ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

残雪の知床の山並み、そして、北海道東岸の岬へ … 岬めぐりのバスに乗って (北海道の岬をめぐる旅)5

2017年08月26日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

   ( 知床の車窓風景から…海別岳の麓 )

      ★    ★    ★

残雪の知床連山を望む >

5月14日(日) 晴のち曇り 

   今朝も7時半出発。

 早朝の澄んだ空気。森や畑、そして、雪を戴いた知床の連山が、車窓に展開する。

 残雪の山は、心がときめく。

 

 昨夜は知床のホテルに泊まり、今日は、まず、知床五湖の一つ、一湖を観光する。

 パークサービスセンターのある駐車場で下車した。原生林に囲まれた駐車場からも、残雪の連山が見えた。 

 五湖というが、このあたりは湿地帯。融雪期には、知床の山々から、雪解け水がせせらぎとなって流れ込む。湖の数はさらに増えるそうだ。

 一般の観光客が入れるのは、高架木道が整備されている一湖だけ。他の4湖を訪ねたければ、ガイドツアーに入らなければならない。自然保護のためであり、また、ヒグマの被害を避けるためでもある。1日の入山数も、300人までと制限されている。

 一帯がヒグマの生息地で、頻繁に出没し、高架木道には電気柵も付けられているが、ヒグマが現れたら、入山禁止になることもある。この地の主人公は、ヒグマを含めた動植物と神々であって、都会の観光客ではない

 草原の丘に、高架木道が延びている。出発地点のパネルを詠むと、全長800m。一湖の展望台まで、往復15分とある。たいした距離ではない。

 さわやかな5月の青空。湿原の水蒸気が、霧となって立ち上っている。

 残雪の山並みに感動しながら歩いていると、一湖の展望台に到着した。

 湖から盛んに霧が立ち上って、絵に描いたような幻想的な光景である。

 と思う間に、霧が晴れ、湖が鏡となって、原生林の木立や、残雪の山並み、そして、青い空を映し出した。これもまた、一幅の絵のようである

 この旅で、こんな美しい景色に出会えるとは、思ってもいなかった。

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 若いころは、夏になると、よく信州に行った。北アルプスのアルペン的景観に心ときめいて登山もした。堀辰雄や立原道造が愛した白樺や落葉松の高原を、マツムシソウやクルマユリ、オダマキやナデシコを愛でながら散策した。

 北海道に初めて行ったのは、人生の半ばをとっくに過ぎてからだった。

 短い夏休みを使って、知らない北海道を訪ねる旅だったから、ツアーに入った。

 その夏はことさらに暑く、北海道も、バスから降りると炎暑だった。遥々とバスに揺られて、オシンコシンの滝を見たときは、がっかりした。この程度の滝を見るために、長時間バスに揺られたのかと。

 この一湖にも来た。夏、山々に残雪はなく、眠っているようで、湿原は茫々と見渡す限り草が生え、その中に小さな池が、草に埋もれるようにあるだけだった。

 かなりがっかりした。

 今回、期待せずにやって来て、予想外に美しい景色にふれた。自然の景観は、訪れる季節と、お天気に恵まれなければいけないのだ。今回、知床は、カムイがほほ笑んだ。 

 体力、体調が許せばだが、いつか四湖めぐりのガイドツアーに参加するのも良いかもしれない。

[ 知床斜里町観光協会のホームページから ]  

 ユネスコの自然遺産登録について、このように書かれている。

 「海に荒く削られた海岸線、世界でもっとも南端に接岸する流氷、流氷によりもたらされる豊富な魚介類、その魚介類を捕食するヒグマやオジロワシと、海、陸の食物連鎖を見ることができる貴重な自然環境を有する点が評価され、日本で初めて海洋を含む自然遺産の登録となりました」。

 3000万年前、ユーラシア大陸から切り離され、黒潮洗う列島となったこの島国は、世界でも類例のない豊かな自然に恵まれているらしい。現代人から見れば寒冷の地である北海道も、生き物からみれば豊穣の海と陸なのだ。

 冬季には、ウトロ港から流氷船が出ている。

 春から秋にかけては、ウトロ港から、知床半島のオホーツク海沿岸を巡る3種類の観光船が出ている。

 1時間コースがカムイワッカの滝コース、2時間コースがヒグマウォッチングコース、3時間コースが知床岬コース。

 とりあえず「流氷」はパス。人生、あれもこれもはムリというもの。

 今回の旅のテーマは、北海道の岬である。

 「知床岬 … 岬の上は標高30m~40mの台地で、周囲は断崖になっています。特別保護地域に指定されているため一般の観光客は上陸することができません。晴天時には太平洋に浮かぶ国後島を望むことができます」。

