ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

スサノオ伝説の旅 5 (完結)‥‥芥川龍之介の描いた「老いたる素戔嗚尊」

2013年07月30日 | 国内旅行…スサノオ伝説の旅

   前回、「壁」とか、通過儀礼とか書いたが、言うまでもなく、これらは体罰教育や、スパルタ教育を示唆するものではない。

   体罰やスパルタは、子どもを支配しようとする。 支配された魂が、羽ばたくことはない。

   スサノオは、オオクニヌシに、自らの宮で、しばらくの時を与え、用意させたのである。

   自分を殺そうとする兄たちのいる世に再び戻って、正面から戦うという気概を。もちろん、そのための武器を。

   この世に、自分を必要とする仕事があるという自覚を。

   そして、自分の人生に夢や希望を抱くことを。

   バンジージャンプは仮の跳躍に過ぎない。若者は、社会に向けて、真の跳躍をする。

   飛べ! 若者よ! 

 オオクニヌシを自分自身でジャンプさせることが、長老・スサノオの最後のミッションであった。

     ☆    ☆    ☆

   さて、芥川龍之介が描いた「老いたる素戔嗚尊 (スサノオノミコト) 」は、『古事記』のスサノオとはかなり趣を異にする。 

   クシナダヒメに先立たれ、とっくに隠退し、ひっそりと娘と暮らしている、誇り高く、孤独で、わがままで、気難しさを増したスサノオである。

   彼の髪は麻のような色に変わっていた。

   だが‥‥、「老年もまだ彼の力を奪い去ることができない 」でいる。それどころか、「 彼の顔はどうかすると、須賀の宮にいたときより、野蛮な精彩を加えることもないではなかった 」。

   「彼は、彼自身気づかなかったが、今まで彼の中に眠っていた野性が、いつか眼を覚ましてきたのであった 」… と、芥川は描いている。

   「彼の中に眠っていた野性」?

   クシナダヒメが生きていたころのスサノオの魂は、高天原にいたときのような、「広漠とした太古の天地」をさまようことはなくなっていた。まれに、「夜の夢の中では、暗闇にうごめく怪物や、見えない手の振るう剣の光が、もう一度、彼を殺伐とした争闘の心に連れて行った。が、いつも眼が覚めると、彼はすぐ妻の事や村落のあれこれの事を思い出すほど、きれいにその夢を忘れていた 」。

   たまに夢の中でのみ、潜在意識の下から浮上してきた「殺伐とした争闘の心 」。

   クシナダヒメを喪い、長い年月、その侘しさに耐えてきた、老いたスサノオの心に、気づかないうちに、かつての荒んだ心が顔をのぞかせかけていたのだ。

   若い日々、彼は高天原で、抑えがたい衝動にかられて暴れていたが、あれも若さのもつ寂しさゆえ。若さからくる自己の魂の根源的な寂しさをもてあましていたからに違いない。

       ☆   ☆   ☆

   スサノオと暮らしているスセリヒメも、『古事記』のスセリヒメより、もう少し具体的に形象化されている。

  「狩や漁の暇に、彼(スサノオ)は彼の学んだ武芸や魔術を、いちいちスセリヒメに教え聞かせた。 スセリヒメはこういう生活の中に、だんだん男にも負けないような、雄々しい女になっていった。 しかし姿だけは依然として、クシナダヒメの面影をとどめた、気高い美しさを失わなかった 」。

   スセリヒメは、幼い時分に母を喪い、英雄の父スサノオの男手で育てられ、性格的には母よりも父の血を受けた、精悍なアスリートだった。だが、その容姿は、母クシナダヒメの面影をとどめて、気高く美しいと、書かれている。

