(旧前田家本邸洋館)
<東大駒場>
今日は2か所を回る。目黒区駒場の旧前田家本邸 (別邸は鎌倉に残る) を見学し、そのあと文京区大塚の母校の跡地を訪ねようと思う。あとは新幹線に乗って帰るだけ。
渋谷で井の頭線に乗り換えてコトコトと走り、「駒場東大前」駅で降りた。
天下の東京大学(駒場校)の玄関口とは思えないローカルな駅だ。各駅停車しか停まらない。
駅近くに校門がある。
(東大駒場校門)
戦前は、第一高等学校だった。今は、東大の教養学部。
私などは、学生服、学生帽、黒いマントに高下駄を履いた一高生の姿の方に、何となく親しみというか、憧れを感じてしまう。
前期の授業が始まれば学生たちで賑わうのだろうが、今はまだ4月の初め。若者の姿はまばらで、新入生を迎えるサークルの看板が、校門の内側から学内の奥へと通路に沿ってずらっと並んでいた。学生数に比して、サークルの種類は多い。
(東大駒場構内)
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<旧前田邸洋館との出会い>
大学の前を西へ歩き、大学の敷地が尽きると、北へ折れた。
そこは閑静な住宅街で、敷地がゆったりし、思わず素敵ですねと言いたくなるようなお洒落なお家もある。新緑が萌えはじめ、所々に桜の名残りもあり、春の日射しがやわらかい。
かつて、明治時代、現在の東大駒場校から、これから行く旧前田邸を含めた一帯が、全て東大農学部だった。
大正の終わりに関東大震災があり、昭和になって、東大農学部は今の文京区弥生町に移転し、本郷の各学部と一つになった。
一方、駒場の東大農学部の跡地には、弥生町にあった第一高等学校、そして、本郷の前田侯爵邸も移転してきた。
加賀前田家について。
百万石と言われた加賀前田藩邸は、江戸城天守閣も延焼する江戸大火まで江戸城のそばにあった。大火の後、かつて家康から下賜されていた本郷の地に移る。
明治維新の後、前田家は10万坪あった本郷の上屋敷の大半を文部省 (現東大本郷キャンパス)に譲渡し、上屋敷の南西部1万坪だけを残して邸宅を構えた。
昭和になり、前田本家第16代当主の利為(トシナリ)の時、東大農学部の移転に伴って本郷の邸宅を譲り (その跡は、今も東大本郷に懐徳園として残る)、代替地の駒場へ移った。
以下は、見学の際にもらったパンフレットを参考に書く。
利為(トシナリ)は、年少の頃、養子として前田家に入った。少年時代は政治家志望であったが、前田家は初代の前田利家以来"武"の家格だと言われ、陸軍士官学校に入り、さらに陸軍大学校を出た。
東条英機と同期だったが、仲は悪かったらしい。東条が首相になった時も、その力量を危ぶんでいたという。
若くしてヨーロッパに留学して諸国を歴訪した。また、駐英大使館付き武官を経験し、ヨーロッパの社会、文化とその変貌を知る国際派の軍人だった。
宅地が駒場に移り、昭和4~5年に洋館、和館等を建てた。
やがて一旦、予備役に退いたが、太平洋戦争が勃発して、ボルネオ守備軍司令官として赴任し、搭乗機の墜落で事故死した。
当主を失って、前田家本邸は人手に渡る。敗戦後はさらに占領軍に接収された。
その後、東京都と目黒区の所有となり、今は「駒場公園」と名づけられて保存・公開されている。
私が初めてそこを知ったのは、昭和42年に(敷地内に)日本近代文学館が設立されたというニュースからである。
以後、設立された近代文学館を見学したいと思っていた。そして、もう30年近くも前の話だが、まだ現役で働いていた頃、東京出張の帰りに立ち寄った。
訪ねてみると、近代文学関係資料は旧前田家の洋館の方にも展示されていた。このときまで、私は旧前田邸のことを全く知らず、ただ近代文学資料を見に行ったのだった。
