ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

夏の思い出4/4 ── 村内の散策 (木流川など)

2024年12月25日 | 国内旅行…信州

 白馬村を歩いていると、こういう道祖神を見かけることがある。10センチぐらいのミニチュアがお土産でも売られている。以前は、なぜ信濃の国に京風のお姫様?? と、不思議に思っていた。

 姫川という川の名の由来となった伝説の姫神 … 「沼河比売(ヌナカハヒメ)」でした。お相手は大国主命でしょうか。

   ★   ★   ★

<霧降る里の産土神(ウブスミノカミ)>

 姫川の向こう(右岸)の青鬼の集落から、もう一度、姫川と大糸線と国道を越えて、白馬岳の山麓の方へ戻った。白馬村の賑わいはこちら側である。

 岩岳スキー場のリフト乗り場のあたりの集落は切久保というらしい。その「霧降宮(キリフリノミヤ)切久保諏訪神社」に立ち寄って参拝した。 

 (霧降宮諏訪神社)

 境内は鬱蒼とした大樹に囲まれ、日差しが穏やかに差し込んでいて、昔から今に至るこの里の人々の営みがここに鎮座する神とともにあったことが感じられる。

 (霧降宮切久保諏訪神社)

 社は大樹に囲まれて境内の奥にある。二礼二拍して手を合わせた。

 社殿は小ぶりだが、かつてこの地方で名の通った宮大工の手になる仕事である。

 社名のとおり、遠い昔、諏訪大社から勧請された。創建当時、この辺り (白馬村から北隣の小谷村のあたり)は千国荘(チクニノショウ)と呼ばれ、六条院の所領であったと平安末の記録に残っているという。

 「六条院」と聞いてすぐ思い浮かぶのは、京の六条の辺りにあったとされる光源氏の大邸宅。だが、それは物語の中の話だ。先の記録によれば、六条院は白河天皇の第一皇女の媞子(テイシ)内親王のお邸だったらしい。幼くして伊勢の斎王となったが、任が解けて都に帰ってのち、美しく心優しい内親王は父帝にこよなく愛された。だが薄命で、その死を惜しんだ父帝はその邸を彼女が生きているかのごとくに維持し続けたという。

 それから年月を経て、平安末期になると、千国の荘の持ち主が誰なのかわからなくなりかけ、かつては六条院の所領であったことが記録に残された。

 そして遥かに長い歳月が流れ、千国荘の神社は切久保地区の鎮守として土地の人々に守られている。

 …… それにしても、この神社の名前は長い。「切久保地区の諏訪神社」はわかる。その前に冠せられた「霧降宮(キリフリノミヤ)」とは何だろう。

 わからぬが、白馬村には他にも、細野地区に「霜降宮細野諏訪神社」、姫川の右岸の青鬼の里のずっと南の嶺方地区に「雨降宮嶺方諏訪神社」があって、白馬村諏訪三社というらしい。霧降宮、霜降宮、雨降宮 …… 自然(神)のもつ「力」につながるような何かいわれがあるのかもしれない。とにもかくにも信濃国らしい鄙びた味がある。

 祭神は、諏訪神社であるから、建御名方(タケミナカタ)の神である。高天原系の神ではない。

 村内の各地区ごとに共同体の神が御座し神社がある。そこで生まれた人々にとっての産土神(ウブスミノカミ)である。

 以前、読売俳壇にこんな句が選ばれて掲載されており、心ひかれてメモしていた。

 祖父母父母みな産土の春の風 (東京都の佐藤勝美さん)

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<おびなたの湯>

 私が知っている白馬村に温泉はなかった。だから新しい施設だ。今回、初めて立ち寄り湯に入ってみた。正真正銘、ほんものの温泉だった

 立ち寄り湯は村内に何か所かあるようだが、この日は車だったから最も遠くて標高が高い所にある「おびなたの湯」へ向かった。

 (白馬村のおびなたの湯)

 大雪渓の下、猿倉荘へ向かう山道の脇に、ぽつんと佇んでいた。そばを松川の渓流が流れている。

 内湯はなく、いきなり露天風呂だった。こういうのがいい。野趣に富んでいる。湯加減もちょうどいい。

 日はやや傾いて、青空が広い。

 湯舟の片側に大岩がどんと聳えている。湯はその大岩の面を伝ってさらさらと流れ落ちている。この大岩が女湯との境界になっているようだ。自然の仕切りだから、ちょっと覗けそうな(覗かれそうな)気もすが、無理なようだ。沢登り用の道具と技術が必要である。

 泉質は強アルカリ性単純泉。PHが日本の温泉の中でも格別に高い。お肌つるつるの湯だ。

 飲泉所もある。飲泉できる温泉は、塩素殺菌したり、循環させたりしていない、ほんものの温泉だ。

 おびなたの湯で汗を流し、気分もすっきりして、レンタカーを返しに行き、ホテルへ戻った。

 ホテルの窓からの眺望は、白馬連峰の上部に雲がかかって、昨日のような白雪を頂いた姿を見ることはできなかった。それでも、大和国の山々とは趣が違う。いつもと違う景色を眺めるのはいいものだ。

  (白馬連峰)

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<木流川の散策>

 次の日。一日中、本を読んで過ごしてもよかった。そのつもりで本も持ってきている。だが、遥々と列車を乗り継いで信濃国まで来たのだから、少しは信州の自然の中を歩き、日頃の運動不足も解消したい。

 そう思って、3日目は木流川の散策路を歩くことにした。

 ただし、信州とは言え夏の暑さはバカにできない。昨日、青鬼の集落を歩いたとき、標高が少々高くとも、炎天下は大阪や奈良と変わらないと思い知らされた。今日も体中から汗をかくことになる。熱中症になるぬよう用心しなければいけない。