   スサノオが、妻亡きあとの晩年を、妻の面影を映すスセリヒメと暮らしていたのも、わかるというものだ。

   とすれば、…… 勝手にその娘と愛し合うようになったオオクニヌシにとって、この頑なな父親は、最強・最悪の手ごわい父親ということにもなる。

        ☆

   ある日、スサノオとスセリヒメの暮らす島に、小舟に乗って旅する一人の若者・オオクニヌシが現れる。

   『古事記』と設定も違う。兄たちに命を狙われ、スサノオを頼ってきた、まだ保護者を必要とするオオクニヌシではない。

 たくましく、物怖じするところのない、爽やかな好青年で、年齢的にも、『古事記』のオオクニヌシより、もう少しは年上であろうか。

   「若者は眉目の描いたような、肩幅の広い男であった。それが赤や青の首珠(クビタマ)を飾って、高麗(コマ)剣を佩いている容子は、ほとんど年少時代そのものが目前に現れたように見えた 」。

  スサノオが名を尋ねると、しっかりした声音で、自ら「アシハラシコオ」と名乗る。この国を担う男の意である。

   庭先で仕事をしていたスサノオに、若者はうやうやしい会釈をし、宮の中へと、スセリヒメに招じ入れられた。

   「彼の心はいつの間にか、妙な動揺を感じていた。 それはちょうど、晴天の海に似た、今までの静かな生活の空に、嵐を先触れる雲の影が、動こうとするような心もちであった」。

   一仕事を終え、宮の中へ入ったスサノオの目に、一瞬、抱き合っていた娘と若者がパッと離れた姿が映じる。

   「彼は苦い顔をしながら、のそのそと部屋の中へ歩を運んだが、やがてアシハラシコオの顔へ、じろりといまいましそうな視線をやると、‥‥」

   スセリヒメに、若者を蜂の室へ連れて行くよう、命じたのである。

   母の面影を宿す一人娘との静かな生活の中に、ずかずか入り込んで、早くも娘の心をひきつけた若者を、スサノオは許せなかったのだ。

   スサノオはスセリヒメに言う。「言い渡すことがある。おれはお前があの若者の妻になることを許さないぞ」。

   蜂の室の危機は、『古事記』と同様、スセリヒメの機転で助けられた。

   だが、次の場面は、『古事記』にはない。

   翌朝早く、スサノオは海へ泳ぎに行った。そこに、オオクニヌシもやってくる。 どうして蜂どもに殺されなかったのか? 

   よく眠れたかというスサノオの問いに、よく眠れました、と答えた若者は、何気なく

 「足もとに落ちていた岩のかけらを拾って、力いっぱい海の上へ放り投げた。 岩は長い弧線を描いて、雲の赤い空へ飛んで行った。そうしてスサノオが投げたにしても、届くまいと思われるほど、遠い沖の波の中に落ちた。

 スサノオは唇を噛みながら、じっとその岩の行く方をみつめていた 」。

   その昼、スセリヒメとオオクニヌシは海辺で二人きりの時間を過ごす。 スセリヒメは、ここにいたら殺されます。 すぐに逃げてくださいと言う。 だが、オオクニヌシは、あなたが一緒でなければ、一人では逃げない、と答える。

   その夜は、蛇の室に入れられるが、またもやスセリヒメによって窮地を脱する。

   翌朝、スサノオが海のほとりにいると、また、若者がやってきた。スサノオは、なぜ蛇に殺されなかったのか分からないまま、一緒に泳ごうと言う。若者は気楽に応じる。

   二人は大海原を、見る見る沖へと泳いでいく。 スサノオは、泳ぎで、誰にも負けたことがない。

  「…… アシハラシコオは少しずつスサノオより先へ進み出した。スサノオはひそかに牙を噛んで、一尺でも彼に遅れまいとした。しかし相手は大きな波が、二三度泡をまき散らす間に、苦もなくスサノオを抜いてしまった。そうして重なる波の向こうに、いつの間にか姿を隠してしまった。……」

