ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

時よ、止まれ ─ ブルージュ散策 … ネーデルランドへの旅(6)

2017年11月25日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

   ( ブルージュの街並みを映す運河 )

 ※ 一旦、発表した後、「フランドル伯」についての記述を少し修正しました。

         ★ 

 ツアーの4日目はベルギーの3つの都市 ── ブルージュ、ゲント、ブリュッセル ── を訪ねる。

   午前中は、ブルージュを散策。運河の街を歩き、運河めぐりの遊覧船にも乗った。

 ブルージュの印象を仏文学者で西洋美術にも詳しい饗庭孝男氏は、次のようにつづっている(『ヨーロッパの四季』東京書籍から)。

 「(ホテルの)私の部屋は2階にあり、窓からは道をはさんで運河が見え、その向こうに暗褐色の煉瓦づくりや、白い壁の家並があった。今はもう使われない小さな船着きの古い石段が、静かな波に洗われ、水藻を青く漂わせている。それを見ると私はヴェネツィアの裏通りの運河沿いにある家々を思い出した。白鳥が時折動いてゆく。舟が通ってゆく以外、水面は繁栄を失ったこの町のように、幻のような家々の姿を映している」。     

           ★

 「ブルージュ」は英語読みである。私の使っている世界地図帳では「ブルッヘ」。その方が一般的なのかもしれない。他にも、いくつかの呼称がある。その国の公用語が2つも3つもあったりすれば、自ずから日本での呼び名も多様化する。

 ただ、日本での呼び方はいろいろあっても、町の名の由来は「橋」である。町の周囲も町の中も運河が縦横に流れて、そこに50以上の橋が架かっている。橋の町なのである。

 町の起こりは9世紀だ。初代フランドル伯のボードゥアンⅠ世が、ここに城塞を築いたのが始まりである。

 フランドル伯は、この地方で864年から1795年までの長きにわたって続いた名門の伯位である。(同じ家系がずっと続いてということではない)。西フランク王国(フランス)と封建関係にあったが、東フランク王国(ドイツ)との境界に位置し、緩衝地帯となった。また、イギリス王家とも婚姻関係があった。

 このブルージュがブルージュ(橋)に大変身したのは、12世紀である。フランドル伯の下、15キロ先の北海のズウィン湾まで運河が通され、町の中にも水路が張り巡らされたのだ。その結果、この町は、フランスやドイツの内陸部と、北欧や英国とを結ぶ交易の要衝として一大飛躍を遂げるのである。

 13~14世紀は、ブルージュが光り輝いた世紀である。ハンザ同盟の商館が置かれ、東方貿易に携わる地中海の海洋都市国家の商船までが、遥々と大西洋経由でやって来るようになった。ブルージュは貿易・金融の一大拠点となり、市民たちは力をつけ、豊かになり、その財力によって、今見るような美しい街並みを築いていった。

 この町の衰亡は意外に早くやってきた。15世紀になると、北海への出口のズウィン湾に土砂が堆積していき、ついには商船が出入りできなくなったのである。町は一気に衰退した。

 その結果、ブルージュは、中世の景観をそのままに残す化石のような町として、時代から取り残された。

 だが、中世の街のまま取り残されたことが不幸中の幸となり、19世紀に観光の町として再生するのである。もう商船が行き交う時代ではなくなったが、観光用に運河が再生され、風と光とカリヨンの音色の響くかつての「水の都」として、世界の観光客を集める街に生まれ変わったのである。

        ★

 ブルージュの散策の出発点は、昨夜のマルクト広場から。町のシンボルの鐘楼を仰いで、お隣のブルグ広場へ行く。

 ブルグ広場には、装飾の美々しい市庁舎の建物がある。

   ( ブルグ広場の市庁舎 )

 市庁舎の右隣に聖血礼拝堂。その名のとおり「聖血」が、この町の大切な聖遺物として祭壇に納められている。12世紀の第2回十字軍のときにエルサレムに遠征した当時のフランドル伯が、義理の兄弟であるエルサレム王からもらって帰ったとも、コンスタンチノープル(イスタンブール)から持ちかえったとも伝えられている。毎年、イエス昇天の日に、中世の装束をした1800人の市民らが「聖血の行列」を行い、世界から5万人の人々が見学にやって来るそうだ。

 それにしても、イエスの死を前にして、弟子たちや2人のマリアが気も動顛して嘆いていたというのに、十字架上のイエスが流す血を壺か何かで受けた人って、どういう神経なんでしょうか?? 想像すると、かなりおどろおどろしい光景である…。

