ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

プリトゥヴィツェ湖群国立公園の森の中を歩く……アドリア海紀行(5)

2015年11月30日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

 ヨーロッパツアーのなかで、イタリア、フランス、ドイツ、スペイン、スイスなどへのツアーを 「卒業」 した日本人に、今、いちばん人気があるのが、クロアチア・アドリア海方面へのツアーである。

 その人気コースの中で、欠かすことのできない訪問先の一つが、プリトゥヴィツェ湖群国立公園。

 もう一つのハイライトは、「アドリア海の真珠」と言われるドゥブロヴニク。私のお目当てはこちらの方。

 それはともかく、この国立公園の、ブナとモミにおおわれた広大な森の中には、大小16の湖と92の滝がある。

 最も高い位置にある湖と、一番低い位置にある湖の標高差は500m。その間を階段状に92の滝が結んでいる。チョウや小鳥、コウモリ、清流に泳ぐ魚、何と!! ヒグマまでいるそうだ。

 1979年、ユネスコの世界自然遺産に登録された。

 広大な自然公園のなかの森と湖と滝の間を縫うように、ハイキング用の小道が整備され、徒歩以外には、エコロジーバスが上部と下部を、遊覧船が大きな湖の渡し場と渡し場を結んでいるだけだ。

        ★

 公園内のホテルに2泊し、朝の9時から夕方の4時過ぎまで、この自然の中を歩いた。美しく色づいた森の葉に、目が黄色くなった。

 お年寄りも、肥満した人も、足腰の悪い人も、付いて歩ける速さで、ゆっくり、ゆっくりと。

 午前は曇っていたが、午後はすっかり晴れ渡って、木々はすっかり秋の色、水はエメラルドグリーンに澄んでいた。

 自然以外には何もない世界を一日中歩いたのは、若いころ、登山をしていたとき以来だろうか。一日の歩数、15000歩。午後から腰や膝が痛んだが、翌日に持ち越さなかったから、良い運動だったのだろう。

        ★

 さて、たくさん撮った写真のほんの一部を掲載する。

(高台からの景観…連続する滝)

    ( 木の間隠れの滝 )

 

   (水、水、水、地球は水の星)

  

(小道の脇の野の花と清流のカモ)

   ( 大きな湖を渡る遊覧船 )

  (森のはずれにある休憩所の黄葉)

(雨上がりには、増水で通れなくなる遊歩道も)

   ( 澄んだ湖面に黄葉が映える )

       ★

 一昨日訪れた「アルプスの瞳」と言われるブレッド湖 …… 湖の中に小島があり、小島には小さな教会が立ち、教会の鐘の音が湖面を流れ、湖のはずれの絶壁の上には古城が立つ …… あのメルヘンチックな風景こそ…… ヨーロッパ !!

 むき出しの「自然」ではない。ヨーロッパの風土と歴史と文化が作り出した、ヨーロッパ的な自然の景観である。

 湖に浮かぶのは、この地方独特の手漕ぎの舟だけ。

 多くの観光客を受け入れても、別荘やレストランは、風景を損なうようなかたちでは、許可されない。

 「個人の勝手でしょう!!」は、戦後の日本の社会で、子どもの間でさえよく言われた言葉だ。

 しかし、個人主義は、市民精神の上に立脚する。市民精神とは「公」の精神であり、自立した個人が共同体に対して責任の一端を担おうという精神。各自の家の中は、各自の勝手。一歩、家を出れば、そこは、公の場所。個人が勝手にして、良いわけがない。

        ★

 このプリトゥヴィツェ湖群国立公園もまた、同じである。しっかり入場料を取る。そして、人間の歩く遊歩道を効率的に整備し、それ以外には立ち入らせない。公園内のエコロジーバスも、遊覧船も、レストランも、しっかり管理し、生態系を守る。

 例えば、富士山もそのようであってほしい。ゴミの処理や糞尿の処理がきちんとでき、生態系が守れる範囲に入山者数を制限すべきだし、そのために必要な費用は、入山料として取るべきだ。それが、「公」の精神であり、後世への「責任」というものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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内戦による心の傷痕を乗り越えて……アドリア海紀行(4)

2015年11月26日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月25日 

< 冬時間へ切り替える >

 今日は10月の最終日曜日。ヨーロッパ中が、午前0時をもって、サマータイムを冬時間に変える日。旅行中にこういう日に出会うのも珍しい。

 日本との時差は、7時間から8時間に。時計は、どうしたら良いのでしょう? 1時間進める? 1時間遅らせる?

 考えると、頭がこんがらがる。

 正解は、遅らせる!! これで、昨日まで7時半だった日の出が6時半に、日の入りも、18時だったのが、17時になった。

 なにしろ、旅行社から自宅に郵送されてきた日程表にも、1か所ミスがあった。1か所だけだから、かえって気づきにくい。それも、帰りの飛行機の、イスタンブールで深夜に乗り継ぐ日本便の出発時間が、夏時間のままで修正されていなかった。これは結構、ヤバい。

 今日は、首都リュブリャナのホテルに別れを告げ、観光バスで1時間のポストイナ鍾乳洞を見学する。

 昼食後は、国境を越え、クロアチアの山間部にあるプリトビチェ湖群国立公園へ向かう。午後の走行距離は231㌔。約5時間。このツアーで一番長いバスの旅だ。

        ★  

< ポストイナ鍾乳洞を見学する >

 『地球の歩き方』によると、ポストイナ鍾乳洞はヨーロッパ最大の鍾乳洞。毎年50万人の観光客がやってくるそうだ。

 (鍾乳洞の入り口付近はきれいな景色だった)

