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ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

♪ こごえそうなカモメ見つめ泣いていました ^^♪…… 本州最北端への旅(6/6)

2016年08月29日 | 国内旅行…本州最北端への旅

       (「津軽海峡冬景色」の碑)

< 第4日目 青森津軽海峡冬景色の歌碑発見 >

 今日は、3泊4日の旅を終え、青森空港から、午後の便で大阪へ帰る。

 念願の五能線に乗り、太宰治の生家にも立ち寄り、本州最果ての二つの岬にも立って、旅の目的は果たした。

 飛行機の時間まで、青森の町で過ごすことにしているが、さて、どうしよう?

 昔、弘前で時間を過ごしたときは、迷わず弘前城へ行った。お濠に囲まれたお城の中を歩き、桜の季節にはどんなに美しいかと思いを馳せ、また、玩具のように小さな天守閣を見て、天下の大阪城とは違うのだと思った。

 それにひきかえ、青森は、ガイドブックを見ても、これという名所旧跡がない。

 いや、一つだけある。三内丸山遺跡。

 古代日本の原像を知りたいというのは、西欧の歴史と文化を知りたいという思いと並んで、リタイア後の私の2大テーマである。

 しかし、三内丸山遺跡は、今回の旅のテーマから逸脱しているのではないか …… などと考えて、さて、どうしようと、ガイドブックに付いている青森市街の地図をつくづくと眺めていて、ふと気付いた。

 JR青森駅は、青森港の一角にある。というか、青森港を構成する一部であるかのように、配置されている。

 そして、駅のすぐ東側に、「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」が係留されている。  

 説明を読むと、「… 昭和63年に廃止されるまで約80年にわたり、青森と函館を結んだ青函連絡船として活躍した八甲田丸 … 当時の面影そのままに青森湾に浮かぶ」 とある。

 どうやらそばにパーキングスペースもある。ここに行って、雰囲気を味わってみよう。そのあとは、そのあたりから続く青森のショッピング街を、ぶらぶら歩いて、飛行機の時間まで過ごしたらいい。

        ★

 車を駐車して歩いて行くと、八甲田丸は白に黄の堂々たる客船である。

 

  最上階の甲板に上がって青森市街を眺めている観光客も見えた。

 船に近づくと、八甲田丸をバックにして「津軽海峡冬景色」の歌詞を刻んだ石碑があった。ここに、このような碑があるとは、まったく知らなかった。

 ボタンがあり、押すと石川さゆりの歌が流れる。 

 歌を聴きながら、ここにもう一つの碑が置かれている理由が理解できた。1番の歌詞は、この場こそがふさわしいのである。ここと、龍飛岬と、2つの碑で、歌は完結する。ここに来なければ、私の旅も完結しなかったのだ。

 「 上野発の夜行列車 降りたときから

  青森駅は 雪の中 

  北へ帰る人の群れは 誰も無口で 

  海鳴りだけを聞いている

  私もひとり 連絡船に乗り

  こごえそうなカモメ見つめ 泣いていました 

  ああ 津軽海峡冬景色 」

 近くに人はいない。龍飛岬と同じように、思いを込めて、石川さゆりとデュエットした。そのために、遥々と飛行機に乗ってやって来たのだから。そして、いつか訪れるであろう私のためにも、ここに歌碑が設置されていたのであろうし ……。

        ★

 旅から帰って、改めてネットで歌詞を探し、石川さゆりの歌を聞いてみた。

 ネットには、例によっていろいろな情報があふれている。

 そういう中の一つ。

 テレビで阿久悠の追悼番組があり、「津軽海峡冬景色」の作曲家・三木たかしが思い出を語った、その内容を紹介するブログである。

 三木たかしによると、この歌は青森県の 「ご当地ソング」 として作られたのだそうだ。 「ご当地ソング」 は、大ヒットは望めないが、ご当地で、ある程度のヒットは望める。

 故に、初めに「津軽海峡冬景色」という題名があり、作曲家の三木たかしに作曲の依頼があった。三木たかしは作曲をして、作詞担当の阿久悠に「曲」を送った。

 三木は、阿久悠から返ってきた詩を見て、唖然としたと言う。ご当地ソングだから、恋の情緒などで彩りを添えながら、「津軽の海の冬の景色」が、2、3の地名とともに、あたりさわりなく描かれていると思っていた。

 ところが、まずその出だしは、「上野発の夜行列車 降りたときから」である。何で「夜行列車」なのだ ……。

 2番まで読んでも、津軽の地名は、「龍飛岬」という語が一つあるだけだ。

 だが、メロディに合わせて口ずさんでみると、歌詞がメロディーにぴったり合っている。こんなに見事に曲に合わせて歌詞ができるものかと感心した。

 三木たかしの話は、そういう内容であった。

        ★

 主人公の女性は、人と別れ、心打ちひしがれて、東京の生活を捨て、北海道へ帰ろうとしている。主人公の状況として、「ご当地」の津軽の海は、故郷でも、旅行先でもなく、通りすがりに過ぎないのである。

 彼女の目に映じ、耳に聞こえてくるものは …… 青森駅はすっぽりと雪におおわれて何もない。人々の群れは無口で、ただ海鳴りが鳴っているだけだ。…… 連絡船が津軽海峡に差し掛かっても、( 前々回のブログに書いたように )、結局、龍飛岬は霞んでよく見えなかった、と歌われているのである。あるのは、胸を揺する風の音だけ。何もないのである。

   ( 鉄道駅からの連絡橋 )

 何もない津軽の海の冬の世界は、彼女の喪失感を深くするばかりである。彼女の心をいやす何ものもないのだから、これでは「ご当地ソング」 にならない。

 にもかかわらず、この歌を聴く我々の脳裏には、傷心の孤独な旅人が旅立つ上野駅、眠れず滓のように疲労のたまる夜行列車、すっぽりと雪に覆われた青森駅、鉄道駅から青函連絡船へと連絡橋を急ぐ無口な旅行者の群れ、烈風の吹きすさぶ連絡船の甲板、曇天にこごえそうなカモメ、息でくもる窓から見る津軽海峡の海、そして、本州の最北端の龍飛岬などが、ありありと目に見るように、「イメージ」として定着するのである。

 こうして、私のように、歌が流行って数十年もたってからも、「北のはずれ」の「龍飛岬」を目指して旅する者もいる。

 地方のための「ご当地ソング」としてつくられた歌が、国民的な大ヒット曲になったという事実、ナショナルなものがインターナショナルなものに昇華するということについて、どのような条件がそろったらそういうことが起きるのかということを、私は、しばらく、あれこれと考えた。

   ( 北のはずれの龍飛岬 )

 ( 津軽海峡を通る船舶を守る龍飛岬灯台 )

 2つ目の石碑を見て、この旅は完結した。

 そのあと、三内丸山遺跡に行った。

     ★   ★   ★

< 付録 …… 三内丸山遺跡のこと >

 三内丸山遺跡に行って良かった。ここは、「北のまほろば」である。

 縄文文明は弥生文明によって滅ぼされたのか、或いは、二つの文明は融合したのか、或いはまた、縄文文明は弥生文明を取り込み吸収して発展したのか、これが、私の関心事の一つである。

