ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

幻となる春の旅 ─ パンデミックに負けず … 読売俳壇・歌壇から

2020年04月18日 | 随想…俳句と短歌

       (安倍文珠院の桜)

 「ロマンチック街道と南ドイツの旅」を連載中ですが、今回は3月、4月の「読売俳壇・歌壇」から、心に響いた俳句と短歌を紹介したいと思います。時も時!! ですから。

 もちろん、この場合の「時」は、パンデミックの状況下という意味です。

 こういう時だからこそ、人間らしい心やユーモアを失いたくないものです。

       ★

 子供の頃、誰からだったか、小学校の担任の先生かもしれませんが、こんな言葉を知りました。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」。何でも、人のせいにする態度を揶揄した言葉ですが、今は「あなた」のところに「おかみ」とか「政府」と入れ替えてみたらよいでしょう。

 「くれない族」という言葉がはやった時代もありました。「△△してくれない」と、不満ばかり言う幼児性を抜け出せない人のことです。

 しかし、「皇帝は親、人民は子」というのは、専制国家です。今は「皇帝」ではなく、「中国共産党」に取って代わっていますが、同じことです。

 福沢諭吉が言うように、民主国家は、「おかみ」がどうこうより、まず国民一人一人が自立し、かつ、社会の一員として主体的に行動できなければ成り立ちません。

 前回のブログの最後に書いたように、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という市民精神の上に、「各自の家の中は各自の勝手」というのが、西洋の個人主義です。

 日ごろ、全く人気のないイタリアの首相やフランスの大統領の下、今、国民は政治的立場を超えて一つになっています。なぜウイルスがこんなに広がったのか?? そういう疑問や不満はあとのことです。今は危機存亡の時、司令官の下に一つになることが勝利のための最初の第一歩だということを、民主国家の国民は知っています。

 戦争のさなかに、国民の一人一人が、まるで自分が司令官のように意見や非難を言い合い、不平不満を言う。それは、民度の低い国民です。

 戦国時代、武田や上杉の軍勢は、いよいよ決戦というとき、全軍がシンと静まって静寂が漂ったそうです。弱い軍勢ほど、決戦を前にすると、興奮して、やたらと騒がしい。静まり返った敵軍を見て、恐怖にかられる。

 政府が、いついつまでに何億枚のマスクを作ってお届けします、とテレビで公約したのに届かないのは、トイレットペーパーのときと同様に、買いだめしている民度の低い国民がいるからです。しかし、この感染症を克服していくためにはマスクは必要ですから、政府はやむなく、洗濯できるマスクを2枚、国民に郵送することにしました。戦時中の配給制ですよ。それをまた、マスコミは非難する。何の役にも立たず、ただ不満を煽るだけの存在が、今の日本のマスコミです。

 お昼のワイドショウを注意深く見ていると、専門家でもない素人のコメンテイターが、局(司会役)の誘導に添って「意見」を述べているのがよくわかります。

 エッセイストだとか、お笑い系の人とか、コロナについては全く素人の弁護士だとか、評論家だとかというワイドショウの「コメンテイター」たちは、テレビ局から出演料をもらい、テレビ局に使ってもらってなんぼの人たちですから、結局、テレビ局の意に沿って発言します。

 そのテレビ局は、人々の不安や不平不満を煽り、「おかみ」を非難して、視聴率を上げようとしているのです。

 戦前、大新聞は、競って政党政治を非難し、非難するほどに発行部数を増やしました。こういう姿勢を大衆迎合(ポピュリズム)と言います。そうやって形成された世論に煽られ、若い軍人がテロやクーデターに走りました。だが、マスコミや国民は彼らの「正義感」に同情的でした。かくして、軍国主義の時代に入っていったのです。軍人がいきなり政治に乗り出したわけではありません。マスコミが発行部数を増やそうと国民を煽ったのです。

 現代は、テレビのワイドショウだけでなく、ネットという闇の世界もあります。まるでうっ憤晴らしのような一方的な意見が大量に書き込まれていますが、それは結局、サイトの広告収入の拡大につながります。

