ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

夏の思い出3 ── 姫川のこと

2024年12月16日 | 国内旅行…信州

 (姫川─白馬村よりやや下流)

<姫川の源流>

 後立山連峰に降った雨や、雪渓から解け出た水は渓流となって麓へと流れていく。その幾筋かは白馬村の中を通る。

 なかでも松川は、あの白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流として、多少の感慨をもって眺める登山者もいる。

   (松川)

 これらの渓流を集めながら、後立山連峰の東側の谷筋を、北へ北へと流れてゆくのが姫川である。流れてゆく先は、県境を越えた新潟県の糸魚川市の海岸。

 糸魚川という川は存在しない。市内を流れる一級河川は姫川である。「厭い(いとい)」から転化したという説もある。姫川は昔から暴れ川だから、そんな風に呼ばれたこともあったかもしれないが、わからない。

 白馬村の姫川の橋の上で流れを眺めていたら、向こうから歩いてきた人が立ち止まって、「糸魚川静岡構造線だよ」と教えてくれた。唐突だったからちょっと驚いた。そういうことに興味をもつ人間と思われたのかもしれない。

 帰宅して改めて調べてみたら、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界で、日本の本州を縦断する大断層線ということだった。優しい名をもつ川だが、何やら畏ろし気である。

 だが、その名のイメージのとおり姫川の水質は清らかで、一級河川のなかで一、二を争う清流である。

 水源はこの村の中にある。白馬村の南の端あたり、標高745mの親海(オヨミ)湿原の湧き水が水源ということだ。

 早春の頃は福寿草が群生し、やがて水芭蕉や鬼百合なども咲いて、木製の遊歩道が整備されていると紹介されていた。行けばよかったと、あとで思った。しかし、木陰が少ないから、夏はただ暑いばかりかもしれない。いつかまた、良い季節に白馬村に行く機会があれば、行ってみたいと思う。

 白馬村の南隣は大町市である。「白馬」駅から大糸線に乗って南下すると、大町市に入ってすぐに青木湖、中綱湖、木崎湖の静かな湖面が次々と車窓に見えてくる。

  (青木湖)

 その青木湖の漏水が親海(オヨミ)湿原の湧き水はではないかという説もあるらしい。しかし、そこまでは調査されていないそうだ。根拠はないが、そうかもしれないと、期待まじりに思った。

      ★

<そして、姫川の河口>

 親海(オヨミ)湿原の湧き水を水源とし、途中、後立山連峰から流れ落ちてくる渓流を集めながら、姫川は北へ北へと、日本海まで60㎞を流れてゆく。川の横を国道が走り、各駅停車の大糸線もトコトコと走って、糸魚川駅まで行く。

 姫川の河口付近の河原や海岸では、ヒスイを採取できる。

 ヒスイは「国石」である。日本鉱物学会によって日本を代表する石に選定された。決選投票では水晶と争い、ヒスイが最終的に選ばれた。

 以前、出雲大社に参拝したとき、宝物館(博物館)でヒスイの勾玉を見て、その美しい緑に魅了された。爾来、ヒスイには心ひかれている。

 だが、国石と言っても、ヒスイは日本列島のどこでも採取できる石ではない。過去にヒスイが採取・利用されたのは新潟県糸魚川市付近のものだけ。

 場所ばかりでなく時代も限定されて、日本の歴史の中でヒスイが装飾品として使用されたのは、縄文時代から、弥生時代を経て、古墳時代までである。その後、ヒスイは日本の歴史からフェードアウトし、誰からも忘れられてしまう。再発見されたのは戦後である。

 今は誰でも糸魚川付近の河原や海岸でヒスイを採取でき、採取された石がヒスイの原石かどうかを鑑定してくれる施設まであるという。それは、河口付近まで流されてきたヒスイはやがて砂粒になって消滅してしまうからである。消滅してしまうなら、子供でも大人でも採取して持ち帰り記念にしてほしい。だが、姫川の少し中上流のどこかで、ハンマーでは割れないから、ダイナマイトなどを使って採取しようとしたら、盗掘になる

      ★

<沼河比売 (ヌナカハヒメ) と姫川>

 今回の旅の中で、ふっと、何故「姫川」なのだろう?? と思った。この川の名は何かいわれがありそうだ …。

 こういうことは、地元の子どもたちの方が郷土学習か何かで勉強して、みんな知っているのかもしれない。それにひきかえ、何度も信濃国を訪ねながら、この年齢まで疑問に思うことさえなかった。

 それで、調べてみた。

 ── 新潟県 (高志国、越国とも) や長野県 (信濃国) には、古来から「沼河比売」を祭神とする神社があり、祭神の「沼河比売」の伝承が残っている。

 漢字表記は「奴奈川姫」などもある。ヌナカハヒメ、或いは濁って、ヌナガワヒメと読むそうだ。

 この姫の名をもつ川が、万葉集に1首だけ登場する。雑歌だが、地方から収集された歌だろう。

 沼名河(ヌナカハ)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(アタラ)しき君が 老ゆらく惜(ヲ)しも」(3247 作者未詳)

 老いていく「君」とはどういう人なのか、歌の作者と 「君」との関係などもよくわからない。

 歌の意は別にして、冒頭に沼名河 (ヌナカハ) という川の名が出てくる。その川から「玉」を得ることができる。ヒスイのことだろう。古語の「ぬ」は宝玉の意をもつから、「ヌナカハ」は玉の川である。

 沼河比売 (ヌナカハヒメ)を祀る神社や、石を採取できる沼河 (ヌナカハ)から、姫川の「姫」は、沼河比売(ヌナカハヒメ)に由来すると考えていい。

 沼河比売 (ヌナカハヒメ)は、遠い昔、ヒスイを採取できるこの地を支配した豪族の祭祀女王であったのだろう。

  (白馬村を流れる姫川)

      ★

<大国主と沼河比売の話>

 沼河比売 (ヌナカハヒメ) は、『古事記』にも一度だけ登場する。神代記の大国主の命の話の中である。

 話を要約すると味も素っ気もないのだが、出雲、伯耆、因幡 (島根県、鳥取県) の王となった大国主が、高志 (越)  (石川県、富山県、新潟県) の沼河比売 (ヌナカハヒメ) を妻にしようと思い、高志国に出かけて行く。

    姫の家の前にやってきた大国主は、鎖された姫の家の外から求婚の歌をあつく詠む。やがて姫も、家の中から大国主に応じる歌を返した。そして、その翌日の夜、二神は結婚したという話である。

 遠い古代(弥生時代後期)に、山陰から北陸にかけて、日本海ルートで「出雲・越連合」が形成された。そのことを神話的に表した話であろう。朝鮮半島や大陸との交易を差配する出雲の王にとって、姫川産のヒスイは貴重な交換財であった。

 『古事記』の沼河比売 (ヌナカハヒメ) に関する記述はこれだけだが、沼河比売 (ヌナカハヒメ) を祀る神社がある地には、大国主と沼河比売 (ヌナカハヒメ) との間に子が生まれたという伝承が残る。子の名は建御名方 (タケミナカタ) の神。成長して、姫川を遡って諏訪地方に入り、諏訪大社の祭神になったという。諏訪大社の方でも、祭神の建御名方 (タケミナカタ) 神の母を沼河比売としている。

    (諏訪大社)

 出雲・越連合の支配圏・文化圏は、姫川を溯って、内陸部の信濃国に及んだ。諏訪大社は信濃国の一宮である。

      ★

<『古事記』の中の建御名方 (タケミナカタ) の話>

 大国主の子である建御名方 (タケミナカタ) も、『古事記』に一度だけ登場する。それは「大国主の国譲り」、即ち大国主命が高天原の勢力に国を譲る話の中である。

 高天原から使者がやってきて、国を譲れと言う。大国主とその子の事代主(コトシロヌシ)はやむを得ないと考える。しかし、もう一人の息子である建御名方 (タケミナカタ) が出てきて反対する。建御名方 (タケミナカタ) は力自慢で意気軒昂である。そして、高天原の使者である建御雷 (タケミカズチ) と戦うことになる。建御雷 (タケミカズチ) は高天原随一の勇者で、建御名方 (タケミナカタ) は全く歯が立たなかった。その結果、建御名方 (タケミナカタ) は信濃国の諏訪に隠棲したという。

 出雲・高志(越)連合が大和の勢力に服属するに至ることを神話的に言い表した話であろう。

    ただ、このとき、大国主は国譲りに当たって一つだけ条件を出した。日本一高い神殿を建てて、自分を末永く祀ること。

 約束は守られ、出雲大社の神殿は、東大寺の大仏殿や平安京の大極殿よりも高かったという。祭祀権は譲渡しなかったのである。

(出雲の美保神社は事代主を祀る)

     ★

<ヒスイの古代史>

 ※Wikipediaの「糸魚川のヒスイ」の記述は、その研究史を含めて極めて詳細で、印刷したらA4で十数ページになった。以下の記述はこれを参考に書いた。

縄文時代のヒスイ]

 ヒスイの原産地は、姫川やそのすぐ南西部を流れる2級河川の青海(オウミ)川の中上流域である。

 縄文時代以来の日本のヒスイ製品の全てが、これらの河川の河口付近で採取された「糸魚川産」のヒスイでだった。

 ヒスイ利用の最古の例は約7000年前、縄文時代前期の敲き石(ハンマー)である。世界で最も古いヒスイの利用例。

 ヒスイが装飾品として利用されるようになったのは約6000年前から。その代表的なものは「大珠」。

 大珠は装身具としては少し大きすぎるから、儀式などの場面で呪術的な役割をもって使われたのではないかと推測されている。言い換えれば、ヒスイは集団の場で威信財として使われていた。ヒスイの美しさと希少さが、畏怖の対象として崇められたのであろう。

