ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

大島に渡り、中津宮に参拝する …… 玄界灘に日本の古代をたずねる旅(13 / 13)

2016年07月31日 | 国内旅行…玄界灘の旅

    ( 沖津宮遥拝所 )

 宗像大社・辺津宮に参拝した後、車で神湊 (コウノミナト) 港へ向かう。

 天気は曇天。時折、雨。

 港の駐車場に車を置き、ターミナルビルへ。大きな銅鏡のマークが面白い。

 大島への渡船は、日に7、8便あり、フェリーと旅客船がある。

 「渡船」というから、どんなに心細い船かと思ったが、思っていたより立派な旅客船だった。

 ( 渡船ターミナルの銅鏡のマーク )

  

  ( 神湊の突堤の釣り人たち )

 大島も、その遥かな海上にある沖ノ島も、宗像市の一部である。

 大島港までは約8キロ、25分で着いた。

 大島のフェリーターミナルは島の南端にある。

 

         ( 大島漁港 )

 島の面積は約7㎢、周囲約16㎞。島の西側は玄界灘に臨み、東側は響灘に臨む。

 島の人口は900人。渡船ターミナルをはさんで二つの漁港があり、人家はこの辺りに集中している。

 産業は、遥かな昔から漁業。そのほかに小規模な農業。牧場もある。

 船を降り、歩いて食堂を探したが、結局、渡船ターミナルビルの2階に、ささやかなレストランを見つけた。

         ★

 腹ごしらえをして、早速、宗像大社中津宮へ向かう。ターミナルビルから歩いて10分ぐらいの所だ。

 中津宮の社は、本土の辺津宮に向かい合う形で、海に臨んで建つ。

 島の最高峰の御嶽山 (標高224m) の南側の麓にあり、拝殿の位置からは、御嶽山をご神体としているかのごとくに見える。

 ちなみに、2010年の調査で、御嶽山の山頂付近から数々の祭祀用遺物が発見された。

 中津宮から登山道が分け入り、奥の院の御嶽神社に行くことができる。だが、今日は雨なので、登山はしない。

  ( 中津宮の2番目の鳥居 )

 人口の少ない小さな島の、雨模様の日の神社である。およそ、人けはなく、しんと静まりかえっていた。

 鳥居をくぐり、石段を上がって行くと、拝殿に出た。

   

  ( 中津宮の拝殿 )

 ここにも「奉助天孫而 / 為天孫所祭」の「社訓」が掲げられている。

 

    ( 拝殿の扁額 )

 参拝を済ませ、拝殿を回り込むと、側面から本殿を見ることができる。本殿の屋根の片側が、拝殿の方へぐっと延びている。

  

    ( 拝殿の奥の本殿 )

   御嶽山に降った雨は伏流水となり、中津宮のすぐ上で湧き出している。霊水・「天の真名井」とされ、その水が境内を流れる天の川となる。

 川をはさんで小さな祠が二つ、織女と牽牛が祀られている。

 ( 天の真名井 )

 

  ( 織女神社 )

         ★   

 ターミナルビルに戻って、島を巡回するミニバスに乗り、島の北端に向かった。そこに沖津宮遥拝所がある。今夜の宿は、そのすぐそばの民宿である。

 途中、島の学校があった。

         ★

 民宿に荷物を置き、早速、沖津宮遥拝所へ。

 民宿のおばさんから、「すぐそこだ」と言われ、もう少し丁寧に教えてほしいと思ったが、本当にすぐそこだった。

 雨模様の天候で、沖ノ島は到底見えない。

 民宿のおばさんの話では、お天気でも、この時期 (春) はむずかしいそうだ。

 いつの季節が良いのかと聞くと、冬だ、と言う。

 荒涼とした冬の海に囲まれ、来る日も来る日も吹雪いて、山も森も雑草も凍てついた島を訪ねる困難さを思い、雪が積もるでしょう、と聞くと、暖流に囲まれているから雪は降らん、そうだ。

 本州の太平洋側のように、空気が澄んで、真っ青な冬の青空が広がるのだろうか?? 地元の人がそういうのだから、そうなのだろう。

 沖津宮遥拝所は、北の海に臨み、山の斜面を切り取った一角に建っていた。

     

 

  ( 沖津宮遥拝所 ) 

 石段を上り、石の鳥居をくぐって、建物の中に入ると、入った向こう側が窓になり、遥かに沖ノ島が望めるようだ。ただ、今日は建物も閉鎖されていた。

 沖津宮遥拝所も含めて、世界遺産候補。なかなか雰囲気のある「景色」であった。

         ★ 

 民宿で、軽自動車を借り、島を一周してみる。

 島にはハイカー用の眺めの良い遊歩道もあり、海の見える牧場や御嶽山展望台など、天気が良ければ立ち寄りたい所がいくつかあったが、雨ではいかんともしがたく、今日は1か所のみに。

 大島の北西端、神崎鼻に建つ大島・神崎灯台である。

 岬と灯台が好きで、旅の途中、近くを通れば、立ち寄ることにしている。

  ( 筑前大島神崎灯台/第7管区海上保安庁 )

 ( 雨に煙る神崎灯台の海 )

              ★   ★   ★ 

 翌朝もお天気は悪かった。

 民宿のお姉さんが、大島港まで車で送ると言ってくれたが、旅行用バックだけ頼んで、歩いて峠越えをした。島の北端から南端まで、ぶらぶら歩いて30分。

 中津宮へ下り、もう一度、参拝する。

         ★

 船が出航すると、来るときには気付かなかった中津宮の杜と鳥居が、御嶽山の麓に、海に面して、見えた。ツアーに参加するのではなく、自分の足で旅をすると、普通なら見おとすものが、意味をもって見えるようになる。

  ( 中津宮の杜と鳥居 )

  

  ( 遠ざかる大島 )

         ★

 それから、神湊で車に乗り、博多駅でレンタカーを返した。

 新幹線の時間まで、「中州」というところを歩き、櫛田神社に寄った。

 櫛田神社に参拝しながら、博多の男たちには、今も、胸と肩に龍の入れ墨をした海の男たちの血が流れているのだろう、と思った。

      ★   ★    ★

< 旅の終わりに 

 旅の目的は、最小限にしぼる。ここと、ここへ行きたい、あとは付録、というふうに。

 付録についても、おおよその優先順位は、計画段階で自ずからできる。

 しかし、付録は、旅の道中で切り捨てて良いのである。余裕があって行けたら、ラッキーでしたと、加算法で考える。

 10日間のヨーロッパ旅行なら、目的は2つか3つ。2、3泊の国内旅行なら、1つか2つ。そこを見、味わい、何かを感じることができたら、満足する。あとは付録である。

 あれもこれもと、朝から、日が暮れるまで、観光バスで引きまわされる旅は、いやだ。

 旅の楽しみは、日常性を脱し、新鮮な目でものを見、ものを感じるところにある。途中、漂泊感を感じたら、旅らしい旅である。

 だから、旅の日程に、ゆとりは必須である。

         ★  

 今回の旅の目的は、宗像大社だった。近いうちに世界遺産に登録される可能性が強い。登録されたら、国の内外から観光客が押し寄せる。今のうちに、心静かに参拝したい 。

 付録として、宗像氏と同じ海人族であった阿曇氏の志賀海神社にも行ってみたい。

 また、宗像氏や阿曇氏などの海人族が活躍した玄界灘周辺は、日本列島で最も早く稲作が始まり、弥生文化が花開いた地である。大陸や半島との交流の最前線であった、「奴国」や「伊都国」の地も訪ねてみたい。ここまでが付録である。

 太宰府天満宮や、九州国立博物館、太宰府行政庁跡、水城、竃門神社、そして香椎宮などは、ちょっと時代が下って、付録の付録であった。

 しかし、結果的には、[ 阿曇氏の活躍 → 楽浪郡から邪馬台国へのルート・奴国と伊都国 → 香椎宮 → 沖ノ島における宗像祭祀 → 太宰府、水城、竃門神社 ] と接続して、弥生時代から7世紀に至る日本の古代史の流れを、自分の中で確認する旅となった。

 今回の旅は、付録の付録にも行くことができて、結果的にたいへん良かった。

 ただし、かねてからあった、もやもやした疑問も、ますます鮮明になった。

① 海人族と言われる人たちのグループ相互の関係や系譜??

② 日本列島で最初の「クニ」として登場した奴国や伊都国は稲作民(農民)であろうが、そのクニの王たちと、玄界灘で活躍した海人族・安曇氏らとの関係は?? 同族関係?? それとも、協同関係??

③ 奴国や伊都国をつくった人たちは渡来系弥生人?? そうであるとしたら、以前からそこにいた縄文人は??

④ もともと「倭人」とは、誰を指したのか?? 

 しかし、とりあえず、念願の旅は終わった。

 充実した、良い旅だった。(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「海の正倉院」と言われる沖ノ島の信仰 …… 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(12)(修正版)

2016年07月27日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 宗像大社・辺津宮の神宝館へ >

 

     ( 神宝館入り口 )

 宗像大社の辺津宮への参拝をすませ、神宝館に入館する。

 入場料500円で、国宝の数々を見ることができるのだから、申し訳ないくらいだ。もっとも、その考古学的価値がわかるわけではなく、ブタに真珠、猫に小判ではあるが ……。

 1階フロアーには、狛犬や石像など、宗像大社に伝わる中世以後の美術工芸品が展示されている。

 メインは2階フロアー。玄界灘の海上の島・沖ノ島で、古墳時代の4世紀後半から、平安時代の9、10世紀まで、実に500年間以上に渡って営まれた国家的な祭祀の、その折々に奉納された数々の宝物が、今は国宝に指定されてここに展示されている。

 3階フロアーには、宗像大宮司家伝来の古文書、扁額などが展示されている。展示の中には、宗像大社の社務日誌もある。

 開かれているページは、明治28年5月27日。そこには、玄界灘に浮かぶ沖ノ島で目にした「日本海海戦」の様子が書かれている。戦闘当事者以外で「日本海海戦」を目撃したのは、世界中で、このとき沖ノ島にいた彼ら2人だけであった。

         ★

 司馬遼太郎の 『坂の上の雲』 の最後の巻 (第8巻) は、「敵艦見ゆ」以下、9章で成っている。その3つ目の章が、「沖ノ島」である。

 「この海域に孤島がある。

 『沖ノ島』

とよばれている。

 歴史以前の古代、いまの韓国地域と日本地域を天鳥船 (アマノトリフネ) などというくり舟に乗って往来するひとびとには、このいわば絶海の孤島をよほど神秘的なものとして印象されたらしく、この島そのものを神であるとし、祭祀した。極東の沿岸で漁労をしている種族は、文字ができてからの名称では、安曇とか宗像とかいっていたらしい」。

 「日露戦争当時、この沖ノ島の住人というのは、神職1人と少年1人で、要するに2人きりである。

 2人とも神に仕えている。

 神職は本土の宗像大社から派遣されている宗像繁丸という主典で、祭祀をやる。少年は雑役をする。宗像大社の職階でいえば『使夫』である。……」。

         ★

 社務日誌には、「間もなく敵の艦隊18隻、水雷艦、駆逐艦合わせて56隻、忽然として4海里の処に現る」に始まり、「其の凄絶、壮絶の感を極む」という戦いから、次第に日本軍が優勢になり、「5時ごろよりは、追撃となりて、本島を遠ざかるが故に、日没とともに見ることえざりし」と書かれている。

         ★

< 宗像族のこと >

 神宝館の展示の初めに、「胸肩一族の動向」と題する説明があった。  

 「宗像」は、「胸形」とも表記されたが、宗像の男たちは、みな、胸と肩に龍の彫り物をしていたと言われ、「胸肩」とも表記された。大社側は、一族について述べるときは、「胸肩」を使っているようだ。

 「宗像本土の遺跡調査が進み、胸肩一族の動向が明らかになりつつある。

 宗像地域の内陸にある生産遺跡からは、一族が外来の先進技術である須恵器や鉄の生産技術を早い時期から享受したことを示す資料が確認され、沖ノ島祭祀と類似する鉄鋌や須恵器も発見されている。

 宗像市神湊(コウノミナト)から福津市宮司(ミヤジ)にかけての海岸線一帯には、胸肩一族の奥津城 (オクツキ。墳墓) とされる古墳群がある。副葬品はすばらしい内容で貴重な渡来品も含み、大和政権からの下賜とみられる優品もある。

 高い航海術を持つ一族は大和政権が行う外交交渉や沖ノ島祭祀の際に助力し、政権との関係を強めて成長した。その関係が確固たることを物語るのが宮地嶽古墳で、天武天皇の第一皇子高市皇子の祖父『胸肩君徳善』の墓と考えられている」。

         ★

 7世紀のころ、宗像氏は娘を大海人皇子 (のちの天武天皇) の妃に出した。2人の間には、大海人皇子の最初の男子が生まれた。高市皇子という。

 壬申の乱の折、高市皇子は近江京からいち早く兵を率いて脱出し、逃避行中の父・大海人皇子の下に駆け付けた。以後、19歳の高市皇子は、最前線の司令官として全軍を率い、大津京を陥落させている。

 母が地方豪族の娘であったため、皇太子になることはなかったが、以後、天武天皇を助け、天皇が崩じて皇后の持統が即位した後も、太政大臣として女帝を支えた。

         ★ 

< 今も継承される沖ノ島の信仰 > 

 沖ノ島は、九州本土から60キロの沖合にある、絶海の孤島である。

 周囲4キロ。最高標高243m。「神宿る島」とされ、島全体がご神体で、一般人の立入を禁ずる。

 神職が1人、10日ごとの交代で島に上陸し、祭祀を行っている。港があり、寝泊まりできる社務所もある。真水が湧き、今は太陽光発電装置や船舶無線も完備している。だが、真冬といえども、毎朝、早朝に海に入り、禊ぎをするところから神職の一日は始まる。

 年に1回、5月27日に、応募で選ばれた200人に限って、海で禊をした上で2時間だけ上陸が許される。

 ただし、女人禁制である。また、1木1草といえども島から持ち帰ることは許されない。

 漁船などが遭難して緊急に上陸することは許されるが、その際も禊ぎをし、また、島で見聞きしたことは一切、話してはいけないことになっている。

 この島の信仰は、このような厳しい禁忌とともに、今も生き続けている。

         ★

< 沖ノ島が「海の正倉院」になったのは? >

 第二次大戦後、宗像市出身の経済人・出光佐三 ( 百田尚樹『海賊と呼ばれた男』) らが中心となって、宗像大社復興期成会が発足し、1954年から1971年まで沖ノ島の発掘調査が行われた。その3次に渡る調査の結果、8万点の祭祀遺物と、2万点の縄文・弥生時代の遺物が出土した。

         ★

 早くも、縄文時代前期には、朝鮮半島、玄界灘、瀬戸内海で漁をする海人たちが、この玄界灘の絶海の孤島を漁業の基地にしていたらしい。

 縄文時代、弥生時代を通じて、海人たちによる祭祀も行われてきたであろう。

 しかし、やがて、この島で、それまでの海人たちによる祭祀や北九州の一豪族が行う祭祀とは根本的に異なる、特別の祭祀が行われるようになる。それは、ヤマト王権がかかわる国家的な祭祀であった。

 始まりは、古墳時代の前期に当たる4世紀の後半ごろと推定されている。(その契機については、あとで述べる)。

 その祭祀は形を少しずつ変えながらも500年以上続き、9、10世紀末ごろに終了した。

 終了したのは、直接的には894年に遣唐使が廃止されたこと、間接的には、世の中から古神道の形が消え、神社神道が確立していったことが原因と考えられる。

 祭祀が行われた場所は、沖ノ島のなかの黄金谷と呼ばれる奥行き100mの谷で、ここには12個の巨岩 (神の磐座) があり、また、無数の岩が散乱しているそうだ。

 ここに奉納された品々 ─── 例えば、数多くの銅鏡、シルクロード経由でもたらされたササン朝ペルシャ伝来のカットグラス、金銅製龍頭、唐三彩など ─── から、ここで行われた祭祀は、宗像氏という一地方豪族による祭祀などではなく、国家的な祭祀であったと推定されるのである。