 「木流(キナガシ)川」は、読んで字の如く木材を流す川。白馬山麓から切り出した木材を下流に運ぶため、江戸時代に作られた人工の流れだ。

 材木がほとんど輸入されるようになって、日本の林業はすたれた。木流川も長く放置されていた。

 近年になって、地元の人たちが、藪を刈って小径を作り、流れに木橋を架け、ベンチや案内板も置いて、せせらぎに沿う森の小径を再生させた。

 ペットボトルと、カメラと、タオルを入れただけのリュックを背負い、ホテルのフロントの棚に置いてあったごく大雑把な地図を頼りに出発した。

 昼の太陽に照らされ、少々迷い、家にコンパスを忘れてきたことを後悔し、全身から汗をかいて、トウモロコシ畑の道端に矢印を見つけた。

 畑の向こうのあの森の中に違いない。森の地形が低くなっているから、そこに流れがある。

 詳しい案内板も設置してあった。

 高くそびえる樹林の中をせせらぎが縫うように流れている。下っていく先は姫川だろう。

 森の中は森閑として、行き交う人もない。

 せせらぎに架かる木の橋があった。

 小さな池のそばにベンチがあったので、ひと休みする。

 暑い盛りだが、森の中は草いきれもなく、時折、水辺に咲く鬼百合や野の花にも出会った。

 春ならば、小鳥の声ももっと聞こえてきて、高山植物や野の花がもっと咲いているのだろう。

 それにしても、ほとんど木陰の下を歩き、鬱蒼とした樹木の力は大きく、空気が爽やかで心地よかった。

 散策コースの途中から入ったから、多分、半分くらいの距離しか歩かなかった。

      ★

<みみずくの湯>

 ホテルへの帰路、ホテル近くの「みみずくの湯」に立ち寄る。

  (みみずくの湯)

 PH11という強アルカリ性の温泉。加水、加温、循環なし。100%の源泉かけ流しの湯だ

 昨日の「おびなたの湯」ほどの野趣はないが、木と岩の内湯があり、湯の中を歩いてその向こうの露天風呂へ行くことができる。

 露天風呂からは、すっきりと晴れていれば白馬三山がよく見えるそうだ。早春の頃が良いとか。

 「おびなたの湯」に「みみずくの湯」。ほんものの温泉に入ることができるだけでも、白馬村を訪ねる値打ちがあるというものだ

 いやいや、若い頃なら、「温泉だけでも値打ちがある」 とは思わなかったな。まあ、年相応である。

 ホテルの部屋から見る白馬連山の景色は、昨日よりは良いが、一昨日ほどではなかった。アルプスを見たいなら早春の頃が良いらしい。

  (白馬連峰)

 スキーに凝っていた頃の経験では、1月、2月は毎日、吹雪いて、雪がどんどん降り積もる。新雪を滑りたいという人はこの時期がいい。やがて雪が降りやみ、晴天の日が続くようになる。白雪に輝く山並みが美しい。3月の上、中旬の頃かな??

 信州の里の早春はいつなのだろう??

 梅、桃、桜、リンゴの花などが一度に花開くのは4月の下旬から5月の初旬。木々もやわらかく芽を吹いて、その頃は既に春たけなわだ。

  ★   ★   ★

 4日目の朝、ホテルのバスで白馬駅まで送ってもらい、大糸線に乗って帰路についた。

 松本で特急列車に乗る。

 名古屋で新幹線に乗り換えた。

 名古屋で特急列車の車両からホームへ降り立ったとき、いきなり猛烈なむし暑さの中に入ったと感じた。熱気が重くよどんでいる。これはすごい。そうか。これが名古屋や、大阪や、奈良の暑さなのだ。

 信州も暑いと思い、実際、汗まみれになって歩いたが、やはり信州は信州だった。昼間の太陽の下、大阪や奈良で、あのようなウォーキングはできない。

 まだ当分続くであろう奈良の残暑に耐える覚悟をした。

 (この項はこれで終わりとします)。

  ★   ★   ★

<閑話 ─ ロス「光る君へ」 ─ >

 この1年、大河ドラマ「光る君へ」に胸がときめきました。そういう方は多かったのではないでしょうか。

 始まる前、王朝の時代をドラマ化するのはムリ、と思っていましたが、さすがNHKでした。戦国時代や幕末では、あのように美しいラブシーンの映像化はムリですね。

 何よりも大石静さんの脚本が見事でした。まちがいなく大石さんの代表作になるでしょう。出演された俳優さんたちも、みなさん、素晴らしかった。今、一番「ロス」感の中にいるのは、主演の二人ではないでしょうか。がんばりました

 話が飛躍しますが、実は私、道長の「字」が好きなのです。

 道長の日記である「御堂関白記」は国宝です。現存する世界最古の直筆日記と言われ、ユネスコ記憶遺産にも登録されています。

(「御堂関白記」のクリアファイル)

 以前、京都で催された陽明文庫の展覧会で初めて「御堂関白記」を見たとき、この字は好きだな、と思いました。日ごろ書道に関心はなく、それまで誰かの書に心ひかれたのは、… 遠い昔ですが、高校の書道の時間に習った王義之ぐらいかな。でも、王義之の字は端正に過ぎて、今はそれほどでも。

 道長の字は書道のお手本にするような字ではないと思います。お手本にするなら藤原行成なのでしょう。

 道長の、ちょっとクセのある、闊達で、のびやかな、しかも気品もある字にひかれました。息子たちに残すにはこれはちょっとまずいなと思ったのか、墨で塗りつぶした箇所もありました。その日の枠がいっぱいになって、続きを前の空いた空間に小さな字で書いたりもしています。もちろん、何日も書かない日もあり、そういう自由闊達なところが好きです。

 「御堂関白記」と呼ばれていますが、ご存知のとおり道長は関白になったことはありません。引退前の最後の1年だけ摂政になりました。天皇が幼かったからです。でも、すぐ政界から引退してしまいました。基本的に彼は摂政にも関白にもなろうとしませんでした。その点、兄や父やそれ以前の藤原一族と道長とはスタンスが違うと思います。家柄や身分、地位を鼻にかけ、横柄に振る舞うようなタイプではない。