 こうして、多くの人々が不安と不平不満の空間をふわふわと浮遊し始めています。

 それがコロナよりも「脅威」であることに、多くの人は気づきません。

 「ネットという闇の世界」と言ったのは、そこが匿名性の世界だからです。恐ろしいことに、そこで、世論がつくられています。匿名性を良いことに、「魔女狩り」ではないかと思われるようなバッシングもあり、しかも彼らは自分のうっ憤晴らしを正義と勘違いしています。

 しかし、ネットの「世論」は、知らぬ間に他国に操作・誘導されているかもしれません。今、欧米の選挙には偽情報が氾濫し、外国の巨大なサイバー組織が介入してきています。もちろん、非民主国家のサイバー組織です。

 これこそ「事実」と信じ、自分こそ「正義」だと思い込む ── それが実は他国の「サイバー攻撃」よってつくられた世論であったということが、実際に起こりうるのが今の「世界」です。

 戦いの始めは大きな「戦略」を示すべきだ、小出し戦術は失敗のもと、などと政府を批判してきた有識者もいます。最初に大きな「絵」を描いて、戦力を一点に集中し、一気に駒を進めよ、というのは、士官学校の教科書に書いてあることで、どこの国の若い士官でも知っています。しかし、実戦は絵に描いたようにうまくはいきません。トランプ大統領をはじめ、西欧の各首脳も、大きな目標と期間を設定し、一気にウイルスを封じ込めようとしましたが、相手は「未知」の敵です。当初の「絵」のようにはいかず、今はだらだらと延長10回、11回と持久戦を強いられています。ユリウス・カエサルは、戦いながら、相手の出方に対応して、戦術を変化させていきました。本当の戦いは、そういうものです。

 感染症の医者なら、サーズと同じ性質のウイルスだったら、収束までの「絵」が描けます。しかし、相手はサーズとは全く性質の異なる未知のウイルスです。そういう相手に、最初から成功の「絵」を描いて戦いを挑むのは、無謀というものです。

 これは政権の擁護ではありません。今、最前線で頑張っている押谷仁さんや西浦博さんらへのエールです。PCR検査が足りないとか、医師や検査士や看護師やベットが足りないとか、医療用マスクが足りないとか、今、あれこれ批判しても、何の役にも立ちません。戦後日本には、他国のような緊急事態法の名に値する法律もないのです。そういう条件下で、ベターの戦術を編み出していくしかないのです。そういう戦いの最前線に立っているのが、彼らです。少なくとも、私は、彼らに命を委ねます。

 それが何であれ、声の大きな「正義」の主張には用心が必要です。単純明快で、ラジカルな主張に簡単に乗らないようにしたいものです。この世に「絶対に正しいもの」などありません。「どちらがマシか」「こちらの方がマシだ」「でも、こうすれば、もう少しだけマシになる」「立派に聞こえるが、その考えにも必ずリスクがある筈だ。そのリスクをどう乗り越えられるかだ」などを考えるべきです。冷静なリアリズム精神です。

 みなさん、冷静になりましょう。

       ★

 この3か月を経て思うことは、今、必要なのは二つですね。一つ目は、NHK以外の、民放やネットの世界の、意見や非難、不平不満をシャットアウトすることです。NHKが全て良いわけではありませんが、相当にマシです。事の本質や事実に迫る、考えさせられる情報を提供してくれます。ワイドショウや韓国ドラマでお茶を濁す民放は、必要ありません。

 シャットアウトは、各自が鬱にならないためにも必要ですね。スマホを開くのは、百科事典として使うときと、知人との交流のときだけにしましょう。

 二つ目ですが、人間らしい心と体を取り戻しましょう。人の心に共感し、自然の美しさに感動する。本を読み、外を歩き、この世界が美しいことを感じましょう。

 この3か月で、私が得た教訓は以上の二つです。

 俳句や短歌をとおして、人間らしい感性や情感に共感するのは、とても良いことだと思います。今はそういうことも大切です。長期戦ですよ。

 それでは、まず、俳句からです。

       ★

〇 諸事情に 幻となる 春の旅 (横浜市/杉山太郎さん)

