ウィーンの城壁を取っ払った跡は、「リンク」と呼ばれる大通りとなり、旧市街の周りを一周している。瀟洒なトラムが行き交い、道路をはさんでウィーンを代表する美しい建造物が並んでいる。
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高校時代には、多分、「オスマン・トルコ」と習った。今は、「オスマン帝国」が正しい呼称だそうだ。
今、存在している国の国名は、「トルコ共和国」。トルコ民族による国民国家である。
「オスマン帝国」は、オスマン家によって興された多民族国家だったということらしい。
15、16世紀、オスマン帝国は、陸でも海でも急速に膨張し、キリスト教世界の脅威となった。
1453年、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルが、スルタン・マホメットⅡ世の大軍によって包囲され、激しい攻防戦ののちに陥落した。西ローマ帝国滅亡後、千年も生き続けてきた東ローマ帝国がついに滅亡したのである。歴史学者はこの事件をもって、中世という時代区分の終わりとする。( 参照 : 塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』新潮文庫)
ギリシャ、アルバニア、マケドニア、セルビア、クロアチア、ダルマチア、スロベニアなどが次々と侵攻され、バルカン半島全域がオスマン帝国の支配下に入っていった。
膨張し続けるオスマン帝国の脅威と直接に対峙するキリスト教国はハンガリー王国となった。一方、アドリア海を挟んで、ルネッサンスのイタリアも、オスマン帝国と向き合うことになる
もとは、遊牧民であった。だが、マホメットⅡ世の時代からは海軍力の整備も始め、黒海とエーゲ海からヴェネツィアやジェノヴァの商戦を駆逐し、オスマンの海へと変えていった。
海洋都市国家として生きてきたヴェネツィアは、地中海の覇権を我がものにしようとする大国の海軍を相手に、数次にわたって死闘を繰り広げ、消耗していくことになる。
オスマン帝国が最も強大になったのは、スレイマンⅠ世の時代。1522年、聖ヨハネ騎士団が守るロードス島を奪取し、東地中海の制海権を握った。( 参照 : 塩野七生 『ロードス島攻防記』新潮文庫 )
1526年、スレイマンⅠ世、ハンガリー王国を破る。ハンガリー国王、戦死。
ハンガリーは、マジャール人の建てた王国だった。
マジャール人は、ウラル山脈付近からやってきたアジア系の騎馬遊牧民で、ヨーロッパを荒らしまわって恐れられたが、イシュトバーンが各部族を統一して初代の王となり、AD1000年に、自ら洗礼を受けて、キリスト教徒となった。西欧の一員になったのである。
(ブタペストの英雄広場にあるマジャールの7部族長の騎馬像)
( イシュトバーン大聖堂 )
その勇猛果敢なハンガリー王国も、オスマン帝国に敗れた。
以後、ハンガリーはオスマン帝国に併合され、オスマン帝国の後はハブスブルグ帝国に併合された。その後、オーストリア・ハンガリー帝国の一員として自治を得たが、オーストリアとともにナチスドイツに付いて第二次世界大戦を戦い、戦後はソ連の支配を受けることになる。
ベルリンの壁の崩壊で、今、やっと国の独立を取り戻した。
初代の国王イシュトバーンが、今も「建国の父」として国民の敬愛を受けるのは、そのような亡国の苦しみの歴史があるから。
( ドナウ川と、ハンガリーの国会議事堂 )
19世紀に、ハプスブルグから、外交、軍事以外の自治権を得て、建国1000年を前に建設されたのが国会議事堂である。この議事堂の壮麗さにも、民族独立へのあつい思いがこめられている。
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16世紀のオスマン帝国の話に戻す。ハンガリーが壊滅した後、オーストリア・ハブスブルグ帝国が、直接にオスマン帝国と対峙することになった。
オーストリア領の、ドナウ川沿岸各地をオスマン帝国に侵攻され、1529年には、首都ウィーンが包囲された。第一次ウィーン包囲である。ウィーンは、これに耐える。
スレイマン死後は、オスマン帝国の力も少しずつ弱まっていく。1571年には、レパントの海戦で、スペイン ( 当時、スペインもハプスブルグ家 )の艦隊 (のち、無敵艦隊と呼ばれる) を中心とする連合艦隊が、オスマン帝国艦隊を撃破した。
スペイン連合艦隊といっても、実は半分近くはヴェネツィアの艦隊である。都市国家に過ぎないヴェネツィアは、貴族、市民が総力を挙げ、自分たちの命運を賭けて戦ったのである。(参照 : 塩野七生 『レパントの海戦』新潮文庫)
塩野七生の上記3部作は、これに、ヴェネツィア800年の歴史を描いた『海の都の物語 上、中、下』(新潮文庫)を加えて、塩野作品の中でも、最も好きな作品である。
西欧史の中で、都市国家ヴェネツィアの歴史が一番好きだ。
1683年に、オスマン帝国は、第二次のウィーン包囲を行うが、このときすでにオスマン帝国にかつての力はなく、逆襲されて一気にバルカン半島を南へ敗走する。オスマン帝国の国土は削減され、東欧の覇権はハプスブルグ家が奪うことになった。
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さて、私が心ひかれるウィーンの2つ目は、膨張するオスマン帝国によって、2度に渡り包囲されるという歴史を経験した都・ウィーンである。
ウィーンには、今、「リンク」と呼ばれ、旧市街の外周を1周する環状道路がある。
瀟洒なトラムに乗って、「リンク」を1周すれば、国立オペラ座、王宮、美術史博物館、国会議事堂、市庁舎、ウィーン大学、ヴォティーフ教会、市民公園などが次々現れ、華麗な建造物の数々をトラムの窓から観光できる。
( フォルクス庭園 )
( ヴォティーフ教会と看板 )
この「リンク」は、2度のオスマン帝国の攻撃を防ぎとめ、ナポレオン戦争以後は無用の長物となって撤去され、大通りとなった、ウィーンの城壁の跡である。
車道や並木道の歩道があり、トラムも行き交う道路の幅を見れば、いかに分厚い城壁であったか想像できる。
それにしても、オスマン帝国の大軍に包囲されたこの城壁のすぐ内側には、王宮もあり、ウィーンの旧市街もあって、人々が暮らしていたのである。
中欧第一の都・ウィーンという町を守った城壁であり、ハプスブルグ帝国を守った城壁であり、イスラム世界から西欧キリスト教世界を守った城壁であった。
「リンク (環状道路) 」は、遥かな歴史の名残である。
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以下は余分なことながら。
ハプスブルグ帝国と並ぶ西欧世界の強国、フランスはこのときどうしていたか?
もちろん!! オスマン帝国の利益誘導策にちゃっかり乗っかって、フランス王は、スルタンと握手をしていた。「敵の敵は味方」。決して助けに行ったりはしない。
助けを求めるビザンチン帝国皇帝の要請・懇願にもかかわらず、コンスタンティノープルの陥落を指をくわえて見ていたのも、同じキリスト教世界の国々である。
それは、今も同じ。
例えば、無法に膨張する中国に対して、フィリピンやヴェトナムがアセアン諸国に協力を求めても、長年のよしみ・付合いはどこへやら、中国の利益誘導策に乗ってしまう国は多い。