(住吉大社の太鼓橋)
私は大阪市民でも、大阪府民でもないが、長年、大阪で働いた。愛着がある。そういう立場から、当ブログにも、時々、大阪散歩の記事を書いてきた。今回も、玄界灘からちょっと離れて、大阪のことを書きたい。
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< 神様が降りてくるのは森(杜) >
大阪市内にも、小さな愛らしい神社がたくさんある。それぞれに由緒があり、古木が緑陰をつくり、小さな森 (杜) となって、人々の心に潤いを与えている。
だが、残念ながら、大阪市内の著名な神社のなかには、がっかりする神社が多い。樹木がなく、森が失われ、拝殿の向うに見えるのはビルや看板、目を閉じて聞こえてくるのは車の騒音ばかり。
収入の少ない小さな神社ががんばっているのに、これほど名のある神社が、なぜこんな状態のまま放置されているのだろう。
例えば、「森林・林業学習館」ホームページには、このように書かれている。
「鎮守の森は、地域を守ってくださる神様が降りてくる森。鎮守の森が元気であれば、神様が来てくれるが、人々が世話をせずに森が荒れると、神様が村を守ってくれなくなると考えられていました。そして、人々は間伐したり、弱った木を伐るなど、協力して手入れをして、森を守り育てました」。
─── と、思っていたら、昨日の新聞に、大阪天満宮の船渡御の企業協賛金が減って、大篝船 (オオ カガリブネ) の費用が賄えないかもしれない、という記事が載った。大阪天満宮の天神祭は、日本三大祭の一つである。
今までやってきた祭の一部が消えるとしたら大変残念であるが、しかし、あの神社のあのたたずまいでは、人々の心を集められなくても仕方ないだろう、と思う。
( 大阪天満宮 )
( 太宰府天満宮 )
仏教寺院やキリスト教教会は、もともと外部から遮断された暗い屋内空間に、仏像があり、十字架があり、そこが聖なる場となる。
日本の神社は違う。空や、雲や、風や、樹木のざわめきや、小鳥の声や、虫の音など、外界の空気や自然の気配を五感で感じながら、身を清め、柏手を打つのが、日本人である。
船渡御のための寄付集めも大切だろうが、物事には優先順序というものがある。まず、小鳥がさえずり、蝉が鳴く、鎮守の森を取り戻してほしいと、私は思う。
大阪人の経済力と郷土を愛する心があれば、そう難しいことではないはずだ。そのためなら、年金生活者の私も、貧者の一灯をささげたいと思う。私が死んだ後も、このような日本の文化が大切に引き継がれて、世界から大阪を訪ねてきた人々が、自ら信じる宗教・宗派を超えて、「これが日本の文化なんだ!!」と感動してほしいからである。
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< 「鎮守の森」は日本の誇り >
宮脇昭氏は、横浜国立大学名誉教授、国際生態学センター研究所所長である。長年、日本の森を守る学術活動の中心になってこられた。
氏は特に、神社やお寺の 「鎮守の森」 に注目する。鎮守の森には、太古のままの植生を維持している学術的にもすばらしい森が、あちこちにある。神社やお寺の周辺まで開発の手が及んでも、鎮守の森は大切にされてきた。
鎮守の森は、国際生態学会、国際植生学会でも、英語にもドイツ語にも訳せないで、そのまま、 『鎮守の森』 として、学術用語となっているそうだ。鎮守の森は、日本の誇りなのである。
だが、バブルの時代には、都会の神社やお寺も「地上げ」の対象にされた。周辺の住民も、鎮守の森よりも、マンションの建設を求めた。
そして、今、地方でも、神社やお寺の跡継ぎがなくなり、都会でも、氏子らしい氏子もいなくなって、境内の一部を切り売りしなければやっていけない神社やお寺も多い。「鎮守の森」は急速に失われていき、日本の緑の面積が減っていく。宮脇氏は詳しいデータを示している
なかには、先代のときに失った「神域」の土地を、必死で働いて買い戻し、再び鎮守の森に再生させようとがんばっている神職の方もいる。
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< 災害から郷土を守るのは「ふるさとの木」 >
神戸の大震災の直後に、宮脇昭氏は、空からヘリコプターで、そして実地に自分の足で、被災地に入った。そのことを自らの著書 (『鎮守の森』 新潮社 ) に書いておられる。
「私は、その土地本来の森であれば、火事にも地震にも台風にも、耐えて生き延びると主張し続けてきた。…… その主張の根拠は、わが国の鎮守の森に代表される、ふるさとの木によるふるさとの森こそ、長年の現地調査とあらゆる植物群落の比較研究から、最も強い生命力を有していると判断したところにある。それぞれの地域本来の森の主役となる木を 『ふるさとの木』 と私は呼んでいる。…… 神戸付近であれば、冬も緑の常緑広葉樹、シイノキやカシノキやヤブツバキなどがそれである」。
