユーラシア大陸の上空を、自分が刻一刻と移動していくという、観念と現実の不思議な一致にただ感動したものだ。1万メートルの上空からは、行けども行けども続く寒々としたシベリアの大地や、その大地を巨大なカーブを描いて方向転換するエニセイ河が見下ろせた。

   ( シベリアの大地 )

 トルコ航空は、最初、北西に針路を取らず、夜の大地の上をひたすら西へ西へと飛んで行く。

 中国からモンゴルの上空を通り …… イランの北側、カスピ海の真ん中を横断して ( 昼間、空からカスピ海を見たい! )、北にウクライナ、南にイラクを意識しながら黒海を渡り …… 朝、5時半、イスタンブール空港に到着した。日本とは6時間の時差だから、日本時間なら午前11時半である。

 長い長い夜の旅だが、少しは眠ることができた。

   ★   ★   ★

海外旅行では何が起きるかわからない ! >

 日本国憲法に、「主権を有する日本国民」という表現がある。──  言い換えれば、国境を超えて他国へ入れば、「主権者」としての身分・権利は通用しなくなるということだ。そこが、海外旅行の、「国内温泉旅行」と基本的に違うところだ。「お客様は神様」などと威張れるのは、日本国の中でのことである。そういう海外で自分を保証してくれるものは、日本国政府の発行したパスポートだけ。「地球市民」などという言葉は通用しない。

 と、わかっていても、人はミスを犯す。長い飛行機の旅のあとは、なおさらである。頭は朦朧、夢うつつである。

 沖留めの飛行機を降り、バスで空港の建物に移動し、ザグレブ行きに乗り継ぐため、トランスファー用の長い通路を歩いて、セキュリティ・チェックに到達。いよいよパスポートが必要になったとき、ツアー一行の一人の女性が、パスポートの入ったバッグを機内のシートに掛けたまま忘れてきたと言い出した。

 人ごとながら絶句した。

 これがもし個人旅行で、自分がパスポートを置き忘れてきたとしたら、その場で旅行の継続を諦めるだろう。旅行は断念し、腹を据えて、目の前のこと、まずは最寄りの空港事務所の係員に忘れ物を探してほしいと、身振り手振りも総動員して訴えるしかない。そのあとのことは、あとのことだ。

 添乗員のSさんは、乗り継ぎの時間内に、見事に見つけてきた。

 関空発の飛行機の乗客の多くは日本人だから、その点、安心である。後から降りる誰かがバッグに気づき、乗務員に届けるだろう。誰も気づかなくても、バッグはずっとそこにあり、最後に点検する乗務員が発見するだろう。日本語を話せる女性乗務員がいた。ちょっと会話したが、心優しい、日本大好きのトルコ人女性だった。乗務員は、落し物として、空港の「しかるべき事務所」に届けるに違いない。

 以上のことを信じて、Sさんとしては、空港内の最寄りの事務所の係員に訴え、つまりバッグにはパスポートが入っており、乗り継ぎの時間が迫っていると説得して、係員を本気にさせ、電話、或いは、パソコンで、落し物が届いているかどうか、どこで保管されているかを探してもらう。(そのとき、係員たちを忙殺させるような、何か事が起こっていれば、万事休すだ。個人的事情は後回しにされる)。そうして、どこにバッグが届いているかがわかれば、落し主を連れて広大な空港内の当該事務所にたどりつき、所定の手続きを踏んで、返還してもらう。 

 Sさんはかなりのベテランの添乗員であるが、それにしても、なかなかのものであった。コミュニケーション能力もさることながら、経験と、何よりも根性。

    ★   ★   ★

< ザグレブの旧市街を歩く >

 10時5分、クロアチアの首都ザグレブに到着。日本との時差は、トルコよりさらに1時間遅れて7時間。日本はすでに17時5分だが、今日の活動はこれから始まる。

 お天気は、あいにくの曇天。日本より10℃低いとされるザグレブのこと、防寒対策はしてきたが、それにしては暖かい。

 観光バスに乗り、空港からザグレブ市内へ。

 現地ガイドと落ち合い、添乗員に連れられて、レートが良いという街の中の両替所で、日本円からクロアチアのクーナに両替する。1クーナは約18円。

 それから、街の中のレストランで、みんなで昼食。一行の初顔合せである。

        ★

 ザグレブ市は今は大きく発展しているが、旧市街は緩やかな丘の斜面に開けて、東西が約1.3キロ、南北に約0.8キロ。日曜の散歩で歩く程度の広さだ。

 『地球の歩き方』によると、その小さな旧市街の東側は、11世紀にカソリックの司教座として建設されたカプトル地区で、西側は、13世紀に商工業の町として開かれたグラデツ地区。歴史的に起源の異なる二つの地区が一つになって、小さな旧市街を形成している。