 春になったら、旅に出たいと思っていた。旅先で数十年ぶりに旧友にも逢い、一献酌み交わしたいと、年賀状にも書いた。だが …… 1月を経て2月になり、ためらいは日ごとにあきらめに変わっていった。そんな状況でしょうか。

 選者の正木ゆう子さんの評。「どういう事情かすぐに推察できるだろう。諸事情という曖昧で便利な言葉の発見がこの句の鍵。俳諧味もそこに生じている」。

 さすがです。「俳諧味」という解説があって、風雅の人の趣も加わった。

 写真は三朝温泉。橋のたもとの河原に小屋掛けの露天風呂があり、朝も昼も夕も、いろんな年齢層の男性が入りにやってくる。

 旧友と久しぶりに酌み交わし、翌日は温泉で一泊する、というのもいいなあ … などと想像したりします。

                          ★

〇 ともかくも 休校の子に ひなあられ (長岡市/地引永安さん)

 また、正木ゆう子さんの解説がいい。

 「この句では『ともかくも』が鍵となって、この春の混乱を物語る。配された『ひなあられ』のあえかな優しさに救われる」。

 雛の節句は、言うまでもなく3月3日の、別名、桃の節句。歳時記に「雛を飾り、白酒、菱餅、雛あられなどを供え、桃の花を生けて祭る」とある。「ひなあられ(雛霰)」は、「米粒に砂糖蜜をまぶし、加熱してふくらましたもの」。

   千葉県香取市を流れる小野川は利根川の支流だ。江戸時代は利根川流域の水運で栄えた。近くの香取神宮に参拝したついでに、香取市佐原(サワラ)に寄り、舟めぐりをしたことがあった。

 折しも雛祭りの頃で、写真のように、川岸のそこここに木の箱状の棚が置かれ、お雛様が飾られていた。

       ★

〇 九分九厘 春の風邪とは 思へども (神奈川県/中島さやかさん)

 選者の小澤實さんの評です。「九分九厘の確率で春の風邪と自分で見立ててはいるのだが、あと1厘は新型コロナウイルスの可能性を思っている。春という明るいはずの季節なのだが、陰影が深い」。

 この句の気持ちはよくわかる。私も4月の初め、夕方になると喉に少し痛みを感じて、不安な思いをした。もう高齢者と言われる年で、このウイルスには弱いとされる男性で、しかも、ふだん医者にいろいろ薬を処方されている。最近、やっと痛みを感じなくなり、安堵した。

       ★

 ここで川柳を一句。「よみうり時事川柳」からです。

〇 詐欺電に 声が若いと 褒められる (京都/矢吹睦枝さん) 

 むむっ。電話に出た声はまだ若い。息子の真似をすべきかどうか。「ああ、やっぱりお母さんでしたか。私は、息子さんの友達で……」と、役を代える。

 4/16の讀賣の社説には、「神奈川県の80歳代の女性は3月下旬、『コロナ対策の助成金が出る』との電話を受けた。その後、自宅を訪れた金融機関職員を装う男にキャッシュカードを持ち去られ、約50万円を引き出された」などの例が載っている。「水道管にウイルスが付着しているので清掃します」という電話がかかってきたという家も。社説に「感染拡大に乗じた犯罪が増えている。不安な心理に付け込まれないよう、気を付けたい」とある。 

 古い民家やお寺には、鬼門の側に厄除けの鬼瓦。西洋の悪魔と違って、鬼は人間に近く、時に人間を守ってくれる存在だ。

          ★

 次は、「読売歌壇」から。

〇 良いことが ある筈だった 2020年 空欄のまま 二月を切り取る (大津市/松井美枝さん)

 除夜の鐘を聞き、初詣に行ったときは、こんな年になるとは思ってもいなかった。こういう風に事業を展開してみようとか、今年こそ念願の旅行に行こうとか、いろいろ思いはあったのに。むなしく2月のカレンダーを切り取った。