 これらの祭祀遺物は、今、辺津宮の神宝館に収められ、誰でも見学することができる。

  ( 宗像大社のパンフレットから神宝館の宝物 )

 神宝館の展示品の写真撮影は禁止されているので、いただいたパンフレットの写真を掲載した。  

 写真左下の銅鏡は三角縁神獣鏡。

 写真左上は、金銅製の龍頭。右上の純金製指輪は5世紀の新羅製。その下に、奈良三彩の小壺。

 写真右下の機織り機のミニチュアはたいへん精巧なもので、琴のミニチュアなどもあり、これらは伊勢神宮の神宝と共通するそうだ。

         ★

< 沖ノ島の祭祀の背景にある東アジアの中の日本 >

 以下の記述は、近つ飛鳥博物館の館長・白石太一郎氏の研究報告書「ヤマト王権と沖ノ島祭祀」(平成23年)、その他を参考にした。同報告書はインターネットで簡単に取り出すことができる。興味ある方はどうぞ。

 さて、沖ノ島で500年以上に渡って営まれた祭祀は、4期に分類される。

 第1期は、4世紀後半から6世紀にかけての「岩上祭祀」の時期。神の依代 (ヨリシロ) である巨岩の上で祭祀が行われた。

 出土品は21面にものぼる銅鏡、玉、剣などであり、前期古墳の副葬品と似ている。ただ、九州の古墳から21面もの銅鏡が出土した例はなく、このこと一つを取り上げてみても、この祭祀が国家的なものであったことがうかがわれる。

 なぜ、このような祭祀が行われるようになったのかということについて、白石太一郎氏はおおよそ次のように述べておられる。

 弥生時代中期以降、日本で製鉄が行われるようになる6世紀まで、鉄資源は「朝鮮半島南部の弁辰、のちの伽耶からもたらされていたことは疑い得ない。従って、東アジア情勢の動静如何にかかわらず、倭国と弁辰・伽耶地方との交渉は絶えず続いていた」。

 「4世紀の後半になって、高句麗の南下という東アジア情勢の大きな変化を契機に、百済との接触が始まり (伽耶の仲立ちにより、367年に国交開始)、好むと好まざるとにかかわらず、倭国もまた、東アジアの国際舞台に引き出されることになる (391年半島へ出兵。400年高句麗との戦いなど ) 」。

 こうして、もと、玄界灘沿岸の一在地勢力であった宗像氏の航海の神が、4世紀後半、ヤマト王権も関与する国家的な祭祀の対象になっていったのである。

 宗像三女神が、ヤマト王権の神・アマテラスの娘ということになったのが、いつ頃のことかは、わからない。ただ、祭祀をともに行えば、それは自ずからそうなっていったであろう。

  ヤマト王権において宗像氏がその存在を認められるようになったことを示すように、この時期に初めて、宗像地域に61mの古墳が出現する。

         ★

 沖ノ島祭祀の第2期は、5、6世紀から7世紀にかけての「岩陰祭祀」の時期である。張り出した巨岩の庇の下で祭祀が行われるようになる。

 この時期には、後期古墳の副葬品と同じような装身具や馬具が奉納された。新羅の都・慶州の王墓から出土したものと同じ装身具や、古代イランのカットグラスなどもある。

 倭の五王の一人と想定され、「日本書紀」では勇猛果断な天皇として描かれている雄略天皇が、自ら兵を率いて半島に渡ろうとするのを、宗像の神がいさめたという話が載っている。このエピソードが事実かどうかは別にして、宗像の神が大王の意思決定にかかわった話であり、宗像の存在が大きくなったことを示すエピソードである。

 宗像の海岸に沿って、大規模な前方後円墳が営まれたのも、この時期である。おそらく宗像氏が対朝鮮半島との交渉や交易で大きな役割を果たすようになっていたのであろう。

 やがて、百済との交流が深まり、日本に飛鳥文化が花開く。

 第3期は、7世紀後半から8世紀の 「半岩陰・半露店祭祀」 の時代である。神の磐座(イワクラ)であった巨岩から離れた場所で祭祀が行われるようになる。古墳が消滅する時期にも当たる。

 この時期、日本は大化の改新を経て、白村江の大敗があったが、その後、唐と国交を回復する。

 一方、宗像氏は、一族の娘を、時の天皇の実弟 (大海人皇子) に妃として入れている。

 また、720年に完成した「日本書紀」に、アマテラスの子として、宗像三女神が記述された。

 奉献品としては、金属製ミニチュアの祭器、中国東魏様式の金銅製龍頭、唐三彩の花瓶などがあり、国際色豊かである。

 第4期は、8世紀から9、10世紀の、奈良時代から平安時代に当たり、「露天祭祀」の時期である。巨岩から離れた緩やかな傾斜地で祭祀が行われるようになり、古神道の姿から離れていく。

 第4期の出土品としては、祭祀用の土器、奈良三彩の小壺、貨幣、滑石製の人形、馬形、舟形など国内生産品が主となる。

 やがて、遣唐使が廃止されるとともに、国家的祭祀も終了していく。

         ★ 

 2010年には、中津宮がある大島の山上付近でも発掘調査が行われ、奈良三彩の小壺や、舟や馬をかたどった滑石製品など、沖ノ島の4期と共通する祭祀遺物数千点が発掘された。

 その結果、辺津宮 (高宮祭場) から発見されていた遺物をも合わせて、もともと沖ノ島だけで行われていた祭祀が、この時期に大島の山上でも行われるようになり、やがて麓に社殿を営み、神社神道として三女神を祀るようになった、と推定される。  

          ★

< 世界遺産へ向けて >

 2015年9月2日付け讀賣新聞朝刊から

 「『宗像・沖ノ島と関連遺産群』は、三宮と大島の沖津宮遥拝所、古代祭祀を担った宗像氏の墳墓とされる新原・奴山古墳群の5遺産。…… 推薦書案作成に携わった西谷正・九州大名誉教授 (東アジア考古学) は、『古代の祭祀遺跡がほぼ手つかずで残されてきただけでなく、その信仰の伝統が1500年以上も継承されている点で、世界的にも例がない遺跡だ』とその価値を強調する」。

 「この伝統には、『女人禁制』、『上陸前の禊ぎ』といった禁忌も含まれる。登録に向けた最大の課題は、法的な保全管理よりも今後高まる公開や観光圧力への対処かもしれない」。

         ★

 全てを公開すべきであるという主張とか、女人禁制に対するジェンダーの立場からの抗議もあるらしい。

 歴史ある神社なら、たいていどこの神社でも、一般には公開しない、氏子にも見せない、神職のみによる神事が行われている。

 春日大社に、深夜、神をお迎えし、歓待し、お送りする神事がある。荘重に、また、雅やかに、神をもてなしているのは数十人の神職たち。深夜の杜の中である。一般人は誰もいない。が、松明の明かりの届かない木陰の暗闇に、目が2つ、4つ、6つ。鹿たちが不思議そうな顔をして、じっと神事を見つめている、── 公開されていないが、NHKの映像で記録され、その映像が放映され、私はNHKアーカイブで見た。その雅さ、美しさに、心から感動し、改めて日本の文化に誇りをもった。

 国の内外から観光客が押し寄せ、マスコミが殺到するようになったら、お終いである。見たければ、NHKのアーカイブでどうぞ。

 神社ならどこでも、国籍・民族、主義・信条、性別などを問わず、全ての人を受け入れる。

 神社は神々のおわすところ。手水舎で身を浄め、小鳥の声や風の音を感じながら、拝殿から参拝したらよいのである。

 沖ノ島は、島全体が神域であり、聖なる空間である。それを公開にせよ、というのは、「社殿の中」まで見せろ、神職以外の者にも、社殿の中に自由に入らせよ、と言っているのと同じであり、人の心の中を公開せよ、と言っているのに等しい。

  富士山のような美しい自然も、沖ノ島のような日本民族の文化的遺産も、一度失ってしまったら、取り返しはつかないのである。

         ★

 ジェンダーの主張はわかるが、それを唯一絶対の価値として、何にでも押し通してはいけない。

 原始女性は太陽であった。それは縄文時代の土偶の女性のフィギアーを見ても明らかである。それらの像は妊婦である。女性は産む性であり、それは万物の豊穣をも意味していた。

 海人(アマ) の女は海女(アマ)である。彼女たちも海に潜って、魚や貝類や海藻を採った。

 だが、沖ノ島は玄界灘の荒海の彼方にある。一度、荒天になれば、海人も死ぬ。どれくらいの男たちが、この海で死に、帰って来なかったろう。(「玄界灘の旅(10)」に紹介した「万葉集」3869の歌の詞書を参照。3869番前後の歌はすべて、恋人、夫が帰らない歌である)。

 産む性に死んでもらっては困る。ゆえに、女性が沖ノ島へ行くことを禁じ、禁忌とした。

 そもそもがそういうことで、「女人禁制」にした古人の思いは、縄文人が女性のフィギアーをつくった気持ちと同じである。そう居丈高になることはあるまい。

 女性もロケットに乗って宇宙に行く時代に、ロケットをつくる技術者が、今度こそ必ず成功しますようにと、神社に参拝し祈願する。成功したら、改めて、成功の喜びを報告するために神社に行く。そういうものなのである。

 

 

 

 

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いよいよ宗像大社へ、辺津宮に参拝する …… 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(11)

2016年07月21日 | 国内旅行…玄界灘の旅

   ( 宗像大社のパンフレットから )

 翌朝、志賀島から「海の中道」を戻り、北上して、宗像大社に向かった。いよいよこの旅の目的地である。

         ★

< 宗像三女神を祀る海の三宮 >

 宗像大社は、九州本土側の辺津宮 (ヘツグウ) 、その沖合11キロの海上に浮かぶ大島の中津宮、そこからさらに49キロの絶海の孤島・沖ノ島の沖津宮に、それぞれ宗像三女神を祀る。

 全国に6000余あると言われる宗像三女神を祀る神社の総本社。世界遺産の厳島神社もその一つである。

 辺津宮の先にある神湊 (コウノミナト) から大島までは、日に7便の船が出る。

 沖ノ島には定期便はない。まさに絶海の孤島である。

 地図上で、辺津宮、中津宮、沖津宮を結ぶと、その延長線は対馬の北東岸をかすめ、朝鮮半島の釜山に達する。

 もっとも、古代に釜山はない。新羅に編入されるまで、半島南部には伽耶 (任那) があり、そのなかに、現在の釜山近く、金海というクニがあった。

         ★

< 宗像三女神へのアマテラスの神勅 >

  記紀によると、宗像三女神は、アマテラスとスサノオの誓約 (ウケイ) のときに生まれたとされる。「古事記」ではスサノオの子とされるが、「日本書紀」ではアマテラスの子になっている。美しい三女神が、当時、乱暴極まりない男であったスサノオの子というのは、どうもおちつかない。ここはやはり、アマテラスの娘ということに。

 その「日本書紀」には、「 一書に曰く 」 という形で、アマテラスが生まれ出た三女神に対して神勅を与えた、ということが書かれている。

 神勅の内容は、そなたたちは北九州から朝鮮半島への海路 (「海の北の道中 (ミチノナカ) 」) に鎮座して、航路の安全を守り、そのことによって皇孫をお助けし、皇孫からの尊崇を受なさい (「天孫を助け、天孫に祭られよ」) 、というものであった。

 宗像大社の辺津宮の拝殿の正面にも、中津宮の拝殿の正面にも、この日本書紀の一文、「奉助天孫而 / 為天孫所祭」が掲げられている。いわば、会社の社訓、学校の校訓のようなものであろう。

    ( 辺津宮の正面に掲げられた額 )

 歴史書である「日本書紀」が完成したのは西暦720年。そのころ、宗像三女神は、北九州と朝鮮半島を行き来する船の航路安全の神であり、そのことによって朝廷から多大の崇敬を受けていたのである。

 しかし、宗像大社の歴史はさらに350年は遡る。

 沖ノ島で見つかった祭祀の折の奉納品の数々から、この島で、少なくとも4世紀には、特別の祭祀が執り行われており、9世紀の遣唐使廃止までそれは続けられていた、ということがわかっている。

         ★

辺津宮に参拝する  >

 車を置いて、鳥居をくぐれば、神域である。  

      

           ( 辺津宮の鳥居 )

 池があり、石橋を渡ると、手水舎があった。

 神門があり、本殿となる。

     ( 神 門 )

 拝殿も本殿も、16世紀に建てられ、年月を経ている。玄界灘の海人族の神社は素朴で力強く、太宰府天満宮のような都雅の趣はない。

   ( 拝殿・本殿 )

 拝殿の向かって左手の小道を奥へ進むと、神宝館がある。数多い神社仏閣の神宝館のなかでも、この鉄筋コンクリート3階建ての神宝館は特別である。何しろ8万点の国宝が収納されている。だが、そこは後回しにして、右手の小道を奥へと進む。

 杜を隔てて、本殿のうしろに当たる位置に、第二宮と第三宮がある。それぞれ沖津宮と中津宮の分霊を祀り、辺津宮に参拝すれば、合わせて他の二宮にもお参りできるようになっている。 

 こぶし大の石が敷きつめられた白木づくりの簡素なたたずまいは、どこかで見たような風だと思ったら、掲示があり、ここの社殿は、伊勢神宮の式年遷宮のとき、神宮の別宮 (瀧原宮) を移築したものだと書いてあった。

   ( 第二宮と第三宮 )

   ( 第三宮 )

 ( 伊勢神宮の瀧原宮 )

         ★ 

< 日本人の信仰の原初的な姿をとどめる高宮祭場 >

 さらに奥へ奥へと入って行くと、高宮祭場に至る。

 50メートルプールほどの広さの空間に、わずかに石の段と、自然木の神籬 (ヒモロギ) があるのみ。垣の外に、神を祭るための簡素な小屋が立つ。

   「神籬」とは、上古、神祭りのときに、清浄の地を選んで周囲に常盤木を植えて神坐としたもの。後世には、代わりに榊を立てた。

 こここそ、遥か昔、宗像の神が降臨された、聖なる場である。

 宗像三宮のうち、沖ノ島と並んで最も神聖な場所とされている。日本人の信仰の原初的な姿が、ここにある。 

   ( 高宮祭場 )

         ★ 

司馬遼太郎『この国のかたち 5 』から。

 「神道に、教祖も教義もない。

 たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。

 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

   「その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

谷川健一『日本の神々』 から

 「『万葉集』 には神社をモリと訓ませている例がいくつかあるが、そこは鳥居も拝殿も本殿もなく、神の目印となる特定の木さえあればモリと呼んでよかった」。

 「沖縄のウタキは神の依代 (ヨリシロ ) と見られるクバやアザカなどの樹木に囲まれた空き地に、聖域を示す小石が並べてある程度にすぎない。そのウタキも …… さらに古くはモリという言葉を使用したと推定される」。

 「『日本書紀』には、崇神天皇の6年に、大和の笠縫邑 (カサヌイムラ) に天照大神を祀ったが、そのときヒモロギ (神籬) を立てたとある。笠縫邑は檜原神社の境内と考えられている。檜原神社には拝殿も本殿もなく、三輪山が御神体となっている」。

 「ヤシロは祭りのとき仮小屋をたてるための土地のことであるが、それがいつしか神社をあらわす語となった」。

  「神社にたいして宮という言葉もある。ミヤはもともと神祭りをする庭を言った。必ずしも建物を必要としないのがミヤであった。『日本書紀』には、敏達天皇14年8月の条に「王 (キミ) の庭 (ミヤ) 」という語が出てくる。沖縄では、現在も庭をミャーと呼んでいる」。

 「記紀の神々には前史があり、神々の物語の背景には別の物語があったことを否定することはできない。それは日本列島に住み着いた人々が、気の遠くなるような長い時間をかけて、民族の意識の双葉の頃から作り上げた神々の前史であり、物語である。弥生時代の初めから『古事記』や『日本書紀』が編纂された8世紀初頭までは1200年以上の時間を費やしている。それは記紀の時代から20世紀末までの長さに優に匹敵する」。

 

 