そして、近代文学資料も興味深く見学したが、それらが展示されている建物のたたずまいにも感銘を受けた。良いものを見たという余韻がずっと残った。
今は、近代文学関係の資料は他へ移され、旧前田邸は可能な限り元のように復元されて、それ自体が重要文化財として公開されている。
前回の訪問は、思いがけない出会いだった。
その後、仕事をリタイアした後、私はヨーロッパを旅行して、各地の宮殿や大邸宅を見る機会があった。
そして、もう一度、あの旧前田家の洋館を訪ねてみたいと思うようになった。
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<旧前田家本邸(洋館、和館)を見学する>
井の頭線の駅や東大駒場の正門は大学の敷地の南東側にある。旧前田邸の正門は敷地の北西側。その間、ほどよいウォーキングになった。
塀に囲まれた広大な敷地の門の脇には、ちょっとオシャレな守衛用の建物もあるが、今は無人のようなので、そのまま中へ入った。石の門にも、「駒場公園」と彫られている。
(旧前田邸の正門)
木立の中の小道を進んで行くと、左手の奥の方に和館の建物が少し見え、そして洋館の建物の前に出た。
(旧前田邸・洋館)
岩崎邸と比べると、少し小ぶりに見える。洋館が建てられたのは昭和4年。見かけによらず鉄筋コンクリート造り。表面がレンガ風に見えるのはスクラッチタイルという壁面装飾で、東大本郷の校舎などにも見ることができる。
建物の外形は、イギリス貴族のカントリー・ハウス(田園の中の大邸宅)をイメージして設計されたそうだ。
玄関で靴を脱いだ。入場無料の上、美麗なパンフレットまでもらった。この記述の多くは、このパンフレットからの引き写しである。
見学者は少なく、訪れている人は静かにゆったりと見学されている。
パンフレットに、1階は海外からの賓客用、2階が家族の空間とある。
1階を迎賓館として使えるようにしたのは、日本に海外からの賓客を気楽に迎える個人邸宅が少ないという、国際派の利為らしい配慮があった。
1階は階段広間を中心に、大食堂は最大26人の会食ができた。白い大理石のマントルピースが印象的。
そのほか、少人数用の部屋や、落ち着いた応接室などもあった。
(来賓接待用の部屋)
ガラス戸からやわらかい光が入り、外は開放的な芝生の庭。その周りは駒場の自然林に囲まれている。
2階へ上がる階段は木造り風で、ぬくもりがあり、木彫りの装飾も施されている。
そういえば、洋館と言いながらも、天井も、柱も、梁も、木造り風で、和風の趣がある。
(階 段)
2階に上がると、家族のための各部屋がある。
当主の書斎、寝室、子どもたちの部屋もあるが、一番立派な部屋は夫人の部屋だそうだ。家族がそこに集えるようにしたという。
(当主の書斎)
私がヨーロッパ旅行で見てきた王侯貴族や近世以後のブルジョアジーの所有する宮殿や大邸宅はこんな規模ではない。天井は遥かに高く、各部屋はもっと規模壮大で、階段や廊下は色模様も美しい大理石。頭上には天使やギリシャ神話が描かれた天井画、或いはきらびやかなシャンデリア、壁には大きな絵画が掛けられ、或いは金箔模様の装飾が施され、天蓋のあるベッド、豪華なテーブルと椅子、大書棚、蒐集された陶磁器の数々など、何をとっても豪華絢爛である。
私は、歴史的な決戦のあった城塞や、何か大きな歴史的事件のあった宮殿には、その史跡を訪ねて、興味感慨があれば遥かな旅にも出てみたいと思った。だが、ただ絢爛豪華を誇るだけの宮殿邸宅の見学ツアーに参加させられたときは、辟易したものだ。ルイ14世のヴェルサイユ宮殿の宮殿の中も大庭園もガイドの詳しい説明を受けたが、こんな野暮ったい所には絶対住みたくないなという感想しかもてなかった。
それに引き換え、旧前田家の洋館は、庶民から見れば豪壮な大邸宅かもしれないが、ヨーロッパの宮殿・大邸宅を見た目には、壮大と言うにはほど遠く、絢爛豪華という言葉は似合わず、むしろ落ち着いて、品良く、暮らしやすい邸宅であるように思った。