       ★

〇 キャンセルの FAXの束 受け取りて パートの主婦らに 断り入れる (水俣市/角田聖子さん)

 本当に悲しいですね。

 最初は海外から観光客が来なくなり、すぐに国内旅行する人もいなくなって、全国の観光バス会社も、ホテル・旅館も、あっという間に存亡の危機となった。各地の有名レストランも、そこに食材を卸していた農家や酪農家や漁師さんも窮地に陥った。サプライチェーンが途切れて工場の機械も止まったまま。住宅も、電気製品も、車も、売れず、経済は落ち込んでしまった。通勤者も7割をテレワークにということは、実質的な休業要請だ。

 「休業要請するなら休業補償を」と言うが、「休業要請」する前から、既に収入がなくなっている、或いは大幅に落ち込んだという業種・業界は日本国中にあふれている。全国のすべての中小企業や個人営業を等しく公平に支えたいものだ。

 先日、桜井市に近い安倍文珠院に行ってきた。もとは、645年の乙巳の変のあと、安倍一族の氏寺として建てられたそうだ。

 国宝の仏像もあり、桜も美しく、浮御堂は霊宝館で、阿倍仲麻呂や安倍晴明の像が安置され、陰陽道の道具も置かれていた。

 御堂を7周まわって、1回ごとに、各自、七難を除くお祈りをするのだそうだ。それで、私も、7回まわって、徹底的に「新型コロナウイルス退散」を祈った。ここは、安倍晴明の力も動員したい。

       ★

〇 「もういいかい」「まあだだよ」って 休校に 子らはこもりぬ 球根のごと (足利市/坂庭悦子さん)

 「まだ、休校のままだよ。もう少しおうちにいてね」。優しい響きの歌である。

 選者の俵万智さんの評。「休校措置への思いが、かくれんぼの掛け声でうまく伝わってくる。休校と球根の響き合いもいい。こもっている時間が、芽吹きの準備になっていればいいのだが」。

 小さなスミレの花の横に、土の中から伸びてきたのはキキョウの芽。晩夏には凛とした紫の花を咲かせる。

            ★

   こういう状況の中でも、コロナとは関係ない句もたくさん投稿されている。日本人の自然や人情に対する感性は美しい。

〇 雨降れば 雨を愉しむ 桜かな (上尾市/中野博夫さん)

〇 桜散る 地に着くまでも 美しく (秩父市/辺見さん)

 大和郡山城趾の堀端の桜。

 散るときも、ひらひらと風に舞い、最後まで美しい。そのように生きたいものです。

        ★

 パンデミックもいつかは必ず収束する。それまで、十分に気を付けて、生きぬきたいものだ。生きていれば、良いこともある。たとえば、こんな良いことが。 …… 「一円を 拾わんとして 屈みたる 机の下に 百円眠る」(東京都/大室英敏さん)。クスッ(笑)。

 最後は、やはり旅の句で締めくくりましょう。

〇 春怒涛 見に来よ日本 海へ今 (浜田市/大島一二三さん)

 今はまだ無理ですが、必ず「春怒涛」を見に行きます。

〇 駅弁の 包みに民話 春の旅 (熊谷市/田島良生さん)

 「駅弁の包み」「民話」「春の旅」。なつかしい響きです。いやされます。

 山陰のローカルな列車の中。

 次の回は、「ロマンチック街道と南ドイツの旅」に戻ります。

      

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中世そのままの町・ローテンブルグ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(4)

2020年04月11日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

       (ローテンブルグの町)

 お伽の国のようなローテンブルグの町と、ロマンティックなノイシュバンシュタイン城(白鳥城)。この2つが今回の旅の目的である。

 今朝、ハイデルベルグを見学し、バスで古城街道を走った。途中、2カ所に寄って、午後4時過ぎ、タイムスリップしたような中世の町・ローテンブルグにやって来た。

 2度目である。

 最初の訪問は10数年の前。視察研修旅行中の日曜日で、心あわただしく訪れ、ただ感動した。その感動をもう一度確かめたくて、このツアーに参加した。

 日差しはやや赤みを帯びて斜光となっていたが、この時期のドイツの日暮れは遅い。まだ見学時間はある。

 ホテルに荷物を置いたあと、添乗員の引率でマルクト広場や聖ヤコブ教会などを見学。そのあと、夕食までの時間がフリータイムになった。

 (鍛鉄製の看板)