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海人・阿曇氏の志賀海神社へ行く…玄界灘に古代の日本をたずねる旅(10)

2016年07月07日 | 国内旅行…玄界灘の旅

   ( 志賀海神社 )

< ロマンの彼方の海人族 > 

 そもそも海人族が、よくわからない。

 「モノ」を発掘して研究する考古学的手法で、その実態に迫ることは難しいだろう。

 「古文献」といっても、海人族の実態に迫るような、信頼性のある記述は少ない。

 ゆえに、研究者の研究も、茫々としていていて、はっきりしない。

 我々素人には、そういうところが面白いのかもしれないのだが ……。

         ★

 紀元前を遥かに遡れば、海人たちは、黒潮にのって、江南地方から、山東半島、遼東半島、朝鮮半島の西岸や南岸、沖縄、九州から、瀬戸内海にかけて、自在に移動し、魚をとって暮らしていた。彼らは魚とりの名人であり、主に潜水漁法によった。

 彼らは「農」に生きる民ではない。だが、モミと、稲作技法と、そのための道具をもつ人々を、北九州の北岸に運ぶ水先案内人の役割を果たしたのは、彼らかもしれない。彼らがいなければ、水稲耕作をするために日本海の波頭を越えようなどと、思うはずがない。

 一衣帯水、彼らに国境はない。

 やがて、東アジアの各地に古代的な国がつくられていくと、海人たちは次第に社会の片隅の存在になっていった。

 だが、少なくとも、ここ、古代日本において、彼らは堂々とした氏族を形成していった。半島や大陸の国々と違って、「倭」は地続きの国ではないから、航海民の技術がなければ、進んだ海外の文物を手に入れることができなかったのである。当然、彼らが祀る海の神々も尊崇された。

 奴国が漢に使者を送って、金印をもらうことができたのも、玄界灘をわが海とする安曇氏らの活躍が背景にあっただろう。

 弥生時代も後半に入ると、鉄の時代になっていく。朝鮮半島から鉄素材を運ぶために、海人たちの航海術は必要欠くべからざるものであった。この時代、鉄は、豪族たちの権力の源である。

 卑弥呼は半島の楽浪郡経由で、大国・魏に使者を送り、また、魏の使者を迎えた。

 西川寿勝、田中晋作共著『倭王の軍隊』によると、古墳時代、大和や河内に都を置いた大王には、直属する海人たちがいた。淡路島の野島の海人たちである。彼らは大王の命で、各地の豪族たちに古墳づくりの資材を運んだ。各地の王と大王を結ぶルートの一翼を、彼らが担った。

 海人たちは、一旦、事が起これば、好むと好まざるとにかかわらず、戦闘員になった。

 朝鮮半島南端部の倭人の援助に行ったときも、4世紀末に倭国が高句麗と戦ったときも、7世紀に大王軍が日本海側から蝦夷を征討したときも、そして、あの白村江の戦いにおいても、海人たちは軍団の一翼を担った。『倭王の軍隊』(同上)は、彼らを「海兵隊」の側面をもつ集団だったとする。

         ★ 

 だが、彼らの系譜となると、深い霧の中に入ったようで、わからない。

 博多湾から玄界灘に出る出入り口に位置する志賀島を本拠とした阿曇氏と、博多湾の中にあって住吉の神を祀る海人たちとは、どういう関係だったのか??

 同じ玄界灘を本拠とする宗像氏は、阿曇氏とどういう関係にあったのか??

   丹後の大豪族・海部氏や尾張の尾張氏も海人系と言われる。彼らは玄界灘周辺の海人たちと、どういう系譜で結ばれていたのか?? それとも、全く別の一族なのか??

 ほとんど五里霧中である。

                          ★

< 海人族たちが祀った神々の系譜 > 

 「古事記」や「日本書紀」は、阿曇氏が祀った神々(祭神)について、次のように書いている。…… もちろん、「神代」の話である。

 イザナミのいる黄泉の国から帰ってきたイザナギは、汚れを清めるため禊 (ミソギ) をし、その禊の過程で多くの神々を生む。

 そのなかで、海の底に沈んですすぎをしたときに成れる神が、底津綿津見神 ( ソコツ ワタツミノ カミ ) と底筒之男命 ( ソコ ツツノヲノ ミコト )。

 潮の中にもぐってすすぎをしたときに成れる神が、中津綿津見神 (ナカツ ワタツミノ カミ) と中筒之男命 (ナカ ツツノヲノ ミコト)。

 潮の上に浮いてすすいだときに成れる神が、上津綿津見神 ( ウワツ ワタツミノ カミ ) と上筒之男命 ( ウワ ツツノヲノ ミコト) であり、

 この三柱の「綿津見神」は、阿曇連らが祖神として祀る神で、「底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神」は、住江 (= 住吉) の三座の大神である、と説明されている。

 綿津見神は博多湾が玄界灘に臨む島・志賀島に祀られ、住吉の三神は、那珂川が博多湾へ出る出口に祀られた。

 このような記述から考えると、「綿津見神」と「住吉の三神」とは、いわば兄弟であり、とすれば、阿曇氏の一族の中に、北九州の「住吉」の神を祀る人々が、いわば分家のような存在で、いたのかもしれない。

 ( ちなみに、この直後に、イザナギの禊で最後に生まれた神が、アマテラス、ツキヨミ、スサノオであった )。

         ★    

 一方、宗像氏が祀る神は、同じ「神代」の話でも、一世代あとの話で、アマテラスとスサノオが誓約 (ウケヒ) をしたときに、スサノオの太刀から、スサノオの子として、宗像三女神が生まれたとされる。

 田心姫 (タゴリヒメ) は宗像の奥津宮 (沖ノ島) に、湍津姫 (タギツヒメ) は宗像の中津宮 (大島) に、市杵島姫 (イチキシマヒメ) は宗像の辺津宮 (ヘツノミヤ) に祀られた。

 こういう記述からすれば、宗像氏は、阿曇氏に遅れて頭角を現した海人の一族だったのかもしれない。

 宗像氏の本拠である宗像大社は、阿曇氏の本拠である志賀島から直線距離にして30キロの北東に位置し、その向こうは響灘である。

         ★

 時代は下って、奈良時代、聖武天皇のころの話であるが、「万葉集」の巻16に、宗像族の男と、阿曇族の男の、海の男同士の交流をしのばせる詞書がある。3869番の歌の詞書である。

 筑前の国、宗像郡の民・宗像部の津麻呂 (ツマロ) という男が、滓屋 (カスヤ) 郡志賀村の白水郎 (アマ、海人と同じ) の荒雄 (アラオ、「ますらお」と同義 ) のもとにやってきて、「私の願いを聞いてくれないか」と言う。志賀島のますらおは答える。「私たちは、郡を異にするけれども、長年、同じ船に乗って生死を共にした仲である。あなたに対する私の気持ちは、兄弟よりも篤い。あなたが死ぬときには従って死んでもよいと思っている。どうしてあなたの頼みを断ろうか」。

 頼みというのは、太宰府から、対馬の防人たちへ兵糧を輸送するよう命じられた。だが、自分は老いて、対馬までは行けない。代わって行ってくれないだろうか、という頼みであった。男気のある志賀島の「ますらお」は引き受けて船出するが、航海の途中、天候が急変して、遭難死するのである。

 万葉集に載った歌は、遭難死したますらおの妻の歌である。遥かに沖へ舟を出し、海に潜ってあなたを探しても、海底の中でもあなたに逢うことができない、と嘆く歌である。海人は、女も潜水が巧みだったのだろう。

 歌の内容はともかく、志賀島の海の男と、宗像の海の男が、時に兄弟よりも強い関係に結ばれていたことがわかる。

         ★

 同じく海人族と言われる海部氏や尾張氏 (津守氏は尾張氏から出た氏族と言われる) の祖神は、天孫降臨したニニギと同世代で、人間界に近い。

 祀る神々の系譜が異なるだけでなく、阿曇族、住吉族、宗像族が玄界灘に本拠を置いたのに対して、海部氏や尾張氏は、大和の要衝の地である丹波地方や尾張地方を抑える豪族である。

 北九州とは別の勢力、或いは、出雲系の勢力かもしれない。「国譲り」をした出雲系豪族の実力者たちである。

         ★

海人族の長であった阿曇氏 >

 さて、阿曇氏であるが、「日本書紀」の巻10「応神天皇」中に、次のようなくだりがある。

 各地の海人たちがそれぞれに勝手なことを言って、大王の命に従わなかった。そこで、大王は阿曇連が祖、大浜の宿祢を遣わして、これを平らげた。これより以後、阿曇連を海人の「宰 (ミコトモチ) 」とした。

 このような記述からも、阿曇氏が、各地に蟠踞する海人たちを統率する有力氏族であったことがうかがわれる。「連」の姓を与えられていたことも、海人族の中での彼らの力を示していると言えよう。

 阿曇氏が本拠地としたのは、博多湾を囲うように、玄界灘に東から突き出した砂洲、今は「海の中道」と呼ばれる8キロの長い砂洲の先端にある、陸続きの島・志賀島 (シカノシマ) である。

 祀る神は、前述の如く、綿津見三神。

 ちなみに、「魏志倭人伝」に記されている魏から邪馬台国への経路は、朝鮮半島の楽浪郡、狗耶韓国を経て、対馬国、一支国(壱岐)、そして北九州玄界灘沿岸の国々になるが、その対馬、壱岐にも 「和多都美神社」 があり、阿曇氏の勢力圏であったことをうかがわせる。

         ★  

 彼らは、海人の長として、大和の大王の下で活躍したが、それは同時に、藤原氏を中心とした律令体制下に組み入れられ、またある時には、中央の政変のなかに巻き込まれて、次第に没落していくという過程でもあった。

 宗像大社や難波の住吉大社が、大陸・半島への航海の安全を祈願をする神々として、その後も、朝廷から重んじられ、「大社」として尊崇を受けたのに対して、阿曇氏と、綿津見三神を祀る志賀海神社の存在感は、次第に希薄になっていく。

 何がきっかけだったのかはわからないが、彼らは、玄界灘の志賀島に、綿津見三神を祀る総本社を残して、いつのころからか、全国各地に移住していった。その結果として、アズミの名は、全国各地の地名として残ることになる。

 例えば、渥美半島、伊豆の熱海、内陸部の川を遡って信州の安曇野、穂高岳山頂の穂高神社の祭神は綿津見三神である。滋賀県の滋賀も、志賀島の志賀ではないかという説もある。

 そこが海人らしい、と、言えば言える。彼らこそ、海人であった。

 彼らの没落のきっかけはよくわからないが、白村江の敗戦と大将軍・阿曇連比羅夫の戦死は大きかったと思われる。

         ★ 

志賀海神社に参拝する >      

 博多湾を玄界灘の荒波から守って天然の良港にしているのは、博多湾を東側から包み込むように、玄界灘の中へ突き出した「海の中道」と呼ばれる8キロの砂洲である。

 言葉どおり海の中にできた天然の「道」で、狭いところでは幅は500mしかない。満潮時には一部が海水で区切られることもあるという。

 そこに造られた近代的な道路を快調に走り、橋を渡ると、志賀島である。東西2キロ、南北3.5キロ、島を1周して9.5キロ。玄界灘への出入り口に当たる。

 漢が奴国王に与えた金印がこの島から出土したということは、阿曇氏が、奴国の経済と文化を支えていたということを示しているのかもしれない。

 島全体が、阿曇氏が祀る志賀海神社の神域。神の島である。

 全国の「綿津見神社」の総本山。

 鳥居の前に広場があり、玄界灘が広がる。

 今は、のどかな光景だが、鎌倉時代、元寇のときには、ここは戦場となった。

 ( 一の鳥居の前から玄界灘を望む )

 広場の後ろは、鬱蒼とした山である。その鬱蒼とした南国的な樹林の一角に、素朴な二の鳥居が立ち、「志賀海神社」とある。

 海を背に、石を積んだ階段が、上へ上へと、樹林の中を延びる。

 

   ( 二の鳥居 )

  やがて、白木の楼門が迎えてくれる。

     ( 楼 門 )

 拝殿、神殿も、素朴なたたずまいが、好ましい。

 拝殿で参拝していたとき、突然、正装した宮司さんが現れて、驚いた。阿曇氏の末裔であろうか。

      ( 拝 殿 )

 境内の一角に遥拝所があり、海に臨む。そこには亀石が祀られている。

 伝説では、神功皇后出征のとき、安曇氏の祖・安曇磯良 (イソラ) が皇后の前に亀に乗って現れ、船の舵取りをしたという。年を経て、その亀は石となった。

 宮司さんは、ここでも、遥拝された。

  ( 亀石のある遥拝所 )

  そして、舞台を去るごとく、楼門から退場された。

 山の中の、人けのない、素朴ではあるが、2千年の由緒をもつ神社の、幻のようなひとときであった。

  ( 夕方のお祀りを終え、楼門から去る宮司 )

         ★

 その夜は、志賀島の先端部にある国民休暇村のホテルに泊まった。

 窓を開けると、潮の音が鳴りとどろいだ。

 大きな近代的なホテルで、私立の女子中学校の、何かのクラブ合宿かと思われる女子生徒たちが宿泊していた。上級生の統率の下、みんなニコニコ、礼儀正しく、感じが良かった。

 

 

 

 

 

 

 

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玄界灘の旅からちょっと離れて、大阪の神社のことなど …… 玄界灘に日本の古代をたずねる旅(9)

2016年06月25日 | 国内旅行…玄界灘の旅

    (住吉大社の太鼓橋)

 私は大阪市民でも、大阪府民でもないが、長年、大阪で働いた。愛着がある。そういう立場から、当ブログにも、時々、大阪散歩の記事を書いてきた。今回も、玄界灘からちょっと離れて、大阪のことを書きたい。

         ★

神様が降りてくるのは森(杜) >  

 大阪市内にも、小さな愛らしい神社がたくさんある。それぞれに由緒があり、古木が緑陰をつくり、小さな森 (杜) となって、人々の心に潤いを与えている。

 だが、残念ながら、大阪市内の著名な神社のなかには、がっかりする神社が多い。樹木がなく、森が失われ、拝殿の向うに見えるのはビルや看板、目を閉じて聞こえてくるのは車の騒音ばかり。

 収入の少ない小さな神社ががんばっているのに、これほど名のある神社が、なぜこんな状態のまま放置されているのだろう。

  例えば、「森林・林業学習館」ホームページには、このように書かれている。

 「鎮守の森は、地域を守ってくださる神様が降りてくる森。鎮守の森が元気であれば、神様が来てくれるが、人々が世話をせずに森が荒れると、神様が村を守ってくれなくなると考えられていました。そして、人々は間伐したり、弱った木を伐るなど、協力して手入れをして、森を守り育てました」。

 ─── と、思っていたら、昨日の新聞に、大阪天満宮の船渡御の企業協賛金が減って、大篝船 (オオ カガリブネ) の費用が賄えないかもしれない、という記事が載った。大阪天満宮の天神祭は、日本三大祭の一つである。

 今までやってきた祭の一部が消えるとしたら大変残念であるが、しかし、あの神社のあのたたずまいでは、人々の心を集められなくても仕方ないだろう、と思う。

 

    ( 大阪天満宮 )

   ( 太宰府天満宮 )

 仏教寺院やキリスト教教会は、もともと外部から遮断された暗い屋内空間に、仏像があり、十字架があり、そこが聖なる場となる。

 日本の神社は違う。空や、雲や、風や、樹木のざわめきや、小鳥の声や、虫の音など、外界の空気や自然の気配を五感で感じながら、身を清め、柏手を打つのが、日本人である。

 船渡御のための寄付集めも大切だろうが、物事には優先順序というものがある。まず、小鳥がさえずり、蝉が鳴く、鎮守の森を取り戻してほしいと、私は思う。

 大阪人の経済力と郷土を愛する心があれば、そう難しいことではないはずだ。そのためなら、年金生活者の私も、貧者の一灯をささげたいと思う。私が死んだ後も、このような日本の文化が大切に引き継がれて、世界から大阪を訪ねてきた人々が、自ら信じる宗教・宗派を超えて、「これが日本の文化なんだ!!」と感動してほしいからである。

