(東塔)
<1300年前からここにある塔>
白鳳伽藍を見てまわりながら、私は、復興された薬師寺の伽藍を今日まで自分が見ていなかったことに、やっと気づいた。北隣の唐招提寺は何度か訪ねたのに、薬師寺の方は … 多分?? 学生時代に訪れてから、一度も来ていない … 気がする。
理由はいろいろある。先に唐招提寺を訪ねて十分に満腹してしまって、薬師寺に寄らずに帰ってしまったとか、復興の工事が行われている薬師寺を敬遠したとか。
ところが、入江泰吉さんの写真集で見たり、薬師寺の年中行事の1コマをテレビニュースの映像で見たりして、いつの間にか自分の目で見たつもりになっていたのだ。
学生時代以来だとすると、幾星霜である。
以下の引用は亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』の一節であるが、書かれたのは太平洋戦争中の昭和18(1943)年。だが、私が訪れた復興前の昭和40(1965)年頃の様子も、これとたいして変わらなかったはずだ。
「薬師寺は由緒深い寺であるにもかかわらず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。…… 金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽が甚だしい。…… 周囲にめぐらした土塀も崩れ、山門も傾き、そこに蔦がからみついて蒼然たる落魄(ラクハク)の有様である」。
「西塔はすでに崩壊して、わずかに土壇と礎(イシズエ)を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている」。
1300年前の金堂、講堂、西塔などは、或いは台風によって打ち壊れ、或いは兵火によって焼け落ちて、歴史の彼方に失われてしまった。亀井勝一郎氏が見た崩れた金堂や講堂は、ずっと後の時代に仮に建てられた建造物である。
ところが、ただ一つ、東塔のみが白鳳時代のままの姿を保って、1300年間、ずっとここに立ちつづけたのだ。
学生時代、私たちは、何かで読んで、西塔の跡の礎石の窪みに溜まった小さな雨水に東塔の姿が映るのを見て、廃墟・無常の感慨を抱いたりしたのである。ただ一つ残った塔は、1300年の歳月に思いを馳せる滅びの美学の象徴であったのかもしれない。
(東塔)
塔はヨーロッパにも中国にもある。しかし、このような様式 ─ 五重塔とか三重塔 ─ は、日本独自のものと言われる。唐や百済の技術者グループの手を借りながらも、古代日本の美意識が創り出した塔である。
薬師寺の塔は各層に裳階(モコシ)をつけて六層に見えるが、実は三重塔。
はるか上空に水煙があり、飛天が笛を吹いていたが、残念ながら1300年の歳月に耐えられず、水煙だけは新しいものに取り換えられた。
フェノロサが最初に言ったとか、それ以前からある普遍的な言葉だったとか、諸説があるが、とにかく多くの人がこの塔を見上げて、「凍れる音楽」という形容を思い浮かべたのである。
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<閑話1 ─ 1300年前の石の建造物>
よく、ヨーロッパは石の文化だから残り、日本は木の文化だから残らない、と言われる。
しかし、ヨーロッパに、1300年前の建築物が、ほぼ完全な形で、どれほど生きた姿をとどめているだろう。薬師寺の東塔は、薬師寺という寺の一部として今も生きており、ピラミッドや秦の始皇帝の陵墓のような考古学の対象ではない。
1300年前と言えば、西洋はフランク王国のまだメロヴィング朝の時代だった。その時代につくられた建造物で何が残っているだろう?私たちがヨーロッパ旅行に行って見るロマネスクやゴシックの大聖堂は11世紀以降のものだ。
フランスの地方のロマネスクの大聖堂を訪ねた時、聖堂の壁の石材が古びて、もろくなり、一部がぼろぼろと剥落しているのを目にして、驚いたことがある。このことは、井上靖の小説『化石』の中にも出てくる。石材も、千年もすれば朽ちることがあるのだ。
(トゥルニュの修道院)
1300年前と言えば、西アジアではイスラム教が生まれ、東へ西へ猛烈な勢いで膨張していた。アフリカ北岸を西へ西へと進んだ一派は、さらに地中海を渡ってイベリア半島を征服し、ピレネー山脈を隔ててフランク王国と対峙した。
遥かに遠い古代ギリシャの石の文化は、今は巨大な石柱がゴロゴロと草花の中に転がっているばかり。立っているのは、近代になって、往時の姿を復元してみようと、組み立てられたものだ。
それでも、シチリアの海に臨む丘の上のセリヌンテの遺跡は美しかった。地中海から吹く風が頬をなで、廃墟の美があった。
(シチリアのセリヌンテの神殿)
今もほぼ完全な姿で残っているのは、古代ローマの建造物である。例えば、ローマのパンテオン、或いは、サンタンジェロ城。サンタンジェロ城は中世に改造され教皇のための要塞になった。しかし、元はローマの5賢帝の一人、ハドリアヌス帝が、皇帝の霊廟として造ったものだ。後世に城塞として使われるほどに、頑丈そのものである。
(ローマのサンタンジェロ城)