 見学は、個人やツアーのグループを適当な人数でひとまとめにして、暗い洞窟の中を、ガイドが引率する。見学時間は約90分。日本語のイヤーホーンも渡された。

 まずトロッコ列車に乗って、洞窟の中を2キロほど疾走。

 なかなか爽快で、映画『インディー・ジョーンズ』の1シーンを思い出した。もちろん、この洞窟に聖遺物はないし、聖遺物を横取りしようとする悪漢たちもいない。

 下車後は、洞窟の中を1.8キロ、ひたすら歩く。

 先頭をゆっくりと歩くガイド。その後ろを、写真を撮り、時折はイヤホーンを聞きながら、付いて歩く。

 『地球の歩き方』には、洞窟内の写真撮影は禁止されているとあるが、今はフラッシュをたかなければOK。

 数年くらい前までは、例えばルーブル美術館などでも、世界中からやってきた観光客が (日本人も含めて)、コンパクトカメラでパチパチ撮影し、あちこちでフラッシュが発光した。もちろん、あの「モナリザ」の前でも。当然のことながら係員から鋭い叱声が飛ぶ。それでも、コンパクトカメラをオートでしか扱えない人が多く、係員は一日中、怒っていなければならない。で、寛容なフランスの多くのミュージアムでも、写真撮影が禁止となった。

 それ以前はどうであったかというと、カメラを持って観光しているリッチな旅行者は、日本人だけだった。だから、スリ、かっぱらいに狙われる。時に、重いカメラを持ち、行く先々で撮影する自分の見学スタイルに疑問をもったこともある。手ぶらで、自分の目だけで観光している西欧人を見て、あれが正しい観光のスタイルではないかと……。

 しかし、今、世の中は驚くほどの速さで様変わりした。欧米人の観光客も、最近、ヨーロッパの街角にあふれるようになった中国人観光客も、みんな立派な一眼レフやタブレットを持ち歩き、行く先々で撮影しまくる。国籍・民族を超えて、若いカップルから、写してくれとカメラを差し出されることもよくある。

 現在の高級なカメラは、フラッシュなしでも、感度も良いし、手ぶれもしない。

 さて、洞窟を歩き始めたときは、その規模の大きさに驚いたが、もともと興味のない人間には、しだいに単調になる。そもそもが、奇岩絶景や謎の遺跡を求め、わが目を驚かせたくて海外旅行をしているわけではない。

 最後にまた、トロッコに乗って、地上に出た。

        ★

< 国境の検問所を越える >

 一昨日越えた国境の検問所を、再度、越える。

 出国するスロベニア側は、観光バスの運転手が書類を見せただけで、乗客はバスに乗ったまま通過した。テロリストがいても、出ていくのだから問題ない。入国するクロアチア側は、そうはいかない。検問所の係員がバスに乗り込んできて、一人一人のパスポートをチェックした。

 ところが、──  バスがクロアチア側の検問所に入った途端、ぽかぽかとあまりにお天気が好く、しかも昼食をとってまもなくだったから、それに旅の疲れもあったのだろう、どうしようもないほどの睡魔に襲われ、最後尾の座席を幸いに、パスポートを手にしたまま眠ってしまった。

 呼びかけられて、はっと目を覚ますと、検査官の若者が笑い顔で立っていた。国境を越えるというのに、「平和ボケ」でした。

 スロベニアは1991年に独立宣言し、2004年にNATOとEUに加盟した。2007年には通貨もユーロとなり、シェンゲン協定国にも入った。だから、オーストリアやイタリアからスロベニアに入国するときには、パスポート検査はない。

 一方、スロベニアと一緒に独立宣言したクロアチアは、独立を巡って激しい紛争が勃発した。紛争・内戦は、1995年まで続いた (「クロアチア紛争」) 。

 そのため、NATOへの加盟が許可されたのは2009年、EUへの加盟は2013年。通貨はまだクーナ。シェンゲン協定国に入っていないから、スロベニアとの国境で、パスポート・チェックがある。

        ★

< 「クロアチア紛争」とは、何であったのか >

 1453年、オスマン帝国が、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を亡ぼした。フィレンツェで、ルネッサンスの華が開いたころである。

 1526年、すでにセルビアを併合したオスマン帝国が、破竹の勢いでハンガリー王国も征服する。クロアチアはハブスブルグ帝国の庇護下に入った。

 1529年、オスマン帝国の第1回ウイーン包囲。

 こうしてクロアチアは、16世紀から18世紀の末まで、オスマン帝国とハブスブルグ帝国の激突する、文明の衝突の地となった。

 オスマン帝国は、クロアチア人が逃げ去った土地に、セルビア人など正教徒たちを入植させた。一方、ハブスブルグ帝国も、コソボ地域のセルビア人を国境警備兵として、多数入植させた(「大移住」と呼ばれる)。

 幾世代を経て、オスマン帝国も衰え、ハブスブルグ帝国も弱体化、その間隙を縫って、南スラブ民族という大きなまとまりで、セルビアをリーダーとするユーゴスラビア連邦が誕生した。

 その一番北にあったスロベニアは、13世紀に既にハブスブルグ帝国に併合されていた地域で、その文化的影響が強く、もともとスラブというくくりになじめない。民族的にもほとんどがスロベニア人であったから、ユーゴスラビア連邦が綻びかけたとき、いち早く独立した。

