ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

オスマン帝国によるウィーン包囲 …… 遥けきウィーン 2

2012年11月23日 | 西欧旅行…遥けきウィーン

 ウィーンの城壁を取っ払った跡は、「リンク」と呼ばれる大通りとなり、旧市街の周りを一周している。瀟洒なトラムが行き交い、道路をはさんでウィーンを代表する美しい建造物が並んでいる。

      ★    ★    ★

 高校時代には、多分、「オスマン・トルコ」と習った。今は、「オスマン帝国」が正しい呼称だそうだ。

 今、存在している国の国名は、「トルコ共和国」。トルコ民族による国民国家である。

 「オスマン帝国」は、オスマン家によって興された多民族国家だったということらしい。

 15、16世紀、オスマン帝国は、陸でも海でも急速に膨張し、キリスト教世界の脅威となった。

 1453年、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルが、スルタン・マホメットⅡ世の大軍によって包囲され、激しい攻防戦ののちに陥落した。西ローマ帝国滅亡後、千年も生き続けてきた東ローマ帝国がついに滅亡したのである。歴史学者はこの事件をもって、中世という時代区分の終わりとする。( 参照 : 塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』新潮文庫)

 ギリシャ、アルバニア、マケドニア、セルビア、クロアチア、ダルマチア、スロベニアなどが次々と侵攻され、バルカン半島全域がオスマン帝国の支配下に入っていった。

 膨張し続けるオスマン帝国の脅威と直接に対峙するキリスト教国はハンガリー王国となった。一方、アドリア海を挟んで、ルネッサンスのイタリアも、オスマン帝国と向き合うことになる

 もとは、遊牧民であった。だが、マホメットⅡ世の時代からは海軍力の整備も始め、黒海とエーゲ海からヴェネツィアやジェノヴァの商戦を駆逐し、オスマンの海へと変えていった。

  海洋都市国家として生きてきたヴェネツィアは、地中海の覇権を我がものにしようとする大国の海軍を相手に、数次にわたって死闘を繰り広げ、消耗していくことになる。                 

 オスマン帝国が最も強大になったのは、スレイマンⅠ世の時代。1522年、聖ヨハネ騎士団が守るロードス島を奪取し、東地中海の制海権を握った。( 参照 : 塩野七生 『ロードス島攻防記』新潮文庫 )            

 1526年、スレイマンⅠ世、ハンガリー王国を破る。ハンガリー国王、戦死。

   ハンガリーは、マジャール人の建てた王国だった。

 マジャール人は、ウラル山脈付近からやってきたアジア系の騎馬遊牧民で、ヨーロッパを荒らしまわって恐れられたが、イシュトバーンが各部族を統一して初代の王となり、AD1000年に、自ら洗礼を受けて、キリスト教徒となった。西欧の一員になったのである。

(ブタペストの英雄広場にあるマジャールの7部族長の騎馬像)

 

  ( イシュトバーン大聖堂 )

 その勇猛果敢なハンガリー王国も、オスマン帝国に敗れた。

 以後、ハンガリーはオスマン帝国に併合され、オスマン帝国の後はハブスブルグ帝国に併合された。その後、オーストリア・ハンガリー帝国の一員として自治を得たが、オーストリアとともにナチスドイツに付いて第二次世界大戦を戦い、戦後はソ連の支配を受けることになる。

 ベルリンの壁の崩壊で、今、やっと国の独立を取り戻した。

 初代の国王イシュトバーンが、今も「建国の父」として国民の敬愛を受けるのは、そのような亡国の苦しみの歴史があるから。

  ( ドナウ川と、ハンガリーの国会議事堂 )

 19世紀に、ハプスブルグから、外交、軍事以外の自治権を得て、建国1000年を前に建設されたのが国会議事堂である。この議事堂の壮麗さにも、民族独立へのあつい思いがこめられている。