 ヒスイには様々な色があるが、古代日本のヒスイ文化は全て緑。他の色のヒスイが使われた例はない。

 縄文期におけるヒスイの分布は、まだ街道と言えるほどの道路網などなかったはずだが、中部地方から東北地方、北海道南部や伊豆諸島にまで広がっている。

 「人が動かなくなる方が、かえって物はよく動く。定住によって、『人は動かず、物を動かす』ネットワークの仕組みができる」(松本武彦『日本の歴史1ー列島創世記』小学館)。

 製品の加工現場は、糸魚川周辺から工房跡が発掘されている。だが、糸魚川にとどまらず、例えば600キロも離れた有名な青森の三内丸山遺跡でもヒスイの加工が行われた跡が発見されている。

 固いヒスイを適度な大きさに割き、磨き上げ、キリで穴をあけるのは、大変な時間と技と労力を要する仕事である。

 縄文時代晩期になると、九州や沖縄からもヒスイ製品が見つかっている。しかし、近畿、中国、四国からはほとんど発見されていない。

      ★

弥生時代のヒスイ ]

 弥生時代前期はさまざまな玉製の装飾品が作られたが、ヒスイ製のものはなく、縄文晩期のものが伝世品として使われていたのではないかと言われる。

 弥生の中期になると、北九州にヒスイの原石が運ばれ、ヒスイ製の勾玉が作られて流通するようになる。

 後期になると、ヒスイ製勾玉の分布は東へと拡大していった。

 勾玉には様々な種類の石が使われたが、ヒスイ製の勾玉が最上位のものとして尊重された。

      ★

古墳時代 ─ ヒスイ製勾玉の最盛期]

 古墳時代のヒスイのほとんどは勾玉に加工され、首飾りとして大切にされた。

 出土の中心は畿内へ移り、関東地方にも広く広がる。

      ★

朝鮮半島のヒスイ]

 朝鮮半島におけるヒスイの利用は三国時代に遡り、4世紀から6世紀前半にかけての伽耶、百済、新羅の王や有力者の墳墓からヒスイ製勾玉が数多く発掘される。

 例えば、新羅の慶州の墳墓から出土した金冠には、57個のヒスイの勾玉が装飾されていた。

 これら朝鮮半島のヒスイも、全て糸魚川産のヒスイである。

 「魏志倭人伝」に記述されているように、当時、鉄素材は朝鮮半島の南の伽耶地方でしか産出せず、それを倭も新羅も百済も入手していた。当然、鉄を手に入れるには交換できるモノが必要にある。朝鮮半島で出土するヒスイ製勾玉は、鉄を得るため日本から持ち込まれた交換財の一つであったと考えられる。(わが国で鉄素材が生産されるようになるのは5~6世紀である)。

 なお、中国においてヒスイが宝石として尊重されるようになるのは17~18世紀の清朝の時代である。ミャンマー産のヒスイが加工され、「翠玉」として王室等で尊重された。

      ★

奈良時代以後 ─ ヒスイ文化の終焉]

 ヒスイ文化は、奈良時代に入ると急速に衰退した。

 東大寺法華堂(三月堂)の本尊である不空羂索観音(国宝)の銀製の冠には、2万数千個の宝玉が飾られ、ヒスイの勾玉も連なっているそうだ。これが日本におけるヒスイの最後の使用例である。

 その後、ヒスイは忘れられていった。利用もされず、産地さえも忘れられていった。

 すっかり忘れられ、江戸時代に古代の遺跡から見つかったヒスイの装飾品も、国内産か、遠い異国から運ばれてきたものか、誰にもわからなかった。

 明治に入り、近代的な考古学の研究調査が行われるようになっても、ヒスイの正体はわからないままだった。

 戦後になって、考古学だけでなく、鉱物学の研究調査が進む中で、古代のヒスイ製品の全てが糸魚川産であることが科学的に判明した。

 古代のヒスイが糸魚川産ではないかということに最も早く気付いたのは、考古学者でも鉱物学者でもない。糸魚川出身の評論家、相馬御風である。昭和10(1935)年のことであった。

 彼は、糸魚川近辺に存在する「沼河比売(ヌナカハヒメ)」を祀る神社、沼河比売の伝承、そして、『古事記』などに登場する「沼河比売」の神話などから、古代のヒスイの産地は糸魚川市内の姫川河口ではないかと思いついたのである。

 神話、伝説、伝承も大切にしなければいけない。

                        ★

<卑弥呼の時代と越のヒスイ>

 素人の私ではあるが、日本の古代史について、今、私が、「納得できる!!」と思いながらオンライン講座でお話を拝聴しているのは、福岡大学の桃崎祐輔先生である。まだ若い考古学の先生だが、お話は国内各地の考古学的成果は言うまでもなく、朝鮮半島や大陸の研究成果にも広がり、沼河比売(ヌナカハヒメ)の伝承にまで及ぶ。

 日本の3世紀前半、すなわち弥生時代から古墳時代へ移行する直前の日本、言い換えれば「魏志倭人伝」に卑弥呼が登場した頃の日本列島について、桃崎先生は少なくとも3つの広域政治連合体が鼎立していたとされる。

 「畿内・瀬戸内連合」、「東海・関東連合」、「山陰・北陸連合」の3つである。

 それぞれ、『邪馬台(ヤマト)国連合』(初期ヤマト王権)、『狗奴(クナ)国連合』、『出雲・越連合』である。

 3世紀初め、これらの連合体はいずれも外部権威(後漢)依存型の「王権」で、彼らの権威は朝鮮半島北部に設置されていた楽浪郡を経由してもたらされる中国製の威信財 (鏡、水銀朱) や、朝鮮半島南部の伽耶地方の鉄資源に依拠していた。

 越(高志)のヒスイは、この時代、出雲・越連合にとって貴重な取引財であった。「鉄が速やかに行きわたった日本海沿岸で、個人を顕彰・誇示する大がかりな墓づくり(四隅突出型墳丘墓)がいち早く発達したことは偶然ではない」(上記『日本の歴史1』)

 (出雲の神社のしめ縄)

 ところが、204~220年頃、遼東半島の公孫氏が台頭して、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置した。そして、これとの交渉上、倭国全体の王を擁立する必要が生じ、卑弥呼が擁立された。卑弥呼の擁立を推進した中心は吉備の勢力。出雲はもともと強いリーダーが存在しない、調整型の社会だったから、事態の変化への対応は遅く、かつ消極的で、次第に立場が弱くなっていったと考えられる。

 238~239年、魏によって公孫氏は滅ぼされた。そのとき卑弥呼はいち早く、直接に魏に遣使して「親魏倭王」の金印を授かり、朝貢ルートを確保・独占した。こうして、邪馬台国(ヤマトコク)連合の主導権が確立した。

   (卑弥呼の墓と言われる箸墓と三輪山、手前は堀)

 その後、313年、台頭した高句麗によって楽浪・帯方郡が滅亡。魏のあとを継いでいた西晋も、316年に滅亡した。以後、東アジアは、589年の隋による統一まで混沌とした状態になる。

 これまで外部権威依存型であった出雲集団はここに至って自律的存続が不可能となり、大和王権に服属する。越(高志)もまた、その余波で弥生的な世界の終焉を迎えた。

 こうして、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国時代に入り、3世紀の後半から4世紀にかけての日本列島も初期ヤマト政権の下に次第に統一されていった。

 桃崎先生の説明を私流にまとめればこのようになるだろうか。 

 とにかく出雲・越の勢力にとって、糸魚川のヒスイは、伽耶の鉄素材を入手するために重要な交換財であった。その後、出雲・越を従わせた大和政権の時代になっても、古墳時代を通じて、糸魚川のヒスイは大いに活躍したのである。

  ★   ★   ★

(閑話) 

 塩野七生さんがこんなことを書いていらっしゃる。

 「あるときのインタビューで、『(歴史)学者たちとあなではどこが違うのか』と問われたことがある。それに私は、こう答えた」。

 「その面の専門家である学者たちは、知っていることを書いているのです。専門家ではない私は、知りたいと思っていることを書いている。だから、書き終えて初めて、わかった、と思えるんですね」。

 塩野さんと私との違いは、塩野さんが学識と見識と文才をもち、さらに多くの読者の期待に応えようとする覚悟をもって対象に挑んでいるのに対し、私の場合は百科事典的なレベルでわかったと納得してしまう点である。

 それでも、ブログを書く根底には知りたいという思いがあるからで、その点で塩野さんと同じである。

 書きながら、調べ、考える。こうして、知らなかったことを知ることは、何歳になっても面白い。いや、若い頃は、「何だろう、これ??」とさえ思わず、日々、前へ前へと馬車馬のように生きていた。今は、立ち止まって楽しんでいる。

 

 

 

 

 

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夏の思い出2 ── お善鬼様の里

2024年12月01日 | 国内旅行…信州

 (青鬼神社の参道の石段)

<白馬村の中を散策しよう>

 若いころ、大雪渓から白馬岳(2932m)へ登って、ふつうは南へ白馬三山を縦走するところを、北へ向かい、雪倉岳(2610m)、朝日岳(2418m)を縦走。朝日岳から人里に下って、ローカルバスで日本海へ出たことがある。そこは「親知らず子知らず」の海岸で、白馬岳から続く後立山連峰が日本海へなだれ落ちた荒々しい海岸だった。遠い昔のことだが心に残る山行で、連れて行ってくれた一行に感謝している。