 せめて海からであろうと、知床岬を見なければ、北海道岬めぐりの旅は完結しないのではないか。いつか、良い季節のときに、3時間コースの観光船に乗りに来たいものである。

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知床の山懐を峠越えする > 

 バスは、オホーツク海側の斜里町と、根室海峡側の標津(シベツ)町とを結ぶ国道244号線に入って、知床半島の背骨の部分を横断する。

 右手の車窓には斜里岳(1545m)、左手には海別岳(1419m)が、入れ替わり見え隠れした。このあたりに生活する人々は、朝も昼も夕も、知床連山を仰ぎ見るのであろう。

 下の写真は、── 残雪の知床連山を映す一湖の写真とともに ── 、この旅で写した写真のなかで、特に好きな1枚である。

 走るバスの中から、しかも、紫外線カットの窓ガラス越しの撮影だから、多少のブレや画質の悪さは致し方ない。

 大自然のなかに、人間の営みを感じる風景は、心安らぐ。

     ( 海別岳の麓 )

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野付半島でトラクターバスに乗る

 根室海峡に出ると、空はどんよりと曇ってしまった。

   標津町の先の野付半島に寄り、観光する。

     ( 野付半島から野付湾を望む )

 野付半島は、砂嘴(サシ)である。

 砂嘴で最も有名なのは、丹後の「天橋立」であろう。博多湾の志賀海神社のある志賀島と九州本土とを結ぶ「海の中道」も有名である。

 だが、ここは、28㎞もの長さがあり、日本最大規模の砂嘴なのだそうだ。

 ( フラワーロードを走るトラクターバス )

 駐車場のあるネイチャーセンターから突端近くまで歩いて行くことができるが、料金を払って、「乗合バス」に乗ってみた。自然道だから、トラクターがゴロゴロと、牽引する。客を乗せる貨車も、どこかの廃品置き場から拾ってきたようなシロモノだ。だが、もしかしたら運転している長靴のお兄さんは、ネイチャーセンターの一番若い研究員かもしれない。

 横を、同じツアーの健脚の人たちがさっさっと歩いて行く。「バス」の方がわずかに速く、追い抜いた。

 この道も季節になると、原生花園のフラワーロードになるそうだ。

 3千万年をかけて自然がつくった砂嘴も、近年は浸食が激しく、海面の上昇もあり、いずれは寸断されて、島となり、やがてはなくなってしまうらしい。

 海水の侵食によって、トドマツが枯れている。トドワラと言うらしい。

    ( トドワラ )

 野付湾には干潟があって渡り鳥の飛来が多い。渡り鳥の天下であるだけでなく、オオワシやオジロワシ、それに、アザラシが昼寝したり、海水の深い所にはイルカもやって来るそうだ。

 人間の目には荒涼としているように見えるが、ここも、生き物たちにとっては豊穣の海なのであろう。

    ( 野付湾の干潟 )

         ★

日の出ずる岬 … 納沙布岬 >

[ バスガイドの話 ]  根室は暖流と寒流がぶつかり、霧が発生して、夏の気温は、北海道でも一番低いのです。農業には向きません。

   農業ができないから、不毛の地というわけではない。暖流と寒流がぶつかる所は、豊かな漁場でもある。

 根室という北海道の果ての町について、遠い遠い少年の日の思い出がある。

 まだ敗戦の跡をとどめ、日本人がみな貧しかった時代、瀬戸内海の中都市の小学校に通っていた。

 5年生の時、20代中ごろという若い先生が赴任してきて、私たちの担任になった。

 長身痩躯。自分は、予科練から特攻隊にいって死ぬつもりだった、と語られたことが印象に残っている。大人にもいろんな人がいるが、一度は死を心に決めて生きたことのある大人にはかなわないと、少年たちは心の奥で感じていた。

 周囲の大人たち(保護者たち)の評は、「純情で、生一本な先生」。

 私たち教え子にとっては、自分たちと真っすぐに向き合う「大人」だった。

 「勉強せよ」と言う大人は、たくさんいる。子どもに対する愛や心配から出る言葉かもしれないが、すでに少年になった年齢の心には、まず響かないものだ。この先生が、「勉強せよ」と言ったかどうかは、覚えていない。

