ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

イブは、若く健康なブルゴーニュの女性 …… 陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 9

2015年07月30日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

       ( ブルゴーニュの村と教会とお墓 )

5月27日(水) 晴れ

「イブの誘惑」を求めて >

 今日はオータンに、ロマネスクを代表する彫刻を見に行く。中でも、お目当ては「イブの誘惑」。

 だが、ユーラシア大陸の果てから訪れる旅人には、行きにくい町だ。

 パソコンで、フランス鉄道時刻表を開いて、「ディジョン~オータン」 を調べたら、ディジョンから鈍行で約30分のシャニーまで行き、そこで鉄道バスに乗り換えて1時間10分という行程。

 「乗り換え」というが……多分、駅前の広場でバスに乗り換えるのだろうが、ヨーロッパの町では駅はたいてい町はずれにあり、乗り換えのバスはそこから1キロも離れた町の中心の広場から出る、というケースだってある。そうなると、駅前でバスが来るのを待つべきなのか、町の中心らしい方向に向かって歩き出すべきなのか … 。

 田舎の駅で、人にものを尋ねたくても、人はいないし、いても、言葉は通じない。

 帰りは …?? 帰りの時間帯の時刻表を調べると、バスに乗らなくてもよい。が、オータンから反対方向へ2駅行って?? エタン(グ)??という駅でディジョン行きに乗り換える。… これ、大丈夫かなあ??

 何ともしんどそうと、計画段階で少しメランコリックになった。しかし、だからと言って、ブルゴーニュまで出かけて、オータンには行きませんでした、では、済まないではないか オータン訪問のためだけに1日をあてているのだから、少々迷っても、何とかなるだろう、と思い直す。

        ★

< ブルゴーニュの野をバスで走る >

 シャニー駅に着くと、人のいない駅前広場に、オータン行きの小型バスがちゃんと待っていた。バスのフロント硝子の上に、「AUTUN」と書いてあるので、安心する。

 乗り込むと、運転手はマダムだった。制服などという野暮な服は着ていない。こんな田舎町でも、中年女性がちょっとオシャレな服装で、シャキット働いている。いや、田舎だからこそ、人手不足なのかも 日本も同じだ。 

 発車時刻になっても、誰も乗ってこない。専用車だ。これで列車を走らせたら、大変な赤字路線というわけだ。

 小型バスは、いきなり、シャニ―の村の中の、民家が建てこんだ、狭いメイン道路を疾走し 、幾つかの民家の角を鮮やかに曲がって、やがて村の外へ出た。(その速さに面食らい、座席にしがみついた)。

 野に出ると、天窓から、ブルゴーニュの風が入ってくる。

 バスは、林の中の一本道や、畑の中の細い道、或いは、野の花の咲く野の道を、ウサギのように走る。

 最初は緊張したが、マダムと心中するつもりで腹を据えると、なかなか痛快である。

 1時間少々の間に、3箇所ほど、村の中の停留所らしき所に停車したが、誰も乗ってこない。バスも採算は取れない。

 

 こうして、少々のハラハラ感とともに、ブルゴーニュの村の風情や野の景色を十分に楽しんで、あっという間にオータンの駅前に到着した

 これこそ、ブルゴーニュの旅。病みつきになりそう。

        ★

< イエスの奇蹟の生き証人の遺骸を納める大聖堂 >

 オータンの人口は1万6千人。ローマ帝国初代皇帝・アウグストゥスの勅命によって建設された由緒ある町だ。当時の名称は、アウグストドゥヌム Augustodunum==アウグストゥスの砦。それが訛って、オータンとなった。ローマ時代の城壁や、城門、それに劇場なども、わずかに残っている。

 駅から町の中心部の方へ歩く。昨日のトゥルニュより、町の規模はかなり大きい。しかも、丘の町で、周辺部に位置する鉄道駅から中心部へ向かうには、ひたすら緩やかな上り道である。15分もせっせと歩いて町の中心広場に出た。さらに10分も歩いて、やっと目指すサン・ラザール大聖堂が見えてくる。

  ( オータンの街並み )

  ( サン・ラザール大聖堂の南側 )

 福音書によると、マリア、マルタという姉妹、その下にラザロという弟がいて、イエスはこの姉弟を愛した。ところが、弟のラザロが病にかかり、死んだという知らせが入る。伝道中のイエスは急いで彼らのところへ赴き、姉たちとともに涙を流し、そして、既に葬むられていたラザロを甦らせるという奇蹟を行った。

 イエスの死 (と復活) のあと ── 十二使徒をはじめ、イエスの母マリア、マグダラのマリア、あるいはラザロ姉弟の、その後の行動とそれぞれの死については、さまざまな伝承があるようだ。民衆の願望は、思いもよらぬ物語を生む。

 一説によれば、この3姉弟は南フランスに漂着して、布教したという。さらに、ラザロの死後、その遺骸は、ブルゴーニュ地方に運ばれた。

 サン・ラザール大聖堂は、聖ラザロの遺骸を聖遺物としてもつ教会として、12世紀の前半に、ロマネスク様式で建てられたのである。

 なにしろ、神の子イエスと生前に直接に語り合い、イエスが行った奇蹟の「証人」でもある人の遺骸である。サン・ラザール大聖堂には多くの巡礼者が訪れるようになる。

 15世紀には、大聖堂は、外観も、内部の一部も改修され、ゴシック様式になって現在に至っている。下の写真に見るように、身廊や、壁を飾るステンドグラスはゴシックである。         

( ゴシックの身廊と後陣 )

        ( ステンドグラス )

        ★

※ 以下の彫像に関する記述は、『芸術新潮』2002年8月号「フランスの歓び」を参考にした。

< ブルゴーニュの2大傑作とされるタンパン > 

 大聖堂の南側の広場から西側へ回ると、西正面扉口 がある。ここの装飾はすべてロマネスクの時代のものである。

   

       ( 大聖堂の西正面扉口 ) 

 扉口の上にある半円部分をタンパンという。

   ロマネスクでもゴシックでも、タンパンには「最後の審判」の絵柄が彫られることが多い。

 このサン・ラザール大聖堂のタンパンは、ヴェズレーのサン・マドレーヌ・パジリカ (明後日に訪れる) のタンパンとともに、ブルゴーニュ産(ロマネスク様式)のタンパンの二大傑作と言われている。                 

  

  ( タンパン / 最後の審判 )

 光背を帯びたキリストを真ん中に、向かって左が天国、右が地獄。天国の上部には聖母マリア、その下には使徒たち。上部左端には、天国の窓から覗いている人たちがいる。

 半円のタンパンの足元に、水平(横)に広がる部分はマグサと呼ばれる。ここには、最後の審判を受けるために、眠りから覚めて、石棺から立ち上がる死者たちの群れが描かれている。

   ( タンパンの右側を拡大 )

 タンパン右側の地獄は、天使と悪魔が人の魂を奪い合ったり、悪魔が人間をぶら下げて投げ落とそうとする図柄が描かれている。

 特に、地獄の方に、中世的な不気味さと、しかし、どこかユーモラスな趣もあって、面白い。

 このタンパンは、フランス革命の前に、「かっこ悪い」という理由で、全面的に漆喰を塗られてしまった。そのお蔭で、大革命時の民衆による「打ちこわし」に遭わずに済んだ。19世紀になって、漆喰が取り払われ、中世美術の再評価の機運の中で (このころにロマネスク様式という名称も生まれる) 保護されたのである。

 一神教も怖いが、神を否定する革命側も、自らを絶対正義と信じ切って、まことに恐ろしい。

         ★   

< 柱頭彫刻をま近に見る >

  サン・ラザール大聖堂のロマネスク彫刻を有名にしているものに、もう一つ、柱頭彫刻がある。ここではその中の優れた作品が柱から取り外され、2階の1室に展示されて、間近に見ることができるのである。

 新約聖書の福音書によると、ヘロデ王のとき、イエスは、ベツレヘムで生まれた。

 東方の占星術の学者 (博士=マギ) たちがエルサレムにやって来て、ヘロデ王に面会し、「ユダヤ人の王として生まれた方は、どこにいますか」と尋ねる。ヘロデ王もユダヤ教の司祭たちも不安を感じる。「ベツレヘムで生まれるという予言はある。探し出して、必ず報告に戻れ」。

 学者たちは旅を続け、星に案内されて、幼子とその母に会うことができた。そこで、誕生を祝って贈り物をする。

 マタイによる福音書によると、その夜、「『ヘロデのところへ帰るな』 とお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国に帰って行った」とある。

 

       ( 眠るマギへのお告げ )

   柱頭彫刻のマギたちは、裸で、なぜか冠をかぶって、クレープのような布団の中で、仲よく寝ている。明け方、不思議な声を聞く。「エルサレムに帰ってはいけません」。右手にそっと指を触れる天使。驚いて目を覚ました博士の頭上には、目パッチリの花形マーク  3人の博士は真上から、天使は真横からという不思議な構図は、柱頭彫刻という制約の中での非現実的描写だが、その後のルネッサンスの科学的透視画法などより、絵画的で面白い。

 さて、「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」(マタイによる福音書)。

 

    ( エジプトへの逃避 )

   イエスを抱いてロバに乗り、エジプトへ逃げるマリアは、ラファエロの描いた繊細優美、良家の子女のようなマリアとは異なり、村娘の若々しさと清純をもつマリアである。しかも、そのふっくらとした顎は、体の頑健さと、決してへこたれない心の剛直さを表しているかのようだ。

        ★

< この旅の目的の一つ、「イブの誘惑」に対面する >

 大聖堂の隣にロラン美術館がある。遥々と東方からやって来た見学者を、美術館の女性職員たちは、言葉が通じないが、親切に案内してくれた。

 そして、その中の1室で、ついに、「イブの誘惑」に対面した。

  オータンのイブとの対面の場面を、井上靖の小説『化石』は、どのように描いているだろうか??