       ★

 今回のブログ(ロマンチック街道と南ドイツの旅(4))の記述の多くは、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)の受け売りである。この本の最初の項が「ローテンブルグ」で、ローテンブルグという町の歴史や見どころが非常によくわかるように書かれている。私は傑作だと思う。

 もう少し大きく、ヨーロッパの中世とはどんな世界だったのかという点については、木村尚三郎氏(元東大名誉教授・西洋史学)の『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)を読んで、頭の中にすっきりとイメージができた。

 広大な森がある。森は人間を寄せ付けない。

 悪代官の手を逃れ森の中に逃げ込んだ人々。そのリーダーとなって悪代官と戦ったのが、十字軍から帰って来た騎士ロビンフッドである。

 森にはいろんな動物が棲んでいる。クマもいるが、人間にとって森の王者はやはりオオカミだ。赤頭巾ちゃんの話にも悪役として登場する。満月の夜にオオカミに変身する男もいる。

 そのような森が切り開かれて、畑や牧場があった。川の流れがあり、村があり、領主の館もある。

 村と村との間は、深い森が隔てていた。そんな森をヘンゼルとグレーテルはさまよった。

 村から森の中へと続く一筋の道をたどるのは商人で、彼らは有力な領主の城のある所に集まって居住するようになる。こうして町ができるが、最初はせいぜい数百人規模の町だったろう。 

    町は商工業者が開いたから、その中心はマルクト広場である。マルクトはマーケット。市が立つ広場である。市は定期的に立ち、遠近からやって来た商工業者たちが取引をした。取引は公正でルールに則ったものでなければならないから、いわば公設の市となり、広場に面して市庁舎が建てられた。また、広場の一角か、広場の近くには、その町の中心となる教会があった。町が大きくなると、司教座が置かれる教会になった。

 下の写真の左手に少し見えるのがローテンブルグ市の市庁舎。その横にのぞく塔は、聖ヤコブ教会。ヤコブはこの町の守護聖人である。

 写真の正面の建物は市参事宴会館。三角形の破風の部分に仕掛け時計が見える。 

   (マルクト広場)

 ローテンブルグは神聖ローマ帝国皇帝によって認められた帝国自由都市だった。つまり、近辺の封建領主の支配する領土と同様に、いわば一つの国家として、自治が行われた。

 都市の行財政や防衛などを仕切ったのは、市の参事会である。

 市参事は町の有力大商人から選ばれ、市長もその中から選ばれた。

 市長と市参事の本拠となった建物が市庁舎だ。領主や王の館と同じだから、当然、それは町を代表する建築物でなければならない。ヨーロッパを旅すると、例えばウィーンの市庁舎は、オーストリアの国会議事堂よりも大きく、華麗である。そして、今でも、年に一度、市民が集まって大舞踏会が催され、ワルツが踊られる。

 写真正面の市参事宴会館は市庁舎に付属する建物で、市長や参事は特権としてここで宴会や舞踏会を開くことができた。この当時、一般市民には開かれていない。彼らは無給だったから、これが彼らの唯一、最高の晴れやかな特権だったのだ。

       ★

 ツアーの一行はマルクト広場で解散し、夕食まで自由時間になった。そこで、予定していたとおり、ブルグ公園へ向かった。

  (ブルグ門をくぐる)

 メルヘンチックな街を抜け、町の西のブルグ門を出ると、「ブルグ公園」がある。ベンチがあり、城壁の跡があって、その向こうに黄葉したタウバー渓谷が広がっていた。 

   (ブルク公園)