 また、ある日は、一人で白馬村のゴンドラリフト、アルペンクワッドリフトを乗り継いで、そこからは八方尾根を登り、唐松岳(2696m)に立って、そのまま同じコースを駆け下り、麓の民宿へ帰ったこともある。あの頃は健脚だった。

 大糸線沿線の仁科三湖にボートを浮かべたことや、穂高の村に穂高神社や碌山美術館を訪ねたこともあった。

 (そば畑と仁科三湖)

 中年になると山を登るのはしんどくなり、冬から早春にかけて栂池高原スキー場や八方尾根スキー場でスキーを楽しんだ。スキーの楽しさを教えてくれた若い友人たちにも感謝している。だが、私はスキーそのものよりも、天気の良い日に目の前に聳え立つ北アルプスのパロラマや、シラカバ、カラマツなどがすっぽり雪をかぶった高原の林を見るのが好きだった。林の中の雪の上にウサギの足跡が点々と続いていた。

 今は暑さを逃れてこの村にやってきた。年月は茫々と積み重なって、もうあの頃のような体力はない。

 それでも、ホテルの中に閉じこもっているより、せめては白馬の村の中を歩いてみようと思う。思えば今まで白馬村の中を散策したことはなかった。

 それで調べてみた。夏にこの村を訪れる観光客のほとんどは、ゴンドラリフトに乗って北アルプスの眺望を楽しむか、白馬岳の大雪渓を登山する人たちだ。そのほかに村内に、多くの観光客を引き寄せるような観光資源はどうやらない。

 あれこれ調べて、第二日目は青鬼(アオニ)集落へ行ってみることにした。第三日目は木流し川の散策。この二つをメインと決めた。そして、四日目はまた大和国へ帰る旅だ。

 ただ、白馬村は広くて、徒歩だけで回るのは難しい。レンタサイクルも考えたが、もともと白馬連峰の麓の村である。どこへ行くにも、坂道の上り下りがあるだろう。それで、二日目の半日はレンタカーを借りることにした。

 レンタカーの店は、白馬駅の前の国道沿いにあった。

 (昔の素朴さはないが、綺麗な白馬駅)

      ★

<青鬼(アオニ)の里はどこ??>

 青鬼(アオニ)集落は、平成12(2000)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。さらに翌年には、集落の棚田が日本棚田百選に選ばれた。

 ホテルのフロントでもらった観光地図を眺めて研究した。

 青鬼(アオニ)の里は、白馬村の中の北東部に位置している。白馬岳連峰から下ってきた地形が、姫川の清流を越えて、再び東へと隆起していく途中に、ぽつんとある小さな山里だ。

 わがホテルは、白馬連峰の東側の山麓の、一番麓に近い所に建っている。もう少し下れば白馬駅だ。白馬駅から北へ1駅、向こうが信濃森上駅。そのあたりから、車なら国道を外れて東へ、大糸線の線路を越え、さらに姫川の橋を渡れば、道路は登りとなって、やがて青鬼の山里に至る。

    (姫川)

 青鬼からさらに東へ山の中の道を走れば、…… 現在は長野市に組み入れられている鬼無里(キナサ)の里があり、さらに東へ走れば善光寺や戸隠村に至る。

 昔から、日本海側から信濃国へ塩を運んだ塩の道の千国街道があり、千国街道に接続して、青鬼、鬼無里を経て、善光寺や戸隠へ通じる参詣道が開かれていたそうだ。つまり孤立した集落ではない。

 青鬼集落の標高は760m。ホテルから遠いし、標高も高く、車でなければ行くのは難しい。

      ★

<青鬼(アオニ)の里に伝わる伝説>

 ※ 以下、青鬼集落に関する記述の多くは、白馬村のHPを参考にした。

 青鬼集落に心ひかれたのは、何よりも「青鬼」というおとぎ話めいた村の名と、その由来となった伝説が面白かったから。

 それはこんな話である …… 。

 ── 遠い、遠い、昔のこと。

 あるとき、隣の村に鬼が出没するようになり、さまざまな悪事を働いて、村人たちは困ってしまった。それで村人たちは画策し、ついに鬼を捕らえて、近くにあった洞穴に閉じ込めたそうだ。

 ところが、しばらくすると、鬼の姿が洞穴から忽然と消えてしまった。

 …… しかも、何とその鬼が当村に現れたのだ。しかも、何とも不思議なことだが、その青鬼はあれやこれやと村の発展のために尽くしてくれたのである。

 いつしか村人たちは、この鬼を「お善鬼様」と呼ぶようになった。

 そして、いつの頃からか、鬼を追い出した隣の村は「鬼無里(キナサ)村 (現在の長野市鬼無里地区)」、鬼を閉じ込める洞窟があった村を「戸隠村 (長野市戸隠地区)」、そしてお善鬼様の没後も、お善鬼様を祀った当村を「青鬼(アオニ)村」と呼ぶようになったとか ── 。

   ── 鬼無里村と戸隠村には少々気の毒で、青鬼村にとっては都合の良い話だが、隣村も巻き込んだ何ともユーモラスな伝説である。

   戸隠村の戸隠神社は私の好きな神社で、昔から修験者たちによって修験道が行われてきた。

    今年の早春の頃にも訪ねた。奥社の鳥居の向こうに聳える戸隠山は鋸のような山塊で、いかにも鬼の洞窟がありそうな険しい山である。

 (戸隠神社奥社の鳥居と戸隠山)

 上記の伝説の後日譚もある。

 ── 青鬼集落の北に、岩戸山(1356m)がある。その山の頂近くに青鬼が住んでいたと伝えられる岩屋がある。今は青鬼神社の奥之院とされている。

 いつの頃のことだったか、今ではもうわからぬが、この岩屋を調べようということになって、青鬼の男衆たちが、前日から善鬼堂(今の青鬼神社)にお籠り潔斎して、翌朝、山へ行ったそうだ。

 登ってみると、洞窟の前は眺望が開けて良い眺めである。

 洞窟の入り口はやや狭かった。だが、中へ入ると洞になっていた。広さは2間四方ぐらいもあり、床には小石や砂利が敷いてあって、なるほど昔、人が住んでいた気配もないではない。

 その洞にはさらに横に通じる狭い裂け目があって、男衆のうちの小柄な人が入ってみた。そこにも、前の洞より狭い洞があった。そして、さらに狭い裂け目があって、もっと奥へ通じているのが見えた。しかし、さすがにそこまでは極めなかった。

 青鬼の人たちは、この穴はきっと戸隠の裏山まで通じているに違いないと話したという ──。

      ★

<お善鬼様の里へ>

 レンタカーに乗り、急ぐ旅ではないからのんびりと運転する。

 松川に架かる橋を渡った。松川は白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流である。

  (松川)

 国道を外れ、大糸線の線路を越えて姫川の橋を渡ると、道は大きくカーブしながら山へ登っていく。やがて、青鬼集落の公共のパーキングが目に入った。集落の中へ車を乗り入れてはいけない。

 車を駐車させ、徒歩で青鬼集落の中へ入って行った。今日も暑い日だ

 入り口に、「お前鬼様の里 ─ 青鬼集落」の案内図があった。

   (集落の案内図)

 青鬼集落の構造がよくわかる。

 国の重要伝統的建造物群に指定されている家屋群は、全て南向きに建ち、東西に2列に並んで、等しく日当たりが良い。

 集落の脇を一筋の道が通り、道の先に棚田が広がっている。

 また、集落のほぼ中央部北側から、山の中へ、長い石段が登っていて、その先に青鬼神社がある。

   (お善鬼の館)

 集落の家並みの中に「お善鬼の館」があった。空き家となった家を修理して、自由に中を見学できるようにしている。見学者用のトイレもある。

 

  (青鬼集落の家並み)

 今残る家屋は14戸。土蔵が7棟。家の周囲に塀や生け垣はなく、互いに開放的で、背後には石垣が築かれている。

 江戸時代の後期から明治にかけて建てられた古民家で、屋根は藁ぶきだが、今は鉄板で覆って保護されている。家の大小の差はほとんどなく、何世代も住めそうなどっしりとした構えだ。

 明治に入ると、屋根裏部屋で養蚕もやっていた。

 集落の道を棚田の方へ歩いて行ってみる。暑さで体中から汗が流れた。9月の初め。他に見学者の姿はなく、わずかに畑で作業している人を見かけるだけ。

  (棚田の石垣)

 江戸時代の終わり頃に、石垣で囲った3キロに渡る用水路を開削した。また、集落の東方に石垣で築いた約200枚の棚田を作った。

 かつてスイスのレマン湖の上の山腹に築かれたドウ畑を歩いたことがある。アルプスの山々に囲まれた眼下の湖のたたずまいが美しかった。ブドウ畑は石垣を積んで、山の斜面にへばりつくように築かれていた。その膨大な石垣を見たとき、今は豊かなブドウ畑だが、最初にこの斜面に石垣を積み重ねて畑を切り開いていったこの地の祖先たちの労苦を思わずにはいられなかった。

 ここも同じである。棚田百選に選定される値打ちは十分にある。

 集落の北側はお善鬼様が住んだという岩戸山(1356m)があり、東側は物見山(1433m)、八方山(1669m)によってさえぎられている。

 (北アルプスの方向に開ける)