ローマ帝国の建造物が堅固なのは、石というよりもコンクリート製だから。そういう意味では、ローマ帝国というのはたいしたものなのだ。しかし、もちろん、今も当時のままに息づいているわけではない。
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(西塔)
西塔は新しい。創建当初のように鮮やかな丹と金色の飾り金具に彩られて、白鳳の美はこのようであったのかと、よくわかる。
(回廊の外から写す)
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<東院堂の仏たち>
回廊の外、東塔の東側に東院堂がある。吉備内親王が元明天皇(女帝)の冥福を祈って発願し建立させた。
今、遺っている建物は鎌倉時代に再建されたものだが、国宝となっている。
また、本尊の聖観音菩薩も、白鳳時代の国宝。この菩薩様は、写真家の入江泰吉氏の写真集をめくっていて、薬師寺の仏様の中で最も美しいお顔かも知れないと思った。特に横顔が端正である。
本尊の菩薩を囲むように立つ四天王像は、鎌倉時代の重文。私は、如来像や菩薩像よりも、四天王像 (持国天、増長天、広目天、多聞天) や風雪を耐えた個性的な高僧のお顔や姿が好きである。
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<踏切のある休ケ岡八幡宮>
南門を出ると、休ケ岡八幡宮がある。薬師寺を守る神社であった。
(休ケ岡八幡宮)
この神社の神像は魅力的だが、今は博物館に納められている。
参拝して、鳥居を出ると、踏切があった。
遮断機が降り、近鉄電車がごとごとと通り過ぎて行った。
踏切を渡って振り返ると、踏切越しの神社の杜もなかなか趣があってよい。少なくとも、高速道路や新幹線が走る高架などよりは、のどかでいい。
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<閑話2 ─ 白鳳伽藍の復興のこと>
薬師寺のホームページを見ると、昭和43(1968)年、管主の高田好胤和上が「物で栄えて心で滅ぶ高度経済成長の時代だからこそ、精神性の伴った伽藍の復興を」と訴え、単に寄付を求めるのではなく、写経して1巻千円の納経料を寄付するという取り組みを始められ、百万巻を目指して全国を行脚された。その精力的な活動の結果、昭和51(1976)年に目標を達成して、金堂が落慶された。
さらに志は引き継がれて、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂と、白鳳伽藍の主要な堂塔が復興され、白鳳の美が蘇った。
上野誠『万葉びとの奈良』から
「薬師寺で私が見てほしいのは、復興された伽藍の景観である。われわれは、奈良時代の寺院が朱塗りの華やかな建物群であったことをつい忘れてしまっているからだ。そういう目で、白鳳伽藍の東塔と1981年に再建された西塔を見比べてほしい。平城京の時代の人なら、東塔の方に違和感を持つだろう」。
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<閑話3 ─ 内裏や貴族の邸宅は純和風>
平城京の中がすべて、薬師寺の白鳳伽藍のような色彩で彩られていたわけではない。
当時の官寺は唐風建築。中国に新興の宗教である仏教が入ってきたとき、建物をどうするかということで、当時の役所の様式が使われ、そのまま受け継がれた。当時、最も立派な建築物は行政府の建物だったから。
一方、わが国において、帝が日常に居住し政(マツリゴト)を行う内裏の建物や貴族の邸宅などは、飛鳥時代以来、奈良時代、平安時代を通じて、純和風だった。その様式は、平安時代の10世紀頃 (藤原道長や紫式部の頃) に一つの完成形をみた。学校の歴史で習う「寝殿造り」である。
出家した人の世界である寺は、唐風で、瓦葺き、朱塗りの柱、壁と土間があった。
一方、藤原摂関家の東三条殿や、道長が婿入りした左大臣家の土御門殿は、敷地面積が120m四方。北の対、東の対、西の対、そして中心に寝殿と呼ばれる部分があり、寝殿の南側は庭。遣り水が引かれ、池があり、池の中には島があって、長い廊下でつながる釣り殿があった。
唐風寺院建築に対して、和風建築の特徴は、屋根は檜皮葺き(ヒワダブキ)だった。檜皮葺きの屋根は日本にしかないそうだ。柱は白木。壁はなく、土間もなく、高床式である。
壁がないから、外界との隔てとして、格子に板張りした上下2枚の蔀(シトミ。)があった。しかし、ふだんは下は取り外していることが多く、上は昼間は上げていた。ゆえに冬は相当に寒い。あとは御簾(ミス)や几帳などの建具しかなかった。ちなみに冬の暖房器具は、炭を熾した火鉢のみ。
この和風様式は江戸時代まで続く。江戸時代の途中から、檜皮葺きは高価で贅沢。贅沢はやめようという将軍様のお触れで瓦葺きになった。それでも、今も、神社で見ることができる。博物館の展示や史跡としてではなく、今日まで生きた姿で存在し続けている。