          ★ 

 16世紀のオスマン帝国の話に戻す。ハンガリーが壊滅した後、オーストリア・ハブスブルグ帝国が、直接にオスマン帝国と対峙することになった。

 オーストリア領の、ドナウ川沿岸各地をオスマン帝国に侵攻され、1529年には、首都ウィーンが包囲された。第一次ウィーン包囲である。ウィーンは、これに耐える。

 スレイマン死後は、オスマン帝国の力も少しずつ弱まっていく。1571年には、レパントの海戦で、スペイン ( 当時、スペインもハプスブルグ家 )の艦隊 (のち、無敵艦隊と呼ばれる) を中心とする連合艦隊が、オスマン帝国艦隊を撃破した。 

 スペイン連合艦隊といっても、実は半分近くはヴェネツィアの艦隊である。都市国家に過ぎないヴェネツィアは、貴族、市民が総力を挙げ、自分たちの命運を賭けて戦ったのである。(参照 : 塩野七生 『レパントの海戦』新潮文庫)

 塩野七生の上記3部作は、これに、ヴェネツィア800年の歴史を描いた『海の都の物語 上、中、下』(新潮文庫)を加えて、塩野作品の中でも、最も好きな作品である。

 西欧史の中で、都市国家ヴェネツィアの歴史が一番好きだ。

   1683年に、オスマン帝国は、第二次のウィーン包囲を行うが、このときすでにオスマン帝国にかつての力はなく、逆襲されて一気にバルカン半島を南へ敗走する。オスマン帝国の国土は削減され、東欧の覇権はハプスブルグ家が奪うことになった。

     ★   ★   ★

  さて、私が心ひかれるウィーンの2つ目は、膨張するオスマン帝国によって、2度に渡り包囲されるという歴史を経験した都・ウィーンである。

 ウィーンには、今、「リンク」と呼ばれ、旧市街の外周を1周する環状道路がある。

 瀟洒なトラムに乗って、「リンク」を1周すれば、国立オペラ座、王宮、美術史博物館、国会議事堂、市庁舎、ウィーン大学、ヴォティーフ教会、市民公園などが次々現れ、華麗な建造物の数々をトラムの窓から観光できる。

             ( フォルクス庭園 )

   ( ヴォティーフ教会と看板 )

 この「リンク」は、2度のオスマン帝国の攻撃を防ぎとめ、ナポレオン戦争以後は無用の長物となって撤去され、大通りとなった、ウィーンの城壁の跡である。

 車道や並木道の歩道があり、トラムも行き交う道路の幅を見れば、いかに分厚い城壁であったか想像できる。

 それにしても、オスマン帝国の大軍に包囲されたこの城壁のすぐ内側には、王宮もあり、ウィーンの旧市街もあって、人々が暮らしていたのである。

 中欧第一の都・ウィーンという町を守った城壁であり、ハプスブルグ帝国を守った城壁であり、イスラム世界から西欧キリスト教世界を守った城壁であった。

 「リンク (環状道路) 」は、遥かな歴史の名残である。

         ★

 以下は余分なことながら。

 ハプスブルグ帝国と並ぶ西欧世界の強国、フランスはこのときどうしていたか?

 もちろん!! オスマン帝国の利益誘導策にちゃっかり乗っかって、フランス王は、スルタンと握手をしていた。「敵の敵は味方」。決して助けに行ったりはしない。

 助けを求めるビザンチン帝国皇帝の要請・懇願にもかかわらず、コンスタンティノープルの陥落を指をくわえて見ていたのも、同じキリスト教世界の国々である。

  それは、今も同じ。 

 例えば、無法に膨張する中国に対して、フィリピンやヴェトナムがアセアン諸国に協力を求めても、長年のよしみ・付合いはどこへやら、中国の利益誘導策に乗ってしまう国は多い。

  

 

  

  

  

 

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ローマ第13軍団のウィーン …… 遥けきウィーン 1

2012年11月15日 | 西欧旅行…遥けきウィーン

          ( ローマの防衛線であったドナウ川 )