 左大臣として公卿会議を開催し、皆の考えを聴くことを大切にしました。それは自分一個の能力では考えの及ばぬこともあり、限界があると自覚していたからでしょう。しかし、必要と思えば会議で年長者に対しても論争したでしょう。良い結論に至るためには、時に論争することも必要です。公卿会議には、平安時代を通じても最高の知性と言ってよい藤原公任、行成、実資らがいました。道長の周りには自然と人が集まり、彼を支えたのです。そこが伊周などとの大きな差だと思います。道長が伊周を追い落としたようにいう人もいますが、伊周は自分で自滅したのです。器でないのに、トップに立つのが当たり前と思ったところが、人々に受け入れられなかったのでしょう。

 誤解なきよう。だからといって、私は道長が偉い人だとか、善人であるとか、そう思っているわけではありません。人は誰でも、善悪あわせもっています。ただ、歴史教科書をはじめとして、これまで道長は一面的にダークなイメージで印象付けられてきたように思います。

 ドラマの中、道長の「望月の歌」の意味について四卿が語り合うシーンがありました。藤原斉信が「昨夜の歌だが、あれは何だったのだ??」と聞きます。それに対して源俊賢が、現代の教科書風に、わが権勢を謳歌されたのだと答えます。すると藤原公任が「今宵はまことに良い夜であるなあ、くらいの軽い気持ちではないか。道長はみなの前で奢った歌を披露するような男ではない」と言い、藤原行成も公任に賛成します。すると藤原斉信が「そうかなあ …」とつぶやいて考え込みます。

 私はかねてから公任の説に賛成なのですが、「そうかなあ」と考え込む藤原斉信にも共感します。さらに、源俊賢も、決して道長を非難しているわけではなく、人間って、そういう位置に立ったらそう思うものでしょうと、現実主義者の目で人間を見ているように思います。だから、私は俊賢の説を否定しません。

 「望月の歌」の現代風・教科書風の解釈には、戦後の「権力は本質的に悪である」という反権力史観、また、それと表裏の関係にあるのですが、戦前の「天皇親政こそ正義」という皇国史観、この両方が根底に混ざり合っているように私には思えます。私は歴史というものは、特定の価値観や主義主張を出発点にして語られるべきではないと思っています。

 もしそのあと、公任が自分たちの会話の内容を道長に話し、「実際のとこ、どういう心境であの歌を詠んだの??」と聞けば、道長はどう答えたでしょう??

 道長は公任と向かい合って嘘をつく男ではありません。そういう小さな男なら、公任ほどの人物が付いていくことはなかったでしょう。

 いろいろ考えられます。

 例えばですが、「うーん。(しばらく考え込んで) … 正直、 自分でもよくわからん。自らの心の奥を顧みるに、源俊賢の言うような気持ちもあったと言うべきだろう」と答えるかもしれません。

 人はわからぬものだし、善悪二元論で語れる存在ではありません。人は時に自分の心さえわからない。だから、どんな歴史のヒーローでも、心の中に後悔の一つや二つや三つはを抱えていると思います。

 塩野七海さんは、「歴史事実は一つでも、その事実に対する認識は複数あって当然で、歴史認識までが一本化されようものなら、その方が歴史に対する態度としては誤りであり、しかも危険である」と言っています。

 歴史家の仕事は、できるだけ確かな「事実」を発掘し提供すること。

 「事実」の解釈や、さらにそこに登場する「人間」の理解となると、それはもう実証科学の世界の外に出て、文学の世界に入って行かざるを得ないと私は考えます。

 道長の「字」を見たとき、私は道長の「人間」をちらっと垣間見た気がしたのだと思います。

      ★ 

 さて、「光る君へ」の最後のシーンは、「(道長様 …) 嵐がくるわ …」というまひろの言葉で終わりました。

 道長の死の翌年、房総半島で「平忠常の乱」があり、3年後に何とか平定されました。

 そしてその20年後、今度は東北で「前九年の役、後三年の役」という長い戦乱が起こり、その乱の中で活躍した武士の名が後世まで語り継がれるようになります。

 この秋、東北(岩手県の平泉と盛岡)に行ってきました。来年はその旅のことを書きたいと思っています。(ただし、相変わらず面白くないのでご容赦を)。

 さて、もうすぐ年の暮れです。皆様、1年間、お疲れさまでございました。

 どうか良い年をお迎えください🌕。

 

 

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夏の思い出3 ── 姫川のこと

2024年12月16日 | 国内旅行…信州

 (姫川─白馬村よりやや下流)

<姫川の源流>

 後立山連峰に降った雨や、雪渓から解け出た水は渓流となって麓へと流れていく。その幾筋かは白馬村の中を通る。

 なかでも松川は、あの白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流として、多少の感慨をもって眺める登山者もいる。

   (松川)

 これらの渓流を集めながら、後立山連峰の東側の谷筋を、北へ北へと流れてゆくのが姫川である。流れてゆく先は、県境を越えた新潟県の糸魚川市の海岸。

 糸魚川という川は存在しない。市内を流れる一級河川は姫川である。「厭い(いとい)」から転化したという説もある。姫川は昔から暴れ川だから、そんな風に呼ばれたこともあったかもしれないが、わからない。

 白馬村の姫川の橋の上で流れを眺めていたら、向こうから歩いてきた人が立ち止まって、「糸魚川静岡構造線だよ」と教えてくれた。唐突だったからちょっと驚いた。そういうことに興味をもつ人間と思われたのかもしれない。

 帰宅して改めて調べてみたら、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界で、日本の本州を縦断する大断層線ということだった。優しい名をもつ川だが、何やら畏ろし気である。

 だが、その名のイメージのとおり姫川の水質は清らかで、一級河川のなかで一、二を争う清流である。

 水源はこの村の中にある。白馬村の南の端あたり、標高745mの親海(オヨミ)湿原の湧き水が水源ということだ。

 早春の頃は福寿草が群生し、やがて水芭蕉や鬼百合なども咲いて、木製の遊歩道が整備されていると紹介されていた。行けばよかったと、あとで思った。しかし、木陰が少ないから、夏はただ暑いばかりかもしれない。いつかまた、良い季節に白馬村に行く機会があれば、行ってみたいと思う。