  三内丸山遺跡で、ボランティアガイドの説明を聞きながら、自ずから、数か月前に見学した大阪府和泉市の池上曽根遺跡と比較された。

 池上曽根遺跡は、環濠を2重に巡らせた、BC1世紀 (弥生中期) の典型的な弥生遺跡である。環濠集落の西方一帯には水田域があったという。

 方形周溝墓があり、鉄製品の工房らしき跡があり、神殿かと思われる高床式大型建物は17m×7m、その横には30m×7.6mの土間床平屋建物があった。

 

(池上曽根遺跡の高床式大型建物/外観と内部)

 三内丸山遺跡は、縄文時代前期~中期の大規模な集落跡である。池上曽根遺跡より2000年~3500年も古い。その時間の流れの遥けさを思う。

    (土偶を飾った遺跡の入り口)

 当遺跡集落は、ゆるやかな丘陵の先端に位置し、標高は約20m。当時は眼下に海を望んでいたと思われる。

 広大な集落の道路跡に沿って、周りに環状に石を配置した墓群が見つかった。また、別に、道路を挟んで向かい合うように、500基の土葬された墓も見つかっている。子どもの遺体は別の場所に、わざわざ土器に入れて埋葬され、800基以上が見つかった。この時代、子どもの死亡率は極めて高かっただろう。

 550棟の竪穴住居が見つかった。うち、15棟が復元されている。

 掘立柱建物群もあり、倉庫群ではなかったかと考えられている。

     (竪穴住居)

    (高床式建物)

 長さ10m以上の大型竪穴住居も発掘された。最大のものは32m×10mである。その中に入って、その大きさと、意外な快適さに感嘆した。

    (大型竪穴住居)

 

   (大型竪穴住居の内部)

 六本の柱の跡も発掘されている。

 柱と柱の間隔は4.2m、柱を埋めた穴の幅2m、深さも2mにそろえられていた。穴には、直径1mのクリの柱が残っていた。

 聖なる御柱だったのか、近くの海を見る物見台だったのか、住居構造だったのか、わからない。写真は想像してつくられた現代の建造物である。

 

     (6本の柱の跡)

 

  多数の土偶や土器も見つかっている。黒曜石、琥珀、翡翠なども発掘され、日本各地とモノの交流があったことがうかがわれる。翡翠は、日本では新潟県と長野県の県境を流れる糸魚川でしか産しない。

 クリの類は、主食として集落の周囲で栽培されていたことが、DNA鑑定の結果でわかった。その他、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなども栽培していたと推定される。海から魚や貝類も得ていたであろう。

 三内丸山遺跡は、「縄文人=狩猟採集の生活」という考え方に「?」が打たれる発見でもあった。

 水稲は亜熱帯植物だから、日本列島には自生しない。しかし、弥生人より2000年も前に、縄文人がこれだけの文明をつくりあげていたとしたら、「稲作」がやってきたとき、縄文人は容易にそれを受け入れることができたであろう。三内丸山遺跡は、そう思わせる遺跡集落でった。

 戦前の歴史学者は、大陸から入ってきた渡来系弥生人が、先住民である縄文人を滅ぼして弥生文明を作り上げたと考えた。我々は、その渡来人の子孫だと。今、多くの考古学者は、縄文と弥生の間にそのような大きな段差はなかったとする。稲作も、当時としては、速やかに、全国に普及していった。

 「… 環境変動 (寒冷化など) に適応するように、朝鮮半島でも日本列島でも食料資源の多角化や雑穀栽培の導入を行う段階を経て、ある段階に灌漑稲作が本格化する過程をたどるようである。それを可能にしたのは、縄文時代後・晩期の海峡を挟んだ地域どうしの相互交流の蓄積であった。

 このように、縄文時代文化から弥生時代文化への移行は、きわめて緩やかに進行したとみるのが順当である。縄文文化と弥生文化を対立的に考える20世紀初頭以来の枠組みは、すでに過去のものとみるべきである」 ( 石川日出志 『シリーズ日本古代史① 農耕社会の成立 』 岩波新書 )。

 「それを可能にしたのは、縄文時代後・晩期の海峡を挟んだ地域どうしの相互交流の蓄積であった」とすると、この話は、前回の「玄界灘に日本の古代をたずねる旅」に接続することになる。

 一衣帯水、日本海を挟んで、朝鮮半島南部と九州北部は一つのゆるやかな共同体であり、文化圏を形成していた。そこは、海人族も活躍した海だった。(了)

     ★    ★    ★          

   読者のみなさまへ

 いつもご愛読、ありがとうございます。

 さて、このブログ「ドナウ川の白い雲」は、しばらくの間、お休みをいただきたいと思います。その間も、このブログをお忘れなきよう、お願いいたします。

 次号は11月の初旬の予定です。たぶん「ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルへの旅」となるでしょう。 どうか、お楽しみに。

 そして、それまで、お元気で、お過ごしください。

 また   

 

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本州最北端の波打ち際から大間崎灯台を見る …… 本州最北端への旅(5)

2016年08月25日 | 国内旅行…本州最北端への旅

  (大間崎の海岸から灯台を見る)

 早朝、平館村の不老不死温泉を発ち、国道280号を陸奥湾沿いに走って、蟹田港へ向かった。    

 蟹田港からは9時20分発の 「むつ湾フェリー」 に乗り、津軽半島に別れて下北半島へ渡る。フェリー会社に予約の電話を入れた時、余裕をもって、30分前までには港に来るように言われた。

 充分に、早く到着した。フェリーの名は、体型に似合わず、なぜか、「かもしか」。フェリーの前に、横向きに車を駐車させて、海を見ながら待つ。

 

 生まれて初めて車をフェリーに乗せた。初めての経験は、何事によらず、勝手がわからず、緊張する。

 下北半島の脇野沢港まで、約1時間だ。

 船の船室にいると、列車の座席では感じないのに、閉所恐怖症のように、息苦しさを感じる。1時間ぐらいなら、甲板に出て、潮風に吹かれながら、海を見ている方が楽しい。

 津軽半島が、遠く霞んで見えた。龍飛岬はここからは山蔭に隠れて、晴れていても見えないはずだ。

 

 甲板に人が増え、ざわめきが起こり、盛んに写真を写しだす。何事かと見ると、海にイルカの群れが泳いでいる。

 フェリーに並んで、「駆けっこしよう」、というように、どこまでもついてくる。

 みんなが甲板でシャッターを切る。周りのおじさん、おばさんたちに負けずに、写真を撮った。最近はスマホの方が綺麗に撮れることも多いが、さすがに、こういう動きのあるやや遠い被写体は、一眼レフが威力を発揮する。

 イルカたちはどこまでもついてきて、本当に人なつっこい。競争相手として不足はない、と楽しそうである。

 やがて、ふっとイルカたちがいなくなったと思ったら、船はだんだんと奇妙な岩礁に近づき、そばを通った。室内放送が聞こえたが、どうせ何かに似ていると言っているのだろう。灯台らしきものも立っている。

                       ★

 フェリーは下北半島の脇野沢港に着いた。

 「奥羽山脈は北にむかって勢いが尽きている。尽きた形が下北半島になって、柄を持つ斧のように海中に突き出ている。三方が海で、東が太平洋である。北は津軽海峡、西は内海をなし ……」  (司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』 から)。