 一方、クロアチアには、人口の25%というセルビア人の入植者がいた。

 彼らは、クロアチアの独立に反対し、セルビアをリーダーとするユーゴスラビア連邦を支持した。

 こうして、今まで隣人として暮らしていた者同士が戦いを始め、クロアチアのセルビア人を連邦政府軍が助けて介入したから、激しい内戦になった。文字通り、昨日まで隣人として暮らしていた者同士が、憎み合い、殺し合った。

 内戦は4年間続き、最後は、総攻撃をかけられたセルビア人30万人が、今まで住んでいたクロアチアから、セルビアやボスニアに難民として脱出するという悲惨な形で、終息した。

 結果的には、一種の「民族浄化運動」ととらえられないこともない。それなら、ナチスと同じだ。しかも、虐殺などの犯罪的行為も多々あった。もちろん、双方に。

 ゆえに、NATOの加盟も、EUの加盟も、容易ではなかった。

 EU加盟の条件として、犯罪行為に対する決着や民族同士の和解が求められた。クロアチア政府は、全面的にこれを受け入れた。

 クロアチアから脱出したセルビア人30万人のうち、すでに半数がクロアチアに戻っている。

 親を殺され、子を殺され、愛する者を殺された、一人一人の心の傷痕 ── 悔しさ、恨み、怒り、憎しみ、悲しみが癒されたわけではない。まだ、20年しかたっていないのだから。

 しかし、岡崎久彦氏が言うように、歴史のくぎりは1世代、20年である。

   ( 無謀な戦争をし、国土が焦土となり、数えきれないほどの若い命を失って迎えた敗戦の日から、東京裁判を受け入れ、講和条約に調印し、経済を復興させ、技術を磨き、ついに新幹線を走らせるようになるまでが、20年である )。

 和解することが、死者への償いである。生きている者同士が許し合うこと以外に、どのような償い方ができるだろう。

        ★

< この旅の目的、ヴェネツィアの海が見えた >

 バスの中、みなさん、午睡に入る。

 しかし、私は旅に出て、乗り物の中で、めったに寝ない。旅は、「点」と「点」ではなく、移動の時間の …… 車窓風景そのものが、旅である。風景には、その国の文化・風土がある。家々の姿や、街のたたずまいや、畑や、森や、山や川や海が、その国を表現している。それを見るために旅をしているのであって、鍾乳洞の中に、スロベニアがあるとは思えない。

   ( クロアチアの田園風景 )

 のどかな田園風景が変わり、車窓右手に、わずかな時間、2度、3度、海が見えた。アドリア海である。午後の日差しの中で、眠るような海。この海が見たくて、ここまでやってきた。

    ( アドリア海が見えた )

 ヴェネツィアの商船や軍船が行き交った海。しかし、歴史を調べれば、もっと近くに、たくさんの悲しみを見てきた海でもある。

 やがてまた、バスはクロアチアの内陸部へ入っていく。

 途中、道路の脇の小さな広場に、内戦時代の遺物が置かれていた。いつかもっときちんとしたミュージアムにするという。

    ( 内戦の遺物 )

 道は田園風景から、奥へ奥へと入って行き、日は沈み、灯のない山道となる。疲れたであろうドライバーのことを気にしていたら、月が出た。驚くほど大きく、明るい満月だ。

 今夜は、プリトビチェ湖群国立公園内の、3軒しかないホテルの一つに泊まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

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「アルプスの瞳」・ブレッド湖を観光する …… アドリア海紀行(3)

2015年11月21日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

「ドナウ川の白い雲」は、今回で、第150号になりました。今まで読んでいただいた方々に、心からお礼申し上げます。人気のブログではありませんが、読んでいただいている方々がいらっしゃるということ ── そのことが、唯一の、そして最大の励みでした。これからも、応援をよろしくお願いいたします。今夜は (も?)、/

   ★   ★   ★

10月24日 のち   

 今日は、午前中に、今、ヨーロッパ観光の中でも人気絶好調、「アルプスの瞳」と称されるブレッド湖を訪問する。午後はスロベニア共和国の首都リュブリャナの見学。

     

   ( ブレッド湖とブレッド城 )

< 小さな共和国・スロベニア >

 スロベニア共和国は、スイスよりもひと回り小さい。

 南側は、昨日、国境を越えたクロアチア共和国。旧ユーゴスラビア社会主義連邦から独立した国の中で、いちばん北に位置する。

 北はオーストリア、西はイタリアと長い国境線を接し、東側をわずかに接するハンガリーも含めて、いずれもカソリックの国。スロベニアもカソリック文化圏に属してきた。ちなみに、旧ユーゴスラビアのリーダー格であったセルビアの宗教は、セルビア正教である。

 それに、スロベニアは (クロアチアも )、社会主義時代から、風光明媚なアドリア海を目指す西側諸国からの観光客を受け入れてきた。何より、経済的に、旧ユーゴスラビア圏のなかでは豊かであった。

 そういうこともあって、1990年には自由選挙が行われた。翌年、クロアチアとともに独立を宣言。クロアチアは苦労したが、スロベニアはわずか10日間のユーゴスラビア軍との戦争を経て、独立してしまった。