 旧市街のある丘の南の麓にイエラチッチ総督広場があって、伝統的な美しい建物に囲まれている。町の人々が落ち合う場所としてよく使われるそうで、言わばザグレブのヘソ。ここから南には、賑やかな新市街が大きく広がっている。

          ( イエラチッチ像 )

        ★   

 観光はこのイエラチッチ総督広場からスタートした。

 カプトル地区の方へ少し上がって行くと、青果市場があった。ヨーロッパの町はどこでもこうした市が立つ。新鮮な野菜や果物が山盛りに盛られて売られていた。         

 

    ( 青果市場 )   

        ★

 青果市場からさらに丘を上がると、聖マリア被昇天大聖堂の西正面の広場に出る。 

 旧ユーゴスラビアの統一のくくりは、南スラブ民族というくくりである。それが、今では、6つの共和国と2つの自治州に分裂した。スラブ民族というくくりが、民族のくくりにはならなかったということである。実際、スラブ民族と言っても、遠い過去の言語の名残りがわずかに共通して残っている、というに過ぎないらしい。言語以外の、一般に民族を規定する歴史的・文化的・宗教的土壌はかなり違う。

 例えば、宗教だけでも3つの宗教がある。カソリックと、ギリシャ正教と、イスラム教である。

 スロベニアやクロアチアは、その昔、フランク王国のカール大帝の時代にカソリックを受け入れ、その後、ビザンチン帝国 (ギリシャ正教が国教) の政治的・文化的・宗教的影響もあったし、オスマントルコの侵略も受け、人々も流入したが、わが民族は、本来、少しだけスラブの血を引くラテン民族である、という意識が強かった。

 当然、民族運動や独立運動において、カソリック教会は心の砦となってきた。

 そういうクロアチアを象徴する教会が、カブトル地区の聖マリア被昇天大聖堂である。大聖堂は、司教座の置かれた教会で、13世紀ごろに建てられ、19世紀の大地震後、外観はネオゴシック様式で修復されたから、まだ新しい。

  

(聖マリア被昇天大聖堂の西扉口)

 燭台の灯された聖マリア被昇天図の前には、社会見学の児童たち。

 

   (聖マリア被昇天図の前の子どもたち)

 ヨーロッパのどこの町でもよく見る光景であるが、小さいときから、静粛にしなければならない時と場があることを学ぶのは、大切なことである。日本では、親が、子どもの授業参観で私語して、授業を妨害するらしい。

        ★

 坂を上り、西へ向かうと、商工業の町として建設された、しかし今は古都の風情の、グラデツ地区に入る。

 この地区の中心は、屋根のモザイクが印象的な聖マルコ教会。

    ( 聖マルコ教会 )

 屋根の二つの紋章は、左側がクロアチア王国とダルマチア地方とスラヴォニア地方を表す紋章で、これらを併せて、現在のクロアチア共和国がある。右側はザグレブ市の紋章。

 聖マルコ教会も19世紀に改築されているから、紋章は19世紀の民族意識の高揚を表すものであろう。

 教会の右側の旗の見える建物は国会議事堂、左側の門に旗が掲げられた赤い屋根の建物は首相官邸である。

         ★

 聖マルコ教会からグラデツ地区の通りを下って行くと、ギリシャ正教の美しい教会もあった。

   (ギリシャ正教の教会のあった)

 道端で、民族衣装を着た娘さんが、民芸品のお土産を売っている。ザグレブ市のPRガールだろうか ?  

 

   ( 民族衣装の若い女性 )

 「お土産を買わなくても、写真を撮ってもらって構いません」と、笑顔で言ってくれるから、立ち止まって、みんな、パチパチ写真を撮り、彼女と並んで写す人も。ちゃんとポーズを取ってくれる。……で、 遠慮深く、遠くから1枚。

    ★   ★   ★

< 撮影はだめよ‼ >

 小じんまりした旧市街を一巡し、イエラチッチ総督広場に戻って、しばらくの自由時間のあと、観光バスに乗車した。

 クロアチアの首都を見た、とは言えない。旧市街の、ごくサワリを垣間見た、ということか。

 だが、旅は続き、予定では、今日のうちに北の隣国スロベニアの首都に行かなければならない。

 首都ザグレブから、首都リュブリャナまで、観光バスで約3時間。国境を超えて、3時間で首都から首都へ。近い。これがヨーロッパだ。

 途中、林や畑や野の広がる高速道路に、国境の出入国検査場が、料金所のようなたたずまいで、あった。空港のパスポート・チェック、鉄道駅のパスポート・チェックは経験があるが、道路は初めての経験。