 「内海」 とは、今、渡ってきた陸奥湾である。

 さらに、文章は続く。

 「荒蕪の地である。…… なにしろ夏には、オホーツクおろしともいうべき冷たい 『やませ』 が吹き、稲は育ちにくい」 (同上)。

 下北半島の最北端は、龍飛岬よりも北である。大間崎と言う。

 大間崎へ行く途中、佐井町に寄ることにしている。

 佐井港で遊覧船に乗り、「仏が浦」 と名づけられた浦に上陸して、奇岩奇勝を見る。

 私は、実は奇岩奇勝に興味がない。奇岩奇勝を求めるなら、西ヨーロッパに何度も繰り返して行くことはなく、ライオンの寝そべるアフリカの草原だとか、北米のナイアガラの夏でも涼しい滝壺だとか、グランドキャニオンだとか、南米のマチュピチュ遺跡だとかに行って、「目」を楽しませればよい。実際、おカネと時間があれば、いくらでもそういうツアーに参加できる。だが、私は生来出不精で、そういう所にわざわざ行きたいとは思わないのである。

 しかし、青森方面への観光ツアーの日程表を見ると、必ず「仏が浦」 に寄っている。よほどの奇勝なのであろう。それに、ふつう、善男善女は奇岩奇勝が好きなのである。

 で、考えた。せっかく最果ての地を訪ねるのだから、みちのくの奇岩奇勝も見て、「目」の保養としよう。

 ただし、下北半島にやって来た観光ツアーなら必ず寄る恐山だけは、敬遠する。

 私は日本の自然を愛し、古い神社の杜を吹くそよ風や、小鳥のさえずりや、樹木の小枝から漏れる日の光の中に、ふと神々を感じる。それが日本人というものだ。

 だが、異界のものが人にのり移るというシャーマニズムの世界は、いかにもおどろおどろしい。おどろおどろしいものには、近づかない。

 ついでに、奇岩奇勝に関する弁明をしておきたい。

 私が龍飛岬や大間崎に心惹かれるのは、そこが奇岩奇勝絶景だからではない。そこが「北の岬」であり、本州の最果てだから、行ってみたいと思うのである。わが「目」を楽しませるのではない。ロマンを求める「心」が旅立たせるのである。そこに奇岩奇勝絶景はないかもしれないし、また、仮にそこが絶景であったとしても、それはロマンの心の行き着いた「結果」に過ぎないのである。

 佐井港で昼食をとって、遊覧船に乗る。小さな船は満席である。その船が荒波をかき分け、飛沫をあげて高速で疾走する。約20分。

 私は泳ぎには多少の自信があるから、何かあっても海岸までたどり着けそうだが、まわりの乗客を見て、心配になった。船が出るのは天候次第とは、こういうことか。

 ともかく「仏が浦」の荒磯に無事到着。

 2キロに渡って、100mの高さの巨岩が連なる。

 パンフレットには、凝灰岩が風雨と荒波によって削り取られたものと説明があり、さらに「神のわざ 鬼の手づくり 仏宇陀 (ホトケウタ) 人の世ならぬ 処なりけり」 という大町桂月の歌が紹介されていた。「仏宇陀」の 「ウタ」 はアイヌ語で、浜という意だとも書いてある。

   それにしても、大町桂月という人は、どこにでも行っている人だ。

 

 ( 歩いている人と比べてください )

 

        ★  

 午後2時半。再びレンタカーに乗り、本州最北端の地を目指す。

 大間崎のあとは、下北半島を一気に下って、青森市郊外の浅虫温泉まで走らねばならない。津軽も下北も、最果ての地である。適当な宿を都合よく見つけて予約するということが、なかなかに難しかった。

 やがて、本州のゆきどまりに近づいていることが肌で感じられるようになり、小さな港町に入った。最果ての町、マグロで有名な大間町である。

 町を突っ切り、海に出ると、港の向こうに白と黒の大間崎灯台が見えた。岬まで、あと少しだ。           

 大間崎のトン先は、断崖の上ではない。

 目の前の、足元に、遠浅になった津軽海峡の波がひたひたと寄せている。

 「ここ本州最北端の地」と書かれた碑が立つ。  

  

 岬のトン先の波打ち際に座って、しばらく時を過ごした。

 本州が海に向かって切れ落ちた、人里離れた龍飛岬の上と違って、ここは人の生活のにおいがする岬である。

 「そこ (大間港) から津軽海峡20キロをまたげば、北海道である。函館へは30キロほどしかない。大間の人達は、冗談ながら、『函館市大間』などという。子供たちは函館のテレビの地方ニュースを聞いて育つ」(司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)。

 大間崎灯台は、「灯台のある岬50選」の一つであるが、岬の沖合600mの島に立っている。

 晴れていれば、その後ろに北海道の山並みがあり、函館山まで見えるそうだが、今日も曇天である。

 漁をしているのか、灯台の島のあたりにカモメが無数に群がり、また、この付近を飛び交っている。

 岬のすぐ背後の地には、土産物屋が並ぶ。木造りの公衆トイレは、ウォッシュレットだった。

 最果ての地を巡るこの旅で、公衆トイレはどこもウォッシュレットだった。むろん、清掃は行き届き、清潔だった。大阪や奈良の、多くのリピーターによって支えられている近代的な高層ビルの中のスーパーや駅のトイレは、(さすがに最近は綺麗になったが)、 その多くはまだウォッシュレットではない。

 「遅れた都会と進んだ僻地」という、カスタマーに対するこの奇妙な逆転現象は、多分、生きていくことに対する一生懸命さの差だと感じる。その健気さに敬意を表して、ガンバレ、下北、そして津軽。

  

 これから浅虫温泉まで、恐山の麓を通り、むつ市を越えて、そのあとは、陸奥湾を右手に見ながら延々と、もうどこにも寄らず、ひた走らねばならない。

 

         ★ 

 以前、このブログで、会津城の落城のことを書いた。 (大河ドラマ「八重の桜 ── 鶴ヶ城開城を」 を見て……エッセイ)。

 下北半島は、会津戦争の後、矢尽き刀折れて開城した会津の生き残りの士族たちが、移住させられ、寒冷と不毛の地で艱難辛苦した、あの歴史の舞台でもある。

 以下は、司馬遼太郎 『街道をゆく 北のまほろば』 と 『街道をゆく 白河・会津のみち』 からの拾い書きである ……。

 「会津藩の石高は最終期には役料をふくめて45万石とされたが、戦後没収され、下北半島(斗南)に移された。石高はわずか3万石だった。もっとも下北半島では米がほとんど穫れないために、その3万石も名目にすぎなかった。いわば、会津藩は全藩が流罪になったことになる」。

 「会津人たちはこの地を、『斗南』というあたらしい名でよび、以後、『斗南藩』と称することになった」。

 「斗南に移ったのは、そのうちの (会津藩士の戸数4000戸のうちの) 約2800戸、約14000人といい、べつに4300戸、17000人という説もあって、正確なことはよくわからない」。