   自分の力の衰えを自覚させられたスサノオは、ますますこの若者を憎み、野に連れ出し、火を放って、若者を焼死させる。

  その夜、「あの空を見ろ。アシハラシコオは今時分 …… 」

  「 存じております 」

  「そうか? ではさぞかし悲しかろうな?」

  「悲しうございます。 よしんばお父上さまがお亡くなりなすっても、これほど悲しくございますまい」。

   スサノオは色を変えて、スセリヒメをにらみつけた。 が、それ以上彼女を懲らすことは、どういうものかできなかった」。

   野の火から辛うじて助かったオオクニヌシは、ついにスセリヒメと駆け落ちを決行する。

   気づいたスサノオは、怒り狂ってあとを追う。

   そして、断崖の上に立ち、遥か眼下の海上を行く丸木舟を見つけた。

   以下、最後の場面を、少し長いが引用する。

        ☆

   彼はそこに立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い波の向こうに、日輪さえかすかに青ませていた。そのまた波の重なった中に、見覚えのある丸木舟が一艘、沖へ沖へと出るところだった。

   スサノオは弓杖をついたなり、じっとこの舟へ眼を注いだ。 舟は彼をあざ笑うように、小さな筵帆を光らせながら、軽々と波を乗り越えて行った。 のみならず艫 (トモ) にはアシハラシコオ、舳 (ヘサキ) にはスセリヒメの乗っている様子も、手に取るように見ることができた。

   スサノオは天の鹿児弓に、しずしずと天の羽羽矢(ハバヤ)をつがえた。 弓は見る見る引き絞られ、矢じりは目の下の丸木舟に向かった。

   が、矢は一文字に保たれたまま、容易に弦を放れなかった。

   そのうちにいつか彼の眼には、微笑に似たものが浮かび出した。微笑に似た、…… しかしそこには同時にまた涙に似たものもないではなかった。

   彼は肩をそびやかせた後、無造作に弓矢をほうり出した。それから、…… さも耐え兼ねたように、滝よりも大きい笑いを放った。

  「おれはお前たちを言祝 (コトホ) ぐぞ!」

   スサノオは高い切り岸の上から、遥かに二人をさし招いた。「 おれよりももっと手力を養え。おれよりももっと知恵をみがけ。おれよりもっともっと‥‥」

   スサノオはちょいとためらった後、底力のある声に言祝ぎ続けた。

  「 おれよりももっと仕合わせになれ!」

   彼の言葉は風とともに、海原の上に響き渡った。

   この時、わがスサノオは、オオヒルメムチと争った時より、高天原の国を追われた時より、コシのオロチを斬った時より、ずっと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちていた。

    ☆     ☆     ☆

   「老いたる、人間スサノオ」の形象が良い。

   人は、人が老いて、長老か、古老のごとくなることを期待する。それが当たり前だと思っている。が、人格の劣化の危機は、肉体がそうであるように、老化のなかにもある。

   ゆえに、この最後の場面に感動する。英雄は一層、英雄となり、一層、孤独を深めていく。

   芥川は、このときのスサノオを、「天上の神々に近」かったと書いているが、老いたるスサノオの背は、高天原の神々などより遥かに輪郭がくっきりしており、その影は濃く、人間としての威厳に満ち、そして孤独であった。

   演ずるとしたら、老いたるジョン・ウエインか、或いは、老いたるショーン・コネリー。

   どうしても日本人と言うのであれば、仲代達矢か …。

 さて、しばらく、1~2週間、お盆休みに入ります。

   ご愛読いただいている皆様には、心からお礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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「八重の桜 ─ 鶴ケ城開城」を見て … 70年後の日本の姿が

2013年07月25日 | エッセイ

殿様はなぜ生きたのか?? >

   NHK大河ドラマ『八重の桜 ── 鶴ヶ城開城』を見た。

 会津藩は幕府の要請を断れず、帝の願いもあり、「尊王攘夷」を叫ぶテロリズムから都の治安を守ろうとした。

 だが、「薩長史観」からすれば、会津は尊皇攘夷派の志士たちを弾圧し、さらに長州を京から追放した賊軍であり、憎むべき勢力であった。 

 故に、会津一藩を包囲した会津戦争は、壮絶な戦いになった。

 1日に3000発の砲弾が城に撃ち込まれ、城に立てこもっていた老人、女、子どもたちも死傷した。女性の薙刀隊も銃弾に倒れ、少年たちを組織した白虎隊も自刃し、家老家では家老の母、妻、娘たちまでもが全員、白装束で自決した。

 戦いの後、生き残った旧家臣たちのその後の人生も、悲惨を極めたと言う。

 にもかかわらず、殿様はなぜ生き延びたのか?