 或いは、例のごとく、その人の前に天使が現れて、お告げをしたのかもしれない。「あなたは自宅の壺を持って十字架の下に行き、イエスの血を受けなさい」。そういう話が、四福音書の外典に残されているとしたら、話もきれいになるかも…。

         ★

 ブルージュは煉瓦の街である。

 煉瓦色の家並みの中に、時折、瀟洒な白壁の邸宅が混じる。白壁の家がいくつか並ぶ地域もある。

 今は商船の行き来もなく、荷揚げや荷積みの喧噪もなく、運河はしんと静かで、白鳥が水を切るだけだ。

 少し歩けば、家並みの上に、町のシンボルである鐘楼がのぞいて見える。

     ( 家並みの上の鐘楼 )

         ★

 町のどこからでも目につくのは、聖母教会の塔も同様である。町のシンボルの鐘楼よりも背が高くて、122mもある。煉瓦造りの塔としては、世界一の高さと言われる。

   ( 聖母教会の塔 )

 煉瓦の橋を渡って、ゴシック様式の聖母教会へ入った。

 

      ( 聖母教会へ )

 南側の祭壇には、ミケランジェロの聖母子像があった。西洋旅行をしていると、行く先々の教会に聖母マリアの像をよく見るが、どれも似ているし、それぞれに違いもある。中世を終わらせ、ルネッサンスを切り開いた巨匠たちの一人ミケランジェロは、どうしてマリアの顔をこのように造形したのだろうか … 。

 どれも似ているというのは、マリアはたいていどれも、私には「冷たい顔」をしているように見えて、例えば、わが子を抱いて愛おしそうに微笑む顔を思い出せないのである。「聖母」は永遠の母性。もっと柔和な、優しい顔をしていてもいいのではないかと、不信心な私は思う。

 ( ミケランジェロの聖母子像 )

        ★

 ベギン会修道院の建物も美しい。

 ヨーロッパ中世において、女性は結婚するか修道女になるかしか、生きるすべがなかった。ベギン会は、12世紀のベルギー・フランドル地方で起こり、女性の自立を支援するために、女性だけで組織された共同体である。13の修道院がつくられ、今は一括して世界遺産に登録されている。  

       ( 橋を渡ればベギン会修道院 )

 ブルージュのベギン会修道院は、1245年にフランドル伯夫人によって創設された。

 白鳥の群がる運河の橋を渡り、門をくぐると、森の木立があり、静寂が支配していた。その木立の向こうに、女性たちが暮らした白壁の家が並んでいる。

     (ベギン会修道院の白い建物)

 いわゆる修道女ではない。ここで暮らした女性たちは、朝のミサが終われば、レース編みをしたり  (今もこの地方の伝統産業である) 、夕のミサまで町に出て家庭教師をしたり、病院で働いたりした。自立して生きるための経済活動をしたのである。修道女ではないから、退会して結婚することも認められていた。女性が自立し、自己決定することを大切にしたのである。         

          ★

   運河クルーズも楽しんだ。水面に近い位置から眺める街も良かった。

       ( 運河クルーズ )

 

   ( 街角の聖母子像 )

 「角にあたる家の軒に陶器の聖母子像が見える。春だとその下に花々が供えてあるのであった」(饗庭孝男『ヨーロッパの四季』 から)。

 午後からは、バスでゲントとブリュッセルをまわった。

    

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ルクセンブルグからベルギーへ … ネーデルランドへの旅(5)

2017年11月17日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

    ( 憲法広場のテラスから )

 旅の3日目。8時半にホテルを出発し、まず、ルクセンブルグの旧市街を散策した。

 ルクセンブルグの正式の国名はルクセンブルグ大公国。国の広さは佐賀県ほど。人口は約57万人。深い渓谷と緑の森におおわれた小国である。首都はルクセンブルグ市。

 西暦963年、アルデンヌ家のジーゲフロイト伯爵が、2つの小さな川がえぐった断崖の上に砦(小さな城 lucilinburhuc)を築いた。砦は時代とともに、天然の要塞として強固に補強され、難攻不落の城塞となった。

 旧市街の南の端にある憲法広場のテラスから眺望すると、目の前にペトリュス川の渓谷の鬱蒼とした森がある。森の間に見える橋は新市街と旧市街とを結ぶアドルフ橋、塔のあるお城はルクセンブルグ国立銀行だ。

 かつてこの小国を支える産業は鉄鋼業をはじめとする製造業だった。今も製造業は支えとなっているが、何よりも柱となっているのは金融業である。ルクセンブルグと言えば、ヨーロッパを代表する国際金融センター。なにしろ、あの北朝鮮の金正日の隠し財産のほとんどがルクセンブルグの銀行にあると言われてきた。(今は息子が受け継いでいるのだろうが)。