 今は、EUに加盟しているだけでなく、旧ユーゴスラビア圏で唯一、通貨もユーロに移行している。

       ★

< 「アルプスの瞳」と呼ばれるブレッド湖 >

 ヨーロッパアルプスは、フランスの南東部、スイス、イタリアの北部に高い峰々を築き、さらにオーストリアの西部からスロベニアの北部に稜線を延ばしている。

 スロベニア北部のアルプス山系をユリアンアルプスと言うそうだ。イタリア、オーストリアとの国境を成す。

 その最高峰はトリグラフ山。標高2864m。そう高くはないが、印象的な山だ。

 スロベニア国旗の中に国の紋章があり、紺碧の空を背景にした白いトリグラフ山と三つの星が描かれている。つまり、トリグラフ山は、スロベニア共和国の象徴である。

 そのトリグラフ山系を湖面に映す、ロマンチックな湖がブレッド湖である。

                    ★

< メルヘンチックな湖の上の教会 >

 首都リュブリャナから、のどかな田舎の景色を楽しみながら、観光バスで1時間。約50㌔。

 あいにくの曇り空だったが、バスを降りると、山々に囲まれた美しい湖面が広がっていた。静寂 ……。

 湖の中に小島があり、その小島はまるで、小さな愛らしい教会を建てるために、太古からそこに存在したかのようである。水に浮かぶ、青い屋根の白い塔が印象的な聖母被昇天教会……このメルヘンチックな教会のゆえに、景色全体が美しい。

 ( 聖母被昇天教会と手漕ぎの舟 ) 

 観光客はみんな島へ渡る。ただし、手漕ぎの舟しかない。昔ながらの手漕ぎの舟は、湖の静寂を保つためである。

 舟を漕ぐ船頭の仕事は、代々引き継がれるそうだ。今、ここは、日本人観光客も含めて人気絶頂の観光地だから、特に夏のシーズンは大いに稼げるだろう。しかし、1艘に10数人乗せて1人で漕ぐのは相当の力仕事である。

 美しい自然の景観や都市の歴史地区の景観を守るという点で、西欧は見事なほど徹底している。何よりも、その方が、そこで暮らす人々にとって誇りとなり、その上、その方が観光客を呼び続けることができ、経済的に地域が長く潤う。

 こういう点、成熟社会に入った日本も、学ぶべきだろう。

 若かったころ、高度経済成長の時代だが、あこがれていた信州の湖に行ったら、観光バスが何台も来ていて 、それは仕方がないとしても、湖畔に土産物屋が並び、大音量で演歌が流され、すっかり興ざめしたことがある。富士五湖も、湖の向こうにそびえる富士山を見に行ったのに、湖の向こうには旅館や飲食店が立ち並んで、わびしい。琵琶湖では水上バイクが暴走している。そのようにして客を呼び込み、仮にいっときの間は儲けることができたとしても、結局、一代もたたないうちに閑古鳥が鳴きだす。しかも、失われた景観、美しかったときのイメージは、もう戻ってこない。

 要するに、自分が生まれ育った国土を愛し、自分の国と郷土の、歴史や文化を大切にせよ、ということだ。そういう心が感じられるところに、結局は、観光客もやってくる。

  

  ( 舟着き場から教会へ上がる石段 )

 小島に着き、舟を降りると、教会の入り口へ続く石段がある。

 このメルヘンチックな教会で結婚式を挙げる花婿は、花嫁を抱いてこの階段を上がらなければいけないそうだ。

     ( 聖母被昇天教会の内部 )

 教会の中に入ると、外からみるよりも小さな教会である。

 現在の教会は、17世紀に土地の領主によって建てられた石造りの立派な教会だが、8、9世紀ころには、今よりもずっと小さく素朴な教会があった。だが、ここには、それよりもさらに遠い昔、まだキリスト教がこの地に及んでいなかったころに、人々が自分たちの神を祀った痕跡も残っているそうだ。ここを祈りの場としたいと思ったのは、キリスト教徒だけではない。

 鐘楼の鐘を衝く順番を待つために並ぶ。添乗員から、心に祈って鐘を鳴らせば願いがかなうと教えられたが、順番を待っている間にすっかり忘れて、ただ鐘を鳴らした。

 それにしても、一神教のキリスト教世界を何度も旅して思うのは、彼らがいかに迷信めいたことが好きかということである。到る所に、願い事をして撫でさすられ、すっかりピカピカになった聖人像の足だとか、頭だとかがある。「ロミオとジュリエット」のジュリエット像の片方のオッパイがピカピカだったり、金具や取っ手や鎖のたぐいもある。西欧人の観光客は、ニコニコ、多少照れながらも、みんなちゃんと撫でていく。もちろん、19世紀にマリアが現れて病を治し、奇跡をおこした泉だとか、そのあとに建てられた教会だとかというのもある。これはもう、迷信ではなく、信仰である。

< ブレッド城から望む「アルプスの瞳」 >

  ( 手漕ぎ舟と岩壁の上のブレッド城 )

  手漕ぎ舟に乗って、もとの舟着き場に戻り、観光バスで断崖の上のブレッド城へ向かう。

 曇っていた空が晴れ、雲一つない青空になった。

  

 

    ( ブレッド城からの眺望 )

  観光バスを降り、石段を少し登ったブレッド城の上は、頑丈そうな城壁と、石造りの建物がいくつかあり、そこは今、ミュージアムやレストランになっていて、 ── 別の建物の中では、修道士が中世風の印刷機で印刷したモノクロのブレッド城の絵や、客の名をその場で印字したワインを売っていた。

 城塞からの、湖の眺めは素晴らしかった

 あまりに好いお天気で、光の量が多く、それに、見た目にはわからないが、湖には靄がかかっているらしく、鮮明な写真が撮れない。

 が、しばらくはただ眺望を堪能した。

 

