ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

中の島のような地形の町パッサウ … ドナウ川の旅4

2022年11月20日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

(市庁舎前のドナウ川遊覧船発着場)

<中の島にいるような錯覚を覚える町>

5月25日 今日も快晴

 ドナウ川はドイツ南西部の黒い森に源を発し、レーゲンスブルグ、パッサウ、オーストリアに入ってリンツ、ウィーン、そしてハンガリーのブダペストまで、諸流を集め少しずつ川幅を広げながら、東へ東へと流れていく。

 ブダペストに到って、大きく湾曲し、南へと流れを変えて、遠く黒海を目指す。

 この旅の最終目的地はブダペスト。そこでドナウ川を見送る。

 今日の目的地は人口5万人の小さな町パッサウ。レーゲンスブルグから直線距離にして100キロ少々。ドナウ川と並行して走るDB(ドイツ鉄道)のICE(特急)に乗れば、1時間少々で行ける。オーストリアとの国境の町だ。東へ流れるドナウ川に、南から北上してきたイン川がぶつかった所にできた町である。 

 イン川はアルプス山脈に端を発し、スイス、オーストリアを経て、ドイツとオーストリアの国境をつくりながら北上。ドナウ川と合流する直前に角度を湾曲させて、ほんのしばらくドナウ川に添うように流れて合流する。

 パッサウは、イン川がドナウ川に添いながら流れて合流する所、2つの川に挟まれた細長い三角形の町である。外敵に対しては守りやすく、河川交易には恵まれている。

 合流点には、イン川と反対方向の北からイルツ川という小さな流れも流入していて、正確には3つの川の合流点ということになる。

 

 (遊覧船から眺める合流点)

 上は遊覧船から写した写真。遊覧船は今、ドナウ川の上にいる。

 地図とは逆に、右が西、左が東。川は、右から左へ(西から東へ)流れている。

 手前の流れがドナウ川(北)。小島のトン先のように見える合流点の向こう側(南)がイン川。2つの川の川幅はほぼ同じか、見た感じではイン川の方が広いくらいだ。イルツ川という小さな流れは、写真(私のいる位置)の後方でドナウ川に注いでいる。

 パッサウの街を歩いていると、2つの流れに挟まれたパッサウは、まるでセーヌ川に浮かぶシテ島のようで、しばしば「中の島」にいるような錯覚を覚えた。

 だが、ここは本土である。

 レーゲンスブルグより規模は小さいが、AD1世紀にローマ軍の基地が、北に備えてイン川の南岸に建設された。

 2世紀後半、ゲルマン諸族のドナウ川を越えようとする動きが頻発し、皇帝マルクス・アウレリウスはイン川とドナウ川の間にもう1つ前線基地を築かせ、防衛線を補強した。

 ローマ軍が駐留すればとりあえず安全が保障され、兵士たちに必要な物品を売ることもできる。当時から商工業者たちが住み着き、パッサウの村ができていった。

      ★

<トラブルも旅の面白さ>

 朝、レーゲンスブルグのホテルをチェックアウトし、呼んでもらったタクシーで駅へ。駅で、ホテルの部屋のコンセントにバッテリーチャージを差し忘れたまま来たことに気づき、タクシーで取りに戻った。

 忘れ物はすぐ見つかって同じタクシーで引き返したが、特急に乗り遅れた。

 普通列車(鈍行)で行くことにする。最初からそうしても良かった。普通列車でも1時間半少々。南ドイツの車窓風景を眺めながら、のんびり行くのは楽しい。

 レーゲンスブルグが10時01分発。40分ほど行ったPlattlingという駅で乗り換える。パッサウには11時37分に到着予定。

 パッサウの見学は、小さな町だから午後の半日で十分だろう。

 列車は予定より少し遅れて到着した。車内に乗客はまばらで、まことにローカルな気分。大きなキャリーバッグも気兼ねなく置ける。

 朝、ホテルをチェックアウトしてから、タクシーに乗ったり、忘れ物を取りに返ったり、時刻表を調べたり、切符を買ったりとあわただしかった。やっと気分が落ち着く。

 春の日差しの中、鈍行列車がとことこと走って、すぐに1駅目に着き、またのどかに走って2駅目に着いたとき、ドイツ語で車内アナウンスがあった。ヨーロッパで車内アナウンスは珍しいと思っていたら、乗客たちが連れの人と口々に話しながら、驚いたように荷物を持って降り出した。えっ?? 何!! と思っているうちに、車両に人はいなくなり、あわてて最後尾の人を追いかけて降りた。