  一行は、若い岸夫妻、マルセラン夫人、主人公の一鬼である。マルセラン夫人は、フランスの富豪と結婚している中年の美しい日本人女性。ちなみにNHKのドラマでは、岸恵子が演じた。岸夫妻が、どの彫像が一番良かったかを話題にする。

 「奥さまは?」と、(岸夫人が) マルセラン夫人の方へ顔を向けた。

 「わたくしですか。わたくしは」

 マルセラン夫人は、ここで言葉をきった。一鬼はこの場合も、夫人の眼が笑っているのを見た。少女が、いたずらでも思いついた時しそうな表情であった。

 「わたくし、あれが一番好きです。あのイブが」

 「なるほど」

 岸がその方へ顔を向けると、岸夫人も一鬼も、それにならった。どこにはめ込まれてあったのか、横に長い石の浮彫が台の上に置かれてあった。一糸まとわぬイブが、水中でも泳いでいるような姿態で、横向けに彫られており、右手は頬に、左手は体に沿って長く伸ばして、リンゴの実をつかんで、それを、ちぎろうか、ちぎるまいか、思案しているところである。大きく盛り上がった乳が二つ息づいており、それが石で刻まれたものとは思われぬほど、なまなましかった。このイブもまた、明らかに村の娘であった。

 …… 中略 ……

 イブの水中で泳いでいるような姿態は、よく見る例のリンゴの木の傍に立っているイブなどの持たぬ、のびのびとした明るさを持っていた。…… 豊かな髪を背後に垂らしている横顔は、さすがに多少思案深げであるが、他のイブの顔が持っているような、ためらいも、怖れも、おののきも見いだされない。

                      ★

 美しい中年女性のマルセラン夫人が、「少女が、いたずらでも思いついた時しそうな表情」で、「イブの誘惑」に着目させる設定が良い。

 それに続く井上靖の文章 ── 「水中でも泳いでいるような姿態」「のびのびとした明るさを持っていた」「明らかに村の娘であった」等々は、これ以上、あれこれ言う必要がない素晴らしい「鑑賞文」である。

 だが、あえて井上靖の時代には分かっていなかったその後の研究結果を付け加えれば、「水中でも泳いでいるような姿態」であるのは、この浮彫の石が、もともと北扉口のタンパンの下のマグサに彫られたものだからである。横に長いマグサを埋めるには、イブを横向きに描かざるをえなかった。先ほどの「眠るマギへのお告げ」の構図が不自然であったのと同じ理由である。そして、イブに向き合う姿で、アダムの「泳ぐ」像もあった。

 イブとアダムは顔を寄せ合っていたのだ。井上靖は「右手は頬に」と書いているが、イブは頬に手を当て、アダムに向かって、甘い言葉をささやいているのである。「イブの誘惑」である。

 それにしても、大聖堂の扉口に、等身大の大きさで、若く、健康な、全裸の女性を彫ったのである。ロマネスク時代の、名もない石工の心意気。やりますねえ

 ルネッサンスやその後の西洋絵画に描かれた、不健康なほどに肉付きのよい裸婦像などと違って、ブルゴーニュの村に現実にいて、日々畑仕事や家事仕事をやっている、若く、健康的な女の姿であるところが、良い。

 実は、このイブとアダムの像も、西正面扉口のタンパンが塗りつぶされたときに、「かっこ悪い」と投げ捨てられた。アダムは、そのまま行方知れず。イブは土地の名族のロラン家にかろうじて拾われ、こうして今、ロラン美術館に納められている。

 生き延びるのは、女。でも、残ったのが女でよかった、と、男の私も、素直に思います

         ★

オータンのローマ劇場まで歩く >

 この日も、昼食は、サン・ラザール大聖堂の横のベンチに座って、クロワッサン1個とオレンジ1個。レストランの昼食より遥かに安上がりの上、体調が回復してくる。

  ( 大聖堂横に泉水 )

 大聖堂からテクテクと20分近く歩いて、ローマ時代の遺跡、ローマ劇場に行った。

      ( ローマ劇場 )

 昨年、シチリアで見た、地中海を遥かに見下ろす丘の上の大ローマ劇場と比べると、大人と子どもの違いであるが、その分、のどかで、人けもなく、パパが子どもを連れて来ていて、これも、絵になる。

 さらに、駅まで20分ほど歩いた。腰や膝が痛んだ

        ★

 2駅だけ逆方向へ行く列車は1両編成。しかし、フランス鉄道では珍しく、窓ガラスが綺麗な列車だった。

 それで、ブルゴーニュの風景が、楽しかった。( 冒頭の写真 )

  

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ソーヌ川沿いの小さな町トゥルニュ……陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 8

2015年07月25日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

               ( ソーヌ川 ) 

< 午後はトゥルニュへ >

 午前にフォントネー修道院を見学した後、モンバール12時5分発の鈍行に乗る。この列車だと、ディジョンで乗り換えせずに、1時間半でトゥルニュに着く。

 この紀行の第1回「旅の前夜に」で、井上靖の『化石』を読んだときから、ブルゴーニュ地方の野の香りのする教会巡りをしてみたいと思うようになった、と書いた。

 『化石』を読んだのはもう40年も前のことで、作品の主題に感銘を受けたわけではないが、作品の前半部に出てくる、シャルトルの大聖堂の高い窓に輝くステンドグラスのことや、ブルゴーニュの野に佇む鄙びたロマネスク教会のことが、心に消えることなく残った。

 ブルゴーニュ地方への主人公の旅は、3人の同行者と、パリから車で、まずヴェズレーのサン・マドレーヌ・パジリカを訪ねて1泊し、2日目にはオータン、トゥルニュと回ってさらにもう1泊して、翌日、パリに帰ってくる。

 今回の私の旅は、主人公とは逆に、トゥルニュ、オータン、ヴェズレーの順である。

 それにしても、もし若いころに『化石』という小説を読んでいなければ、このような旅を計画していなかったかもしれないし、仮に計画しても、その中にトゥルニュを加えることは絶対になかったろう。

 なにしろトゥルニュは、人口6000人ほどの小さな町(村)で、観光知名度もアメリカの野球に例えればAかAAリーグクラスで、サン・フィリベール修道院も含め『地球の歩き方 フランス』で費やされている活字と写真の量は、1ページの半分にも足りないのだから。

 『化石』の主人公の感性にこだわって訪れることにした、いわば「付録」の町である。

        ★

< 小さな町トゥルニュの歴史 > 

 ソーヌ川は、フランスの北東部のボージュ山地に発し、ブルゴーニュの野を北から南へと流れて、やがてレマン湖から流れて来たローヌ川に注ぐ。

 そのソーヌ川の岸辺にできた小さな町の一つが、トゥルニュである。

 紀元前の時代には、既にガリア人の水運のための集落があった。BC1世紀には、ユリウス・カエサルのローマ軍の駐屯地が置かれている。

 サン・フィリベール教会は、鉄道駅から徒歩5分、ソーヌ川に沿う町の北端にある。

 9世紀、バイキングの侵入から逃れて北方からやって来た修道院の勢力が、ここに、サン・フィリベール修道院をつくった。

 修道院は周囲を城壁で囲んだ城塞風の構えをもち、その中で修道士たちの共同生活が営まれた。現在のサン・フィリベール教会は、元は修道院の付属礼拝堂だった。

 市民の住む区画は、修道院の区画に対立してその南側に広がっていた。川を利用し、交易をその生業としていた市民たちは、修道院勢力を喜んで受け入れたわけではない。基本的に自由を愛する交易の民にとって、彼らは歓迎されない異質な存在であったようだ。

   

  (サン・フィリベール教会の塔)