 下北半島の中央部の田名部、現在のむつ市の付近が、その中心地であった。

 「藩では、かれらに支給する旅費さえ事欠いた。途中、新政府はその窮状を見かね、アメリカの汽船を雇って輸送したりもした。新政府の側に、内々、会津藩への処置が酷でありすぎたという反省がうまれていたのかもしれない。そのせいか、援助もした。明治3年7月、賜米という名目で、米4万5千石をあたえた。

 あらたに隣藩になった津軽藩も、親切だった。明治4年3月、1500両を賜り、うち500両は現金ではなく鋤・鍬など千挺という現物でもって支援した。

 斗南藩のみごとさは、食ってゆけるあてもないこの窮状のなかで、まっさきに田名部の地に藩校を設けたことだった。旧会津藩の藩校日新館の蔵書をこの田名部に移し、さらにあらたに購入した洋書を加えて、会津時代と同名の日新館を興したのである。

 おもしろいのは、かつての日新館が藩士だけの教育の場だったのに対し、田名部での日新館は、土地の平民の子弟にひろく開放されたことだ。この教育を通じて、この地方に会津の士風がのこされたといわれる」。

 だが、「農地の開拓は、大半失敗した。北海道に屯田兵として移住したり、遠くアメリカ合衆国のカリフォルニアへ移住した人達もいる」。

 最後に残ったのは、300戸程度だったらしい。

 「下北は …… 人材も生む。その理由は青森県人ならたれでも知っている。明治後、会津藩が藩ぐるみひっこしてきたからである」。

 「 明治34年東京帝大総長になった山川健次郎や、陸軍大将柴五郎、… 大正2年、大阪市長になった池上四郎もそうだった。池上は、助役としてまねいた関一 (セキ ハジメ。 のち市長) とともに、近代都市としての大阪の祖型をことごとくつくった人で、いまなお感謝されている。

 陸軍大将まで進んだ柴五郎は、「 晩年、少年期を送った斗南の地での飢餓と貧窮、さらには屈辱について書いている。……

 『 いくたびか筆をとれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして齢すでに八十路を越えたり 』。

 『 落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり 』。

 …… 柴五郎の家は、280石という標準的な会津藩士だった。

 籠城中は、父や兄は城内にいた。幼かった五郎は本二ノ町の屋敷にいたが、ある日、郊外の山荘へひとり出された。

 そのあとに、祖母、母、姉妹がことごとく自刃した。末の妹は、わずか7歳だった。木村という家に嫁した姉も一家9人が自刃し、伯母中沢家も家族みな自刃した。かれらは、自発的に死をえらんだ。藩は婦女子も城内に入るようにといったのだが、彼女らは兵糧の費えになるということで、城内に入ることを遠慮したのである。

 歴史のなかで、都市一つがこんな目にあったのは、会津若松市しかない」。

 のち、東京帝大総長になった山川健次郎は、「戊辰戦争のとき、白虎隊にいったんは編入され、年齢が一つ不足していたために外された。このことが、生涯溶けることのない心中の病理になった。…… 日常、白虎隊の話になると涙のために言葉が出なかったといわれる」。

 その兄、山川浩は、藩の家老格の家柄であり、1866年、20台の初めに渡欧し、見聞を広めた。戊辰戦争のとき、日光口 (会津西街道) で土佐の谷干城が率いる政府軍と戦い、これを見事に防いだ。

 谷干城は、以後、終生、山川浩を尊敬し、戊辰戦争のあと、浩は谷の推挙で政府の軍人になる。元会津藩士が官途に着くのは難しかったころで、斗南藩の窮状の助けにならんとしたのである。

 明治10年の西南戦争のとき、熊本城にあって司令官を務めていた谷干城は、薩摩から破竹の勢いで攻め上ってきた西郷軍に包囲され、長期の籠城を強いられた。このとき、敵の包囲を打ち抜いて、最初に熊本城に援軍として入城したのは、中佐・山川浩であった。山川ら会津人にとって、自分たちが「朝敵」であったことなどは一度もなく、薩摩は、多くの死んでいった会津藩士たちの仇敵であった。

 のち、少将まで進み、貴族院議員にもなったのも、苦境にある元会津人を援助するためであった。

 「その晩年、旧藩のことを雪辱すべく」、史録 (『京都守護職始末』) を書いた。「堂々たる修史事業で、一人でできるようなものではなかった。幸い、9歳下の弟 (健次郎) がいて、これに協力した」。

 修史事業は、兄の死後、弟の健次郎が引き受けた。「ようやく明治44年、ひろく世間に売るということではなく、(政府に遠慮して) 旧藩の者にだけくばるという形で、刊行された。むろん、非売品だった。ひょっとすると、山川家の金はこのために尽きたのではあるまいか。わずか2年のあいだに3版まで版をかさねた。刊行と同時に、早くも古典のような評価をうけたのである」。

  なお、山川浩は、私の母校である東京教育大の前身、東京高等師範学校の初代の校長でもあった。文部大臣・森有礼に任じられた。今回、『街道をゆく』を再読するまで、知らなかった。

 私が在学したころ、東京教育大の中に、小さな森と池があった。占春園と呼ばれた。しばしば授業をサボって (そのため、卒業が危うくなった)、池のほとりで本を読んだ。その池のほとりに柔道の創始者・嘉納治五郎の銅像があった。そのため、長年、嘉納治五郎が初代校長だと思ってきた。今回、嘉納先生は、三代目の校長だったことを知った。同窓の方々には知られたくない、不肖の卒業生の話である。

        ★

 下北半島の歴史のひとこまを、少し引用した。引用しながら、涙がにじんだ。

 司馬遼太郎は、その数々の作品をとおして、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、村田蔵六といった、日本を新しい時代へと導いた人々を、骨太く描いてきた。しかし、敗者の側に立った人々についても、万感の思いを寄せて、描いている。

 歴史を語るとは、そういうことであろう。善悪二元論で歴史を裁いても、意味がない。

 皇国史観も、反権力闘争人民史観も、連合国史観も、まして空疎なナショナリズムの一種である中国共産党史観も、韓国反日史観も、歴史を語る、とは言えないシロモノである。

        ★

 暗くなって、浅虫温泉に着いた。棟方志功のゆかりの宿だった。 

 

 

 

 

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龍飛岬で 「津軽海峡冬景色」を歌う …… 本州最北端への旅(4)

2016年08月22日 | 国内旅行…本州最北端への旅

  (津軽半島を龍飛岬へ向かう)

第2日目 午後 龍飛岬へ

< 太宰治記念館へ >

 すでに午後1時をまわっていた。今、津軽半島の付け根の五所川原にいる。今から龍飛岬を経、今夜の宿のある平館まで行かねばならない。初めての地のドライブに、気は急く。

 幸いにも、雨はやんだ。

 国道339号線を走り、岩木川を縫いながら、金木に向かう。

 急いでいても、みちのくにやって来た以上、金木の「太宰治記念館 斜陽館」だけは寄りたい。

 初めて太宰治の作品、「斜陽」や「人間失格」を読んだのは、高3のころだった。私と同世代やそのあとに続く国文系女子に大変人気があった。が、当時の私は、所詮、女子学生の好みそうな作家だと思った。破滅的に人生を生きた (終えた) 作家の作品に、お坊ちゃんらしい「甘え」や「軽さ」を感じて、嫌いではないが、好きにはなれなかった。