         ★

「鎮守の森」は日本の誇り >

 宮脇昭氏は、横浜国立大学名誉教授、国際生態学センター研究所所長である。長年、日本の森を守る学術活動の中心になってこられた。

 氏は特に、神社やお寺の 「鎮守の森」 に注目する。鎮守の森には、太古のままの植生を維持している学術的にもすばらしい森が、あちこちにある。神社やお寺の周辺まで開発の手が及んでも、鎮守の森は大切にされてきた。

  鎮守の森は、国際生態学会、国際植生学会でも、英語にもドイツ語にも訳せないで、そのまま、 『鎮守の森』 として、学術用語となっているそうだ。鎮守の森は、日本の誇りなのである。 

 だが、バブルの時代には、都会の神社やお寺も「地上げ」の対象にされた。周辺の住民も、鎮守の森よりも、マンションの建設を求めた。

 そして、今、地方でも、神社やお寺の跡継ぎがなくなり、都会でも、氏子らしい氏子もいなくなって、境内の一部を切り売りしなければやっていけない神社やお寺も多い。「鎮守の森」は急速に失われていき、日本の緑の面積が減っていく。宮脇氏は詳しいデータを示している

 なかには、先代のときに失った「神域」の土地を、必死で働いて買い戻し、再び鎮守の森に再生させようとがんばっている神職の方もいる。

         ★

災害から郷土を守るのは「ふるさとの木」 >

 神戸の大震災の直後に、宮脇昭氏は、空からヘリコプターで、そして実地に自分の足で、被災地に入った。そのことを自らの著書 (『鎮守の森』 新潮社 ) に書いておられる。

  「私は、その土地本来の森であれば、火事にも地震にも台風にも、耐えて生き延びると主張し続けてきた。…… その主張の根拠は、わが国の鎮守の森に代表される、ふるさとの木によるふるさとの森こそ、長年の現地調査とあらゆる植物群落の比較研究から、最も強い生命力を有していると判断したところにある。それぞれの地域本来の森の主役となる木を 『ふるさとの木』 と私は呼んでいる。…… 神戸付近であれば、冬も緑の常緑広葉樹、シイノキやカシノキやヤブツバキなどがそれである」。 

 「鉄、セメント、石油化学製品などの死んだ材料でつくった製品が、地震国日本では何年、何十年、或いは、百年のうちに必ず訪れる、自然にとってはほんのわずかともいえる揺り戻しに対して、いかに危機管理能力に劣るかということを、現場でしみじみと体感させられた。

 調べていくと、神社の森では、鳥居も社殿も崩壊しているのに、カシノキ、シイノキ、ヤブツバキ、さらにはモチノキ、シロダモも、1本も倒れていない。ちゃんとそのまま森として残っている。また、住宅街でも、アラカシの並木が1列あるところでは、並木が火を遮ったのであろう。アパートが焼けずに残っていた。もちろん、強い火力によって、並木の片側は葉が赤茶けているが、そこで火が止まっている。しかも、8か月後に再調査したときには、再び新しい緑の葉が出ていた」。 

 「20数年前、山形県酒田市で1800戸もの家が焼けた大火のことが思い起こされる。たまたま本間家という旧家に常緑のタブノキの老木が2本あった。酒田は常緑広葉樹の北限に近い。あの大火がそのタブノキのところでとまったのである。歴代酒田市長は、我々の3年間の酒田市全域植生調査の結果を踏まえて、『タブノキ1本、消防車1台』という掛け声で、小学校の周りから下水処理場の周りまで、タブノキを中心にウラジロガシ、アラカシ、ヤブツバキ、アカガシ、スタジイ、モチノキ、シロダモなどの幼苗を生態学的手法によって混植、密植したのだった」。

         ★

「鎮守の森」を守る寺社には助成金を >  

 信仰の問題を言っているのではない。文化の問題であり、現代的知性の問題でもある。

 「商都・世界の大阪」を目指すのなら、今あるもののうち、何百年もあり続けてきたものをどう生かしていくか、そこを真剣に考えなければいけない。今の時代に、スクラップ&ビルドの町づくりは、単細胞のそしりを免れない。流行りの建築家を呼んできて、1つ2つ、奇抜な建物を造らせてみても、すぐに飽きられ、古ぼけて、何の魅力もないものになってしまう。

 地震にも、大火にも、台風にも強い、美しい鎮守の森を、大阪市内の各地域に再生させる。

 たとえ私有地の中といえども、「ふるさとの木」を勝手に伐り倒すことは、条例で禁止する。

 「ふるさとの木」を育て守っている神社や寺に、「ふるさとの木」運動の補助金を出す。

 それが、市民精神というもの。世界の常識はそういう方向に向いている。

  大阪町人の心意気を示してほしいと、心から思う。

 大阪天満宮は原点に戻るべし。森を取り戻さなければ、神様は降りてこない。

         ★

< 住吉大社の宮司・津守氏 >  

 そのような大阪市内の著名な神社の中で、住吉大社は、神社らしい雰囲気を今も維持して、美しい。  

 『日本書紀』 によると、神功皇后は、九州からの帰路、現在の大阪市住吉の地で三柱の海の神々を祀り、土地の豪族の田蓑宿祢に津守氏の姓を与えて、代々、この三神を祀るように、と言ったという。

 神功皇后の伝説はともかくとしても、津守氏は、古代、このあたりを支配した豪族で、歴代、住吉大社の宮司家であった。

 玄界灘をわが海とした海人たちと津守氏との関係は、よくわからないが、津守とは、言うまでもなく、港を管轄・支配した一族の意であろう。

 玄界灘の海人たちの住吉の神 (三神) は、いつのころからか、筑紫、長門、摂津と、北九州から瀬戸内海を経て大和へ向かう航路の、津々浦々に祀られていったのである。

         ★

< 海部 (アマベ) 氏と尾張氏のこと >

 津守氏は、丹後の籠神社 (コノジンジャ) の社家である海部 (アマベ) 氏や、尾張の熱田神宮の大宮司である尾張氏と同族であるという説もある。

 海部氏には、9世紀に成立した2巻の系図があり、1976年に国宝に指定された。国宝に指定された系図はこれだけ。歴史学研究上、貴重な資料なのであろう。

 それによると、その祖は遥かに神代に遡り、その後は伴造として海部 (海人集団) を率いていた時代へ、そして「祝 (ハフリ。神官) 」 として神に奉仕した時代へと続くそうだ。我々庶民には気の遠くなるような家系である。

 以前、天橋立に行き、籠神社に参拝した。さらに籠神社の奥社である眞名井神社への山道の参道を歩いていたら、立ち話をしている人たちがいた。3人のおばさんたちは明らかに観光客だが、もう一人のご老人は神職のいでたちである。そばで立ち止まって、少し話を聞いたが、何とこの話好きのご老人が、遠い祖先は高天原につながるという宮司さんだった。奥社へ参拝する山道で、たまたまそのような方にお目にかかって、しばし、浮世離れした気分になった。

 

     ( 天橋立 )

    ( 籠神社 )

 ( 奥社・眞名井神社 )

 一方、熱田神宮の尾張氏は、ヤマトタケルとミヤズヒメの話で有名である。ミヤズヒメは、尾張の豪族・尾張氏の息女である。ヤマトタケルは東国遠征に行く途中、尾張で出会い、その帰途に再び立ち寄って再会した。別れに際して彼女に草なぎの剣を託す。そして、大和へ向かう途中、伊吹山の神と素手で戦うこととなり、命を落とした。

 草なぎの剣とは、神代の時代に、スサノオがヤマタノオロチから取り出し、アマテラスに献上した剣である。この剣によって、ヤマトタケルは何度も危機を脱した。

 ヤマトタケルの形見の剣は、ミヤズヒメによって、熱田神宮に祀られた。熱田神宮のご神体は草なぎの剣である。

 尾張氏は東国の入り口の地に勢力をもち、しばしば皇妃を出した有力な氏族である。

 時代を経て7世紀、どういう事情があってか、大海人皇子 (のち、天武天皇) は幼少期に海部氏に育てられ、これを尾張氏が援助したという。「大海人」という名は、海部氏に由来するらしい。兄の天智天皇の崩御後、壬申の乱のとき、初め東に逃れ、尾張の軍勢を引き連れて、近江の大友皇子軍を撃破した。

 いずれも、海部氏や尾張氏が大きな存在であったことをうかがわせる話である。

 熱田神宮も、広々と奥深く、森閑とした、いい神社である。

 参拝後、ご近所で名物の鰻を食べた。美味かった。その後、食材の鰻が手に入りにくくなったが、どうしているのだろう? あの旨さを維持しているのであれば、もう一度、食べたいと思うが、値段は2倍? 3倍かな?

         ★

< 住吉大社の隆盛 > 

 このような海部氏や尾張氏と比べ、津守氏は地味な地方豪族に過ぎなかった。

 脚光を浴びたのは、大化の改新の後、朝廷が上町台地 (半島) の北端に、海に面して難波宮を造営したときである。難波に宮を置いたのは、百済や大陸との外交・交流を考えてのことであろう。

 ここは津守氏の勢力圏であったから、当然のことながら津守氏は難波宮の建設に貢献した。遷都されると、津守氏の祀る氏神が難波宮の地主神となり、朝廷からの尊崇を受けた。難波宮の時代はわずかな期間であったが、このとき、大阪の「住吉」は全国区になったのである。

 住吉大社が大きく脚光を浴びるようになる第2弾は、奈良時代の遣唐使船の派遣である。

 遣唐使の初期、遣唐使船は、住吉大社の南にあった住吉の津から出航し、やがて難波の津から出航するようになるが、いずれにしろ瀬戸内海を経て、北九州から唐に渡った。

 遣唐使は国家的な大事業であったから、朝廷はその成功を祈願するため、近畿各地の有力な神社に使者を出した。特に、住吉大社は航海安全の海の神であるから、手厚く奉幣した。こうして、住吉大社は、朝廷の「航海安全の神」になっていった。

 住吉大社は、今は、街の中にあるが、江戸時代までは海に面していて、太鼓橋のすぐ近くまで清らかな波が打ち寄せていたという。一帯は、白砂青松の風光明媚な所であった。

 遣唐使に選ばれた天下の秀才たちも、出航の前には、全員が大社に参拝して、生きて再び故国の土を踏むことができるよう祈願した。

 いよいよ船が出航すると、船上から、住吉の姫松が見えなくなるまで、切実な思いをもって名残を惜しんだ。

 遣唐使として海を渡った知識人たちが住吉大社をあつく信仰したことによって、いつしか住吉三神は学芸の神となり、また、和歌の神となっていった。藤原俊成も、定家も、歌道を志す人たちは、その上達を祈願して参拝した。風光明媚であったから、歌にも詠まれ、「住吉の松」は歌枕になった。

 おそらく 「源氏物語」 の影響は大きかっただろう。須磨に流されて苦しむ光源氏を救ったのは、住吉大社に帰依する明石入道であり、源氏はその娘である明石の上と結ばれる。

 「澪標 (ミヲツクシ)」の巻では、晴れて都に迎えられた光源氏が、多くの供人を従えて住吉大社に参拝し、折しも参詣に来ていた明石の上と、出会えそうで出会えないという絵巻物のような話が、住吉大社を舞台にして展開される。

 日本は農業国であったから、いつしか住吉大社は農耕の神さまにもなった。今も境内には約2反の田があり、田植えの神事が行われるそうだ。

 まことに日本の神は融通無碍で、祈る人の心とともにある。

 

 

 

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香椎宮と神功皇后伝説 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(8)

2016年06月18日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 香椎宮に寄る >

 伊都国歴史博物館から志賀島に行く途中、香椎宮 (カシイグウ) に寄った。

   ( 香椎宮鳥居 )

 ここは、仲哀天皇が熊襲征伐のため九州に遠征したとき、仮宮が置かれ、天皇が崩御したため霊廟になった所 …… とされる。

 10世紀には、霊廟が神社となり、仲哀天皇、神功皇后が主祭神として祀られた。

                  

  ( 香椎宮の拝殿 )

                   ★

< 卑弥呼を思わせる神功皇后伝説 >

 『古事記』『日本書紀』(併せて記紀)は、8世紀の初めに成立した我が国最初の歴史書であるが、「神代」記はさておき、それ以後の叙述においても、史実というより、「伝説」とした方がよいエピソードが挿入されている。

 「神武東征」やヤマトタケルの話などがその例で、熊野の密林の中を苦難の行軍するイハレビコを先導したのは八咫烏である。また、東国遠征の帰路、疲労困憊してついに倒れたヤマトタケルの魂は、望郷の念抑えがたく、白鳥となって大和の方へ飛んで行った…。

 これらの話が史実と言えないのは言うまでもないが、イハレビコもヤマトタケルも、ハリウッド映画に登場する主人公のようにカッコよく描かれているわけではない。戦いに敗れたり、九死に一生を得たりする叙述の語り口は訥々として、古代人の「人間」としての息吹が感じられる。

 それにひきかえ、世に「神功皇后の新羅征伐」と言われる話は、全く非現実的で、神話的・神がかり的である。

 神功皇后、即ちオキナガタラシヒメについても、歴史上の人ではないだろうと言われる。滋賀県の豪族・息長氏の息女だが、謎多く、よくわからないようだ。

 以下、改めて、…… 『古事記』に描かれた「神功皇后の新羅征伐」とは、こんな話である。

         ★

  ( 仲哀天皇の熊襲征伐のための仮宮跡 )

 仲哀天皇は、筑紫の仮宮・香椎宮で、熊襲との戦いに臨み、神依せ (カミヨセ) をした。神は神功皇后 (オキナガタラシヒメ) に依せて、「西の方に豊かな国がある。そこを服属させて、与えよう」 とお告げを下した。西の方には海があるばかりではないかと、そのお告げを信じなかった仲哀天皇は、神の怒りにふれて息絶える。(ちなみに、この薄幸の天皇は、伝説の皇子ヤマトタケルの子である)。

   皇后は身重であった。お告げは、「その国は、そなたの腹の中の御子が治める国である」 と言う。

 皇后は、お告げを信じ、軍船を整え、お告げを下した三柱の海の神々 (底筒男、中筒男、上筒男) を、軍船の上に祀って出陣する。すると、海の魚という魚が軍船を背負い、追い風も受けて、船は一気に進んで新羅の国に押しあげ、国の半ばにまで達した。驚いた新羅王は恐れ降伏する。

 皇后は帰国し、筑紫で男子 (ホンダワケ=応神天皇) を生んだ。

 このあと、神功皇后は、大臣・建内宿祢とともに、難波から大和へと向かい、ホンダワケの異母兄たちと大王位をめぐって争い、勝利することになる。

 『日本書紀』の記述を踏まえて絵を描けば、神功皇后は誠に勇壮で、男装して鎧を着、弓矢を持って、軍船の甲板の上に立つ。だが、『古事記』の記述だけをすなおに読めば、身重の神功皇后は軍船に乗っていただけで、新羅王を降伏させたのは全て海の神の奇蹟的な業である。ゆえに、その姿は巫女のような装束こそふさわしい。まさに 「卑弥呼」 的な女性である。

         ★

< 伝説の背景にあるもの……海人たちの神々 >

 日本列島がまだクニグニであったころ、朝鮮半島の北部には中国大陸の勢力 ── 前漢や後漢や魏 ── が侵出して、楽浪郡やさらに南に帯方郡をつくった。

 半島南部には、西に馬韓(のち百済国)、東に辰韓(のち新羅国)、南に弁韓があり、日本列島と同じように、それぞれ数十のクニグニによって構成されていた。

 半島の最南端の弁韓の辺りは、駕洛と呼ばれた。朝鮮語ではKalak。日本にくると子音の単独発音ができないから、最後のkが落ち、カラになる。加羅と漢字を当てても、同じ言葉である。伽耶も同じで、l 音は y 音に変わりやすいから、カラがカヤになった。『魏志倭人伝』の筆者は、カヤをクヤと聞いたから、狗邪韓国と記した。日本の古記録ではそこを任那と呼んでいた。