  (プラットホーム)

※ ヨーロッパの駅のホームは低い。線路に財布を落としても、手を伸ばせば簡単に拾える。しかし、列車が入ってくると、列車の狭い乗り口に取り付けられている急な階段を3、4段上がらねばならない。大きなスーツケースを持って狭く急なステップを上がるのは、力を要する。

 名も知らぬローカルな駅のホームや駅の外の空き地に、列車から降りた30人ほどの旅行者がたむろし、連れの人と語らい、或いは孤独に立っている。見たところ、皆な旅行者で、通勤とか、所用で乗車したという人はいない。そういう人は車で移動するだろう。ヨーロッパ系の人ばかりだ。わざわざヨーロッパの外から遥々とやって来て、こんなローカル列車でローカルな旅をする人はあまりいないだろう。

 サイクリング車を脇に持ったムッシュが話しかけてきた。年の頃は60歳くらいか。定年退職して、一人で自転車の旅をしているという感じ。背丈はあまりないが、胸板は厚く、腕は太い。長旅で真っ黒に日焼けしていて、風貌はローマ時代の剣闘士みたいに怖い。

 ヨーロッパの鉄道は、自転車と共に乗車できる車両を接続している。そういう車両には自転車用のスペースも確保されている。だから、一人で、或いはグループで、自転車を携行して旅をする人も結構いる。国も、人々も、健康志向で、病院のお世話にならぬよう、まず日々、健康に生きてもらおうというのが、西欧の福祉の考え方だ。

 「ドイツ語を話せる??」「ノー」「 英語は??」「ほんの少し」。英語で、「よくわからないが、先の駅の構内で爆発事故があったらしい。ここへ迎えの車両が来るようだから待っていよう(というような内容らしい)」。「今日はどこまで行くの??」「パッサウ」「俺も同じ」。

 この人はドイツ語の分からぬ異国の旅人を気遣って、さりげなくパッサウまで行動してくれた。個人を尊重するが、困っていそうな人を見たらさっと手を差し伸べる。それが西欧流だ。

 駅で40分ほども待たされ、駅の拡声器から放送があり、皆なが歩き出した。自転車のムッシュに促され、歩いて自動車道路へ出る。そこへバスがやってきて、全員、乗車した。自転車や大きなキャリーバッグなどは床の下のスペースに入れられた。

 パッサウの見学はできないかもしれないが、宿は予約してあるから安心だ。いくら遅れても(最悪を想定しても)、夕方までにはパッサウに着くだろう  ……。

 バスの車窓風景を眺めていると、横に座っていた自転車のムッシュが「ローマ時代、あの山の向こうはバーバリアンの地だ」と笑いながら言った。

 私と同じように遥かにローマ帝国の時代を想像して、旅人として冗談を言ったのだろう。

 頭の中に地図を描いた。ドナウ川は車窓から見えないが、バスはローマ帝国の防衛線であったドナウ川沿いを東へと移動しているはずた。パッサウはオーストリアとの国境の町である。そして、左(北)の車窓から見る方向はチェコ。チェコとの国境も近いはず。あの山の向こうはチェコ。

 あなたの風貌こそ、バーバリアンのようにたくましい。

 1駅か2駅先の鉄道駅で降ろされた。

 バスを降りて、しばらく待って、迎えに来た1両だけの列車に乗り、1駅か2駅進んで、また降ろされた。ホームで待ち、また迎えに来た臨時列車に乗せられる。やっと本来の乗継駅のPlattlingに着いたのは、すでに午後1時。疲れて、腹も減った。駅の売店にサンドイッチを見つけたので買い、1箱を自転車のムッシュに上げたら感謝された。

 Plattling以後は順調で、1時40分にパッサウに到着。2時間の遅れだった。

 レーゲンスブルグから一緒に行動したほとんどの人はパッサウを目的地にしていたらしい。皆さん、文句も言わず、さすがでした。

 駅で、自転車のムッシュと笑顔で別れの挨拶した。パッサウの後、どこまで行くのだろう?? 或いは家路にあるのだろうか?? いつか孫たちに、レーゲンスブルグからパッサウへ行く道中で出会った東洋人のことを話すかもしれない。 

 「ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである」(三木清「旅について」)。

 駅から新市街のバーンホフ通り、ルートヴィヒ通りの賑わいを歩いて、ドナウ川にぶつかった所からが旧市街。『地球の歩き方』のマップを見て近いと思ったが、石畳の大通りをキャリーバッグを引きながら歩くとなかなか遠かった。明朝はタクシーにしよう。

 今夜の宿は、「ホテル・ケーニヒ」。すぐ裏手がドナウ川だ。小さな、感じの良い宿で、女将さんも気さくな人だった。

 宿に荷物を置き、残りの時間でドナウ川とパッサウの街を見学した。

      ★

<ドナウ川遊覧船に乗る>

(左に遊覧船、右端に大聖堂の青い塔)

 ホテルから街歩きに出た。

 市庁舎広場の先に「ドナウ川クルーズ」の桟橋があった。乗船場前に大きな説明の看板がある。読めないがマップもあり、どうやらドナウ川とイン川を巡って2つの川の合流点や街の名所を船から眺めることができるようだ。時間は45分。ラッキー

 15時発があるので、切符を買って乗り込んだ。

 

 (旧市庁舎広場前の遊覧船)

 眺望の良い2階のテラス席に座った。

 船内のカフェのウエイターが注文があるかと聞きに来たので、ワインを注文する。待つほどもなく、なみなみと注がれた地元産白ワインを持ってきてくれた

 船がゆっくりとドナウ川を下り始める。市庁舎の赤い尖がり屋根の塔が印象的だ。

 ものの本によると、パッサウの町は17世紀に2度も大火災があり、街は灰燼に帰した。街の再建に当たって、当時の司教領主がバロック様式で街並みを再建しようと呼びかけ、現在の街並みが造られたそうだ。

 小さな町だから、しばらく行くと街並みが尽き、2つの川の合流点にさしかかる。

  (合流点)

 セーヌ川のシテ島のトン先に似て、ミニのシテ島だ。

 こちらがドナウ川。向こう側から合流する流れがイン川。

 トン先に観光客が見える。遊覧船から降りたら、歩いてあそこまで行ってみよう。

 合流地点からさらに下った所で遊覧船は方向転換を始めた。

 イン川を合わせたドナウ川は、自然のままの茫々とした川として、さらに東へと流れてゆく。緑の丘の上には童話の世界ような赤い屋根の小さな家が見え、その上に白い雲が浮かんでいた。

  (ドナウ川の白い雲)

      ★

<パッサウを歩く>

 遊覧船から降りたあと、ドナウ川沿いの遊歩道を合流点までウォーキングした。のどかな小公園風になっていて、石碑があるほかは自然のままの景観だった。

 イン川沿いの遊歩道も歩いた。パッサウ大学の学生たちが、散歩したり、ランニングしたり、デートしたりしていた。

 (川沿いの遊歩道)

 旧市街の中に入ると、路地のように狭い道が入り組んでいた。

   (路地から望む聖シュテファン大聖堂)

 聖シュテファン大聖堂は、この町の第一の建築物である。中世のドイツによくあるが、司教がこの地の領主でもあった。

 清楚な白い壁、玉ねぎ型の帽子のような青い屋根をいただく塔が印象的だ。こういう屋根は、カソリックというよりビザンチン風。ここにはビザンチン文化の影響が及んでいる。

(聖シュテファン大聖堂の身廊)

 大聖堂の中は、大理石の白い柱がずらっと並び、清楚で気品があった。ただ全体として絢爛豪華。いかにもバロックだ。

 この大聖堂のパイプオルガンは世界一大きいそうだ。正午に演奏があるので聴いてみたかったが、残念ながら間に合わなかった。

 マップに「Innbrucke」とある橋を渡ってみた。橋の対岸の丘の向こうはオーストリアだ。橋の上から振り返ると、レーゲンスブルグのゴシックの塔とは全く異なるパッサウ大聖堂のビザンチン風の塔が堂々と聳えていた。

 午後3時頃からの街歩きだったが、よく歩いた。

 夕。「ホテル・ケーニヒ」の隣りの、ドナウ川を望む小さなレストランのテラス席で晩飯を食べた。周囲は西洋人の旅行者ばかりで、もしかしたら、パッサウの町のどこにも、今、日本人はいないかも。だが、よそよそしさを感じることはなく、料理は美味しかった。

 

 

 

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ドナウ川越しに眺めるレーゲンスブルグの町 … ドナウ川の旅3

2022年11月10日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  さぼり癖が付いて、うかうかと日々を過ごしてしまいました。ブログを再開します。しかし、パソコンやスマホに向かい続けるとどうも眼精疲労気味。ぼちぼちと進みますのでよろしく願いします

  ★   ★   ★

 旅行社のツアー参加ではなく、いつか自分の足でドイツを旅してみたい、そう思いつつ拾い読みしていた『地球の歩き方 ドイツ』。その時、写真とともに、この一文を見つけた。

 「ドナウ川をはさんで眺める町の景色は息をのむばかり

 ここへ行ってみたい。

 これが、レーゲンスブルグという町との出会いだった。

  ★   ★   ★

<十字軍も渡った石橋>

   今日は5月24日。お天気は快晴。

 レーゲンスブルグに2泊して、この町で丸一日を過ごした。

 ホテルは代えた。1泊目は旧市街の大聖堂の横の小さなホテル。2泊目は大聖堂の眺めの良いドナウ川の中の島のホテル。どちらにも泊まってみたかった。

 ただし、同じ町でホテルを代えるのは面倒だから、こういうことは普通はしない。

 朝一番にホテルを移動。「ホテル・ミュンヒナー・ホーフ」をチェック・アウトし、キャリーバッグを引いてシュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)を渡り、「ゾラート・インゼル・ホテル」へ行く。

 レセプションで、今夜宿泊を予約をしている旨を告げて、荷物を預かってもらった。チェックインはまだできない。

 身軽になって、今日の観光を始める。

 もう一度、シュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)を渡る。橋の下の川岸にはランニングする人や自転車の人。欧米人は健康志向だ。

  (石 橋)

 橋脚は堅固で、その上、橋脚を支える土台部分が楕円形で水流を二分している。日本の新幹線のような流線形だ。1135年に工事が始まり46年に完成した。ヨーロッパ中世の橋梁建築として、白眉のものとか。日本で言えば平安時代の終わり頃だから、立派なものだ。

 昨年参加したフランス周遊ツアーの折、ローヌ川のアヴィニョンの橋を見学した。同じ12世紀に架けられたが、16世紀に崩壊し、今は残った部分が観光名所になっていた。

 この石橋を、第3次十字軍も聖地エルサレムに向けて渡ったそうだ。第3次十字軍(1189~92年)は、赤髭バルバロッサ(皇帝フリードリッヒ1世)を総司令官として出発した。だが、彼は旅の途中で事故死。仏王フィリップ2世は初戦の戦いに勝利したあと口実をつくってさっさと帰国してしまい、結局、英王リチャード1世が一人、リーダーとして戦うこととなった。「獅子心王リチャード」の「獅子」は、敵であるイスラムのサラディン軍の将兵が彼のあまりの強さにそう呼んだらしい (塩野七海『十字軍物語』)。

 日本では橋は木の橋だ。同じ12世紀、満月の夜、五条の大橋の上で、女装の牛若丸が舞うように、ひらりひらりと大男の弁慶と渡り合った。これはこれで美しい。

       ★

<遊覧船でドナウ川をゆく>

 この旅の目的の第一はドナウ川を見ること。

 事前の勉強で、レーゲンスブルグにはヴァルハラ神殿まで往復するドナウ川遊覧船があることを知った。ヴァルハラ神殿には興味がないが、船に乗ってドナウ川をゆくのはこの旅の目的に合致する。ローマ兵も船に乗って、文明の果てる地、このドナウ川をパトロールしたのだ。

 ヴァルハラ神殿は、19世紀にバイエルン王国のルートヴィヒ1世がアテネのパルテノン神殿を模して建造した。レーゲンスブルグの街から10キロほど下流の丘の上にある。大理石の巨大な神殿には、古代から近世に到るゲルマン系(ドイツ人)の英雄や著名人を顕彰する像や石板が並べられているそうだ。

 ルートヴィヒ1世の孫は、あのノイシュヴァンシュタイン城を築いたルートヴィヒ2世。ドイツの森の丘にヨーロッパ中世のメルフェンチックなお城を築くのは理解できなくもないが、ドナウ川に古代アテネのパルテノン神殿の大模造品を建造するというのはちょっと趣味が悪い。

 とにかく、そこまでの10キロほどの間、遊覧船からドナウ川を味わいたい。

 石橋を渡り、ドナウの川岸を、遊覧船の発着場を探して少し歩いた。

 (ドナウ川遊覧船に乗る)

 季節は春。快晴。日差しは暖かく、風は春の妖精のよう。遊覧船の展望席で白ワインを注文して飲んだ。

 日本のレストランで出されるような、大きなワイングラスの底にごく少量、もったいぶって注がれた白ワインではない。やや小さめのグラスとは言え、ほぼ9分程度、なみなみと満たされた地元産のワインだ。値段は500円くらい。それならコーヒーよりワインとなる。

 心楽しい。

 (ドナウ川をゆく)

 レーゲンスブルグの街並みを出れば、あとは茫々とした自然の中。何もない。

 ヴァルハラ神殿の船着き場で20人ばかりの観光客らと下船する。欧米系の中・中高年の人ばかりだ。

 河岸からいきなり大理石の大階段を上がる。映画『ベン・ハー』の凱旋式で、主人公が皇帝謁見のために上がったような大階段。1段1段がゲルマン人の歩幅なのか高く、斜度があり、手すりもなく、高くなるにつれて高度恐怖症になった。

 500段の階段を上がった神殿からの眺望は、何もない広がりだった。しばし陶然となる。

 (ヴァルハラ神殿から眺めるドナウ川)

 山ばかりの日本と違って、豊かな広がりのある国なのだ。

 これがドナウ川。オーストリア、ハンガリー、セルビア、ルーマニアなどの国々や国境を流れて、黒海までゆく。ドイツ南西部の黒い森(シュヴァルツヴァルト)に端を発して、ドナウの旅はまだ始まったばかりである。

  司馬遼太郎が言うように、「人間」を探究しようと思えば書斎だけの思索ではどうにもならない。山川草木のなかに分け入り、そこに立ってみる。そこがたとえ廃墟であったり、或いは、一塊の土くれしかなくても、「その場所にしかない天があり、風のにおいがある」。そこに立って初めて、歴史と文明とそこで生きた人間の生を感じることができる。

 下りは大階段を下りず、山の中の小道をたどって船着き場へ向かった。ハイキングしながら船着き場へ下ることができると何かに書いてあった。遊覧船の乗客の中の数人のマダム、ムッシュと道連れになった。人種、民族は異なれど、同じような発想をする人はいるものだ。

 森の中の分かれ道に道標はなく、前後して歩いていた皆も立ち止まって一つになり、互いに顔を見合わせる。一人のマダムが「こっち」と決断し、私もそう思い、皆も付いていった。樹木の蔭をたどる小道は意外に時間がかかり、視界は開けず、こんな異国のハイキングコースに入り込んだことを少し後悔し、船の出発時間に間に合うか心配になった。

 そのうち突然、下り道が平坦になり、樹木の陰にドナウ川と船着き場と停泊する遊覧船が見えた。

 互いに顔を見合わせて笑い合った。

 言葉は通じ合わなくても、互いの不安がわかり、仲間がいるから何とかなると感じ、つまりは、しばらくの間、同志だった。ローマも、ゲルマンも、ユーラシア大陸の果てのジャパニーズもない。

      ★

<ドン・ファンのこと>

 感じのよさそうなレストランに入って、昼食をとった。美味しい。

 (旧市庁舎=帝国議会の通り)

 レストランのある通りの先に旧市庁舎があり、その2階は、かつて神聖ローマ帝国の帝国議会が開催された場所だ。

 見学時間が決められたガイドツアーしかないので、入らなかった。英語とドイツ語で微に入り細を穿つ説明を聞いてもわからないし、写真で大体は想像できた。帝国議会会議場といっても、意外に素朴で、ローカルなものだ。

 帝国議会は8世紀、フランク王国のカール大帝のもとで始まり、その後、レーゲンスブルグはよく会場となった。

 12世紀にはあのフリードリッヒ1世(バルバロッサ)もやってきて議会を運営している。ちなみに、レーゲンスブルグは13世紀に帝国自由都市になった。

 1663年から1806年には、レーゲンスブルグに神聖ローマ帝国議会が常設された。ただし、常設といっても諸侯の出席はなく、代理の外交官による使節会議だった。 

 その1世紀ほど前の16世紀。ハプスブルク家が最も栄えた頃の話。

 皇帝カール5世 (スペインではカルロス1世) が帝国議会に出席した折、このレストランのすぐ近くの「黄金十字の宿」に滞在し、この地の娘との間に男子が生まれた。

 男子は大切に育てられ、後、フェリペ2世の庶弟として、オーストリア公ドン・ファンと呼ばれるようになる。

 ドン・ファンというと、プレイボーイとか女たらしの代名詞のように使われるが、本者はそうではない。

 1571年、ギリシャのレパント沖で大海戦があった。膨張するオスマン帝国の大艦隊とスペイン・ヴェネツィア連合艦隊とが激突し、初めてオスマン帝国が敗北した戦いである。このとき、スペイン・ヴェネツィア連合艦隊の総司令官に祭り上げられていたのが、まだ26歳のドン・ファンだった。

 塩野七海の『レパントの海戦』はヴェネツィア艦隊の副将を主人公にしてヴェネツィア側から描いた作品だが、総司令官ドン・ファンはいよいよ戦いの火ぶたが切られるというとき、小型の帆船に乗り、海から連合艦隊の将兵を激励して回るという、凛々しい貴公子として登場する。

      ★

<レーゲンスブルグ大聖堂に入る>

  レーゲンスブルグの大聖堂の正式の名は、聖ペテロ大聖堂。

 街角のどこからでも高い尖塔が見えるから、手元の『地球の歩き方』の小さなマップと、実際に見える大聖堂の塔の方角で、自分が今いる場所を判断できる。

 (Neupfart広場から見る大聖堂の塔)

 この大聖堂は典型的なゴシック建築。

 着工は1275年だが、尖塔以外が完成したのが1634年で、尖塔の完成は1869年という。その息の長さは、我々日本人の物づくりの「時間」を遥かに超えている。宮殿なら発注した王の「時間」を考慮せずに造ることはできないが、神の「時間」は天国へと続き、人々の創造と労働の過程は祈りであったのだろう。

 (レーゲンスブルグ大聖堂のステンドグラス)

 聖堂の中に入って見学した。

 フランスのロマネスク様式の大聖堂やゴシック様式の大聖堂を見た目には、その精神性や美意識において見劣りがした。この点は、以前にツアー参加した「ロマンチック街道と南ドイツの旅」でも感じたことだ。

 ステンドグラスも、メルヘンチックな趣にドイツらしさを感じるが、フランスの大聖堂のステンドグラスの宝石箱をひっくり返したような瀟洒な美意識にはかなわない。

 レーゲンスブルグ市議会は、16世紀、ルター派の宗教改革を受け入れた。

 一方、この聖ペテロ大聖堂はローマ・カソリックの司教座であり続けた。少数派の信者もいた。

 さらに、この町には3つの修道院があった。修道院は司教座に所属せず、ローマ教皇に直属する。

 それで、レーゲンスブルグには、市議会(市民)と、司教座大聖堂と、3つの修道院という、計5つのStatesが存在していた。そして、それらはそれぞれ帝国議会の議席と投票権を持っていた。ちょっと日本人には、(お隣のフランス人でも)、理解しがたいドイツの政体である。

 今は、それら全てを含めて1つの世界遺産になっている。

      ★

<レーゲンスブルグそぞろ歩き>

 もうこれといって見学したいと思う所はなく、夕方まで街の中をそぞろ歩いた。

 この町には大学があり、海外の留学生も積極的に受け入れているらしい。学生らしい若者をよく見かけた。

 (自転車の若者)

 (中の島で憩う人たち)

 (岸辺で憩う家族)

 川岸を歩いた。水辺に憩う人々がいる。

 ドイツ人は、自然が好きだ。高校生の夏には大きなザックに寝袋を載せてワンダーフォーゲルの旅に出る。親は漂泊の旅に出る子の巣立ちを見送る。泊めてもらう民家がなければ、森の中で野宿する。

 都会のサラリーマンは、土、日曜日、アウトバーンをぶっ飛ばして森へ行き、キノコ狩りをするのが一番の悦びらしい。リタイアしたら、都会を離れ、郊外の森の近くに家をもって、日々、森の中を散策するのが夢なのだそうだ。そういうところも、現代日本人とは少し違う。

 夜。ドナウ川の中の島のホテルの部屋からは、暗いドナウ川の向こうに、旧市街の街並みと、街並みの上に聳えるライトアップされた大聖堂がよく見えた。異国にいる、と感じた。なかなか見飽きることがなかった。

 (ライトアップのレーゲンスブルグ大聖堂)

 

 

 

 

 

 

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