参考までに、今、読みかけている 司馬遼太郎の『街道をゆく18 越前の諸道』の中から、題材は陶磁器のことなのだが、日本人のものの見方、感じ方、感性に話が及んでいる箇所を抜粋する。
「室町期になると、明とのあいだに官貿易や私貿易がさかえ、やがてその貿易港として堺や博多の殷賑(インシン) が生まれ、同時に京都が内陸の貿易都市としてあらたな性格をもつにいたる。
これらの町の貿易商人のあいだで、茶湯という独自な美学がうまれるのである。
私がふしぎでならないのは、貿易商人というのは本来華美を好むものかと思われるのに、陶磁器にしても、大型よりも小型を好み、過剰な装飾のものより簡素なものを好み、手のこんだ玉細工に似たものよりも火が偶然に生んだ土くれに近いものを好んだということである。ついには、わびやさびといった、中国陶芸の美学からおよそ対極的なところまでゆきついてしまう」。
「景徳鎮や、高麗官窯、李朝官窯がもつ美的志向とは、およそちがう世界であるといっていい」。
「理屈は別にして、そのようにして焼きものを見るのは、私自身にとって、自己をあらためて見出すという心のやすらぎにかかわることである」。
そもそも西欧や中国のもつ権力や富の巨大さと日本のそれらとの間には、大きな差、落差があるのかもしれないと思う。
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せっかくだから、洋館の東側にある和館も見学に行った。
洋館と和館は長い廊下(回廊)でつながれているそうだが、今は公開されていない。
(和館の門)
和館は、昭和5年、外国からの賓客に日本文化を伝える空間として建てられた。
木造2階建てで、今は1階のみが公開されている。
(書院造りの和室)
この御客間、御次の間は、私にはあまりに広すぎて落ち着かない。
だが、日々を暮らすには畳の部屋も必要だ。時に、座布団を枕に寝ころびたいではないか。
もっと小さい部屋であることが前提だが、書院の障子から外光が入る戸袋のそばに坐り机を置いて (机と椅子でも良いが) 書見でもすれば、心が落ち着くことだろう。
書見に倦めば縁側に出て、こんなに立派でなくても良いが (江戸時代の大名屋敷の庭園と比べれば、規模はごくささやかだが)、小さな庭を見ながら日向ぼっこし、本を読んで、うつらうつらと昼寝もしたい。下駄を履いて、庭木戸から散歩に出るのも良い。
(池泉庭園)
和館の北側の森の中に、日本近代文学館があるが、今回は行かなかった。
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<母校の占春園を訪ねる>
この旅の最後に母校を訪ねた。正確には、母校の跡地である。今、母校の流れを受け継ぐ大学は筑波にある。卒業してから半世紀以上になるが、その間、一度も母校(跡)を訪ねていない。心の隅に親不孝な息子に似た気もちもある。
それでも、筑波がおまえの母校かと聞かれれば、そうだとは言いにくい。母校はと聞かれたら、ここしかない。
閉校のあと校舎等は撤去され、もう何もなく、「教育の森公園」となって、ただ「占春園」だけが残っていると聞いていた。
地下鉄「茗荷谷」駅を出て、国道254号線をはさんで、お茶の水女子大学と反対側にある。
どうでもよい話だが、記憶の底からふと浮かんできた思い出。
大学に入学して間もない頃、朝夕はまるで通学バスのようになる池袋発の路線バスの中で、大勢の乗客の向こうから、「〇〇くーん」と大きな声で呼ばれた。手を振っている。何と同じ高校の2年先輩で、秀才の誉れ高かった女子だった。高校在学中、口をきいたことは一度もない。お茶の水女子大に入ったことはどこかで耳にして知っていたが、私のような凡庸な2年下の男子のことなど知るはずがないと思っていた。