 とは言え、一世を風靡した作家であり、何よりも彼の人生に強いコンプレックスの影を落とした彼の一家の暮らした家 …… 大地主で貴族院議員であった父・津島源右衛門が明治40年に建てた彼の生家を見てみたかった。

  太宰の生家は、津島家没落後、太宰の作品名から「斜陽館」と名づけられて、旅館となった。その旅館も廃業し、今は、「太宰治記念館 斜陽館」である。

 車を置いて、道路を隔て、玄関に向き合って立つと、赤い屋根瓦がけばけばしく、周囲の家並みから浮いて見える。

  しかし、中に入ると、青森ヒバを贅沢に使った、地方の名家らしい、ゆったりした造りは、いかにもおちつきが感じられて、好ましい。

 太宰が自分の作品の題名にしたと言う「斜陽」の二文字が、襖の左から2番目の張り紙の終わりにある。

 しっとりとした木の光沢を感じつつ階段を上がると、2階にはハイカラな洋風の部屋があった。

 こういう古い家を見るのは好きである。暮らしてみたくなる。 

         ★

龍飛岬へ >

 金木へ行く途中、ナビがあるにもかかわらず、かなり行き過ぎて引き返し、時間をロスした。

 それで、「金木町津軽三味線会館」に入り、生演奏を聴くつもりだったが、カットして先を急ぐことにする。

 国道339号線は十三湖の北岸に沿って走り、やがて日本海の海岸線に出た。

 

 車を走らせながら、「窓いっぱいに日本海」を感じる。道は、遥かに、まだ見ぬ龍飛岬の方へ続いている。

 やがて、小泊の「道の駅」。お天気も晴れ間が見えてくる。

 以下、太宰治の紀行作品「津軽」から。

 「十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。

 …… お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の龍飛である。西海岸のは、ここでおしまひになってゐるのだ」。 

  「『越野たけ、といふ人を知りませんか』。私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへて、すぐに聞いた」(太宰治「津軽」から)。

 故郷「津軽」をまわる旅の紀行は、最後に、子守として自分を育ててくれた「たけ」という女性を訪ねる旅で終わる。「津軽」を名作にし、今も人々から愛されるのは、「たけ」との再会があるからだ。

 「たけ」は、津島家に子守として雇われ、病身の母親代わりになって、「私」をよちよち歩きの頃から育んでくれた娘である。「私」が少し成長すると、無学なはずなのに、読み書きや人の生き方まで諭すように教えてくれた。無学で貧しくても、真に賢い女性は、母のようにやさしく、大きい。

 「たけ」は小泊港で暮らし、今は孫娘もいる。作家となった「私」は、そういう「たけ」に再会するのである。

  

         ★

 幕末の吉田松陰のころも、昭和の初めの太宰治のころも、そして、今も、小泊を過ぎると、もうそれ以上、海岸線を進むことはできない。国道339号線は山の中へ入って行く。

 ネットの旅の情報コーナーに、180度のヘアピンカーブを切りながら徐々に山頂に近づいた先に、素晴らしい絶景があるとあったが、登るにつれて霧が出て、ついには5m先も見えないような乳白色の濃霧に囲まれた。対向車を恐れてライトを灯し、180度のヘアピンカーブを幾つも越えて、やがて道は峠を越え、下りになって、ついにたった1台の対向車に遇うこともなく、霧もウソのように晴れ、津軽半島のトン先に出た。

 

         ★

< 「津軽海峡冬景色」を歌う >

 広々とした露天駐車場に車を置く。ほとんど人も車もなく、観光バスが1台駐車し、露店が一つ出て、さかんに声をかけてくる。遠く、灯台のある丘の方に、観光バスでやって来たらしい人たちが少し見えた。

 その駐車場の端近くに、「津軽海峡冬景色」の歌詞を刻んだ立派な石碑があった。 

  幸いにも、曇天だった空は青空がかなりの面積を占めるようになり、そして、この石碑あたりは、予想していたとおり烈風が吹きすさんでいた。

  赤いボタンを押すと、石川さゆりの歌が、かなりのボリュームで流れたが、あたりに人はなく、しかも、烈風にかき消される。これ幸いと、二度も、石川さゆりとともに、心をこめて歌った。

 「ごらんあれが龍飛岬 北のはずれと 

  見知らぬ人が指をさす 

  息でくもる窓のガラス 拭いてみたけど

  遥かにかすみ 見えるだけ

  さよならあなた 私は帰ります 

  風の音が胸をゆする 泣けとばかりに 

  ああ 津軽海峡冬景色」

 実は、今回、初めて、歌詞をつくづくと読んだ。

 そして、ここ龍飛岬の石碑は、2番の歌詞が刻まれていることに知った。

 しかも、歌のヒロインの「私」は、龍飛岬にいるのではない。連絡船に乗っていて、船は今、陸奥湾を出て、津軽海峡へ差し掛かっているのだ。

 一人の見知らぬ船客が、自身の寂しさを紛らすためか、独り言のように、「あれが、本州の北のはずれの龍飛岬だよ」と教えてくれる。その言葉に人の温もりを感じ、息でくもる窓ガラスを拭いて、目を凝らして見たが、ぼんやりと陸影らしきものがあるだけで、遥かに霞んで岬は見えない。

 歌は、我々の頭に一旦は、本州の北のはずれの龍飛岬のイメージをうかべさせ、しかし、結局、それはよく見えなかったと否定する。「私」の心の中は一層、悲しく烈風が吹くばかり。「あーあ」は、まさに演歌の風のうなりである。 

 心を込めて歌い、涙がにじんだ。

 灯台の方から降りて来た、ツアーの添乗員らしい女性が、笑いながら、「歌っていましたね」と声をかけた。ツアーの一員だとまちがえたのかもしれない。

 岬の最高峰らしい高台に、白亜の灯台がある。「灯台のある岬50選」の一つ。階段の坂道を上がる。

 灯台は、どこも最果てにあるが、ここは本州の最果てである。本当に、いい灯台だ。

 太宰治は、津軽半島の東海岸、外ヶ浜の方から龍飛岬に到達している。以下、「津軽」からの引用。

 「ここは、本州の極地である。このを過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。

 路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。

 読者も銘記せよ。諸君が北に向かって歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである」 (太宰治「津軽」から)。

 太宰の「鶏小屋に似た」という比喩は、全く理解できないが、多分、太宰が見た集落から、今は、さらに観光用の舗装が伸び、海に切れ落ちる崖のそばまで、道路は続く。

 断崖の端に、様々な石碑が建てられている。その中に、吉田松陰の詩碑があった。炎の形をしている。

 以下は、司馬遼太郎 『街道をゆく 北のまほろば』 からの引用である。

 「ペリー来航の前年の寛永五年(1852)、吉田松陰は十歳年長の友人の肥後人宮部鼎造 (テイゾウ) とともにこの地にきた。この旅は国防を憂える動機から出たものだが …… 」。 

