(スキアヴォーニ河岸とドゥカーレ宮殿と鐘楼)
遥々とイスタンブール、黒海から帰ってきた商船も、エジプトのアレキサンドリアでモーロ人を相手に商取引をしてきた商船も、船上から感無量の思いでこの美しい都を眺め、サン・ザッカーリアの港に入港したことだろう。
私たち現代の観光客も、水上バス(ヴァポレット)の駅「サン・ザッカーリア」で下船する。たとえ「水上バス」であろうと、観光客は海からサン・ザッカーリアの埠頭に上陸して、観光を始めるべきなのだ。なぜならここがヴェネツィアの正門なのだから。
下船して、対岸のサン・ジョルジョ・マジョーレ島の一幅の絵のような景色をカメラに写し、スキアヴォーニ河岸をしばらく歩くと、水際に2本の石柱が聳えている。そこを右に入ればピアツェッタ (サン・マルコの小広場)。この小広場がヴェネツィアの玄関口に当たる。
(ピアツェッタ = サン・マルコの小広場 )
小広場に入れば、右に華麗なドゥカーレ宮殿があり、左前方にはレンガ造りのサン・マルコの鐘楼。そして、その先に、「世界で最も美しい広場」と言われるサン・マルコ広場が現れる。
この石畳を敷きつめた広場がヴェネツィアの表座敷・客間である。
ヴェネツィア共和国の政治の中心であるドゥカーレ宮も、宗教的権威であるサン・マルコ寺院もここに並び建っている。
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3月9日。終日、ヴェネツィアを見学。
春の訪れにはまだ少々日数がかかりそうな、曇天の寒々としたヴェネツィアだった。
ホテルから歩いて5、6分の「カ・ドーロ」駅から水上バスに乗船。何はともあれサン・マルコ広場へと向かう。今回は4回目のヴェネツィアだから、もうあれやこれやと見て回ることはしない。「アドリア海の女王」に再会・謁見できたら、それでよいのだ。
「サン・ザッカーリア」で下船する。
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<共和国政治の中心・ドゥカーレ宮殿>
「大聖堂の隣にそびえ建つゴシック様式の壮麗な建物は総督府、…… ヴェネツィア共和国の権力はここに集中している」。
「国家元首に当たる総督(ドージェ)の権威は絶対化され神秘化され、その地位は象徴化されて、フィレンツェの正義の旗手のようにあれこれのボスに顎で使われることはない」。
(だが、)実権は …… 元老院が、外交、内政、通商、国防に関するいっさいの問題を取り仕切り、その下に置かれた政府諸機関 …… 中でも『十人委員会』と称する公安・情報組織は強力だった。」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』中公新書)。
ちなみに元首(ドージェ)は、元老院と大評議会の投票によって選出された。若い頃から才覚を発揮し、元老院に所属するさまざまな政府機関を歴任して、内政、軍事に活躍。長い経歴の中では、戦いの指揮官として修羅場をくぐり、或いは、在オスマン帝国ヴェネツィア大使として、かの国のスルタンや宰相と渡り合うなどの経験も積んできた。つまり、ヴェネツィアの国益のために長年尽くしてきたヴェネツィアの顔ともいうべき人物が選ばれた。任期は終身。残りの人生を元首として、このドゥカーレ宮殿に住み、元老院や十人委員会を運営。諸外国の大使に謁見もし、町中を挙げての祭の主役も務めた。
(船上から見るドゥカーレ宮殿)
ドゥカーレ宮殿 (パラッツォ・ドゥカーレ) の開館は9時。少し時間があったから、サン・マルコ広場の周辺を歩く。
ゴンドラ乗り場のあるオルセオロ運河に行くと、大学生くらいの年齢の中国人の女子たちが大きな声ではしゃぎながらゴンドラに乗り込んでいた。ヴェネツィアも様変わりし、中国人観光客が押し寄せる時代になったようだ。
9時になり、ドゥカーレ宮殿へ。
中庭から入り、「黄金階段」を上がって、4階から下の階へと見学しながら進んで行った。
広大な大評議会の部屋や歴代ドージェの肖像画が並ぶ部屋などに、ティントレット、ティツィアーノ、ヴェロネーゼなどルネッサンス以後のヴェネツィア派の巨匠の描いたヴェネツィアの歴史を語る大壁画や宗教的な天井画があり、抑制された豪華さがあった。
今回は、初めて溜息橋を渡り、政治犯を幽閉したという石牢にも行ってみた。
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<聖マルコの遺骸を納めるサン・マルコ寺院>
ヴェネツィアに来た以上はと、ヨーロッパ最古のカフェ「カフェ・フローリアン」に入ってひと休みし、温かいコーヒーを飲んで暖をとる。
そのあと、サン・マルコ寺院へ。
ヴェネツィアの政治の中心がドゥカーレ宮殿なら、宗教の中心はその北に隣接するサン・マルコ寺院(パジリカ・ディ・サン・マルコ)である。
「もともと総督の私設礼拝堂として誕生したもので、アレキサンドリアからこっそり盗み出した聖マルコの遺骸をここに運び、守護聖人を祀る、街の宗教中心とした」。
「ローマの法王庁とつながるカテドラルは、街の東側のカステッロ地区のはずれにあるサン・ピエトロ教会に追いやられていた」。
「こうして政治的にばかりか、宗教的にもヴェネツィア共和国の自由と独立が獲得されたのである」(以上、陣内秀信『ヴェネツィア ─ 水上の迷宮都市』講談社現代新書)。
過去のヴェネツィアへの旅では、サン・マルコ寺院は日曜のミサの最中で入場できなかったり、観光客でいっぱいで落ち着いて見学できなかったりした。今日、初めて丁寧に見て回ることができた。それだけでもヴェネツィアを再訪した甲斐がある。
上に引用した「アレキサンドリアからこっそり盗み出した聖マルコの遺骸をここに運び、守護聖人を祀る、街の宗教中心とした」とは、どういうことか??