 以上は、司馬遼太郎『韓のくに紀行』によるが、司馬はさらに、 倭という言葉は、もと、半島南部の最南端に棲む人たちと北九州に棲む人たちを指していたのではないか、そういう伝承もあるらしい、という。一衣帯水というが、海を隔てて同類であった、というのである。言葉も、方言程度の違いはあれ、通じ合っていた。

 このようにいうと、センシティブな韓国人は 「日本は、古代も韓国が日本の植民地だったというのか」 と怒るだろうが、植民地という19、20世紀的用語をあえて使うなら、半島最南端の人たちが、稲作の技術を携えて、北九州に植民したのだ。もちろん、北九州からも、新技術を求めて半島南部に出張した。

 朝鮮半島最南端部から、遥か昔の縄文時代の釣り針も発見されている。また、縄文人の埋葬された人骨も発見されている。古代における日本海は、現代よりもずっと狭い。

 前回、「奴国」や「伊都国」の初期の段階の遺跡から、甕棺が多数出土していることを記した。甕棺は、世界でも珍しい埋葬方法で、その分布は揚子江河口部、朝鮮半島南部、そして北九州である。これは、稲作の伝達ルートと同じである。

 さて、半島南端の伽耶地方の人々と、北九州の倭人たちとを結び付けていたのは、海に生きる男たちである。海人 (アマ) と呼ばれた。

 伽耶が周辺のクニグニから攻められて助けを求めてくれば、血気盛んな玄界灘周辺の海人たちは、船団をつくって助けに行ったり、そうは言っても、海に隔てられているのはたいそう不便で、「いっそこっちへ移住してきたらどうだ」 と言ったりした。

 弥生時代も後半になり、鉄の時代になってくると、鉄素材確保のために、伽耶は一層、重要になる。日本海を越えて、北九州に鉄素材を運んできたのも、玄界灘の海人たちであった。

 海の男たちは、自然界の神々に対して、畏敬の念を抱く。日本海を越えようとするときには、船頭 (フナガシラ) 以下、みなで禊をし、神々の加護を祈願して後、出航した。

 記紀において「神功皇后」を導いたとされる底筒男、中筒男、上筒男の神々は、もともと彼ら海人たちの神々であり、航海の守護神であった。

 今、その三柱の神々は、全国の「住吉神社」に祀られている。

 全国2300社もあると言われる住吉神社の総本社は大阪の住吉大社。しかし、博多にある住吉神社こそ、住吉神社の始原だ、と言われる。大阪の住吉大社が摂津国の一宮なら、博多の住吉神社は筑前国の一宮だ。その境内からは、銅矛、銅戈も出土したそうだ。

 海人たちと、彼らが尊崇した住吉の神々を抜きにして、神功皇后の話は成立しなかったということだ。

 少なくとも、この伝説の原型となる話を語り伝えていたのは、海人たちであったに違いない。

         ★

< 神功皇后伝説の舞台となった時代 >

 では、神功皇后伝説が生まれてくるような時代的背景があったのだろうか?? 歴史家は、神功皇后伝説そのものは虚構であるが、生まれてくる背景はあったと言う。

 3世紀後半になると、日本列島は古墳時代に入っていく。さらに、4世紀末から5世紀になると、いわゆる「応神陵」「仁徳陵」に見られるような「超」の付く巨大古墳が造られ、中国の史書に「倭の五王」が登場する時代になる。

 半島においても、北方系の高句麗が、中国大陸の弱体化につけ込み、楽浪郡、帯方郡を滅ぼして、建国を果たした (AD323)。

 小さなクニグニの寄り集まりであった半島南部の馬韓には百済国が (AD346)、辰韓には新羅国が建国する (AD356)。

 その結果、半島南端の伽耶地方のクニグニは絶えず圧迫されるようになる。

 また、馬韓のクニグニの中から出て、百済国を建国した王は、高句麗系(北方系)の人だと言われるが、その民の多くは、伽耶と同じように、倭と同種の人たちだったのかもしれない。歴代の百済王は、高句麗を拒否し、倭と手を結ぶことを選択している。

 話を「神功皇后」伝説に戻せば、…… 例えば、吉村武彦 『ヤマト王権』 (岩波新書) には、このように叙述されている。

 「 (記紀にみる神功皇后の話は)  虚構であるとはいえ、歴史的背景があったことに注意したい。広開土王碑文に、4世紀末、倭国が百済と新羅を 『臣民』とした記述がみられるからである」。

 韓国ドラマ『大王四神記』(ヨンサマ主演) は、広開土王が主人公だった。その大王の事績を記念する、5世紀に建てられた碑が「広開土王碑」である。

 そこには、「倭が新羅を破り、百済と新羅の民を臣民にした(AD391) 。そこで、 われらが英雄・広開土王が百済を征討し、百済は再び高句麗との属民関係に戻った(AD396) 。ところが、 百済は高句麗を裏切り、またもや倭との関係を復活した(AD399) 。しかも、倭は、新羅や旧帯方郡の辺りまで侵攻してきたので、これと戦い、高句麗軍が勝利した (AD404)」 などと書かれている。

 倭と半島との関係を示すもう一つの資料として、『三国史記』の百済本紀もある。

 石上神社に伝わる「七支刀」に刻まれた文字も、この時代の倭と百済の関係を示している。 

 このころの朝鮮半島の状況は、「高句麗の南下と倭の侵出」であり 、この時代、伽耶や百済 (における権益) を守ろうとしたヤマト王権が直面していた強敵は、新羅ではなく、高句麗であった。

 こうした時代があって、海人たちは、自分たちの渡海や戦いの経験を子や孫に語り聞かせ、そうして、世代から世代へと語り伝えられるうちに、話は伝説らしく成長していった、と考えてもまちがいはなかろう。

 そして、8世紀の初め、日夜、歴史編纂事業に励んでいた宮廷の秀才たちは、膨大な取材・収集資料の中から、5世紀の半島への進出をうかがわせる海人たちに伝えられた伝説を拾い上げ、記紀に書き込んだのである。

 その際、もともと海人たちの間に伝わっていた伝説を、どの程度変形・脚色して記紀に記載したのか、或いは、もともと今見るようなものであったのか、それは、今はもう、わからない。

 ただ、先入観なしに記紀に書かれたこの話を読めば、先に書いたように、新羅を降伏させたのは住吉の海の神々であり、船上に陣取っていたのは海人たちと軍勢であって、さすれば、「神功皇后」は、後から付け加えられた装飾ということになる。

         ★

< 海人たちの「伝説」の原型は?? >

 だが、しかし、 …… と思う。自分たちが「絵」の中心では、いささかむさくるしいのではないかと、海の男たち自身が思ったとしても、そう不思議ではない。

 たとえば、…… 彼らは、この玄界灘に、大和の大王に付いて、美しいお妃もやって来ている、ということを噂に聞いていた。

 いよいよ出陣という朝、巫女のような衣裳をまとった清楚で美しい女性が浜にやって来て、彼らが尊崇する海の神々に祈りをささげた。

 海の男たちは、この光景に、ただ感動した。

 そして、彼らが戦いから帰ったとき、その女性は御子を抱いて、彼らを迎えた。

 …… というような出来事があり、それが、海人たちの間に語り継がれて、尾ひれもついて、記紀のような伝説になった …… とも考えられる。美女は、船上にいてくれた方がもっといい、と想像するくらいには、彼らもフェミニストであった。

 玄界灘一帯の津々浦々に、皇后だけでなく、童子ホンダワケ (のちの応神天皇) の伝説も語り継がれていたらしい。

 この童子の伝説をいち早く取り込んだのが宇佐八幡宮である。もともとローカルな宇佐氏の氏神に過ぎなかった神社が、童子ホンダワケを祭神としたことによって、全国区の神社になったのである。

         ★

 秀才というものは、伝説を採集してきて、それをきちんと記録することは得意であるが、自分たちが歴史を「創作」してしまうことには、良心が痛む人たちである。── 上司の指示でもない限り。

 当時、彼らのトップに君臨していたのは、中臣鎌足の跡継ぎの藤原不比等だった。怜悧な能吏で、必要とあればウソもつくが、根は真面目な人である。 

         ★

< 漆黒の軍団 >

 今、NHKの大河ドラマ「真田丸」が面白いが、真田軍の軍装は赤具え。徳川方の将兵たちからも、「敵ながら何とかっこいい!!」と思われていた。

 西川寿勝、田中晋作共著『倭国の軍団 … 巨大古墳時代の軍事と外交 … 』 (NHK大阪文化センター) は、5世紀のヤマト王権時代の軍装について、次のように書いている。

 「日本列島で見られる武装は、黒漆を塗った甲冑で武装することが一般的です。『漆黒の軍団』ということができるかもしれません。つまり、漆黒の軍団のなかに金色の甲冑をまとった有力者がいた、というイメージです」。

         ★

  以前、宮崎観光のツアーに参加したことがある。

 途中、観光バスは、西都原 (サイトバル) 古墳群公園を見学し、県立考古博物館に入館した。

 観光ツアーが、古墳を見学したり、博物館に入館するのは珍しい。

 古墳公園は、広大で、あちこちに緑で覆われた円い墳墓のふくらみがあって、美しかった。

 一基の円墳の中を見学したが、公園には大きな前方後円墳も2基ある。そのうちの「女狭穂塚」は長さは180mで、大阪藤井寺市にある仲津山古墳の5分の3の相似形。どちらも宮内庁の管轄になっていて、立ち入り禁止である。

 考古博物館は、各府県にある同種の博物館のイメージを一新し、幻想的な演出が素晴らしく、これなら観光バスが立ち寄っても、十分にこたえられると思った。

 

                  (西都原古墳群)

 その博物館に、古墳時代の馬上の武人のイメージ像があった。

 もし本物なら、戦いを挑むことは敬遠したくなるだろう。迫力があった。

 大王に従って、日本各地や、もしかしたら半島にまで遠征した、漆黒の馬上の兵士像である。

 

 倭人は、半島での戦いから、騎馬を学び、鉄片を綴った鎧を身に付けるようになっていた。  

          ★

<記紀の時代の神功皇后伝説> 

 記紀が編纂されたのは8世紀の初め (712年、720年) である。

 記紀の編集者たちは、膨大な歴史書編纂資料の中から、なぜ、「神功皇后の新羅征伐」という神がかり的な話を選択して、挿入したのだろうか??

 それは、英雄的な大王であったホンダワケ・応神天皇が、まだ母の胎内にいたとき、半島に遠征して、新羅を降伏させた、ということを記紀に記録したかったのである。

 663年、白村江で敗れた日本は、近代的な国家づくりを急いでいた。記紀の編集はその最終章の一つであるが、当時の日本にとって、伽耶も百済も高句麗もすでに滅んでなく、仮想敵は新羅とそのうしろにいる唐であった。

 この時代の国際情勢は、高句麗ではなく、何よりも「新羅征伐」の話を必要としていたのである。

 

 

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「奴国」と「伊都国」に立ち寄る … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(7)

2016年06月11日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 「奴国の丘歴史公園」へ > 

 「春日市奴国の丘歴史資料館」のパーキングに車を置くと、すぐ目の前に芝におおわれた丘があった。お天気が良く、自ずから資料館は後回しとなり、のどかな丘の方ヘ足が向く。「奴国の丘歴史公園」だ。

 丘の頂上付近に天文台のドームのような建物が見える。春の日差しがのどかな丘には少々無粋な建物と思いつつ近づいて見ると、入り口は開放され、自由に内部を見学できるようになっていた。

 ドームは出土した遺跡を覆うための覆屋 (フクヤ) だった。

 掲示パネルをななめ読みした。

 春日市一帯は「弥生銀座」と呼ばれ、この丘も須玖岡本遺跡の一角で、この覆屋の中には、発掘された甕棺墓の様子が、発掘された状態でわかるように展示してある。

   ( 覆屋の中の甕棺 )

 さらに ── この丘から200mほど先には他の墓群と隔絶したような墳墓があり、大石の蓋の下の甕棺から前漢時代の銅鏡30面のほか、銅剣、銅矛、ガラスの勾玉などが多量に出土した。

 この墳墓こそ、福岡平野一帯を治めていた王 ── 中国の歴史書にいう「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。歳時を以て来たりて献見す」の時代の王の墳丘墓に違いない、とされている。

 これらの出土品は、歴史資料館の方にあるが、その王墓の甕棺の上に置かれていた大石は、この丘に運ばれ、樹木の下に囲ってある。

         ( 奴国の丘の王墓の石蓋 )

 気持のよい日差しのなか、ぶらぶら歩いていると、丘のはずれにごく小さな社があった。入口に「熊野神社」とある。ここにもパネルが立てられている。

 江戸時代に畑の中から銅矛用の鋳型が発見された。それを熊野神社が神社の神宝として大切に保存してきた。銅矛の鋳型は珍しく、今は国の重要文化財となっている。

 古代の銅矛の鋳型を神宝として大切にしていたという、ちょっと浮世離れしたゆかしい話である。

   ( 熊野神社と説明パネル )

 「奴国の丘歴史資料館」に入る。

 春日市の遺跡から出土した埋蔵文化財を収蔵・展示している市の施設で、展示物の撮影は禁止だった。

        ★

< 「伊都国歴史博物館」へ >

 「糸島市伊都国歴史博物館」は、奴国の丘から車で1時間弱。 

 三雲南小路遺跡はその糸島市にあり、初期「伊都国」の姿をうかがわせる遺跡とされている。

 糸島市はもとは糸島郡であった。その糸島郡は、律令時代以後明治に至るまでずっと怡土 (イト) 郡と志摩郡の2郡であった。三雲南小路遺跡はその旧怡土 (イト) 郡にある。「伊都国」という名称の由来である。

 三雲南小路遺跡の王墓からの出土品は、須玖岡本遺跡の王墓の出土品と極めてよく似ており、BC1世紀ごろの前漢・楽浪郡との密な交渉を示す。

 また、この遺跡から1.3キロ離れたところで、平原 (ヒラバル) 遺跡が発掘された。

 これは三雲南小路遺跡より新しい時代のもので、弥生時代後期後半の遺跡。1号墓からは日本最大の銅鏡をはじめとする42面の銅鏡、ガラス勾玉、メノウ管玉などの副葬品が発掘され、巫女的な女王墓ではないか、もしかしたらここが卑弥呼の墓では、と騒がれた。

 しかし、『魏志倭人伝』の記述によれば、「伊都国」 は帯方郡から邪馬台国に至る途中にあった国の一つとして紹介されている。つまり、ここを女王・卑弥呼の墓と想定するのは、よって立つ『魏志倭人伝』そのものの否定となり、ムリがある。

 ただ、伊都国は、邪馬台国に至る途中にあった国の一つというだけでなく、『魏志倭人伝』のなかの記述では特別の存在感をもっている。

   その一つが「郡使の往来常に留まる所なり」とあること。郡使は魏の楽浪郡の使いのことで、倭に入ったときに、ここで邪馬台国からの指示を待ち、或いは、出国するときにも一旦、ここに滞在することになっていたのだろう。楽浪郡の大使館があって、楽浪郡の役人が常駐していたのかもしれない。

 この旅に出る直前の3月、新聞に、「伊都国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、国内最古級の硯の破片がが出土した」という記事が出た。楽浪郡の遺跡から出土した硯と一致し、また、50点を超える楽浪系土器も出土したという。西谷正・九大名誉教授の談として、「外交文書や品物の目録作成を、伊都国に滞在する楽浪人が担っていたことをうかがわせる発見だ」。

 もう一つ、この伊都国には、「一大率」という高官が配置されており、その役職は諸国を検察することにあったという記述であること。諸国とは九州の国々のことであろうか??