  ( ブレッド城からの眺望 )

       ★

< 西欧の一員として ── 首都リュブリャナ >

 ユリアンアルプスから南東へ50㌔の盆地に開けた首都リュブリャナ。(この名前は、旅が終わった今も、覚えられない)。人口は27万人。オーストリア・ハブスブルグ家の影響下で発展してきた。

 町の中をリュブリャニツァ川が流れる。川の南東が旧市街、北西に新市街が開ける。

 旧市街を散策する。

 まず、ケーブルカーでリュブリャナ城に上る。

 13世紀初頭にこの地方の領主が築き、その後ハブスブルグ家のものとなった。今は、市が所有。

 一つの建物で結婚式が行われたらしく、着飾った人々が広場に出てきたところだ。

 眺望が良い。

  ( リュブリャナ城からの眺望 )

 町の向こうに、ユリアンアルプスが衝立のように立っている。その向こうはオーストリア。

 首都から見渡せる範囲に国境があるこじんまりした国は、国民が肩寄せ合うようで、落ち着けるかもしれない。

 しかし、あの近さで、ハブスブルグ帝国や、ハンガリーや、オスマン帝国などの大国と接し、圧倒的な大軍をもって侵略・併合された長い歴史を思うと、決して心やすらかというわけにはいかないだろう。その不気味さ、恐怖心は、憲法9条があるから安心と言う日本人には、ちょっとわからない。

 

  ( 旧市街から見上げるリュブリャナ城 )

 

    ( 旧市街の街並み )

  ( リュブリャニツァ川の遊覧船 )

 リュブリャナの旧市街の街並みは美しい。街並みを美しくしようという市民の意志が感じられる。

 それに、パリやミラノの有名ブランド店もあるが、町の職人の手作り、一点ものの店も多い。いつかは、この町から、ブランド商品の発信を。

 リュブリャニツァ川は、旧市街と新市街の間を流れ、セーヌのような滔々と流れる大河ではないが、観光客を乗せて遊覧船が町を巡る。中心部の川岸には、ずらっと飲食店のテラス席が並んでいた。今日は土曜日。若い市民の憩いの場なのだろう。

 西欧の「はずれ」にあって、しかも、或いは、それ故に、おそいスタートを切ったが、それでも西欧都市の一員として価値観をともにしながら、これから伸びて行こうというスロベニアの首都の志を感じた。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

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ちょこっと、クロアチアの首都ザグレブの旧市街…アドリア海紀行(2)

2015年11月14日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月23日(金)  のち

< 西へ西へと飛ぶ……カスピ海も、黒海も横断して >

 前夜、20時30分に関空に集合した。

 22時10分、トルコ航空で出発する。 (定刻より20分も早く出発した!?) 。

 ヨーロッパ旅行で、ヨーロッパ系航空会社以外の飛行機に乗るのは初めてだ。トルコ航空は夜行便である。

 旅行社の企画するヨーロッパツアーに、中東系の航空会社の企画がどんどん増えている。安いし、往復が夜行になるから、観光に効率的なのだろう…?

 ヨーロッパ系の便なら、初め、北西に針路を取り、そのあとは西へ … シベリアの大地の上を延々と西へ飛んで … ウラル山脈を越え、さらに西へ。秋や冬なら日の落ちたアムステルダム、或いは、フランクフルト、或いは、パリ、或いは、ローマへ到着する。

 初めてヨーロッパへ飛んだとき、地図帳で頭の中に形成されている遥かなるユーラシア大陸の上空を、自分が刻一刻と移動していくという、観念と現実の不思議な一致にただ感動したものだ。1万メートルの上空からは、行けども行けども続く寒々としたシベリアの大地や、その大地を巨大なカーブを描いて方向転換するエニセイ河が見下ろせた。

   ( シベリアの大地 )

 トルコ航空は、最初、北西に針路を取らず、夜の大地の上をひたすら西へ西へと飛んで行く。

 中国からモンゴルの上空を通り …… イランの北側、カスピ海の真ん中を横断して ( 昼間、空からカスピ海を見たい! )、北にウクライナ、南にイラクを意識しながら黒海を渡り …… 朝、5時半、イスタンブール空港に到着した。日本とは6時間の時差だから、日本時間なら午前11時半である。

 長い長い夜の旅だが、少しは眠ることができた。

   ★   ★   ★

海外旅行では何が起きるかわからない ! >

 日本国憲法に、「主権を有する日本国民」という表現がある。──  言い換えれば、国境を超えて他国へ入れば、「主権者」としての身分・権利は通用しなくなるということだ。そこが、海外旅行の、「国内温泉旅行」と基本的に違うところだ。「お客様は神様」などと威張れるのは、日本国の中でのことである。そういう海外で自分を保証してくれるものは、日本国政府の発行したパスポートだけ。「地球市民」などという言葉は通用しない。

 と、わかっていても、人はミスを犯す。長い飛行機の旅のあとは、なおさらである。頭は朦朧、夢うつつである。

 沖留めの飛行機を降り、バスで空港の建物に移動し、ザグレブ行きに乗り継ぐため、トランスファー用の長い通路を歩いて、セキュリティ・チェックに到達。いよいよパスポートが必要になったとき、ツアー一行の一人の女性が、パスポートの入ったバッグを機内のシートに掛けたまま忘れてきたと言い出した。