 ローテンブルグの全体図を見ると、左を向いた人の顔(頭から首にかけて)に似ている。ただし、鼻が高い。天狗の鼻である。

 ブルグ門を出た「ブルグ公園」が、その鼻の部分に当たる。つまりここは、タウバー渓谷に半島のように突き出した丘なのだ。公園のベンチから見える向こうの家並みは、渓谷を隔てたローテンブルグの町だ。

 10世紀、ローテンブルグ伯がこの鼻の部分に当たる、タウバー渓谷を見下ろす丘の上に城を築いた。三方が谷なので、東側だけ塞げばよい。さっきくぐったブルグ門が東側を防ぐ城の城門だ。ブルグは城のこと。当時は堀があり、跳ね橋が架けられていたが、今は、城はなくなって公園となり、ただブルグ門のみが残る。この城がローテンブルグの町の起こりであり、また、町の名の由来でもある。

 ブルグ門を出て東へ、マルクト広場へ通じる300mほどの道があるが、ヘルンガッセという。今もローテンブルグのメイン・ストリートである。城ができた当時、この道は野中の一本道だったが、何かあれば城内に逃げ込むことができるから、各地から商工業者たちがやって来て住み着き、道沿いに商店を開いて城下町をつくった。最初にヘルンガッセ沿いに店を開いた商人たちは、その後、町が拡張していくにつれて、町を牛耳る大商人になっていく。商工業者たち=市民たちから見れば、ローテンブルグの発祥の地はローテンブルグ城ではなく、このヘルンガッセであったということもできる。「ヘル」とはもともと「偉いさん」という意味らしい。「大旦那通り」である。

 12世紀になると、市民たちは町を囲む(第一次)城壁を築いた。この時代のローテンブルグの城壁の長さは周囲約1.5キロ。左を向いた顔の、頭や首を除いた、正味の顔の部分に相当する小さな町だった。

 最初に城を築いたローテンブルグ伯家は12世紀に断絶し、城はドイツの有力な貴族(領主)シュタウフェン家のものとなった。

 シュタウフェン家の最初の城主になったのは、まだ8歳の子どもだった。のちの皇帝フリードリッヒ1世(赤ひげ・バルバロッサ 在位1152年~90年)である。日本でいえば、源平合戦から鎌倉幕府ができる頃だ。その後代々、皇帝の居城の一つであったが、やがてシュタウフェン家も断絶し、地震で城は倒壊した。

 以後、商工業者の町として発展したローテンブルグは、1274年に当時の皇帝から帝国自由都市の名を得る。封建領主と同じように、自治が認められたのである。

 この頃、第一次城壁の中は狭すぎて人家が城壁の外に大きく広がっていた。そこで、城壁の大拡張が行われる。顔の部分だけだった町が、頭部全体の大きさになり、城壁の全周は約2.7キロになった。

 15世紀に入って、城壁はさらに南の方に拡張された。横顔の首の部分である。

 こうして、現在見る中世都市ローテンブルグができあがった。

 木村尚三郎氏は、『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)の中で、このように述べている。ローテンブルグの歩みが、ヨーロッパの中世都市の発展と軌を一にしていることがわかる。 

 「まず城ができ、商人・手工業者たちが、敵の来襲に際してすぐ城中に逃げ込めるよう、城の近辺に移り住み、封建貴族の保護と支配を受けながら経済活動をはじめ」、

 「やがて彼らの人数が多くなるとみずから居住部分を城壁で囲むようになる」。

 「こうして成立した都市は、やがて貴族の支配から脱して遠くの中央権力(国王、皇帝)と結び、これから特許状を付与されて(12、13世紀)、新たにその保護と支配をうけ、(近辺の)封建貴族とは対立関係に入り、ことに14、15世紀以降は、貴族権力を弱めつつ発展をとげてゆく」。

 ただし、ドイツは皇帝権が弱く、19世紀の初めまで(ナポレオン戦争まで)、封建諸侯や帝国自由都市が300以上もあり、それぞれが独立国のようであった。これらがナポレオン戦争を経て統合されていき、ローテンブルグはバイエルン王国に併合された。