   駅から旧市街地区に入るとすぐに、サン・フィリベール教会の塔が見えた。井上靖は「四角な鉛筆の先を削ったような塔が見えた」 (『化石』)と形容している。

 塔の前の2つのイカツイ円塔は、おそらく修道院の城門を守る塔。

 司教や修道院長が領主でもあることが多かった中世において、修道院に城門や城壁があるのは、多分、珍しくなかったろう。

 今、見る教会は、1019年に献堂式が行われた初期ロマネスク様式のものだ。ただし、その後、いろんな様式によって手が加えられている。

 日本では、伊勢神宮でも、出雲大社でも、法隆寺でも、できるだけ昔のままの技法で、昔のとおりにリフォームされる。西欧では、どんどん新しい様式に直されていく。

< サン・フィリベール修道院の歴史 >

 初期キリスト教の時代の2世紀に、この地で、聖ヴァレリアンが殉教した。

 4世紀に、その墓に、小さな礼拝堂が建てられた。

 6世紀には、そこに修道院が建設される。歳月を経て、この修道院は衰退する。

 9世紀に、ヴァイキングに追われ、聖フィリベール (7世紀にノルマンディー地方で布教し殉教) の遺骸を携えた修道士たちがやって来て、跡地に新たに修道院を建てた。

  この新しい修道院は、初期修道院の系列であるベネディクト会に所属し、その後、ブルゴーニュ地方に台頭し全ヨーロッパに広がったクリュニー派の傘下に入ることはなかった。

 歳月がたち、1785年、フランス革命を前にして、修道院は解散した。

         ★

< 井上靖のサン・フィリベール教会 > 

 教会の中に入ると、身廊には、存在感のある石の円柱が後陣へ向かって並び、さらに天井には円柱から伸びたヴォールトが横に張られて、天井の重さを支えている。

  

    ( 身廊部 )

 井上靖は次のようにその印象を語っている。……「古い石で囲まれた空間だが、少しも暗くはなかった。建物のあちこちに設けられてある小さい長方形の窓から、程よい量の光線が落ちている。光線の当たっている石の面は、それが床であれ、柱であれ、はっきりと、それが経て来た歳月の長さを表していた。石は老いていた」(同)。

 「石の柱のあらい面に、手を触れてみた。幽かに赤味を帯びた、もろそうな感じの石が煉瓦ようの大きさに切られ、積み重ねられているのである」(同)。

   井上靖が訪れたころにはまだ発見されていなかった床モザイクを、周歩廊の一角に見ることができた。床面の下から発見されたそうで、ガロローマ時代のものだという。ということは、先の修道院か?? 消えかかっている絵もあるが、中には非常に鮮明なものもあった。働く農夫の姿である。

  ( 床のモザイク )

        ★

 この聖堂にも、クリプト(地下祭室)がある。

  ( クリプトへの通路 ) 

 多分、ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂のクリプトと同じように、ここを訪れる巡礼者たちが、聖フィリベール の遺骸の納まった石棺を順番に拝むことができるようにと造ったのであろう。

 11、12世紀は、人々が贖罪のために、聖遺物を求めて巡礼をした時代である。聖遺物とは、イエスが流した血や、聖母マリアの服の切れ端や、殉教した聖人の亡骸である。教会は巡礼者のためにさまざまなサービスを行い、彼らが落とすおカネはさらに大きな大聖堂建築の資金になった。そういう無数の人々のうねりが、ロマネスクからゴシックへという建築ブームの背景にあった。

 このように哀れな民衆はいつも、教皇・司教や王侯貴族に収奪されていたのだとする見方もできようが、他方、巡礼の「旅」と言い、巨大な聖堂「建築」と言い、暗黒の中世からゆとりが生まれ、人々の精神が自由に羽ばたきだした、と見ることもできる。

 もっとも、石棺の中に、本当に聖フィリベールの遺骸が納まっていたかどうかは疑問である。誰も、その中を見たことはない。

        ★

 この教会建築の2階部分を見学することもできた。危なっかしい足取りで、梯子の階段を上がる。

 そこは、野太い石の柱、小さな窓、レンガのような石材があらわで、井上靖が言うように、「それが経て来た歳月の長さを表して」、石が「老いて」いることがよくわかった。

   ( 2階部分の老いた石材 )

        ★

  礼拝堂(聖堂)の側面の戸から、修道院時代に「回廊」があった中庭に出ることができた。「回廊」を囲んで建っていたはずの僧院建築群は、今はなく、廃墟の趣である。

 「現在は僧院の跡形はすっかりなくなっていて、汚い古い家に取り巻かれた中庭になっている。もっとも寺院側だけに回廊の一部が残っていて、それが僧院の名残りだと言えば言えないことはない」(同)。

    

     ( 回廊跡 )

 『化石』の主人公は、聖堂の中の「古い石で囲まれた空間」で安らかな死の世界を感じ、また、この僧院跡の廃墟の陽だまりの中で「知足」の「生」を感じる。…… パリの病院で、当時は死の宣告・癌に侵されていることを知った、初老の男の物語である。

       ★

< ソーヌ川は流れる >

 フランスでも、日本でもそうだが、街並みの中を流れる川は魅力的である。

 教会の見学を終えたあと、ソーヌ川に向かった。古い街の中の狭い道を歩くと、すぐに川に出た。

 「ぶらぶら歩いて行くと、ソーヌ川の岸へ出た。……水量がゆたかで、川というより運河の感じであった」(同)

   橋があり、その橋の上から、街の風景を眺める。

 ガイドブックには、石灰岩でできたグレー・ピンクの街並みが特徴である、と書いてある。

 しかし、街中を歩いても、ここからの眺めも、やや雑然としていた。

 

    ( ソーヌ川の橋から )

 「やはり、ブルゴーニュの川ですよ。どこか、おうように、ゆったり流れている」(同)

  ブルゴーニュに限らず、ヨーロッパは大地の国である。小麦畑、ブドウ畑、牧草地が広がり、林があり、川が流れ、ゆるやかな丘陵がある。緩やかな地形だから、地平線が見える。ライン川も、ドナウ川も、ロワール川も、地中海或いは大西洋に向けて、ゆったりと流れる。

 日本列島は、7割が山である。山に降った雨は、日本海か、太平洋か、瀬戸内海へ向けて、急流となって流れる。

 ブルゴーニュ人から見れば、「あれは、滝か?」ということになる。

 国民性も、やや、そのきらいがある。お互いに。

 現代社会にスピードは重要だが、一方、大河の流れのように、営々と、積み上げていく視点もまた、必要である。10年や20年や一世代で、何ほどのことができよう。

 

 

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この旅の目的の一つのフォントネー修道院へ … 陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 7

2015年07月22日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

      ( フォントネー修道院正面 )

5月26日(火) 晴れ。

< 各駅停車でモンパールへ >

 快晴にもかかわらず、腰痛の上、お腹の調子も良くない。

 ディジョン駅の売店でドーナツ1個とパック入りの果物サラダを買った。昼食の時間帯は、今日の2つ目の目的地に向かう列車の中だから、これを弁当にする。海外旅行も度重なって来ると、体調が悪くなったら昼を抜く、或いは、ごく軽く済ませたらいいと、コツがわかってくる。

 ディジョン8時29分発の鈍行列車に乗り、9時5分にモンバール駅に着いた。

 モンバールは急行列車も停まる駅だが、無人駅のように小さく、朝の澄み切った日差しの下、駅前広場はがらんとしていた。10台くらいの自家用車が駐車していて、タクシーらしい車も1台あったが、運転手はいない。そもそも人がいない。

 駅の横の小さな観光案内所に入って、アルバイトなのか、ボランティアなのか、感じのいい若い女性にタクシーを呼んでもらう。

 「おはよう。おじさん、元気? お客さんよ」「OK。ありがとう」といったフランス語の会話が、多分、あって、待つほどもなく、物静かな初老のムッシュがやってきた。近くのホテルかレストランのオーナーが、運転手に早変わりして駆けつけたといった風情である。

 モンバールの小さな町の中には、見るほどのものは何もない。郊外まで行けば、フォントネー修道院のほかに、少し遠いが有名なシャブリのブドウ畑がある。フォントネー修道院は自分で言うのも変だが、マニアックだし、シャブリのブドウ畑に観光客が押し寄せるのは、ブドウの収穫期の秋であろう。従って、5月の観光については、アルバイト、ボランティア、その他の兼業で、支えあってやっていくしかない。そんな感じだ。

        ★

フォントネーはこの旅の目的の一つ >

 さて、往復の日数も含めて10日間の今回の旅で、旅の「目的」、つまり、これだけは見たい、(あとは付録みたいなものだ)、という見学先は4箇所である。旅に出るときには、そのように見学対象をしぼる。その町に着いてからも、あれこれの見学先を順番に見て回るより、まずそこを目指す。悔いを残したくないのである。

〇 フォントネー修道院 ( → 26日 )

〇 オータンのサン・ラザール大聖堂付属ロラン美術館にある「イブの誘惑」の彫像 ( → 27日 )

〇 ポール・ベール橋から見るヨンヌ川とオーセールの街並風景( → 28日 )

〇 ヴェズレーのサン・マドレーヌ・パジリカの裏手のテラスから見るブルゴーニュの田園風景  ( → 29日 )

である。

 今日の午前は、いよいよその一つ、フォントネー修道院を見学する。ほぼ完全な形で中世の修道院がそのまま残されているのは、おそらくここだけなのだ。

 ただし、ここを目的の一つに選んだのは、以下のような文章を読んで浪漫的心情をかき立てられたからである。「旅の面白さの半ばは…想像力のつくりだすものである」 (三木清「人生論ノート」)。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』 (講談社現代新書) から

