(ヴェネツィアの朝/フィルム撮影した写真から)
2002年の6月、再びヴェネツィアとパリを訪ねた。
今度は落ち着いて見て回ることができた。3度目になると、旅心は定まる。
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<シャルル・ド・ゴール空港のストライキ>
ただ、この旅では、一人旅の初心者にとって少々きつい「ハードル」が待ち受けていた。後でわかったことだが、全てはパリのシャルル・ド・ゴール空港のストライキに起因していた。
日本ではヨーロッパの1空港のストライキのことなどほとんど報道されない。スマホでネット情報を得ることが難しい時代だから、英語もロクに話せない一人旅の身には、いったい何が起こっているのか全くわからなかった。
往路 ── 。関空から出発し、パリのシャルル・ド・ゴール空港に順調に着陸した。だが、着陸してからあと、飛行機は車の渋滞のように少しずつしか前に進まず、降機口に着くのに時間がかかってしまった。
1時間あった乗り継ぎ時間が20分になってしまい、広大なシャルル・ド・ゴール空港の通路を走った。途中で、手荷物検査もあった。もう間に合わないと思ったがとにかく走って、ヴェネツィア行きの小型機に搭乗したのは最後の1人だった。
小型機が離陸し、雲の上に出て、ほっと安堵した。何とか乗り継げた。
そのとき、ふと、機内預けのスーツケースは乗り継いただろうかという不安がよぎった。人は走れるが、関空から飛んできた大型機から乗客の荷物を降ろし、行き先別に選り分けて、運搬車に載せ、広大な空港の次の飛行機に積載するという作業が、わずか20分でできるとは思えなかった。
案の定、ヴェネツィア空港の手荷物受取所では、最後まで私のスーツケースは現れなかった。自分で手続きをしなければならない
。
見ると、私の乗ってきた便の半数ぐらいの人が既に並んでいた。日本人ツアーもいた。成田から飛んできたツアーのようだ。前の到着便の乗客らしい人も含め、ロスト・バッゲージの手続きをする長蛇の列ができていた。
一体、何が起こっているのだろう ロスト・バッゲージの手続きをするオフィスの係りの女性に怒りをぶつける若い白人男性もいた。しかし、少なくともヴェネツィア空港の職員に文句を言ってもはじまらない。
順番が来るまで、随分、時間がかかった。片言の英語で何とか手続きし(ちゃんと通じたのかどうか、翌日、スーツケースがホテルに届くまで心配した)、タクシーとヴァポレットで、とっぷりと日の暮れたヴェネツィアの街に入った。
それから、予約したホテルを探して暗いカッレ(路地)をさまよった。何度もホテル名を言って人に尋ね、路地の中の小さな広場で、小さなホテルに掲げられた看板をやっと見つけた。
アフリカから地中海を渡ってやってくるシロッコという湿度をたっぷり含んだ熱風が襲っていて、汗みずくになっていた。シャワーを浴びてすっきりしたが、汗に濡れた下着の着替えもなく、一晩、椅子に掛けて乾かし、翌日も着た。
翌日、ホテルのおじさんは、「大丈夫。よくあることだ。観光しておいで」と送り出してくれた。その言葉どおり、午後、スーツケースはホテルに届けられた。
帰国後、海外旅行の本を読んでいたとき、ロスト・バッゲージの確率は10%以上もあるという記事があった。それで、それ以後の旅では、手荷物の中に下着の1枚ぐらいは入れておくようになった。
その後の旅でも、ロスト・バッゲージに遭った。今回のように飛行機が遅れて乗り継ぎ時間が少なくなったとき、或いは、アムステルダムとマドリッドというように2度も乗り換えたときは、相当の確率で起こった。しかし、翌日にはホテルに届けられた。
ただ、ツアーの場合は、観光バスでどんどん移動するから、スーツケースは宿泊ホテルに追いつけず、結局、出発地の関空で再会したりするようだ。1泊目と2泊目のホテルは同じにするか、近くの都市ヘの移動にすることが一人旅の心得である。
そのあとヴェネツィアでゆっくりと3日間を過ごし、パリへ移動するため、朝、ヴェネツィア空港に行くと、また長蛇の列ができていた。前のパリ行の便がキャンセルになって、私の乗る便に並んでいるらしい。ローカルな空港の小さなホールは人いきれで苦しかった。
わけもわからず1時間近くも並んでいたら、空港の職員の女性が一人ぼっちの東洋人を見かねたのか、「1人??」と聞き、別の窓口に案内してチェックイン手続きをしてくれた。