       ★

  (タウバー渓谷と石橋)

  (渓谷を隔てて見る城壁と塔)

 タウバー渓谷を城壁沿いに歩いて散策し、コーボルツェラー門からもう一度城内に入ると、ローテンブルグ第一の撮影スポットの「ブレーンライン」(小広場)に出た。

   (プレーンライン)

 分かれ道になっていて、それぞれの先に塔門があり、それぞれが街道に通じている。全ての道はローテンブルグに通じる、である。

 引き返して、メイン・ストリートのヘルンガッセをマルクト広場の先へどんどん行くと、町の東の門であるレーダー門に到る。

 (レーダー門を出た所から)

 この道をさらに東へ歩くと、「ローテンブルグ駅」に到る。個人旅行の観光客だけが利用するローカルな駅だ。

 そういうことで、レーダー門がローテンブルグの正門の役割をしている。 

 レーダー門のわきから、城壁の上に上がることができた。

 「武者走り」を少し歩いてみる。城外に向かっては矢狭間(ヤザマ)や鉄砲狭間が開けられ、内側は家々の赤い屋根が連なって見えた。   

    (城壁)

 この城壁は第二次世界大戦のとき連合軍の爆撃で破壊され、長い歳月で傷んだ部分も多く、修復・保存のために1m間隔で基金を募った。その結果、この町を愛する世界の人々から募金が集まった。今は、修復された壁に、基金に応じてくれた企業名や個人名を刻んだプレートが1m間隔で嵌め込まれている。日本の企業名を刻んだプレートもあった。 

        ★

 夕食後、もう一度、日の暮れたマルクト広場へ行ってみた。

  (マルクト広場へ )

 商店はとっくに閉まっていたが、広場の建物はライトアップされ、観光客がそぞろに散歩を楽しんでいた。

 (ライトアップされたマルクト広場)

 黒いマントの男は、「中世の夜回り」である。観光客とともに、火の用心の夜回りをする。学生アルバイトだろうから、もちろんチップは必要だ。

 市参事宴会館の仕掛け時計が8時を示した。定時である。

   (仕掛け人形)

 左の窓からはティリー将軍、右の窓からは市長のヌッシュの人形が現れ、ヌッシュ市長が巨大なワインジョッキのワインを一気飲みする。三十年戦争の時の一場面である。

 時は17世紀。戦いに明け暮れた中世ヨーロッパのいかなる戦争をも超える悲惨な戦争だった。戦争は新教(プロテスタント)側と旧教(カソリック)側との戦いとして始まった。

 ローテンブルグ市民は新教側に付き、旧教派軍の包囲戦に耐え抜いた。しかし、ついに刀折れ矢尽きて開城する。

 自らの軍隊の消耗も激しかった旧教軍を率いるティリー将軍は、「市参事は全て斬首。全市は兵士たちの略奪に任せたあと、焼き払う」と宣言した。

 町中の女子供がマルクト広場に集まり、ティリー将軍の前にひざまづいて嘆願したが、無駄だった。

 参事たちは将軍にワインを飲ませ、ほろ酔い機嫌になったところでヌッシュ市長が進み出て、3.25リットル入りの大ジョッキにワインを注ぎ、これを一気飲みして見せると言う。「できるものか」と言う将軍に対して、「もし飲み干せたら町を焼かずに助けてほしい」と言う。ほろ酔いの将軍は約束してしまった。ヌッシュ市長は大ジョッキを抱え、ぐびぐびと10分間かけて一気飲みし、飲み干して倒れ気を失った。

 こうして町は救われ、今も毎年10月30日には、この事件を記念して、町中の老若男女の市民たちが敵味方に分かれ、当時のいでたちに扮装して、劇として再現する。

   ★   ★   ★

<閑話 … ウイルスとたたかうフランスとイタリア>

 毎日、新コロナウイルスのことが報道される。武漢に続いて西ヨーロッパの悲惨な状況を映像で見、また、テレビやネットに批判と不平不満が氾濫する日本の現状を見聞きするにつけ、気分が鬱状態になる。それで、お天気の良い日にはウォーキングに出て、春景色を楽しんでいる。体も大切だが、桜を愛で、ウグイスの声に耳を傾ける心の余裕も大切だと、つくづく思うこの頃である。