 「ロマネスク聖堂は、何よりも、人里離れた辺境の地にある修道院建築であった」。

 「フォントネー修道院は、ブルゴーニュ地方のソローニュの深い森の中に、静かにたたずんでいる。

 国鉄のモンバール駅から北東に約5.5キロの所にあるが、交通の便はない。駅でタクシーを呼んでもらうしかない。

 修道院までの道は、人けのない、小川の流れる谷間を通る。その景観は素晴らしい。

 修道院は、清らかな小川の流れる谷間にあり、緑の樹々の間に、埋葬されたかのように静かにたたずんでいる。

 修道院は、1118年、厳格な戒律を守った聖ベルナルドゥスによって創設されたが、フランス革命時には売りに出され、現在は個人の所有物となっている」

饗庭孝男 『フランス四季暦』 (東京書籍) から

 「『 フォントネー 』という名前は、本来、『 泉 (フォンテーヌ) 』に発する。その名のとおり清らかな修道院である。 

        ★

フォントネー修道院を見学する >

 フォントネー修道院の前に着いた。

 フランスで初めて、安全運転の、心安らかに乗っていられるタクシーに、今朝は出会った。11時にここに迎えに来てくれるよう頼む。

 門が開く10時まで、しばらく待った。春の朝の抜けるような青空が広がり、光があふれ、小鳥の声と、風が木の葉を揺らす音と、せせらぎの音以外に、人工的な物音は何も聞こえない。時が止まったようだ。

 「ロマネスク聖堂は、何よりも、人里離れた地に建てられた修道院建築であった」。

 ── やさしい、落ち着いたいい色合いの石造りの建物の横に、アーチ型の門があり、門の中の庭には巨木が繁り、緑が豊かであった。

   (フォントネー修道院の入口)

        ★

 やがて門が開けられ、拝観料を払い、綺麗な日本語のしおりをもらって、左へ進む。修道士たちの自給自足の場であるから、パン製造所があり、ハト小屋があり、そして修道院の中でも最も大切な場所である礼拝堂の前に出た。

 思わずうーんとうなる。日本人の感覚では大きな建造物だが、簡素というか、まるで古びた納屋である。普通の聖堂の西正面なら、高い塔がそびえ、聖書の各場面や聖人たちの彫像がうんざりするほど刻まれているが、この聖堂には何もない。

 

  ( 礼拝堂の西正面 )

 内部に入ると、正面、奥の内陣部のみ、異常に光が差し込んでまばゆいばかりであり、その分、そこに至る身廊部はいかにも暗い。

 だが、身廊部を進んでいくにつれて、高い窓から差し込むわずかな光が、古びた石の柱や石の壁をやわらかく包んで、何の装飾も色彩もない石の積み重なりが、どこかやさしく、鄙びた味わいがある。これがロマネスクの空間だ。

 ロマネスク様式の美とは、重厚な石の感覚と、やさしい光と陰とが生み出す、陰影美かもしれない。

 

 (聖堂の身廊部と左手奥の光あふれる内陣部)

   身廊部を進んだ正面、聖堂の内陣部は、なぜか半円ではなく、矩形である。その矩形の石壁に、ここだけには5つの窓があり、そこから光が注ぎ込んで聖なる空間をつくっていた。次の時代を飾るステンドグラスの宝石のきらめきではなく、自然光であるにもかかわらず、十分におごそかで、神秘的で、「神は光である」ことを演出している。

 中学生たちのグループが入ってきた。

 

    ( 内陣付近を見学する中学生たち )

 ヨーロッパのどこへ行っても、私たち日本人が行くほどの所ならば、地元の小学生のグループとか、中学生や高校生のグループならばもっと遠い所から、長期休暇中ならヨーロッパ中から旅の若者たちがやって来て、熱心に「自分たちの文化遺産」を見学している。そこが、日本が見習うべきヨーロッパだ。

 幼少時にはそこで、「この世の中には静かにしなければいけない所がある」ことをしつけられ、成長するにつれて、「私って、何者なんだろう? 」と考える教材が提供される。自文化とその歴史の上に立たずして、アイデンティティが育まれない。

         ★

  内陣部の手前辺り、右側に階段があり、そこを上がると、礼拝堂の南側の建物の2階に出た。

 そこは広々とした部屋で、修道僧たちの共同の寝室だった。一面に藁を敷いた石の床の上に、暖炉もなく寝たらしい。実際に藁が敷かれていて、石の壁に囲まれた冬は、いかにもがらんとして、寒そうだ。

 その1階部分には、僧会の間がある。修道院長のもと、毎日、会議が催され、種々の決議がなされたそうだ。天井は珍しくも木組みである。

 その隣は僧院の間で、修道士たちが写本製作などの作業をしたらしい。ここは、冬に暖房が入る。この部屋に接続して小さな暖房部屋があり、そこから僧院の間に暖房が送られた。

    

   ( 僧院の間 )

  礼拝堂や、僧院の間などがある建物に囲まれて、回廊がある。回廊は、中庭を取り囲むギャラリーで、全ての建物はこの回廊の周りに配置されている。

 修道院の中で唯一明るく、開放感を感じる場所である。

 

   ( 中庭と回廊 )

 修道士たちは外での労働が終わると、回廊の真ん中の噴水で手足を洗い、回廊の壁に配された本棚から本を取って、ベンチに座り読書した。 

 

     ( 回 廊 )

       ★

  修道院の敷地内の南の端には鍛冶作業用の建物がある。53m×13.5mの建物で、一部、2階建て。「工場」と言ってもよい広さだ。

 修道院を見下ろす丘の洞窟から、修道士たちは鉄鉱石を採掘してきて、製鉄し、農機具などを工作したそうだ。

 近くの小川から、この工場の壁沿いに水を引き、大きな水車を回転させて、動力とした。

    ( 水 車 )

饗庭孝男『フランス四季暦』から

 「敷地の右側、川に沿ったところにある、かつての修道院附属工場は、他の修道院もそうであったように、中世において農機具の発明や改良の先進的な技術が生まれた場所であった。

 修道士たちは時代のインテリである上に、勤勉であり、「労働と信仰」という立場からも、また実際に自給自足の生活をし、牧畜や開墾、養魚場をいとなみ、羊毛をつくり出す上からも、研究熱心に当時の技術を改めていったのである。

 彼らが行った開墾は、…… 経済の発展に大きく資したし、また牧畜や農業の経営も、…… 計り知れぬ寄与を成し遂げた。もっとも、次第に余剰が出るにしたがって収入が増え、時にそのために堕落することもあったが、しかし、その働きがなければ、中世経済がはるかにおくれていたことは争えない事実であろう」。

        ★

修道院とは何か、その歴史 >  

 旅に出る前に、あれこれ読んでも、なかなか頭に入らない。

 旅から帰ったあと、読み直してみると、ストンと腹に収まり、よくわかる。

 期待し、わくわくしながら予習しないと、旅の計画は立てられない。

 しかし、旅から帰って、もう一度復習するときに初めて、見てきたものの意味がわかるようになる。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から  

① 529年、聖ベネディクトゥスが、イタリアのローマの南方に小さな石造りの修道院をつくり、清貧、貞節、服従の誓いのもと、神とともに生きる修道士たちの共同生活を始めた。

 彼の弟子たちは、聖ベネディクトゥスの戒律を、フランスやイギリスに広めていった。

 しかし、西欧のカソリック圏につくられた修道院は、ローマ帝国時代以来の地方貴族や大土地所有者たちが、侵入してきたゲルマンの略奪から生命、領土・財産を守るために、修道院を造って修道院生活を始めた……というような例も多かったから、広大な領地を持ち、領民を支配する修道院では、一方でその財力を使って古典文化の保存や学問・技術の発展・深化に貢献したが、一方で世俗化し、奢侈に流れて、真面目なキリスト教徒から批判を浴びる例も多かった。

② そうしたなか、910年、アキテーヌ公ギレギルムスが、ブルゴーニュ地方の人里離れた地・クリュニーに修道院を創設した。

 クリュニー派の運動は、聖ベネディクトゥスの戒律を厳守する修道院改革運動であり、全ヨーロッパに伝播した。

 ロマネスク様式の建築や美術は、この修道院改革運動と時を同じくし、不可分の関係で発展していった。

 ロマネスク様式が最盛期を迎えた12世紀のころには、全欧に1450もの同派の修道院があり、総本山のクリニュー修道院には460人もの修道士が生活し、ローマ教皇も同派から輩出するという一大勢力になった。

 しかし、この運動も徐々に世俗化の道を歩み、総本山のクリニュー修道院も、14世紀には力を失い、フランス革命時に閉鎖され、その後、建物も破壊された。 

③ 1098年、ロベール・ド・モレスムがブルゴーニュ地方のシトーの深い森の中に修道院を創設した。

 クリュニー修道院創設から約200年後の1112年、この修道院に聖ベルナルドゥスが来るや、清貧、労働、瞑想を強調し、厳格な戒律を課すシトー派の勢力が、全欧の精神界をリードするようになる。

 彼は、巨大なクリュニー修道院建築とその豪華な装飾に非難の声をあげ、同派の修道士たちの世俗化、不節制、ぜいたくを批判した。

 フォントネー修道院の遺構は、聖ベルナルドゥスの主張が具現化された、今に残る数少ない文化遺産である。

 ( フォントネー修道院の回廊 )