 以上の二つを考えるとき、卑弥呼の時代の伊都国は、7世紀以後の太宰府の役割を果たしていたことになる。

       ( 伊都国歴史博物館 )

 「伊都国歴史博物館」の展示物はやはり撮影禁止。

 国宝に指定されている中国製の最大の銅鏡、ガラスや碧玉製の勾玉、太刀、さらには甕棺などもたくさん陳列されていた。それらの品々を見て回り、この時代の雰囲気を感じとって、良しとする。

         ( 館内展示室 )

 廊下に出て、二階ロビーのような場所に不気味な姿があり、思わず笑った。ちょっと悪趣味だが、社会見学でここを訪れる小学生たちには、人気者かもしれない。

  ( 館内2階テラスの弥生人 )

        ★

 ここから、志賀島へ向かう。今日の一番のお目当ては「志賀海神社」である。慣れない道だ。志賀海神社に参拝して、夕方、明るいうちに今日の宿の国民休暇村に着きたい。

 

 

 

 

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「邪馬台国」幻想 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(6)

2016年06月05日 | 国内旅行…玄界灘の旅

 (大阪府立弥生文化博物館の卑弥呼像) 

 今回も、歴史好きの方には自明のこと、そうでない方にとっても、ちょっと調べればわかることばかりの内容だが、私自身の覚書き帳でもあるので、どうかご容赦いただき、読み飛ばしていただきたい。

 今回は、石田日出志 『 シリーズ日本古代史1 農耕社会の成立 』、吉村武彦 『 シリーズ日本古代史2 ヤマト政権 』 (いずれも岩波新書) などを参考にした。

          ★

< 奴国 (ナコク) と伊都国(イトコク) > 

 この紀行の題を、「玄界灘に古代の日本をたずねる旅」 としたが、ひとくくりに「古代」と言っても、白村江の戦いは7世紀、『魏志倭人伝』 に登場する「奴国」と 「伊都国」は 「邪馬台国」の時代だから、古墳時代に入る直前の3世紀、そして、『後漢書東夷伝』 に登場する「奴国」はまだ弥生時代の1世紀である。その間だけでも実に600年の時間の流れがあり、仮に2016年を基準にすれば、室町時代までさかのぼることになる。

 そんなことを考えていると、奴国や伊都国は遥かに彼方で、白村江の戦いはより近い出来事に感じられてくる。

 さて、太宰府の水城から博多湾までは、直線距離で12~13キロ。「奴国の丘歴史公園」は、その途中、水城から直線距離にしてわずか4キロ余のところにある。ということは、2~3世紀のころにさかのぼれば、水城や太宰府の辺りは、「奴国」の勢力圏だったに違いない。

 一方、「奴国の丘歴史公園」から、博多湾にほぼ平行して西の方角、直線距離にしてざっと20キロのところに、「伊都国歴史博物館」はある。車で約1時間の距離である。

 「奴国」 と 「伊都国」 は、「国」というよりも 、「クニ」 と呼ぶべき時代から、北九州の玄界灘・博多湾近くにあって、先進的な大陸の文化を吸収しながら成長していった。西暦で言えば、BC1世紀からAD3世紀のころで、考古学では、弥生時代の中期から晩期に当たる。

          ★

< 中国の史書にみる古代の日本 >

  文字が普及していなかった頃の古代日本の姿を伝える中国の史書は、『 漢書地理誌 』、『 後漢書東夷伝 』、『魏志倭人伝 』 だが、そこから古代日本に関する事項をメモ風に抜きだすと、次のようになる。

< BC202 秦が滅び、前漢建国>

< BC108 前漢の武帝が朝鮮半島北部に楽浪郡を置く > 

〇 BC1世紀 「分かれて百余国」の時代

 『漢書地理誌』に、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。歳時を以て来たりて献見す」 とある。前漢が置いた楽浪郡に、倭の国々は使者を送っていた。

 考古学的には弥生時代中期に当たり、この時代の北九州の遺跡としては 須玖岡本遺跡 (のちの「奴国」)、三雲南小路遺跡 (のちの「伊都国」) がある。二つの遺跡からは「前漢の鏡」をはじめ、銅剣、勾玉などが発掘され、北九州が経済的・文化的に先進地域であったことが分かる。

 ただ、同じ頃、北九州だけでなく、列島各地に大規模な環濠集落が発達していた。吉野ヶ里遺跡 (佐賀)、唐古・鍵遺跡 (奈良)、池上・曽根遺跡 (大阪)などで、その一つ一つが 「クニ」 と呼べるものであった。

    (池上・曽根遺跡)

< AD24 後漢興る >

〇 AD57 倭の奴国王が、後漢に朝貢し、金印をもらう

 「光武(帝)、賜うに印綬をもってす」とある。考古学的には、弥生時代後期前葉になる。1784年 (江戸時代)、博多湾の沖合の島、志賀島 (シカノシマ) で、「漢委奴國王」と刻まれた金印が偶然発見された。何故、志賀島 (今夜の宿のある島) なのかは、わからない。だが、文字が漢代の隷書体であること、現在の印鑑とは逆に文字がくぼんだ形であること、極めて精巧に、後漢時代の寸法で作られていることから、本もの間違いなしとされ、国宝に指定されている。

〇 AD107 倭国王の帥升が、後漢皇帝に謁見

 2世紀初めにはクニグニを代表する倭国王が存在し、大陸との外交に当たっていたと推定される。

 2世紀の後半になると、「弥生の墳丘墓」と呼ばれる数十mから100mに及ぶ大きな墳丘墓が造られるようになった。それは出雲、吉備、大和、丹波、北陸、関東の千葉にまで広がっている。一方、後漢の衰亡に合わせるように、北九州勢力は地盤沈下する。

〇 AD170~190頃 『魏志倭人伝』に「倭国の大乱」の記述

 「(その国、もと男子を以て王となし、とどまること七、八十年、)  倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王となす」とある。AD180~190頃、クニグニによって一人の少女が共立され、大乱は治まった。倭国の女王・卑弥呼(ヒメミコか??)の登場である。都は邪馬台国(ヤマト国)に置かれた。

< AD220 後漢滅亡し、三国時代へ >

〇 AD239~240 卑弥呼は使者を魏の帯方郡へ派遣。翌年、魏より「親魏倭王」の称号をもらう。

 ※ 『魏志倭人伝』によると、盟主・邪馬台国を中心に30ほどの国が従属していた。

   ※『魏志倭人伝』に記述されている、有名な邪馬台国までの行程は、次のようである。

 

 (伊都国歴史博物館の展示から概念図)

 帯方郡  → 狗耶韓国 ( 狗耶 クヤ は、現在の釜山付近にあった金官国。カヤ、任那などととも)

→ 対馬国 → 一支 (イキ) 国 ( 壱岐) 

→ 末蘆 (マツラ) 国 (佐賀県・唐津市付近)

→ 伊都国 (福岡県・糸島市付近) 

→ 奴国 (福岡県・春日市付近) 

→ 不弥 (フヤ) 国 (福岡県・宇美町付近??) 

→ 投馬 (トウマ) 国 ( 不明だが、瀬戸内海行程なら吉備、日本海行程なら出雲か?? )   

→ 邪馬台国 (奈良県・纏向 マキムク 遺跡)                                                 

〇 AD247 卑弥呼が奴 (クナ) 国との戦いを前に、魏に援軍を求める使者を送る

〇 AD247or248 卑弥呼死ぬ

〇 その後、男王が立つも、相争い1000人が死ぬ。13歳の台予or壱予を立てて治まる 

< AD265 魏滅びる >

< AD313 高句麗が勃興し、楽浪郡を滅ぼす >

< 316 西晋滅び、南北朝時代へ >

< 346 百済建国 >

< 356 新羅建国 >

          ★

 「奴国」の「奴」は、那珂川の「那」であろう。中華思想で、周辺国には卑しい文字がわざわざ当てられた。「那の国」である。すると、音の響きが心地よい。

 ついでながら、「邪馬台国」の「台」は、「と」 と読む。「やまと」 国と読むのが正しい。これは、国語学では、ほぼ確定である。

 詳しいことは省くが、当時、「と」 という音は2種類あった。音の違いを書き表すには、当てる漢字を使い分ける。「台」という漢字を当てる 「と」 は、近畿の 「大和」 の 「と」 である。邪馬台国九州説は、九州にも「山門 (やまと) 」 がある(福岡県柳川市)と言うが、「山門」の 「と」 は、もう一つの 「と」 で、「台」 という漢字を当てることはない。現代日本語で 「ライト」 と言っても、英語圏で 「right」 と 「 light」 を混同することがないのと同じである。

 考古学も日進月歩で、多くの状況証拠が、邪馬台国は奈良県の大和だということを指し示している。

          ★

< 鉄器が少ない >

 だが、問題は残る。

 時代は鉄の時代に入っていた。鉄は貴重である。クニグニの首長たちが盟主国に期待するのは、倭国を代表して半島から鉄を輸入すること (この時代、鉄の素材は半島南東部でしか産しなかった)、及び、それを各首長に分配する采配の力量であった … と、歴史学者は言う。

 ところが、今、考古学会で論争が起こっている、そうだ。

 弥生時代の後期になっても、九州 (北部、中部) や山陰や丹後などと比べて、大和及びその周辺部から発掘される鉄器が少ないのである。

 邪馬台国=大和説の人たちは、「見つかっていないだけ。そのうち、出てくるよ」 と言っていたが、歳月を経て、むしろ発掘される鉄器の質量に差は開くばかりだ。そこで、「いや、鉄は加工・再利用できるから出ないんだよ。溶かしてより高度な鉄製品に作り直したら、出てこないよね」と説明した。ところが、大和や近畿圏で発掘された鉄器生産の場の遺跡を見ると、鉄器生産の技術レベルそのものが低いのである。これでは、鉄の後進国ではないか!!

 ところが、古墳時代になると、当然のことながら鉄器の発掘量は、大和とその周辺で、飛躍的に増える。

 この「段差」は、何なのか??

 そもそも古墳時代とは、九州から関東に及ぶ各首長の墳墓が、大和の大王の巨大な前方後円墳の縮小・相似形で造られるようになった時代である。前方後円墳の始まりは、「箸墓」。3世紀の後半のものと推定される。

 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死 (247または248年) 後、180mという巨大な墳墓が造られた、と記述されている。

 「箸墓」の長さはまさに180mである。(ただし、周囲に幅60mの濠があることが分かり、濠も入れると、さらに巨大な墳墓になる)。

 もともと箸墓は卑弥呼より半世紀以上も後の、4世紀初めごろの墳墓と考えられていたのだが、最近の考古学の科学的手法の進化で、もっと古い時期のもの、卑弥呼か、少なくともその後継者の台予または壱予の墓、いやいや完成までに10年、20年はかかるとしたら、やはり卑弥呼の墓だろうとされるようになった。『魏志倭人伝』と考古学が一致したのである。

 であれば、邪馬台(ヤマト)国は大和にあり、このときから古墳時代が始まったと考えるべきであろう。

 にもかかわらず、なぜ、古墳時代を前にした弥生時代後期になっても、大和において、鉄の文明度は低いのか。なぜ、古墳時代に入ったら、鉄器が飛躍的に増えるのか?? 弥生時代から古墳時代に移行する過程の、この大きな「段差」をどう説明するか?? こういうことで、考古学者は、今、頭を悩ませているのである。

          ★

< 私の「邪馬台国」幻想 >

 そこで、私の幻想がはじまる。1億日本国民の誰にでも許される「邪馬台国」幻想の一つとして ……。

 ( この 「……」 は、読者を現実ならざる世界に誘う瞬時の時の流れを表している )。

 歴史に「段差」があるのは、そこに急激な変化があった、ということであろう。では、「急激な変化」とは何か? 政治的、経済的、社会的変化の中で、急激な変化とは、「政変」以外に考えられない。

 戦後の歴史学者や考古学者は実証主義者であるから、というよりも、反『古事記』『日本書紀』を旗印にしているところがあるから、『古事記』 や 『日本書紀』 に叙述された「神武東征」伝説など一笑に付してきた。

 だが、古代史の真実は、しばしば伝説の奥にひそんでいることを、あのシュリーマンも証明した。世の中の進歩は、まずロマンチストが先行し、その後ろを実証主義者があたふたと付いてくるのである。

 「神武東征」伝説こそ、この問題を解くカギなのである。

 九州の日向からやって来たイハレビコたちは、最初、河内湾を入り、生駒山麓西岸に上陸しようとして、待ち受けていた「邪馬台国」の軍勢に攻撃され、敗退した。その結果、兄を亡くしたうえ、紀伊半島の密林の中を大迂回するという艱難辛苦をしいられた。

 第2戦は、大和の南の山間地から始まる。遠い異郷の地で、もう引き返すことができない状況に追い込まれているイハレビコ軍の士気は高く、少数といえども結束は固かった。しかも、彼らは最新鋭の鉄の武具を具え、グルーブの中には鉄器の技術者もいたのだ。

 一方、「邪馬台国」側は、先の狗奴(クナ)国連合 (東日本連合) との大戦を、「邪馬台国」連合 (西日本連合) の先頭に立って戦い、勝利したのだが、損害は甚大で、疲弊し、しかも、その直後に高齢の女王卑弥呼が没して、士気は著しく低下していた。

 『魏志倭人伝』に、卑弥呼の死のあと、「相争い千人が死ぬ」とある。多分、死傷者1000人くらいの戦いを経て、ヤマトの呪術的な政権は、この九州の日向からやってきた若者たちに王権を譲ったのである。『古事記』の「神武東征」を読めば、最後はいかにも日本的な「国譲り」で終わっていることに気づく。

 時代は変わろうとしている、この手ごわい若者たちに期待しても良いのではないか、という声は「邪馬台国」の長老たち(大和、河内周辺の豪族連合)の中から起こり、国は譲られたのである。

 このようにして、ヤマト王権は誕生したのだ。

 だが、このマイノリティ王権に対して、最初から、「邪馬台国」内の既存勢力や、まして列島各地の首長が治まったわけではない。

 新王イハレビコは土地の最有力者の娘を妃に迎えたし、女王卑弥呼を継いだ台予または壱予なる少女は実は新王の妹或いは娘であったが、とにかく呪術的な女王を立てなければ治まらなかったのである。亡き卑弥呼の墳墓=「箸墓」を手厚く造営したのも、イハレビコと台予または壱予であった。それは、かつて誰も見たことがない、中国の皇帝の墳墓を凌ぐ巨大墳墓であった。

 しかし、マイノリティであったが、新王権は彼らのやり方も次々と出していった。

 自然界の神々を敬ったが、おどろおどろしいシャーマン政治はほぼ排した。

 中国の皇帝からもらった銅鏡を首長たちに配って、自らを権威づけるようなやり方もしなかった。

 その代わり、各地の首長が亡くなったとき、先に亡くなった大王の墳墓の縮小・相似形の墳墓を造って、ヤマト王権との連帯を示すよう要請した。大王の方も、首長からの求めがあれば、新しい墳墓に葺く美しい淡路島の玉砂利や、石棺用の兵庫県の巨石を、東征の途中で親しくなった野島の海人に海上輸送させた。埴輪職人を多数養成し、各地に派遣して埴輪づくりを一手に引き受け、盟主としての心意気を示した。

 半島の新しい効率的な陶器づくりを学んで、大規模な陶器工場を造り、これを上下の別なく全国に配布した。

 鉄器生産に力を入れ、武具だけでなく、農具も改良した。

 こうして、この新しい王権は、呪術的で内向きな「邪馬台国」とは肌合いの異なる、新しい統治を始めたのである。

 ヤマト王権は、「邪馬台国」ではない。「邪馬台国」を受け継ぎながら生まれた、新しい王権であった。

 もちろん、世の中が落ち着き、マイノリティーの王権の権威が確立していくには、各方面に四道将軍を派遣するなど、まだ幾世代かが必要ではあったが ……。

  …… というのが、私の筋書である。

          ★

 「邪馬台国」=大和説の学者には、「邪馬台国」からヤマト王権へと水が流れるように続いでいくと考える人が多い。

 「邪馬台国」=九州説の中には、「神武東征」は「邪馬台国」の東征のことで、それがヤマト王権をつくったと主張する意見がある。九州、九州と、九州にこだわっていたら、その直後に登場するヤマト王権の説明ができない。

 私の説は、「邪馬台国」は大和にあった、とする。でなければ、箸墓の説明がつかない。

 「東征」したイハレビコは、九州の「日向」から出発した。高千穂のある、日に向かう所だが、今になってみれば、そこがどこかはわからない。北九州でないことは明らかだ。いずれにしろ列島の首長たちとは異なる新興の勢力であった。