── 初期キリスト教の中心地は、ローマとエジプトのアレキサンドリアだった。第1回公会議で、イエスは神か人かを論争した神学者のアリウスとアタナシウスも、アレキサンドリアの神職だった。
しかし、7世紀の初めにアラビア半島で興ったイスラム教は、燎原の火のように中東からアフリカ大陸北岸の地中海世界を席巻していき、アレキサンドリアもたちまちイスラム勢力の支配下に置かれた。
828年、2人のヴェネツィア商人が船を仕立ててアレキサンドリアに商売にやって来た。2人は街で、スルタンが宮殿を拡張するため周辺の建物とともに聖マルコの遺骸が安置されているキリスト教の教会も取り壊そうとしているという情報を耳にした。
聖マルコは新約聖書の「マルコによる福音書」の記者で、カソリック世界では12使徒に匹敵する聖人中の聖人である。
2人は教会の僧たちを説得して、遺骸を譲り受けた。しかし、港では役人たちの検査がある。2人は聖マルコの遺骸の上に、イスラム教徒が忌み嫌う豚肉の塩漬けを山のように置き、一番上には茹でた豚の頭を乗せて運んだ。港の役人たちは、中身が船旅の食料となる豚肉と聞き、ろくに調べもしないで船に乗せることを許可した。
カソリックの国では、各都市も、各同業組合も、各家も、それぞれ自分たちの守護聖人を祀っている。敗戦後、日本人は八百万の神を拝むとバカにした欧米人や西洋かぶれした日本人がたくさんいたが、カソリック圏を旅すると、何だ、おまえたちこそ、八百万の神々ではないかと言いたくなるほど、行く先々で聖人を祀り、今日は○○聖人の日、明日は△△聖人の日と、カレンダーは埋め尽くされている。
それはともかく、…… 聖マルコは聖人中の聖人である。ヴェネツィアでは、この2人の英雄を歓呼で迎えた。
そして、これまでヴェネツィアの守護聖人であった聖テオドーロはナンバー2に格下げされ、聖マルコが第一守護聖人となった。
その聖マルコの遺骸を納めるために建てられた聖堂が、サン・マルコ寺院である。バチカン立でも国立でもない。もともと、時のドージェ(元首)が私費を費やして建てたパジリカである。
かくして聖マルコを表徴する有翼のライオンはヴェネツィア共和国の国章となり、国旗に描かれ、ヴェネツィアの全ての商船や軍船の上に翻るようになった。ヴェネツィアの船が行く港々にも、大使館にも、有翼のライオン旗が翻る。
こういうわけで、聖マルコの遺骸を祀るサン・マルコ寺院は、ローマ教皇派遣の司教がいるカテドラルなどよりも人々の信仰を集めたのだ。その結果、ヴェネツィア人はカソリック教徒であったが、教皇様の下知よりも、まずはドージェや元老院の決定の方を優先したのである。
ヴァチカンが異端としたガリレオの主張もヴェネツィアでは自由に印刷・販売された。魔女狩り裁判がヨーロッパを席巻した時代もあったが、ヴェネツィアで魔女として処刑された人は1人もいない。
── さて、サン・マルコ寺院でいちばん大切な所は、聖マルコの遺体が納められているという中央祭壇である。「うん。ここか… 」。もちろん敬意をもって対するが、そこに本当に聖マルコの遺骸があるのかどうか、不信心の私は心に確信はもてないでいる。
入場料を払って、その光背を飾るパラ・ドーロも拝観した。ビザンティンの職人たちを呼び寄せて作らせたビザンティン美術の傑作で、1927個の大きな宝石を散りばめた宝物は、決してけばけばしくなく、気品があった。
入場料を払って、2階にも上がって見学した。
4頭の青銅の馬は、第4次十字軍のとき、コンスタンティノープルの古代競馬場にあったものを、ドージェのダンドロが持ち帰ったもので、BC2~4世紀頃の作品だという。
(4頭の馬のブロンズ像)
馬の彫像は難しいと言われる。まことに生きた馬のようで、古代美術の傑作であろう。
2階からは、天井や壁のモザイク画がよく見えた。総面積4000㎡というモザイク画の金泥地に描かれた赤や青の色彩は豪華で美しい。
(壁面を飾るモザイク画)
ゲルマン民族が侵攻し、西ローマ帝国が滅んだ後の中世前期(5~11世紀)の西ヨーロッパは、経済力も、文明・文化の上でも停滞・後退の時代だった。東ローマ(ビザンティン)帝国やイスラム圏の方が、科学技術、学問、文化の水準において圧倒していた。西ヨーロッパに大きな変革が起きるのは12世紀である。
ヴェネツィアは商取引の上でビザンティン帝国(その後はオスマン帝国)との関係が深く、早くからビザンティン文化やイスラム文化に触れていた。
5つのドームのあるサン・マルコ寺院の建築様式も、内部を飾るモザイク画をはじめとする装飾の数々も、すべてビザンティン風である。
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<サン・マルコ寺院のバルコニーから>
サン・マルコ寺院の2階のバルコニーからの眺望は素晴らしい。
サン・マルコ広場が見下ろせた。
写真は「カフェ・フローリアン」に向き合う「カフェ・クアードリ」の側だ。
石を敷きつめた広場にはテラス席が並べられ、数百羽の鳩が舞い上がり、舞い降りる。しかし、この日、早春のヴェネツィアの空は曇り、気温は低く、カフェ・テラスに人影はない。
(サン・マルコ広場)
「列柱の巡る回廊形式の広場というのは、ルネサンスになると各地に登場するが、この時代(12世紀)のヨーロッパには他に類例がなかった」。
「アーチのある回廊状の広場は、考えてみると、イスラム都市のモスクやキャラバンサライの中庭のつくり方ともよく似ている。…… 路地が複雑に入り組んだ迷路状の商業空間から、幾何学的に造形された輝くサン・マルコ広場に入る空間体験そのものが、迷路状のバザールから見事な幾何学的秩序をもつモスクなどの中庭空間に入るときの体験と、実によく似ているのである。建築の様式のみか、空間の形式がオリエンタルなのだ」(陣内秀信『ヴェネツィア─水上の迷宮都市』)
バルコニーから、ヴェネツィアの玄関口であるピアツェッタ (サン・マルコ小広場) も見えた。
小広場の水際には、12世紀にギリシャから運ばれてきた2本の石柱が聳えている。その石柱の上には、ヴェネツィアの守護聖人である聖マルコを表徴する有翼の獅子の像。もう一本にはヴェネツィアの第2聖人である聖テオドーロの像。
(サン・マルコ小広場の2本の巨柱)
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<サン・ジョルジョ・マジョーレ島の鐘楼>
ジューデッカ運河に臨むザッテレのレストランで昼食。
食事の後、水上バスでサン・ジョルジョ・マジョーレ島に渡った。
サン・マルコ側から見るサン・ジョルジョ・マジョーレ島の風景は、ヴェネツィアには欠かせない景観である。
(サン・ジョルジョ・マジョーレ島)
サン・ジョルジョ・マジョーレ教会に入る。
内部は晴朗で、すがすがしい。ルネッサンス的である。明るく、開放的だが、キリスト教会としての品格を少しも損なうものではない。
フランスのロマネスクやゴシックの大聖堂の中に入ったときの、外界から遮断された、暗く、宗教的・瞑想的な空間とは、全く対照的であると感じた。
敷き詰められた小石を踏み、杜の中に小鳥の囀りを聞き、頭上の葉のそよぎに微かな風を感じる、日本の神社の清々しさに似ていると思った。
あちらこちらにヴェネツィア派の巨匠ティントレットの絵が掲げられている。
エレベータで鐘楼に上がることができた。
イタリアでは、なぜか、礼拝堂と、鐘楼と、洗礼堂とが別々の建物として造られる。
鐘楼の上からは、対岸のドゥカーレ宮殿、サンマルコ広場とその鐘楼、そして、ヴェネツィアを構成する小さな島々などが、潟の広がりとともに180度の展望で見渡せた。
(ジューデッカ運河と大運河が合流して広がる)
(ジューデッカ運河)
西ローマ帝国の滅亡後、452年にアッティラに率いられたフン族がヨーロッパを荒らした。この辺りにすむ一部の人々は海へ逃げ込んだ。そこは、潮位が上がると水面すれすれになる低湿地で、草が茫々と生えていた。
危機が去った後、人々はそこに無数の丸太を打ち込み、その上に石を敷いて小島を造り、その土台の上に、広場や教会や家々を造って一つのコミュニティとした。
アッティラ以後も、人々の移住は約200年に渡り、何回にも分かれて行われた。島々は、寄せ木細工のように広がっていった。
8年前にヴェネツィアを訪れたときは、運河を隔てた向かいのサンマルコ広場の鐘楼に上がった。6月のヴェネツィアは日差しが強く、水がきらめき、広大な潟の中にサン・ジョルジョ・マジョーレ島が小さく見下ろせた。
今日、春にはまだ遠いヴェネツィアの塔の上は、風が強く、寒くて、長く眺望を楽しむことはできなかった。
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<装飾的に変貌したリアルト橋>
再び水上バスに乗り、ジューデッカ運河回りでローマ広場まで行った。ジューデッカ運河は大運河(カナル・グランデ)より広々として、家並みは庶民的になり、景観に鄙びた趣がある。
ローマ広場からは、大運河を下り、リアルト橋へ向かった。
リアルト橋は、壮麗な大理石の太鼓橋である。
かつては跳ね橋で、下を商船が通過していた。しかし、商船が大型化して大運河に入って来なくなり、16世紀の終わりにはこの街を飾る大理石の石橋に変貌した。ヴェネツィアは徐々に観光の街に変貌していった。
橋の上に店が並んでいる。中世の昔はこういう橋が普通だったらしい。
(リアルト橋を渡る)
今もこのようなスタイルを残す橋は、フィレンツェのヴェッキオ橋とドイツのクレーマー橋だけだそうだ。
橋を渡ると魚市場と青物市場がある。
リアルト橋の上から、大理石の欄干にもたれて大運河を眺める。
(大運河を望む)
「大運河沿いには商人貴族の夢のように美しい館が立ち並び、まるで魔法の国に来たかのような幻覚を旅人に与える。華奢な螺旋円柱、薔薇窓を背にした優雅なバルコニー、対に並んだ可愛い小窓 …… ビザンティン、ゴシックの2大様式がここでは完璧に融合し、たぐい稀な美しさをたたえている」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』)。
これらの邸宅を眺めるには、大運河を行く水上バスに乗ればよい。まるでパノラマを見るようだ。しかも、朝に、昼に、夕に、光線の加減で趣を異にする。ヴェネツィア観光は、サン・マルコ広場の辺りをじっくり見学したら、あとは水上バスに乗って景色を楽しみ、写真を写す。1日券を買っておけばとても安上がりだ。
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<邸宅と商館を兼ねたカ・ドーロ>
そういう邸宅の一つを見学しようと、リアルト橋から路地をたどってカ・ドーロへ。宿泊のホテルからも近い。
「カ・ドーロ」とは、金の館の意らしい。その昔、ファーサードの装飾に金泥が用いられていたので、こう呼ばれていた。名門コンタリーニ家の邸宅兼商館として、15世紀に建てられた。
この種の邸宅を「パラッツォ」と呼ぶこともあるが、本来パラッツォ(宮殿)は、ドージェの宮殿である「ドゥカーレ宮殿」のことを指す。貴族らの邸宅は「カ」である。
その当時、このような館の表口は大運河側で、横付けされた商船から、積み荷は中央ホールを通って中庭に運ばれた。そこで荷は解かれて仕分けされ、中庭の奥の倉庫に納められたそうだ。
1階には、そのほか、商談や事務に使われる部屋か幾つかあった。
特別に大切な客は2階、3階に通された。
上階には中央ホールがあり、その左右に家人の使用する部屋があった。
「いちばん見事な建築空間は、2階の中央ホールから大運河側に出た所にあるロッジア(柱廊)だ。…… 主人と来客たちはここで大運河を行く船を眺めながら、歓談したり商談を進めたりしたのであろう」(紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮文庫)。
(カ・ドーロのロッジア)
大運河を行く船からも、さまざまな意匠を凝らした華麗な邸宅を眺め、邸宅のロッジアからも通り過ぎる商船の積み荷や貴族・豪商の乗ったゴンドラが行き来するのを眺めることができた。
この街は、そのようにつくられているのだ。
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その夜は、ホテルでお勧めのレストランを聞いて、近所のバーカリに行った。日本の刺身に似た一品が出され、白ワインが美味しかった。