        ★

 ただ、善悪二元論で、クリュニー派=悪、シトー派=善とするのは、考えものである。

 信仰の純粋さという視点から歴史を語ることに、どれほどの意味があるだろうか? 人間の歴史をキリスト教史観に立って見るわけにはいかない。

 巨大な伽藍や、豪華な装飾や、光り輝く宝石こそ、神に捧げるにふさわしい、とするクリュニー派の美意識は、やがて次のゴシック様式を生み出す原動力となった。巨大な伽藍を造る技術や、近代絵画の色彩感に通じる宝石箱をひっくり返したようなステンドグラスの輝きは、いろいろ批判もあろうが、一方で人類に文化的豊かさをもたらした、と考えることもできよう。

 そもそも最初のゴシック様式は、フランス王家の菩提寺であるサン・ドニ修道院 (現在は大聖堂) の大改修工事から始まった。それは、天才・シュゼール修道院長の頭脳と力量による。彼は、人間性をどう見るかについて、理想主義者ではなく、リアリストであった。改修なった新修道院の正面扉口に刻ませた文章の中に、「愚かなる心は物質を通して真実に達する」とある。人は、天を衝く伽藍や、ステンドグラスの光を見て、初めて天にまします神や、「神は光である」という教えを理解できるとのだと主張したのだ。(このあたりは、当ブログ「フランス・ゴシック大聖堂を巡る旅 9」を参照 ) 。

 このサン・ドニ修道院が完成したのは1144年。ロマネスク様式の最盛期であり、当然、シトー派の、あの厳格な聖ベルナルドゥスからの批判にあうが、シュゼールはこの批判を巧みに受け流した。

 一方、純化された信仰の持ち主である聖ベルナルドゥスは、十字軍を興し、異教徒どもを殺し、聖地を奪還せよという、「聖戦(ジハード)」の強い主張者になり、聖職界に重きをなしていったのである。

        ★

西ヨーロッパにある二つの生き方 >

 この二つの考え方・価値観・生き方は、ヨーロッパにおいて、今もある二つの大きな流れ、底流のような二つの流れに行きつくように、私には思える。

 美しい偶像や、天を衝く伽藍や、楽しいお祭りや、気高い教皇様があってこそ、弱い人間も神を信じ、神とともに日々楽しく生きることができるというカソリック的な考え方と、神の言葉は聖書にのみあり、聖書以外のあらゆる権威 ── 教会も、偶像も、教皇も ── 全て打ち倒さねばならないというストイックなプロテスタンティズムの考え方である。

 それは、フランス、イタリアなどのいわゆる地中海・ラテン系の文化圏と、ドイツ、北欧などの北方・ゲルマン系の文化圏との違いでもある。

 例えば、破産状態のギリシャに対して、ドイツは、徹底的な緊縮財政を断固として要求する。許せない。 貧乏人は、もっとストイックに暮らすべきだろう自立せよ、この怠け者

 しかし、ギリシャのお蔭でユーロの値が下がって、今、EUの中で一人勝ちして、笑いが止まらないのもドイツである

 一方、ギリシャも必死に努力して、去年、今年の収支はほぼ均衡するまでになった (日本はまだそうなっていない)。ここまで努力したんだから、「カネは天下の回りもの」。借金なんて気にせずに、もっと積極財政・成長戦略をとれるよう、EUで支援するべきだヨネ。本当は徳政令を出してやるべきヨ。緊縮・縮小ばかり要求していたら、産業はますます衰退し、失業者はさらに増え、国民は小銭をタンス預金して、市場にカネは出回らず、税収はさらに減り、それで、あの莫大な借金を返せるはずがない、というのが、フランスやイタリアである。アメリカもそうすべきだと言っている。

 だが、向かうところ敵なし、意気盛んな一人勝ちの大金持ち、「ストイック・メルケル」を抑えることは、フランスにも、イタリアにも、他の小国にはもちろん、できない。

     ★   ★   ★ 

 ちょっとあわただしい見学であったが、約束の11時に門の外に出ると、タクシーが待ってくれていた。当然、朝のムッシュと思いきや、女性の運転手だ。奥さんではない。娘さんかな? 或いは、ご近所さん?

  モンバール駅に戻って、12時5分発のトゥルニュー行きを待つ。

 時間があったので、駅からぶらぶら歩いてみた。5月の日の光と青空以外に、これというものもない田舎の町だ。

 小さな運河があり、その土手のベンチで風に吹かれる。たまに散歩するお年寄りを見かけるぐらいで、静かに時が流れていた。

 

   ( 運河の畔で )

 

 

 

 

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日本のロマンティシズムと永世中立国スイスのリアリズム … 陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅5

2015年07月20日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

     ( レマン湖畔 )

 初めてヨーロッパ (ドイツとフランス) に旅行したのは、1995年(平成7年)のことである。公的な視察団の一員だった。

 ドイツでの研修を終えて、フランスに移動するとき、たった1泊だが、ジュネーブに立ち寄った。

 ベルリンの壁の崩壊が1989年(平成元年)、ソ連の崩壊が1991年(平成3年)。東西冷戦が終結するという世界史的な大激動を経て、東欧圏の元ユーゴスラヴィアが四分五裂し、民族間の憎悪が憎悪を呼び、砲火が絶えず、ドイツもフランスも難民の受け入れに追われていた時代である。

 一行はチャーターしたバスの中から、国際連合ヨーロッパ本部や、赤十字国際委員会、国際労働機構(ILO)、世界保健機構(WHO)など、高校時代にその名を教わった施設を車窓から見て回った。

 スイスという小国の、ジュネーブというローカルな1都市に、主要な国際機関が集中していることに改めて驚かされた。

 旅行に出る前、にわか勉強で読んだ本の中に、犬養道子『ヨーロッパの心』 (岩波新書)があった。そのなかのスイスの章には、このようなことが書かれていた。

 「九州ほどの山岳国。……22の万年雪の大きな峠、31の小さな峠。無数の非情な谷。… 見た目は緑で美しいが、実は何も産しない痩地草原地帯 (アルプ) にばらまかれた3072の共同体 (ドイツ語圏でゲマインデ、フランス語圏でコンミューン)。例えば、我が家から2キロ先のジュネーブ(市)は、38のコンミューンから成っている。一応、ジュネーブ圏内コンミューンゆえ、住人はジュネーブ人と呼ばれるが…… 」。

 「ジュネーブ市民」という市民はいない。いるのは38の各コンミューンに所属する市民。

 「万年雪の峠」や「非情な谷」に閉ざされて生きてきたスイスでは、「共同体」を作って助け合い、自己完結的に生きていかなければ生きられなかった。各家庭の中は各自の勝手(個人主義)。しかし、一歩家を出れば、そこには共同体があり、生きるために各自がその一員として責任を果たし、助け合う。

 こうして、「スイス人」の自主自立の精神、市民精神が育った。

※ 菅直人の言う西欧型「市民」── 政党や労働組合などの組織に属さず、個人として、反体制、反権力で行動する人、という「市民」イメージとは、かなりかけ離れている。

        ★

       ( レマン湖畔 )

 しかし、犬養道子氏の本よりも、ジュネーブの街の中を走る観光バスの中で、博学の添乗員M氏やジュネーブ在住の日本人ガイドのマダムからスイス及びジュネーブについて受けたガイダンスは、当時の無知な私にとって、さらに新鮮であった。    

 「スイスは永世中立国。しかし、日本と違って、自国を守るために、18歳から53歳までの男子による国民皆兵制度を取っています」。

 「彼らは、月1回、実施される射撃訓練に参加します」。

 「各家庭には、ライフルと銃弾が支給され、いざというときには、それを持って集合します」。    

 「スイスにも、殺人や傷害事件はありますが、支給された銃、弾薬を使った犯罪は、今まで1件も起こっていません」。

( 家には支給されたライフルがあるのに、わざわざ自分でピストル或いはナイフをどこかで調達して犯罪を犯すスイス人……という、律儀な犯罪者のイメージが浮かんで、ちょっと笑ってしまった )。

 「東西冷戦が終結した今の時代に国民皆兵制度は不要とする憲法改正案が出されましたが、僅差で否決されました」。

 「政府は戦争に備えて、1年分の食料を備蓄し、1年たつと、市場に出します。ですから、スイス国民は、美味しい『新米』を食べるということについては、我慢しています」。

 「核攻撃に備えて、新しいビルや家を建てるとき、その地下に必ず核シェルターを造ることが義務付けられています。この法はベルリンの壁が崩壊した今も継続しています。今、走っているこの美しいジュネーブの街の建物の下にも、『市民』が逃げ込めるだけのシェルターがあるはずです。スイスの核シェルターは、アメリカやソ連のそれらを、質量ともに上回ると言われています」。

 スイスが非武装中立でないことは知っていた。しかし、「永世中立国スイス ── 平和を希求する牧歌的な美しい国 ── 」というイメージが強かった。だが、話を聞いてみると、その立ち位置は、日本国憲法下の日本とは180度異なっていた。

        ★ 

 

 ( ローザンヌの大聖堂 )