 バスを降り、徒歩でクロアチアを出国し、スロベニア側で、今度は入国検査を受ける。

 一行を待っている間に、検問所の写真を撮ろうとしたら、添乗員のSさんに制止された。「写真機を没収されますよ」。そうだった。どこの国であろうと、許可なく国家権力に向けてカメラを構えてはいけない。

 それに、この国の「主権者」ではないのだから、何かあれば、国家間の問題になる。

 

   (車窓風景: スロベニアの田園風景)

 ザグレブでは曇天だったが、すっかり晴れ渡った。山 (丘) があり、緑が豊かで、スロベニアの田園風景はのどかである。

 日本でも秋の日は釣瓶落としと言うが、ヨーロッパの秋の日暮れは、日本よりさらに早い。日が暮れて、スロベニアの首都リュブリャナに入った。

 関空を出てから長い1日だった。やっと風呂に入り、ベッドで横になれる。

 

                 

 

 

 

 

  

 

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「ヴェネツィアの海」へ……アドリア海紀行(1)

2015年11月08日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

イビチャ・オシム氏へのインタビュー  2015年7月10日

 「今でも時々夢を見るんだ。健康を取り戻して、またベンチに座っている夢だ。 (夢の中で) 志半ばで断念した監督業を、もう一度やり直そうと意気込んでいる‥‥」

        ★

  サッカー元日本代表監督は、今、故郷のサラエボにいる。サラエボは、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都である。

 日本人記者の質問に、彼らしい独特の含蓄ある言葉遣いで、現在の日本代表チームにエールを送り、評価し、また、忠告もする。上の引用は、そのインタビューの終わり近くに、ふと出た言葉である。

 功成り、名遂げたサッカー人生のように思える老将オシムの、インタビューの終わりに思わず出た言葉に、胸を打たれた。

 「見果てぬ夢」……。どんな賢者も、老いてなお、悟ったりはできないものだ。

(車窓風景: ボスニア・ヘルツェゴビナの山河)                             

    ( サラエボの街)

        ★

 1990年代、旧ユーゴスラビアでは民族紛争が勃発し、すさまじい内戦になった。昨日までの隣人が敵となり、憎しみと銃弾と多くの涙。

 私が初めて研修視察旅行でドイツ、フランスを訪ねた1995年、ドイツやフランスの地方の小さな町でも、数家族ずつといった単位で、ユーゴスラビアからの難民家族を受け入れ、或いは、受け入れる準備をしていた。差別を感じさせてはいけない、温かく迎え入れよう、という気配りと緊張感が、市や学校の当局者に感じられた。私たちの歓迎レセプションで、フランス側の代表のスピーチの一部を今も記憶している。「日本の皆様、誤解しないでください。フランス人、というが、フランス人という人種はいません。ここにいる〇〇氏はユリウス・カエサルに似ているし、△△氏はポーランドの大統領ワレサ氏にそっくりだし(会場から笑い)、ミセス××はサッチャー首相を思わせる。ヨーロッパ人は交じりあって生きてきたのです」。

 この内戦によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は崩壊し、6つの共和国と2つの自治州に分裂した。今回の旅行で垣間見たオシムの故郷、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国も、今はすっかり落ち着き、イスラム教徒とキリスト教徒が共存しているように見えた。

 イビチャ・オシムは、ユーゴスラビアの代表選手として、1964年の東京オリンピックに出場した。キャンプを張った町で、見知らぬ日本人のお婆さんから1個の梨をもらって、何という愛すべき人々だと、日本人が大好きになった。まだ日本も国際化にはほど遠かった時代で、しかも190センチの大男の外国人に親しく寄って来て、梨をくれたと言う。青年時代にもらったたった1個の梨のことが、74歳の今も、鮮明な記憶として残っている。

 やがて監督となり、ユーゴスラビア代表チームを率い、世界の強豪国へと羽ばたかせた。が、激しい内戦が勃発し、代表チームも解体してしまう。

  ( クロアチアで見た内戦時代の遺産 )