 人ごとながら絶句した。

 これがもし個人旅行で、自分がパスポートを置き忘れてきたとしたら、その場で旅行の継続を諦めるだろう。旅行は断念し、腹を据えて、目の前のこと、まずは最寄りの空港事務所の係員に忘れ物を探してほしいと、身振り手振りも総動員して訴えるしかない。そのあとのことは、あとのことだ。

 添乗員のSさんは、乗り継ぎの時間内に、見事に見つけてきた。

 関空発の飛行機の乗客の多くは日本人だから、その点、安心である。後から降りる誰かがバッグに気づき、乗務員に届けるだろう。誰も気づかなくても、バッグはずっとそこにあり、最後に点検する乗務員が発見するだろう。日本語を話せる女性乗務員がいた。ちょっと会話したが、心優しい、日本大好きのトルコ人女性だった。乗務員は、落し物として、空港の「しかるべき事務所」に届けるに違いない。

 以上のことを信じて、Sさんとしては、空港内の最寄りの事務所の係員に訴え、つまりバッグにはパスポートが入っており、乗り継ぎの時間が迫っていると説得して、係員を本気にさせ、電話、或いは、パソコンで、落し物が届いているかどうか、どこで保管されているかを探してもらう。(そのとき、係員たちを忙殺させるような、何か事が起こっていれば、万事休すだ。個人的事情は後回しにされる)。そうして、どこにバッグが届いているかがわかれば、落し主を連れて広大な空港内の当該事務所にたどりつき、所定の手続きを踏んで、返還してもらう。 

 Sさんはかなりのベテランの添乗員であるが、それにしても、なかなかのものであった。コミュニケーション能力もさることながら、経験と、何よりも根性。

    ★   ★   ★

< ザグレブの旧市街を歩く >

 10時5分、クロアチアの首都ザグレブに到着。日本との時差は、トルコよりさらに1時間遅れて7時間。日本はすでに17時5分だが、今日の活動はこれから始まる。

 お天気は、あいにくの曇天。日本より10℃低いとされるザグレブのこと、防寒対策はしてきたが、それにしては暖かい。

 観光バスに乗り、空港からザグレブ市内へ。

 現地ガイドと落ち合い、添乗員に連れられて、レートが良いという街の中の両替所で、日本円からクロアチアのクーナに両替する。1クーナは約18円。

 それから、街の中のレストランで、みんなで昼食。一行の初顔合せである。

        ★

 ザグレブ市は今は大きく発展しているが、旧市街は緩やかな丘の斜面に開けて、東西が約1.3キロ、南北に約0.8キロ。日曜の散歩で歩く程度の広さだ。

 『地球の歩き方』によると、その小さな旧市街の東側は、11世紀にカソリックの司教座として建設されたカプトル地区で、西側は、13世紀に商工業の町として開かれたグラデツ地区。歴史的に起源の異なる二つの地区が一つになって、小さな旧市街を形成している。

 旧市街のある丘の南の麓にイエラチッチ総督広場があって、伝統的な美しい建物に囲まれている。町の人々が落ち合う場所としてよく使われるそうで、言わばザグレブのヘソ。ここから南には、賑やかな新市街が大きく広がっている。

          ( イエラチッチ像 )

        ★   

 観光はこのイエラチッチ総督広場からスタートした。

 カプトル地区の方へ少し上がって行くと、青果市場があった。ヨーロッパの町はどこでもこうした市が立つ。新鮮な野菜や果物が山盛りに盛られて売られていた。         

 

    ( 青果市場 )   

        ★

 青果市場からさらに丘を上がると、聖マリア被昇天大聖堂の西正面の広場に出る。 

 旧ユーゴスラビアの統一のくくりは、南スラブ民族というくくりである。それが、今では、6つの共和国と2つの自治州に分裂した。スラブ民族というくくりが、民族のくくりにはならなかったということである。実際、スラブ民族と言っても、遠い過去の言語の名残りがわずかに共通して残っている、というに過ぎないらしい。言語以外の、一般に民族を規定する歴史的・文化的・宗教的土壌はかなり違う。

 例えば、宗教だけでも3つの宗教がある。カソリックと、ギリシャ正教と、イスラム教である。

 スロベニアやクロアチアは、その昔、フランク王国のカール大帝の時代にカソリックを受け入れ、その後、ビザンチン帝国 (ギリシャ正教が国教) の政治的・文化的・宗教的影響もあったし、オスマントルコの侵略も受け、人々も流入したが、わが民族は、本来、少しだけスラブの血を引くラテン民族である、という意識が強かった。

 当然、民族運動や独立運動において、カソリック教会は心の砦となってきた。

 そういうクロアチアを象徴する教会が、カブトル地区の聖マリア被昇天大聖堂である。大聖堂は、司教座の置かれた教会で、13世紀ごろに建てられ、19世紀の大地震後、外観はネオゴシック様式で修復されたから、まだ新しい。

  

(聖マリア被昇天大聖堂の西扉口)

 燭台の灯された聖マリア被昇天図の前には、社会見学の児童たち。

 

   (聖マリア被昇天図の前の子どもたち)

 ヨーロッパのどこの町でもよく見る光景であるが、小さいときから、静粛にしなければならない時と場があることを学ぶのは、大切なことである。日本では、親が、子どもの授業参観で私語して、授業を妨害するらしい。

        ★

 坂を上り、西へ向かうと、商工業の町として建設された、しかし今は古都の風情の、グラデツ地区に入る。

 この地区の中心は、屋根のモザイクが印象的な聖マルコ教会。

    ( 聖マルコ教会 )

 屋根の二つの紋章は、左側がクロアチア王国とダルマチア地方とスラヴォニア地方を表す紋章で、これらを併せて、現在のクロアチア共和国がある。右側はザグレブ市の紋章。

 聖マルコ教会も19世紀に改築されているから、紋章は19世紀の民族意識の高揚を表すものであろう。

 教会の右側の旗の見える建物は国会議事堂、左側の門に旗が掲げられた赤い屋根の建物は首相官邸である。

         ★

 聖マルコ教会からグラデツ地区の通りを下って行くと、ギリシャ正教の美しい教会もあった。

   (ギリシャ正教の教会のあった)

 道端で、民族衣装を着た娘さんが、民芸品のお土産を売っている。ザグレブ市のPRガールだろうか ?  