 覚えているのは、クラスの日々の活動や生活の中の具体的な場面で、子どもたちが何かを仕出かしたとき、時に激しく叱責し、またある時は一生懸命問いかけ諭して、ついには、事に当たって持つべき人としての処し方、「倫理」、守らなければならない姿勢などといったことに及んだことだ。

 私が、少年期を通じて、「倫理」を教えてもらった、と思う大人は、この先生だけである。

 だが、5年生の1年間が終わると、先生は転勤して、遠くへ去って行かれた。「日本の最北端の北海道の、その果てにある根室の小学校へ行きます」と、挨拶された。どうして1年で転勤することになったのか、どうしてそんなに遠くへ行かれるのか、何も語られなかった。もちろん、少年たちには何となく理由がわかっていた。ただ、誰もそれを口にしなかった。それは、大人の世界のことだから。

 霧の多い、暗い波濤の聞こえる根室という淋しい町のことが、私の頭の中に定着したのは、そのときからである。

 6年生になると、また新しく、若くて元気な先生がやって来て、私たちの担任になった。その6月ごろのことだったか?? クラスに、約束どおり、スズランの花がいっぱい送り届けられた。新担任が読んでくれた手紙には、綺麗なままのスズランを送るのに苦労したと書かれていた。今、思えば、宅急便はおろか、家庭に冷蔵庫もない時代、新幹線も走っていない時代のことである。飛行機便をつかうにしても、どのようにされたのだろう。新担任から、ぼそっと、「1か月分の給料をはたかれたみたいだよ」と、聞いた記憶がある。

          ★

 バスは根室半島をひたすら東進し、ついに納沙布岬に到達した。

 バスを降りると、いきなり「四島のかけはし」というかなり無粋な建造物が目に飛び込み、違和感を覚えた。

 愛国的建造物だというかもしれないが、本当の愛国者は日本の美しい自然景観を壊したりしないものだ。

     ( 「四島のかけはし」 )

 歯舞群島の貝殻島まで3.7㎞だが、今日は曇天で何も見えない。

 「四島のかけはし」の先に、「本土最東端 納沙布岬」と書かれた木の標柱が立っていた。この方が、ずっと心に響くものがある。

 さらに行くと、納沙布岬灯台があった。

 パネルがあり、「日本は、古来より『日出ずる国』とされてきましたが、納沙布岬は本土最東端の地で、一番早く朝日が昇ります」。「納沙布岬灯台は、1872年(明治5年)に北海道で最初に設置した灯台(木造)で、1930年(昭和5年)に現在のコンクリート造りに改築されました」とあった。

 日本の灯台50選の一つ。

      ( 納沙布岬灯台 )

 昨年は、ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルのロカ岬に立った。そこにも灯台があった。

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霧多布岬を経て釧路へ >

 すでに日は傾きかけていたが、バスは、本日の2つ目の岬、霧多布(キリタップ)岬へ向かって走る。

 旅の初めは、日本海側をひたすら北上した。最北端の宗谷海峡を回って、今度は豊穣の海、オホーツク海の沿岸を走り、根室海峡に到達した。そして、今、車窓の海は、太平洋である。

 途中、根室本線の小さな踏切を越えた。キタキツネが出てきそうな単線の線路だった。

 

      ( 根室本線 )

 霧多布岬は、人けのない、いかにも最果ての岬だった。それでも、木でつくられた遊歩道があり、きれいに整備されている。

 名のとおり、霧の名所らしい。

         ★

  江戸時代の国防の最前線基地であった厚岸を経て、日が暮れてから、釧路の町に入った。北海道で4番目に大きな町である。サンマ、シシャモなどの漁業の町。積出港。

 故郷を追われるように出た石川啄木は、函館、札幌、小樽と、職を求めて転々とし、ついに雪の釧路に来て、しばらく荒れた生活をした。やがて、意を決して、東京に出る。

 今夜の宿は、釧路のシティホテル。ホテルの部屋の窓から、釧路港がよく見えた。かつて、銀幕のスターであった高倉健や、石原裕次郎や、小林旭が出てきそうな町だ。

 

 

 

 

 

 

 

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宗谷岬からオホーツク海沿岸を走る … 岬めぐりのバスに乗って(北海道の岬をめぐる旅) 4

2017年08月18日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

     ( 宗谷岬…「日本最北端の地」の碑 )

