(「伊太祈曽」駅)
<伊太祁曽(イタキソ)神社と五十猛命(イタケルノミコト)>
「伊太祈曽」駅は、貴志川線に乗って「和歌山」駅から8つ目、「竈山」駅からは4つ目。この駅から先、行き違いのできる設備がないので、上下列車の交換はこの駅で行われるそうだ。
駅に案内掲示板があった。
(伊太祈曽駅の案内掲示)
あれっ!! 駅名と神社名 … 漢字が違うようだ。読み方も、清音と濁音の違いがある。
「祈」への駅名の変更は、南海電鉄から和歌山電鐵へ譲渡されたときに行われたらしい。
「祁」は読みにくい。ふつう、まあ、誰も知らない漢字だ。それで、音が通じる別の漢字にしようと検討し、そうはいっても神社への遠慮もあって、「祈」という敬虔な感じの文字を選んだ、ということだったのかな??
「祈」と「祁」は音は通じるが、意味はどうなのだろうと、念のために漢和辞典で調べてみた。
ぜんぜん違う。「祁」は「大いに、さかんに」の意。
伊太祁曽神社の祭神は、スサノオの子の五十猛(イタケル)命。さらに、その妹の大屋津比売(オオヤツヒメ)命と都麻津比売(トマツヒメ)命を祀っている。
小学館刊の『日本書紀』の頭注によると、「五十猛(イタケル)」の「五十」はイと訓み、多数の意。「猛」はタケルと訓み、「武」と同じで、勇猛の意とある。さらに、「伊太祁曽神社」の「伊太祁」(イタキ)は、「五十猛(イタケル)」と同義であろう、とあった。「大いに勇猛なる」神様を祀る神社である。
高天原では暴れん坊で姉のアマテラスを苦しめたスサノオの子らしい名だが、『日本書紀』が伝える神話によると、イタケルは名前のイメージからはちょっと想像できない神様だった(後述)。
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<木の神様に参拝する>
駅から神社までは徒歩5分。近い。
小さな流れの和田川を渡ると、一の鳥居があり、神社の参道に入る。
(石の一の鳥居)
進んで行くと、木の鳥居があり、その向こうに門が見えた。
(白木の鳥居)
(木祭りの幟)
黄色い幟(ノボリ)が立てられている。「木祭り」は毎年、4月の第1日曜日に行なわれ、全国の木材関係者をはじめ、一般の崇敬者も集って、樹木の恩恵に感謝する祭りのようだ。
お堀の赤い橋を渡ると手水舎がある。
石段を上がって門をくぐると、拝殿があった。
(拝殿)
ここも、日前宮とともに、紀伊国の一の宮である。
境内の一角に、木祭りのために奉納された、チェーンソーで作ったというアートが陳列されていた。
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<木の神様のこと>
司馬遼太郎『街道をゆく32』から再掲
「『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。
その神話である。
初代の天皇である神武天皇よりざっと180万年も昔(このことについては前回、書いた)に、神武天皇の曽祖父のニニギノミコトが高天原から地上に降りてきた。そのニニギノミコトよりも遥かに古い神代の時代 ……
…… アマテラスの弟のスサノオは、高天原で乱暴狼藉をした挙句、神々によって高天原から追放された。
だが、地上に降りてきてからのスサノオは実にカッコいい。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その尾から出てきた草薙の剣を天上のアマテラスに献上する。そして、美しい奇稲田(クシイナダ)姫と幸せな結婚をした。スサノオの歌、
八雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を
以上は、よく知られた話である。
ところが、『日本書紀』には、スサノオの話に限らないのだが、一つのお話のあとに、「一書(アルフミ)に曰く」として、別の異なる伝承も紹介されている。
スサノオに関しても、オロチ退治の話を基本にしながら、別の異なる5つの伝承が、「一書に曰く」、「一書に曰く」として付記されている。
その4番目と5番目に、スサノオの子の五十猛(イタケル)が登場する。
4番目の「一書に曰く」では、高天原から追放されたスサノオとともに、スサノオの子のイタケルも地上に降りてきた。そのとき、イタケルは、高天原から多くの樹木の種を持ってきていた。それで、その樹木の種を、筑紫から始めて、順次、全国に蒔いていき、国土を青山に変えた。そのため、イタケルは「有功の神」と称えられた。
「即ち、紀伊国にまします大神、これなり」。
5番目の「一書に曰く」は少し異なる。
地上に降りてきたスサノオは、この国の子孫のために、自分のあちこちの体毛を抜いて、その毛を孫悟空みたいに??吹いて、船の材料になるようスギとクス、また、宮を建てる材木になるようにヒノキ、また、棺をつくるためにとマキに変えて、この国に植えられた。また、食料にすべき木の実の種も蒔いて植えた。
さらに、スサノオの子のイタケルと、その妹のオオヤツヒメと、二女のツマツヒメは、それ以外の樹木の種を国中に蒔いて回った。
そこでこの三兄妹神を紀伊国に迎えて祀ることになった、とある。
伝承に少々の違いはあるが、日本列島の緑の木々や果物のなる木は、スサノオと、その子のイタケルら3兄妹が植えたのだというお話である。
素朴で、いい話である。
勝手な想像だが、もともと紀の国に古くから伝わる、或いは、紀氏に伝わる伝承を、『日本書紀』が採録したように、私には思える。
前回の「閑話」の話に戻れば、津田左右吉博士は、記紀の「神話」の記述は6世紀の宮廷官人たちが造作(創作)したものだという。
そういう考えに立つと、スサノオが地上に降りてきてからの話について、宮廷の官人たちは計6つの異なる話を頭をひねって創作し、歴史(神話)の捏造をしたということになる。そこまでやる必要があるのだろうか???
大伴氏とか物部氏とか中臣氏とか、そして紀氏とか、各氏族はそれぞれに家に伝わる一族の伝承を持っていた。天武天皇のとき、国の正史を編纂しようと、官人たちの中から学力の高い編纂メンバーを選び、各氏族が持っていた伝承を提出させた。編纂者たちはそれらを読み込み、吟味し、国の正史に入れるべきか判断し採録していったと考える方が、創作説よりも合理的であろう。もちろん、その際、国家や天皇家に都合の良いように、取捨選択、加工もされたことを否定するつもりはない。
『日本書紀』には、「一書に曰く」だけでなく、百済の歴史書や中国の歴史書も注に引用されている。
そもそも「紀」の編纂に携わった官人たちのメンバーには、中国や朝鮮半島からの渡来人たちも多く選ばれており、「紀」は漢文で書かれている。滅亡した百済の歴史は韓国にも残っておらず、『日本書紀』に引用された部分だけが残っているそうだ。
(岩橋古墳)
境内を歩いていると、古墳があった。岩橋古墳群の一つである。彼らこそ、この伝承を伝えた人々かも知れない。
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夜、ホテルのフロントに聞いて、すぐ近くの「よっさん」という小さな和食の店の暖簾をくぐった。何にしようかとメニューを眺めていると、「よっさん」らしき料理人の主(アルジ)が出てきて、「うちは朝、漁港の市で仕入れてきた新鮮な魚がウリです」と言う。「では、3品ほど、おまかせで」と頼んだ。
時間をおきながら新鮮な魚料理が出て、燗酒が美味しかった。
和歌山は古代から漁の名人のいる国でもある。
ホテルに帰って歩数計を見ると、朝から1万1千歩、歩いていた。