 所用で大阪へ出たついでに、難波宮跡から大阪城公園に入り、森之宮駅まで散歩した。

 春は桜の名所だが、その桜の木の葉っぱが紅葉して、秋は秋なりの風情がある。

 秋深きウィーンの市立公園は美しかったが、それほど負けてはいない。聞こえてくる言語が国際色豊かなのも、ウィーン並みだ。

        ★   ★   ★

三木清『人生論ノート』から

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」。「旅において我々はつねに多かれ少なかれ浪漫的になる。浪漫的心情というのは遠さの感情にほかならない」。

         ★

 Wien 。日本語では、ウィーン。ドイツ語ではヴィーン。英語では Vienna ビエナ。 

 いずれの響きも綺麗だ。

 音楽の好きな人にとって、ウィーンは「音楽の都」。ベートーベンをはじめ、ウィーンにゆかりのある偉大な音楽家は多い。しかし、何といっても、愛されているのは、モーツアルト!!

 音楽にあまり関心のない人でも、小澤征司がウィーンに行ってから、オペラ座のそばを通るとき、懐かしいような感じを抱くようになった。

     ( ウィーンのオペラ座 )

 ただ、「音楽の都」も、この街並みがあってこそだ。この街並みがあって、モーツアルトのウィーンである。

         ★

 オーソドックスな歴史愛好家なら、ウィーンはやはりハプスブルグ家のウィーン。神聖ローマ帝国の皇帝を輩出したのだから、やはりすごいのだろう。ウィーンの街並みの美しさは、ハプスブルグ抜きには考えられない。ハプスブルグのウィーンである。

         ★

    ( ハブスブルグのシェーンブルン宮殿 )

         ★

 高い天井にシャンデリア、大理石のテーブル。

 パリとは全く趣の異なる、少々気取ったカフェ文化。

 パリのカフェでケーキを食べているのは、よほどのもの好きだ。だが、ウィーンのオペラ座近辺のカフェに入ると、西洋のおば様グループも、日本のマダムグループも、ケーキ、ケーキ、ケーキ。おじ様もケーキ。

 ショーウインドの中を見ると、さまざまなケーキがより取りみどり。美味そうだが、とにかく1個が大きい。

         ★

 ウィーンを舞台にした「寅さん」シリーズもあった。外国が舞台になったのはあの1本だけ。マドンナは竹下景子。ウィーン市から、ぜひ「寅さん」シリーズのロケをと、招へいされたらしい。

         ★

 だが、心ひかれるウィーンは、それらのウィーンと少し違う。

 「私のウィーン」を3つ挙げるなら、2つはその歴史。もう1つは、…… 映画かな??

その1 ローマ第13軍団のウィーン >

 ウィーンは、ユリウス・カエサル以来、ドナウ川を防衛線としたローマ帝国の最前線だった。

 ローマ軍は、この寒冷の地に、ローマ軍の規格どおり、1辺400メートル四方の、堀(グラーベン)をめぐらせ、城壁で囲って、軍団基地を建造した。そして、第13軍団6千人の兵卒が駐留し、ドナウ川に沿う辺境の地をパトロールした。

 今は旧市街の高級ブランド街・グラーベン通りは、軍団基地の南辺の堀(グラーベン)を埋め立てた道である。

 北辺はドナウ川に接していたので、城壁はあったが、堀はなかった。今は、ドナウ運河として残されている。 

  6千人の町は、当時のドナウ川流域では、「大都市」だ。何より安全。ローマ軍が健在な限り、ここにいれば危険はない。周辺の商人、農民、漁民がやってきて、にぎわう。これが都市ウィーンの起こりであった。

 そして、2世紀。ドナウ川流域でゲルマン民族の大規模な侵入が繰り返された。結果から見ればローマ史の終わりの始まりとなる事件であった。

 哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、これをただならぬ事件と判断し、太陽の輝くローマからアルプス越えをして、遥々とこの寒冷の地にやってきた。そして、ドナウ川流域の各軍団の司令官たちを召集して、作戦を練る。

 昼間は戦いを指揮し、夜はテントのランプの灯りで読書や執筆をしたという。寒冷の地で、長く、病弱の身を酷使し、心労を重ね、決して得意とは言えない戦いに明け暮れ、戦い半ばで、ウィーンで病没する。

 これが、「私のウィーン」のその1。

 その何に心ひかれるのか? 