 あの視察旅行から年月がたち、世界は変化し、スイスも変化した。ここに改めて、永世中立国スイスの現状を簡潔に記す。 

<スイスの兵役について>

〇 東西冷戦体制の崩壊以後、スイスの皆兵制度は見直され、国民の兵役負担の軽減が図られた。その概要は以下のようである。

〇 19~20歳になると、男子(女子は希望者)は初年兵学校で15~17週間の新兵訓練を受けなければならない。そのときに受領した自動小銃は、自宅に持って帰って格納する。2007年から、弾薬は軍が集中管理するようになった。

〇 初年兵学校を終えると、予備役という有事動員要員として、20歳~42歳の22年間の間に、年3週間の訓練を10回受ける。

〇 新兵訓練、予備役の訓練は、たとえ海外で生活していても、帰国してを受けなければならない。拒否すれば、スイス国籍を剥奪される。

〇 一般に、日本と違って、スイス憲法の改正は容易であり、10万人の改正要求があれば国民投票が実施される。実際、憲法改正の多い国で、全面改訂された現行の1999年憲法も、その後の3年間で6回も改訂された。

 兵役についても、近年は他国から現実の脅威にさらされているわけではなく、カネの無駄遣いだとして、国民の一部から徴兵制廃止を求める声が出、2013年6月に国民投票が実施された。が、結果は反対多数で徴兵制廃止は否決された。

<スイスの国軍について>

〇 スイスの国軍は、職業軍人約4000人(将校と下士官)と予備役によって構成されている。有事に、即時(48時間以内に)、動員される予備役兵は約40万人と言われる。(注: この項、資料によって多少の違いがある)。

〇 スイスの軍備は、陸軍を中心とし、(空軍も陸軍に所属)、スイスの持つ技術力を生かして、かなり強力である。戦車や装甲車、砲など、やや古くなった日本の陸上自衛隊の装備を、質・量において上回るとも言われる。

<スイスの防衛体制について>

〇 他国での武力行使は一切禁止する永世中立国である。しかし、一旦、自国が有事の際には焦土作戦も辞さないとする国家意思を表明している。永世中立という立場は、このような毅然とした態度があって、初めて堅持される。

〇 軍事基地は岩山をくり抜いた地下に建設され、高度に要塞化されている。有事の際にはいつでも国境のトンネルや橋を爆破して国境を封鎖する態勢にあり、国境を突破されても主要な道路には、戦車を阻止する障害物やトーチカが常設されている。

〇 個人の住宅も、腰から下の壁は小銃弾の貫通に耐える強度になっており、家を建てる方向も、有事の際に監視できるよう、陣形的な形で計画的に配置されている。

〇 核シェルター設置法は、2006年に終了した。今、各自の家に核シェルターはほぼ100%完備し、有事の際、男子が出征した後の家庭の安全の拠り所となっている。 

〇 食料の1年間の備蓄制度は今も保持されており、そのため、スイスのパンは不味いという評判はかなりある。 

〇 仮に外国の軍隊の侵攻を防げず、スイスの存立が絶望的となる局面に陥ったら、外国軍隊がスイスのインフラを強奪し、使用することができないよう、火を放ち、爆破するなどの焦土作戦を行う。

〇 ただし、全土が占領されても、絶対に降伏はしない。全土が占領されるときには、亡命政府の存立のために、しかるべき国の銀行に資金を送る。   

     ★   ★   ★

    ( レマン湖畔を行く列車 )

  戦後日本とスイスとの、平和に関する立ち位置の違いは大きい。

 日本国憲法前文には、「日本国民は、…… 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。その上で、9条がある。

 憲法下の戦後日本の立ち位置は、性善説に基づいた楽天主義、理想主義、浪漫主義だと言ってよいだろう。

 一方、スイスは、人口711万人(日本の17分の1)、国土は九州程度の小国であり、周囲をドイツ、オーストリア、イタリア、フランスという大国に地続きで囲まれている。

 第二次世界大戦のときのことだけ考えても、フランスがナチスドイツに降伏し、その結果、ドイツ、オーストリア、イタリア、降伏フランスという枢軸国に包囲されて、強い圧迫を受けた。戦争末期には、その隣国ドイツ、オーストリアに、遠くソ連軍が大挙して侵攻してきた。

※ スイスと同じく永世中立国と認められていた武装中立のベルギーも、非武装(軍隊を持たない)中立のルクセンブルグも、二度の大戦において、侵略・占領された。それ以前で言えば、国力衰えたヴェネツィア共和国は非武装中立を宣言していたが、ナポレオンによっていとも簡単に侵略・占領され、服従させられた。先日、テレビを見ていたら、沖縄の元国会議員がテレビに出て、「軍隊がいるから攻撃される。軍隊がいなければ攻撃されることはない」と言っていたので、念のため。

 小国スイスの立ち位置は、その長い歴史から、性悪説に基づいた徹底したリアリズムである。(各家に自動小銃を渡すのだから、国内に対しては徹底した性善説であるが)。

 非同盟中立政策を貫く以上、頼れるものはない。孤立無援。甘えが許されないことを国民は知っている。故に、自分の目で世界の情勢と近隣国の変化を注意深く見、自分自身の頭で冷静に判断する。もし、侵攻してくるものがあれば、それがどんなに強大な敵であっても、国土を焦土にしても戦い、降伏することはない。それは、現在の国民のためだけでなく、千年間、このスイスを守ってきた祖先と、未来を生きる子孫のためである。そう決意を表明しているのがスイスであり、スイスのリアリズムである。

       ★

 慶応大学准教授・神保謙氏の「空と海、将来は中国優位」(6月25日、讀賣新聞)から

「中国の国防費は年十数%のペースで伸びており、海洋進出を止めるのは難しい。戦闘機や艦艇の建造、ミサイル増強を含めて、中国は将来、日本に対して優位に立つだろう。日本はいつまでも『航空・海上優勢』を保つことはできなくなる。台湾は既に航空優勢を失った。ミサイル防衛も難しい。今は『負けても、中国に完勝させない』という、劣勢を前提にした兵器体系に変わっている。台湾の安保政策は、日本の5年後、10年後の防衛政策の参考となる。深刻な事態には米国に対応してもらわなければならない。そのためにも、日本が協力できる態勢をつくらないといけない」。

      ( レマン湖畔 )

       ★

 いずれ近い将来、近い将来であるが、日本も、大国中国の前には、小国になる。

 東西冷戦時代には、ソ連の軍用機がしばしば日本に向かって飛んできて、航空自衛隊はその都度スクランブルをかけなければならなかった。しかし、アメリカの核の傘のもと、いざというときにはソ連のアジアに配置された全空軍を迎え撃つだけの空軍力を、航空自衛隊は持っていた。

 今、日本列島の周りを中国の軍艦や軍用機が「わがもの顔に」遊弋する時代が来ようとしている。しかも日本は、いざというとき、これを撃退するだけの空軍力、海軍力を持てなくなる日が来る。

 小国の取る手は、二つしかない。

 「負けても、相手にいやというほど打撃を与える焦土作戦」、「全土を占領されても、絶対に降伏しないという気概」。だから、うかつに手を出せないと思わせる。つまり、 スイスや台湾のやり方である。

 小国ヴェトナムはそのような態度で、今、現在、中国の侵略に対して、必死に対抗している。

 もう一つの手は、集団安全保障である。アメリカとは言うまでもなく、オーストラリア、ヴェトナム、フィリピン、さらにはインド、裏側に回ってトルコなどとも手を結び、考えを共有して、覇権を目指す大国に対抗する。

 先日、フィリピンの大統領は日本を訪れ、ヴェトナム共産党の書記長はわざわざアメリカに渡って、オバマと握手した。

 憲法学者が、書斎で、ご神体を日本国憲法とし、日々、その一言一句を諳んじるほどに研究し、平和を念じるのは、それはそれで結構である。ただし、それを学問とか、社会科学とか、そういう言葉で呼べるかどうかは、別である。

 評論家が、「わかりますけど、それならまず憲法を改正するのが先でしょう」と、形式主義の議論を展開するのも、それはそれで結構である。彼らのメシの種だから。

 しかし、日本国の独立と安全に責任を持つべきプロフェショナルな政治家が、リアリズム精神を失い、現実に対応しようとする意思をもたず、国会で、ロマン主義や形式主義の議論ばかりしていたら、日本国は危ういと言うべきである。

 政治家とは、現在、そして、近い将来、この国の安全を根底から脅かす可能性のある勢力はどこにいるのかをしっかり見極め、その勢力の現在及び将来の力量を測り、それでは今、何をすべきかを考え、議論する、そういうことを仕事とする人たちのはずである。

  それにしても、まず、この国の主権者と言われる人たちが、もう少し成熟する必要があります。

 

 

 

 

 

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ブルゴーニュ公国の都ディジョン……陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 6

2015年07月15日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

   ( ホテルの窓からギョーム門付近 )

ディジョンへ >

 5月25日(月)。曇り。

   スイスのローザンヌからTGBで2時間 …… 日本ではボジョレーヌーボーやシャブリなどのワインで有名なブルゴーニュ地方にやってきた。

 ブドウ畑があり、小麦畑が広がり、牧草地には牛の群れ。林の中には鈴懸の木が小さな白い花をつけ、小さな村と教会の塔。そして、丘の上には白い雲。

 今日から、その中心都市、人口15万人の県都ディジョンに3泊して、ブルゴーニュ地方を回る。

 駅から重いスーツケースを引いて10分少々。タクシーに乗るには近すぎ、歩くには腰痛持ちには遠すぎる所にホテルをとってしまった。

 旧市街の入り口にギョーム門がある。

   ( ギョーム門 )