 国民1人当たりの所得は世界1位で、福祉国家でないにもかかわらず、国民の所得格差は北欧並みに小さい。

         ★

 憲法広場から5分も歩くとノートルダム寺院。イエズス会の教会だが、建物は20世紀に再建されて新しい。地下には歴代大公の墓がある。

 

     ( ノートルダム寺院 )

    ( ステンドグラスとマリア像 )

 大公宮はかつて市庁舎だった建物で、ヨーロッパの他の王や司教の宮殿と比べると質素である。近衛兵が立哨しているが、これもヨーロッパの王宮や大統領府で見られる古式ゆかしい軍装ではなく、東京のどこかの国の大使館あたりと変わらない格好だ。銃もパリの警察官の銃と大差ないように思われる。

     ( 大公宮の衛兵 )

 ルクセンブルグの国家元首は、ナッサウ=ヴァイルブルグ家が世襲する大公。大公は、公爵の上の位階。

 立憲君主制だが、日本と違って、儀礼的な職務のみではなく、内閣とともに行政権も執行する。

 小国のルクセンブルグは、北から西にかけてはベルギーに接し、南はフランス、東はドイツに隣接する。かつて国際条約により永世中立国とされていたが、第一次世界大戦のときも、第二次世界大戦のときも、突如、ドイツ軍が侵入し、占領した。

 戦後は、永世中立国であることを捨て、軍事同盟であるNATOに加盟。

 こんな小国では、スイスのように、単独で、自国の独立を維持し続けることは不可能だ … 自国の平和と独立を守るためには、勝てないまでも、相手が侵略をためらうだけの強い「力」をもつことが必要不可欠である。その「力」には、狭義の軍事力とともに、相応の人口と、領土・領海が必要である。そこがスイスとは違うところだ … と考えたルクセンブルグの戦後の選択は賢明であろう。

  旧市街を東の方へ歩いて行くと、ルクセンブルグを流れるもう一つの川、アルゼット川を見下ろすボックと呼ばれる断崖がある。今は格好の見晴らし台だが、かつてこの崖の下部には巨大な地下要塞があり、ボックの砲台と呼ばれていた。

 北に新市街の高層建築が見える。反対側はアルゼット川の渓谷で、緑の中に美しい建物がある。

 1060年ごろ、アルデンヌ家の分家が伯爵位を継ぐとき、改名してLuxemburg家とした。Luxemburgは、lucilinburhuc(城塞)が変化したものだそうだ。

    ( ボックから新市街 )

   ( ボックからアルゼット川の渓谷 )

 ルクセンブルグ家の歴史の中で一番有名な人物は、1346年に神聖ローマ帝国皇帝となったカール(チェコ語ではカレル)Ⅳ世だろう。ルクセンブルグ伯 (→カレルのとき、ルクセンブルグ公爵になる)であり、チェコ王でもある。チェコの歴史の中では、「祖国の父」と呼ばれている。

 カレルは、プラハを神聖ローマ帝国の首都に定めた。アルプス以東に初めて大学、すなわちプラハ大学を創設した。プラハの旧市街に隣接して広大な新市街を造った。旧市街にはカレル橋をはじめ多くの建築物を建て、王宮の丘には聖ヴィート大聖堂を建造した。ヴルタヴァ川が流れるゴシック様式の美しい街は「黄金のプラハ」と呼ばれるようになる。どこか謎めいて、スラブ的な、魅力ある街である。

 なぜ、ちっぽけなルクセンブルグ伯が、チェコ王を兼務し、さらに神聖ローマ帝国皇帝になったのか??

 ドイツでは、神聖ローマ帝国皇帝が空位になり、大空位時代を経て、諸侯が集まって皇帝を決めるようになる。とはいえ、諸侯にとって、皇帝の権力は小さいほうがありがたい。諸侯はみんな自分・自領ファーストだから、できるだけ弱小の領主を皇帝に選ぶ。例えば、スイスの小豪族だったハブスブルグ家である。ただし、ハブスブルグ家は、オーストリアの侯爵家が断絶したとき、皇帝の地位を利用してさっさとオーストリアに引っ越して、跡を継ぎ、一躍、帝国内の有力領主になった。

 小さな領主・ルクセンブルグ伯も、カレルの祖父の時代に皇帝に選出されている。ただし、この祖父は優秀な人だったらしい。しかも、弟がトーリアの大司教 (前回のブログ参照。7選帝侯) だったから、当然、ここぞとばかり優秀な兄を推薦したことだろう。