※ ご無沙汰しました。このブログは、北海道の岬をめぐる旅の途中です。

日本最北端の岬に立つ >

 5月13日(土) 曇天。

 3日目は、宿を7時半に出発した。

 あわただしい旅はいやだなあ。せめて8時出発にしてほしい。早い出発でもいいが、それなら、朝食をもっと早く準備してほしい、などと思っているうちに、日本最北端の岬、宗谷岬に到着した。

 ( 日本の最北端は択捉島のカモイヨッカ岬だが、今、日本国民が行くことのできる日本国の最北端が宗谷岬である )。

 バスから降りると、まだ冬。5月中旬とは思えない寒さだ。冬のコートを持ってきてよかった。

 初日に行った積丹半島の神威岬とか、昨年訪れた津軽半島の龍飛崎は、山の峰が延々と海に突き出し、最後は断崖になって、未練の緒を引きながら、海の中に切れ落ちている。

 ここは、そういう抒情的な岬ではない。

 大きな半円を描いたような岬だ。断崖絶壁はなく、波打ち際のそばを道路が通り、どこが突端かもわかりにくい。

 昨日行った野寒布岬や、昨年訪ねた下北半島の大間崎がそうだった。あっけらかんとしている。ここで、大地が尽きた、という感動がない。

 晴れていて空気が澄み、40キロ先に雪を戴いたカラフトの山並みが見える日なら、もっと国境の岬の感を抱くのかもしれないのだが。

 宗谷 = ソウヤとは、アイヌ語で、岩礁や暗礁の多い所の意らしい。

[ バスガイドの話 ]  樺太と北海道とを分ける宗谷海峡は、北海道と本州とを分ける津軽海峡と比べて、海が浅い。そのため、海面が低くなる地球の寒冷期には、北海道、樺太、そしてユーラシア大陸は、陸続きになった。その時期も、津軽海峡によって隔てられた北海道と本州とは、陸続きにならなかった。

 帰ってから調べると、宗谷海峡は最深部でも60mほどしかない。

 「宗谷海峡」は日本名である。国際的な名称は、ラ・ペルーズ海峡。フランスの航海家ラ・ペルーズが1787年にこの海峡を通過し(発見し)、その名が冠せられた。ヨーロッパは絶対主義の時代の終わりに差し掛かり、世界の隅々までも調査し、植民地化しようという時代だった。日本やそこに住む日本人は、無知な野蛮人として、存在しないかの如く無視された。

 宗谷岬の海と反対側は丘となり、丘の上に宗谷岬灯台があった。日本最北端の灯台である。「日本の灯台50選」の一つ。

 海は、波打ち際で眺めるより、少し高い所から見たほうが味わいがある。灯台のある丘は、海を眺めるには手ごろな高さだし、逆方向から、即ち海をバックにして灯台を撮影したいのだが、20分の自由時間に、丘を上がって、下りてくるのは、ちょっと苦しい。

 それに、烈風も吹き、寒い。

     ( 宗谷岬灯台 )

         ★

間宮林蔵のこと > 

  近くに、間宮林蔵の像が建っていた。像は、樺太の方を見つめていた。

 この像は、昭和55年に、林蔵の生誕200年を記念して、岬の南西3キロほど稚内寄りにある「間宮林蔵渡樺の地」に建てられたそうだ。その後、宗谷岬に「日本最北端の地」の碑が建立されたとき、像もここに移された。

 

      ( 間宮林蔵の像 )

 間宮林蔵が樺太に渡った地点には、今も「間宮林蔵渡樺の地」と書かれた自然石の小さな碑と、旅立ちに当たって自ら建てたとされる小さな墓がある。

 先ほど、バスで通った。そこを通りかかったとき、バスガイドが教えてくれので、一瞬、バスの窓から撮影することができた。

 

   ( 渡樺に際して自ら建てた墓 )

 写真の右側の立派な碑は、関係ない。左端の縦長の石が、「間宮林蔵渡樺の地」の碑。その右横の小さな石が墓石である。 

 間宮林蔵は、幕府の命により、1808年と09年の2度、ここから海を渡って、樺太を探索した。1度目のとき、彼の地での死を覚悟し、故郷の筑波から持ってきた石を置いて、自分の墓石代わりにした。故郷にも、同様にささやかな墓を建てて出発した。

