ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

春まだ遠いヴェネツィア … 早春のイタリア紀行(7)

2020年11月29日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

(スキアヴォーニ河岸とドゥカーレ宮殿と鐘楼)

 遥々とイスタンブール、黒海から帰ってきた商船も、エジプトのアレキサンドリアでモーロ人を相手に商取引をしてきた商船も、船上から感無量の思いでこの美しい都を眺め、サン・ザッカーリアの港に入港したことだろう。

 私たち現代の観光客も、水上バス(ヴァポレット)の駅「サン・ザッカーリア」で下船する。たとえ「水上バス」であろうと、観光客は海からサン・ザッカーリアの埠頭に上陸して、観光を始めるべきなのだ。なぜならここがヴェネツィアの正門なのだから。

 下船して、対岸のサン・ジョルジョ・マジョーレ島の一幅の絵のような景色をカメラに写し、スキアヴォーニ河岸をしばらく歩くと、水際に2本の石柱が聳えている。そこを右に入ればピアツェッタ (サン・マルコの小広場)。この小広場がヴェネツィアの玄関口に当たる。

 (ピアツェッタ = サン・マルコの小広場 )

 小広場に入れば、右に華麗なドゥカーレ宮殿があり、左前方にはレンガ造りのサン・マルコの鐘楼。そして、その先に、「世界で最も美しい広場」と言われるサン・マルコ広場が現れる。

 この石畳を敷きつめた広場がヴェネツィアの表座敷・客間である。

 ヴェネツィア共和国の政治の中心であるドゥカーレ宮も、宗教的権威であるサン・マルコ寺院もここに並び建っている。

        ★

 3月9日。終日、ヴェネツィアを見学。

 春の訪れにはまだ少々日数がかかりそうな、曇天の寒々としたヴェネツィアだった。

 ホテルから歩いて5、6分の「カ・ドーロ」駅から水上バスに乗船。何はともあれサン・マルコ広場へと向かう。今回は4回目のヴェネツィアだから、もうあれやこれやと見て回ることはしない。「アドリア海の女王」に再会・謁見できたら、それでよいのだ。

 「サン・ザッカーリア」で下船する。

          ★

<共和国政治の中心・ドゥカーレ宮殿>

 「大聖堂の隣にそびえ建つゴシック様式の壮麗な建物は総督府、…… ヴェネツィア共和国の権力はここに集中している」。

 「国家元首に当たる総督(ドージェ)の権威は絶対化され神秘化され、その地位は象徴化されて、フィレンツェの正義の旗手のようにあれこれのボスに顎で使われることはない」。

 (だが、)実権は …… 元老院が、外交、内政、通商、国防に関するいっさいの問題を取り仕切り、その下に置かれた政府諸機関 …… 中でも『十人委員会』と称する公安・情報組織は強力だった。」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』中公新書)。

 ちなみに元首(ドージェ)は、元老院と大評議会の投票によって選出された。若い頃から才覚を発揮し、元老院に所属するさまざまな政府機関を歴任して、内政、軍事に活躍。長い経歴の中では、戦いの指揮官として修羅場をくぐり、或いは、在オスマン帝国ヴェネツィア大使として、かの国のスルタンや宰相と渡り合うなどの経験も積んできた。つまり、ヴェネツィアの国益のために長年尽くしてきたヴェネツィアの顔ともいうべき人物が選ばれた。任期は終身。残りの人生を元首として、このドゥカーレ宮殿に住み、元老院や十人委員会を運営。諸外国の大使に謁見もし、町中を挙げての祭の主役も務めた。

  (船上から見るドゥカーレ宮殿)

 ドゥカーレ宮殿 (パラッツォ・ドゥカーレ) の開館は9時。少し時間があったから、サン・マルコ広場の周辺を歩く。

 ゴンドラ乗り場のあるオルセオロ運河に行くと、大学生くらいの年齢の中国人の女子たちが大きな声ではしゃぎながらゴンドラに乗り込んでいた。ヴェネツィアも様変わりし、中国人観光客が押し寄せる時代になったようだ。

 9時になり、ドゥカーレ宮殿へ。

 中庭から入り、「黄金階段」を上がって、4階から下の階へと見学しながら進んで行った。

 広大な大評議会の部屋や歴代ドージェの肖像画が並ぶ部屋などに、ティントレット、ティツィアーノ、ヴェロネーゼなどルネッサンス以後のヴェネツィア派の巨匠の描いたヴェネツィアの歴史を語る大壁画や宗教的な天井画があり、抑制された豪華さがあった。

 今回は、初めて溜息橋を渡り、政治犯を幽閉したという石牢にも行ってみた。

        ★

<聖マルコの遺骸を納めるサン・マルコ寺院> 

 ヴェネツィアに来た以上はと、ヨーロッパ最古のカフェ「カフェ・フローリアン」に入ってひと休みし、温かいコーヒーを飲んで暖をとる。

 そのあと、サン・マルコ寺院へ。

 ヴェネツィアの政治の中心がドゥカーレ宮殿なら、宗教の中心はその北に隣接するサン・マルコ寺院(パジリカ・ディ・サン・マルコ)である。

 「もともと総督の私設礼拝堂として誕生したもので、アレキサンドリアからこっそり盗み出した聖マルコの遺骸をここに運び、守護聖人を祀る、街の宗教中心とした」。

 「ローマの法王庁とつながるカテドラルは、街の東側のカステッロ地区のはずれにあるサン・ピエトロ教会に追いやられていた」。

 「こうして政治的にばかりか、宗教的にもヴェネツィア共和国の自由と独立が獲得されたのである」(以上、陣内秀信『ヴェネツィア ─ 水上の迷宮都市』講談社現代新書)。

 過去のヴェネツィアへの旅では、サン・マルコ寺院は日曜のミサの最中で入場できなかったり、観光客でいっぱいで落ち着いて見学できなかったりした。今日、初めて丁寧に見て回ることができた。それだけでもヴェネツィアを再訪した甲斐がある。

 上に引用した「アレキサンドリアからこっそり盗み出した聖マルコの遺骸をここに運び、守護聖人を祀る、街の宗教中心とした」とは、どういうことか??