            ★

みなは、生き抜いてほしい >

 矢尽き、刀折れ、糧食も尽き、精魂尽き果てて、降参、開城する。

 この一藩滅亡のとき、松平容保は、生き残った家臣たちを前に、「私が至らないために、事、ここに至った。すべて私の責任である」と謝り、「みなは、どうか生きて‥‥生き抜いてほしい」と訴える。

 激動する時代のなか、「藩主」であるという自覚をもって、藩の意思決定をリードしてきた殿様だから、一藩が精魂尽き果てた今、最後は自分の命を引きかえに、生き残った家臣やその家族の命を救うつもりであったのだろう。国は壊滅しても、せめて生き残っている者は、生き抜いてほしい。

 誠実で優秀なリーダーであるがゆえに、或いは、そうありたいと努めるほどに、歴史の渦に巻き込まれていき、いつの間にか歴史の敵役・標的とされ、その優しい心根に反して、藩と家臣・その家族を巻き込んで、一藩もろともに壊滅していく。その悔しさ、無念さ、悲劇性を、綾野剛が好演していた。

         ★

祖国(郷土)防衛戦争 >

 思うに、会津の家臣たちは殿様のために戦ったのではない。女、子どもまでがその運命を引き受けたのは、殿様一己のためではない。

 松平容保という一人の殿様の、その命と肉体、その個人的誇りや、個人的幸福を守るために、多くの家臣とその家族が命を投げ出したわけではない。

 確かに容保は、殿様として仰ぐに足る心根をもった殿様だった。この殿様が中心に居たから、会津は一丸となって戦えた。

 だが、会津の人々にとって、会津戦争は、殿様を守るためだけのいくさではなく、祖国(郷土)防衛戦争であった、と思う。会津が守ろうとしたのは会津であり、「会津の心」であった。

 会津人の一人一人の「心」のバックグランドにあるのは、祖先たちの歴史であり、先祖から伝えられた教えであり、会津の言葉であり、祭りや行事であり、会津の山や川や田や風であり、四季の変化であり、会津の風土であった。

 目に見えるものもあれば、見えないものもある。故に、「会津の心」は、会津の野や山や川に居ます「神々」 のことであると言い換えてもいい。

 会津の「心」を守る戦いは、ふるさとを守る戦いであった。

         ★

会津の山や川や風とともに >

 無数の砲弾・銃弾を受け、いよいよ「降参」し、「開城」するとなったとき、殿様は、「自分が至らぬために、申し訳なかった」と、家臣たちに頭を下げた。

 頭を下げたのは、既に死んでいった者たちへの思いからでもあろう。多くの死者の死を無駄にして降伏し、国を亡ぼすということは … 当然、万死に値する。

 だが、「殿様にだけは生きて、生き抜いてほしい 」というのが、降伏する家臣たちの心だった。

 ふるさとは、今からは敵に占領され、統治される。

 殿様にまで死なれたら、死んでいった者たちは、何のために死んだのか? 全てが無意味になる。 全てが無に帰してしまう。

 会津のために死んでいった、多くの男たちや女たちや年寄りたちや、少年や少女たちの魂はどこを漂うのか?

 声高に主張することはできないだろう。いや、そんなことはしなくてもいい。しかし、殿様が生きて、存在することによって、自分たちが何のために戦い、死んだのかというその証しが、存在することになる。殿様にまで死なれたら、何も残らないではないか!

