ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

私のヨーロッパの旅

2020年07月22日 | 西欧旅行…街並み

   ユーラシア大陸の西の果てのロカ岬には、突端に、「ここに地終わり、海始まる」(カモンイス)という碑が立っていた。

 遂にここまでやって来たという感慨があった。

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 新型コロナウイルス下の海外旅行はムリだ。

 自分の年齢を考えると、もう二度と行けないかもしれない

 だから、ちょっと夢想して、旅立ってみる。

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<一番美しい街は??>

 ヨーロッパで一番美しいと思う街はどこかと問われたら、私ならパリのセーヌ河畔を第一に挙げる。パリ全体ということではない。

 「パリの空の下セーヌは流れる」というシャンソンがある。あのちょっと哀愁を帯びた軽やかなメロディがよく似合う

 ヨーロッパのどこかの町を見学した後、シャルル・ド・ゴール空港からセーヌ河畔にやって来ると、なぜか心が浮き立つ。

 空が広いと感じる。その下をセーヌ川が流れ、1区3区5区6区などのそれぞれの界隈に似合う橋が架けられていて、街並み全体が端正で美しい。

 セーヌ川を行く遊覧船或いは水上バスに乗って眺めるパリもいい。

   (観覧車の窓からのパリ)

 歩いても、シテ島からサン・ルイ島のあたり。サン・ルイ島の並木道。ノートル・ダム大聖堂のステンドグラス。(あの火事でどうなったのだろう??)。時間が夜ならライトアップされたコンシェルジュリの2つの塔はファンタジックだ。セーヌ川に沿うチュイルリー公園。左岸のサン・ジェルマン・デ・プレ教会の尖がり帽子の塔や「カフェ・ドゥ・マゴ」。オルセー美術館。右岸のルーブル宮殿のたたずまい。そして、エッフェル塔。

 美しい町として他に挙げるとすれば、海の都ヴェネツィア。プラハのヴルタヴァ川の橋、橋、橋。それに、メルヘンチックなローテンブルグなど …… 。

 もう一度行ってみたい町なら他にもある。例えば、イスタンブールとか、グラナダなど …… 。

 もう一度行ってみたいと思う町は、歴史の重層性が奥行きとなって魅力なのだ。

 イスタンブールなら、船でボスポラス海峡をどこまでも遡りたい。

 アルハンブラ宮殿は十分に堪能したが、もう一度、アルバイシンの丘から雪のシェラ・ネバタ山脈をバックにしたアルハンブラ宮殿を眺めてみたい。あの丘で聴く「アルハンブラの思い出」は胸にしみる

  (アルハンブラ宮殿)

 歴史の町、ローマやフィレンツェは2度、自分の足で歩いたから、一応、納得している。

 美しいと思う町として挙げたパリや、ヴェネツィアや、プラハや、ローテンブルグは、実は2回或いはそれ以上、自分の足で歩いている。だから、見学はもういい。

 朝に夕にぶらぶらと歩いて、疲れたらカフェで時を過ごしながら、ただ眺めていたいのである。無為な時間がいい

     ★

 ヨーロッパの都市の多くは、その中心部に中・近世の「旧市街」を残していて、今も人々が暮らしている。人々が暮らす街並に歴史があり、街そのものが文化遺産となっている。

 世界遺産であることに絶対的な価値があるとは思わない。基準に外れていても、人々が美しく住みなしている古い街並みには価値がある。

 旧市街の、さらに中心部には、広場があり、教会が建つ。少し大きな都市なら、司教座が置かれる大聖堂だ。

 町の中心にある教会には必ず入ってみる。キリスト教への関心というよりも、そこにはこの地に暮らしてきた幾世代の人々の歓びや哀しみや思いがあるように思えるから。それが歴史である。

 天に聳えるゴシックの大聖堂を訪ねて、列車でフランスの中都市を巡る旅もした。

 鄙びた趣を残すロマネスクの大聖堂を訪ねて、ローカルなブルゴーニュの小都市を巡ったこともあった。

    (ライトアップされたフランスのヴェズレーの教会)