 それで、南西の側だけが開いている。

 眼下に姫川と白馬の市街地が見え、その向こうには3000m級のアルプスの山並みが連なっているが、今日は雲がかかっている。

 田植えの頃には、棚田の田毎の水に緑が映り、その向こうに白雪をいただいた北アルプスが連なって、その季節を撮影した写真を見ると、実に雄大で美しい。

 だが、以前はその頃になると、大きな三脚を担いだ写真愛好家たちが続々と車でやってきて、所かまわず踏み込み、三脚を立て、カメラの放列ができ、村人たちの顰蹙を買っていたようだ。マナーが悪いのは外国人旅行者ばかりではない。

      ★

<青鬼神社に参拝する>

 あまりに暑いので、棚田の道を途中で引き返した。所々に立つ大樹の下陰を通ると、風が涼しい。

 

  (参道の入り口)

 南面して並ぶ集落の真ん中あたりまで引き返すと、人けのない日差しの中、北側の山の中へ石段がのぼり、手前には石灯籠が2基並んでいた。ここが青鬼神社の参道だ。

 (白木の鳥居)

 しばらく登ると白木の鳥居があり、石段はさらに山の中へ、上へ上へと登っている。

 石段に栗の実が落ちている。

 木陰なので、それほど暑くはない。ゆっくりゆっくりと登って行くと、やがて山の斜面の樹木の間に、ちょっとした境内らしき空間があった。

  (本殿)

 山村の、山の中の神社らしく、本殿の社は小さい。

 祭神は言うまでもなくお善鬼様。生前、村に善行を施した青鬼様を、集落の北に聳える岩戸山に祀った。それがこの神社の創建の時。村の伝承によれば大同年間というから、西暦で言えば806年~809年。奈良時代である。

 それは、いくら何でも古すぎる!! と、我々、京都や奈良など近畿圏に住む人間は言うかもしれないが、青鬼集落からは縄文時代の遺跡も発掘されている。1万年以上続いたとされる縄文時代の中心は東日本。西日本が華やいでくるのは弥生時代になってからで、奈良時代などというのは、日本の歴史ではごく新しい。

 その後、岩戸山はあまりに奥深いから、そこは奥宮とし、現在の場所に神社をお移しした。それが安和2年(969年)で、冷泉天皇の御代だ。そこから円融、花山となり、次が一条天皇。「光る君へ」の時代である。

 本殿の東側に諏訪社がある。信濃国の一の宮である諏訪大社から勧請したのであろう。

 その一段下に、立派な神楽殿が建つ。

  (神楽殿) 

 9月に祭礼が行われるそうだから、もうすぐだ。

 祭礼では火もみの神事が行われる。縄文時代のように板と棒をこすりあわせて30分もかけて火をおこす。その火を神社に奉納し、また、各家々の神前や灯篭の火とする。最後は花火も上げるそうだ。お善鬼様は火を好まれるらしい。

 もちろん春と秋にも祭りが行われる。

 (本殿から参道を見る)

 人けはなく、しんとして、木陰の参道はほの暗く、涼しかった。(続く)

 

 

 

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夏の思い出 ── 信州の白馬(ハクバ)村へ

2024年11月07日 | 国内旅行…信州

<旅に出よう>

 この夏の暑さはこたえた。連日、35度を超えた。NHKの朝のお天気番組は、高齢者は外出せず熱中症にかからぬようクーラーを効かせた室内で過ごしてくださいと呼びかけた。

 だが思うに、高齢者の健康にとって、クーラーの効いた家の中に閉じこもる日々が本当に良いのかどうか?? コロナの3年間がそうだったように、毎日、家に閉じこもってテレビばかり見ていれば、体力も気力もどんどん衰えていき、高齢者の場合はもう元に戻らない。気持ちもいつの間にか鬱になっていく。

 それより、旅に出よう

 どこに行こうかと、お風呂の中やクリニックの順番待ちの間にあれこれ思い巡らすのも楽しい。日本国中が猛暑だが、多少とも涼しい所がいい。

 よし、ここへと決めてあれこれ調べ計画を立て始めると、心も前向きになり頭も活性化する。

 いよいよ家を出れば、駅へ向かうための移動も乗換駅でのホームの移動も、それだけで家にいるより運動になる。乗り物の中だってクーラーは効いている。

 7、8月を何とか耐え、オフシーズンに入った9月早々。若い頃に何度も訪ねて、勝手知ったる信州へと向かった。夏は山登り、冬から早春にかけてはスキー、それに「四季」派の近代文学散歩など、信州は第二の故郷のようなものだ …… 。

 今回は大糸線沿線の白馬(ハクバ)村へ行く。

       ★

<旅の時間>

  (大糸線の白馬駅)

 新大阪から名古屋まで新幹線で2駅。187キロを停車時間を含めてわずか50分。

 名古屋で特急「しなの」に乗り換えると、やがて車窓に木曽谷の風景を眺めるようになり、久しぶりに旅に出たと思う。

 信濃国の第2の都市である松本まで名古屋から7駅。距離は新大阪~名古屋間とほぼ同じだが、時間は2時間少々かかる。遠くへ行く旅でも、これくらいの時間の感覚がいい。

 松本で大糸線に乗り換える。

 大糸線は松本を始発駅とし、白馬(シロウマ)岳(2932m)を盟主とする後立山(ウシロタテヤマ)連峰の東麓を北へ北へ、県境を越えて新潟県に入り、日本海の町・糸魚川まで行く。その途中の白馬駅までは約60キロ。たいした距離ではないが、進む速度は遅い。途中28駅に停車し1時間40分もかかる

 始発駅の松本では、学校帰りの高校生や買い物籠を持った年配の女の人らで2両しかない車内は混み合った。

 しかしそれも松本を出て25分ほど。碌山美術館のある穂高駅に着く頃には日常性を感じさせる多くの乗客は降りてしまった。ゆとりのできた車内は旅人たちばかりになる。流れていく山里の風景や白い雲を眺めていると、大和国からすっかり遠くなったと感じた

 進む速度は遅いが、それでも刻々と目的地へ向かって移動する。移動は変化である。家にいる時間とは違う。

       ★

<白馬連山を望む>

 15時50分。白馬の駅前にホテルの迎えの車が待っていた。

 駅からホテルまで歩けない距離ではないが、荷物もあるし、初めての道だから、見知らぬ何人かと同乗した。

 この辺りでは大きなホテルの玄関周辺は花いっぱいだった。湧き水も沸いている。白馬連山からの水であろう。

 (ホテルの玄関)

 フロントでキーをもらい、エレベータで上階に上がり、部屋のカーテンを開けると、窓の外に白馬連山が望まれた。これが信州!!。

 あの尾根の向こうは富山県になる。

 (白馬連山)

 今回の旅は、もちろん若いころのような山登りはしない。ゴンドラリフトに乗って行くトレッキングもしない。

 居ながらにして白馬連山を望むことができるホテルに泊まりたい。これが今回の旅の第一の目的。横着な希望だが、そういうホテルをネットで探した。

 到着早々に雪をいただいた3千m級の山並みを見ることができて幸運だった。

 2千m、3千m級の高山の上はたえず天候が変化し、ガスがかかり雨も降る。麓は晴れていても、下から見上げれば山嶺は雲の中。だから、明日も明後日もこのホテルに宿泊するが、このような壮麗な白馬連山の姿を見ることができるかどうかわからない。

 一期一会である。   

(続く) 

  

 

 

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北アルプスの山麓をゆく … 戸隠神社と小谷温泉の旅(4/4)

2019年11月14日 | 国内旅行…信州

 辻邦生は青春の一時期を旧制松本高校で過ごした。太平洋戦争の戦況が悪化し、やがて終戦を迎えるころである。自分の命が「宙づりになった」ような日々、信濃の風土は限りなく美しく感じられた。そのころのことを次のように書いている。

辻邦生『時刻(トキ)のなかの肖像』から

 「旧制高校に松本を選んだのも、高原や山脈に囲まれたこの町にあこがれたからだった。松本で初めて目覚めた朝、近くの森から郭公(カッコウ)が鳴いていたときの感動は、いまもありありと思い出すことができる。私は幸福感に息がつまりそうだった」。

 「高原の冷たい、新鮮な空気のなかで、4月終わりに咲く桜の花は、まるで花びらの1枚1枚が結晶しているように見えた。青い北アルプスの連なり、城下町のひなびた落ち着き、学問的な瞑想感に満ちた旧制高等学校の校舎 ── こうしたものが、今なお私に残している刻印は深い」。

 「私は、生まれてはじめて高原を這う霧を知った。アルプスに登り、濃い青空に象嵌されたように聳える灰色の山頂を仰いだ。からまつ林の中を歩く旅人の孤独を味わった。牧場では牛の群れが鈴を鳴らしていた。私にとって、現実は、詩の世界さながらに見えた」。

             ★   ★   ★

 朝、山田旅館を出たのは最後のようだった。

 「みなさん、早いですね。雨飾山登山に行かれたのですか??」と聞いてみた。「はい。みなさん、登山です」。

 夕食のときに聞こえてきた会話から、数名のおばさん一行は高校の同窓会グループのように思われた。1人だけ、やや高齢の女性がいたが、多分、彼女たちの担任か、クラブ顧問だった人だ。

 雨飾山には、山小屋がない。一日で頂上まで登って降りてくるには、相当の健脚を要する。早朝に出発するのは、山登りでは掟のようなものだ。今、日本の元気とパワーはおばさんたち。今日はよく晴れて、きっといい山歩きになるだろう。