 

   ( 民族衣装の若い女性 )

 「お土産を買わなくても、写真を撮ってもらって構いません」と、笑顔で言ってくれるから、立ち止まって、みんな、パチパチ写真を撮り、彼女と並んで写す人も。ちゃんとポーズを取ってくれる。……で、 遠慮深く、遠くから1枚。

    ★   ★   ★

< 撮影はだめよ‼ >

 小じんまりした旧市街を一巡し、イエラチッチ総督広場に戻って、しばらくの自由時間のあと、観光バスに乗車した。

 クロアチアの首都を見た、とは言えない。旧市街の、ごくサワリを垣間見た、ということか。

 だが、旅は続き、予定では、今日のうちに北の隣国スロベニアの首都に行かなければならない。

 首都ザグレブから、首都リュブリャナまで、観光バスで約3時間。国境を超えて、3時間で首都から首都へ。近い。これがヨーロッパだ。

 途中、林や畑や野の広がる高速道路に、国境の出入国検査場が、料金所のようなたたずまいで、あった。空港のパスポート・チェック、鉄道駅のパスポート・チェックは経験があるが、道路は初めての経験。

 バスを降り、徒歩でクロアチアを出国し、スロベニア側で、今度は入国検査を受ける。

 一行を待っている間に、検問所の写真を撮ろうとしたら、添乗員のSさんに制止された。「写真機を没収されますよ」。そうだった。どこの国であろうと、許可なく国家権力に向けてカメラを構えてはいけない。

 それに、この国の「主権者」ではないのだから、何かあれば、国家間の問題になる。

 

   (車窓風景: スロベニアの田園風景)

 ザグレブでは曇天だったが、すっかり晴れ渡った。山 (丘) があり、緑が豊かで、スロベニアの田園風景はのどかである。

 日本でも秋の日は釣瓶落としと言うが、ヨーロッパの秋の日暮れは、日本よりさらに早い。日が暮れて、スロベニアの首都リュブリャナに入った。

 関空を出てから長い1日だった。やっと風呂に入り、ベッドで横になれる。

 

                 

 

 

 

 

  

 

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「ヴェネツィアの海」へ……アドリア海紀行(1)

2015年11月08日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

イビチャ・オシム氏へのインタビュー  2015年7月10日

 「今でも時々夢を見るんだ。健康を取り戻して、またベンチに座っている夢だ。 (夢の中で) 志半ばで断念した監督業を、もう一度やり直そうと意気込んでいる‥‥」

        ★

  サッカー元日本代表監督は、今、故郷のサラエボにいる。サラエボは、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都である。

 日本人記者の質問に、彼らしい独特の含蓄ある言葉遣いで、現在の日本代表チームにエールを送り、評価し、また、忠告もする。上の引用は、そのインタビューの終わり近くに、ふと出た言葉である。

 功成り、名遂げたサッカー人生のように思える老将オシムの、インタビューの終わりに思わず出た言葉に、胸を打たれた。

 「見果てぬ夢」……。どんな賢者も、老いてなお、悟ったりはできないものだ。

(車窓風景: ボスニア・ヘルツェゴビナの山河)                             

    ( サラエボの街)

        ★

 1990年代、旧ユーゴスラビアでは民族紛争が勃発し、すさまじい内戦になった。昨日までの隣人が敵となり、憎しみと銃弾と多くの涙。

 私が初めて研修視察旅行でドイツ、フランスを訪ねた1995年、ドイツやフランスの地方の小さな町でも、数家族ずつといった単位で、ユーゴスラビアからの難民家族を受け入れ、或いは、受け入れる準備をしていた。差別を感じさせてはいけない、温かく迎え入れよう、という気配りと緊張感が、市や学校の当局者に感じられた。私たちの歓迎レセプションで、フランス側の代表のスピーチの一部を今も記憶している。「日本の皆様、誤解しないでください。フランス人、というが、フランス人という人種はいません。ここにいる〇〇氏はユリウス・カエサルに似ているし、△△氏はポーランドの大統領ワレサ氏にそっくりだし(会場から笑い)、ミセス××はサッチャー首相を思わせる。ヨーロッパ人は交じりあって生きてきたのです」。

 この内戦によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は崩壊し、6つの共和国と2つの自治州に分裂した。今回の旅行で垣間見たオシムの故郷、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国も、今はすっかり落ち着き、イスラム教徒とキリスト教徒が共存しているように見えた。

 イビチャ・オシムは、ユーゴスラビアの代表選手として、1964年の東京オリンピックに出場した。キャンプを張った町で、見知らぬ日本人のお婆さんから1個の梨をもらって、何という愛すべき人々だと、日本人が大好きになった。まだ日本も国際化にはほど遠かった時代で、しかも190センチの大男の外国人に親しく寄って来て、梨をくれたと言う。青年時代にもらったたった1個の梨のことが、74歳の今も、鮮明な記憶として残っている。