「鉄、セメント、石油化学製品などの死んだ材料でつくった製品が、地震国日本では何年、何十年、或いは、百年のうちに必ず訪れる、自然にとってはほんのわずかともいえる揺り戻しに対して、いかに危機管理能力に劣るかということを、現場でしみじみと体感させられた。
調べていくと、神社の森では、鳥居も社殿も崩壊しているのに、カシノキ、シイノキ、ヤブツバキ、さらにはモチノキ、シロダモも、1本も倒れていない。ちゃんとそのまま森として残っている。また、住宅街でも、アラカシの並木が1列あるところでは、並木が火を遮ったのであろう。アパートが焼けずに残っていた。もちろん、強い火力によって、並木の片側は葉が赤茶けているが、そこで火が止まっている。しかも、8か月後に再調査したときには、再び新しい緑の葉が出ていた」。
「20数年前、山形県酒田市で1800戸もの家が焼けた大火のことが思い起こされる。たまたま本間家という旧家に常緑のタブノキの老木が2本あった。酒田は常緑広葉樹の北限に近い。あの大火がそのタブノキのところでとまったのである。歴代酒田市長は、我々の3年間の酒田市全域植生調査の結果を踏まえて、『タブノキ1本、消防車1台』という掛け声で、小学校の周りから下水処理場の周りまで、タブノキを中心にウラジロガシ、アラカシ、ヤブツバキ、アカガシ、スタジイ、モチノキ、シロダモなどの幼苗を生態学的手法によって混植、密植したのだった」。
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< 「鎮守の森」を守る寺社には助成金を >
信仰の問題を言っているのではない。文化の問題であり、現代的知性の問題でもある。
「商都・世界の大阪」を目指すのなら、今あるもののうち、何百年もあり続けてきたものをどう生かしていくか、そこを真剣に考えなければいけない。今の時代に、スクラップ&ビルドの町づくりは、単細胞のそしりを免れない。流行りの建築家を呼んできて、1つ2つ、奇抜な建物を造らせてみても、すぐに飽きられ、古ぼけて、何の魅力もないものになってしまう。
地震にも、大火にも、台風にも強い、美しい鎮守の森を、大阪市内の各地域に再生させる。
たとえ私有地の中といえども、「ふるさとの木」を勝手に伐り倒すことは、条例で禁止する。
「ふるさとの木」を育て守っている神社や寺に、「ふるさとの木」運動の補助金を出す。
それが、市民精神というもの。世界の常識はそういう方向に向いている。
大阪町人の心意気を示してほしいと、心から思う。
大阪天満宮は原点に戻るべし。森を取り戻さなければ、神様は降りてこない。
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< 住吉大社の宮司・津守氏 >
そのような大阪市内の著名な神社の中で、住吉大社は、神社らしい雰囲気を今も維持して、美しい。
『日本書紀』 によると、神功皇后は、九州からの帰路、現在の大阪市住吉の地で三柱の海の神々を祀り、土地の豪族の田蓑宿祢に津守氏の姓を与えて、代々、この三神を祀るように、と言ったという。
神功皇后の伝説はともかくとしても、津守氏は、古代、このあたりを支配した豪族で、歴代、住吉大社の宮司家であった。
玄界灘をわが海とした海人たちと津守氏との関係は、よくわからないが、津守とは、言うまでもなく、港を管轄・支配した一族の意であろう。
玄界灘の海人たちの住吉の神 (三神) は、いつのころからか、筑紫、長門、摂津と、北九州から瀬戸内海を経て大和へ向かう航路の、津々浦々に祀られていったのである。
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< 海部 (アマベ) 氏と尾張氏のこと >
津守氏は、丹後の籠神社 (コノジンジャ) の社家である海部 (アマベ) 氏や、尾張の熱田神宮の大宮司である尾張氏と同族であるという説もある。
海部氏には、9世紀に成立した2巻の系図があり、1976年に国宝に指定された。国宝に指定された系図はこれだけ。歴史学研究上、貴重な資料なのであろう。
それによると、その祖は遥かに神代に遡り、その後は伴造として海部 (海人集団) を率いていた時代へ、そして「祝 (ハフリ。神官) 」 として神に奉仕した時代へと続くそうだ。我々庶民には気の遠くなるような家系である。