 「かれは、竜飛崎へは日本海側から近づいた。旧暦三月四日、小泊で一泊し、翌朝、海岸を二里北上し、山に入った。むろん、鼎造とともにである」。

 「全行程の半ばは沢渉りだった。谷川に沿ってのぼってゆく。川の水は膝に達し、川筋の残雪は脚を陥没させた。尾根にのぼると、また沢をくだる。その上下をくりかえした」。(司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)

 ペリー来航で初めて日本人が鎖国の夢から覚めたように言うが、すでに大国・清がアヘン戦争に敗れ、民衆がアヘンを買わされていることを、日本の武士階級のなかの優れた人々は知っていた。当時、日本に武士という使命感をもった階級がいたことは、幸いとしなければならない。彼らは身分の上下を問わず、知る者から学び、情報を交換し、議論し、藩を超えて行動を起こした。

 長州藩の兵学者の家を継いだ21歳の松陰も、「日本」の国防という観点から全国を見て回り、遥々と津軽半島までやって来た。今の暦で言えば4月の初め、まだ雪解けには早い季節に、当然のことながら徒歩で、津軽海峡を視察せんとした。ロシア軍艦を意識してのことである。視察の内容はすべて日記に、大言壮語の壮士風にではなく、のちに正岡子規が主張した「写生」の精神に似て、写生風に記録された。

 自分を誇大に見せるような烈士・壮士の気分は、松陰にない。「公」のために全力で生きる熱い志をもつ。気質は晴朗で、やさしく、身分にとらわれず、人を人としてリスペクトする精神をもっていた。

 幕末に、ここまでやって来た一人の若者のことに思いを馳せ、つい余計なことを書いた。

          ★

< 平館村へ >

 日は早くも傾いてきた。

 龍飛岬を出発し、一路、平館村の不老不死温泉へと向かう。初めての道、海岸線の難路、日が暮れては、危うい。

 途中、義経寺があったので、少し立ち寄ってみる。

 以下、司馬遼太郎 『街道をゆく 北のまほろば』 から。

 「マイクロバスから、降りた。国道の周辺が公園ふうに整えられて、すぐそばの山ぎわに、『厩石 (マヤイシ) 公園 三厩 (ミンマヤ) 村』と掲示板があげられている。かつて海中にあって浸蝕を受けた大きな岩礁が、公園の主役である」。

 「(落ち延びて来た) 義経らは、ここから津軽海峡をわたろうとしたが、海が荒れて術がなく、やむなく念持する観音に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が立ち、竜馬を三頭あたえよう、という。

 目がさめて、右の厩石 (マヤイシ) の洞をのぞくと、三頭の竜馬がつながれていた。それに乗って海峡をわたったという」。

 「この三厩 (ミンマヤ) 村から渡海したというだけでなく、『目にも見よ』といわんばかりに、この国道わきからせりあがっている小山の上に、竜馬山義経寺という寺まで建てられている。江戸時代のことである」。

 「寛文七年、円空がこの地にきて観音像を彫り、一堂を建てたのが、起源だという。のち義経寺という名になった」  (司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)。

 太宰治も、友人のNくんとここに来ている。次は「津軽」からの引用である。

 「『登ってみようか』。 N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまった。…… 私たちはその石の鳥居をくぐって、石の段々を登った。頂上まで、かなりあった。…… 石段を登り切った小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立ってゐる。堂の扉には、笹リンドウの源家の紋が付いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持ちで、『これか』 と、また言った。 『これだ』。 N君は間抜けた声で答へた」。

  「 『これは、きっと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠そう それがしは九郎判官、してまたこれなる髭男は武蔵坊弁慶、一夜の宿を頼むぞ、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違ひない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけぢゃなく、江戸時代になっても、そんな義経と弁慶が、うろうろしてゐたのかも知れない』。

 『 しかし、弁慶の役は、つまらなかったらうね 』。N君は私よりもさらに髭が濃いので、或ひは弁慶の役を押しつけられるのではなからうかといふ不安を感じたらしかった。 『七つ道具といふ重いものを背負って歩かなくちゃいけないのだから、やっかいだ 』。

 話してゐるうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかったもののやうに空想せられ、うらやましくなってきた。『この辺には、美人が多いね』 と私は小声で言った」。 (以上、太宰治「津軽」から)。

  息の詰まるような生家と故郷から逃れ、東京に出て、今は東京人になった太宰は、こんなバカげた伝説を伝える故郷を恥じ、それよりもそれを食い物にしながら自由に放浪する不良青年に、戯作者としての自分を重ねてみるのである。

 司馬遼太郎は、「津軽」のこの部分を一部、引用しながら、さりげなく反論し、みちのくの伝説の数々は、その厳しい自然が作りださせたのだと書く。

 「だからこそ、東北は、柳田国男の民俗学の宝庫だったにちがいない。…… おそらく、雪が伝承をつくるのに相違ない」。

 「もし冬、私が雪のなかにいて、この三厩村で降る雪に耐えているとすれば、義経についての口碑は半ば信じたにちがいない。雪の下では、伝承のほうが美しいのである」。(司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)。

 故郷を嫌悪する太宰は、自己をも嫌悪する。

 司馬遼太郎は共感をもって津軽の人と風土を見る。その共感には、知性が感じられる。

 高台の義経寺からの眺望は、予想したとおり、なかなかのものであった。夕暮れの陸奥湾の先に、明日、行く下北半島が、そう遠くない距離で見えた。

           ★

 平館の不老不死の湯に着く。

 村里の素朴な旅館と思っていたが、旅館というより民宿だった。

  明日は、フェリーで下北半島に渡り、龍飛岬よりもより最北端の大間崎を巡ったあと、一気に青森市まで下る予定である。「上る」という感覚には、なじめない。「下る」のである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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雨の五能線 …… 本州最北端への旅 (3)

2016年08月19日 | 国内旅行…本州最北端への旅

< 第2日目午前 五能線に乗る >

   朝から雨

 五能線の起点駅である東能代駅へ、レンタカーを走らせた。 

 五能線に乗って、列車の窓いっぱいに真っ青な日本海を見ながら、

「…… 鞄を膝に 列車旅

女 みちのく 五能線 

窓いっぱいに 日本海

と歌うつもりだったが …… 、雨の五能線もまた情感があるに違いないと、男鹿の雨の野を走りながら思った。

 レンタカーを返却し、東能代駅の改札へ。

  

 小さな駅だ。ホームに「五能線起点駅」の表示がある。

 

 地方の小さな町や駅が、アイディアを出し、工夫して、一生懸命頑張っている姿はいい。自助自立と公益との両輪。これからの日本人の生き方である。

 「しらかみ1号」がホームに入ってきた。

 切符は、何と1号車の1番前の座席だ。

 奈良県王寺駅の年配のもっさりした駅員さんは、いつもパソコンを見ながら、割引の切符や眺めの良い席の切符を探してくれる。自分のできる範囲で、黙々と頑張っている日本人の一人だ。

 平日にもかかわらず、車両の座席は8割がた埋まっていた。中国からの旅行者もいる。今や、日本人もなかなか行かないような地方の隠れた観光名所でも、中国人、韓国人、台湾人が旅行している。

 いよいよ五所川原まで、2時間50分の列車旅である。

         ★

 しばらく田野を走った列車は、やがて、海岸線に出た。

 雨の五能線 …… 。ただ窓外の景色に見とれる。

 

 窓に、雨粒が当たって、泡模様になるときもあるが、それでも、少しずつ小やみになって行っているようだ。

 寂しい本州の最北端へ向けて、道路が走る。

 

 

   わが座席の前は運転席だ。五能線も今や有名だから、「リゾート特急・しらかみ」を運転する機関士は誇らしいかもしれない。

 田畑の向こうには、雨に煙る日本海 ……

 

  

   五所川原近くで乗り込んできだ二人が、津軽三味線を何曲か演奏する。腹わたに沁みた。

 広々とした田野は、津軽平野だろうか …… 雨脚も弱まり、まもなく、下車駅だ。

 そして、退屈することもなく、2時間50分の汽車旅は終わり、五所川原駅に到着した。 

         ★ 

 駅舎を出て、駅前の立佞武多 (ネブタ) 館で、シジミのラーメンを食べた。

 腹ごしらえのあと、再度駅レンタカーを借りる。これから2泊3日、ずっとレンタカーの旅だ。

 今日はこれから、津軽半島の西海岸沿いに龍飛岬へ向かい、龍飛岬をUターンしてすぐ、東海岸の小さな温泉民宿で1泊する予定である。

 

 

 

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ナマハゲと、北緯40度の入道崎へ …… 本州最北端への旅 (2)

2016年08月14日 | 国内旅行…本州最北端への旅

              ( 飛行機で秋田へ ) 

< 第1日 男鹿半島をめぐる >

 飛行機で、伊丹空港を出発し、秋田空港に着いた。

 空港でレンタカーを借りて、男鹿半島へ向かう。

 明朝、五能線の始発駅である東能代駅から 「しらかみ1号」 に乗る予定。そのため、今日は男鹿半島に遊び (ドライブして)、半島の西端近くの温泉に一泊する。

 男鹿半島と言えば、遠い昔、学校で教わった「八郎潟の干拓事業」。ただそれも、言葉の上だけの知識で、その後、歳月を経て、ナマハゲという奇祭があることも知ったが、くわしいことは何も知らない。

 ナマハゲもさることながら、今回、男鹿半島に立ち寄ったのは、日本海に突き出した男鹿半島の、そのトン先の大間崎。そこに立つ大間崎灯台を見たかったからである。

         ★

 寒風山は、男鹿半島の真ん中あたりに位置する。

 パノラマラインのヘアピンカーブをゆっくり走って、標高355mの山頂に到着。一面の草原状の起伏が美しい。

 入場料を払って回転展望台に上がってみるが、曇天のため、日本海の眺望は良くない。晴れていれば、絶景だろう。

 眺望は良くなかったが、展望台の中で、少し勉強をした。

 そもそも寒風山は火山の島だった。噴火による成長もあったが、北側に米代川、南側に雄物川が日本海に流れ込み、その土砂の堆積によって、陸続きの半島になった。

 半島の付け根にあたる寒風山の東に、汽水湖の八郎潟が取り残された。

 琵琶湖に次ぐ大きな湖であった八郎潟は、干拓事業により広々とした田となって、湖はわずかに残るのみとなった。 

 (寒風山展望台付近からの日本海の眺望)

         ★ 

 せっかく男鹿半島へ来たからには、ちょこっとでも「男鹿のナマハゲ」に触れたい。旅に出る前に「なまはげ館」という施設があることを知り、寒風山からナマハゲの里へと向かう。 

 道路は快適で、やがて、こんもりとした山中に「なまはげ館」があった。

 そのすぐ先には、なぞめいた雰囲気の漂う神社があったので、まず土地の神さまにご挨拶する。

 真山神社という。

 この神社の奥に、真山 (マヤマ 567m)、本山 (モトヤマ) という峰続きの山があり、平安時代ごろから山岳信仰・修験道の場となった。真山神社の奥宮も、真山にある。

 故に、今も、神仏混合、山岳信仰の風を残す神社である。

 ナマハゲは、この「お山」から、大晦日の晩に降りてくるそうだ。

       

    ( 真山神社の門と本殿 )

 参拝を済ませ、木立を隔てた「なまはげ館」に入ると、たくさんのナマハゲたちが迎えてくれた。

 

 恐ろしい鬼の顔をもち、包丁(或いは、鉈)を手にして、蓑を着たナマハゲは、真山、本山の神々の化身とされる。ゆえに、各家では、災禍を祓い、豊作・豊漁・吉事をもたらす神として、丁寧にお迎えする。

 村里に現れたナマハゲは、大音声を発しながら、怠惰な子どもや嫁を探し、家に侵入してくる。一家の主人は正装して迎え、怠惰な子も嫁もいないと弁明し、お酒と料理を出して帰っていただく、という行事である。

  

     ( 「なまはげたち」 )

  「なまはげ館」を出て、ナマハゲの行事を実演して見せる「男鹿真山伝承館」に入った。

 他の観光客とともに、囲炉裏のある座敷の端に座って待っていると、突然、家が揺れ動くような音をたて、ナマハゲが怒鳴りながら入ってきた。

 次々にふすま、障子を開け、家中を探し回る。すごい迫力だ。 

 そして、家の主人との問答 (怠け者はいないかという詮議と、そのような者はいないという弁明) となり、お酒を出して、来年も、また来てくださいと送り出す。

   (「伝承館」のナマハゲの一場面)

 伝承館のそばに、トイレがあった。清潔で、ウォッシュレットだった。

  

   (「伝承館」のトイレ)

          ★

 天気が良ければ、男鹿海上遊覧船に乗って、船から男鹿半島を眺めるつもりだったが、あいにくの曇天なので、あきらめて入道崎に直行する。

 パーキングに車を置くと、すぐに、入道崎灯台があった。

 灯台から先へ、草原が日本海へ向かって開けている。「灯台のある岬50選」の一つ。

 そこここに、マーガレットの白い花が咲き乱れていた。

 

 ここは、北緯40度の線上にあるそうだ。碑があり、40度のラインを示す石が、点々と草原に並んでいる。40度は、北京、そして、マドリッドとほぼ同じ緯度のようだ。

 

 

  青い海があれば、申し分ないのだが ……。

  夜は、近くの温泉宿に泊まった。

 

 

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岬、灯台、最北端へ …… 本州最北端への旅 (1)

2016年08月07日 | 国内旅行…本州最北端への旅

  (青函連絡船と「津軽海峡」の歌碑)

 カラオケと言えば 「銀座の恋の物語」 と 「ふたりの大阪」。 デュエットでごまかし、独唱は避ける。歌える歌はごくわずか、それも前世紀の歌ばかりだ。

 だからと言って、好きな歌がないわけではない。

 例えば、石原裕次郎の 「北の旅人」。 なにしろ 「旅」 と 「北」 とは男のロマン。歌もさることながら、この歌を作曲した弦哲也が弾く前奏と間奏が素晴らしい。前奏と間奏の間に、歌があると言ってもいいくらいだ。

 美空ひばりの 「みだれ髪」 については、このブログで書いた ( 「美空ひばり考・みだれ髪」… 随想・文化 )。 美空ひばりの高音は美しい。

 「みだれ髪」 もそうだが、世間で大ヒットした曲は、聞くともなく耳に入り、体に沁み込んで、5年も10年も20年もたって、世間が忘れたころに、ふと、これはいい歌だな、名曲だなと、改めて思うことがある。