 やがて監督となり、ユーゴスラビア代表チームを率い、世界の強豪国へと羽ばたかせた。が、激しい内戦が勃発し、代表チームも解体してしまう。

  ( クロアチアで見た内戦時代の遺産 )

 時を経て、思い出の残る日本に呼ばれ、Jリーグの監督として手腕を発揮した。

 日本サッカー協会はその哲学者のような知性と実践に裏打ちされた深い洞察力と手腕に惚れ込み、全日本の監督を依頼した。が、残念なことにまもなく、病に倒れた。

 大学生時代、教授から数学の研究者になれと勧められた。プロのサッカー選手にならなければ、大学で数学教授をやっていただろうという。頭の良い人なのだろう。

 短い期間であったが、彼ぐらい深い洞察力をもって、日本サッカーの進むべき方向、その戦略と戦術を指し示した監督はいない。それは、ラグビー界のジョーンズヘッドコーチに匹敵すると言ってよいだろう。日本人らしい俊敏さと、90分間走り続けるタフネスさを土台とした、クレバーな「日本サッカー」を目指した。

 彼が病に倒れたあと、日本サッカー協会は、監督とその夫人に手厚く対し、礼を尽くした。

 ちなみに、現在のハリルホッジ日本代表監督もまた、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身者である。サッカー選手を引退して故郷で暮らしていたとき内戦が起こり、その渦中にあって多くの人々を助け、援助し、自身も無一文になり、かろうじて生き延びたという経験を持つ。

    ★   ★   ★

 「紺碧のアドリア海感動紀行」という大手旅行社の主催するツアーに参加した。

 旧ユーゴスラビアから独立した6つの共和国のうちの3つ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを通るツアーである。旅の間、自ずから内戦時代のことも聞き、またその痕跡を目にすることもあったが、今は分裂の結果、それぞれがおさまるべき場所におさまったという感じで、落ち着いているように見えた。

 ところで、私の旅の目的は、民族紛争・内戦のことではない。

 その昔、10世紀の終わりごろから16、17世紀まで、アドリア海は「ヴェネツィアの海」であった。ヴェネツィアの商船や軍船が行き交ったアドリア海を自分の目で見たかったということである。海に文化遺産はなく、海は海に過ぎないのだが、そこには目に見えぬ物語がある。

 なぜヴェネツィアにこだわるのかと言えば、西欧史の中で、ヴェネツィアの歴史がいちばん好きだからである。

 イギリスやフランスやオーストリアなどのような王・貴族と農民という一方的な支配・被支配の関係によって成り立つ封建国家でもなく、フィレンツェのように一見、民主的に見えるが、市民同士の利己がぶつかり合い、絶えず政変・クーデターが起きる内紛の都市国家でもなく、ヴェネツィア800年の歴史には、市民精神(共同体精神)と、時代をタフに乗り切るリアリズム精神が貫ぬいているように思える。

 参考: 塩野七生の次の諸作品

 『海の都の物語上・中・下』(新潮文庫) / 『コンスタンティノープルの陥落』 『ロードス島攻防記』 『レパントの海戦』(以上、中公文庫) / 『緋色のヴェネツィア』 『銀色のフィレンツェ』 『黄金のローマ』(以上、朝日文芸文庫)

 個人旅行ではなく、ツアーに参加したのは、この地方は鉄道が発達しておらず、長距離バスでの移動には不安があったことと、シリアの難民問題による不測の事態を考えたからである。

        ★

 日程は、次のようであった。

10月22日(木)  夜、ターキシュエアラインズで出発

10月23日(金) 早朝、イスタンブールで乗り継ぎ、午前、クロアチアの首都ザグレブに到着ザグレブ観光。その後、観光バスで、スロベニアの首都リュブリャナへ。(泊)

10月24日(土) ブレッド湖観光リュブリャナ観光。 (リュブリャナ泊)

10月25日(日) ボストイナ鍾乳洞観光。その後でクロアチアに戻り、プリトビチェ湖群国立公園へ。(泊)      

10月26日(月) プリトビチェ湖群国立公園観光。(プリトビチェ湖群国立公園泊)

10月27日(火)  でアドリア海に出て、途中、シベニク観光トロギール観光をして、スプリットへ。 (泊)  

10月28日(水) スプリット観光。その後、でドブロブニクへ。 (泊) 

10月29日(木) ドブロブニク観光。 (ドブロブニク泊) 

10月30日(金) で、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ空港へ向かう。途中モスタル観光サラエボ観光。その後、サラエボ空港からイスタンブールへ向かう

11月1日(土)   イスタンブールで乗り継ぎ、夕方、関空着。

        ★

 ツアー名は「紺碧のアドリア海感動紀行」であるが、実際は、クロアチア共和国の内陸部や、スロベニア共和国の内陸部を観光し、最後はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国に入るから、アドリア海を見るのは3日間だけである。

 が、それでも、今、日本で大人気のアドリア海~クロアチア~スロベニアを巡る数あるツアーの中で、日程にゆとりがあり、ドブロブニクにも2泊する、ベターな行程のツアーを選んだ。

 とにかく、年を取って、日程ぎゅうぎゅう、朝早くから夜遅くまで、観光バスに乗り続け、あわただしく見て回る「駆け足観光」は、御免である。 

 

 

 

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