 当時、ドナウ川流域は、レーゲンスブルグも、ウィーンも、ブダペストも、首都ローマから見れば、遥かに北方の、文明の果てるところ、辺境の防衛線であった。

 川の向こうは、黒々と森が生い茂る、果てしない広がり。バーバリアンの地だ。

 かつて、ユリウス・カエサルは、ライン川とドナウ川を防衛線(国境ではない)にせよ、と言い残した。その先に、ローマ人は踏み込んではいけないとも。

           ( ドナウ川・パッサウ付近 )

         ★                     

 ウィーンに心ひかれるとき、わが心はローマ人である。

   そこは、文明の果てる地。遥けさの思い。浪漫的心情。 

 「北帰行」も、「津軽海峡冬景色」も、「みちのく一人旅」も、「北の旅人」も、「五能線」も、北方に心ひかれる浪漫的心情である。

                                                     

  

 

 

 

 

 

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日本の街並み 最終回(大阪)

2012年11月11日 | 国内旅行…街並み

     ( 夕映えの大阪城 )

[ 大 阪 ]

 大阪は、大学卒業後、ずっと働いた町であり、仲間と飲んだ町であり、いわばホームグランドの町である。

 初めに、悪いことをいくつか書く。 大阪に生まれ育った生粋の大阪人は怒るかもしれない。怒って、もう少し志を高くしてほしい。

          ☆ 

大阪の歴史を振り返る > 

 明治維新の前後、日本を訪れた多くの外国人が、日本の風景の美しさに感動した。江戸(東京)の街並みも、地方の城下町も、農村風景も、美しかった。

 だが、江戸とは一味違う、町人のつくった美しい街並みを期待して大阪を訪問した西洋人は、その期待を裏切られる。町人の町は、ただごみごみとした町であった。

          ★

 西洋文明を取り入れようと、明治政府は東京帝国大学をつくり、やがて、2番目の帝国大学を、適塾の伝統のある大阪につくろうとした。だが、大阪の町人は、「そんなものをつくっても、もうからない」と言って、断った。 

  「それでは、うちに」と、京都が引き受けた。  

  大阪帝国大学の創設は昭和6年を待たねばならない。日本の統治下にあった韓国の京城帝国大学、台湾の台北帝国大学にも後れを取った。

 大阪町人の「先見性」とは、この程度のものである。

          ★

大阪人の経済的センス > 

 大阪の繁栄は、幕府が天下の米や物産を大阪に集積する制度をつくったからである。大阪町人が自らつくった繁栄ではない。

 徳川幕府の直轄領でなくなった大阪の経済は、明治以後、現在に至るまで、地盤沈下し続けたと言ってよい。

 お公家の町であり、神社・仏閣の町であり、世界遺産の町でもある京都の方が、今や成功した企業も増え、オシャレな店も多く、個性的で、町に豊かさが感じられる。

 志のある地方の若者が、故郷の町を出て自立しようとしたとき、どの都市を目指すだろうか? まずは東京。関西なら京都、そして神戸。 

 大阪の活性化のために若者の集まる町を、と言って、即効性を求め、結局、ドラッグが売り買いされるような低レベルの若者の町をつくる。いかにも安っぽく、志が低く、文化がない。