 そのころ、チェコを治めていたプシェミシュル家の公が殺され、跡継ぎがいなくなった。そこで、チェコの貴族たちは、公の妹の夫として、時の皇帝の息子であるルクセンブルグ家のヤンを迎えたのである。

 この2人の間に生まれたのがカレルだ。卓越した人物で、ラテン語を含む5か国語に通暁し、美術や文学を愛し、政治的能力にも秀でていた。チェコ人からも慕われ、自身も母の国チェコと首都プラハの発展のために生涯をささげた。

 だが、3代続いて優秀な人物が出ても、なかなかあとは続かないもので、孫の代でルクセンブルグ家は断絶する。そして、カレルの競争相手であったオーストリア・ハブスブルグ家の全盛時代になっていく。

 現在のルクセンブルグの大公は、ナッサウ=ヴァイルブルグ家である。オランダ王室のナッサウ=オラニエ家と同じ流れである。

 以上、カールⅣ世の記述に当たっては、神戸大学教授であった石川達夫氏の『プラハ歴史散策』(講談社+α新書)を参考にした。この本は、かつてプラハに旅したとき、「黄金のプラハ」を築いたというカールⅣ世に興味をもち、しかもその後は、あのベルリン壁の崩壊まで他国に支配され続けたチェコの苦難の歴史を知りたくて読んだのだが、そのときはよく理解できなかった。今回、ほんの1時間少々ルクセンブルグの旧市街を散策し、帰国してからその歴史を調べているうちに、すでに断絶しているルクセンブルグ家が、遥かにチェコのカールⅣ世につながっていることを知ったわけである。

 素人には、ヨーロッパの歴史は、まことにややこしい。

         ★

 10時半、ルクセンブルグの旧市街を出発し、すぐに国境を越えて、ベルギーに入った。今日は、ベルギーの西の果て、北海まであと15キロというブルージュへ行く。以前から行ってみたいと思っていた中世の面影がそっくり残ると言われる街である。

 EU圏の国境越えは、日本で県境を越えるのと同じで、道路の標識で知るだけだ。標識を見落とせば、いつの間にか違う国に入っている。

 バスで走ること約140キロ、90分。デュルビュイという小さな田舎の町に着いた。ここで昼食をとり、町の中を散策した。

     ( デュルビュイの街 )

 小さな町だが、ウルト川の渓流が流れ、小さな城や教会があり、ベルギーとしては標高が高い(400mの所にある)から、リゾート客もやってくる。結構、賑わっていた。

 午後3時にデュルビュイを出発して、ブルージュへ向かう。ここから約250キロの道のり。

 バスは、午後5時を過ぎたころから、(日本でもそうだが)、大渋滞に巻き込まれた。

 太陽が沈み日も暮れかかって、ブルージュのホテルに到着した。ここで2泊するから、ちょっと気分が落ち着く。

          ★

 今夜の夕食はブルージュの町の中心のマルクト広場にあるレストランで食べる。

 広場はホテルから近かった。

 細い道から、ヨーロッパでも5指に入ると言われる立派な広場にいきなり出て、圧倒された。

 暮れなずむ濃紺の空に映えて、ライトアップされた州庁舎と鐘楼が、非現実的なもののようにそびえていた。

   ( 暮れなずむマルクト広場 )

 13~15世紀に建てられた鐘楼は、この町の象徴で高さ83m。

 時を告げるカリヨンの響き。

 時計のない中世の時代、時を告げる鐘楼は王や教会が建てた。ブルージュの鐘楼は、この町がヨーロッパの金融・貿易の拠点の一つとして発展して豊かになったとき、市民たちが建てたものである。市場の開始を告げる鐘楼を市民が建てるということは、王侯貴族や教会勢力からの市民たちの自立を表している。

 先ほどの美しい濃紺の空はたちまち暗くなり、鐘楼の横に月が出た。満月だろうか。

     ( ブルージュの鐘楼と月 )

 

    ( 客を待つ馬車 )

 

 

 

 

 

 

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モーゼル川の岸辺の町…ネーデルランド(低地地方)への旅(4)

2017年11月10日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

   ( モーゼル川の岸辺のベルンカステル )