 … だから、容保は生き続けなければならなかった。そして、生き続けた。

 会津の山や川や風や、美しいふるさとを守って命を捨てた多くの人々の心とともに。

 そのとき、容保は、死んでいった者たちとともに、神となる。

         ★

絶望的な戦いを続けた70年後の日本の姿と >

 ドラマを見ながら、圧倒的な敵軍に対して絶望的な戦いを続ける会津が、その70年後の日本の姿にダブってくる。

 第二次世界大戦における日本もまた、会津を遥かに超えた形で、絶望的な戦いを続け、何百万人という将兵を死なせ、国土を文字通り焦土とし、挙句に、降伏し、「侵略国」のレッテルを貼られ、戦争指導者たちは「A級戦犯」として戦勝国に裁かれ、処刑された。

 戦争を正邪で判断することはできない。 非は会津にもあったろうが、それは薩長と同じくらいに、という意味においてである。

 ただ、戦いに敗れるということは、そういうことである。

      ★   ★   ★

 だが、思うに、日本国民は、A級戦犯として処刑された戦争指導者からも、裁判の前に潔く自決した戦争指導者からも、裁判にもかけられず戦後を生き延びた多くの戦争指導者からも、「事、ここに至ったのは、自分が至らなかったからである」という悲痛な言葉を、ついに聞くことはなかった。

 彼らは、江戸時代の殿様よりも気位は高く、国民への責任感は低かったということであろう。

 彼らはただ、学校の成績において「秀才」であったというだけで指導者となった。ところが、不幸にも、軍人としても、政治家・外交官としても、彼らの力量は世界の中で三流だった。 

 問題は、彼らが自分の力量は三流であるということを自覚していなかったことにある。

 中央政府に対し極秘のうちに謀略を練り、勝手に兵を動かし、突如、満州国を作った関東軍のエリート参謀たち。

 何度も和平を結ぶチャンスがあったにもかかわらず、手柄を立てたくて、中国戦線を拡大していった軍人たち。

 かっこよく啖呵を切って国際連盟を脱退し、あろうことかヒトラーと同盟を結んだ外交官。

 自分たちが「井の中の蛙」と自覚せず、思いあがって、東京を戒厳下においた青年士官たち。

 圧倒的な国力の差を承知しながら、「やむにやまれぬ大和魂」とばかりに対米戦争を開始した軍人指導者。

 いずれも出世主義的で、鼻持ちならないほど自信過剰で、破れかぶれで、驚くほど単細胞であり、国益に反したスタンドプレーである。

 「追い込まれてやむなく起った」のが日本、などというセンチメンタリズムに酔っていてはいけない。防衛線の無秩序な拡大は膨張主義であり、その結果、多くの敵をつくり、追いつめられ、亡国に至ったのである。

 国際関係は力関係だから、国益を守れないときもあろう。 だが、亡国を招いた指導者は、万死に値する。

 会津藩の名誉のために言えば、会津は幕府の要請と帝の願いを受け、都の平穏を守ろうとしただけである。

          ★

 以上は、日本国民の一人として、日本の戦争指導者の、指導者としての「責任」を追及しているのであって、彼らを、戦勝国が、一方的に「戦争犯罪人」として裁き、処刑したという蛮行を、肯定しているわけでは、ない。

 裁判という恰好だけつけてはいるが、戦国時代に立ち戻ったような野蛮な報復主義である。

   

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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美しい映像でした‥‥『風たちぬ』(宮崎駿監督)

2013年07月24日 | 随想…文化

 美しい飛行機を作りたいという夢を追い求めた青年が、やがて名機と呼ばれる戦闘機の製作に成功するまでを縦糸に、菜穂子という女性との愛の世界が横糸として描かれている。

 