 この門から、ディジョン第一の繁華街リベルテ通りが、ブルゴーニュ大公宮殿へと続く。ホテルはこのギョーム門を入ったところの広場に面していた。 

        ★

サン・ベニーニュ大聖堂のクリプト(地下祭室) >

 ディジョンは、かつてブルゴーニュ公国の都であった。

 ブルゴーニュ公国は、1363年から1477年、4代に渡って、この地・ブルゴーニュ地方から、遠くフランドル地方(現在のベルギー、オランダ)までを領土として栄えた。その最盛期にはフランス王国をしのぐほど豊かであったと言われ、建築や美術の華が開いた。

 その後、男子の後継者が絶え、婿に入ったのがハブスブルグ家の嫡男である。ハブスブルグの繁栄は、豊かなブルゴーニュ公国を受け継いだ結果でもある。

 今はもう、かつての華やかさはない。だが、石造りの古い建物が並び、あちこちにかつての繁栄のあとをとどめるように大寺院が建つ。

 それらの中でも最も重要な教会が、ホテルから徒歩5分の距離にあるサン・ベニーニュ大聖堂でだ。

 歩いて行くと、この町で一番高いという大聖堂の塔が見えてきた。

  ( サン・ベニーニュ大聖堂の塔 )

 ゴシック様式である。

 ゴシック様式は、ロマネスク様式の後、フランス王家の菩提寺であるサンドニ修道院に始まり、列柱が森の木々のように高くそびえる巨大な伽藍とステンドグラスの窓を特徴として、パリ、シャルトル、ランスなど、王家の領土の都市に建設されていった。やがて、フランス諸侯領の都市へ、さらにドイツ、スイス、フランドル地方、スペインなどへと波及していく。(当ブログ「フランス・ゴシック大聖堂を巡る旅」参照)。

 そのようなゴシック様式の大聖堂のなかで、サン・ベニーニュ大聖堂は、伽藍の大きさやステンドグラスの美しさにおいて、パリやシャルトルを超えるものではない。

 

  ( 身廊とステンドグラス )

   たが、ガイドブックによると、この大聖堂で必見とされるのは、ゴシック様式の地上部分ではなく、地下のクリプト (地下祭室) である。

 受付の柔和な感じのおじさんにクリプトへ降りる入場料を払い、日本語の手作りの説明チラシをもらった。日本のツアーがめったにコースに組み入れないこのローカルな大聖堂の日本語説明チラシが、英語やドイツ語やイタリア語とともに用意されているということは、個人で、ここまで遥々と見学にやってきた日本人がたくさんいたということであり、ちょっと感慨深い。

 興味津々、暗い地下へ降りて行く。

 

  ( 本当はもっと暗いクリプト )

 ほのかな明かりが灯されただけのクリプト内部は、深い陰影部が多く、そこに石棺があったり、井戸があったりする。中央の祭室は円形で、椅子だけが並べられて人けはなく、黒いフードに黒マントの男たちによる黒ミサが、今にも行われそうな雰囲気でかなり不気味だった。

 出発する前にガイドブックを読んでもよくわからず、受付でもらった日本語チラシの説明も、かなりたどたどしい日本語で、それでも帰国して2度、3度読み直して、やっと、そこがどういう所かわかってきた。

 その歴史は、フランスのキリスト教史の流れと軌を一にするもので、例によって紅山雪夫氏の著書『 ヨーロッパものしり紀行──建築・美術工芸品 』も参考にして記述すると、以下のようになる。(自分の頭の整理のための記述です。読み飛ばしてください)

① ガロ・ローマの時代に、今は大聖堂の名になっているベニーニュという宣教師が、キリスト教の布教にやって来て、この地で殉教した。死後、ローマ教会によって聖人とされ、名の前に「サン」が付けられた。その墓には小さな霊廟が建てられた。

 ※ ガロ・ローマの時代 : ガロはガリア。ガリアはフランス、或いは、フランスに住んでいたローマ以前からの先住民。諸部族に分かれていたが、BC1世紀、カエサルのガリア遠征でローマに帰属。ガロ・ローマ時代は、西ローマ帝国滅亡までの、ガリア文化とローマ文化が融合した時代を言う。

② 1001年~1026年に、すでに廃墟となっていた霊廟の上に、ロマネスク様式の立派な聖堂(パジリカ)が建てられた。その構造は、地下部分はサン・ベニーニュの霊廟で円形。霊廟の地上部には円形の建築が乗り、その円形建築を後陣として身廊部が造られて、パジリカになっていた。

 今、見ているこの円形のクリプトは、このとき造られたロマネスク様式の円形建築の地下部分の霊廟に当たる。しおりには、「この円形建築はロマネスク芸術の傑作です」と書かれていた。

 円形のクリプトの石柱の天井に接する部分には、写真のような柱頭彫刻があった。しおりには、「中世の名も知れぬ芸術家は、祈祷を捧げる人、つまり、腕を上げ、空を仰いでいる人を表現したかったのです」とあった。まことに素朴なロマネスク彫刻である。

   ( 柱頭彫刻 )

 ※ パジリカ : ローマ時代からあった建築様式で、身廊と側廊をもち、平面が長方形の建築物。この形式で建てられた教会は、一般の教会よりも格式が高かった。

 ※ 後陣 : アブス。パジリカのいちばん奥にある半円形のでっぱり。ローマ時代のパジリカにもあったが、のち、キリスト教会では、この部分をキリストの頭、身廊部をキリストの体に見立てるようになった。大聖堂(カテドラル)の場合には、ここに司教座 (カテドラ) が置かれた

 ※ 円形の建築物 : 長方形のパジリカ様式に対して、「集中式」と呼ばれる円形の建築様式。神々を祀るローマのパンテノン神殿はその典型。その後、キリスト教では洗礼堂とか、エルサレムの聖墳墓教会や、ラヴェンナのガッラ・プラチィーデアの廟など、聖人の遺骸を納める霊廟として建てられた。   

 ※ ロマネスク様式 :

   蛮族の侵入による西ローマ帝国の崩壊後、西ヨーロッパは長い暗黒の世紀を経ることになるが (6世紀~10世紀)、ようやく10世紀の後半、農業の生産性が上がり、暮らしにゆとりが生まれ、手工業や商業が復活し、大型の諸侯が現れ、国王が強い権力を握るようになっていった。こうして蓄積されたエネルギーが、10世紀末からの教会建築ブームを呼び起こす。国王、貴族、民衆は、それまでの粗末な教会を打ち壊し、競って最新の様式による大パジリカを建造していった。その中心にいたのが、度重なる寄進を受けて財力を増やした修道院、なかんずくクリュニー派の修道院であった。

 この、10世紀末に起こり、11~12世紀に西ヨーロッパの全域に流行した建築様式がロマネスク様式と呼ばれる。

 ロマネスク様式とは、「ローマ風の」という意味だが、この呼び方が生まれたのは後世(18世紀)のことで、ローマ時代の建築法が使われ、全体的にローマ風の重厚な趣があったことによる。

 この頃、聖地巡礼が流行り出す。ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂は、殉教者・サン・ベニーニュの遺骸を納めた聖堂として、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラに行く  ( 当ブログ 「冬のンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行」 を参照 )  巡礼者たちが立ち寄る巡礼路の一つとなり、賑わった。

 

         ( 考古学博物館 )

 現在、大聖堂の敷地内にある考古学博物館は、ガロ・ローマ時代の素朴な彫刻やロマネスク時代の柱頭彫刻などが展示されて面白かったが、建物自体も10世紀のクリュニー派の修道院を改造したもので、風情がある。

③ 1270年、ロマネスク様式のパジリカが倒壊し、円形建築だけが残った。

  その跡地にゴシック様式の大聖堂が建築された。現在の大聖堂である。

④ 1789年~1793年のフランス革命のときに、ロマネスク様式の円形建築の地上部分が破壊され、地面の下に埋もれていた円形建築の地下部分はその存在すら忘れ去られていた。が、1860年ごろから発掘・調査・再建されていった。

 篠沢秀夫『フランス三昧』(中公新書)には、フランスの歴史学界で進められている「フランス大革命」の見直しが紹介されていて、たいへん面白いが、その中で、篠沢先生は、フランス革命の矛先は、王侯貴族よりもむしろ教会であったと述べている。

 ※ ついでながら、篠沢先生の著書、『愛国心の探求』(同)も、ヨーロッパにおける第二次大戦が何であったかを説いて、目を開かれる。

 いずれにしろ、暴徒と化した革命派民衆は、ほとんど無意味に(ルイ16世は早くに彼らの政治的要求のほとんどを承認していたのに)、多くの人間を殺し、文化財を破壊した。それは、現代のタリバンや「イスラム国」と変わりない。これも、また、フランスの歴史の1ページである。

 実際、あの「アヴィニヨンの幽囚」で有名なアヴィニヨンの教皇庁も、百年戦争のとき浮沈戦艦のようであった「モン・サン・ミッシェル」も、フランス革命のときに破壊されて、見学しても、中は空っぽである。わずかに残る彫像や絵も、顔を削り取られたり、落書きがあって、すさまじい。

 

   ( アヴィニヨンの教皇庁 )

         ( モン・サン・ミッシェル )

     ★   ★   ★

ブルゴーニュ大公宮殿 >

 ギョーム門から、ディジョン一の繁華街と言われるリベルテ通りを歩く。

 「ディジョン一」と言っても、人口15万人の都市では、花のパリのような賑わいはない。数人の移民系の若者が通りにたむろし、ペットボトルを投げて大型犬に取りに行かせ、犬がウインドショッピングして歩く通行人の間を疾走していた。

 ブルゴーニュ大公宮殿は、現在、左側が市庁舎、右側が美術館になっている。真ん中の塔に上がれば、ディジョンの街並みが一望できると書いてあるが、あいにくひどい腰痛である。

 

     ( ブルゴーニュ大公宮殿 )

 ( サン・ミッシェル教会 )

  さらに先に足を伸ばすと、「レストランMASAMI」という日本人ご夫婦の営む和風レストランがある。

  夜、遠かったが、もう一度、リベルテ通りを歩き、久しぶりに和食をいただいた。日本のよく冷えたビールも、燗酒も、刺身も、生気がよみがえるほどに美味しかった。

 

 

 

 

 

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レマン湖畔の散策(鈴懸の花の旅)……陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 4

2015年07月04日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

    ( レマン湖のフランス側を望む )

 東西に長い三日月形のレマン湖。

 ── その北側はスイス領で、ゆるやかな丘陵が続き、南向きに開いて明るい。

 一方、レマン湖の南側のフランス領は、グランド・ジョラスやモン・ブランなど4000m級の山々から続く岩山がレマン湖に向かって一気に切れ落ち、湖に神秘的な陰影を映し出している。

 ローザンヌは、東西に長いレマン湖の真ん中あたりに位置する。

 ローザンヌの鉄道駅は、湖に向けてなだらかに落ちていく丘の中腹にある。旧市街はこの鉄道駅から上の方に広がっていて、湖を下方に望む街だ。上下は地下鉄(ケーブルカー)で結ばれており、鉄道駅からさらに下って湖畔まで下れば、レマン湖遊覧の船の出入りするウシー港がある。

 「ゆるやかな丘陵」と言ったが、駅からわずか300mほどの所にあるホテルまで、重いスーツケースを引いて上るのはかなり大変だった。目にはともかく、自分の足で歩いてみれば、急坂の街である。

 ホテルに荷物を預け、今度は坂道をとっとと下り、鉄道駅から出ている地下鉄に乗る。

 ガイドブックには「地下鉄」と書いてあったが、(実際、地下鉄なのであろうが)、斜度はケーブルカー並みで、車窓の景色も、椅子に腰かけた感じも、ケーブルカーである。

 2駅目で降り、そこからさらに上へと歩いて行くと、旧市街の中心、ノートルダム大聖堂に出た。

 

      ( 石段を上がれば大聖堂 )

 大聖堂の前はテラスになっていて、ローザンヌの街並みや、その向こうのレマン湖の展望が良い。

 

        ( テラスからの眺め )

 ローザンヌは都市としてはジュネーブよりもずっと小さく、IOC本部やローザンヌ大学があり、落ち着いたたたずまいの町だ。

 ローザンヌのノートルダム大聖堂は、スイスで最も美しい教会と言われている。

 扉が閉じられているのは、日曜日のミサが行われているからだろう。大聖堂の周りを一周して、いろんな角度からその姿を眺める。塔も建物も、他の建物に隠れたり、一角が見えたりと、さまざまに表情を変える。この時代に建てられたゴシック様式の大聖堂は、フランスでも、ドイツでも、スイスでも、とにかく大きい。

  

  ( 大聖堂の外壁 )

 中に入ると、いかにもスイスらしいすっきりとした端正なたたずまいで、パイプオルガンは大きく、ステンドグラスも美しかった。ただ、パリのノートルダム大聖堂やシャルトルの大聖堂のような圧倒的な美しさはない。

        ★

 地下鉄に乗って一気に湖畔 (ウシー地区) まで下り、「レマン湖汽船会社」のチケット売り場で、ローザンヌ・ウシー15:30発、Qully16:03着のチケットと、帰りのQully17:56発、ローザンヌ・ウシー18:32着のチケットを買う。

 Qullyまで、列車なら何本も出ているし、各駅停車で2駅の距離だが、あえて、日に2本しかないレマン湖を行く遊覧船を選んだ。

 船で対岸のフランスの町、エヴィアンに渡ってみようという観光客も多い。エヴィアンは、ナチュラル・ウォーターで世界的に有名な、あの「エヴィアン」である。エヴィアン行きの船は遊覧船ではなく、朝夕、フランス側から働きに来て帰る、通勤客用の定期便である。

 遊覧船の時刻までずいぶん時間があり、湖岸の公園のベンチに座って、のんびりと1時間半。湖を渡る風に吹かれ、美しい景色を見て、船のやってくるのを待った。

 やがて、レマン湖の東端、モントルーからやってきた大きな遊覧船が、大勢の観光客を降ろし、再び我々を乗せて、モントルーへ向けて出航した。

 

   ( レマン湖遊覧船 )

 船から眺める湖岸の風景は、今まで見たヨーロッパの風景の中でも、最も美しい景色の一つだった。

 南向きの低い丘陵にはブドウ畑が広がり、そのブドウ畑の中を玩具のような列車が走り、湖畔にはロマンチックな別荘があり、ヨットが浮かんでいる。チャップリンやオードリー・ヘップバーンが、人生の最後の年月を、ハリウッドを捨ててこの地で過ごしたのもわかるような気がする。 

 ( ブトウ畑の左上に小さく列車 )

        ★ 

 Qullyの船着き場に着いて、村の中の道を歩き、丘に広がるブドウ畑の中の小道をレマン湖を見下ろしながら散策した。

    ( 村の中の道 )

   ( ブドウ畑の道 )

 日々、雨や風や太陽や霧の心配をしながらブドウを育て、秋にはその実を収穫し、さらに美味しいワインを作っていく作業は大変であろうと思う。思うに任せぬ自然を相手にし、収穫時には多くの人手も必要とする。

 そうした努力の甲斐あって、このあたりの民家はオシャレで、ホイリゲの看板を出した家もあり、落ち着きと豊かさを感じる。

 しかし、遊覧船から眺める「景色としてのブドウ畑」は絵のようだが、こうして丘の斜面に整然と、「人工的に」広がるブドウ畑の中を歩いてみると、遠い昔にこの丘を切り開いた人々の労苦が思われた。

 その昔、この丘の斜面にもあちこちに巨木が立ち、岩が大きな根を張っていたことだろう。農民として、湖と丘陵しかないこの土地に住み着いた人たちは、この痩せた斜面を、主食である小麦畑にすることはあきらめて、毎年、少しずつ少しずつ、斜面を切り開いていったのであろう。それは命を削るような激しい労働であり、それが何世代も続いて、やがて、いつのころか、今日見るような、世界遺産に指定される、美しく、豊かな、「ラヴォー地区」になった。

 植えられて間もない若いブドウの木々の整然と並んだ姿や、広大なブドウ畑の広がりを眺めながら、昔、この土地を切り開いた人々の貧しさや、日々の肉体的苦痛や、その粘り強い我慢強さに、なぜか思いを馳せてしまった。そういう労働の中から、領主ハブスブルグ家に歯向かってスイスの独立を勝ち取ったウィリアム・テルのような男も出たのであろう。

        ★

 船着き場に戻り、船を待った。

 船着き場の付近も……、湖が広がり、巨木が繁り、ベンチがあり、旅の若者たちのグループが散策していて、絵葉書のように美しかった。

 叢のなかの小さな黄色い野の花はタンポポだとばかり思っていたが、近づいてよく見ると、小菊の一種だった。スイスでも、フランス・ブルゴーニュでも、この旅でよく見かけた。

 それに、この旅の間、満開のプラタナスの花 (鈴懸の花) を、訪れた町の並木の中や、田園地帯を行く列車の車窓から、さらにはパリのセーヌ河畔やサンジェルマン・デ・プリの広場でも、本当にしばしば行く先々で見かけた。美しい花ではない。目立たない。だが、「鈴懸の花の旅」であった。

    ( Qullyの船着き場 )

         ★ 

 再び遊覧船に乗って、ローザンヌのウシーに着いたのは6時半。日没は9時半だから、まだまだ明るい。

    ( ウシー港 )

 のんびりした計画を立てたつもりだったが、今日はジュネーブ、ローザンヌ、Qullyの3か所を回り、歩いた歩数が2万5千歩。翌日から、腰痛、膝痛に苦しみ、帰国後の今も、痛みは続いている。

 旅行社のツアーに入れば、バスで目的地から目的地へ連れて行ってくれる。

 だが、個人旅行では、どこへ行くにも、駅からはテクテクと自分の足で歩かなければならない。もう若者のようにはいかないようだ。

 

 

 

 

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