モーゼル川の岸辺の町ベルンカステル >

 リューデスハイムを出て、やがてバスはモーゼル川沿いの道を走る。

 モーゼル川はライン川に流れ込む大きな川の一つで、この川の上流にルクセンブルグがある。今夜の宿は、ルクセンブルグだ。

 走ること約2時間。対岸の丘の麓に、眠気を覚ますような美しい町が見えてきた。

 ベルンカステル。ルクセンブルグとの国境まで直線距離にして約60キロという所にある小さな町だ。

 緑の丘があり、丘の麓に並ぶ白壁に青い屋根の家々が、川面の青に映える。ドイツは本当に美しい国である。

         ★

 バスを降り、徒歩でモーゼル川に架かる橋を渡った。

    ( モーゼル川の橋から )

 岸辺には、これも瀟洒な色合いの船が停泊している。

 昔からフランスやドイツを流れる大河とその流域の川は、さらに運河によって結ばれ、水運に使われてきた。

 今、ヨーロッパには、そういう水の道をたどって船旅をするという優雅なツアーもある。

 歴史ある町の中をゆったりと流れる川。町から次の町までの間は自然豊かな美しい水路。そういう水の上に寝泊まりしながら、何日もかけて、船の旅をする。船は小さな動くホテルだ。

   ただし、私自身はそのような旅にはあこがれない。それは旅というより、リゾートの気分だ。

 船の向こうの緑の丘は一面のブドウ畑だ。ブドウ畑の上のお城は、ランツフート城。

 ここで収穫されたブドウを醸造したワインは、「ベルンカステラー・ドクトル」と言うそうだ。

 以下は、紅山雪夫の『ドイツものしり紀行』から。

 「トリーア大司教ポエムントⅡ世がランツフート城で重い病にかかり、もはやこれまでと思われたとき、今生の名残にこの畑からとれたワインを毎日少しずつ飲んでいたところ、さしもの重い病が次第になおって、健康を取り戻すことができた。それまではどんな医師の薬を飲んでもダメだったのである。以来このブドウ畑にも、そこからとれるワインにも、大司教のお声がかりでドクトルの名が冠せられるようになったと伝えられている」。

 私ももはやこれまでという最期の日々は、今生の名残として、毎日、昼には冷えた白ワイン少々、夕には燗酒を少しいただきたいと思う

 話はそれて、ここで紅山雪夫(ベニヤマ ユキオ) 氏について一言。

 最近まで、このお名前はペンネームだとばかり思っていた。だが、ブックカバーの著者紹介によれば本名だった。1927年、大阪府豊中市で生まれたが、生まれた日が大雪だったのでこう名付けられたと、わざわざ紹介されている。旧制豊中中学校を経て東大法学部卒。日本旅行作家協会理事などを務めた。博識で、西ヨーロッパ各国の歴史・地理・文化をわかりやすい文章で紹介している。叢書ではないから、取り上げられている地域に限界があるが、わかりやすさと水準の高さにおいて、私の知る限りヨーロッパ旅行の最高の案内書である。

         ★

 橋を渡って町の中に入ると、すぐに町の中心のマルクト広場に出た。

 広場の一角には大天使ミカエルの泉があり、その後ろに市庁舎。広場を囲むように、立派な木組みの家々が並んでいる。

 木組みとはいえ、屋根裏部屋の屋上階までいれると、5階建ての建物である。

 あの屋根裏部屋にしばらく滞在して、窓から広場を行き来する町の人々を眺めたり、広場のカフェでのんびりとコーヒーを飲んだり、モーゼル川の流れやブドウ畑の上の白い雲を眺めて過ごしたら、さぞ気持ちがいいだろう。ただし、2、3日でいい。

 3階に、観光客らしい人が見えた。こちらに手を振っている。

  ( 市庁舎と大天使ミカエルの像 )

  ( マルクト広場の木組みの家々 )

    ( 大天使の彫像のある家 )

 あまり有名とは言えないこういうローカルな、しかし美しい町を見ることができて良かった。個人でここに来ようと思えば、鈍行列車と路線バスを乗り継がねばならない。

         ★

ローマ時代の要衝の町トリーア >

 再び、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』から

 「ベルンカステルからモーゼル川を遡ること60キロ、ルクセンブルグとの国境近くに位置しているトリーアは、ドイツ最古の都市の一つで、ローマ時代の大規模な建造物がいくつも残っているという点ではドイツ随一である」。

 旅行日程表には、この町に寄るとは書かれていなかったが、今夜の夕食はトリーアの町のレストランだそうだ。旅行社のデスクワークの企画というより、歴史を少しでも感じながら食事してもらおうという添乗員のG氏の配慮かもしれない。

 過去に参加したヨーロッパツアーの添乗員は、現地の地理・歴史や文化の話をするときも、本質から外れた断片的な挿話や伝説のたぐいの紹介でお茶を濁す人が多かった。知識が体系化されていないのだ。 