 白馬村の南隣は大町市である。「白馬」駅から大糸線に乗って南下すると、大町市に入ってすぐに青木湖、中綱湖、木崎湖の静かな湖面が次々と車窓に見えてくる。

  (青木湖)

 その青木湖の漏水が親海(オヨミ)湿原の湧き水はではないかという説もあるらしい。しかし、そこまでは調査されていないそうだ。根拠はないが、そうかもしれないと、期待まじりに思った。

      ★

<そして、姫川の河口>

 親海(オヨミ)湿原の湧き水を水源とし、途中、後立山連峰から流れ落ちてくる渓流を集めながら、姫川は北へ北へと、日本海まで60㎞を流れてゆく。川の横を国道が走り、各駅停車の大糸線もトコトコと走って、糸魚川駅まで行く。

 姫川の河口付近の河原や海岸では、ヒスイを採取できる。

 ヒスイは「国石」である。日本鉱物学会によって日本を代表する石に選定された。決選投票では水晶と争い、ヒスイが最終的に選ばれた。

 以前、出雲大社に参拝したとき、宝物館(博物館)でヒスイの勾玉を見て、その美しい緑に魅了された。爾来、ヒスイには心ひかれている。

 だが、国石と言っても、ヒスイは日本列島のどこでも採取できる石ではない。過去にヒスイが採取・利用されたのは新潟県糸魚川市付近のものだけ。

 場所ばかりでなく時代も限定されて、日本の歴史の中でヒスイが装飾品として使用されたのは、縄文時代から、弥生時代を経て、古墳時代までである。その後、ヒスイは日本の歴史からフェードアウトし、誰からも忘れられてしまう。再発見されたのは戦後である。

 今は誰でも糸魚川付近の河原や海岸でヒスイを採取でき、採取された石がヒスイの原石かどうかを鑑定してくれる施設まであるという。それは、河口付近まで流されてきたヒスイはやがて砂粒になって消滅してしまうからである。消滅してしまうなら、子供でも大人でも採取して持ち帰り記念にしてほしい。だが、姫川の少し中上流のどこかで、ハンマーでは割れないから、ダイナマイトなどを使って採取しようとしたら、盗掘になる

      ★

<沼河比売 (ヌナカハヒメ) と姫川>

 今回の旅の中で、ふっと、何故「姫川」なのだろう?? と思った。この川の名は何かいわれがありそうだ …。

 こういうことは、地元の子どもたちの方が郷土学習か何かで勉強して、みんな知っているのかもしれない。それにひきかえ、何度も信濃国を訪ねながら、この年齢まで疑問に思うことさえなかった。

 それで、調べてみた。

 ── 新潟県 (高志国、越国とも) や長野県 (信濃国) には、古来から「沼河比売」を祭神とする神社があり、祭神の「沼河比売」の伝承が残っている。

 漢字表記は「奴奈川姫」などもある。ヌナカハヒメ、或いは濁って、ヌナガワヒメと読むそうだ。

 この姫の名をもつ川が、万葉集に1首だけ登場する。雑歌だが、地方から収集された歌だろう。

 沼名河(ヌナカハ)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(アタラ)しき君が 老ゆらく惜(ヲ)しも」(3247 作者未詳)

 老いていく「君」とはどういう人なのか、歌の作者と 「君」との関係などもよくわからない。

 歌の意は別にして、冒頭に沼名河 (ヌナカハ) という川の名が出てくる。その川から「玉」を得ることができる。ヒスイのことだろう。古語の「ぬ」は宝玉の意をもつから、「ヌナカハ」は玉の川である。

 沼河比売 (ヌナカハヒメ)を祀る神社や、石を採取できる沼河 (ヌナカハ)から、姫川の「姫」は、沼河比売(ヌナカハヒメ)に由来すると考えていい。

 沼河比売 (ヌナカハヒメ)は、遠い昔、ヒスイを採取できるこの地を支配した豪族の祭祀女王であったのだろう。

  (白馬村を流れる姫川)

      ★

<大国主と沼河比売の話>

 沼河比売 (ヌナカハヒメ) は、『古事記』にも一度だけ登場する。神代記の大国主の命の話の中である。

 話を要約すると味も素っ気もないのだが、出雲、伯耆、因幡 (島根県、鳥取県) の王となった大国主が、高志 (越)  (石川県、富山県、新潟県) の沼河比売 (ヌナカハヒメ) を妻にしようと思い、高志国に出かけて行く。

    姫の家の前にやってきた大国主は、鎖された姫の家の外から求婚の歌をあつく詠む。やがて姫も、家の中から大国主に応じる歌を返した。そして、その翌日の夜、二神は結婚したという話である。

 遠い古代(弥生時代後期)に、山陰から北陸にかけて、日本海ルートで「出雲・越連合」が形成された。そのことを神話的に表した話であろう。朝鮮半島や大陸との交易を差配する出雲の王にとって、姫川産のヒスイは貴重な交換財であった。

 『古事記』の沼河比売 (ヌナカハヒメ) に関する記述はこれだけだが、沼河比売 (ヌナカハヒメ) を祀る神社がある地には、大国主と沼河比売 (ヌナカハヒメ) との間に子が生まれたという伝承が残る。子の名は建御名方 (タケミナカタ) の神。成長して、姫川を遡って諏訪地方に入り、諏訪大社の祭神になったという。諏訪大社の方でも、祭神の建御名方 (タケミナカタ) 神の母を沼河比売としている。

    (諏訪大社)