以前、天橋立に行き、籠神社に参拝した。さらに籠神社の奥社である眞名井神社への山道の参道を歩いていたら、立ち話をしている人たちがいた。3人のおばさんたちは明らかに観光客だが、もう一人のご老人は神職のいでたちである。そばで立ち止まって、少し話を聞いたが、何とこの話好きのご老人が、遠い祖先は高天原につながるという宮司さんだった。奥社へ参拝する山道で、たまたまそのような方にお目にかかって、しばし、浮世離れした気分になった。
( 天橋立 )
( 籠神社 )
( 奥社・眞名井神社 )
一方、熱田神宮の尾張氏は、ヤマトタケルとミヤズヒメの話で有名である。ミヤズヒメは、尾張の豪族・尾張氏の息女である。ヤマトタケルは東国遠征に行く途中、尾張で出会い、その帰途に再び立ち寄って再会した。別れに際して彼女に草なぎの剣を託す。そして、大和へ向かう途中、伊吹山の神と素手で戦うこととなり、命を落とした。
草なぎの剣とは、神代の時代に、スサノオがヤマタノオロチから取り出し、アマテラスに献上した剣である。この剣によって、ヤマトタケルは何度も危機を脱した。
ヤマトタケルの形見の剣は、ミヤズヒメによって、熱田神宮に祀られた。熱田神宮のご神体は草なぎの剣である。
尾張氏は東国の入り口の地に勢力をもち、しばしば皇妃を出した有力な氏族である。
時代を経て7世紀、どういう事情があってか、大海人皇子 (のち、天武天皇) は幼少期に海部氏に育てられ、これを尾張氏が援助したという。「大海人」という名は、海部氏に由来するらしい。兄の天智天皇の崩御後、壬申の乱のとき、初め東に逃れ、尾張の軍勢を引き連れて、近江の大友皇子軍を撃破した。
いずれも、海部氏や尾張氏が大きな存在であったことをうかがわせる話である。
熱田神宮も、広々と奥深く、森閑とした、いい神社である。
参拝後、ご近所で名物の鰻を食べた。美味かった。その後、食材の鰻が手に入りにくくなったが、どうしているのだろう? あの旨さを維持しているのであれば、もう一度、食べたいと思うが、値段は2倍? 3倍かな?
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< 住吉大社の隆盛 >
このような海部氏や尾張氏と比べ、津守氏は地味な地方豪族に過ぎなかった。
脚光を浴びたのは、大化の改新の後、朝廷が上町台地 (半島) の北端に、海に面して難波宮を造営したときである。難波に宮を置いたのは、百済や大陸との外交・交流を考えてのことであろう。
ここは津守氏の勢力圏であったから、当然のことながら津守氏は難波宮の建設に貢献した。遷都されると、津守氏の祀る氏神が難波宮の地主神となり、朝廷からの尊崇を受けた。難波宮の時代はわずかな期間であったが、このとき、大阪の「住吉」は全国区になったのである。
住吉大社が大きく脚光を浴びるようになる第2弾は、奈良時代の遣唐使船の派遣である。
遣唐使の初期、遣唐使船は、住吉大社の南にあった住吉の津から出航し、やがて難波の津から出航するようになるが、いずれにしろ瀬戸内海を経て、北九州から唐に渡った。
遣唐使は国家的な大事業であったから、朝廷はその成功を祈願するため、近畿各地の有力な神社に使者を出した。特に、住吉大社は航海安全の海の神であるから、手厚く奉幣した。こうして、住吉大社は、朝廷の「航海安全の神」になっていった。
住吉大社は、今は、街の中にあるが、江戸時代までは海に面していて、太鼓橋のすぐ近くまで清らかな波が打ち寄せていたという。一帯は、白砂青松の風光明媚な所であった。
遣唐使に選ばれた天下の秀才たちも、出航の前には、全員が大社に参拝して、生きて再び故国の土を踏むことができるよう祈願した。
いよいよ船が出航すると、船上から、住吉の姫松が見えなくなるまで、切実な思いをもって名残を惜しんだ。
遣唐使として海を渡った知識人たちが住吉大社をあつく信仰したことによって、いつしか住吉三神は学芸の神となり、また、和歌の神となっていった。藤原俊成も、定家も、歌道を志す人たちは、その上達を祈願して参拝した。風光明媚であったから、歌にも詠まれ、「住吉の松」は歌枕になった。
おそらく 「源氏物語」 の影響は大きかっただろう。須磨に流されて苦しむ光源氏を救ったのは、住吉大社に帰依する明石入道であり、源氏はその娘である明石の上と結ばれる。
「澪標 (ミヲツクシ)」の巻では、晴れて都に迎えられた光源氏が、多くの供人を従えて住吉大社に参拝し、折しも参詣に来ていた明石の上と、出会えそうで出会えないという絵巻物のような話が、住吉大社を舞台にして展開される。
日本は農業国であったから、いつしか住吉大社は農耕の神さまにもなった。今も境内には約2反の田があり、田植えの神事が行われるそうだ。
まことに日本の神は融通無碍で、祈る人の心とともにある。