 以下の「 」内は、司馬遼太郎『街道をゆく オホーツク街道 』からの引用である。

 「当時の日本は鎖国をしていたために、欧州人に探検されたり、発見されたりするだけの存在だった。

 ただ、幕府や民間の知識人のあいだに、対外的な危機感はひろがっていた。

 とくに、幕府は、北海道の島主である松前藩の対アイヌ酷使の政策が気に入らなかった。

 ラ・ペルーズが宗谷海峡を通過する(1787年)2年前、老中田沼意次が大規模な蝦夷地 (樺太・千島をふくむ) 調査を開始した。

 一方において、ロシア人がしきりに南下運動をつづけていた。ついに根室までやってきて松前藩に通商を申し出たのは、ラ・ペルーズが宗谷海峡を通過する10年前のことである」。

 樺太については、松前藩もすでにその150年ほども前の1635年に調査を始め、翌年には南半分を調査し、その後も数次に渡って調査した。

 これに対して、1792年から最上徳内らによって始められた幕府の樺太調査は、「幕府は世界意識の上に立って樺太を見た。調査の方法も、欧州の技術におとらなかった」というものであった

 間宮林蔵は、常陸の国筑波郡の農家の出身だが、幼少のころから数理に明るく、江戸に出て、地理学者村上島之允に付いて学び、また、幕命によって蝦夷地を調査した師の従者として、調査に同行した。さらに測量家伊能忠敬に見いだされ、その門人となった。

 伊能忠敬に代わって、西蝦夷地 (北海道の日本海岸、オホーツク海岸)を測量し、さらに国後、択捉からウルップ島までの南千島の地図を作製している。

 彼が択捉島にいた1801年、ロシア軍艦2隻が、樺太で暴虐を働き、翌年、択捉島の番屋を襲い略奪した。このとき、間宮林蔵も番屋にいた。彼は徹底抗戦を主張したが、この時代の侍=官僚は事なかれ主義である。林蔵の主張は受け入れられず、幕吏たちは撤退した。事後、幕吏たちは間宮林蔵を除き、処罰を受けた。

 そして、1808年、林蔵は幕府の命を受け、上司の松田伝十郎とともに、樺太の探検に出発する。

 大先輩の最上徳内の助言により、アイヌの小舟に乗って樺太を北上しながら調査した。そして、2人で樺太が島であるという確証を得て、「大日本国国境」の標柱を立て、翌年、宗谷に帰着した。 

 欧州の探検家や地理学者は樺太が半島であると考えていたが、日本人は、もともとここが島であると思っていた。

 調査報告書を提出し、翌月、願いを出して許され、間宮は、再び、今度は単独で樺太に渡る。

 昨年の到達点をさらに北上し、島であることを確認した後、鎖国を破れば死罪であることを承知のうえ、原住民ギリヤーク人とともに、「間宮海峡」を大陸に渡って、アムール川下流域を踏査した。

          ★

 「樺太はその後、日露の雑居地になった」。

 「明治8(1875)年、日露間で条約がむすばれ、樺太全島はロシア領に、千島全島は日本領になった」。

 「ロシアは樺太をさほどには開発しなかった」。

 「1905年、日露戦争の結果として、樺太の南半分が、日本領になった。日本はここに樺太庁を置き、積極的に開発した。主要産業は漁業のほか、林業、製紙、パルプ工業、石炭採掘などで、日本人人口も増え、最盛期には40万を超えた」。

 稚内港駅で列車を降りた乗客たちが、樺太への連絡船に乗り換えた時代のことである。

 「太平洋戦争の敗戦で、日本はすべてを失った」。

 「1875年の日露間の条約により千島全島は法的に日本領であったのに、それまで不法に奪われた。 

 このような変転のなかで、歴史的存在としての間宮林蔵の影は薄くなった」。

          ★

オホーツクの沿岸を走る >

 昨日走った日本海側もそうだが、オホーツク海岸の車窓風景も、単調である。

 例えば、紀伊半島の太平洋岸の車窓風景は、岩礁や島々があり、岬があり、入り江があり、磯があって、日本庭園のように繊細である。

 一方、オホーツクの海岸は汽水湖が多く、今は枯草の原だが、もう少し夏に近づくと、原生花園となるそうだ。

      ( オホーツクの海 )

 北海道らしい直線道路がある。

 風力発電の風車が並んでいるところもある。

 このような民家のない原っぱ (大陸型の風土の場所) なら、よろしい。里山は、ダメ。それは日本の自然・景観の破壊になる。

 どちらにせよ、生み出しているエネルギーはたかが知れている。  

   ( 北海道らしい直線道路 )