 いつまで「たこやきと、お好み焼き」の大阪なのか? 庶民の味が悪いというのではない。いかにも安易である。

 若者に媚びず、大人の街づくりをすれば、優秀な若者は自ずから集まってくる。

           ★

世界と交易する美しい大都市 >

 以上述べたような大阪を、織田信長や豊臣秀吉が思い描いていたとは思えない。彼らが思い描いていたのは、世界と交易する大商業都市であり、世界からやってきた人々が、住み着きたくなるような美しい街並みの都市だ。

 橋下知事は、「大阪を第二の首都に」と言うが、いざというときのために第二の首都が必要なら、それは京都。首都は日本の顔であって、大阪に首都の品格や香りがあるとは思えない。

 日本が、高度経済成長期に入ったころ、東京での学生生活を終え、大阪に職を得て、入社式の前に、大阪を知ろうと、環状線に乗って1周した。

 車窓風景は、東京と比べても、自分が生まれ育った地方の城下町と比べても、緑のない荒涼とした街並みだった。線路のあちこちに昼顔が咲いていて、わずかに慰められた。

 以後、そういう感想を周りにもらしたこともあるが、生粋の大阪人の反応は鈍い。

  私が知る生粋の大阪人は、「ぼんぼん」で、大阪の外に出たがらず、大阪しか知らない。知らないで、大阪に満足している。未来に向かって、美しく立派な街並みをつくっていこうなどという大構想を抱かない。もうけるためにも、世界から知性ある人々がやってくる魅力のある町をつくる必要がある、とは思わない。刹那的、享楽的で、要するに、町人のままである。

           ★

明日の大阪を目指す >

 そういう大阪も、少しずつ変わってきた。

 船場の元ぼんぼんや、元農家のビル持ち成金が頭を切り替えたのではない。

 若いときに一旦、大阪の外に出て、再び大阪に帰ってきた気概ある人々が、その変化をもたらした。或いは、大阪人ではなく、仕事の関係で外から流入してきたかっこいい人たちが時代を動かした。

[ 大阪城周辺 ]

     ( ツインビル )

 例えば、大阪城周辺。 ツインビルをかわきりに、徐々に緑の多い、高層ビルの街に整備され、文化施設もでき、桜の季節、新緑のころ、そして紅葉のときと、なかなかの景観の一角になった。大阪城の見学者は観光客だが、ジョギングする人、梅を愛でる人、桜を愛でる人、劇団四季を観劇に来たついでに散歩する人と、いろんな人々が歩いている。

         ( 大阪城天守閣からの眺望 )

 緑を増やしてももうからない。いえいえ、美しい街並みが人を引き寄せ、外から優秀な若者をを呼び込んで、その人たちが新しい経済の原動力になるのである。

[ 中ノ島 ]

 中ノ島公会堂も一度、スクラップされかけたが、センスの良い若い建築家たちが立ち上がり、保存運動を成功させた。

 そのころから、中ノ島の一角は、徐々に都市美をもつ地区として整備されてきた。 近辺のオフィスで働く人たちが、昼休みに散歩して楽しめるよう、もう一息、パリのシテ島に負けない街並みにしてほしい。

  ( 中ノ島・淀屋橋付近 )

[ 御堂筋 ]

 淀屋橋から難波まで、オシャレな店も増え、歩道には彫刻も置かれ、一筋奥に入れば、いくらでも食事できる店もあり、なかなか綺麗な街並みになってきた。時には、御堂筋ブラも楽しい。

     ( 本町付近 )

[ コリアタウン ]

 環状線の「鶴橋駅」は、線路の架橋の下にあり、その風情は、戦後の焼け跡のままだ。そこからしばらく歩くと、コリアタウンがある。賑わっている。大都市の中の、こういう文化も、大切である。

       ( 鶴 橋 駅 )

       ( コリアタウン )

阿倍野のちんちん電車から住吉大社へ ]

 ちんちん電車がいい。

 阿倍野筋の雑踏を過ぎると、ちょうど鎌倉の江ノ電のように、「松虫」駅あたりでは家の軒先をかすめ、道路が広がった「北畠」駅あたりでは、閑静な住宅街や緑濃い公園を眺め、姫松を過ぎると万代池があり、やがて古代から歴史に登場し、和歌にも詠まれた住吉大社に至る。

   松虫、北畠、姫松などという地名、駅名も趣深い。ちんちん電車に乗らず、歩くのもいい。万代池公園は、散歩、ジョギングの人々でにぎわっている。

   大阪は古い街で、由緒ある神社も多い。しかし、市内の大きな神社は、すでに神社の体をなしていない。(小さな神社は、頑張っている)。杜が失われ、社だけで、鉄筋コンクリートの結婚式場などがある。しかし、日本の神様は、人間が造った建物の中に籠っていらっしゃるわけではない。依り代だと言って鏡を置いたりするが、笑止千万である。まず樹木を植え、育て、鬱蒼たる大樹の杜にすべきである。

 住吉大社は、大阪市でも、やや郊外にあるせいか、神社らしい風情がある。

   ( 住吉大社 )                  

           ★

  「志というものは、現実からわずかばかり宙に浮くだけに、花がそうであるように、香気がある」。( 司馬遼太郎 『菜の花の沖 三』から)

 

 

 

 

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日本の街並み 4 ( 東京 )

2012年11月07日 | 国内旅行…街並み

     ( 新宿から富士山 )

日本の街並み百選のこと >

   「日本の街並み百選」という取り組みがある。日本の歴史ある古い街並みを大切にしようという、こういう取り組みは良いことだ。

 ただ、「パリの街並み考」からはじまったこの文章の趣旨とは、少し違う。

 ここで書いてきたのは、そこで生活して(働いて)、休みの日には散歩することが楽しみで、散歩の途中、カフェなどで一服して、「わが街はなんて美しいんだろう」、と思えるような街はどこか、ということである。

 例えば、「百選」の富山の五箇山は、街並みとはいえない。高野山は、一般人が働いて生活するというわけにはいかない。木曾の妻籠や馬籠も、誰でもが住んで、働いて、散歩を楽しむというような「都市」ではない。街という以上は、最低、尾道ぐらいの都市規模を想定している。

 ただし、「百選」を否定しているのではない。

 

[ 東 京 ]

       ( 銀座四丁目 )

 遠い昔、学生時代、4年間、東京に住んだ。

 東京の杉並区に下宿して、電車に乗って、夕方、西のビルの向こうに、富士山がくっきりと見えたときは、感動した。 

 大阪に職を得て以後、出張で何度も東京を訪れたが、仕事が終わればすぐに引き上げていたから、今の東京についてはほとんど知らない。

  とにかく、パリやウィーンと比較するのは気の毒だが、日本の大都会として、東京は綺麗な街だと思う。

 何よりも、樹木が多い。 

 これは、江戸時代の大名屋敷の名残である。諸大名が上屋敷、下屋敷を構え、さらに旗本屋敷もあって、江戸は何といっても武士の町であった。大名屋敷や大きな旗本屋敷には、日本庭園があった。その大大名の屋敷跡の庭園が、今も、そのまま著名な公園になったりしている。

 それに、東京はからっ風の強いところだから、私が住んでいた中野区、杉並区あたりの住宅街も、一軒一軒が樹木に囲まれていた。新緑のころ住宅街の木の塀や垣根の道を行くと、木漏れ日が緑に染まっているようで、気持ちよかった。

 そういう街だから、東京には、人それぞれに、休みの日に散歩したくなる街並みがあるだろうと思う。

 遠い昔は、「銀座の恋の物語」であり、「有楽町で逢いましょう」であったりしたが、この前、東京に行ったときは、表参道などもなかなかなのでは、と思った。

 

     (表参道のオシャレなカフェ)

 

 

 

 

 

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日本の街並み 3 ( 萩 )

2012年11月03日 | 国内旅行…街並み

     ( 萩城の指月山 )