 ── 初期キリスト教の中心地は、ローマとエジプトのアレキサンドリアだった。第1回公会議で、イエスは神か人かを論争した神学者のアリウスとアタナシウスも、アレキサンドリアの神職だった。

 しかし、7世紀の初めにアラビア半島で興ったイスラム教は、燎原の火のように中東からアフリカ大陸北岸の地中海世界を席巻していき、アレキサンドリアもたちまちイスラム勢力の支配下に置かれた。

 828年、2人のヴェネツィア商人が船を仕立ててアレキサンドリアに商売にやって来た。2人は街で、スルタンが宮殿を拡張するため周辺の建物とともに聖マルコの遺骸が安置されているキリスト教の教会も取り壊そうとしているという情報を耳にした。

 聖マルコは新約聖書の「マルコによる福音書」の記者で、カソリック世界では12使徒に匹敵する聖人中の聖人である。

 2人は教会の僧たちを説得して、遺骸を譲り受けた。しかし、港では役人たちの検査がある。2人は聖マルコの遺骸の上に、イスラム教徒が忌み嫌う豚肉の塩漬けを山のように置き、一番上には茹でた豚の頭を乗せて運んだ。港の役人たちは、中身が船旅の食料となる豚肉と聞き、ろくに調べもしないで船に乗せることを許可した。

 カソリックの国では、各都市も、各同業組合も、各家も、それぞれ自分たちの守護聖人を祀っている。敗戦後、日本人は八百万の神を拝むとバカにした欧米人や西洋かぶれした日本人がたくさんいたが、カソリック圏を旅すると、何だ、おまえたちこそ、八百万の神々ではないかと言いたくなるほど、行く先々で聖人を祀り、今日は○○聖人の日、明日は△△聖人の日と、カレンダーは埋め尽くされている。

 それはともかく、…… 聖マルコは聖人中の聖人である。ヴェネツィアでは、この2人の英雄を歓呼で迎えた。

 そして、これまでヴェネツィアの守護聖人であった聖テオドーロはナンバー2に格下げされ、聖マルコが第一守護聖人となった。

 その聖マルコの遺骸を納めるために建てられた聖堂が、サン・マルコ寺院である。バチカン立でも国立でもない。もともと、時のドージェ(元首)が私費を費やして建てたパジリカである。

 かくして聖マルコを表徴する有翼のライオンはヴェネツィア共和国の国章となり、国旗に描かれ、ヴェネツィアの全ての商船や軍船の上に翻るようになった。ヴェネツィアの船が行く港々にも、大使館にも、有翼のライオン旗が翻る。

 こういうわけで、聖マルコの遺骸を祀るサン・マルコ寺院は、ローマ教皇派遣の司教がいるカテドラルなどよりも人々の信仰を集めたのだ。その結果、ヴェネツィア人はカソリック教徒であったが、教皇様の下知よりも、まずはドージェや元老院の決定の方を優先したのである。

 ヴァチカンが異端としたガリレオの主張もヴェネツィアでは自由に印刷・販売された。魔女狩り裁判がヨーロッパを席巻した時代もあったが、ヴェネツィアで魔女として処刑された人は1人もいない。

 ── さて、サン・マルコ寺院でいちばん大切な所は、聖マルコの遺体が納められているという中央祭壇である。「うん。ここか… 」。もちろん敬意をもって対するが、そこに本当に聖マルコの遺骸があるのかどうか、不信心の私は心に確信はもてないでいる。

 入場料を払って、その光背を飾るパラ・ドーロも拝観した。ビザンティンの職人たちを呼び寄せて作らせたビザンティン美術の傑作で、1927個の大きな宝石を散りばめた宝物は、決してけばけばしくなく、気品があった。

 入場料を払って、2階にも上がって見学した。

 4頭の青銅の馬は、第4次十字軍のとき、コンスタンティノープルの古代競馬場にあったものを、ドージェのダンドロが持ち帰ったもので、BC2~4世紀頃の作品だという。

    (4頭の馬のブロンズ像)

 馬の彫像は難しいと言われる。まことに生きた馬のようで、古代美術の傑作であろう。

 2階からは、天井や壁のモザイク画がよく見えた。総面積4000㎡というモザイク画の金泥地に描かれた赤や青の色彩は豪華で美しい。

 (壁面を飾るモザイク画)

 ゲルマン民族が侵攻し、西ローマ帝国が滅んだ後の中世前期(5~11世紀)の西ヨーロッパは、経済力も、文明・文化の上でも停滞・後退の時代だった。東ローマ(ビザンティン)帝国やイスラム圏の方が、科学技術、学問、文化の水準において圧倒していた。西ヨーロッパに大きな変革が起きるのは12世紀である。

 ヴェネツィアは商取引の上でビザンティン帝国(その後はオスマン帝国)との関係が深く、早くからビザンティン文化やイスラム文化に触れていた。

 5つのドームのあるサン・マルコ寺院の建築様式も、内部を飾るモザイク画をはじめとする装飾の数々も、すべてビザンティン風である。 

       ★

<サン・マルコ寺院のバルコニーから>

 サン・マルコ寺院の2階のバルコニーからの眺望は素晴らしい。

 サン・マルコ広場が見下ろせた。

 写真は「カフェ・フローリアン」に向き合う「カフェ・クアードリ」の側だ。

 石を敷きつめた広場にはテラス席が並べられ、数百羽の鳩が舞い上がり、舞い降りる。しかし、この日、早春のヴェネツィアの空は曇り、気温は低く、カフェ・テラスに人影はない。

    (サン・マルコ広場)

 「列柱の巡る回廊形式の広場というのは、ルネサンスになると各地に登場するが、この時代(12世紀)のヨーロッパには他に類例がなかった」。

 「アーチのある回廊状の広場は、考えてみると、イスラム都市のモスクやキャラバンサライの中庭のつくり方ともよく似ている。…… 路地が複雑に入り組んだ迷路状の商業空間から、幾何学的に造形された輝くサン・マルコ広場に入る空間体験そのものが、迷路状のバザールから見事な幾何学的秩序をもつモスクなどの中庭空間に入るときの体験と、実によく似ているのである。建築の様式のみか、空間の形式がオリエンタルなのだ」(陣内秀信『ヴェネツィア─水上の迷宮都市』)

 バルコニーから、ヴェネツィアの玄関口であるピアツェッタ (サン・マルコ小広場) も見えた。

 小広場の水際には、12世紀にギリシャから運ばれてきた2本の石柱が聳えている。その石柱の上には、ヴェネツィアの守護聖人である聖マルコを表徴する有翼の獅子の像。もう一本にはヴェネツィアの第2聖人である聖テオドーロの像。

 (サン・マルコ小広場の2本の巨柱)

           ★

<サン・ジョルジョ・マジョーレ島の鐘楼>

 ジューデッカ運河に臨むザッテレのレストランで昼食。

 食事の後、水上バスでサン・ジョルジョ・マジョーレ島に渡った。

 サン・マルコ側から見るサン・ジョルジョ・マジョーレ島の風景は、ヴェネツィアには欠かせない景観である。

 (サン・ジョルジョ・マジョーレ島)