 イタリアやフランスなどには古代ローマの時代に起源をもつ都市も多いが、さすがに古代の街並みが今も残っているということはない。

 古代ローマの中心街フォロ・ロマーノは、現代のローマ市の中心街に、廃墟として保存されている。

 ローマより前の古代文明の廃墟は、トルコの西海岸や、エーゲ海の島や、ギリシャや、シチリア島などに残っている。

 海に臨む丘の上の草むらに、巨大な石柱が無造作に転がり、その中に野の花が咲いていたりして、それはそれで風情がある。

  (シチリアのギリシャ系遺跡)

 都市から都市へ移動する列車やバスの車窓風景も飽きることがなかった。

 小麦畑や牧草地が地平線まで広がる景色を初めて見たときは感動した。風景の中をゆったりと川が流れ、川沿いに林があり、遠くに教会の塔を囲むように小さな集落がシルエットになって見えた。夕日はその向こうに沈んでいく。

   (ブルゴーニュの野)

 湖に落ち込む急斜面を石を積んで固めた段々畑のブドウ畑。今では、〇〇ワインなどと呼ばれてブランド力があるが、日本の棚田と同様、幾世代にも渡る激しい労働の結果である。

 不毛と思われる石ころ混じりの大地に、延々と植えられたオリーブ畑の波。

 それらもまた、立派な文化だ。Cultureとは耕すの意から出た言葉という。

 その背景には、それぞれの土地の気候や地形と人間とがかかわって生み出された風土がある。風土を抜きにして、文化を語ることはできない。

 ポルトガルの人々は素朴でやさしく、日本人に似て少しはにかむ。背後に大国を感じながら、いつも海と向き合って生きてきた。

 (ポルトの路地)

 アフリカのように乾いた台地が続くスペイン。夏の太陽の下では、40℃を越えることはふつうだという。堀田善衛が言うように、こんな風土でベートーベンの「運命」を聴けば頭がおかしくなる。やはり、フラメンコの世界だ。

 地平線まで畑や牧場が広がるフランス。森の国ドイツ。ベートーベンの音楽はやはりドイツ圏の音楽だ。

 灌木しか生えない乾燥した瓦礫の山と、入り組んだ入り江が続くバルカン半島の国々。

 太陽の少ない北欧と、太陽の光あふれる地中海地方の違いはあるが、春の訪れは美しく、夏は楽しく、あっという間に秋は過ぎ、長い冬がやってくる。

 私はリタイア後の年月を、ヨーロッパの幾つもの町並みを見て歩き、車窓を通りすぎていく牧歌的な風景に歴史を思い、自然や風土の違いを感じながら旅をしてきた。

      ★

 大分県の杵築(キツキ)という小さな城下町を訪ねたとき、江戸時代の武家屋敷や大店が並ぶ街並みが大切に保存されていることを知った。

 その街並みを歩きながら、武家や町人の生活感とか、隣家への配慮とか、ものの見方・感じ方・考え方、そして美意識を、少しばかり垣間見たように感じた。

 日本には、ヨーロッパのような伝統的で美しい街並みはあまり残っていない。だが、杵築を歩いたとき、古い伝統的な文化が、自分の中になお息づいていると感じた。

 文化とはそういうもなのだと思った。

  (杵築の武家屋敷界隈)

 今、「自分の中に」と言ったが、言い変えれば「私たち日本人の中に」となる。しかし、正確に言えば、日本という国籍は、直接には関係ない。

 国籍も、人種や肌の色も、先祖が誰であったとかいうことも、遺伝子も、決定的な要因ではない。

 日本語を母語として育った人、Native speakig Japaneseということだ。言い換えれば、日本列島の「文化」の中で育った人ということである。

 国籍がアメリカであっても、人種が白人でも、黒人でも、関係ない。文化は後天的なものであって、先天的なものではない。

       ★

 ヨーロッパへ行き、都市の街並みや、大聖堂や、田園風景を眺め、帰国して本を読み、考え、またヨーロッパに出かけたのは、ヨーロッパの風土や歴史とともに、それらが育んできた文化を知りたかったからだ。