       ★  

 ところで、ヤフーニュースによると、パリ在住の作家・辻仁成氏が、4月6日、現地の様子を日本テレビでリポートしたそうだ。ニュースの中に、辻仁成氏は、「何より驚いているのは、徹底した個人主義のフランス国民が、みんなで一丸になって頑張ろう、という気持ちになり、政府の言いつけを守っていることだ」と述べた、と書かれている。

 ムムムッ。この言い方はちょっとおかしい。中世都市について書いたついでに、少し触れておきたい。

 辻氏は、本来、フランス国民は政府の言うことに従わない「反政府」の国民であり、それは彼らが「徹底した個人主義」の国民だからだと考えているようだ。

 敗戦後の日本に、「人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の勝手。それが民主主義というものだ」という風潮があった。それを突き詰めると、「もしどこかの国が攻めてきたら逃げますね。国とか社会とかより、個人が大切でしょう」ということになる。

 辻氏は、こうした自身の中ある価値観を、フランス国民という鏡に反映させて、自分を映して見ているのだ。

 ヨーロッパの中世都市国家は封建領主から自由を勝ち取ったが、勝ち取った自由を守り抜くのは、また市民たち自身である。市民たちは自らに納税の義務と防衛の義務を課した。自分たちのカネと力を合わせて、「わが町」を城壁で囲み、家族と隣人と「わが町」を守ろうとした。でなければ、いったい誰が守ってくれるだろう??

 そういう「市民精神」の気概の上に、西洋の「個人主義」はある。「市民精神」とは、簡単に言えば、みんなは一人のために、一人はみんなのために、という精神である。その前提の上に、各自の家の中のことは各自の勝手、というのが、西欧の「個人主義」である。

 パリの街を歩けば、杖を突いた老人や障害者が信号を渡ろうとするとき、そばを歩いている誰かが当たり前のように腕を取り、一緒に渡る光景を目にする。

 パリの街で、ベランダや窓に洗濯物を干した光景を見ることはない。美しい街並みを維持するために、洗濯物を外に干すことは、法律で禁じられているのだ。

 リスボンやヴェネツィアでは、小道をはさんだ向かいの窓からこちらの窓へと、色とりどりの洗濯物が風になびいて、それはそれで風物詩になっている。

 ただ、パリっ子は「パリは、世界一、美しいパリでなければならない」と考え、この法律を支持し、「私権を侵すから反対」などと言わないのだ。時に、「私」よりもパリ(「全体」)が優先する。それがパリであり、ヨーロッパだ。

 (ポルトガルのポルト)

                      ★

 4月7日付の讀賣新聞に、ウイルスと苦闘するイタリアからのレポートがあった。ジャーナリストの内田洋子氏の寄稿である。その一部を引用する。

 「(イタリアの)農協の調査によれば、外出禁止になってから小麦粉の売り上げが2倍に伸びたという。朝起きたら、母親が焼いたビスケットがある。ハート形だ。父親と一緒に粉から作るピッツァは世界一おいしい。バリカンで自分の髪をカットしてくれる高校生の姉に、小学生の弟は『失敗しても気にしないで。髪はまた生えてくるから』と、礼を言う。

 皆がバルコニーに出て歌ったのは、単にイタリア人が陽気だからではない。独りにさせない。隣人を気遣い、安否を確認し合う。泣かないために笑う、からなのだ。

 『生きていたら、経済のどん底からも必ず立ち直れる。物事の重要さの順位を肝に銘じ、弱い人を守り、他人への責任を果たしましょう』

 大統領と首相のこの言葉を受けて自宅待機を続ける国民が今、ウイルスに侵されてなるものか、と一生懸命に守ろうとしているものは、人としての品格ではないか」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする