ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ロワールの森 … 観光バスでフランスをまわる8

2022年06月25日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ロワール川)

<ロワールのお城めぐり>

 10月10日。曇りのち晴れ。

 ロワール川はフランス第一の河川である。

   フランス中央山塊から流れ出て、北上し、オルレアンで西へ転じて、ナントの先で大西洋に出る。

 オルレアンから下流のロワール地方は、いく筋もの支流、広々とした丘、深い森が陰をつくる、地味豊かな土地である。

 英仏百年戦争 (1337~1453)のあと、フランス王家や宮廷貴族らが大小の城館を築くフランス王家の文化圏となった。現代フランス語の「標準語」(日本の「標準語」とは違い、文章語にもなる正しいフランス語の意) は、この地方の言葉と宮廷の言葉が融合したものだという。

 南仏のような雛(ヒナ)のにおいのする文化とは違い、より洗練された王侯貴族の土地柄なのだ。

 観光としては「ロワールのお城めぐり」。

篠沢秀夫『フランス三昧』(中公新書)から

 「大砲の発達で戦闘用の城は役に立たなくなって、16世紀から『シャトー』は優雅豪壮な『城館』に変わった」。

 「16世紀から17世紀にかけて、なんでこんなに次々に王家はシャトーを建てたのか。一口で言えば狩りのためである」。

 「飛び道具を使う狩りも、鷹を使う狩りもさることながら、飛び道具なしの古式ゆかしい『ヴェヌリー』(巻狩り)が関心の的だった。騎馬の狩猟隊がその日に1頭の大鹿をこれと定めたなら、それだけを何時間もかけて猟犬隊とともに追いつめる」。

 ── 森の中のちょっと開けた所で、騎士たちが吠えまくる猟犬たちとともに、一頭の大鹿を完全に包囲して円を作っている。前後左右のどの方向にも動けなくなった大鹿が、囲まれて静かにたたずんでいる。そういう絵、或いは写真を見たことがある。

 彼らにとって、狩猟は軍事訓練の場でもあった。

                      ★

<秋色のロワール地方>

 今日の行程は、トゥールのホテルを出発して、まずロワールの「お城めぐり」。

 しおりには「古城めぐり」と書いてある。しかし、私の中で「古城」とは十字軍時代のような中世の城塞のイメージ。今日、見学するのは、そういう「城塞」ではない。16世紀以後に古城を改造し、或いは新築した王や貴族の豪華な城塞風邸宅、すなわち「城館」。「宮殿」に近い。

 しかしそうは言っても、これは私の独断と偏見。「Chateau」と「Palais」の違いも私にはわからぬ。

 昼食後は、270キロ、3時間半のバス旅で、フランスの最北西部・ノルマンジー地方の海に臨む世界遺産「モン・サン・ミッシェル」を見学し、その近くのホテルに泊まる。

 フランスの空気が入れ替わったのか、或いは、私たちが北上してきたせいなのか、気温が変わった。昨日までの蒸し暑さは去り、爽やかな秋。南仏の観光途中、あまりの暑さに半袖シャツを買った。その半袖はもう要らない。

 樹々が色づいている。森には落ち葉があり、秋色のフランスだ。

 フランスの秋は短い。すぐに日照時間の少ない冬になる。

 ロワールのお城めぐりは、この旅行よりも15年も前、フランスとドイツ視察研修旅行の際、日曜日のまる一日をかけて、シャンポール城、アンボワーズ城、シュノンソー城の3城を見学した。

 日本からずっと引率し通訳もしてくれた添乗員氏はたいへん優秀な人で、この日曜日の観光でも、城の歴史やエピソードを興味深く話してくれた。

 今回のツアーの「お城めぐり」は、昼食までのインスタント版だ。 

        ★

<アンボワーズ城を眺望する>

 アンボワーズ城は、バスから降車して眺めた。「下車観光」で、「入場観光」ではない。

 下の写真を撮っている場所は、ロワール川の川中島。川の中に島があるから、島を中継地として橋を架けやすい。橋があれば、そこは要衝となる。

 すでにローマ時代から橋はあり、橋の東南側の高台、即ち今、アンボワーズ城がある所に城塞が築かれていた。

 (ロワール川とアンボワーズ城)

 15世紀末から16世紀の前半にかけて、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世の時代に、このお城は中世的な城塞から近世的な城館へと増改築され、壮大な城館になった。

 だが、その後、大部分は取り壊され、今に残っているのはロワール川に面している部分と聖ユベール礼拝堂だけ。

 この城には、直径が21mの巨大な円筒があり、ラセン状のスロープを乗馬したまま、或いは馬車で上ることができるように造られている。15年前に訪れたときはそこを歩いて上り、屋上からロワール川を眺めたことを覚えている。

 ただ、お城の中は、日本のお城でも、西欧のお城でも、どこか殺風景な感じがして、味わいはない。

 城は外から眺めているのが良い。或いは、いっそのこと、荒城とか城跡。

 夏草や/兵(ツハモノ)どもが/夢の跡 (芭蕉)

 不来方(コズカタ)の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心 (石川啄木)

 かたはらに/秋草の花/語るらく/滅びしものは/なつかしきかな (若山牧水)

 スロープ状のラセン通路は、すでにローマ時代にあった。ローマのサンタンジェロ城。バチカンが攻撃された時、教皇様はここに籠城した。

 しかし、この円形状の建造物はもともと城ではない。ローマ時代に、皇帝ハドリアヌスが歴代皇帝の墓所として造ったものだ。ほのかな明るさの中、徒歩でスロープを上っていくとき、古代の静けさと安らぎを感じることができた。あれは、城にしてはいけない。墓所である。 (当ブログ「イタリア紀行」参照)。

 (ローマのサンタンジェロ城)

 話は変わって、フランソワ1世は大軍を率いてイタリアに遠征し、イタリアの都市国家を震え上がらせた。しかし、フランソワ1世の方も、今を盛りのイタリア・ルネッサンスの建築や庭園、絵画や彫刻、学術、さらには料理に到るまで、文化のレベルの高さに圧倒された。自分を大軍を率いた単なる田舎者だと思った。

 そこで、多くのイタリアの文化人をスカウトし、招聘して、そこからフランス・ルネッサンスを興した。招いた代表的な人がレオナルド・ダ・ヴィンチ。

 ダ・ヴィンチは、このアンボワーズ城から300mほどの所の館で人生の最後の3年間を過ごした。墓はアンボワーズ城の聖ユベール礼拝堂にあるそうだ。

 フランソワ1世は、ダ・ヴィンチに対して、父に対するように敬意を払い、ダ・ヴィンチとの語らいを好んだという。   

       ★ 

<シュノンソー城の女主人たち> 

 ロワールのお城めぐりで一番人気は、エレガンスなシュノンソー城。ここは「入場観光」した。

 ロワール川の支流のシェール川の流れの上に、ルネッサンス様式の端正な城館がたたずんでいる。

 水に姿を映す白鳥のような城館も、瀟洒な部屋部屋の調度類や美術品も、周囲のフランス式庭園も、美しく気品があった。

  (シュノンソー城)

 この城の持ち主は、16世紀の創建以来19世紀まで次々と代替わりしたが、6代のすべてが女性だったそうだ。

 その6代の女主人の中でも、フランス王アンリ2世の「寵姫」であったとされる2代目のディアーヌ・ド・ポアティエと、政略結婚でメディチ家から輿入れしアンリ2世の正妻となった3代目のカトリーヌ・ド・メディシスとの三角関係について、どのガイドも熱心に説明する。洋の東西を問わず「大奥もの」或いは週刊誌のゴシップ記事的な話は好まれるのだ。

 以下は、そういうガイドの話にはあまり出てこない話。 

 15年前、シュノンソー城を訪ねたときの添乗員氏の説明が興味深くて覚えていた。

 その後、同じ話を、紅山雪夫さんが『フランスものしり紀行』に書いているのを見つけた。

 この城の初代の女主人の話である。以下、紅山さんの著書から、その要点。

 初代のシュノンソー城は、上掲の写真の建物の右側の部分 ── お城らしく屋上にごてごてと塔が並び立つ部分 ── であった。ここが、城館である。

 それに接続する川を渡る建物はギャラリー(回廊)。3代目のカトリーヌ・ド・メディシスが橋の上に建てさせた。全長600m、幅は6mしかない。川や庭園を眺望する18の窓がある。舞踏会場として使われたという。

 話は、右側の城館の部分である。

 16世紀の初め、国王の財務官だったトーマ・ボイエという人がこの地を買い取った。

 彼はそれまであった中世の城塞とシェール川にかかる大きな水車台を取り壊し、水車のあった所にルネッサンス様式の城館を建てた。川の上に城館を建てたのは、独創的なアイディアである。

 しかし、彼は仕事が忙しい。城館の設計や工事の指揮をとったのは、妻のカトリーヌ・ブイソネさん。「彼女は貴族の出ではなく、富裕な銀行家の娘だったから、それまでの城館建築の伝統にこだわらないで、2つの新機軸を生み出した」。

 1つ目は、まっすぐな階段を付けたこと

 「それまで、城の階段は『上りが時計回りになるラセン階段』と決まっていた。その理由は敵の急襲を防ぐためである。まっすぐな階段だと一気に駆け上がられてしまう」。

 それに、「上りが時計回りになるラセン階段」だと、防ぐ方は上から右手で自由に刀槍がふるえるが、攻め上がる方は右手が上手く使えないし、左半身が敵の攻撃にさらされる。

 だが、もう戦いを意識した城塞づくりの時代ではない。カトリーヌさんは、ラセン階段をやめた

 お城でも、大聖堂でも、何度か長いラセン階段を上り下りしたことがあるが、怖い。特に狭い階段で上下、すれ違う時は怖かった。つま先に壁のない、空洞の階段だと、さらに恐怖心が増幅する。欧米人は体格が良く、その上太った人も多いから、ふうふうと息を切らした上に足元が不安定なおばさまにもよく出会う。そういう人とすれ違う時は、足を止め、ぴったり端に寄ってやり過ごす。

 このツアーでは行かなかったが、15年前にシャンボール城を見学したときも、ラセン階段を昇った。シャンボール城のラセン階段は、同じ軸を中心とした2つのラセン階段なのだ。「ここを上り下りする人たちはお互いに相手の姿は見えるけれども、途中ですれ違うことはない」。ダ・ヴィンチが知恵を貸したのではないかと言われている。これなら、攻め上がってくる敵と戦わずに、外へ逃げ出すことができるかもしれない、などと思った

 カトリーヌさんはそういうラセン階段を、自分のお城から追放したのだ。

 2つ目は、各階に廊下(ホール)を設けたこと。各部屋は、真ん中を通る廊下(ホール)の両サイドに並ぶように設計した。

 「中世の城には廊下がなく、部屋から部屋へと次々に通り抜けて、いちばん奥の部屋に達する方式だった。奇襲を防ぐにはこういう構造の方が良い。そしてどの城でも、入ってすぐの部屋には衛兵が詰めていた」。

 カトリーヌさんがお城に廊下を設け、どの部屋にも別個に出入りできるようにしたのは、彼女が貴族の奥方でなく、「主婦感覚」で発想したからかもしれない

 この2つのエピソードは、イノベーションがどのように起きるのかを考えさせ、面白かった。

 この新たな発想の城館を造った初代のご夫婦は、不幸にも次々他界し、「Chateau de Chenonceau」は王家の所有になる。

 このツアーでは、上記のような説明はなかった。紅山雪夫さんに感謝。

        ★

<森の中の道> 

 (シュノンソーの森)

 シュノンソー城とバスの駐車場との間は、森の中の道をたどる。

 シュノンソー城で一番心に残った所は?? と聞かれたら、この森の中の道と答える。

 水に映るシュノンソー城も、瀟洒な各部屋の作りも、フランス式庭園も、美しくエレガンスだとは思うが、もう一度、わざわざ訪ねて行きたいとは思わない。

 王や貴族の城館とか宮殿は、豪華で壮大、時に気品があって端正だが、「人間」を感じない。「博物館」化している。それなら、いっそ、廃墟の城跡の方が、「人間」や「歴史」を感じることができる。歴史とは、日々を生きる人間の生の積み重なりである。

 今もミサが行われている生きたキリスト教の聖堂には、人間と歴史を感じることができて、キリスト教徒でなくても心を動かされる。

 しかし、歴史のある壮大な大聖堂でも、今は「博物館」になってしまって、学芸員が管理しているところもある。そういう伽藍洞を見ても感動はない。

 (森の樹木)

饗庭孝男『フランス四季暦』から

 「…… ショーモンの城館もさることながら、その森のなかの散策のほうに私は惹かれた。木洩れ陽のなかを歩く時、どこの地方の森もそうだが、より深く、より遠く、森の奥を辿って行きたいという思いにかられる。野鳥の啼く声に惹かれ、走り去る兎のあとを追って行く時、クールベの絵にあるように、思いがけなく清冽な泉やせせらぎに出会うのである」。

 「森から出て河辺に出てみる。シェール河のほとりは何度佇んで眺めていてもあきない。トゥールから行けばシュノンソーをとおり、サン・テニヤンを抜け、ブールジュにいたる。…… ゆるやかな河辺に佇んで、夏の白い雲を追っていると、何故か私の好きな詩人、伊藤静雄の詩句がうかんでくる」。

 もう一度、ロワール地方を訪ねることができるなら、このような旅をしたいものだ。ただし、その場合は、自分で自由な旅を企画しなければならない。

  時々、引用させていただく饗庭孝男さん

 ウィキペディアによると、1930年~2017年。青山学院大学名誉教授など。仏文学者。「西洋の文化や風土と、その精神や思想を、時に日本と対比しつつ考察論述した」とある。

 私には心惹かれる人である。

 

 

 

 

 

 

 

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ロカマドゥールの黒い聖母 … 観光バスでフランスをまわる7

2022年06月12日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ロカマドゥールの断崖の上の城館)

 10月9日(土)。曇りのち晴れ。

 東はイタリアとの国境近くから、西はスペインとの国境近くまで、3日間かけてフランスの地中海側をバスで移動し、南仏の世界遺産を見て回った。

 今日は一気にフランスの中北部へ移動。大長距離バス旅行だ。

 途中、見学するのは、フランス中央山塊の西端にある世界遺産のロカマドゥールだけ。

 あとは、ひたすらバスに乗って、お城めぐりで有名なロワール地方の町トゥールへ。そこが今夜の宿だ。 

 ロカマドゥールまで265キロで約4時間。ロカマドゥールからトゥールまでが370キロで約5時間30分。ツアーの日程表に、そう書いてある。

 このブログで、バスの車窓から異国の風景を眺めるのが好きだと書いたが、今日は関空からパリまでの飛行時間よりもさらに長時間、バスの座席に座り続けなければならない。腰痛が悪化しそうだ。

        ★

<ロカマドゥールって??>

 フランスの人気の観光地のベスト5は、①モン・サン・ミシェル ②カルカソンヌのシテ ③エッフェル塔 ④ヴェルサイユ宮殿。その次がロカマドゥールだそうだ。年間150万人もの見学者があるとか。

 ちなみに、この5か所は全て当ツアーのコースに入っているが、私はこのツアーに参加するまで、恥ずかしながらロカマドゥールという名を聞いたこともなかった。 

 ヨーロッパの12~13世紀は巡礼の時代。ロカマドゥールはそういう時代の巡礼地の一つとして、かつて栄えた聖地らしい。

 下の写真のような奇岩絶景。

 アルズー川の谷を見下ろす150mの断崖絶壁に、聖堂や礼拝堂群が建っている。

 (ロカマドゥールの全体像)

 「ロカマドゥール(Rocamadour)」という地名が文献資料に現れたのは、ウィキペディアによると17世紀。それよりも前、14世紀頃には「la roque de Saint Amadour」と呼ばれていたらしい。「聖アマドゥールの岩(ロック)」。聖人アマドゥールゆかりの聖地ということだ。

 だが、巡礼たちがこの地を目指したのは、聖アマドゥールよりも、この聖域の中のノートルダム礼拝堂に祀られている「黒い聖母」だった。この聖母が奇跡を起こして、人々の願いをかなえてくれたのだ

 そうは言っても、我々は現代の価値観で歴史を裁いてはいけない。もし昔の人々が現代の世界を見れば、異様と思われても仕方のないことはいくらでもあるのだから。

 上の写真に見るように、ロカマドゥールは3層の構造で成り立っている。

 最上部は断崖の上で、司教の城館である。

 第2層は断崖の中腹部で、ひときわ大きい聖堂と、ノートルダム礼拝堂など6つの礼拝堂によって構成されている。ここがこの聖地の中心となる「聖域」である。

 第3層は、麓のシテ(City)。ひと筋の石畳の道がカーブしながら手前の方へ延び(写真では木陰に隠れている)、その道の両側に中世の家々が並んでいる。日本流に言えば門前町通りだ。

 現在のロカマドゥールの人口は600人余りとか。

        ★

<中世の巡礼の時代とロカマドゥールのこと>

 イエス・キリストが生まれてもうすぐ千年という頃、人々は恐れた

   「新約聖書」の最終章の「ヨハネの黙示録」は終末 ─ この世の終わりの預言である。キリストの誕生から千年後、キリストは再臨する。「最後の審判」のために

 黙示録の歴史観では、終わりの日が近づくと戦争、飢饉、ペストなどが世界を覆い、やがてすさまじい天変地異とともにイエス・キリストが再臨する。再臨したキリストは「最後の審判」を行い、死者も生者も、全ての人が裁かれる。そして、心貧しく神とともに生きてきた人々のみが永遠の命を得て天国に行く。罪深く不信心な者たちは皆、「永遠の地獄」に堕とされる

 人々は恐れおののいた。 …… ところが、紀元千年を過ぎても、何も起こらなかった なぜだろう

 これは、聖母マリアが、我々人類のために審判の日を先延ばしするよう神にとりなしてくださったのだ

 そういう観念がキリスト教世界に広がっていった。この与えられた猶予の期間を大切にしなければならない。

 ある人々は使徒的清貧の生活に入った。また、多数の人々が自己の贖罪のために、巡礼の旅に出た。

 「聖母マリアは、もはや修道のための模範ではなく、神への仲介者、すなわち神にとりなしをしてくれる新しい救済者として現れてくる」。

 「聖母崇拝の高まりとともに、多くの木造聖母子像が制作されるようになった」。

 「その頃から、西欧世界を風靡する大聖堂のほとんどが、聖母マリアに捧げられるようになる。大聖堂の出現とその発展は、聖母崇拝の高まりと、その伝播の歴史といってよいのである」(以上、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から)。

 人々が巡礼の旅の目的地としたのは、イエス・キリストが人類の贖罪のために処刑されたエルサレムの聖墳墓教会、イエスから直接に教えを受け殉教した使徒ペテロの遺骸のあるローマの聖ピエトロ大聖堂、同じく12使徒の一人として殉教した聖ヤコブの遺骸を納めるスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。

 これら3大聖地に向かう途中には、イエスの十字架の切れ端をもつ教会とか、最後の晩餐のときの聖杯をもつ教会とか、聖母マリアが身に付けていた衣をもつ教会とか、或いは、各地で布教中に殉教死した聖人の棺を納めた教会など、さまざまな「聖遺物」をもつ教会が巡礼者たちを迎えた。

 群れを成してやって来た巡礼者たちの寄進、喜捨によって、それまでの粗末な教会が「ノートル・ダム」(我らの貴婦人の意。聖母マリアのこと) の名を冠したゴシックの大聖堂に建て替えられ、巡礼の行く道筋には宿泊施設や病院も建てられ、彼らを保護するため騎士団も結成された。

 12世紀。ロカマドゥールも、そのような聖地の一つとして成立した。

 ロカマドゥールの断崖付近からは、先史時代の人々の生活の跡や地下墳墓が発見され、また、ケルト(ガリア)人たちの砦の跡も認められるそうだ。

   しかし、現在残っている文献資料によると、12世紀の初頭にこの断崖に小さな礼拝堂が造られ、すぐにチュールのベネディクト派修道院長が移り住んだという。

 12世紀の半ばには、ここに祀られていた「黒い聖母」の像の奇跡が評判になり、巡礼が群れを成して訪れるようになった。すると、ロカマドゥールの名の起源である聖アマドゥールの遺骸も発見された。

 修道院長は、巡礼者たちの寄進・喜捨によって、壮麗な聖堂や礼拝堂の建造を進めていった。

 13世紀の終わり頃が、ロカマドゥールの巡礼のピークだったようだ。教皇はロカマドゥールを巡礼した人に贖宥状を発行した。

 (聖域の建築群とその上の城館)

 14世紀になると、英仏百年戦争、ペストの流行、飢饉などがヨーロッパを襲い、巡礼者も減り、巡礼者の世話をした修道士たちも去っていった。

 16世紀の宗教改革の時代には、新教側の傭兵に襲われて、ロカマドゥールは略奪・破壊された。

 さらに、18世紀のフランス革命のとき、民衆に襲われ略奪・破壊された。

 19世紀になって、フランス政府は歴史文化財保護の取り組みを始め、19世紀の末にロカマドゥールの大修復工事が完成して、今、見るような姿を取り戻した。

       ★ 

<ロカマドゥールを見学する>

(お断り) 人口600人余りの限られた空間に年間150万人もの観光客が押しかけるのだから、写真を撮ろうと思っても、人、人、人。レンズの中は欧米人の姿ばかりになる。残念ながら、聖堂や礼拝堂の外観も、内部の様子も、満足に写真撮影できなかった。アヴィニョン教皇宮殿の内部と同様である。

 それはともかく、中世の巡礼者たちは門前町を通り過ぎると、第2層の聖域に通じる216段の急峻な石の階段を昇った。それも、足ではなく、膝で昇って行ったそうだ。イエス・キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘に上がっていったときの苦しみを追体験するためである。

 一方、私たち現代の旅行者は、膝で歩くどころか、断崖をくり抜いて造られたエレベータで一気に聖域まで昇った。(文句を言っているのではありません)。

 (聖域のエレベータの昇降口)

 断崖の岩をくり抜いたエレベータには驚いた。これもまた、現代のヨーロッパ文明である。観光で生きるスイスなどはもっとすごい。

       ★

 聖域には、サン・ソヴール聖堂と付属する6つの礼拝堂がある。その2、3か所を見学した。

    (聖 域)

 こんな断崖の上に、どのようにしてこれだけの石を積み上げ、築いたのだろう。中世のヨーロッパもすごい。

   ノートルダム礼拝堂の奥まった一郭の高い祭壇の上に、「黒い聖母」の像が祀られていた。薄暗く、人々の頭越しで、よく見えなかったが、意外に小さく感じた。たぶん木彫りで、ふつうにイメージする聖母像とはかなり違う。何か原初的なエネルギーを感じさせる、アルカイックな顔・形に見えた。

 黒い聖母の像はフランス各地にその存在が認められているが、ロカマドゥールの黒い聖母は奇跡を起こし、例えば、船乗りたちの信仰も集めたそうだ。船乗りたちが海で嵐に遭ったとき、遥かに遠い山中のこの礼拝堂の鐘が鳴り、奇跡を起こして助けてくれたという

      ★

 ノートルダム礼拝堂の横から、地下礼拝堂へ降りた。

   (地下礼拝堂)

 ここは、「ロカマドゥール」のいわれとなった聖アマドゥールが埋葬されていた所だ。

 アマドゥールという人がどういう聖者であったのか、よくわからない。この地に最初に隠棲した聖者とも言われる。その聖者の遺骸が12世紀に発見され、聖遺物となった。

       ★

 エレベータで、さらに上層に昇った。

   (城 館)

 断崖の天辺に造られた建造物はツール司教の城館。巡礼者の保護にあたったという。

 (城館のテラスへ)

 内部は見学できなかったが、テラスから眺望を楽しむことができた。

      ★

 城館から聖域までの下りは、エレベータを使わず、山道を歩いて下りた。

 のどかな山の中の小道は、「十字架の道」と名付けられている。

 (十字架への道)

 道沿いの所々に14の祠が置かれ、その中にイエスの受難を描いたレリーフが納められていた。山道を歩くと、それらが小道の茂みの脇に現れて、カソリックらしい雰囲気が感じられた。

 聖域から麓までは、また、エレベータで一気に降りた。

      ★

<黒い聖母について>

 フランス文学者の田中仁彦氏は、その著『黒マリアの謎』(岩波書店)の「あとがき」に、このように書いておられる。

 「アカデミックな美術史学者アイリン・フォーサイスは、 …… 黒マリアの黒という色を『土俗信仰に属するもの』ときめつけ、『そのようなものには関知しない』と言い切っているのであるが、筆者(田中氏のこと)にとってはまさに『土俗信仰』こそが問題だった。

 土俗信仰とは、 …… 人間の心の古層である。そして、黒マリアとはまさしく、地表に露出しているこの古層なのだ。黒マリアを訪ねて歩きながら次第にわかってきたことは、この旅が、いわば、幾重にも重なった歴史の地層を通り抜けてこの古層に向かう旅だったのだということである」。

 「黒い聖母」の像は、西ヨーロッパに広く分布しているそうだ。

 だが、その多くはフランスである。

 フランス全土に広がっているが、集中しているのは、ピレネー山脈の東部(カルカソンヌを含む)、中央山塊のオーヴェルニュ地方、そして、プロヴァンスの山間部である。

 要は最もフランス的なものが残されていると言われる地方である。

 フランスの文化の地層は、3層構造になっている。

 古層には、アニミズム的な色合いの濃いケルト (フランスではガリア) の文化がある。

 第2層は、ローマ文明。ただし、ローマ文明は多神教だったから、ケルトの神々も寛容に受け容れた。

 例えば、ローマに残るパンテオン神殿は円形である。それは、全ての民族・諸族の神々を上下の別なく祭壇に祀るためである。

 第3層は、一神教のキリスト教の文明である。

 ヨーロッパがキリスト教化していくと、ローマのパンテオンも一神教のキリスト教会に変えられた。神は唯一絶対で、他者と共生しない。

 キリスト教化が進む以前の第1層と第2層のガリア(フランス)には、ケルトの神々が生きていた。

 ガリアでは、「大地」は実りをもたらすものとして敬われた。フランスの大地は豊かで黒い。黒い大地が穀物を育む。大地は、豊饒を表す母なる神であった。

 大地母神への信仰は、ローマ世界 ── ギリシャ、アナトリア (今のトルコ)、エジプト、そしてガリア地方(フランス) ── に広がっていた。

 中世になり、キリスト教の布教は自ずから人の集まる都市部を中心に進められた。司教座は都市に設けられた。

 他方、農村部には、キリスト教の教えは十分には届きにくかった。

 木村尚三郎『西洋文明の現像』から

「キリスト教は、本質的に都会人の宗教であった。…… 異教の神々、古代ケルトや古代ゲルマンの神々は、死に絶えはしなかった。…… キリスト教が都市を支配したのに対し、それぞれ不思議な力をそなえた異教の神々は、森と農村の広大な世界を意外にも17、18世紀まで支配していた。すぐれたキリスト教聖職者は都市に集中してしまい、村の司祭は長い間無学であった。異教の神々との共存や妥協なしには、キリスト教は農村に入ることができなかった」。

 農民たちは、司祭から教えられた「聖母マリア」を、「大地母神」のイメージと重ね合わせながら受け入れた。それが、黒い聖母である。

 「黒い聖母」については、そのように理解されているようだ。

 ロカマドールの黒い聖母の像を本の写真で見ると、その顔形は素朴で、原初的で、異教的である。

 しかし、ミケランジェロやラファエロの美しすぎるマリア像と比べたら、この木彫りの古拙の像にこそ、農民の思いを受けとめる大地のエネルギーが宿っていたのではないかと思った

       ★

 ロカマドゥールからさらにバスで5時間半。バス旅はこたえた。

 

 

 

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