 そして、それは同時に、日本とは何か?? という問いを抱きながらの旅でもあった。

 旅は楽しい。わからなかったことを知ることも、楽しい。また

 

 

 

 

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日本の景観には日本の心 … 「パリの街並み」考 2

2012年10月26日 | 西欧旅行…街並み

もう一度、美しい景観を >

 幕末から明治時代にやってきた西洋人たちは、将軍のいる江戸の街並みにも、地方の城下町にも、田園風景にも、自分たちの文化とは異なる美しさがあることに、感動した。

 大正、昭和と、近代化が進むにつれて、日本独自の風景の美しさは少しずつ失われていったが、赤レンガの東京駅にしろ、倉敷の紡績工場にしろ、西洋化を上手に取り入れて、なお美しい。

 袴に靴、黒髪にはリボンという、大正デモクラシーのころの女学校の女生徒は、その和洋折衷がまことにオシャレである。

  戦後の復興の過程から、高度経済成長、バブルの時代にかけて、日本の大都市は雑居ビルのようになり、地方の中小都市までがケバケバしいネオンの街となっていった。日本中に、「〇〇銀座」という通りがつくられた。

 里山は削られ、川は水量を失い、田畑の景観も荒廃し、海も汚れた。

 いま、やっと、失われた日本の景観が、少しずつだが、取り戻されてきている。

           ★

 かつて、オーストリアでは、ドナウ川のたび重なる氾濫を防ぐため、全流域に渡ってコンクリートの護岸工事を施した。川は大きな用水路と化し、人々が自然や歴史を感じ取る景観は失われた。

 こういうライフスタイルはよくない、という反省が起こった。

 全流域のコンクリートを撤去し、もう一度魚や貝の棲める川岸に戻す大工事が行われた。それは、大事業だった。日本が高度経済成長をし、鼻息の荒かったころのことである。

         ( ドナウ川の流れ )

 今、ドナウ川は、都市の中や田園の中をゆったりと流れ、美しく、歴史ある景観は、世界各地から多くの観光客を呼び寄せている。

 日本も、都市と、田園と、山と川の景観を、さらに美しくしていく取り組みが必要である。

 公共事業は必要である。ローマの豊かさ、繁栄と、平和は、絶えざるインフラのメンテナンスによって維持された。

 さて、その際、電線はできるだけ地下に埋設し、景観を損ねる電柱は除去したい。

 寒色系の蛍光灯はやめて、人の心を和ませる色合いの街灯に入れ替え、ネオンはすべて禁止する。( 私は非喫煙者ですが 、ネオン禁止は、屋外喫煙の禁止などより、優先順位は上位です )。 

 錆びた鉄骨があらわになったビニールハウスはきちんと整備し、景観に配慮した田園風景をつくる。

 「反原発」は結構だが、あの低周波の騒音を撒き散らす巨大で無機質な風車を、里山から里山へと林立させたり、黒々とした太陽光パネルを、谷から谷へと休耕田に敷きつめるのはやめてほしい。

 「反原発」は、一見、美しく見える。だが、近年のグローバリズムの中で有り余る資本を手にした新興資本が、「反原発」を利用して、貪欲にも、日本の基幹産業であるエネルギー産業を、解体・奪取したがっていることに、もっと注意が必要だ。民進党のような政党は、簡単に取り込まれてしまう。

 「日本列島改造論」は、昭和版も平成版も、ご免である。

 緑の山や、谷や、川や、田畑があってこその日本列島である。

 文化とは、街並みであり、緑豊かな農村の風景であり、山や川のたたずまいである。

          ★

日本の心と日本の美 >

 話は変わる。

 2キロを貫くシャンゼリゼ大通りの景観や、ショイヨー宮からのエッフェル塔とマルス公園の景観を見て、日本はなんと貧弱なんだ、ヨーロッパはすごい、と嘆く向きがある。

 中国に行けば、万里の長城や兵馬俑に圧倒されて、日本は卑小だと嘆く。

 しかし、2キロを貫くシャンゼリゼ大通りも、豪華絢爛のヴェルサイユ宮殿も、それがあるということは、かつて圧倒的な専制権力が君臨していたということだ。

 立ち退かない住民を力づくで追い出し、一方で、重税を徴収する。そういうことをしないで、どうやってシャンゼリゼ大通りができるだろう?