[ 萩 ]

  萩は、歴史の中の町だ。城下の城跡公園まで行くと、日本海を望んで、美しい。

 自転車を借りて、一日、維新の歴史をたずねた。

 城址近くには、上級武士の邸宅跡が並ぶ。崩れた塀やその奥に見える屋敷の姿から、昔日の立派な面影がしのばれる。

 ただ、その一軒ごとの敷地の広さは、村方の庄屋の屋敷と変わらないように思え、江戸時代が身分制度ほどに、格差のあった社会かどうか、考えさせられる。

   100石を超える程度の中級武士の屋敷群は、武家屋敷街として、一画が残されており、散策して楽しい。藩医の家だった桂小五郎邸も、高杉晋作の家もある。質実な書院造りとともに、いずれも小さいながら庭があって、ゆかしい。こういう家は、安らぎを覚える。

       ( 中級武士の武家屋敷街 )

  下級武士の家は、城下の外れにある。吉田松陰の実家(彼は子どものころ、吉田家に養子に出た)は、城下を離れた不便な丘の上にあり、その叔父で、子どもの松蔭に勉強を教えた玉木の家も、こんな小さな家に家族で住んでいたのかと驚くほど、小さい。貧農の家と変わらないだろう。

 

                ( 松下村塾 )

          ( 玉木叔父の居宅 )

   ( 松陰の生家の小さな敷地跡 )

 自転車を走らせていると、あちこちの家の塀の上から、夏蜜柑の実がのぞいている。そのみずみずしさが、往時の青春をしのばせる。

 

      ( 白壁からのぞく夏蜜柑 )

 松蔭は、国禁を犯してペリーの黒船に乗り込み、アメリカに連れて行ってほしいと頼んだ。今、まず必要なことは、敵の文明度を知り、学ぶことだ。だが、もちろんペリーは許可せず、幕府に捕らえられ、最終的には死刑になる。そういう運命が待ち構えていることはわかりながら、彼は、まっすぐに行動していった。吉田家は学者の家であり、彼の思想・行動は、いかにも書生的である。青春とはそういうものだ。

 江戸で死刑になるまで、長州藩に預けられた間、藩はこの若者を惜しんで、出来る範囲の扱いをしてやった。藩も、若者を大切にした藩である。

 松下村塾は、藩に預けられていた間に生まれた。天下の英才を集めたのではない。近所の下級武士や百姓・町人の子弟が集まった。ディスカッションが多かったらしい。松蔭先生は、一人一人の特徴をつかみ、一人一人とディスカッションし、一人一人に期待した。この塾から出た若者たちが、日本を変える。天下の英才を集めて教育したわけではない。

         ( 松陰神社 )

 高杉晋作は、高杉家の一人息子で、もちろん長男であったが、父親がまだ現役であったから、部屋住みであった。文字どおりの書生身分である。長州が連合艦隊と戦って敗れたとき、藩は人選をし、部屋住みの晋作を家老と偽って、講和の使者に送り出した。晋作も可笑しいが、長州藩という藩も可笑しい。

 ( 詳しくは、司馬遼太郎  『世に棲む日々』 文春文庫4巻 を参照)

  薩摩の西郷や大久保がすでに熟達のリーダーであり、十分に策士であるのに対し、長州のリーダーたちはいかにも青くさい書生である。

 萩の町を自転車で風を切りながら、ここは、明治維新のときから動きを止めた、歴史の町だと感じた。だが、その歴史の中から、青春が匂い立ってくる、と肌で感じた。松蔭の夏蜜柑、晋作の夏蜜柑である。

 遠い日の青春と重ねつつ、良い町だと思った。         ( 続く ) 

 

 

 

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日本の街並み 2 (京都、倉敷)