 バスガイド曰く、「オホーツク海沿岸地方の風土は、農業には向きません。昔からこのあたりの町や村は、漁業と牧畜で生きています」。

 立ち寄った道の駅のそばに牧場があり、木曽駒のような馬が草を食んでいた。

   ( オホーツク海のそばの牧場 )

 オホーツク海は、樺太 (サハリン)、カムチャッカ半島、それに続く千島列島に囲まれた海域である。

 陸に囲まれ、閉じ込められたような海には、黒竜江 (アムール川) が大量の真水をそそぎ込む。そのため、淡水が海水の上層を成して凍りやすい。

 冬になると、厳しい寒気団・シベリア高気圧が居すわり、12月に結氷が見られ、2月にはオホーツク海の7、8割が海氷でおおわれる。それが、流氷となって北海道の北東岸に押し寄せる。

 北半球で、最も低緯度で見られる海氷だそうだ。 

 オホーツク高気圧が強い夏には、東北地方のイネが実らない冷害を生んだ。

 「オホーツク海は、稲作社会にとってはおそろしい海である」。

 「ただし、漁業者にとっては、別である。宝の海であり、いまもなおホタテ貝の養殖や昆布の採取という、大きな富をもたらしてくれる …… 要するにオホーツク海は漁民の海である」。(『オホーツク街道』から)。

 冬になると流氷船も出るという紋別市。

 紋別市はこの辺りでは大きな町で、8世紀から12世紀ごろ、「オホーツク海文化」人が一大集落をなしていたらしい。市内に遺跡が50か所以上あるという。    

 紋別セントラルホテルで、昼食をいただいた。寒い戸外から暖かい食堂に入り、出されたのはホタテ貝のホタテ尽くしである。新鮮な造りをはじめ、ホタテ貝の数々の料理が実に美味であった。それで、昼間から、燗酒1合を注文してしまった。

 旅のあと、『オホーツク街道』を読んでいたら、司馬遼太郎もこのホテルに宿泊していた。

          ★

知床半島が近づく >

 サロマ湖や能取湖などの汽水湖のそばを通り、車窓から、知床半島と、雪を戴いた斜里岳(1545m)が見えるようになった。

   網走の町を走り、網走刑務所を車窓に見て、網走と釧路を結ぶ釧網本線の線路に旅情を感じる。

  ( 釧網本線の線路 )

 今夜の宿は、知床半島の山懐である。

 

 オシンコシンの滝を過ぎると、高台に登り、今夜のホテルに着いた。

 ホテルから少し歩くと、ウトロ港が見下ろせた。知床岬めぐりの遊覧船が出ているが、今回は乗らない。 

     ( ウトロ港 )

 

 

 

 

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お知らせ・メンテナンス ( スサノオ伝説の旅 )

2017年08月07日 | お知らせ

    ( 出雲大社参道から )

暑中お見舞い申し上げます。

 10

 今回は、カテゴリー 「国内旅行 … スサノオ伝説の旅」の5編を更新しました。

 1~3は写真を更新して、一新できたと思います。

 4と5は、写真はほとんどありません。でも、表現を一部ですが、改めました。

1 スサノオ伝説の旅1 … オロチの里を訪ねる (2013、07)

2 スサノオ伝説の旅2 … 出雲八重垣、妻籠(ツマゴミ)に (2013、08)

3 スサノオ伝説の旅3 … スサノオの終焉の地へ (2013、08)

4 スサノオ伝説の旅4 … 若者オオクニヌシの「壁」となった長老スサノオ (2013、08) 

5 スサノオ伝説の旅5 … 芥川龍之介の描いた「老いたる素戔嗚尊」(2013、08) 

の5編です。

 5の「芥川龍之介の描いた『老いたる素戔嗚尊』」は、当ブログ「ドナウ川の白い雲」の中でも、最もよく読まれている文章で、私自身、好きな作品です。また読み返していただけたらうれしく思います。

        ★ 

 塚口義信 『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』 (原書房) を読みました。

 塚口先生は、大阪よみうり文化センターの講師としても活躍しておられ、私はよく講義を聞きに行っています。その知的で説得力のある話ぶりが好きです。

 魏志倭人伝や記紀などの古文献を、考古学的成果もきちんと踏まえながら読み解き、書かれていることの奥にある真実を論理的に探究していらっしゃいます。そういう先生の姿勢に、こちらも興味津々、知的冒険の世界に引き込まれます。

 

 

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