     ( ヴェルサイユ宮殿 )

 前田百万石の殿様の前田利家が、金沢にお城を築くとき、労働してもらった民・百姓には相応の賃金を払っているし、自らもモッコを担いで人足仕事をし、奥方のおまつさんはたすき掛けで炊き出しをした。そういう殿様でなければ、日本では民衆は付いてこない。

 戦国大名は、暴れ川の氾濫を防ぐために堤防を築き、大規模な灌漑をして米の増産に努め、城下町を整備して商工業者を招いたが、中国や西欧のように、贅を尽くした大宮殿は造らなかった。

 江戸の火災で焼けた江戸城の天守閣を、歴代将軍はついに再建しなかった。

 利休は、朝鮮半島の農民が日常使っていた茶碗を褒めて、これは良いと、自らの茶道に取り入れた。そういう茶道具を、大名、権力者の間に流行らせた。そう言われて見れば、なるほどその茶碗はなかなかの味わいがある。そこが利休のすごさである。天才とは、そういうものだ。

 書院造りの陰影を美しいと思い、狭い茶室の柱の竹筒に投げ入れられた1輪の椿に感動する。

 それが、この島国が育み、洗練させてきた美意識である。茶道の心得はなくても、日本人なら、そういう美意識を誰でももっている。

 「伝統というものは、経験の結晶として、一人一人の具体的な人間の全体の中に体現されているのである」。

          ★

 派手なヴェルサイユ宮殿は日本にないが、木々の繁る杜の中の簡素な社がある。

 縄文時代からの杜 (モリ) は今も残され、そこには、それぞれの神様がおわして、人々は今も、お正月だ、七五三だ、お受験だ、出産だと、お参りに行く。秋には神輿や山車の太鼓の音も聞こえてくる。

 しかも、その社は、建て替えられ建て替えられして、千年も、二千年もよみがえりを繰り返しながら存続する、古い古い文化遺産である。

 ピラミッドも、アクロポリスの丘の神殿も、万里の長城も、大聖堂までもが、今は石の廃墟に過ぎない。

   

               (村の神社)

 そういう民族性、国柄、文化を誇りとして、シャンゼリゼ大通りを楽しもうではありませんか。                    

                                             

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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文化は、街並み …… 「パリの街並み」考 1

2012年10月25日 | 西欧旅行…街並み

 オルセー美術館は、展示されている絵画ももちろん素晴らしいが、絵の鑑賞に倦んだら、屋上からパリの景色を眺めるのも格別である。

 眼下をセーヌ川が流れ、その向こう岸の緑はチュイルリー公園。視線を上げれば、遠くにモンマルトルの丘があり、サクレ・クール寺院は丘を圧するように建っている。その上の白い雲もいい。

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パリの美しさは端正な美 >

 パリは、美しい街である。

 その美しさの特徴を一言で言い表せば、端整な美 !!

 セーヌ川沿いに、サン・ルイ島、シテ島、ルーブル宮殿を経て、エッフェル塔まで散歩すると、パリがいかに整った、端整な街であるかがよくわかる。

   この約5キロのセーヌ川沿いの景観は、早々に世界文化遺産に登録されたが、それも当然だと思える。

 私にとって、ルーブルは、美術館であるよりも、左岸からセーヌ越しに見るパリの景観の一つだ。

        ( オルセーから眺めるルーブル宮殿 )