 今回のツアーの添乗員G氏は、訪ねる町の歴史や文化について書いた手書きのプリントを次々配って、簡単に説明を加えてくれる。つまり、自分が案内する対象を参加者に理解してもらおうと努力している。このような添乗員は初めてである。それに、この旅行の間、買い物をしたければどうぞ、という自由時間は設定したが、自分から特定の土産店に案内しても、購入を勧めるということもなかった。そして、そういうG氏のスタイルは、ツアー参加者に好感をもって迎えられているようだった。

         ★

 日がとっぷり暮れて、トリーアの町に着いた。

 紅山雪夫氏によると、この町は、ボンやケルンなどライン川沿いにつくられたローマの軍団基地を後方で統括する町として築かれたそうだ。ライン川から100キロほど後方に下がった所に位置し、ライン川とはモーゼル川の水運によって結ばれていた。しかも、さらに後方にはメッスを経てリヨン、ランスを経てパリへと街道が走っている。

 そういうローマの要衝の町に、最初の司教座を設けたのはコンスタンティヌス大帝である。

 コンスタンティヌス大帝は313年にミラノ勅令を出し、キリスト教を含むすべての宗教の信仰の自由を認めた。だが、もともとパクスロマーナのもと、ローマは全ての神々を認め、信仰は自由で、互いの宗教をリスペクトしあっていた。そこに、他の宗教を決して認めないという不寛容な宗教が興った。それが絶対神を崇めるキリスト教である。当然、市民との間に軋轢が生じる。ローマ皇帝がキリスト教を弾圧したのは不幸なことであったが、ローマとその皇帝がもともと不寛容であったわけではないし、ローマの町に放火して楽しんだなどという皇帝ネロ像は、後世のキリスト教史観の捏造の産物である。

 コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認し、皇帝自らキリスト教に肩入れするようになってから、キリスト教は宮廷内にその勢力を拡大していく。そして、ついには、ローマ帝国の国教の地位を勝ち取り、皇帝権力と結びついて他宗教を徹底的に弾圧するようになる。その結果、ヨーロッパでは、近代啓蒙思想が興るまで千数百年間も信仰の自由のない時代が続いた。そのきっかけは、信仰の自由を謳ったミラノ勅令であった。

 話はトリーアの司教座に戻るが、9世紀の初め、神聖ローマ帝国皇帝となったカール大帝によって、司教座は大司教座に格上げされた。

 その後は、ケルン大司教と同じように、所領をもつ諸侯となり、やがて7選帝侯の一人に加えられた。

         ★

 ローマ時代の城門、ポルタ・二グラ(黒い門)を通って、中心街へ入って行く。

    ( ポルタ・二グラ ) 

 ポルタ・二グラは、2世紀の後半に、トリーアの町を囲む城壁の北門として造られた。アルプスより北のローマ時代の遺跡としては、最も保存状態が良い建築物だそうだ。それ自体が城砦のようで、内外二重の門となっている。

 町のメイン通りを行くと、すぐにハウプトマルクト広場に出た。

 広場の真ん中には十字架の載る石柱がある。この広場で開かれる市(イチ)の監督権をもつのは大司教である、ということを示すそうだ。

    ( ハウプトマルクト広場 ) 

 ハウプトマルクト広場から東へ少し入った所に、トリーア大聖堂がある。11世紀のロマネスク様式の西正面が、広場の方に向いている。まるで要塞のようにイカツイ。

    ( トリーア大聖堂 )

 その大聖堂の南側に位置し、広場を囲む建物の上からのぞくのは、14世紀にゴシック様式で建てられた聖母教会である。  

     ( ゴシック様式の聖母教会 )

 この町には、ローマ時代の浴場や円形闘技場の遺跡、コンスタンティヌス大帝の宮殿なども残っているそうだ。私的には、こういう町をゆっくり見て回りたい

        ★

 広場の一角のレストランでおそい食事を済ませ、そのあとまたバスに乗って、国境を越え、ルクセンブルグのホテルに着いた。すでに午後10時半だった。

 いくらバスツアーとはいえ、連日のおそいチェックインで疲れた。もう少し早くホテルに入りたい。もう若くはないのだ。  

 

 

 

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ライン川クルーズを楽しむ … ネーデルランド (低地地方) への旅(3)

2017年11月02日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

        ( ライン川の岸辺のブドウ畑 )