         ★

木崎湖に思い出すこと >

 今日は、国道148号線(糸魚川街道)を大糸線に沿って南下し、松本駅まで行く。途中で寄り道しながらのんびり走って、松本から午後の適当な時間の「特急しなの」に乗り、名古屋経由で帰る予定だ。

 この大糸線沿線は、若い頃、夏になると、よく訪ねたものだ。

 そのときはたいてい、青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖のそばの民宿で1~2泊した。

 三湖のなかで木崎湖がいちばん開けているが、北アルプスの雪解け水をたたえた湖は、7、8月の観光シーズンを終え、青空を映して、昔と少しも変わらぬ静かなたたずまいだった。

  ( 豊かに水をたたえた木崎湖 )

 私がまだ二十代の頃、父はゼネコンに勤めるサラリーマンだった。学歴はなかったが、年齢が年齢だから、それなりのポストにはついていた。

 あるとき、ゼネコンの業界誌から原稿(随想)を依頼された。持ち回りだから、断れなかったようだ。すぐに電話で代筆を頼んできた。年齢も生きている世界もまるで違う男の立場で書くのは不可能だから断ったが、日ごろ文章など書かない父が気の毒で、では自分のこととして書くよ、と言って引き受けた。

 そして、信州の木崎湖にボートを浮かべ、魚釣りを楽しんだという随想を書いて渡した。

 すぐに見破られてしまったと、父は笑いながら話した。同業者の仲間は会社を超えて親密で、息子の作文を提出した父を面白がったようだ。「見かけによらず、ロマンチックですねえ(笑い)」とか、ストレートに「息子さん、文章がうまいですねえ(笑い)」とからかわれたと言い、そういう付き合いを楽しんでいた。原稿料は封したまま、くれた。

 それ以後、父は夏が終わると、信州の湖に行ったか?? と聞いた。退職したら信州の湖に行って魚釣りをしたいと、ずっと思っていたようだった。

        ★

北アルプスの山並みを望む >

 木崎湖からは国道をはずれ、国道と並行して走る野の道に入った。舗装も良く、信号がなく、山並みの見晴らしも良く、快適である。1998年の長野冬季オリンピックのときに造られた道路だ。

 所々で、北アルプスの高山が顔をのぞかせた。

 今はもう登ろうなどという野心は微塵もないが、それでも眺めるのは楽しい。

 ( 北アルプスが顔をのぞかせる )

 後立山連峰の女王と言われる白馬(シロウマ)岳(2932m)には何度か登った。雨の大雪渓を下山したとき、きゃあきゃあ言いながら下る初心者が落とした落石がそばを落下し、肝を冷やしたこともある。

 その南の唐松岳(2696m)には一日で駆け上り、駆け下りた。単独行は緊張もするが、楽しかった。

 常念岳(2857m)、大天井岳(2921m)、燕岳(2762m)は、友人たちと山小屋に泊まって縦走した。上高地の深い谷を隔てて、その向こうに槍・穂高の連峰が聳え、パノラマのようだった。

 一番、心に残った山行は、白馬岳から北へ、雪倉岳、朝日岳と縦走したコースである。白馬岳から南へ縦走する登山者は多いが、白馬岳を北へ入ると、突然、嘘のように人の声が聞こえなくなった。美しいお花畑の中の径をゆき、急斜面の雪渓を緊張してトラバースした。一日歩いて、出会ったパーティーは一組だけだった。夕方、テントを張って、来し方の山並みを振り返り、遥けさを感じた。

        ★ 

海人族・安曇氏の穂高神社へ >   

 大糸線の穂高駅近くに穂高神社がある。神社の現在の住所は、「安曇野市穂高」となっている。かつては安曇郡だった。昔、安曇氏の一族が住み着いた山河である。

 穂高神社は信濃国の三の宮である。一の宮は諏訪大社。

 安曇氏がここに定着したのは、一説に6世紀ごろと言われ、神社の西方には古墳群もあるらしい。

 安曇氏は、海人族である。

 古代、海人族は西日本の各地の海辺にいたが、『日本書紀』の応神天皇の項に、安曇氏を「海人の宗」にしたとある。

 玄界灘の志賀島の志賀海神社が、安曇氏の本拠地である。

 ※ 安曇氏や志賀海神社については、当ブログ「玄界灘の旅」の中の「海人安曇氏の志賀海神社へ行く」を参照。

 それが、いつのころからか、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県の安曇川、愛知県の渥美半島、静岡県の熱海など各地に散らばっていった。海づたいに漁場を求め、或いは、物資を運ぶ輸送船を操って活動の場を広げていったのだろう。ただ、その一族が、海とは全く縁のない山国である信濃国の安曇野に定着したのは不思議である。理由はわからない。

 7世紀、唐、新羅の連合軍によって、百済が滅ぼされた。倭国は百済との盟約により、倭にいた百済の皇子を立てて、百済国の再興の救援軍を朝鮮半島に派遣した。前将軍に安曇比羅夫、後将軍に阿倍比羅夫が任じられた。倭軍はよく戦ったが、百済軍のトップに仲間割れが生じ、さらに白村江の海戦で唐の水軍に惨敗して、戦いは終わった。安曇比羅夫はこのとき、戦死したとされる。 

 ( 穂高神社の鳥居と神楽殿 )

 今回、初めて知ったことがある。穂高神社の例大祭は9月27日に行われる。その祭りでは、高さ6m、長さ12mという大きな船形の山車「御船(オフネ)」をぶつけ合うらしい。9月27日は、白村江の戦いで戦死した安曇比羅夫の命日と伝えられている。

   なお、穂高神社の奥宮は上高地の明神池のそばにある。明神池は神社の境内で、神域ということになる。

 また、嶺宮は、北アルプスの雄・奥穂岳(3190m)の頂上に鎮座する。

 ( 穂高神社の拝殿 )

        ★

早逝の彫刻家を記念する碌山美術館 >

 穂高神社から歩いて数分の距離に碌山美術館がある。

 荻原守衛。号は碌山。明治12(1879)年、南安曇郡東穂高村に生まれた。

 10代の終わり頃、近くに嫁いできた2歳年上の相馬良子(黒光)と知り合い、生涯、あこがれ、影響を受けた。

 相馬良子は、仙台藩の儒者の娘・星良子で、美貌で、頭がよく、気が強い女子だったらしい。若き日に東京に出て、ミッションスクールの明治女学校に学んだ。そのころは、「アンビシャス・ガール」と呼ばれていたという。明治女学校には、英語の教師として、まだ20代の島崎藤村もいた。第一詩集『若菜集』を発刊する以前のことである。良子はその後結婚して穂高に住んだが、のち東京に出て、新宿のパン屋・中村屋を経営した。

 碌山は信濃を出て上京し、米国やフランスに学んで、ロダンに傾倒し、彫刻家となった。帰国後、新宿の角筈にアトリエをもち、中村屋に出入りしながら、「デスペア」「女」など何点かの名作を残す。両作品とも、相馬良子がモチーフになっている。だが、明治43(1910)年、突如、喀血して31歳の若さで早逝した。

 年齢や、早逝したこと、惜しまれる才能も、或いは思想的にも、文学の世界の石川啄木に似ている。 

 ( 蔦のからまる碌山美術館 )

 碌山美術館は1958年、碌山の作品と資料を保存・公開するために、県内の子どもや少年を含む多くの人々の尽力によって設立された。

 私が初めてここを訪れたのは、まだ学生時代の8月だった。松本から大糸線に乗り、穂高駅で降りて歩いていくと、信濃の国の稲穂はすでに黄金色に頭を垂れ、その稲穂の波の先に、キリスト教の教会風の瀟洒な煉瓦造りの美術館が見えた。(今は、付近にかなり住宅が建った)。

 美術館の玄関先には日に焼けた子どもたちが数人、元気に遊んでいて、会話したことを覚えている。

 帰りに、村の鎮守の杜のような穂高神社に立ち寄り、駅に向かった。

 駅に着くと、列車が出るところだった。

 当時の大糸線は牧歌的で、機関車に客車は2両だけ。あと貨物車が何両か接続されていた。

 貨物車には、天蓋のないトロッコ風の貨車もあり、客車に坐れなかった旅の学生たちが、勝手に乗っていた。信州の夏の風を受けて走るトロッコ貨車は心地よさそうだ。ゆっくり動き出した列車を追いかけ、プラットホームをダッシュした私も、目の前のトロッコ貨車に跳び乗った。

 のどかな青春の一場面が脳裏に残っている。思い出というのは、言葉ではなく、映像である。

           ★

< 大王わさび農園で昼食を

 その当時、穂高駅より1つ松本寄りの豊科駅で列車を降りて、あぜ道をてくてく歩くと、渓流が分かれて流れる地に、わさび田が開かれていた。

 わさび田のそばを流れる小川は水量豊かで、川底の水藻に樹木が蔭を落とし、水車が回っていた。その先にわさび田が広がり、西には残雪を頂いた北アルプスの山並みも神々しく聳えていた。

 今回、久しぶりに立ち寄ってみようと思い、ネットで調べて驚いた。あのわさび田が、テーマパークのように大きな遊園地になり、観光バスもやってきて、大変な賑わいになっていた。

  ( わさび田 )

 その「大王わさび農園」のレストランで昼食をとった。

 ウイークデイというのに、想像以上の賑わいだった。家族連れが多い。

 高度経済成長期やバブルの時代なら、また信濃の静けさが壊されたと嘆いただろうが、今は地方創成の時代である。レストランやわさび田や遊園地の各所で働く若い男女の姿があった。こうして地方が賑わい、都会に出ていかなくても、仕事があることは良いことである。変わらないことばかりが良いわけではない。