 出雲・越連合の支配圏・文化圏は、姫川を溯って、内陸部の信濃国に及んだ。諏訪大社は信濃国の一宮である。

      ★

<『古事記』の中の建御名方 (タケミナカタ) の話>

 大国主の子である建御名方 (タケミナカタ) も、『古事記』に一度だけ登場する。それは「大国主の国譲り」、即ち大国主命が高天原の勢力に国を譲る話の中である。

 高天原から使者がやってきて、国を譲れと言う。大国主とその子の事代主(コトシロヌシ)はやむを得ないと考える。しかし、もう一人の息子である建御名方 (タケミナカタ) が出てきて反対する。建御名方 (タケミナカタ) は力自慢で意気軒昂である。そして、高天原の使者である建御雷 (タケミカズチ) と戦うことになる。建御雷 (タケミカズチ) は高天原随一の勇者で、建御名方 (タケミナカタ) は全く歯が立たなかった。その結果、建御名方 (タケミナカタ) は信濃国の諏訪に隠棲したという。

 出雲・高志(越)連合が大和の勢力に服属するに至ることを神話的に言い表した話であろう。

    ただ、このとき、大国主は国譲りに当たって一つだけ条件を出した。日本一高い神殿を建てて、自分を末永く祀ること。

 約束は守られ、出雲大社の神殿は、東大寺の大仏殿や平安京の大極殿よりも高かったという。祭祀権は譲渡しなかったのである。

(出雲の美保神社は事代主を祀る)

     ★

<ヒスイの古代史>

 ※Wikipediaの「糸魚川のヒスイ」の記述は、その研究史を含めて極めて詳細で、印刷したらA4で十数ページになった。以下の記述はこれを参考に書いた。

縄文時代のヒスイ]

 ヒスイの原産地は、姫川やそのすぐ南西部を流れる2級河川の青海(オウミ)川の中上流域である。

 縄文時代以来の日本のヒスイ製品の全てが、これらの河川の河口付近で採取された「糸魚川産」のヒスイでだった。

 ヒスイ利用の最古の例は約7000年前、縄文時代前期の敲き石(ハンマー)である。世界で最も古いヒスイの利用例。

 ヒスイが装飾品として利用されるようになったのは約6000年前から。その代表的なものは「大珠」。

 大珠は装身具としては少し大きすぎるから、儀式などの場面で呪術的な役割をもって使われたのではないかと推測されている。言い換えれば、ヒスイは集団の場で威信財として使われていた。ヒスイの美しさと希少さが、畏怖の対象として崇められたのであろう。

 ヒスイには様々な色があるが、古代日本のヒスイ文化は全て緑。他の色のヒスイが使われた例はない。

 縄文期におけるヒスイの分布は、まだ街道と言えるほどの道路網などなかったはずだが、中部地方から東北地方、北海道南部や伊豆諸島にまで広がっている。

 「人が動かなくなる方が、かえって物はよく動く。定住によって、『人は動かず、物を動かす』ネットワークの仕組みができる」(松本武彦『日本の歴史1ー列島創世記』小学館)。

 製品の加工現場は、糸魚川周辺から工房跡が発掘されている。だが、糸魚川にとどまらず、例えば600キロも離れた有名な青森の三内丸山遺跡でもヒスイの加工が行われた跡が発見されている。

 固いヒスイを適度な大きさに割き、磨き上げ、キリで穴をあけるのは、大変な時間と技と労力を要する仕事である。

 縄文時代晩期になると、九州や沖縄からもヒスイ製品が見つかっている。しかし、近畿、中国、四国からはほとんど発見されていない。

      ★

弥生時代のヒスイ ]

 弥生時代前期はさまざまな玉製の装飾品が作られたが、ヒスイ製のものはなく、縄文晩期のものが伝世品として使われていたのではないかと言われる。

 弥生の中期になると、北九州にヒスイの原石が運ばれ、ヒスイ製の勾玉が作られて流通するようになる。

 後期になると、ヒスイ製勾玉の分布は東へと拡大していった。

 勾玉には様々な種類の石が使われたが、ヒスイ製の勾玉が最上位のものとして尊重された。

      ★

古墳時代 ─ ヒスイ製勾玉の最盛期]

 古墳時代のヒスイのほとんどは勾玉に加工され、首飾りとして大切にされた。

 出土の中心は畿内へ移り、関東地方にも広く広がる。

      ★

朝鮮半島のヒスイ]

 朝鮮半島におけるヒスイの利用は三国時代に遡り、4世紀から6世紀前半にかけての伽耶、百済、新羅の王や有力者の墳墓からヒスイ製勾玉が数多く発掘される。

 例えば、新羅の慶州の墳墓から出土した金冠には、57個のヒスイの勾玉が装飾されていた。

 これら朝鮮半島のヒスイも、全て糸魚川産のヒスイである。

 「魏志倭人伝」に記述されているように、当時、鉄素材は朝鮮半島の南の伽耶地方でしか産出せず、それを倭も新羅も百済も入手していた。当然、鉄を手に入れるには交換できるモノが必要にある。朝鮮半島で出土するヒスイ製勾玉は、鉄を得るため日本から持ち込まれた交換財の一つであったと考えられる。(わが国で鉄素材が生産されるようになるのは5~6世紀である)。

 なお、中国においてヒスイが宝石として尊重されるようになるのは17~18世紀の清朝の時代である。ミャンマー産のヒスイが加工され、「翠玉」として王室等で尊重された。

      ★

奈良時代以後 ─ ヒスイ文化の終焉]

 ヒスイ文化は、奈良時代に入ると急速に衰退した。

 東大寺法華堂(三月堂)の本尊である不空羂索観音(国宝)の銀製の冠には、2万数千個の宝玉が飾られ、ヒスイの勾玉も連なっているそうだ。これが日本におけるヒスイの最後の使用例である。

 その後、ヒスイは忘れられていった。利用もされず、産地さえも忘れられていった。

 すっかり忘れられ、江戸時代に古代の遺跡から見つかったヒスイの装飾品も、国内産か、遠い異国から運ばれてきたものか、誰にもわからなかった。

 明治に入り、近代的な考古学の研究調査が行われるようになっても、ヒスイの正体はわからないままだった。

 戦後になって、考古学だけでなく、鉱物学の研究調査が進む中で、古代のヒスイ製品の全てが糸魚川産であることが科学的に判明した。

 古代のヒスイが糸魚川産ではないかということに最も早く気付いたのは、考古学者でも鉱物学者でもない。糸魚川出身の評論家、相馬御風である。昭和10(1935)年のことであった。