 時を経て、思い出の残る日本に呼ばれ、Jリーグの監督として手腕を発揮した。

 日本サッカー協会はその哲学者のような知性と実践に裏打ちされた深い洞察力と手腕に惚れ込み、全日本の監督を依頼した。が、残念なことにまもなく、病に倒れた。

 大学生時代、教授から数学の研究者になれと勧められた。プロのサッカー選手にならなければ、大学で数学教授をやっていただろうという。頭の良い人なのだろう。

 短い期間であったが、彼ぐらい深い洞察力をもって、日本サッカーの進むべき方向、その戦略と戦術を指し示した監督はいない。それは、ラグビー界のジョーンズヘッドコーチに匹敵すると言ってよいだろう。日本人らしい俊敏さと、90分間走り続けるタフネスさを土台とした、クレバーな「日本サッカー」を目指した。

 彼が病に倒れたあと、日本サッカー協会は、監督とその夫人に手厚く対し、礼を尽くした。

 ちなみに、現在のハリルホッジ日本代表監督もまた、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身者である。サッカー選手を引退して故郷で暮らしていたとき内戦が起こり、その渦中にあって多くの人々を助け、援助し、自身も無一文になり、かろうじて生き延びたという経験を持つ。

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 「紺碧のアドリア海感動紀行」という大手旅行社の主催するツアーに参加した。

 旧ユーゴスラビアから独立した6つの共和国のうちの3つ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを通るツアーである。旅の間、自ずから内戦時代のことも聞き、またその痕跡を目にすることもあったが、今は分裂の結果、それぞれがおさまるべき場所におさまったという感じで、落ち着いているように見えた。

 ところで、私の旅の目的は、民族紛争・内戦のことではない。

 その昔、10世紀の終わりごろから16、17世紀まで、アドリア海は「ヴェネツィアの海」であった。ヴェネツィアの商船や軍船が行き交ったアドリア海を自分の目で見たかったということである。海に文化遺産はなく、海は海に過ぎないのだが、そこには目に見えぬ物語がある。

 なぜヴェネツィアにこだわるのかと言えば、西欧史の中で、ヴェネツィアの歴史がいちばん好きだからである。

 イギリスやフランスやオーストリアなどのような王・貴族と農民という一方的な支配・被支配の関係によって成り立つ封建国家でもなく、フィレンツェのように一見、民主的に見えるが、市民同士の利己がぶつかり合い、絶えず政変・クーデターが起きる内紛の都市国家でもなく、ヴェネツィア800年の歴史には、市民精神(共同体精神)と、時代をタフに乗り切るリアリズム精神が貫ぬいているように思える。

 参考: 塩野七生の次の諸作品

 『海の都の物語上・中・下』(新潮文庫) / 『コンスタンティノープルの陥落』 『ロードス島攻防記』 『レパントの海戦』(以上、中公文庫) / 『緋色のヴェネツィア』 『銀色のフィレンツェ』 『黄金のローマ』(以上、朝日文芸文庫)

 個人旅行ではなく、ツアーに参加したのは、この地方は鉄道が発達しておらず、長距離バスでの移動には不安があったことと、シリアの難民問題による不測の事態を考えたからである。

        ★

 日程は、次のようであった。

10月22日(木)  夜、ターキシュエアラインズで出発

10月23日(金) 早朝、イスタンブールで乗り継ぎ、午前、クロアチアの首都ザグレブに到着ザグレブ観光。その後、観光バスで、スロベニアの首都リュブリャナへ。(泊)

10月24日(土) ブレッド湖観光リュブリャナ観光。 (リュブリャナ泊)

10月25日(日) ボストイナ鍾乳洞観光。その後でクロアチアに戻り、プリトビチェ湖群国立公園へ。(泊)      

10月26日(月) プリトビチェ湖群国立公園観光。(プリトビチェ湖群国立公園泊)

10月27日(火)  でアドリア海に出て、途中、シベニク観光トロギール観光をして、スプリットへ。 (泊)  

10月28日(水) スプリット観光。その後、でドブロブニクへ。 (泊) 

10月29日(木) ドブロブニク観光。 (ドブロブニク泊) 

10月30日(金) で、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ空港へ向かう。途中モスタル観光サラエボ観光。その後、サラエボ空港からイスタンブールへ向かう

11月1日(土)   イスタンブールで乗り継ぎ、夕方、関空着。

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 ツアー名は「紺碧のアドリア海感動紀行」であるが、実際は、クロアチア共和国の内陸部や、スロベニア共和国の内陸部を観光し、最後はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国に入るから、アドリア海を見るのは3日間だけである。

 が、それでも、今、日本で大人気のアドリア海~クロアチア~スロベニアを巡る数あるツアーの中で、日程にゆとりがあり、ドブロブニクにも2泊する、ベターな行程のツアーを選んだ。

 とにかく、年を取って、日程ぎゅうぎゅう、朝早くから夜遅くまで、観光バスに乗り続け、あわただしく見て回る「駆け足観光」は、御免である。 

 

 

 

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