    ★   ★   ★

 松本でレンタカーを返却し、「しなの18号」に乗って、帰途についた。

 一度訪ねてみたかった山深き里にある戸隠五社も、宿坊も、戸隠蕎麦も、姫川の上流の小谷温泉も、とても良かった。

 大糸線沿線が、今も変わらず、静かな美しい信州の風情を見せてくれているのも、なつかしかった。

 わずか2泊3日の小旅行だったが、夏の暑さを何とか乗りきって、思い立って出かけた旅は心に残るいい旅だった。

  

 

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中社で蕎麦を食べ、鬼無里を経て小谷温泉へ … 戸隠神社と小谷温泉の旅(3)

2019年11月09日 | 国内旅行…信州

< 中社の門前で蕎麦を食べる >

 車で奥社から中社まで降りた。

 中社の近辺は宿坊や茶屋があり、戸隠神社で一番賑やかな門前町である。

 ここと、昨夜泊まった宝光社の町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 昨夜の戸隠蕎麦が忘れられず、中社のすぐ下の蕎麦屋で昼食をとった。ここも宿坊が経営している店だ。美味しかった。

 ( 中社の蕎麦屋さん )

 中社には知恵の神である思兼(オモイカネ)の命が祀られている。この神さまが知恵を出さなければ、この世は未だに闇のままだった。  

 

  ( 知恵の神さまを祀る中社 )

 境内には、樹齢800年の三本杉がある。800年前というと、鎌倉幕府が開かれた頃だ。

   それとは別に、三つに分かれた古杉もある。これも神木である。

  ( 古杉の音を聴く )

 昨日は2社、今日は3社を巡り、戸隠神社の5社巡りを終えた。

       ★

鬼無里(キナサ)の里のこと >

 車で今夜の宿・小谷温泉を目指す。小雨の中、山の中の県道を走った。すれ違う車はめったにない。

 鬼無里(キナサ)の村で国道406号線の鬼無里街道に合流した。一軒きりの道の駅風の店で休憩をとり、コーヒーを飲んだ。

 「戸隠」という地名もいいが、「鬼無里」は秀逸である。

 名の響きのとおり、ほんものの山里だ。この山里から北へとさらに山中を走れば、奥据花自然園で行き止まりになる。季節になると、山と森に囲まれた湿地に水芭蕉の群落が咲き誇り、アマチュア風景写真家や観光客がマイカーで集まってくる。

 鬼のいない里とは、かつては鬼がいたということである。

 阿倍比羅夫がこの里の鬼を退治したという伝説があるそうだ。阿倍比羅夫は飛鳥時代の人で、朝廷の命を受け、水軍を率いて日本海側を遠征。東北の蝦夷を服属させ、北海道で粛慎と戦った。粛慎についてはよくわからないが、一説にオホーツク海岸にすむ樺太系の民族ではなかったかと言われる。

 また、紅葉伝説もある。こちらは平維茂(コレモチ)が鬼女を退治した。鬼女は、事情あって都を追われた貴女である。平維茂は平安時代中期の武将で、信濃守であった。

 能の「紅葉狩」は、舞台を戸隠の山中に移している。

 維茂が鹿狩りで戸隠の山中に入ると、上臈が侍女たちと紅葉の宴をはっていた。誘われるままに酒を飲み、上臈の美しい舞いを見ているうちに、不覚にも睡魔に襲われる。それを見て、上臈は本性を現し、突如、舞いが激しくなる。そして、夜までそのまま目を覚ますなよと言って消える。

 夜になり、八幡の神が維茂のもとに現れて、鬼神を討ち果たせと、神剣を授ける。

 現れた鬼神と維茂が戦う。雷が飛び交い、炎を吐く鬼神との激しい攻防の末、ついに維茂は鬼神を討ち取る、という話である。

 鬼や、天狗や、土蜘蛛や、雪女や、鬼婆や、河童や、座敷童や、狐や狸は、絶対悪ではない。人間に危害を与えるが、彼らのテリトリーに入らなければ、たいていは悪さをしない。時に人間を助けたり、人間に恋をしたりもする。人間に似て、善心もあれば悪心も起こす。喜怒哀楽の情をもち、ユーモラスでさえある。

 ヨーロッパの先住民のケルトが伝える妖精や、魔女や、魔法使いのお婆さんも、好きだ。「眠れる森の美女」を魔女の側から描いたアンジェリーナ・ジョリーおばさんも魅力的だった。

 「大和よみうり文芸」に選ばれた五條の四葉るり子さんの川柳。

   見ないふり こびとが庭を 横切った

 想像力が面白い。ファンタジックである。お子さんも喜ぶだろう。

 しかし、「紅葉狩」のように、鬼や土蜘蛛は、時に、異界のものとして退治される。その場合の「鬼」とか「土蜘蛛」とは、何だったのだろう??

 箒にまたがって空を飛ぶ魔女たちも、近世に入ると、密告され、裁判にかけられ、異端の者として火あぶりにされた。その数知れず。裁判が司教の下で開かれた場合はまだしも「百叩きにして放り出せ」ぐらいで済んだが、民衆裁判ではたいてい残酷な結果になったらしい。「人民」とか「民衆」という存在も信用できない。

 お化け、妖怪の中でも、嫌いなのは、江戸時代に創造された「幽霊」である。彼女たちには「恨み」の情念しかない。ただ、相手を闇の底に引きずり込もうとする。

 先の能「紅葉狩」は、鬼が本体で、美女の姿をして現れる。当然、活劇ものになるが、一般に能では逆のケースが多い。

 世阿弥の能の多くは夢幻能で、その主人公はこの世のものではない。だが、未練があって、この世にいる。みんな、人間的で、哀しく、美しい。恨みがあっても、恨みよりも愛の方がもっと深い。最後は、旅の僧によって救われ、成仏する。

 

   ( 大槻能楽堂 )

        ★

白馬(ハクバ)を経て小谷(オタリ)温泉へ >

 国道406号線(鬼無里街道)は、長野を通り、山深い道路を白馬に抜ける。峠を越えると、晴れていれば、前方に北アルプス連峰(後立山連峰)が見えるのだが、残念ながら小雨模様の曇天で見晴らしはきかない。

 やがて、後立山(ウシロタテヤマ)連峰の麓の町・白馬に出た。

 ここから国道148号線(糸魚川街道)を北上する。

 国道沿いにJR大糸線が走っている。大糸線は、登山の町・大町と日本海の糸魚川とを結ぶローカル線だ。清流の姫川も日本海に向かって流れている。

 姫川の水源は白馬村の湧き水で、このあたりではまだ渓流と言ってもいい川幅である。

 姫川は糸魚川市に入り、日本海から約2.5キロというあたりの丘の上に、縄文時代の集落がある。長者原遺跡と名付けられ、北陸で最大の縄文集落である。ここで産出され、さらに装飾品に加工された翡翠は、北は北海道の礼文島、南は沖縄からも見つかっている。ちなみに日本列島で翡翠を産するのは姫川だけである。縄文時代の流通網に感心する。

 かつて出雲大社を訪れたとき、大社の博物館で見た翡翠の勾玉の色は本当に美しかった。

 天気予報通り、晴れてきた。明日は良いお天気になる。

 小谷温泉口の標識で、右手の山中に入り、うねうねと登って、小谷温泉山田旅館に到着した。

 ここも、随分昔から訪ねてみたいと思っていた宿である。「日本秘湯を守る会」に所属する一軒宿だ。

 温泉教授の松田忠徳さんは、「平成温泉番付」68湯の1つに挙げている。

 小林威典『正真正銘 五つ星 源泉宿66』(祥伝社新書)には、「江戸時代に建てられた本館を含む6棟が国の登録有形文化財に指定されている」とあり、内湯については、「自噴泉が1m80cmくらいの高さから、とうとうと滝となって流れ落ちる。湯舟の縁を見てまたビックリ。天然の湯垢が何層にも付着している」と書いている。

      ( 有形文化財指定の山田旅館 )

 若い頃この宿のことを知ったのは、温泉巡りをしようとしていたからではない。ここは、「日本百名山」の1つ雨飾山(1963m)登山の起点になる宿として、昔から登山者の宿であった。 

 『百名山』の「雨飾山」の項は名文である。その書き出しの部分。

 「雨飾(アマカザリ)山という山を知ったのは、いつ頃だったかしら。信州の大町から糸魚川街道を辿って、佐野坂を越えたあたりで、遥か北のかたに、特別高くはないが品のいい形をしたピラミッドが見えた。しかしそれは、街道のすぐ左手に立ち並んだ後立山(ウシロタテヤマ)連峰の威圧的な壮観に眼を奪われる旅行者には殆ど気付かれぬ、つつましやかな、むしろ可愛らしいと言いたいような山であった。私はその山に心を引かれた。雨飾山という名前も気に入った」。

 深田久弥が登ったころ、まだ登山道が整備されておらず、3回目の挑戦でやっと頂上に至る。そのときも小谷温泉を起点にした。

 「(頂上にある) 風化し摩滅した石の祠と数体の石仏の傍らに、私たちは身を横たえて、ただ静寂な時の過ぎるのに任せた。古い石仏は越後の方へ向いていた。その行手には、日本海を越えて、能登半島の長い腕が見えた」。

 「あとで越後の人からの知らせによると、古い猟師の話では、頂上の石仏は、糸魚川地方で有名な羅漢上人という坊さんが、自身で石を刻み、それをこつこつと山へ運んだものだそうである。山にウラ・オモテがあるとすれば、雨飾山はやはり越後の方がオモテであろう」。

 食事はごく普通だが、ボリュームがあった。登山者用である。

 温泉は良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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小雨の中、奥社に参拝する … 戸隠神社と小谷温泉の旅(2)

2019年11月07日 | 国内旅行…信州

この朝、カメラが故障しました。ここからの写真は、ほんもののカメラで撮ったものではありません。虫眼鏡で画質をチェックしないでください

 

深田久弥『日本百名山』から

 「戸隠は、平安朝の初めから神仏混淆となり、その最盛期は平安朝の末から鎌倉時代の中頃までだったと言われ、奥院、中院、宝光院と3つの群落に別れて、それぞれ数多くの大きな寺社が建立され、その栄えは高野や比叡にも劣らなかったという。その後兵火にあって大部分が廃墟になったそうだが、しかし現在でも中社まで行って、厚い茅葺きの屋根が高々と並んでいるのを見ると、昔がしのばれるようである」。

 「それらの家は皆神官の住まいであって、昔は山伏や修験者を泊めたのであろうが、現在では内部を改造して旅館風な作りになっている」。

 「その後兵火にあって」というのは、武田信玄の甲斐の勢力と上杉謙信の越後の勢力による長い攻略戦のことである。

        ★

宿坊の朝拝に参列する >

 朝から小雨模様だった。

 朝食の前に「朝拝」に参列した。

 宿坊「山本館」は昔から、戸隠神社5社めぐりの多くの参拝者を迎え入れてきた。

 宿坊には、その敷地の一郭に、5社から招いた神々を祀る立派なお社がある。神社併設の宿坊なのだ。身体が不自由だが何とかここまではやってきた人、或いは、ここまで来たが病を得てこの先は仲間と行動を共にできない人、そういう人のために設立されたのだ、と説明があった。 

   ( 宿坊のお社 )

   神官でもあるこの宿坊の主人が、神前で毎朝、お勤めをする。

 宿泊者は、希望すれば、その朝拝に参列することができる。

 外から見るよりは奥行きはずっと広く、腰かけも用意されていた。

 正装した神官は、宿坊・山本館のご主人のお父上ではないかと思われる。祝詞を挙げ、我々の名を言って、これから参拝に行くのでお迎えくださいと神様に紹介され、一人ずつ玉串を奉納した。

        ★

 朝食はありきたりでなく、一般の旅館よりも一品一品吟味された品が出されているように感じた。 

         ★ 

往復4キロの奥社に参拝する >

深田久弥『日本百名山』から

 「海抜千米の大きな高原が、こんな山中に広がっているのも珍しいが、ここに巨刹が軒を連ねたのは、おそらく戸隠山があったからだろう。修験者はたいてい岩の険しい山を選ぶ。大峰山、石鎚山、八海山、両神山など皆そうである。屏風のように長々と岩壁を連ねた戸隠山が見逃されるはずはない」。

 雨模様の空で、戸隠山は全く見えない。

 駐車場に車を置く。森の入口に大鳥居がある。大鳥居が大鳥居に見えないくらいに森が鬱蒼と広がっている。

  ( 奥社入口の大鳥居 )

 大鳥居をくぐると、1キロほど先に随神門がある。ここが距離的には半分で、徒歩約15分。随神門から奥社までの残りの1キロは登り道となり、階段もあって約25分かかるとある。後半は結構きつそうだ。

 ( 奥社への参道を行く )

 小雨の降る中、平坦な森の中の参道を行く。森林浴のようで、気持ちが良い。

 左右の深い森が「戸隠森林植物園」である。

 右の森には「ささやきの小径」。左の森の中には、「小鳥の小径」や、「水芭蕉の小径」や、「小川の小径」があり、随神門のあたりから左の小径を辿って下っていけば、やがて中社に達する。ただし、今回は参拝だけが目的なので、同じ参道を引き返す。

 随神門に達した。苔むした茅葺の屋根の赤い門が印象的だ。

 

 ( 行く手に随神門 )

 門の右手をせせらぎが流れていて、以後、ずっとせせらぎの音を聴きながら歩いた。

  

  ( 渓流が流れる )

 随神門からは、樹齢400年という杉並木に入る。慶長17(1612)年ごろに植林されたらしい。高さ30mの杉林の中は鬱蒼として、人も小さく見える。  

 ( 高さ30mの杉並木をゆく )

 やがて登り道になり、一気に汗ばんだ。

 そして、急こう配の270段と言われる階段になる。曲がりながら登る登山道に置かれた石段は、段差もばらばらで、脚への負担が大きく、スクワットをしているようだ。

 傷めていた膝の痛みが再び出てきた頃、やっと奥社が見えた。 

  ( 奥社へあとひといき )

   奥社は怪力の神さま・天の手力雄を祀っている。戸隠神社の本社だから、戸隠神社にお参りに来た以上、険しい参道でもここまで頑張らなければいけない。

  ( 奥社で参拝する )

 すぐ近くに風情のある社があるが、ここが九頭竜社。祀られているのはもともとこの地におられた九頭竜大神である。高天原の神ではない。

  ( 地主神を祀る九頭竜社 )

 奥社のすぐ下にある社務所に、御朱印をもらう人が列をなしていた。ここまで汗をかいて上がっていただく御朱印は値打ちがあるというものだ。

 寺社で御朱印をもらって、御朱印帳を一つ一つ埋めていくことを喜びとする人が増えている。空白の御朱印帳が埋まっていけば、功徳を積むようで、きっと日々の励ましになるだろう。

 私の場合は、一度始めると、数を追うことがノルマになりそうで、やっていない。心に負荷をかけず、自由でいたい。

 ただ、次はこの神社へ、その次はこのお寺へと目的ができるから、若い人が日本の神や仏を大切にするきっかけになれば何よりである。それに、御朱印帳を片手に参拝するのは風情がある。自分の念願を達するための励みになれば、さらに良い。

 日本の神さまは絶対神ではない。ただ、念ずる者に寄り添い、そっと力を添えてくれる。あとは本人の努力である。

 雨の中、こんな山奥まで、外国人もやってきて参拝している。欧米或いは中東系の人は、一目でわかる。それぞれ日本の文化を感じ取ろうとしており、作法もよい。

 社務所の横から戸隠山登山道が出ている。

深田久弥『日本百名山』から

 「奥社の裏から登って、蟻の戸渡りとか、剣の刃渡りとかいう岩場を通って、八方睨み(1911米)に達する。ここが普通、戸隠山の頂上と見られている。そこから更に岩壁の上っぷちの尾根を一上一下しながら、一不動というキレットまで出て、そこから戸隠牧場へ下る」。

 20代の登山をしていた頃、戸隠山も登ってみたい山の1つだったが、今は、体力は別にしても、だんだん高所恐怖症になってきて、絶対に登りたくない。

 ウィキペディアで戸隠山の項を見ると、「山の形状が屏風形であるため、… 幅50cm前後しかない尾根上が登山路となり、両側が断崖絶壁である。『蟻の戸渡り』など危険な場所が多く、毎年のように墜落(滑落ではない)死亡事故が発生している」とある。

 山の気象条件は荒い。度胸があり、体力があっても、一瞬、突風が吹いて、背中のザックがあおられれば、バランスを崩して「墜落」する。20代の頃は未知なるものへの冒険心にかられていたが、今は十二分に分別もついた。早い話、各地に修験道は残っているが、戸隠の修験道は今は行われないようだ。

 さて、下りの石段では本気で膝が痛んだ

 それでも、途中でゆき倒れになることなく、頑張って大鳥居までたどり着いた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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戸隠神社縁起 … 戸隠神社と小谷温泉の旅(1)

2019年11月02日 | 国内旅行…信州

戸隠への旅 >

 今夏の猛暑を何とかやり過ごし、10月の声を聞いて、2泊3日の旅に出た。「戸隠神社と小谷温泉の旅」である。

 新大阪から新幹線で名古屋へ。名古屋で「しなの7号」に乗り換え、長野へ向かった。

 車窓から久しぶりに見る木曽福島の町の眠ったようなたたずまいも、やがて右手前方に見えてくる美ケ原高原のどっしりした山容も、昔と少しも変わらずなつかしかった。

 午後1時前に長野駅に到着。レンタカーを借りて戸隠へ向かった。

        ★

 前回、戸隠高原に行ったのは働き盛りの頃で、5月の連休を利用してのあわただしい旅だった。

 予約もせず、大阪発長野行きの夜行列車に乗った。

 夜行列車に乗ってでも旅に行こうという元気が、その頃はまだあったのだ。

 車内は、連休を利用して上高地から穂高・槍に向かおうという若者や、信州の高原で立原道造の詩集を読もうという学生など、元気と時間はあるがおカネはないという若者ばかりだろうと思い込んでいた。何でおじさんが1人、と思われるのではないか …。

 だが、意外にも、満席の列車の中は登山姿のおじさん、おばさんばかりだった。

 もう登山は流行らない。大学生が夜な夜なディスコで踊るバブルの時代である。山登りにストイックなロマンを感じるのは、自分と同世代の中高年ばかりなのだと改めて知った。

 そういう自分も、仕事に追われて登山もスキーも卒業し、その時の旅はカメラを持っての撮影旅行だった。戸隠高原の湿地の水辺に咲く水芭蕉や、長野市近郊のリンゴ園のリンゴの花を撮影しようという旅だった。あわただしく行き、あわただしく帰ったが、水辺のそこここに咲く幻想的な水芭蕉の白い花、そして、桜の花びらに似てピンクがやや濃い可憐なリンゴの花が、今も脳裏に残っている。

 そのときは、戸隠神社を気にしながら、戸隠森林植物園の水芭蕉だけをたずねて帰った。今回の旅は、秋色の戸隠森林植物園を気にしながら、戸隠神社をたずねる旅である。

        ★

天の岩戸、空を飛んで戸隠山となる >

 戸隠神社は、戸隠山(標高1904m)の山麓にあり、麓の方から上へ向かって順に、宝光社、火之御子(ヒノミコ)社、中社、奥社と九頭竜社の5社から成る。「5社巡り」が正式の参拝である。

 5社は県道36号線沿いにあって、それぞれの社の結界を示す鳥居の駐車場まで車で行くことができる。もっとも、奥社は駐車場から片道2キロの参道を歩かねばならない。

 本来なら、というか昔の人は、遥か下にある戸隠神社の一の鳥居から、宝光社や中社を経て、奥社まで延々と歩いた。そのため、宝光社や中社の周辺には小さな門前町があり、今も何軒もの宿坊が残っている。

 遥か神代の昔 … 。

 高天原では、弟の素戔嗚(スサノオ)の命(ミコト)の乱暴のために、天照(アマテラス)大神が洞窟に隠れ天の岩戸で入口を閉ざしてしまった。そのため、世界が真っ暗になる。高天原の八百万の神々は集まって、相談した。こういうときに知恵を出すのが、知恵の神の思兼(オモイカネ)の命である。この神様の緻密な段取りのことは記述するのを省略して、とにかく神楽の演奏の下、天の鈿女(ウズメ)の命が桶の上で見事なセクシーダンスを踊った。そのまわりを囲む八百万の神々が囃し立てる。天照大神が何事かと岩戸を少し開けた。すかさず怪力の神・天の手力雄(タヂカラオ)の命が岩戸を引き開け、天照大神の手を取って引っ張り出した。作戦は見事に成功し、世界は再び明るくなったという。

 以上は『古事記』にも『日本書紀』にもある神代の記述だが、手力雄(タヂカラオ)の命が岩戸を開けたとき、アマテラスが再び閉じこもらないよう、その岩戸を遠くへ投げ飛ばした。投げ飛ばされた岩戸が地上に着地して戸隠山となった、というのが戸隠神社にまつわるこの地の伝承である。想像力豊かというか、面白い。

 それで、戸隠神社の5社のうち、奥社には手力雄(タヂカラオ)の命が、中社には思兼(オモイカネ)の命が、火之御子社には鈿女(ウズメ)の命が、そして、宝光社には思兼(オモイカネ)の命の息子の表春(ウワハル)の命が、それぞれ祭神として祀られている。九頭竜社は、もともとこの地の地主神であった九頭竜大神が祀られている。

 この伝承がいつごろ生まれたのかはわからない。

 ただ、戸隠山の恐竜の背のようなギザギザした岩尾根や、修験道が盛んになるにふさわしいこのあたりの山深さは、いかにも神秘的で謎めいて、大和の穏やかな風土とはかなり異なる風情がある。

         ★

神仏習合し、修験道さかえる >

 だが、戸隠神社に伝わる縁起は、以上の話と少し異なる。

 奈良時代の終わりごろの849年、「学問」という名の修験僧が、現在の戸隠神社の奥社のあたりで修業を始め、戸隠寺を開いた。

 平安時代の後期になると、この地でも天台密教、真言密教、神道が習合し、修験道はますます隆盛を極め、全国から修験者や参詣者が集まるようになった。宝光院、中院も開かれ、諸坊が連なって、大きな勢力となった。

 神も仏も習合させ、天地自然から真理を感じ取ろうというのが、日本の宗教である。大和の国の山野を翔け巡ったのは役(エン)の行者。その子孫が安倍晴明、空海は経典仏教に飽き足りず、天地の中で修業して、密教を始めた。禅宗が受け入れられたのは汎神論だからである。

 明治に入って、新政府は古代さながら、太政官とともに神祇官も設立し、維新に功績のあった神道系の人々をこの役所に取り込んだ。太政官が多忙を極める中、何の仕事もないこの役所は、神仏分離令を出して廃仏毀釈を進めた。異国の教えである仏教が入る以前の、神国日本に純化しようというのである。

 戸隠も、お上の命令で、寺や仏像が排斥され、純粋な神社となり、僧は還俗して神官となった。

 僧が時流に乗って還俗し神官になったことを、戦後になって批判する学者・論者がいるが、そういう批判する輩も時流に乗っているのは同じである。大きな流れで見れば、日本では長年、神仏は習合しており、日本人のものの考え方は融通無碍なのである。神か悪魔か、善か悪か、白か黒か、キリスト教かイスラム教か、神道か仏教かという二元論は、本来、一神教の世界である。天地自然の中に身を置き、そこに真実を感知しようとする人々が、舶来の仏教をも取り込んで、日本的仏教をつくっていった。左脳でお経を解読するお坊さんも、その左脳で虫の音やせせらぎの音を聞く。だから、「日本」を意識しようとしまいと、結局、彼が解釈する仏教は、年月を経て日本的仏教にならざるをえない。

 左脳で虫の音やせせらぎの音を聴くのは、遺伝子の問題ではない。日本語を母語とする人々の文化的特質である。

  小鳥来る 村に一社と 一寺あり (「読売俳壇」から、日高市/駿河兼吉さん)

 個々の神社と寺が仲が良かろうが悪かろうが、日本人は両方を必要とし、受入れるのである。 

          ★

アメノウズメの踊りはボレロのよう >

 長野駅から車で約1時間、宝光社の門前の宿に着いた。

 宿でチェックインして、早速、火之御子(ヒノミコ)社まで車で行った。

 県道の脇に車2、3台分の小さな駐車場があり、木の鳥居があって、そこから山の方へ少し上がると、お社がある。

  ( 森の中の火之御子社 ) 

 5社のうちでは一番小さい神社である。村の神社の風情で、ひっそりとして、女神・ウズメノミコトを祀るにふさわしいやさしさを感じる。

 他の4社が神仏混淆であった時代も、ここは一貫して神社であったという。 

 話は少し脱線する ……。

 ふとしたきっかけで、シルビー・ギエム、そして、上野水香の踊るバレー・「ボレロ」を映像で見て、感動した。世界のバレーファンが拍手したのも理解できる。

 そして、神代の時代のアメノウズメの踊りも、このようであったに違いないと確信した。

 漆黒の闇の中、松明の火に照らされ、八百万の神々の中央で、汗に濡れて踊るアメノウズメの姿はセクシーである。小泉くん、「セクシー」という言葉はこのような対象に使ってほしい。

 さらに話は飛躍する。

 佳子さまが市民ホールで開かれたダンススクールの発表会で、へそ出し衣装で登場したと週刊誌が書いた。「佳子さまの『へそ出しダンス』を許容する秋篠宮家の教育方針」と題したフライデイの記事も、ネット上で紹介されている。今は、秋篠宮家をたたけば、販売部数を稼げるのだ。

 敬して論ぜず、それが国民の皇室に対するあるべき姿である。

 敬して論ぜず。週刊誌もネットも、常日頃の自らの品位のなさを、まず振り返るべきである。

 平安朝の十二単だけが日本女性の美ではない。古代の神々の時代はもっとおおらかだった。

 令和の時代、皇族の若い女性は、十二単を着こなすためにも、可能ならアスリートのように体幹を鍛えてほしい。令和の時代には令和の時代の女性美があっていい。和歌は詠めるが、英語はしゃべれない女性では、時代遅れなのと同じである。もし佳子さまが上野水香のような強靭でしなやかなボディをつくることができたら、私はあっぱれと拍手を送りたい。

 そのようにして美しくなった佳子さまが、天皇の叔母様、黒田さんのように、伊勢神宮に奉仕する姿をいつか見たいものである。 

        ★ 

< 神道(かんみち)を歩く >

 さて、お社の横から森の中に参道(山道)が伸び、右へ行けば中社、左に行けば宝光社と、掲示板が出ている。

  ( 社の横から宝光社へ行く参道 )

 宝光社は、門前から参拝しようとすれば、苔むした急な石段を274段、登り降りしなくてはならない。

 それより、この山道を歩いたほうが楽しいかと思って、宝光社まで往復した。山の中の道を片道1.3キロだ。 

 「神道」と書いて「かんみち」と読むらしい。

 最初の写真に見るように、所々に「クマ出没注意」の看板も出ていた。 

 やがて、宝光社に着いた。

 こちらは、手の込んだ彫刻のある堂々たるお社である。 

   ( 立派な造りの宝光社 )

        ★

戸隠蕎麦は絶品でした!! >

 この夜の宿泊は、宝光社門前町の「宿坊 山本館」。

 廊下もすべて畳敷きで、まだ新しく、きれいだった。

 何と言っても、その夜の「蕎麦懐石料理」は美味しかった。一品ずつテーブルに運んで説明付き。決して高級な食材ではなく、土地の素材ばかりだが、安い宿料では申し訳ないくらい、一つ一つ手の込んだ料理だった。そして、何より絶品は戸隠蕎麦。蕎麦が、こんなに美味しい食べ物だとは知らなかった。

 『夕鶴』の中で、つうが与ひょうに作る「そばがき」も食べた。

 翌朝行われる「朝拝」にも参加を申し込んだ。明日は雨模様だ。

 

 

 

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