  ケルン大聖堂の見学を終え、次はライン川クルーズだ。

 乗船場までケルンからバスで約2時間。ライン川の上流へ向かう。

 ドイツが誇るアウトバーンだが、またもや渋滞。10分ほど徐行運転で進んでいくと、やがて対向車線に2台の車の衝突現場があった。激しくぶつかり、2台で完全に道路をふさいでいる。こちらの車線は走り出したが、対向車線は全く動かず、それが延々と続いている。

 バスはアウトバーンを降りて、野の道になった。

 やがて下りのヘヤピンカーブになり、木の間隠れの一瞬だが、遥か下方にライン川の流れと小さな町が見えた。胸のときめく景色だ。

     ( 車窓から…ライン川が見えた )

 だが、すぐに我々の乗る大型観光バスは、下り坂のヘヤピンカーブを曲がり切れず、車輪が草むらの土手に乗り上げた。それから何度も切り返すが、曲がれない。車高の高いバスがひっくり返りそうだ。後輪のあたりから煙も出だす。乗客を道連れにするな!! と、全員バスから降りた。

 大型バスが通れる別の道路があったはずだ!!  事前研究が足りないぞ!!

 乗客を降ろしたドライバーは気持ちを落ち着かせようと煙草をくわえ、ハンドルを握りなおして、来た方向へ方向転換しようとする。何度も草むらの土手に乗り上げ、車体の底をガリガリと擦り、煙を上げ、最後は前輪が完全に浮き上がって後輪だけになるという、アクロバッティなことをやって、やっと向きを変えた。最後のカマキリのような恰好のときは、ドライバーの位置は遥かに高くなり、多分、ヤケクソの蛮勇だったろう。見ているだけで、怖かった。

 傷めつけられたバスに乗るのは気持ちが悪かったが、一行の中に大型車に詳しそうな方がいて、ぐるっと車体を見て回り、「大丈夫だ」と独り言したので、安心した。このドイツ人ドライバーより、このおじさんの方が信じられる。

 乗船場を眼下にして引き返し、一つ先の乗船場へと、船を追いかける。

 遊覧船は、上りと下りがある。下りの船に乗る観光客の方が多いが、このツアーは上りに乗る。上りの方が1.5倍の時間がかかる。しかし、その分、空いているし、船の中で優雅にランチをとることになっているから、都合が良いのだろう。

 ところが、乗船場所が一つ先になったため、ローレライの岩を見ることができなくなった。ツアー参加者の一人、元ラガーマンといった感じの大柄なご主人が、"このツアーに参加したのはローレライを見たかったからだ!!"と、添乗員に対して怒り出し、なかなか機嫌が直らなかった。みんな心ひそかに、その方の奥さんも含めて、添乗員に同情した。海外旅行は、国内の温泉パック旅行のようにはいかない。ハプニングも旅のうちだ。どうも、奥さんに付き合って、しぶしぶツアーに参加されたらしい。夫婦の覇権争いに敗れた結果だから、仕方がない。

 ローレライの話は、多分、中学校のころ、音楽の時間に聞いたような気がする。

 昔、このあたりの渓谷は、流れが急カーブして川幅が狭くなり、岩礁があって、激流だった。特に、夕日が川面をきらきらと赤く染めるころ、船頭は目測を誤って岩礁に乗り上げ、よく船が難破した。

 で、伝説が生まれた。夕映えの時間になると、美しい乙女が岸の岩壁の上に立ち、黄金の櫛でブロンドの髪を梳きながら美しい歌声で歌う。その歌声に惑わされて、船頭たちが舵を切り損ねるのだと。

 今は、激流の原因であった岩礁は爆破され、除去された。流れは穏やかになり、「あれが、ローレライの岩」と指さされるのは、もちろん観光用だ。昔も今も、乙女の立つローレライの岩など、あるはずがないのだから。

 聖遺物と同じで、所詮、まがいものだ。

        ★

 ザンクト・ゴアールという船着場から乗船した。

 すぐに昼食となる。

 季節のはずれのライン川クルーズはかなり寒いと聞いていたが、ぽかぽかとお天気も良く、ワインが美味しかった。

    ( ライン川クルーズ )

 1時間ほどかけて食事をしたあと、デッキに出て、古城や愛らしい町が次々と現れるクルーズをのんびりと楽しんだ。 

 ライン川はいくつかの国を越えて流れ、国際河川として、どの国の船でも国旗を立て自由に航行できる。

 ( それにひきかえ、21世紀になって、突然、広大な南シナ海を、ここは昔からわが国の海だと言い出し、岩礁をコンクリートで固めて、強固な軍事施設を造る。中華人民共和国という隣国の異常さは、超大国化しようとしているだけにおそろしい。)