2012年11月01日 | 国内旅行…街並み

 戦後の日本は、大都市・中都市・小都市のどこも、同じ顔をした街並みになった。JRの駅を出て見る「景色」が、どの町も同じだ。

 そんななかで、あえて散歩したくなる街並みを探していくと、結局、歴史的なもの、或いは、綺麗な川や木立ちなどの自然を多く残した町ということになる。

[ 京都 … 祇園~平安神宮

 京都は広い。ここに書くよりもっと、歩いて楽しい街並みがあるはずだ。だから、京都に住む人に教えてもらいたいくらいだ。

 桜のころの祇園界隈が好きだ。祇園から、白川の流れに沿って、京都市美術館、平安神宮まで歩く、短い散歩道が楽しい。

     ( 二寧坂付近 )

 平安神宮から哲学の道は、春は桜、秋には哲学の道のさらに山側の道を、紅葉を愛でながら銀閣寺まで歩くのは最高だが、観光客が多い。 

 清水寺から坂本竜馬の墓を経て円山公園とか、南禅寺・インクラインの辺りもステキなのだが、観光コースだ。

   (平安神宮付近)

 京都に住んで、朝、観光客のいない時間に散歩できたら、いちばんだろう。

 学生だったころ、嵯峨野は、まだ十分に隠れ里的であったが、高度経済成長の中、たちまち宅地が増え、観光バスも近くまで入るようになった。

 学生のころ、紅葉散り敷いた、夢のように美しい小道を歩いたが、翌年、大阪に就職して、秋に行くと、小道はなぜか閉鎖されていた。

京都 … 下鴨神社~上賀茂神社 ]

  街並みとは言えないが、下鴨神社から、賀茂川の堤の道を上賀茂神社、そして大田神社まで歩く道は、まるで参道を行くような清らかさがある。川原は市民の散歩コースにもなっているようだ。

 上賀茂神社(賀茂別雷 ワケイカズチ 神社)、下賀茂神社(賀茂御祖 ミオヤ 神社) は、もとは土地の豪族・賀茂氏の神社であった。土地の神様だ。そこへ平安遷都があり、都を守る社として、伊勢神宮と並んで朝廷からの崇敬を受けることになった。

 賀茂の祭は勅祭となり、斎院が置かれ、皇女が斎王として仕えるようになる。

 大田神社は、上賀茂神社の摂社。アメノウズメを祀るが、静かでゆかしい。 

 

    ( 太田神社 )

[ 倉 敷 ]

  倉敷と言っても、、大原美術館の周辺だけ。

 ここも、観光客の街で、住む人の散歩コースとは言えないが、美しい街並みをつくろうと思えばつくれるという証明になる。 

 パリが美しいのは、そこに人間の「意志」があるということだ。美しい街並みをつくろうという人間の意志だ。そのためには、市の許可なしに、私有地も含め、1本の樹木も切ってはいけないとか、外に洗濯物を干してはいけないとかという規制は、市民として当たり前。

 パリの街並みは、6階建てでそろっている。それ以上の高層建築も、それ以下の一戸建て住宅も、許可されない。パリの端整な美しさは、皆でそういう美しい町をつくろうという「意志」から生まれた。建物を勝手にスクラップするなどもってのほか。許されるのは内部のリフォームだけ。パリ市民であるとは、その程度の不便には耐えるということでもある。

 自由や個人主義の前に、市民精神がある。市民精神の土台の上に、自由や個人主義は成り立っている。

 そこが、戦後の日本人が理解した自由や民主主義と、ちょっと違うところだ。

 自由とは、「各自の家の中は各自の勝手」ということだで、一歩、家を出れば、市民である。

 フランスでは、公立(全部、国立)の学校にイスラム教の服装をして登校して来たら、小学生であろうと、退学になる。公立学校は、キリスト教との長い戦いの末に勝ち取った無宗教の学校だ。個人の心の問題である宗教を持ち込むことは許さない。イスラム教の戒律に従いたいのなら、イスラム教の私学をつくったらいい。

 ( 続 く )

 

 

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