 例えば、…… これも相当に古い歌で恐縮だが、都はるみの「涙の連絡船」。…… 私はカラオケはしないが、この歌をカラオケで歌うなら、都はるみに負けじとコブシを効かせて熱唱するより、品よく、譜面どおりに、さらっと歌えば、歌そのものがいい歌だから、十分に情感は出る。

           ★

 今はもう遠い昔のことである。……  たぶん、日曜日だ。寝そべって、見るともなくテレビを見ていた。

 画面は、「日本チョモランマ (エベレスト) 登山隊」の日々を追っていた。すでにチベット側からは何度も登頂され、中国側からのアプローチである。まだ、極地法が取られていた時代だから、参加する隊員も多く、運び上げなければならない物資も厖大で、カメラは、物資運搬の帰りだろうか、荒涼と果てしない荒野を走る1台のトラックを映していた。荷台には、10人ほどの山男たちが乗っている。

 そのとき、トラックの荷台の上で、1人の隊員が歌を歌い始めた。すると、その歌はみるみるうちに伝播して、全員の大合唱になった。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」だった。

 私は思わず身を起こして、テレビの画面に、見入った。

 歌の内容は、むくつけき山男たちに似合わなかった。

 この荒涼として果てしなく続く異国の荒野にもそぐわなかった。

 だが、今、男たちのこころは一つになって、声の限りに歌う。

 そう  …… 「津軽海峡冬景色」は、何事かを成し遂げようと異郷の地にあって日々活動している男たちが、その厳しい活動と活動の合間に、ふと遠い 「日本」 を思ったとき、思わず口をついて出てくる歌なのだ。

 国歌は「君が代」だが、国歌とは別に、日本人の心のひだに沁み込んで、異郷にあって思わず口をついて出てくる歌もある。日本人の感性に寄り添い、なぜかこころを揺さぶられる歌である。

 テレビを見ながら、「津軽海峡冬景色」は、そういう歌の一つだと思った。

 よし、そこへ行ってみよう。本州の最北端、竜飛岬に立って、津軽海峡の潮の流れを見下ろしながら、この歌を歌いたい。

 …… それから歳月が流れ、…… 竜飛岬には、「津軽海峡冬景色」の歌詞を彫った石碑が建ち、ボタンを押せば石川さゆりの歌が強風にちぎれながら流れること、そして、ここを訪れた人は一様に、風の中で、石川さゆりとともにこの歌を熱唱するということを知って、ますますそこへ行きたくなった。

 これが、この旅の動機の一つである。笑われても仕方ないような動機だが、わが人生、残りの歳月の方が多いとはとても言えない。やりたくてもできないことはあきらめて、できることは、できるうちに、やっておこう。

           ★ 

 それにしても、旅に出るのは男の子とばかり思っていたら、いつのころからか、カラマツの林の美しい高原や古い城下の街並みに、若い女性たちがあふれだした。

 倉敷は、私の故郷の隣町である。西洋美術に関心を持つようになり、もう一度、大原美術館の絵を見たいと思って出かけたことがあった。ところが、美術館も、そのまわりの柳の堀も、オシャレな喫茶店も、どこもかしこも、「ノンノン」や「アンアン」を手にした若い女性ばかりで、中年男の私は身の置き場がないほどであった。

 「日本のどこかに、私を待っている人がいる」 という山口百恵の歌も、女性たちのロマンと冒険心をくすぐった。その旅で目にする 「風景」 の一コマは、「岬のはずれに少年は魚釣り / 青いすすきの小径を帰るのか」 と歌われ、…… 人の心をとらえるのは具象の確かな形象化であり、谷村新司の詩はなかなかの出来といっていい。

 だが、旅に出るのはロマンばかりではない。女たちもまた、傷心の心を抱いて、「みちのく一人旅」の旅に出る。

 例えば、それは、「津軽海峡冬景色」。

 そして、もう一つ、今回の旅の動機となった歌がある。

 もう歌謡曲が大ヒットしなくなったころ、遅れてやって来た演歌歌手、ご当地ソングの水森かおり。といっても、私は水森かおりのファンというわけではない。申し訳ないが、ご当地ソングの数々も、ピンとこなかった。 

 ただ一つの例外が、「五能線」。

 その歌詞の一番は、こんな風だ。

 「どこへ行ったら あなたから / 旅立つことが できるでしょうか

 残りの夢を 詰め込んだ / 鞄を膝に 列車旅

 女 みちのく 五能線

 窓いっぱいに 日本海」

 作曲は 「北の旅人」 の弦哲也だが、私の心がときめいたのは、メロディよりも歌詞であり、それもその中のたった1行である。

 「窓いっぱいに 日本海」。

 この歌をいつ、どこで、聞いたのかは、全く覚えていない。聞こうと思って聞いたのでないことは確かだ。ただ、あるとき、「窓いっぱいに 日本海」 というフレーズが耳に入ってきて、言葉がイメージとして広がった。

 昔、仕事で、大阪と青森を結ぶ 「白鳥」 という列車に乗って、冬の秋田へ行ったことがある。

 朝、所用があって飛行機に乗れず、たぶん午前11時ごろに大阪駅を出発する「白鳥」に乗ったのだ。

 車窓から見る冬の景色は、琵琶湖の北岸で、早くもすっぽりと雪におおわれ、やがて日本海側に出て、凍えるような暗い日本海の波濤や、雪のかたまりの残る漁村や、深々と雪に埋まった山の中を走り続け、夜の8時ごろに雪の秋田駅に着いた。

 退屈し、腰が痛くなるだろうと覚悟して乗ったが、暖房の効いたコンパートメントに1人座り、琵琶湖北岸から、ただただ雪の日本列島の美しさに見とれて過ごした。

 翌春、もう一度、秋田へ行く機会があった。飛行機で行っても良かったが、あえて、「白鳥」に乗った。

 琵琶湖の北岸から秋田まで、山や谷のあちこちに5月の草花が咲き、水田が一面に広がり、日本海の荒磯があり、そして、全行程を通じて、やわらかく芽吹いた木々の緑の美しさに目が染まった。

 私の「日本」という国の原風景ができあがるような旅であった。

 とっぷりと日の暮れた秋田で降りたが、終着駅の青森へ向かう「白鳥」の赤い尾灯に心を残した。

 五能線は、秋田と青森を結ぶ。その列車の窓枠いっぱいに、真っ青な日本海が広がる、と歌っている。新幹線の窓からは、絶対に味わえない景色である。

 五能線に乗って、窓いっぱいに広がる日本海を見たい。これが、私のもう一つの旅の目的となった。

          ★ 

 そして、この5月、「東能代」駅から「五所川原」駅まで五能線に乗り、レンタカーで本州の最果ての地、竜飛岬、大間崎を巡るという旅に出た。

 今回の旅に理屈はない。五能線に乗ることと、竜飛岬に立って歌を歌うことが目的である。あいにく天候に恵まれなかったが、それもまた、旅。また、人生だ。

 珍しい写真ではないが、文章は少なく、旅で撮った風景写真ばかりのブログである。

 

 

 

 

 

 

 

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