 ライン川の源流は、スイスアルプスの雪解け水だ。それがいくつもの川となって、スイスとドイツの国境にあるボーデン湖に注ぎ込む。再度、ボーデン湖を流れ出た水流は、2000トン級の船が航行する大河となり、フランスのコルマール、ストラスブールを経てドイツに入る。そして、さらに大きな支流がいくつも加わって流量が増し、ケルンからは4000トン級の船も航行できる。河口近くにあるオランダのロッテルダムは、ヨーロッパ最大の荷扱い量を誇る港湾都市だ。

 丘の上の城は、シェーンブルグ城。

    ( 丘の上のシェーンブルグ城 )

 シェーンは美しいという意味。美しい城。ウィーンにシェーンブルン宮殿がある。

 今は「古城ホテル」として営業しているそうだ。こういう城のもとからの所有者は税金を払うのが大変で、国や自治体も放置すればせっかくの文化財が朽ちてしまうから、「古城ホテル」として一定の収入を得ながら維持・管理する。もと宮殿或いはもと修道院のホテルやレストランなどもある。

 バッハラッハの船着場に接岸した。

  ( バッハラッハの船着場 )

 ガイドブックによると、山の麓にひらけたこの小さな町は、1泊しても楽しい町らしい。7つの塔門のある城壁に囲まれ、城壁の続きは山の斜面にまで延びている。その中に、かわいい木組みの家々が並んでいるらしい。遊ぶものは何もない。滔々と流れるライン川の眺め、愛らしい町のたたずまい、そして、あとはワインを飲むだけ。

   ( バッハラッハの町 )

 ライン川クルーズ船が行き交うのはライン川の中流で、両岸は高さ300mばかりの断崖や急斜面となっている。

 その斜面を埋めつくすのは、日本の段々畑のように、先祖代々、営々と作られ営まれてきたブドウ畑だ。

 ライン渓谷は、ワインの名産地である。斜面だから、日当たりがたいへん良い。

 人々が上から下へ、籠を背負って収獲していた。スキーのゲレンデなら、下を見下ろしたとき、ちょっと怖いと思う急斜面だ。その急斜面にへばりつきながら、広大なブドウ畑の実を摘み取る作業は大変なはずだ。今の時代、働き手はどのように確保しているのだろう??

 

  ( ブドウ畑で働く人 )

 以前、BSテレビで、フランスの大きなワイナリーのブドウの収穫作業を取材した番組をみたことがある。作業をしている人々はボランティアだった。報酬は、ベッドと、ボリュームたっぷりの田舎の料理のみ。

 学生、近くの町のワイン商店の主人やおかみさん、毎年、有給休暇を取って参加する都会のビジネスマンや、中には企業経営者という年配の人もいた。1~2週間ほど、日頃の仕事や勉強を離れて、太陽の下で汗をかき、自然の恵みを収穫する労働を楽しむのだ。テレビを見ながら、本当の豊かさとは、こういうものかもしれないと思った。

 総指揮をしていた細身の気丈な女性は、日本人女性だった。代々続くワイナリーの若いオーナーに見そめられ、嫁いできて20年ほど、先年、夫が病で亡くなり、彼女がワイン造りの全てを指揮しなければならなくなった。今年も品質の良いブドウが実り、収穫作業もすべて終わった日、感極まって涙を流していたのが印象的だった。このワイナリーで働く従業員ばかりでなく、近くの町々でワインを販売する店々の家族まで含めて、多くの人々の生計がかかっているのだ。

 ドイツの白ワインは、ほのかな甘みがある。

 だが、酒飲みの私は、キュッと辛口のフランスワインの方が好みだ。ライン川流域なら、ちょっと癖のあるアルザスワインがいい。

 でも、日本酒の本醸造、つまり安価な燗酒が一番好きだ。燗酒の匂いを嫌い、ワインのような日本酒を好む人が増えたが、燗酒の温もりは体に優しい。

 約2時間半のクルージングを終えて、ライン川クルーズの起点として有名なリューデスハイムで下船した。

        ★

ワインの町リューディスハイムを散策 >

  リューデスハイムは、ライン川沿いのかわいい町だが、昔からワイン造りとワインの取引で栄えてきた。

 

   ( リューデスハイムの賑わい )

       ( 窓 )

  ( 店の看板の向こうの丘には塔 )

 狭い通りに木組みの家々が並び、お土産屋、ワインを売る店、酒場風レストラン、それに城館を再生利用したワイン博物館まであり、観光客でごった返していた。

 

 

 

 

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