                            ★

 戦前の日本の、山や川や野が、限りなく美しい。

 時に、大空から俯瞰したように描かれる日本の山野が、アニメというよりもまるで絵画のようで、映像の美しさにおいて、宮崎作品の中でも、一番ではないかと思う。

           ★   

 子供向けの作品ではないから、はらはらどきどきのアクションも、スリルとサスペンスも、どんでん返しも、謎解きも、ない。 

 淡々と、静かに、話は進み、静かに終わる。

 それは、堀辰雄の 「美しい村」 と 「風たちぬ」 の2編を読み終えたときの感動と同質のものである。

 限りなく美しく、ロマンチックで、透明感があり、はかない。 はかないがゆえに、つよい。

                           ★

 空気の澄んだ高原の、青空と、白い雲と、パラソルと、カンバスと、パレットと、絵筆と、そして、絵筆を取る帽子の娘。 

 風が吹き、パラソルが舞い上がり、下の野の道を歩いていた青年が、飛んできたパラソルを押さえる。

 この二人の出会い(再会)の場面が、この作品のひとつのヤマ。 ただひたすら物語めいて、明るく、美しい。

 

                            ★

 娘は、結核を病んでいた。

 青年は結婚を望み、娘はあえてこの申し出を受ける。 

 ‥‥風立ちぬ、いざ生きめやも‥‥。

 二郎の会社の上司夫妻が執り行った二人のためのささやかな結婚式。 菜穂子の花嫁姿は、本当に綺麗だったなあ。

 病床に伏したままの、ひと時の楽しい結婚生活を過ごし、やがて菜穂子は、自らの体が病み衰える前にと、独りサナトリウムへ去って行く。

          ★

 やがて、零戦の開発に成功し、零戦が無数に大空を飛ぶ姿が描かれるが、‥‥「一機も帰って来なかった‥」という、二郎のつぶやきで、映画は終わる。

          ★

 成功の喜びは一瞬で、報われるところは少なく、全てを巻き込んで、時は、流れていってしまう。

 それでも、人は生きている以上、生きていかなければいけない。

 ‥‥ 風立ちぬ。いざ生きめやも。

 

 

 

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わが生涯で、最高に美しいと感動した光景‥‥思い出の記

2013年07月15日 | 随想…文化

   1960年ごろ、私が東京の大学に合格すると、以前から単身赴任していた父の勤務地の大阪へ、住み慣れた岡山から引っ越した。

   あの時代、18歳で、たった一人、東京に出て行くことは、今で言えば、ニューヨークかパリに留学するようなものだったかもしれない。

   東京は遠い。今、パリへ行くより、当時の東京へ行く方が時間がかかった。

   新幹線はまだなかったから、岡山から試験を受けに行ったとき、夜行列車で14~15時間くらいかかっただろうか。

 深夜に一人、岡山駅の暗いホームに立ち、やって来た列車は超満員で、列車のデッキに入るのがやっとだった。乗ってから5時間、大阪まで立ったまま身動きもできなかった。夜が明けるころにやっと大阪に着き、暖かい車両の中に入れたが、それ以後も、東京までずっと立ちっぱなしだった。もちろん、一睡もできなかった。名古屋を過ぎたころから車内で聞こえてくるカッコいい大学生の、加山雄三のような東京弁に気後れした。

 ずっと後になって、あの東京へ向かう夜汽車こそ自分の成人式だったのだ、と思うようになった。

 入学後は東京に下宿し、家は大阪に引っ越した。大阪~東京間が急行で7時間半、夜行なら10時間くらいはかかった。

 高度経済成長期に入ったとは言え、日本はまだ貧しかったから、サラリーマンの家庭で息子を東京の大学にやることは大変だった。だから、一度上京すれば、 長期休暇以外のときに汽車賃を使って帰省するわけにはいかない。帰らないのと、帰れないのとでは、気持ちが違う。その「遠さ」の感覚が、今なら海外留学だと思わせる。

 東京での生活は書生らしく、節約した。3畳1間の下宿で、昼は学食、夜は100円程度の一膳飯屋、風呂は銭湯。本代も、服代もなかった。生活費の半分は家庭教師その他のアルバイトで稼いだ。級友たちに夏の旅行に誘われたこともあったが、断った。カネがなかった。