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<閑話4 ─ ルネッサンスの教皇たち>
話は飛躍する。薬師寺と直接には関係ない話だ。ただ、─ 檀家などない薬師寺が、幾百万の人々の写経・納経による寄進によって、白鳳伽藍を再建し、奈良の一画に美しい空間を再生させた。人々の写経は金堂の上層の納経蔵に納められている ─ そういう薬師寺の復興という今の世の出来事から、ヨーロッパのルネッサンス期の教皇たちのことを連想した。
私はオンラインの文化講座で、東大助教の藤原衛先生の「西洋中世史」のお話を2年間に渡って聴講し、この3月で終了した。その最終回は「ルネサンスとルネサンス教皇」。
教会大分裂(1378~1417)を経て、やっと教皇庁がローマに帰ってきた時、ローマの町はすっかり荒廃し、古代ローマ時代には100万都市と言われた人口も、2~3万人に減っていたという。廃墟と化した古代ローマの残骸に雑草が生い茂り、放牧が行われていた。今のローマからは想像できない。
そこに、悪名高き10人の教皇が次々に就任する。
ある教皇は子が9人もいたという。教皇様に隠し子が9人もいたと聞くと、私も驚き、思わず笑ってしまった。また、ある教皇は教皇庁の領土を守るために、自ら甲冑を身に付け軍隊を指揮して戦場に出たという。
そして、何と言っても悪名高きは、贖宥状(免罪符)の発行。贖宥状を売って民衆から膨大なカネを集め、自らは贅沢三昧の暮らしをしたと、遠い昔、世界史で習ったような …。
だが、藤原衛先生のお話は少し違う。その一方でルネッサンス教皇たちは、古代ローマ時代の道路や橋、人々に水を供給するローマ水道を蘇らせ、城壁 (いつの時代でも、人民にとっても、安全保障は大切なのだ) を修復し、今日のローマの原型を築いたという。教皇様が帰ってきて、安全であれば、人々も帰ってきて、物作りを再生し、商売も盛んになってくる。
さらに教皇は、サンタンジェロ城を要塞化し、教皇宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を建て、図書館を大改造して今も貴重な書籍を収集し、ルネッサンス画家たちのパトロンになってシスティーナ礼拝堂を美しく飾らせた。フラ・アンジェリコ、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエロらに活動の場を与え、また、多数の人文主義者を登用して今の教皇庁の原型となる行政事務局をつくり上げた。
(サン・ピエトロ大聖堂)
私も、かつて、ヴァチカン宮殿の美術館に入って、1日や2日ではとても見切れない名画や美術品を見て回り、ただ圧倒されるばかりであったことを覚えている。
(ヴァチカン美術館のラファエロの絵)
そういえば、あの歴史作家の塩野七海さんも、30代の前半に『神の代理人』という傑作を書いていた。この本の中で、塩野さんもまた、ルネッサンス教皇を擁護、弁明している。
隠し子が9人もいると聞いたら思わず笑ってしまうが、品行方正、清廉潔白だけでは、危機下のリーダーは務まらないのだ。
ルネッサンス教皇たちは、彼らの大事業の資金として、確かに贖宥状(免罪符)を発行して、人々から喜捨を集めた。
人生の中で誰しも償いきれない罪を犯す。法に触れるような罪ではなく、心の罪だ。年とともにそれが思い出され、心が痛む。人々は自分の罪を償うために巡礼に出、或いは断食して、神に祈った。だが、働き盛りで一家を養わねばならぬ人、さらに病人や老人には、巡礼も断食もままならない。
そこで、神の代理人(教皇)の代理人である神父の前で、告解し改悛することをセットにして、喜捨を受け、贖宥状を出した。ただカネを得るために贖宥状という紙切れを売りつけたわけではない。これは、教会法に則った正当な行為であったと、藤原先生はおっしゃる。
しかるにドイツでは、マインツ大司教が、大道芸人のような奇抜な歌と踊りを見せものにして人々を集めさせ、告解・改悛なしに贖宥状を売りまくって、私腹を肥やした。
その結果、1517年、ルターの宗教改革が起こった。宗教改革はドイツ圏に起こり、フランスやイタリアやスペインでは起きていない。
悪名高きルネッサンス教皇は、とてつもなくタフでエネルギッシュで、ルネッサンスからバロックの時代を創り出し、ローマを再生させ、時代を前へ進めた。
歴史の中の出来事や、歴史に登場するリーダーたちを、品行方正とか清廉潔白などという基準で善悪に分け、裁いていては、人間も、人間の営みがつくり出す歴史というものも、見えてこない。
そういうことを藤原衛先生や作家の塩野七海さんから教えられた。
廃墟だったローマに人々が戻ってきた。キリスト教世界からはじき出された(当時は特にスペインから)ユダヤ人に、ローマに住むことを許したのもルネッサンス教皇だった。病気になったら、ユダヤ人の医師に診てもらっていたという。人々の祭りが蘇った。その山車のために、教皇様はいつも金一封を出して、どうも教皇庁の窓から祭りをのぞき、楽しんでいらっしゃるみたいだ、そう人々はうわさし合った。
(了)
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