          ★

 水上バスか、遊覧船で (ほぼ同じコースを運行する) 、セーヌ川の水上から、風に吹かれながら、頭上に架かる橋や、美しい建築物の数々や、川岸を散歩する人々を見るのは、楽しい。日常とはちょっと違う角度から見るパリの姿は、…… シャンソンが流れてくるようで、やはり、美しい。

  

   (水上バスから見上げた芸術橋) 

 水上バスからエッフェル塔が見え始めると、この鉄の塔が、パリの街並みにすっかり溶け込んで、欠かせない「風景」になっているのが納得できる。午後の斜光の中に建つエッフェル塔に、詩情がある。

 

   ( 水上バスから見上げるエッフェル塔)

 船を降りて、ショイヨー宮のテラスから、セーヌ川越しにエッフェル塔を眺めれば、その先のマルス公園まで構図に入れて、街が整然と造られていることがわかる。── 日本にも、世界にも、高い塔があるが、塔は高さを競えばよい、というものではない。

     ( ショイヨー宮のテラスとエッフェル塔 )

          ★

辻邦生『時の果実』(朝日新聞社)から。

 「それはある晴れた日の夕方で、地下鉄がトンネルを出て、セーヌにかかる橋に、いきなり出たときだった。私は一瞬の間に、エトワールからモンマルトルの家並みの高まりとその上にたつ白いサクレ・クールをはさんでエッフェル塔にいたる夕日に照らされた灰暗色の屋根の拡がりを見たのだった。それはすでに何度も見知った風景だったにもかかわらず、夕日の効果からか、また別の理由からか、ある特殊な感覚で私をつらぬいた。

 これをどう説明したらよいのだろう。たとえば、それは、一挙にすべてを理解するとでもいうべき光が、私の内面を走りぬけたといおうか、私はそこにただ町の外観のみをみたのではなく、町を形成し、町を支えつづけている精神的な気品、高貴な秩序を目ざす意志、高いものへのぼろうとする人間の魂を、はっきりと見出だしたのである。そこには、自然発生的な、怠惰な、与えられているものによりかかるという態度はなかった。そこには、何かある冷静な思慮、不屈な意図、注意深い観察とでもいうべきものが、鋭い町の輪郭のなかにひそんでいた。自然の所与を精神に従え、それを人間的にこえようとする意欲があった。

 ある意味で、その瞬間こそが、私にとって、おそらく西欧の光にふれた最初の機会だったかもしれない」。

      ★    ★    ★

街並みこそ、文化である >

 絵や、彫刻や、音楽や、文学は、1本の樹木に例えれば、太い幹から出た枝の、枝分かれしたその先に咲く花みたいなものだ。いかに花を説明してみても、その木を説明したことにはならない。

 文化が、その土地の風土のなかで耕され、その土地の暮らしの中で洗練されたものであるとするなら、それは美術や、音楽や、演劇や、文学よりも、まず、街並みではなかろうか。

 町や村のたたずまいも、それらを囲む、田園や、川や、森や、山の景観も、文化であり、文化遺産である。

 文化は、人々のライフスタイルにある。

 西欧では、ごく当たり前のように、おっちゃん、おばちゃん、じいさま、ばあさまが、「この町は美しい」「私の村は素敵だろう」と言う。 ── そういう土地に暮らしていたら、人生は、きっと幸せに違いない。

         ★

 明治維新前後に日本を訪れた多くの西洋人が、一様に、江戸 (東京)  の街並みの美しさ、日本の田園風景の美しさについて、故郷への手紙や、日記、報告書に書き残している。 

 つまり、江戸には、文化があったということだ。

 粋な黒塀に見越しの松。川端柳。掘割を行く船や、武家屋敷 …。

 そこに日本髪の美女が歩いていれば、これはもう立派な文化である。

      ( 大分県・杵築の町で )

        ★

 若き日の永井荷風は、パリに留学して、パリの街並みの壮麗さに圧倒され、打ちひしがれて、帰国した。石の文化にはかなわねえ。

 帰国してからは、もっぱら墨田川の江戸情緒に遊んだ。

 

 

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