 サン・ジョルジョ・マジョーレ教会に入る。

 内部は晴朗で、すがすがしい。ルネッサンス的である。明るく、開放的だが、キリスト教会としての品格を少しも損なうものではない。

 フランスのロマネスクやゴシックの大聖堂の中に入ったときの、外界から遮断された、暗く、宗教的・瞑想的な空間とは、全く対照的であると感じた。

 敷き詰められた小石を踏み、杜の中に小鳥の囀りを聞き、頭上の葉のそよぎに微かな風を感じる、日本の神社の清々しさに似ていると思った。

 あちらこちらにヴェネツィア派の巨匠ティントレットの絵が掲げられている。

 エレベータで鐘楼に上がることができた。

 イタリアでは、なぜか、礼拝堂と、鐘楼と、洗礼堂とが別々の建物として造られる。

 鐘楼の上からは、対岸のドゥカーレ宮殿、サンマルコ広場とその鐘楼、そして、ヴェネツィアを構成する小さな島々などが、潟の広がりとともに180度の展望で見渡せた。

(ジューデッカ運河と大運河が合流して広がる)

  (ジューデッカ運河)

 西ローマ帝国の滅亡後、452年にアッティラに率いられたフン族がヨーロッパを荒らした。この辺りにすむ一部の人々は海へ逃げ込んだ。そこは、潮位が上がると水面すれすれになる低湿地で、草が茫々と生えていた。

 危機が去った後、人々はそこに無数の丸太を打ち込み、その上に石を敷いて小島を造り、その土台の上に、広場や教会や家々を造って一つのコミュニティとした。

 アッティラ以後も、人々の移住は約200年に渡り、何回にも分かれて行われた。島々は、寄せ木細工のように広がっていった。

 8年前にヴェネツィアを訪れたときは、運河を隔てた向かいのサンマルコ広場の鐘楼に上がった。6月のヴェネツィアは日差しが強く、水がきらめき、広大な潟の中にサン・ジョルジョ・マジョーレ島が小さく見下ろせた。

 今日、春にはまだ遠いヴェネツィアの塔の上は、風が強く、寒くて、長く眺望を楽しむことはできなかった。

        ★

<装飾的に変貌したリアルト橋>

 再び水上バスに乗り、ジューデッカ運河回りでローマ広場まで行った。ジューデッカ運河は大運河(カナル・グランデ)より広々として、家並みは庶民的になり、景観に鄙びた趣がある。

 ローマ広場からは、大運河を下り、リアルト橋へ向かった。

 リアルト橋は、壮麗な大理石の太鼓橋である。

 かつては跳ね橋で、下を商船が通過していた。しかし、商船が大型化して大運河に入って来なくなり、16世紀の終わりにはこの街を飾る大理石の石橋に変貌した。ヴェネツィアは徐々に観光の街に変貌していった。

 橋の上に店が並んでいる。中世の昔はこういう橋が普通だったらしい。

 (リアルト橋を渡る)

 今もこのようなスタイルを残す橋は、フィレンツェのヴェッキオ橋とドイツのクレーマー橋だけだそうだ。

 橋を渡ると魚市場と青物市場がある。

 リアルト橋の上から、大理石の欄干にもたれて大運河を眺める。

   (大運河を望む)

 「大運河沿いには商人貴族の夢のように美しい館が立ち並び、まるで魔法の国に来たかのような幻覚を旅人に与える。華奢な螺旋円柱、薔薇窓を背にした優雅なバルコニー、対に並んだ可愛い小窓 …… ビザンティン、ゴシックの2大様式がここでは完璧に融合し、たぐい稀な美しさをたたえている」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』)。

 これらの邸宅を眺めるには、大運河を行く水上バスに乗ればよい。まるでパノラマを見るようだ。しかも、朝に、昼に、夕に、光線の加減で趣を異にする。ヴェネツィア観光は、サン・マルコ広場の辺りをじっくり見学したら、あとは水上バスに乗って景色を楽しみ、写真を写す。1日券を買っておけばとても安上がりだ。

        ★

<邸宅と商館を兼ねたカ・ドーロ>

 そういう邸宅の一つを見学しようと、リアルト橋から路地をたどってカ・ドーロへ。宿泊のホテルからも近い。

 「カ・ドーロ」とは、金の館の意らしい。その昔、ファーサードの装飾に金泥が用いられていたので、こう呼ばれていた。名門コンタリーニ家の邸宅兼商館として、15世紀に建てられた。

 この種の邸宅を「パラッツォ」と呼ぶこともあるが、本来パラッツォ(宮殿)は、ドージェの宮殿である「ドゥカーレ宮殿」のことを指す。貴族らの邸宅は「カ」である。

 その当時、このような館の表口は大運河側で、横付けされた商船から、積み荷は中央ホールを通って中庭に運ばれた。そこで荷は解かれて仕分けされ、中庭の奥の倉庫に納められたそうだ。

 1階には、そのほか、商談や事務に使われる部屋か幾つかあった。

 特別に大切な客は2階、3階に通された。

 上階には中央ホールがあり、その左右に家人の使用する部屋があった。

 「いちばん見事な建築空間は、2階の中央ホールから大運河側に出た所にあるロッジア(柱廊)だ。…… 主人と来客たちはここで大運河を行く船を眺めながら、歓談したり商談を進めたりしたのであろう」(紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮文庫)。

  (カ・ドーロのロッジア)

 大運河を行く船からも、さまざまな意匠を凝らした華麗な邸宅を眺め、邸宅のロッジアからも通り過ぎる商船の積み荷や貴族・豪商の乗ったゴンドラが行き来するのを眺めることができた。

 この街は、そのようにつくられているのだ。

       ★

 その夜は、ホテルでお勧めのレストランを聞いて、近所のバーカリに行った。日本の刺身に似た一品が出され、白ワインが美味しかった。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春のイタリアへ…早春のイタリア紀行(6)

2020年11月17日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母堂)とジョットの鐘楼。

 ブルネレスキの造った直径50mの大円蓋は、地上100mの高さに取り付けられている。宿泊したホテルの朝食会場から、間近に眺めることができた。

     ★   ★   ★

<ヨーロッパのホテルのことなど> 

 1996年のイタリア旅行(旅行社のツアー旅行)の後、ヴェネツィアには2回行き自分の足で歩いた。異国の空気を肌で感じるには、思い切って自分の足で歩いてみるのが一番だ。

 だが、フィレンツェやローマはツアーで回っただけ。自分の足でもう一度じっくり歩いてみたい。── これが、2010年の「早春のイタリア紀行」の動機である。

 今回は、航空券も列車のチケットもホテルも、自分でネットを通じて手配した。もちろん、旅行計画そのものも、自分でプランニングした。

 ネットの時代は、飛行機の座席も、空いている席なら好みの座席を選んで予約できる。

 列車は、イタリア鉄道のHPから購入しようとしたが、うまくいかなかった。

  ネットの中で、多くの人がうまくいかないと投稿していた。中に、VISAではなく、マスターカードにしたらうまくいったという報告もある。しかし、マスターカードでやってもうまくいかないという声も。日本で発効したVISAとかマスターカードなどのクレジットカードがイタリア鉄道のHPとうまくフィットしないのではないかという意見が多かった。とにかく、ネット世代の若い人たちがこんなに苦戦を強いられているのだから自分には到底ムリとあきらめ、「ヨーロッパ鉄道」というネットの中間業者を介した。そのためイタリア鉄道の格安チケットをゲットしそこねたが、高く付いたというわけではない。(これは2010年当時の話である)。

 ホテルは、観光に便利な旧市街の3つ星ホテルor4つ星ホテルから選んだ。

 ネットの時代になって、ホテルの場所(マップ)も、料金、部屋のランクや広さ、ホテルからの眺望、設備・備品、口コミの評価、それに写真も見ながら選ぶことができる。本当に便利だ。自分の旅行プランに合ったホテルを探すのも、旅の楽しみの一つである。

 旅行社企画のツアー旅行で泊まるのは、たいてい郊外のホテルだ。部屋の設備や備品などについて「お客さま」からあれこれ苦情が出ないようにするには、鉄筋コンクリート建ての近代的、コスモポリタンの大型ホテルが画一的で無難なのだ。

 旧市街は、街並み自体が保存地区だから、鉄筋コンクリートの大きなビルを建てることはできない。

 旧市街の伝統的なヨーロピアン式ホテルは、貴族の邸宅の内部を資金をかけてリフォームした5つ星ホテルでもない限り、エレベータも年代物の2人乗りの大きさで、ガタピシと音を立てて昇降する。部屋のドアの鍵も開けにくく、初心者はまたフロントに降りて行って、片言英語で訴えなければならない。そういうとき、フロントのお兄さんはさっと階段を駆け上がり、一瞬にして開けてくれる。そして、手振りでコツを教えてくれる。

 中に入ると、部屋も家具も、新しくはない。

 掃除されているが、日本ほどピカピカに磨いているわけではない。それは、アメリカン式の大型ホテルでも同じこどだ。

 バスにお湯をはろうとして、栓がない!! フロントに申し出ると、宿のご主人が探し回る。もうシャワーだけでいいかとあきらめかけた頃に、「ありました」と持ってくる。欧米人は普段、シャワーしか使わないから、栓はいつの間にかなくなってしまうこともある。

 バスの栓を抜いてお湯を流していたら、なぜか床にお湯があふれてきて洪水になり、バスタオルを何度も絞って拭いたこともある。

 ただし、いつもそういうことが起きるわけではない。それぞれ1回だけだ。ただ、そういうことも思い出に残る。そういうことも含めて、ヨーロッパである。ヨーロッパを旅するなら、まず、ヨーロッパ風のホテルに泊まるべきだ。

 今までも旅行社企画のツアー旅行に参加したし、これからも参加するだろう。鉄道が発達していないトルコとかバルカン諸国など、青春の放浪の旅でもない限り、個人旅行で回るのは大変である。沢木幸太郎の『深夜特急』のように、夜行バスで一晩かけて次の町へ移動するなど、年を取ってする旅行ではない。

 個人旅行は、旅に出てしまえば頼るのは自分の足と判断だけ。不安と緊張感はあるが、しかしその分、直に異国の空気に触れている実感がある。

 旅行社のツアーの中は、「日本」である。旅の始まりから終わりまでずっと、1日24時間、30人近くの日本人と過ごすことになる。いろんな人がいる。しかし、「個」になるところから、旅は始まる。

 ホテルは、バスとトイレとベッドがあれば結構である。私には、リッチさよりも、立地が優先する。

 ハンガリーのブタペストでは、上階の窓からドナウ川を見下ろし、ライトアップされたくさり橋と対岸の王宮の丘が見える部屋に泊まった。ネットで調べた範囲では、ブタペストでこの夜景が見えるのはこのホテルしかない。せっかくの旅行だから、こうして多少の贅沢をすることもある。ただし、五つ星ホテルだったら、やめていた。

 ポルトガルの有名な修道院兼城塞があるローカルな町の旧市街に泊まった時は、エレベータはなく、木造の階段はぎしびしと音を立て、部屋は古く、床は確かに傾いていて、多分、ボールを床に置けば徐々に転がっていくだろうと思った。それでも、ご主人は気さくで、料金は申し訳ないぐらい安かった。

 窓から中世の通りが見下ろせた。たまたま何かのお祭りで、衣装を着けた子どもたちの行列が通った。ホテルの玄関の横の壁には年代物のアスレージョが貼られている。夜、表に出ると、小さな街並みの外れの丘に巨大な修道院兼城塞がライトアップされて浮かび上がっていた。

 少し郊外の方へ歩いて行けば近代的な大型ホテルが1軒あったが、あえて街中の「旅籠」のようなホテルを選んだ。何を求めて旅するかである。

 旧市街のど真ん中に泊まれば、朝に夕に居ながらにして街の雰囲気を感じとることもできる。一日観光して、夜、食事した後も、ライトアップされた街並みを散策し、街角のカフェで一杯のワインを飲むこともできる。街並みこそが文化である。

 さて、2010年のの旅であるが、行程は、[ ヴェネツィア(2泊) → フィレンツェ(2泊) → アッシジ(1泊) → ローマ(3泊) ]とした。

   ★   ★   ★

<早春のヴェネツィアへ>

 2010年3月8日。関空11時発。ルフトハンザ航空でフランクフルトへ向かった。

 上空から見ると、早春の日本列島の山岳地帯は、まだ深々と雪に覆われていた。

  (日本アルプスの峰々)

 富山の辺りから日本海へ出た。

 ユーラシア大陸の上を延々と飛び、フランクフルトでヴェネツィア行きの小さな飛行機に乗り換えた。

 ヴェネツィアの上空はまだ明るさが残り、飛行機が大きく旋回しながら高度を下げていくと、空から潟の広がりと、サン・マルコ広場の鐘楼が見えた。8年ぶりのヴェネツィアだ。

 マルコ・ポーロ空港には現地時間の午後6時前に着いた。

 内陸部の空港から、タクシーでヴェネツィア本島の入口・ローマ広場へ。

 そこからヴァポレット(水上バス)に乗る。乗船券は明後日の朝まで使える48時間券を買った。

 ヴェネツィアの旅行者の「足」は、自分の足か、ヴァポレット(水上バス)。自動車はない。そもそも車が走れるような道路がない。

 ヴェネツィアのタクシーはモーターボートだが、料金はかなり高い。

 サイレンを鳴らして走るパトカーも救急車も、モーターボート。彼らが通ると大波が立ち、岸に水がチャボチャボ当たる。優雅なゴンドラも、モーターボートが通るとゆらゆら揺れる。

 欧米の有名映画俳優のようなリッチなカップルなら、空港から直接、タクシー(モーターボート)に乗って、広々とした潟を疾走し、カナル・グランテ(大運河)に入って少しスピードを落として、そのままホテルに乗り付ける。そういう旅行者の泊まるホテルは、昔、有名な貴族の邸宅だったという高級ホテルだ。船着場もある。

 15世紀のヴェネツィアなら、リッチな貴族や市民は、漕ぎ手付きのゴンドラを持っていた。商談へ行くのも、夜のパーティー会場に行くのも、ゴンドラが足だった。

   カナル・グランデ(大運河)。左端にヴァポレット(水上バス)が見える。真ん中にモーターボート。右に係留されたゴンドラ。

 ただ、貴族がみんな金持ちというわけではなかったようだ。事業に失敗して、乞食に身を落とすことだってある。乞食でも、身分は貴族だ。ただ、官邸に願い出れば、頭巾で顔を隠すことを許されたらしい。その頃のヴェネツィアは商才次第。小金を貯めて、商船の積み荷に投資すれば、10倍、100倍になって返ってくることもある。誰でも挽回可能なのだ。

 「カ・ドーロ」で下船する。

 3月初めのストラーダ・ノーバ通り(ヴェネツィアのメイン通り)は、まだ閑散として寒風に紙屑が舞っていた。少し路地を入ったホテルに2泊する。

 明日は1日、8年ぶりのヴェネツィアを歩く。 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古都ラヴェンナへ行く(2002)その2 … 早春のイタリア紀行(5)

2020年11月09日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

< 皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドーラのモザイク画>

 ガラ・ブラキディア廟と同じ敷地内にサン・ヴィターレ聖堂がある。

 東ゴート王国のテオドリックの時代に着工され(527年)、ビザンティン帝国のユスティニアヌス皇帝の時代に完成した(547年)。

 サン・ヴィターレは、この地で殉教した聖人の名。

 八角形の建物で、集中式の聖堂である。

 なぜ八角形なのか?? 『大聖堂のコスモロジー』によると、神はこの世を創造し、7日目に休んだ。8という数字は、新しい始まりであり、復活と新生を意味するのだそうだ。

  (サン・ヴィターレ聖堂)

 今日も、アフリカの砂漠に発生し、途中で地中海の海水をたっぷり吸収した熱風がイタリア半島にやってきて、非常にむし暑い。今回、ヴェネツィアに来た時から、この暑さに苦しめられている。日本の夏でも経験しないようなむし暑さだ。シャツも汗に濡れている。

 だが、思ったより広い聖堂の中は、空気がひんやりして心地よかった。中高年の見学者はみんなほっとしてベンチに腰掛け、坐ったまま遠くのモザイク画を見上げている。でも、ベンチからは遠すぎる。

 モザイク画はどれも美しかった。その中でも、2枚の向き合ったモザイク画に目がとまった。

 聖なる内陣の壁の中央の絵は、イエス・キリストを真ん中に、天使と殉教者のサン・ヴィターレが描かれている。

 その絵の下の段の横に、ユスティニアヌス大帝の一群と、皇后テオドーラの一群が、向き合った位置に描かれていた。西欧カソリックの世界では、俗人である皇帝や皇后が内陣に描かれることはないだろう。ここは東ローマ(ビザンティン)帝国の影響下の世界なのだ。

 全員が正面を向いて、一列で立っている。だが、立体的に描いてみせたルネッサンスの絵画よりも、私にはこういう絵の方が好ましい。

 絵とは二次元世界に形と色彩で構成した美術である。マチスもピカソも、結局、二次元的な形と色の世界に戻った。

 (ユスティニアヌス帝と廷臣たち)

 この2枚の絵について、後に、NHK文化センターの講義で解説を聞くことができた。

 皇帝ユスティニアヌスが手に持っているのは聖杯。皇帝のすぐ左側の人物がイタリア半島を東ローマ世界に取り戻した将軍のベリサリウス。皇帝のすぐ右には、後で付け加えて描かせたもう1人の将軍が覗いているが、それ以外、右側は聖職者だ。皇帝の横の聖職者は新任の大司教。何と!! 自分の上に自分の名を書かせている。前の聖職者の絵を塗りつぶして自分を描かせたことが、修復のときにわかった。

 向かい合ったもう1枚のモザイク画は「テオドーラ皇后と女官たち」。

 (テオドーラ皇后と女官たち)

 皇后テオドーラはサーカスの踊子だったという。ユスティニアヌスに見染められ、相当の身分違いだが、后に迎えられた。

 皇帝がまだ若い頃、首都コンスタンティノープルで、些細なことから民衆の大暴動が起きた。軍隊を出動させても止めようがなく、皇帝はもう駄目だとあきらめ逃げ出そうとした。そのとき、テオドーラは夫を叱咤し、激励して、そのため皇帝は踏みとどまり、ついに暴動を鎮圧した。そのとき逃げ出していたら、後に「大帝」と呼ばれ、歴史に名を残す皇帝にはなれなかっただろう。

 そう思いながら眺めると、なるほど、少々きつそうな顔をしている。

 それよりも、テオドーラから右に2人目の女性が美しい。どういう人なのか、ずっとわからなかったが、NHK文化センターの講義で知ることができた。皇后のすぐ右隣の女性は、将軍ベリサリウスの妻のアントニア。美しい人は、その娘のヨアンニナ。左手の指が隣の母に触れているのは、母娘関係を表すそうだ。

        ★

<街で出会った日本人留学生>

 サン・ヴィターレ聖堂を出て、街を歩いた。自分の位置が地図上のどこかわからなくなっていた。道を行く人は、観光客も、夕食の買い出しに出たマダムたちも、みんな建物の日陰になった片側を歩いている。とにかく暑く、体力を消耗した。

 道の脇に小さな広場があり、建物の日陰になった石段に、観光客が三々五々、坐って休んでいた。その中に、この街で初めてだが、東洋系の若い女性がいるのが目についた。とにかくひと休みし、何よりも地図をじっくり見たい。「日本人ですか??」と声をかけたら、そうだと言う。横に坐らせてもらった。

 それから、思いがけずも1時間ほど、涼しい日陰で話をした。

 数日ぶりの日本語の会話はなつかしかった。意識していないが、たまたま日本人がいて日本語で話をすると、日本語に飢えていた自分に気づく。この感じは、異国で一人旅をしてみないとわからない。