 ローマ帝国をつくったのも、最初はオオカミに育てられたという伝説を持つ兄弟と、彼らをリーダーとする千人ほどの羊飼いの若者グループだったらしい。それが、今のローマの辺りのクニグニと、戦って合併したり、平和的に合併したりして、知恵ある長老や元気な若者や娘たちを取り込んで、奇蹟のように成長していった。 

          ★

 …… とまあ、このように言い、かつ、私が節制努力して少々長生きしたとしても、私が生きている間に、この仮説が立証されるのは、ちょっとむずかしい

 でもネ、実証主義者の目には見えなくても、あるものはあるんだヨ

          ★

  脱線はこれくらいにして、次回からまた本題に戻りましょう。

 

 

 

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水城にみる古代日本と現代の東アジア情勢 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(5)

2016年05月21日 | 国内旅行…玄界灘の旅

水城 (ミズキ) にみる古代日本 > 

 『日本書紀』にいわく、「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ」。

 水城 (ミズキ) は、唐の水軍が博多方面に上陸し、侵攻してきたときに、太宰府を守る防衛線として、664年に築かせた直線状の土塁と堀である。平野部の、両側から山が迫って狭くなった箇所を塞ぐように築かれ、その間は1.2キロである。

 

  (「太宰府展示館」の展示資料)

 さらに、翌年には太宰府の東の山頂に大野城を築き、続いて基肄 (キイ) 城などの山城を次々築いていく。大野城は、広い区域を城壁で囲った朝鮮式の山城で、軍事に通じた亡命百済貴族の指揮の下に建設された。いざというときには、太宰府をこの中に遷し、長期戦を戦うための城である。

  上の図は、「太宰府展示館」の展示資料で、水色は博多湾、緑色は平野部。図中の1~6が水城。その東に大野城がある。

 そのときから1300年余年の歳月が過ぎた。今、水城は、樹木でおおわれ、平野に取り残された林のつらなりのように見える。知らない人は、なぜこのような自然の丘陵が、自動車道路や線路を横切っているのか、不審に思うだろう。

 

         (現在の水城)

 きのう訪問した九州国立博物館の入り口に、太宰府政庁の模型とともに、水城を築く当時の様子を模型化した展示もあった。今、見る樹木の下はこうなっているという模型だ。

 私は、古代に造られた「土塁」だから、せいぜい高さ1mぐらいの、実際に戦闘となればたいして役に立たないものだったのだろうと想像していたが、そのような規模ではなかった。

       (水城を築く)

 土塁の高さは13mを超え、基底部の幅は80m。その博多側にあった堀は、幅60m、深さは4mで、水を貯えていた。また、太宰府側にも幅4~10mの内堀があった。

 土塁には東西2カ所の開口部があり、第1期政庁の時代は防御的機能を持つ門であったが、奈良時代には壮麗な楼門となり、約16キロの直線道路が博多湾にある迎賓館と結んでいた。 

          ★

 < 古代日本史上最大の危機 … 百済滅亡と白村江の大敗>

* 以下は、直木孝次朗『日本の歴史 2 』及び司馬遼太郎『韓のくに紀行』を参考にした。「 」 の引用は 『韓のくに紀行』 である。

 「中国大陸が四分五裂すると、朝鮮は息をつく」。

   「朝鮮半島に、政治的には劇的な、そして文化的にはきらびやかな三国 (百済、新羅、高句麗) 鼎立時代が現出するにいたるのは、中国が統一されていなかったからであった」。

 「ところがこの三国時代が夢のように消えて、百済も滅びるのは、中国大陸に大唐帝国という空前の統一王朝が誕生したためである。この中国統一の余波は、大津波のように日本にも襲い掛かってくる…」。

 660年、唐は新羅の要請に応じる形で、水陸13万の兵を出し、百済攻撃に乗り出した。

 「百済の防衛軍は、唐・新羅連合軍のためにほとんど一撃でくずれた」。

   「かれ (百済の義慈王) は捕虜になった。新羅に捕らわれたのではない。唐の捕虜になった。新羅が敵であったというより、唐が敵であったということが、この一事でもわかる。かれは唐の軍船に乗せられ、唐土へ連れ去られた」。

 「唐の主力がひきあげると、百済の遺民たちは再興のために兵をあげた。このゲリラ戦の大将はかつての重臣団の代表格である鬼室福信で、かれは日本に援軍を乞うた」。「日本には  (百済との同盟の人質として) 義慈王の王子豊璋がいた」。「鬼室福信は (新王として迎えるため) その帰還を乞うた」。

 大化の政変からまだ15年であった。新羅が唐に接近していたことは聞いていたが、事態は急転したのだ。多年、交流を深め、揚子江流域の南朝仏教文化をわが国に伝えてくれた (→飛鳥文化)百済の都が焦土と化したのである。そして…、次はわが国かもしれない。

 662年、まず新百済王・豊璋に、安曇連比羅夫を将とする 5千余の兵を付けて送り返した。「比羅夫」は固有名詞ではない。司令長官というほどの意味を持つ。

 さらに、翌年、老いた女帝・斉明天皇が自ら筑紫に出向くという、国運をかけた空前の軍事行動に乗り出し、阿倍比羅夫らに率いられた2万7千余の兵を新たに半島に送り出した。当時の人口を考えれば、国を挙げての大動員であった。

 当初、百済独立軍と日本軍の戦いは、唐軍が高句麗を攻めていた間隙を衝いて、大いにふるった。

 だが、調子が良くなると、オレが、オレがの仲間割れが起こるのが、半島の習性である。鬼室福信が副将と争ってこれを殺し、さらに豊璋王があろうことか鬼室福信を殺してしまった。残ったのは、軍隊統率のできない豊璋王のみで、独立軍の士気は一気に衰えた。

 この事情を知らずに半島の南部で新羅軍と戦っていた蘆原君 (イオハラノキミ) の率いる1万が、機は熟したとみて、船で白江に向かった。一方、唐・新羅軍も、態勢を立て直し、百済軍の立て籠もる周留城を包囲し、唐の水軍も周留城に迫るため白江に集結した。

 蘆原君の率いる日本軍が白江に着いたとき、唐の水軍はすでに待ち構えていた。海戦は、日本軍が到着した日と翌日の二日間戦われた。

 日本史上、周囲を海に囲まれた国土を防衛するには陸軍より海軍の整備が必要だと気付くのは、幕末の勝海舟らを待たねばならない。白村江のときも、唐の巨大な軍船に対して、日本の船は歩兵や武器の輸送用に動員した小型船で、しかも、「唐の戦艦は前後に自由に進退する能力を持っていた。日本水軍の突撃を見て、たちまち左右に分かれ、やがてその両翼に日本水軍をつつみこんだ。あとは矢戦と火攻めを繰りかえすだけである」。

 唐側の記録にいわく、「四たび戦って勝ち、その (日本軍の) 舟四百艘を焼く。煙と炎、天にみなぎり、海水赤し」。

  『日本書紀』 にいわく、「ときの間に官軍敗積し、水に赴きて溺死する者多し。艪舳(ヘトモ) めぐらすを得ず」。

 陸上においても、百済独立軍が立て籠もる周留城は落ち、戦いは日本軍・百済独立軍の惨敗に終わった。

 白村江の戦場を離脱できた日本軍は半島の南部に退き、各地を転戦中の日本軍を集め、亡命を希望する百済人を伴って、日本に帰還した。

 「日本の水軍が白村江で壊滅的打撃を受け、百済の独立運動が敗北したとき、敗残の現地日本軍は百済人たちを大量に亡命させるべく努力した」「さらには当時の天智政権は国をあげてかれら亡国の士民を受け入れるべく国土を解放した。日本歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば、この事例を第一等に推すべきかもしれない」。

 「百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう」。

 百済独立軍の指導者・鬼室福信の身内と思われる鬼室集斯という亡命百済人のリーダーの一人の草むした墓石が、滋賀県蒲生郡にあるという。彼は朝廷がつくった「大学」で教授をし、その後、引退して一族の棲むこの地で没した。

 百済人ばかりではない。やがて大唐の圧力下に揺れる新羅からも亡命者はくるようになり、これらの人々が律令国家建設に力となった。

 「日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい」。「さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない」。

 「炎上する百済の都・扶余」のイメージは、トロイの落城や、コンスタンチノーブルの陥落などと並んで、胸に迫るものがある。白村江における日本軍の壊滅的敗北もまた、日本古代史の悲劇的な1ページであった。

 そのあとの20年近く、中大兄皇子・天智を筆頭とする多くの人々が、都は言うまでもなく、北九州でも、瀬戸内海、大和の各地でも、近江でも、大唐帝国の恐怖と向き合いながら、ぴんと張りつめた緊張感のなか、次々と施策を打ち出し行動した日々を、今、現代日本人は、遥かに想像してみることも必要だろう。

         ★

唐軍はなぜやって来なかったのか??  ── 日本の地政学的位置 > 

 当時の日本人には、なぜ唐の水軍がやってこないか、その理由がわからなかった。わからないながらも、備え、不安のうちに、態勢を整えていった。

 元外交官で、先年、亡くなられた岡崎久彦氏の著作 『陸奥宗光とその時代』 『小村寿太郎とその時代』 『幣原喜重郎とその時代』 『重光・東郷とその時代』 『吉田茂とその時代』 (いずれもPHP文庫) は、外交を軸に書いた、すぐれた近代日本史であるが、以下、岡崎久彦氏の『戦略的思考とは何か』 (中公新書) から引用する。アンダーラインはブログ筆者。

         ★

  「白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に備えて、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽火を置き、各地に城を築きます。しかし、半島南部の百済を滅ぼした唐軍は、北進して高句麗に向かい … 」。

 「これ (高句麗) が滅びると、…… 唐と新羅の戦争が始まって、新羅は (高句麗の遺民たちも)、ちょうど今の休戦ラインの北あたりで唐の軍勢をよく防いで、半島南部には唐の勢力の侵入を許しません」。

 「… もし唐軍が新羅を征服したならば次は日本だったことは充分想定されます。… 唐と新羅の戦争は、日本にとって神風以上の幸運だったといえるでしょう」。

 つまり、唐軍が日本にやってこなかったのは、ひとえに高句麗、これに続く新羅の粘り強い戦いがあったからである。

 中国大陸に「膨張的な国」が生まれても、それが直接に日本を襲ったのは、日本史を通じて、あの元寇のとき 1回だけであった。

 「その後 (唐以後)、宋、契丹、明、清の時代に、大陸中心部の勢力は一度も半島南部に及んでいません」。

 「元寇のときと状態が最も近いところまでいったのは朝鮮戦争のときで …… (このときは) 国連軍が (半島最南端の) 釜山の橋頭保をよくもちこたえて、反撃に転じました」。(このとき、占領下にあった日本に対して、マッカーサーは、自衛隊の前身である警察予備隊の創設を命じた)。

 「これだけからも、大陸に「膨張主義的な大国」が出現して、朝鮮半島南部の抵抗が崩壊し、大国の勢力が南部にまで及んだ場合は、極東の均衡の条件が崩れて日本に危機が迫るという、考えてみればあたりまえすぎるようなことが、日本の戦略的環境にとって真理として残ることになります」。

 「もちろん、半島南部を取られたからといって、それが日本の破滅ということでなく、そこから日本の正念場が始まるわけです」。

 「… そういう場合は、白村江の後とか、元寇のときのように、西日本は要塞化し、全国的に動員態勢をとる必要が生じています」。「結局は今も昔も同じことで、半島南部の海空軍基地が非友好的勢力の手におちた場合を考えると、日本が追加的に必要となる防空能力、制海能力、揚陸阻止能力、ひいては防衛体制全般は、現在のものと質量ともに抜本的に異なるものとならざるをえないでしょう」。

         ★

 新羅は唐軍を追い返したあと、唐に朝貢する。それは、幸運にも唐に勝つことができたが、広大な唐を征服したわけではないからである。地政学的には、いつもご機嫌を取っておかなければならない巨大な大国だった。

 ベトナムもそうである。ベトナムも中国に侵攻されて、負けたことはない。あの蒙古を追い返したのは、日本とベトナムだけである。そのベトナムも、勝ったあと、中国に朝貢した。

 だが、新羅にとってもベトナムにとっても重要なことは、中華帝国が総力を挙げ、10年、20年という歳月をかけても屈服することなく、これ以上侵攻政策を続ければ逆に帝国内に不満が鬱積して内乱が起こり、自国が崩壊するかもしれない、ということを学習をさせたことにある。

 朝貢だけで、膨張的な中華帝国から身を守ることはできない。唐が百済を攻撃する以前から、百済も日本も遣唐使を送り、仲よくしていたつもりだったのである。

 このことを、現代の日本国民は、よく理解しておく必要がある。

          ★

 かの半島の国は、他国を侵略したことはないが、他国に攻められたときはタフで、徹底抗戦する。

 そういう国が、「大陸本土と日本との間に介在している ── これほど日本の安全にとってありがたい条件はないといえましょう」というのが戦略的思考である。

 ただし、かの隣国は、歴史的には常に「容中、非日」であった。中国は親のごとき存在であり、自分はその長男、日本その他の国は不肖の弟に過ぎないという儒教的序列主義を信奉してきた国である。儒教では、そういう序列の心を「孝」と呼び、そうしてできあがった序列文化を「礼」と呼ぶ。彼らが感情的に「反日」であるのは、日本がそういう秩序に無頓着で、「弟としての分」をわきまえないからである。

 付き合いにくい相手である。観念の中に生き、プライドが高く、メンツにこだわり、理屈っぽく、ひつっこい。時には、「反日」を主食にして生きているのではないかと思うほどである。

 だが、中華人民共和国は中国共産党の支配する国家で、立党の精神そのものが「膨張主義」である。お人よしアメリカは、市場経済が発展すればやがていい隣人になるだろうとタカをくくっていたが、隣人どころか、市場経済を食いながら巨大化し、今や彼らの世界戦略をあらわにしてきている。同じ「反日」を言っても、韓国とは戦略的立ち位置が全く違うのである。

 事、自国の防衛と安全を考えるとき、両者を混同してはいけない。

 「同じ反日でも中国の方がマシだ」、などという戦略がわからない小人の議論に陥らないよう注意する必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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膨張する唐と向き合った太宰府政庁 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(4)

2016年05月16日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 第2日目の旅の計画 > 

 2日目は何とか晴れた。今日は忙しい。

 まず太宰府政庁跡を見る。今は何もない原っぱのはずだが、そこに立てば、太宰府のイメージがもっと生き生きしてくるはずだ。  

 次に、時代は一気にさかのぼって、あの「魏志倭人伝」に登場する「奴国」と「伊都国」の跡に建つ資料館に寄る。今は、「奴国」や「伊都国」の姿をイメージできるようなものはないだろうが、少なくともクニとクニの相互の距離感や玄界灘との距離感を、車で走って体験できる。

 道すがら、仲哀天皇の香椎の宮にお参りする。時代は古墳時代だ。

 そのあと、玄界灘に長細く突き出した砂洲・「海の中道」を走って志賀島に渡り、志賀海神社を訪ねる。志賀海神社は海人族とされる安曇氏が祀る神社で、今日の行程の中では最もロマンをかきたてられる目的地だ。

 今夜の宿は、その志賀島の先端にある国民休暇村である。

     ★   ★   ★

< 今は広々とした原っぱの太宰府政庁跡 >

 昨日、見学した九州国立博物館の玄関口に、「太宰府政庁」のりっぱな模型が陳列されていた。

 太宰府と言っても古代のこと、どうせ草深い田舎の役所だろうと、長年、勝手なイメージを描いていた。菅原道真が、流刑されたと嘆いたくらいだから。

 今回、旅に先立って、少しばかり最新の考古学情報を仕入れた。そして、大宰府政庁が、最近、奈良の平城宮跡に復元された朱雀門や大極殿を思わせるような壮麗なものであることを知った。

 

   ( 太宰府南大門の模型 )