 それでも、入学当初は、シャンソンの流れる喫茶店で、当時50円のコーヒーを飲みながら、「今、あこがれの東京にいる…!!」と、しみじみと幸福感に浸ることもあった。あの当時は、なぜか、喫茶店のコーヒーの良い香りが店の外まで香っていた。

 しかし、最初の半年間も過ぎると、貧しさと孤独感が心に沁みるようになった。

         ★ 

 夏の長期休暇が終わると、再度上京するため、大きなスーツケースを持ち、御堂筋線に乗って大阪駅へ向かう。

 父の会社は梅田新道にあったから、いつも律義に大阪駅の東京行きホームまで見送ってくれた。

 父はプラットホームでお茶と新聞を買い、浜松で鰻弁当を買うようにと500円札とともに渡してくれた。500円はありがたかった。

 東京へ向かう列車の旅はわびしかった。見知らぬ人たちとともに4人掛けボックス席に座り、新聞にも、本にも目を向けることができず、ただぼんやりと小雨降る窓の景色を見ていた。

 そのころすでに、高度経済成長は始まっていたが、それでも当時の日本の田園風景は美しかった。

 広がる田んぼの緑も、遠く小雨に霞んで見える山々も、浜名湖も、晴れてきて右側の車窓に見える太平洋も、富士山も、眺めていて飽きることがなかった。

 富士山が近づくと、車内のたいていの人は、車窓からその姿を探した。山側の席の人は、海側の席の人や立っている人が富士山を見やすいように気を使って、身を引いたりしたものだ。

 今では東京まで、「のぞみ」で3時間足らず。窓の外の景色を眺めている人など、まずいない。

         ★

 上京するときはいつも朝の列車だったが、帰省のときはなぜか夜行列車を使った。

 夜行列車は 1 駅ごとの停車時間が10分、20分と長く、駅でもない所にぐずぐすと停車し、昼の列車よりずっと時間がかかった。その長い一夜を窮屈な4人掛けボックス席で過ごさなくてはならない。

 にもかかわらず、なぜ夜行列車にしたのだろう? 夜は下宿でのびのびと寝て、朝の列車に乗れば、身体も楽なはずなのに。

   もしかしたら、夜、東京を発つことに青春の情感を感じていたのかもしれない。

 窓は、夜露に濡れて / 都すでに遠のく 

 北へ帰る旅人ひとり / 涙流れてやまず

  (北帰行 / 旧制旅順高等学校寮歌)

         ★

 ある夜。

 季節は思い出せない。7月から8月、或いは12月末、或いは3月。

 夜汽車の外が明るいことに気づき、そのうち、熱海の海を照らす月光から、今宵が満月であることを知った。

 これだけ明るければ、富士山も見えるかもしれないと、期待した。

 そして ‥‥

 暗い夜空に、大きな満月が出ていた。

 当時、この辺りに人工の灯りは何もなく、煌々と照らすその月光の下に、富士山がくっきりと、その秀麗な姿を浮かび上がらせていた。

 ただただ感動しながら、頭の中でこれをどう形容すべきか、考えていた。

 雅やか。そう、「夜は闇」の王朝の時代に、月下の富士は、このように美しかったに違いない。

 陰暦八月十五夜。大きな満月の夜。或いは美々しく武装し、或いは麗しい衣をまとった天人・天女たちが、美しい駕籠を乗せた雲とともに、かぐや姫を迎えに舞い降りてくる、あの時代の富士山だ。

 洋の東西を問わず、私の生涯で、最高に美しいと感動した景色は?と問われたら、第2、第3はすぐには思いつかないが、第1位は、躊躇なくこのときの光景である。

         ★

 その富士山が、世界文化遺産に認定された。

 これは、日本人にとって、最高にすばらしい出来事である。

  

    ( 西伊豆から見た朝の富士 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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