 彼女にとっては本当に久しぶりの母国語での会話で、本人は意識していないだろうが、ほとんど彼女がしゃべり、私は聞いていた。

 日本で建築事務所に勤めていたが、これからの日本は、30年でスクラップし建て替えるという使い捨て型の持ち家制度の時代は終わるだろうと思った。良い家を建て、リフォームしながら長く住む時代になるに違いない。リフォームの文化は日本にはあまりない。それで、イタリアに行って勉強しようと考えた。

 留学するなら、ローマやミラノのような大都市ではなく、あまり知られていない、しかも文化の香りのある町にしたいと思って、ラヴェンナの語学学校を選んだ。学校から、モザイク画などの工房に入ることもできる。

 節約するため、1部屋をカーテンで仕切って4人でシェアしている。みんな、国籍が違うけど、コミュニケーションはみんな頑張ってイタリア語。夏休みには誰かの家に遊びに行くつもりだ。多分、スイスになりそうだ。

 ラヴェンナには、調べたけど、日本人は1人も住んでいない。

 午後、自分の授業があるので、出てきて、途中で昼食のピザを買って、今、ここで食べたところだ。

 そんな話だった。

 日本にもこういう若い女性が育っていることに感銘を受けた。自分のような世代と違って、若い彼女は軽々と日本海とユーラシア大陸を跳躍し、単身、異国で勉強している。日本の未来も捨てたものではない。

 授業は1コマだから、終わったらモザイクの美しい教会を案内して回りますよと言ってくれたが、夜にならないうちにヴェネツィアに帰りたいからと断った。

 駅まで連れて行ってもらって、彼女は学校へ、私はタクシーで郊外のサンタ・ポリナーレ教会へ向かった。

         ★

<大聖堂の心和む牧歌的なモザイク画>

 海外旅行でどこかの町を訪れたとき、もちろん効率的な回り方も考えるが、基本は見たいものから見て回ることにしている。一番見たいものを後回しにして、その結果、後悔するようなことにはなりたくない。他で思わぬ時間をとってしまい、閉館時間に間に合わなかったとか、観光の途中でパスポートをスラれて、観光を中止して警察署に行かねばならなくなったとか。異国の警察署の体験も悪くはないが(2度も経験しました)、一番見たいものを見ずに帰るのは、やはり残念である。

 ラヴェンナの3番目は、郊外のサンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂。

 駅前からバスもあるのだろうが、知らない土地のバスの路線はわかりにくい。その路線の停留所は駅前のどこにあるのかとか、何という名の停留所で降りるのかとか、乗り越してしまったらどうしようとか。

 多分、5、6キロの距離だから、タクシー代はたいしたことはない。ただ、ガイドブックには、イタリアのタクシーのなかにはぼったくりをする運転手がいるから気を付けてと書いてある。

 しかし、駅前から乗ったタクシーの運転手は感じの良い青年で、大聖堂に着くと、ちょっと昼寝するから見学が終わるまで待つよと言ってくれ、駅前に帰ったときに、待ち時間なしの往復の料金しか請求しなかった。それで、降りるとき、こちらもチップをはずんだら、「ありがとう。いい旅を」と握手を求められた。

 サンタアポリナーレは、ラヴェンナに初めてキリスト教を広め、殉教した聖人らしい。その墓の上に最初は小さな礼拝堂が造られ、6世紀前半に現在の大聖堂が建てられた。

 中に入ると、身廊と側廊を隔てる石柱が奥へ向かってずらっと並ぶパジリカ様式の聖堂だった。装飾らしい装飾はない。その奥の内陣の半円球の壁面に、目指すモザイク画があった。グラビアの写真を見て、いつか、ぜひとも実物を見たいと思っていた。

(サンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂)

 聖アポリナーレを中心に、野の花と、樹木と、羊。牧歌的な緑の大地が描かれている。

 多分、ガッラ・プラチーディア廟のモザイク画も、このようなメルヘンチックなトーンなのだろう。磔刑のキリストや、貴婦人のようなマリア像と比べて、異教徒でも心がやすらぎ、いつまでも見ていたいと思う絵だった。

       ★

<壁面の奥行きを使った長い行列のモザイク画>

 タクシーで駅前に戻り、帰りの列車までに十分、時間があったので、サンタポッリナーレ・ヌォーヴォ聖堂へ行った。駅前からの行き方は、さっきの留学生の女性に教えてもらっていた。

 この聖堂は、東ゴード王国をつくったテオドリクス王の宮廷聖堂として、504年に完成し、奉献された。

 「パジリカ式聖堂は、入口から、半円で突出する祭室に向かう、水平的方向性が強調された空間構成であることがわかる」(馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』)。

 聖堂の中に入ると、身廊と側廊を隔てる22本の円柱が正面の祭室に向かってずらっと並び、奥行きが深い。

 圧倒的なのは、円柱列の上の壁面を飾るモザイク画だ。

 右側の壁面には、26人の殉教者の長い列が、奥の玉座のキリストに向かって進んでいる。1人1人は、似ているが、みな違う。

 そして、左側の壁面には22人の殉教聖女たちの長い列が、奥の祭室方向に進んでいるように描かれている。

 聖女たちの上の壁には、イエスの誕生を祝うためにベツレヘムを訪れた東方3博士。

   (サンタポッリナーレ・ヌォーヴォ聖堂)

   この聖堂の中に一歩入って起きる感動は、その絵画的構成力がもたらすものである。

 ラヴェンナの最後に、もう一つ、良い絵に出合った。旅先で見る絵も、一期一会である。

       ★

 充実した1日だった。列車を乗り継いでヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に帰ると、橙色の雲の向こうにちょうど太陽が沈んだ。

 今夜もホテルの近くのリオ(小運河)のそばのレストランで、3夜続けて、晩飯を食べた。レストランのマスターとも、今夜でお別れだ。

 最初はお互いに言葉が通じなくて困った。メニューを見てもわからなかった。それでも面倒くさがらず、丁寧に応対してくれた。「トマト」だけは通じて、お互いにっこりした。指さされた箇所を見ると、トマトと書いてある。ローマ字だ。トマトを使った料理だった。2日目は、他の客の料理を運びながら、「また来てくれたの」という風にさりげなくウインクしてくれた。

 旅は一期一会。物静かな良い人だ。

 日中、体中の汗が出た。ビールを飲んでも渇きは治まらなかったが、冷えた白ワインは命の水にように渇きを癒してくれた。

         ★   

<ヴェネツィアからパリへ>

 ヴェネツィアに魅せられて、今回は3度目の訪問だった。

 3度目のヴェネツィアで3、4日も過ごすと、15.16世紀の閉ざされた空間にだんだんに息苦しさを感じるようになった。この街は化石のような町。或いは、テーマパークのような町と言ってもいい。16世紀の仮想現実の空間である。