 彼は、糸魚川近辺に存在する「沼河比売(ヌナカハヒメ)」を祀る神社、沼河比売の伝承、そして、『古事記』などに登場する「沼河比売」の神話などから、古代のヒスイの産地は糸魚川市内の姫川河口ではないかと思いついたのである。

 神話、伝説、伝承も大切にしなければいけない。

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<卑弥呼の時代と越のヒスイ>

 素人の私ではあるが、日本の古代史について、今、私が、「納得できる!!」と思いながらオンライン講座でお話を拝聴しているのは、福岡大学の桃崎祐輔先生である。まだ若い考古学の先生だが、お話は国内各地の考古学的成果は言うまでもなく、朝鮮半島や大陸の研究成果にも広がり、沼河比売(ヌナカハヒメ)の伝承にまで及ぶ。

 日本の3世紀前半、すなわち弥生時代から古墳時代へ移行する直前の日本、言い換えれば「魏志倭人伝」に卑弥呼が登場した頃の日本列島について、桃崎先生は少なくとも3つの広域政治連合体が鼎立していたとされる。

 「畿内・瀬戸内連合」、「東海・関東連合」、「山陰・北陸連合」の3つである。

 それぞれ、『邪馬台(ヤマト)国連合』(初期ヤマト王権)、『狗奴(クナ)国連合』、『出雲・越連合』である。

 3世紀初め、これらの連合体はいずれも外部権威(後漢)依存型の「王権」で、彼らの権威は朝鮮半島北部に設置されていた楽浪郡を経由してもたらされる中国製の威信財 (鏡、水銀朱) や、朝鮮半島南部の伽耶地方の鉄資源に依拠していた。

 越(高志)のヒスイは、この時代、出雲・越連合にとって貴重な取引財であった。「鉄が速やかに行きわたった日本海沿岸で、個人を顕彰・誇示する大がかりな墓づくり(四隅突出型墳丘墓)がいち早く発達したことは偶然ではない」(上記『日本の歴史1』)

 (出雲の神社のしめ縄)

 ところが、204~220年頃、遼東半島の公孫氏が台頭して、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置した。そして、これとの交渉上、倭国全体の王を擁立する必要が生じ、卑弥呼が擁立された。卑弥呼の擁立を推進した中心は吉備の勢力。出雲はもともと強いリーダーが存在しない、調整型の社会だったから、事態の変化への対応は遅く、かつ消極的で、次第に立場が弱くなっていったと考えられる。

 238~239年、魏によって公孫氏は滅ぼされた。そのとき卑弥呼はいち早く、直接に魏に遣使して「親魏倭王」の金印を授かり、朝貢ルートを確保・独占した。こうして、邪馬台国(ヤマトコク)連合の主導権が確立した。

   (卑弥呼の墓と言われる箸墓と三輪山、手前は堀)

 その後、313年、台頭した高句麗によって楽浪・帯方郡が滅亡。魏のあとを継いでいた西晋も、316年に滅亡した。以後、東アジアは、589年の隋による統一まで混沌とした状態になる。

 これまで外部権威依存型であった出雲集団はここに至って自律的存続が不可能となり、大和王権に服属する。越(高志)もまた、その余波で弥生的な世界の終焉を迎えた。

 こうして、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国時代に入り、3世紀の後半から4世紀にかけての日本列島も初期ヤマト政権の下に次第に統一されていった。

 桃崎先生の説明を私流にまとめればこのようになるだろうか。 

 とにかく出雲・越の勢力にとって、糸魚川のヒスイは、伽耶の鉄素材を入手するために重要な交換財であった。その後、出雲・越を従わせた大和政権の時代になっても、古墳時代を通じて、糸魚川のヒスイは大いに活躍したのである。

  ★   ★   ★

(閑話) 

 塩野七生さんがこんなことを書いていらっしゃる。

 「あるときのインタビューで、『(歴史)学者たちとあなではどこが違うのか』と問われたことがある。それに私は、こう答えた」。

 「その面の専門家である学者たちは、知っていることを書いているのです。専門家ではない私は、知りたいと思っていることを書いている。だから、書き終えて初めて、わかった、と思えるんですね」。

 塩野さんと私との違いは、塩野さんが学識と見識と文才をもち、さらに多くの読者の期待に応えようとする覚悟をもって対象に挑んでいるのに対し、私の場合は百科事典的なレベルでわかったと納得してしまう点である。

 それでも、ブログを書く根底には知りたいという思いがあるからで、その点で塩野さんと同じである。

 書きながら、調べ、考える。こうして、知らなかったことを知ることは、何歳になっても面白い。いや、若い頃は、「何だろう、これ??」とさえ思わず、日々、前へ前へと馬車馬のように生きていた。今は、立ち止まって楽しんでいる。

 

 

 

 

 

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夏の思い出2 ── お善鬼様の里

2024年12月01日 | 国内旅行…信州

 (青鬼神社の参道の石段)

<白馬村の中を散策しよう>

 若いころ、大雪渓から白馬岳(2932m)へ登って、ふつうは南へ白馬三山を縦走するところを、北へ向かい、雪倉岳(2610m)、朝日岳(2418m)を縦走。朝日岳から人里に下って、ローカルバスで日本海へ出たことがある。そこは「親知らず子知らず」の海岸で、白馬岳から続く後立山連峰が日本海へなだれ落ちた荒々しい海岸だった。遠い昔のことだが心に残る山行で、連れて行ってくれた一行に感謝している。

 また、ある日は、一人で白馬村のゴンドラリフト、アルペンクワッドリフトを乗り継いで、そこからは八方尾根を登り、唐松岳(2696m)に立って、そのまま同じコースを駆け下り、麓の民宿へ帰ったこともある。あの頃は健脚だった。

 大糸線沿線の仁科三湖にボートを浮かべたことや、穂高の村に穂高神社や碌山美術館を訪ねたこともあった。

 (そば畑と仁科三湖)

 中年になると山を登るのはしんどくなり、冬から早春にかけて栂池高原スキー場や八方尾根スキー場でスキーを楽しんだ。スキーの楽しさを教えてくれた若い友人たちにも感謝している。だが、私はスキーそのものよりも、天気の良い日に目の前に聳え立つ北アルプスのパロラマや、シラカバ、カラマツなどがすっぽり雪をかぶった高原の林を見るのが好きだった。林の中の雪の上にウサギの足跡が点々と続いていた。

 今は暑さを逃れてこの村にやってきた。年月は茫々と積み重なって、もうあの頃のような体力はない。

 それでも、ホテルの中に閉じこもっているより、せめては白馬の村の中を歩いてみようと思う。思えば今まで白馬村の中を散策したことはなかった。

 それで調べてみた。夏にこの村を訪れる観光客のほとんどは、ゴンドラリフトに乗って北アルプスの眺望を楽しむか、白馬岳の大雪渓を登山する人たちだ。そのほかに村内に、多くの観光客を引き寄せるような観光資源はどうやらない。

 あれこれ調べて、第二日目は青鬼(アオニ)集落へ行ってみることにした。第三日目は木流し川の散策。この二つをメインと決めた。そして、四日目はまた大和国へ帰る旅だ。

 ただ、白馬村は広くて、徒歩だけで回るのは難しい。レンタサイクルも考えたが、もともと白馬連峰の麓の村である。どこへ行くにも、坂道の上り下りがあるだろう。それで、二日目の半日はレンタカーを借りることにした。

 レンタカーの店は、白馬駅の前の国道沿いにあった。

 (昔の素朴さはないが、綺麗な白馬駅)

      ★

<青鬼(アオニ)の里はどこ??>

 青鬼(アオニ)集落は、平成12(2000)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。さらに翌年には、集落の棚田が日本棚田百選に選ばれた。

 ホテルのフロントでもらった観光地図を眺めて研究した。

 青鬼(アオニ)の里は、白馬村の中の北東部に位置している。白馬岳連峰から下ってきた地形が、姫川の清流を越えて、再び東へと隆起していく途中に、ぽつんとある小さな山里だ。

 わがホテルは、白馬連峰の東側の山麓の、一番麓に近い所に建っている。もう少し下れば白馬駅だ。白馬駅から北へ1駅、向こうが信濃森上駅。そのあたりから、車なら国道を外れて東へ、大糸線の線路を越え、さらに姫川の橋を渡れば、道路は登りとなって、やがて青鬼の山里に至る。

    (姫川)

 青鬼からさらに東へ山の中の道を走れば、…… 現在は長野市に組み入れられている鬼無里(キナサ)の里があり、さらに東へ走れば善光寺や戸隠村に至る。

 昔から、日本海側から信濃国へ塩を運んだ塩の道の千国街道があり、千国街道に接続して、青鬼、鬼無里を経て、善光寺や戸隠へ通じる参詣道が開かれていたそうだ。つまり孤立した集落ではない。

 青鬼集落の標高は760m。ホテルから遠いし、標高も高く、車でなければ行くのは難しい。

      ★

<青鬼(アオニ)の里に伝わる伝説>

 ※ 以下、青鬼集落に関する記述の多くは、白馬村のHPを参考にした。

 青鬼集落に心ひかれたのは、何よりも「青鬼」というおとぎ話めいた村の名と、その由来となった伝説が面白かったから。

 それはこんな話である …… 。

 ── 遠い、遠い、昔のこと。

 あるとき、隣の村に鬼が出没するようになり、さまざまな悪事を働いて、村人たちは困ってしまった。それで村人たちは画策し、ついに鬼を捕らえて、近くにあった洞穴に閉じ込めたそうだ。

 ところが、しばらくすると、鬼の姿が洞穴から忽然と消えてしまった。

 …… しかも、何とその鬼が当村に現れたのだ。しかも、何とも不思議なことだが、その青鬼はあれやこれやと村の発展のために尽くしてくれたのである。

 いつしか村人たちは、この鬼を「お善鬼様」と呼ぶようになった。

 そして、いつの頃からか、鬼を追い出した隣の村は「鬼無里(キナサ)村 (現在の長野市鬼無里地区)」、鬼を閉じ込める洞窟があった村を「戸隠村 (長野市戸隠地区)」、そしてお善鬼様の没後も、お善鬼様を祀った当村を「青鬼(アオニ)村」と呼ぶようになったとか ── 。

   ── 鬼無里村と戸隠村には少々気の毒で、青鬼村にとっては都合の良い話だが、隣村も巻き込んだ何ともユーモラスな伝説である。

   戸隠村の戸隠神社は私の好きな神社で、昔から修験者たちによって修験道が行われてきた。

    今年の早春の頃にも訪ねた。奥社の鳥居の向こうに聳える戸隠山は鋸のような山塊で、いかにも鬼の洞窟がありそうな険しい山である。

 (戸隠神社奥社の鳥居と戸隠山)

 上記の伝説の後日譚もある。

 ── 青鬼集落の北に、岩戸山(1356m)がある。その山の頂近くに青鬼が住んでいたと伝えられる岩屋がある。今は青鬼神社の奥之院とされている。

 いつの頃のことだったか、今ではもうわからぬが、この岩屋を調べようということになって、青鬼の男衆たちが、前日から善鬼堂(今の青鬼神社)にお籠り潔斎して、翌朝、山へ行ったそうだ。

 登ってみると、洞窟の前は眺望が開けて良い眺めである。

 洞窟の入り口はやや狭かった。だが、中へ入ると洞になっていた。広さは2間四方ぐらいもあり、床には小石や砂利が敷いてあって、なるほど昔、人が住んでいた気配もないではない。

 その洞にはさらに横に通じる狭い裂け目があって、男衆のうちの小柄な人が入ってみた。そこにも、前の洞より狭い洞があった。そして、さらに狭い裂け目があって、もっと奥へ通じているのが見えた。しかし、さすがにそこまでは極めなかった。

 青鬼の人たちは、この穴はきっと戸隠の裏山まで通じているに違いないと話したという ──。

      ★

<お善鬼様の里へ>

 レンタカーに乗り、急ぐ旅ではないからのんびりと運転する。

 松川に架かる橋を渡った。松川は白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流である。

  (松川)

 国道を外れ、大糸線の線路を越えて姫川の橋を渡ると、道は大きくカーブしながら山へ登っていく。やがて、青鬼集落の公共のパーキングが目に入った。集落の中へ車を乗り入れてはいけない。

 車を駐車させ、徒歩で青鬼集落の中へ入って行った。今日も暑い日だ

 入り口に、「お前鬼様の里 ─ 青鬼集落」の案内図があった。

   (集落の案内図)

 青鬼集落の構造がよくわかる。

 国の重要伝統的建造物群に指定されている家屋群は、全て南向きに建ち、東西に2列に並んで、等しく日当たりが良い。

 集落の脇を一筋の道が通り、道の先に棚田が広がっている。

 また、集落のほぼ中央部北側から、山の中へ、長い石段が登っていて、その先に青鬼神社がある。

   (お善鬼の館)

 集落の家並みの中に「お善鬼の館」があった。空き家となった家を修理して、自由に中を見学できるようにしている。見学者用のトイレもある。

 

  (青鬼集落の家並み)

 今残る家屋は14戸。土蔵が7棟。家の周囲に塀や生け垣はなく、互いに開放的で、背後には石垣が築かれている。

 江戸時代の後期から明治にかけて建てられた古民家で、屋根は藁ぶきだが、今は鉄板で覆って保護されている。家の大小の差はほとんどなく、何世代も住めそうなどっしりとした構えだ。

 明治に入ると、屋根裏部屋で養蚕もやっていた。

 集落の道を棚田の方へ歩いて行ってみる。暑さで体中から汗が流れた。9月の初め。他に見学者の姿はなく、わずかに畑で作業している人を見かけるだけ。

  (棚田の石垣)

 江戸時代の終わり頃に、石垣で囲った3キロに渡る用水路を開削した。また、集落の東方に石垣で築いた約200枚の棚田を作った。

 かつてスイスのレマン湖の上の山腹に築かれたドウ畑を歩いたことがある。アルプスの山々に囲まれた眼下の湖のたたずまいが美しかった。ブドウ畑は石垣を積んで、山の斜面にへばりつくように築かれていた。その膨大な石垣を見たとき、今は豊かなブドウ畑だが、最初にこの斜面に石垣を積み重ねて畑を切り開いていったこの地の祖先たちの労苦を思わずにはいられなかった。

 ここも同じである。棚田百選に選定される値打ちは十分にある。

 集落の北側はお善鬼様が住んだという岩戸山(1356m)があり、東側は物見山(1433m)、八方山(1669m)によってさえぎられている。

 (北アルプスの方向に開ける)

 それで、南西の側だけが開いている。

 眼下に姫川と白馬の市街地が見え、その向こうには3000m級のアルプスの山並みが連なっているが、今日は雲がかかっている。

 田植えの頃には、棚田の田毎の水に緑が映り、その向こうに白雪をいただいた北アルプスが連なって、その季節を撮影した写真を見ると、実に雄大で美しい。

 だが、以前はその頃になると、大きな三脚を担いだ写真愛好家たちが続々と車でやってきて、所かまわず踏み込み、三脚を立て、カメラの放列ができ、村人たちの顰蹙を買っていたようだ。マナーが悪いのは外国人旅行者ばかりではない。

      ★

<青鬼神社に参拝する>

 あまりに暑いので、棚田の道を途中で引き返した。所々に立つ大樹の下陰を通ると、風が涼しい。

 

  (参道の入り口)

 南面して並ぶ集落の真ん中あたりまで引き返すと、人けのない日差しの中、北側の山の中へ石段がのぼり、手前には石灯籠が2基並んでいた。ここが青鬼神社の参道だ。

 (白木の鳥居)

 しばらく登ると白木の鳥居があり、石段はさらに山の中へ、上へ上へと登っている。

 石段に栗の実が落ちている。

 木陰なので、それほど暑くはない。ゆっくりゆっくりと登って行くと、やがて山の斜面の樹木の間に、ちょっとした境内らしき空間があった。

  (本殿)

 山村の、山の中の神社らしく、本殿の社は小さい。

 祭神は言うまでもなくお善鬼様。生前、村に善行を施した青鬼様を、集落の北に聳える岩戸山に祀った。それがこの神社の創建の時。村の伝承によれば大同年間というから、西暦で言えば806年~809年。奈良時代である。

 それは、いくら何でも古すぎる!! と、我々、京都や奈良など近畿圏に住む人間は言うかもしれないが、青鬼集落からは縄文時代の遺跡も発掘されている。1万年以上続いたとされる縄文時代の中心は東日本。西日本が華やいでくるのは弥生時代になってからで、奈良時代などというのは、日本の歴史ではごく新しい。

 その後、岩戸山はあまりに奥深いから、そこは奥宮とし、現在の場所に神社をお移しした。それが安和2年(969年)で、冷泉天皇の御代だ。そこから円融、花山となり、次が一条天皇。「光る君へ」の時代である。

 本殿の東側に諏訪社がある。信濃国の一の宮である諏訪大社から勧請したのであろう。

 その一段下に、立派な神楽殿が建つ。

  (神楽殿) 

 9月に祭礼が行われるそうだから、もうすぐだ。

 祭礼では火もみの神事が行われる。縄文時代のように板と棒をこすりあわせて30分もかけて火をおこす。その火を神社に奉納し、また、各家々の神前や灯篭の火とする。最後は花火も上げるそうだ。お善鬼様は火を好まれるらしい。

 もちろん春と秋にも祭りが行われる。

 (本殿から参道を見る)

 人けはなく、しんとして、木陰の参道はほの暗く、涼しかった。(続く)

 

 

 

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