 私の歴史知識は、高校時代に勉強した「日本史」である。そのころ、太宰府政庁跡の発掘調査はまだ行われていなかった。だから、当時、日本史の先生でも、太宰府政庁の実際の規模や太宰府を守るために築かれた水城 (ミズキ) の構造などはイメージできていなかった。

 私の太宰府のイメージに多少とも血が通うようになるのは社会人になってからで、万葉歌人として著名な山上憶良が筑紫の国の国司であったことや、「貧窮問答歌」は筑紫の国の守であったころの作品であること、それに彼が渡来人の2世かもしれないということも知った。

 山上憶良の上司に当たる当時の太宰府の帥(長官) ── 3位以上で、かつ参議以上の人たちがいわば閣僚で、20人くらいいた。大宰府の帥は4位で、閣僚に次ぐポスト。偉いのだ!!  ── が、万葉歌人として憶良と歌を詠み交わす大伴旅人であること、大隅国一円で起こった大規模な反乱の折、旅人は司令長官として九州各地から兵を動員し、これを鎮圧したことなども、社会人になってから加わった知識である。大伴氏はもともと大王の軍事を司る一門で、「万葉集」を編集した歌人・大伴家持は旅人の子息である。

 今回、旅に先立って、少しばかり考古学的な情報を得た。そして、太宰府や水城のことを改めて知り、ただ驚いた。

 物量のことである。物量とは文明である。太宰府政庁の規模、さらにはその太宰府を守るために造られた水城の規模や構造に驚いた。古代、恐るべし、である。

         ★

 昨夜、宿泊した二日市温泉から、街の中の道を車で40分ほど走って、太宰府政庁跡に着いた。

    ( 南大門跡のあたり )

 雨上がりの緑はみずみずしく、街中を走って来た目には、大きな木立に囲まれた、何もない広々とした原っぱはいかにも心地よかった。三々五々にたむろする高校生の遠足グループ、小学生の遠足のグルーブは一列の長い列、一般の観光客も思い思いに散策したり、座っておやつを食べている。

 木立に囲まれた見渡す限りが、太宰府政庁の敷地の跡である。

 

 ( 正殿はやや左上のこんもりした辺り )

 

(正殿跡の「都督府古址」の碑)

 

   ( 小学生の列 )

 原っぱの隅に、太宰府展示館の建物があったので、入って資料を見た。

 手前が南大門、奥が正殿である。

 歴史上、古代日本の最大の危機は、中国大陸に超大国・唐が生まれ、「膨張」を始めたときである。

 日本に情報が入ってきた時には、日本の友好国・百済は唐の一撃で滅亡させられていた。さらに唐は手こずりながらも、強国・高句麗を亡ぼす。さらに矛先を新羅に向けて、朝鮮半島全域を支配下におこうとしたが、ついに長年の戦争にいきづまり、兵を引き上げた。

 この間、百済侵攻の660年から新羅からの撤退の676年に至る、おおよそ15年~20年間である。

 660年、唐・新羅軍の侵攻による百済の滅亡の後、蜂起した百済独立軍を助けるべく、日本は国力を挙げた派兵を行うが、663年の白村江の戦いにおいて唐の水軍に大敗する。

 勢いに乗った唐軍がいつ海を越えて侵攻してくるかわからない。そういう恐怖と緊張のなか、665年(天智4年)、かつては博多湾にあった外交の役所を、もう少し内陸部に移動させ、日本防衛の最前線の司令部として設置したのが、「太宰府」である。これが第1期政庁である。

 それから約50年後、唐の膨張がおさまり、東アジアの情勢が安定して、大陸との交流が盛んに行われるようになる。

 そこで、708年~717年ごろ、 太宰府政庁は、唐や新羅の使者を受け入れ、ヒト、モノ、カネが行き交うにふさわしい威厳と壮麗さをもった建物へと建て替えられた。

 その政庁の敷地の広さは、東西約111m、南北が約211mであった。(第2期政庁)

 また、その政庁を中心に条坊制に基づく官衙・居館が建ち並ぶ近代都市・太宰府もできあがる。一説によると、それは、東西26キロ、南北24キロに及ぶ、ほぼ正方形の街区をもっていたとされる。

 平安時代、第2次政庁は、一度、藤原純友の乱によって焼失する。

 第3次政庁は、純友を討ち取った4年後の941年に、第2次政庁とほぼ同規模・同構造で再建された。

 現在、復元されている模型は、第3次政庁のものである。

         ★

 いま、そこには何もない。周囲をこんもりした木立に囲まれ、広々とした原っぱと、3つの石碑と、わずかに石畳や石段の跡が残るのみである。

 そこに、高校生や小学生がやってきて、歴史を勉強する。

 その風景を見ながら、古代日本は、想像していたよりもずっと頑張っていたんだという思いが、青い空に浮かぶ小さな白い雲のように、胸にぽかりと浮かんだ。 

 

 

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大宰府の鬼門を守る竈門(カマド)神社へ … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅 (3)

2016年05月06日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 充実した展示の九州国立博物館>

 大宰府天満宮の美しい菖蒲池や「如水の井戸」を巡って行くと、九州国立博物館に出た。

 お目当ては4階の常設展「海の道、アジアの道」だったが、3階の特別展示室で兵馬俑展をやっていた。

 博物館の中は「撮影禁止」のため、写真はない。

 兵馬俑の、将軍や兵士の、一人一人異なる顔は、緊迫感があって、すばらしい。その後の中国やアジア圏で見られる仏像彫刻などと比べて、いかにも人間的で、個性的である。

 中国という国は不思議な国で、春秋、戦国時代から秦帝国に至る紀元前の時代が、歴史のダイナミックな動きにおいても、諸子百家を生み出した思想的営みにおいても、或いは、兵馬俑のような美術品を見ても、いかにも生き生きして、「人間」が躍動している。

 ところが、そこから時代が新しくなるにつれて、アジア的古代専制国家として、沈滞していく。

 人間賛歌の古代ギリシャ、ローマの時代から、キリスト教の支配する陰鬱な中世へと進んだヨーロッパと似ているが、ヨーロッパの場合はその後、ルネッサンスがあり、ブルジョア革命があった。

 一方、中国は、今も、アジア的専制国家のままである。皇帝とその儒教的官僚群による中央集権国家は、そのまま中国共産党組織に引き継がれている。

 4階の常設展は、「海の道、アジアの道」をテーマにして、縄文時代から、魏志倭人伝の時代を経て、江戸時代に至る5つのゾーンによって構成される。

 お目当てにしていたのは、その弥生時代、魏志倭人伝の時代であるが、なかなか充実していて、全部をゆっくり見るには、何度か足を運ぶ必要がありそうだ。

< ひとこと >

 あの「モナリザ」を含めて、パリのルーブル美術館も、オルセー美術館も、フラッシュをたかなければ自由に写真撮影できる。日本では、どこもかしこも写真撮影禁止だ。ガラスのケースの中の考古学的遺物を撮影して、何が問題なのか?? そもそも誰のための博物館なのか??

         ★

 < 神体山に起源をもつ竈門 (カマド) 神社 >

 竈門神社は、太宰府天満宮から20分ほど北東の方向へ県道を走った、宝満山 ( 古くからの名は竈門山。標高829m ) の山懐にある。別称は宝満宮。

 

 この神社が世に出たのは、太宰府 (天満宮のすぐ西の一帯) の東北、鬼門の方角にあり、「太宰府鎮護の神」として崇敬されるようになってから。

 もちろん、信仰の起源はそれより遠く遡り、今も山頂に祠のある宝満山が、古来から神体山として信仰されていたらしい。

 「カマド」の名の由来については諸説あるが、宝満山 (竈門山) の形が竈 (カマド) に似ており、雲や霧が絶えず、竈で煮炊きする様子に似ているため、とする説が、いかにも万葉風で、古代の風韻を感じさせる。

 平安時代以降は神仏習合が進み、宝満山は九州における修験道の有数の道場となっていった。

 現在、竈門神社、宝満山を含む一帯が、国の史跡に指定されている。

         ★ 

 石の鳥居の向こうはいかにも鬱蒼として、山に分け入るような坂道の参道である。

 登るにつれて、雨露に濡れた緑が深く、シャクナゲの白や淡いピンクの花が迎えてくれた。7、8分で、境内に着く。

 簡素で、いかにも神社らしい風情がある。

 高校生の姿を見るのは、太宰府跡→天満宮→国立歴史博物館と回って来た修学旅行生だろうか ?地味だが、日本の心を感じさせる。

       (竈門神社)

         ★

 夜は二日市温泉に泊まった。国道の脇にあるが、少し奥まって、源泉かけ流しのなかなかの湯だった。

 

 

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ナンバー2の政治家・菅原道真の実像 …… 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(2)

2016年05月05日 | 国内旅行…玄界灘の旅

 ひっそりした雨の参道を上り詰め、突当りを左折すると、池がある。

 池には美しい太鼓橋が架かり、こんもりとした木々の新緑が雨に濡れて、目が覚めるようにみずみずしい。

 伊勢神宮や熊野本宮大社には、晴朗にして清々しい、簡素の美がある。

 熊野三山の一つ熊野速玉大社の朱の拝殿や下賀茂神社などには、王朝の時代を思わせる雅やかな美がある。

 この太宰府天満宮も、境内の鬱蒼とした樹木がみずみずしく、朱の太鼓橋が映え、その向こうには菖蒲池が広がって、実に雅やかである。

  太鼓橋を渡ると、石の鳥居があり、その先に立派な楼門が見えた。

 

 

       ( 楼門と手水舎 )

 楼門をくぐると、拝殿の右手には、伝説どおりに、見事な「飛梅」の梅の木が葉を繁らせている。

 拝殿で、2礼、2拍、1礼する。

    ( 拝殿と飛梅 )

 先ほどは参道を上り、太鼓橋の方へ左折したが、参道の突当りには延寿王院がある。

 幕末、都落ちした三条実美らが3年半あまり滞在した所で、薩摩の西郷隆盛、長州の伊藤博文、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎なども立ち寄り、維新の策源地となった寺だそうだ。

                ( 延寿王院 )

 参道に戻る。今日は雨のせいか、参道はひっそりしていた。

 ひっそりと降る雨をよけて茶店に坐り、名物の「梅が枝餅」を食べた。名物に旨いものなしというが、そんなことはない。番茶も、こんがり焼けた粒あん餅も、なかなか美味であった。

          ★

< 余談ながら … 政治家としての菅原道真の実像 >  

 菅原道真については、中央で権力をふるう藤原氏に対抗するため、宇多天皇によって抜擢され、疲弊した地方行政を立て直そうとしたが、左大臣・藤原時平の策謀にあって無実の罪で太宰府に流され、当地で憤死した、とされる。

 だが、現代の歴史学者の本を読むと、このような道真像は、少々判官びいきに過ぎるようだ。(以下、北山茂夫『日本の歴史4 平安京』を参考にした)。

 道真は儒学者の家に生まれ、早熟な秀才で、若くして文章博士になった。名門・顕官の依頼を受け、多くの願文書や上表書を代作して重宝される。

 40代のはじめに讃岐の受領になっているが、その任期中は、もっぱら詩賦づくりに心を傾け、受領としては、何ほどの建設的なこともしていない。そればかりか、儒教的文人・中国的大人によくあるタイプで、草深い地方にいることに憂苦の思いを抱いていたようだ。そのような漢詩がおおく残されている。

 そのような彼が、やがて風流人の宇多天皇に抜擢され、右大臣まで登りつめたのである。だが、彼が才能を発揮したのは朝廷の歴史書の編纂作業くらいだった。

 政治改革については、観念的にはともかく、実際的関心や具体的ビジョンは持ち合わせていなかった。帝の寵臣で、二人でひそひそ話しているのは、藤原氏の悪口ばかり。帝のぼやきを聞き、帝の主催する雅やかな宴席に連なるのが、彼にとっての「政治」だった。よくあるタイプだ。

 ついに、藤原時平の用意周到な政変により、罪を着せられて太宰府へ流される。

 若き藤原時平は一流の教養人でもあったが、その関心は実際の政治にあり、疲弊する地方を立て直そうと立ち向かったのは時平の方であった。

 平安末期に書かれた歴史物語の「大鏡」に次のような逸話が紹介されている。

 道真の亡霊が雷神と化して荒れ狂い、清涼殿に落下する気配であったとき、帝をはじめ廷臣たちはなすすべもなく震え上がった。だが、この時、左大臣の時平は、さっと太刀を抜き、暗い虚空をにらみつけ、大音声を発して道真を叱責し、ついにこれを退参させた。

 夜は漆黒の闇であったこの時代にも、「大鏡」の作者や、当の時平のように、まっすぐに現実世界を見る人もいたのである。((3)に続く) 

 

 

 

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雨の太宰府天満宮 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(1)

2016年05月04日 | 国内旅行…玄界灘の旅

 今回の旅の第一の目的は、世界文化遺産登録の候補に挙げられている宗像大社である。古代海人族の宗像氏が祀る神社であり、今もその信仰は受け継がれている。

 今、行っておかないと …… 世界遺産に登録されてしまったら、国内だけでなく近隣諸国からも観光客が押しかけて、静かに参拝することもできなくなるかもしれない。

 せっかくなので、福岡県の玄界灘周辺の古代遺跡にも足を伸ばしたいと思う。

 この地域は、縄文時代から、弥生、古墳時代へと移行していく、「倭」と呼ばれたころの日本の先進地域であった。

 しかし、歴史書を読んでも、素人の頭にはなかなかすっきり入ってこない。特に、〇〇遺跡、△△遺跡などという地名の位置や相互の位置関係が、なかなか頭の中で明確な形をとらないのだ。こういうときは、地図を見ながら、実際に自分の足でその地を踏んでみることが大切である。

 というようなことで、春たけなわの季節に、長年のモヤモヤを解消する旅に出かけた。

     ★   ★   ★

 旅の初日は雨だった。

 博多駅でレンタカーを借り、今日の行動を、翌日の予定と入れ替えた。

 太宰府天満宮の参拝は雨でも風情があるだろうし、そのお隣の九州国立博物館は、雨天も関係ない屋内見学だ。

    ( 太宰府天満宮の参道 )

 八百万 (ヤオヨロズ) の神々を祀る日本の神社のなかで、最も「出張所」が多くて人気のある神社はお稲荷さん。全国に19800社もある。

 続くは八幡神社の14800社。

 その次、第3位にランクされるのが天神さんの10300社である。以上が、ビッグ3で、ダントツである。

 その10300社の天神さんの総本社に位置するのが、京の都の北野天満宮と、ここ道真の墓所に建てられた太宰府天満宮だ。

 元右大臣だった菅原道真が太宰府で病死した (903年) あと、都で落雷などの天災が起きるたびに、人々はあれは道真の「怨霊」の「祟り」だと噂した。なにしろ10世紀の初頭の話である。平安京も、夜は漆黒の闇だった。

 西洋では、近世になっても、「魔女狩り」裁判が行われ、無実の人が「魔女」として火あぶりにされたぐらいだから、日本の10世紀の人々の天変地異や漆黒の闇夜に対する恐怖心を嗤ってはいけない。

 かくして、道真の怨霊を鎮めるために、天満宮が建てられる。

 しかし、時代が下がるにつれて、人々の記憶の中から恐ろしい「怨霊」の話は薄れていき、しかも朝廷や摂関家は天満宮を大切にしたから、平安末期には、地方の「嵐の神」や「雷の神」を祀る神社が次々と天満宮の傘下に入り、村の天神社になっていった。

 中世になると、新たに興った商工民の中にも天神さんを祀る人たちが現れた。

 江戸時代に、幕府の保護の下、朱子学が盛んになると、儒学者・菅原道真公は学問の神さまとして、いよいよ崇敬されるようになっていった (たとえば湯島天神) 。

 今では、学業成就や受験の神様となり、全国の受験生やその親、最近では孫のために祈願する祖父母にまで親しまれるようになった。

 現在の10300社の盛況を見れば、かつては不遇を恨んだ道真さんも、「身に余る光栄」と、すっかり満足されていることはまちがいない。((2)に続く)

 

   ( 大宰府天満宮の飛梅 )

 

 

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