 それに、6月のヴェネツィアは、広場や路地に欧米や中東からやって来た観光客があふれ、若者や少年がリオ(小運河)で花火をしたりして夜遅くまで騒ぐのも、気もちをしんどくさせた。

 飛行機でパリに移動し、セーヌ川の橋の上に立ったとき、空が広いと感じた。

   パリの街角で聞こえてくるアコーデオン弾きのおじさんのシャンソンの音色が軽やかで、心地良かった。このとき初めてパリを美しいと感じた。

 これでヴェネツィアから卒業だなと思った

   

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古都ラヴェンナへ行く(2002)その1 … 早春のイタリア紀行(4)

2020年11月07日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 (サン・ヴィターレ聖堂のモザイク画)

       ★

<ラヴェンナへ行こう>

 2002年6月のヴェネツィア紀行の続き ──。

 3日目の朝、ヴェネツィアの小さなホテルで目が覚めた時、よしっ 今日はラヴェンナへ行こう という気持ちが、降ってわいたように起こった。

 「命短し、恋せよ乙女」 …… 。ラヴェンナには日帰りできる。このチャンスを逃せば、ラヴェンナを訪ねる機会は二度とこないかもしれない。

 異国で一人、列車に乗って、さらに足を延ばすことにためらいがあった。だが、今回は3度目のヴェネツィア。明日はパリへ飛ぶ日だが、今日も一日この町で過ごすのは、もう満腹、という気分になっていた。

 ヴェネツィア ― ラヴェンナ間の列車の時刻は調べてきていた。各駅停車のローカル線。フェッラーラで乗り換える。

 ラヴェンナで観光して、遅くならないうちにヴェネツィアのホテルへ帰り、明朝のパリ行きに備えるには、早朝の列車に乗る必要がある。本数は続けて2本だけ。

 急いで支度し、サンタ・ルチア駅へ向かった。

 サンタ・ルチア駅は文字どおりの「終着駅」。どこかから列車に乗ってヴェネツィアに到着し、駅を出ると、そこはいきなりカナル(大運河)。この先、鉄道も自動車道路もない。バヴォレット(水上バス)や、タクシー(モーターボート)や、ゴンドラの世界だ。

 駅の窓口で1本目の列車のメモを示したら、笑われた。もう駄目だよ。時計を見ると、まさに発車時刻だった。次の列車を示したら、発券してくれた。列車はすでにホームに待機していたので、乗り込んだ。ここまでは、うまくいった。

 初め、列車は海の上を走った。やがて本土側に着き、メストレ駅に停車。ここからはイタリア本土の汽車旅だ。

 各駅停車の数駅目のパドヴァで、若者たちが一斉に降りた。何事

   そうか 何かの本で読んだ。ここは大学の町だ。ヨーロッパで一番古い大学はイタリアのボローニャ大学。2番目が1222年創立のパドヴァ大学。そのパドヴァだ。

 中世ヨーロッパの大学は、神学や哲学、それに医学や文学や法学を学ぶ。パトロンはローマ・カソリック。その支配が強い。自由を求めた学者は、ヴェネツィアの勢力圏にあるパドヴァ大学にやってきた。この時代、自由とは、キリスト教からの自由。ガリレオもダンテもここで教鞭をとった。

 ヴェネツィア共和国はカソリックだが、東方貿易に生きた。それで、ユダヤ教でも、イスラム教でも、無宗教でも、受け入れた。印刷術が興ると、どんな学術書でも発刊できた。ヴェネツィアの貴族の若者が通う大学はパドヴァ大学だった。

 フェッラーラでは、乗り継ぎの時間が1時間近くあった。しかし、朝が早く、まだカフェもレストランも開いていない。

 フェッラーラもルネッサンスの町。しかし、駅前にはそういう面影はない。ヨーロッパの旧市街は城壁で囲まれ、城壁の中は家々が密集して、近代になっても、旧市街の中に線路を敷き駅舎を建てる余地がなかった。駅はたいてい城壁の外の郊外にある。

       ★

<ラヴェンナとは>

 イタリア半島の西側の海はティレニア海。北からコルシカ島(仏領)、サルデーニャ島、「長靴」の爪先にはシチリア島があり、これらの島々と長靴半島に囲まれた海域がティレニア海だ。

 一方、イタリア半島の東側の海はアドリア海。対岸はバルカン半島。

 バルカン半島は、かつてオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国からの長い独立戦争を経、第二次世界大戦の後、「スラブ民族」の名の下に社会主義国家ユーゴ・スラヴィアができた。だが、ベルリンの壁の崩壊の後、またもや激しい民族紛争。憎悪と殺りくの悲劇を経て、アドリア海沿岸だけでも、北からスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、ギリシャが独立した。火種は今も残っている。EU加盟国のほか、伝統的にロシアの影響のある国もあり、最近は中国の「一帯一路」が浸透してきている。

 そのアドリア海の一番奥(北)に、かつて「アドリア海の女王」と言われたヴェネツィア共和国があった。バルカン半島は、ビザンティン(東ローマ)帝国からオスマン帝国の時代だった。

 ラヴェンナは、ヴェネツィアからイタリア半島を150㌔ばかり南下した、アドリア海側の町。現在の人口は約15万人。ミラノやローマと比べたら、静かな、ローカル都市である。だが、かつてここに都が置かれた時期があった。知る人ぞ知る、ビザンティン文化の宝庫である。

 その歴史を概略すれば、

1) ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代に、ラヴェンナに軍港が築造された。今は海岸線が広がって、当時の軍港は消滅。

2)  テオドシウス大帝(在位379~395年)のあと、ローマ帝国は東西に分裂する。

 AD402年、西ローマ帝国のホノリウス帝が、帝国の都をラヴェンナに移した。前は海、後ろは沼で、水上の戦いに弱い異民族の侵攻から守りやすかった。

3) 476年、西ローマ帝国の傭兵隊長オドアケルが皇帝ロムルス・アウグストゥスを廃位し、西ローマ帝国の帝位を東ローマ帝国皇帝に返上する。かくして西ローマ帝国は自然消滅オドアケルは引き続き都をラヴェンナに置いて、イタリア半島を統治した。

4) オドアケルの死後の493年、東ゴード族の王テオドリックが侵攻し、イタリアに東ゴード王国を樹立引き続きラヴェンナを都とした。アリウス派のキリスト教徒であったテオドリックは、ローマの行政制度や文化を尊重し、また、ビザンティン式の建築物やモザイク画を今に残した。

※ <閑話> この旅からずっと後のことだが、NHK文化センターの講義を聴講し、カソリックの歴史を勉強した。その中にラヴェンナの歴史文化遺産のことも登場した。以下、脱線 ──