彼女は乗客の間を縫って近づき、「東京教育大に入ったんだって!! 私、お茶大の寮にいるの。一度、遊びに来て!!」と言われた。顔が赤くなるのを感じた。「はあ」と言いながら、女子寮などに行けるはずないだろうと思っていた。訪問は可能なのかもしれないが、わざわざ女子寮に行く気にはなれなかった。
あのバスの中以後、多少気になっていたが、一度も会うことなく、彼女は卒業した。もう、お互いに年取って、顔を合わせても分からないだろう。
ただ、私の中で、ずっと、お茶の水女子大というと、「才媛の学校」というイメージがあるのは、その女子先輩のイメージが重なっているからだ。
しかし、もとはと言えば、東京高等師範学校と東京高等女子師範学校の関係だった。彼女も、高校が同窓であるばかりでなく、大学もそういう関係にあるから、気にかけてくれたのだろう。
母校の跡地は茗荷谷駅からすぐ近くだ。土地の形状など、面影が残っているような気がした。
どんどん入って、筑波大付属小学校の前で道を分け、樹林の小道を、人けのない森の奥へと進んで行くと、なつかしい池のあたりに出た。占春園だ。
(占春園へ)
私の記憶にあるより、かなり鬱蒼としていた。自然の森に帰ろうとしているのかもしれない。その森の中に、芭蕉の句を思わせるような古びた池がある。
(占春園の池)
傍らに、見覚えのある古い石碑があった。在学中はちゃんと読んだことがなかったが、今回は読んだ。
占春園は守山藩の上屋敷の庭園として作庭され、江戸の三名庭の一つであったと刻まれている。
帰って調べると、守山藩は水戸藩の支藩で、福島県の郡山市のあたりを所領にしていた。わずか2万石だが、親藩であるから参勤交代はなく、藩主はここに定住していた。
入学した初めの3か月は、講義をサボって、一人、この池のそばへ来て『チボー家の人々』全巻を読みふけった。その後も、よくここに来た。
そばに嘉納治五郎先生の像が立っている。
(嘉納治五郎先生の像)
説明があり、明治26年から大正8年まで、再度に渡り通算20余年東京高等師範学校長であったこと。また、講道館柔道の創始者であり、国際オリンピック委員としても活躍されたと記されている。
学生時代の私にとって、「一人ぐらいお前のような学生もいていい。安心して、俺のそばで本を読め」と言ってくれているような偉い方だった。
東京高等師範学校が、ここ、東京市小石川区(現在は文京区)大塚窪町に移転してきたのは1903(明治36)年である。
1929(昭和4)年、東京高等師範学校に、東京文理科大学が設置された。東京高商に一橋大学が設置されたのと同様である。
戦後の1945(昭和24)年に、東京教育大となる。文学部、理学部、教育学部、農学部、体育学部をもつ総合大学だった。教育学部も、小学校教員の養成課程ではない。全体にアカデミックな学風だった。その学風は、もしかしたら当時の私に合わなかったかもしれない。ちなみに、私が入学した時、式辞を述べられた学長は、のちにノーベル賞を受賞された原子物理学の朝永振一郎先生だった。
1978(昭和53)年に閉学し、筑波大学に移管された。
その間、75年の歴史をこの地に刻んだ。私がいたのはそのうちのたった4年間だけである。
一番端っこの端に並んで、何とか卒業した。それで、今回も、そっと、嘉納治五郎先生に会いに来た。
これで、この旅は終わる。
(新幹線から)
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このブログ「東京を歩く」は、少々、美禰子にこだわり過ぎ、疲れてしまった。猛暑だったのに、夏休みもなかった。
ゆえに、1か月ほど休憩します。
もう少し秋らしく、涼しくなってから、再開します。また、