一人旅をしていると、時々、優しさに出会う。ツアーでは添乗員におんぶに抱っこで、こういうことはない。
その後、パリで2、3日を過ごし、帰国のためシャルル・ド・ゴール空港に行ったら、またもや長蛇の列ができていた。
一人旅らしい日本人の中年女性に何事かと聞いてみると、シャルル・ド・ゴール空港の労働組合のストライキらしいと言う。
その女性は京都に店をもち、世界のお茶を仕入れて販売しているという人だった。彼女は昨日、帰国の予定だったが、空港の窓口で「飛行機は飛ばない」と言われた。それならと、パリまで戻る交通費とホテルの手配を要求したが、労働組合がやっていることで会社には責任がないと撥ねつけられた。見通しを聞いたが、「組合に聞け。我々にはわからない」とニベもない返事。やむなく1人でパリに戻り、ホテルを探して1泊し、今朝、とにかく様子を見ようと来てみたと言う。
その日、どういう事情の変化があったのか、AF(フランス航空)は成田回りの関空行きを手配してくれて、お詫びのしるしとして300ユーロの小切手もくれて、大幅に遅れたが無事に帰ることができた。
一人旅の身にとって、いつ起きるかわからない、しかも一度発生すると1週間で終わるのか、1か月も続くのかわからない、イタリアやフランスのストライキは誠に恐ろしい。
今回は1空港のストライキだったが、これがゼネストだったりすると、空港にさえ行けなくなる。そういうトラブルに巻き込まれると、かなり絶望的だ。今はネットで、出発前に少しは情報を入手できる。
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<映画「旅情」のヴェネツィア>
6月のヴェネツィアは観光客で賑わっていた。
(サン・マルコ広場/ 2002年フィルムから)
サン・マルコ広場の2つのカフェの前にはテラス席が並んで、楽団がロマンチックな曲を奏で、映画『旅情』の世界だった。
(「カフェ・フローリアン」の前の賑わい/同)
(サン・マルコ広場のテラス席の日向と陰/同)
サン・マルコ広場では、映画の中のようなエレガンスなカップルが幸せそうにたわむれている。初老の家族づれの旅行者は日陰のテラス席でそよ吹く風を楽しんでいた。
カッレ(路地)からカッレ(路地)へとたどり、小橋を渡り、リオ(小運河)の岸辺を通り抜け、主なカンポ(広場)と聖堂をほとんど見て回った。
聖堂の内部は、フランスのロマネスクやゴシックの大聖堂と比べると、ローマの神々の神殿であるパンテオンに似て、晴朗で、清々しく、ヴェネツィア・ルネッサンスの巨匠の絵が飾られていた。
塩野七生の『レパントの海戦』の冒頭に出てくるサン・ザッカーリア教会にも入ってみた。
なぜか道が行き止まりになって、暫くうろうろとしていたら、建物と建物の間の人がすれ違えないほど狭いすき間を向こうから人がやってきて、なるほどと感心した。 地図が間違っているわけではないのだ。ここでは「道」というものの観念が違う。
バボレットに乗って、リド島にも、ムラーノ島にも、ブラーノ島にも行った。
アドリア海を見たくて、横に長いが、幅は狭いリド島を、てくてくと歩いて横断した。しかし、地図で想像していた以上に遠かった。
しかも、アドリア海は、イタリア半島とバルカン半島に挟まれた海峡のような海ではなく、人間の目にはただ茫々と広がる太平洋のような海だった。地図のイメージと違って、がっかりした。
(ブラーノ島のリオ 2002年)
昼下がりのブラーノ島の土産物店や食堂に人影がなかった。街が奇妙にしんとしずまっている。ここでは、午後の午睡の時間があるのだろうか
すると、1軒の店の奥からわっと拍手や歓声。
そうか 日韓主催のワールドカップ。今、イタリアと韓国が戦っているのだ。
その夜、ホテルの部屋のテレビのスイッチを入れると、いかに韓国選手がひどい暴力を振るったか(ラフプレイだったか)、スローモーションの映像が次々と映された。確かに、それはほんとにひどく、アナウンサーや解説者が怒りで絶叫していた。だが、不覚にも、負けてしまった。その結果は如何ともしようがない。
翌日からの観光は、ちょっと怖かった。自分は韓国人に見えるか、日本人に見えるか。外見からは、自分でも区別がつかない。
だが、そういう目で見られることはなかった。多分。
観光しかないテーマパークのようなヴェネツィアの街だが、サンマルコ広場やリアルト橋の一画を除けば、韓国人や中国人は言うまでもなく、まだバブルの潤いの残る日本人もほとんど見かけない時代だった。