 キリスト教を国教化した(他の宗教を禁止した)のはテオドシウス大帝であるが、その前の313年に、コンスタンティヌス1世(大帝)がミラノ勅令によって「信仰の自由」を打ち出し、キリスト教信仰を公認した。ただ、信仰の自由と言っても、その実態は、諸民族の神々の神殿を破壊してその石材を使ってキリスト教の教会を建設するなど、ローマ世界のキリスト教化への布石としてのキリスト教公認、信仰の自由だった。

 325年、このコンスタンティヌス大帝の主催で帝国内のキリスト教司教が招集され、第1回公会議が開かれた(ニカイア公会議)。ここでの議題は「イエス・キリスト」は神か、人か、という論争の決着だった。

 アリウスは人望のある高潔な司教だった。彼はキリストは神聖な方ではあるが、神性はもたず、人間である、とした。

 一方、アタナシウスはまだ若く、俊英の司教だった。彼は、イエスは神の子であるとし、いわゆる神と子と聖霊の三位一体説を唱えた。

 主催したコンスタンティヌス大帝には、神学論争は全く分からない。最後は参加した司教の「多数決」で決められた。その時、議場にアタナシウス派が多かった。採決の結果、アリウス派は異端となった。

 この公会議を含めて、第1回から第7回までの公会議の決定は、カソリックだけでなく、正教会も、プロテスタントも、その有効性を認めている。

 異端とされたアリウス派は、地中海世界を離れ、ゲルマン人やスラブ人への宣教をはじめた。こうして、東ゴートの王も、フランクの王も、アリウス派のキリスト教徒になった。

 フランク王国のメロヴィング朝のクロヴィス1世は妻にも説得され、496年にアリウス派からアタナシウス派(カソリック)に改宗した。そのことが、後のフランク王国の発展に役立った。もちろん、カソリックの発展にとっても。クロヴィス1世にカソリックの洗礼を施した司教は、その功績で聖人に叙された。── 閑話終了。

5) 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)のユスティニアヌス大帝(在位527~565年)は、地中海世界をローマ帝国に取り戻すため、名将ベリサリウスを遠征させた。ベリサリウスは東ゴード王国を滅ぼし、540年にラヴェンナに総督府を置いた。以後、ラヴェンナには、初期ビザンティン文化が一層花開くことになる。

 ユスティニアヌス大帝の後、ビザンティン帝国の力は徐々に衰えていき、200年後にはランゴバルト王国、続いてフランク王国がイタリアに侵攻した。しかし、ミラノやローマと比べてローカルな都市であったラヴェンナは、戦禍や破壊に遭うこともなく、歴史の表舞台からひっそりと退場していった。

 キリスト教の大聖堂の歴史を書いた馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』(講談社現代新書)によると、

 合法化され、歴史の表舞台に躍り出たキリスト教は、コンスタンティヌス大帝の主導の下、ローマにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ聖堂などを創建した。しかし、ローマにあるこれら4世紀の初期聖堂は、建物も、内部を飾るモザイク画も、その後、修復・更新されて、創建当時のものはほとんど残っていない。

 ところが、402年に西ローマ帝国の都となったラヴェンナには、5~6世紀の初期キリスト教文化が花開き、建築物も内部を飾る壁画も、当時のまま残されている。ローカルな町であったため、歴史から取り残され、忘れられた結果である。

 「ポンペイは死んで残ったが、ラヴェンナは生きたまま鎮まった」と言われるそうだ。

 初期キリスト教の文化・美術はラヴェンナにある。これは、ぜひ見ておきたい

       ★

<ガッラ・プラチーディア廟を目指し、若者グループに付いて歩く >

 『地球の歩き方』のラヴェンナの地図は、小さくて、わかりにくい。駅前の観光案内所でもらった地図はイタリア語だから、目印になるものが判読できない。

 見当を付け歩き始めて気が付いた。街の中を、高校生、大学生ぐらいの年齢の5、6人のグループが、その中のリーダーらしき若者の後について、どんどん歩いていく。そういうグループが幾組もいる。

 ヨーロッパの若者たちは、ヨーロッパの歴史・文化を訪ねてよく旅に出る。ヨーロッパを観光していると、しばしば見かける光景である。

 そういうグルーブの後に付いて行けば、自ずから目的地に導かれるに違いない。そう思って、1グルーの後に付いて行った。若者たちは元気で、馬力があって、どんどん歩く。付いて行くのはかなりしんどかった

 博物館と、ガラ・ブラキディア廟と、サン・ヴィターレ聖堂が同じ敷地内にあり、一つの窓口で入場券を買って入る。そういう窓口のある場所にも、若者グループが自然と導いてくれた。

 ラヴェンナに行ってみたいと思うようになった最初のきっかけは、藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』(中公新書)の第1話「皇女ガラ・ブラキディアの物語」である。

 皇女ガラ・ブラキディア(390年頃~450年)は、皇帝テオドシウス大帝の皇女として生まれた。母同様に美しい女性だったが、数奇な運命をたどった。後半生は幼い西ローマ帝国皇帝の母として、摂政の務めを果たして、かろうじて帝国を支えた。彼女の死後、帝国は音を立てて瓦解する。

 『物語 イタリアの歴史』には、廟は12m×10m程度のレンガ造りの簡素な建物だが、中に入ると、「…… その柔らかい光に目が慣れた時、壁と天井をびっしりと埋めるすばらしいモザイクに気付いて、思わず嘆声を漏らすであろう」と書いてあった。

 そのモザイク画を見たい。それで、真っ先にこの廟に向かったのだ。

 6月の、暑く、明るい太陽の下から、廟の中に入ると、その暗さにとまどった。

 暗がりの中に素朴な石棺が置かれていた。中は空っぽらだと書いてあった。

 古都ラヴェンナの最も古く美しいモザイク画は、暗闇に目を慣らしても、闇は深く、残念ながらよく見えなかった。

 高くはない天井にたくさんの星が描かれていること、壁に色とりどりの草花が描かれていることが分かった。それに、牧者の姿とか、鳩とか ……。暗がりの中に見えたのはそれぐらいだった。それは、キリスト教のもつ磔刑のキリストに象徴される暗いイメージとは異なり、明るく、清らかで、メルヘンチックな世界のように見えた。

 だが、暗く狭い空間に見学の若者のグループが次々に入って来て、息苦しくなって表に出た。

 ずっと後に読んだ紅山雪夫さんの『イタリアものしり紀行』には、「入口と半透明のアラバスターがはまっている窓から入ってくる光だけではちょっと暗すぎて、本当の色彩の輝きはわからない。照明をつけてもらうと、その美しさに圧倒される思いがする」とあった。

 事前に予約した著名な研究者のお供でもすれば見ることができたかのもしれない。いつも照明で明るくするのは、モザイク画の保護の観点からも難しいのだろう。それにここは、死者の世界なのだから。(続く)

      

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする