< 第4日 ── 列車に乗って古都レオンへ >
サンチャゴ・デ・コンポステーラのケルト的な冬の雰囲気にふれ、さらに、(計画には入っていなかったが、幸運にも )、「陸の終わる地」であるフィステッラ岬にも立つことができ、この旅の目的は十分に達成した。
この旅を計画したとき、難しかったのは、マドリッドからKLオランダ航空で帰国するとして、遠いサンチャゴ・デ・コンポステーラからマドリッドまで、どういうルートで帰るかということであった。
サンチャゴ・デ・コンポステーラから首都マドリッドへ直接に行く列車は、1日に2本しかない。1本は、午後に出て、夜おそくマドリッドに着く。 マドリッドの治安はあまりよくないし、不案内な大都会に夜おそく着くのは、できたら避けたい。もう1本は夜行列車だから、これはもっと避けたい。
いろいろ調べて、結局、レオンに1泊し、古都レオンを観光することにした。
サンチャゴ・デ・コンポステーラからレオン、レオンからマドリッドは、それぞれ1日に何本かずつ列車があり、選択肢が増える。
こうして、12月17日は、サンチャゴ・デ・コンポステーラ発8時42分の特急に乗り、途中、一度乗り換えて、レオンに13時7分に到着した。翌日、昼ごろのマドリッド行きに乗れば、レオンでまる1日、観光もできる。
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< ガリシア地方を思う >
サンチャゴ・デ・コンポステーラ駅のホームの入り口付近で、手荷物のX線検査を受けた。イラク戦争中の2004年、マドリッド付近で大規模な鉄道テロがあり、191人が死亡し、2000人以上が負傷した。それ以後の措置である。これも、また、ヨーロッパの現実である。
列車に乗り込み、自分の座席を見つけて座ると、やっと気持ちが落ち着いた。
列車がホームを滑り出すと、あとは車窓風景を眺めるだけだ。
列車は東へ東へと、ガリシヤ地方の内陸部へ入っていく。その景色を眺めていると、ガリシヤ地方の異質さが、異邦人の目にも少し理解できるような気がしてくる。
今まで見てきた西ヨーロッパの風景は、フランスでも、ドイツでも、一面のブドウ畑や麦畑、黒っぽい休耕地や、緑の牧草地が、果てしなく広がり、小さな林があり、起伏のない平野をゆったりと川が流れる。夕方ともなれば、夕日が地平線近くの村の教会の尖塔を赤く染めながら、その向こうに沈んでいった。
それが、西ヨーロッパだ。牧歌的で、豊かで、美しい。
一方、ガリシヤを走る列車は山の中が多く、谷は深く、緑が濃く、小川が流れている。人の手はあまり入っていない。
朝の太陽が山にさえぎられて、午前の光が射しこまない斜面もある。
耕地は少なく、貧しい。
この風土は、まるで日本だ。
昨日見た大西洋の海岸線は、入り組んで、海まで低山が迫っていた。
Jose さんの朴訥な人柄。彼が案内してくれた古い村の教会や、ネズミよけの穀物倉。いかにも民俗学的な世界だ。日本なら柳田國男の世界。
そして、独自の言語。
小雨降るサンチャゴ・デ・コンポステーラと聖ヤコブの重厚なカテドラル。
そういうものが自分の中で一つに溶け合った。
ガリシヤは、イスパニアと異なるというより、西ヨーロッパと異なるのだ。
西ヨーロッパの中に、そういう地方も、あってよい。
二度訪れることはないだろうが、もう一度訪ねたくなる、なつかしさがある。
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< 旅に出る前に調べたスペインの歴史 >
今回の旅まで、スペインの歴史について、何も知らなかった。大航海時代に輝き、ハブスブルグ時代に最大の版図となって、遥か東方の信長や秀吉にまで刺激を与えたが、今はEUの中で、(サッカーを除けば)、主役になれないローカルな国だ。
スペインの前史は長い。なにしろ、あのアルタミラの洞窟がある国である。
アルタミラは、ガリシヤ地方の東方で、レオンの北方に当たり、ビスケー湾に臨むカンタブリア地方にある。
あのカルタゴの名将・ハンニバルは、イベリア半島で兵を整え、アルプスを越えて、イタリア半島に攻め込んだが、結局、ローマがカルタゴに勝利し、イベリア半島も制圧した。
その後は、パクス・ロマーナの下、西ローマ帝国が滅亡する AD476年まで、イベリア半島はローマそのものだった。五賢帝のうちの2人、トラヤヌスとハドリアヌスもスペイン出身である。
ガリシヤ語は、スペインの支配的な言語であるカスティーリャ語とは違う。違うとはいえ、元は同じラテン語である。異質性を主張して独立したがっているバルセロナ(カタルーニャ地方)も、元はといえば同じラテン語で、ラテン文化圏だ。言語も文化も違うのは、バスクのみ。新興都市のマドリッドなどを除けば、スペインの大部分の町は、ローマ時代につくられたか、それ以前からあって、ローマ化されたローマの町である。
5世紀のローマ滅亡後、イベリア半島に流入し、支配したのは、ゲルマンの一族である西ゴード族。王国となり、首都はトレドに置かれた。
一方、610年ごろにマホメットが興したイスラム教は、破竹の勢いで勢力を拡張し、かつてのローマの支配圏であった北アフリカを西へ西へと進んで、わずか100年後にはジブラルタル海峡まで進出する。
そして711年、イスラム勢力は地中海を越えてキリスト教徒の西ゴード王国と決戦し、圧倒的な勝利を得て、コルドバに都を置いた。
西ゴード王国の残存勢力が態勢を立て直したのは、イベリア半島の北方、グアダラマ山脈の向こう側まで退いてからである。
その地に建設されたのがレオン王国。その首都がレオン。その後のキリスト教徒のレコンキスタ (国土回復運動) の発祥の地となる。
のち、レオン王国は家来筋のカスティーリャに併合され、レオン・カスティーリア王国となり、南へ南へとレコンキスタを進めていった。
9世紀に聖ヤコブ(サンチャゴ)の墓が発見され、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が始まったのは、キリスト教勢力のレコンキスタ (国土回復運動) と宗教的に呼応していた。
サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は、イスラム勢力の支配地域を避けた、イベリア半島の北方を通る道であり、首都レオンはその要衝となったのである。
もう一つ、レコンキスタの勢力があった。732年、イスラム勢力は東に侵出して、ピレネー山脈を越え、フランク王国と激突して、撃退された。フランク王国はピレネーを西に越え、その地に伯爵領を置いた。
この勢力が成長して、アラゴン・カタルーニャ王国となり、西へ西へとレコンキスタを進めた。
そして、レオン・カスティーリア王国の跡取り王女と、アラゴン・カタルーニャ王国の跡取り王子が結婚して、できたのが、今のスペインの原型である。
バルセロナを中心とするカタルーニャは、ピレネー山脈をはさんでフランク王国と縁が深く、今になって、西ゴード王国の流れをくむカスティーリアから分離・独立をしたがっているのである。
ともかく、1492年、グラナダ攻略をもって、800年かけて戦われたレコンキスタは終了する。
首都でなくなった後のレオンは、今は、人口は14万人。スペイン北部のローカルな中都市である。
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< 今はパラドールとして使われているサン・マルコ修道院 >
今回の旅の前、レオンという町について、全く知らなかった。
レオン王国の王都として栄えたのは、10世紀~12世紀。ベルネスガ川のほとりに開けた町で、川は北へ流れ、、ビスケー湾に流入する。
旧市街の見所は3か所。
11世紀に、ロマネスク様式で着工した聖イシドロ教会。
13~14世紀に、ゴシック様式で建てられたカテドラル (大聖堂)。この町の中心である。
そして、16~17世紀に、ルネッサンス様式で建てられたサン・マルコス修道院。サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のために、病院兼宿泊施設として建てられた。今は、半官半民の高級ホテル・パラドールとして運営されている。パラドールの建物の多くは、由緒正しいは歴史的建造物で、2泊したサンチャゴ・デ・コンポステーラの五つ星ホテルも、パラドールだった。
聖イシドロ教会に近い今夜のホテルに荷物を置いて、一番遠いサン・マルコス修道院 (パラドール) から見学を始めた。ベルネスガ川のほとりに建っていた。
修道院を兼ねて、巡礼者を保護する病院・宿泊施設として建てたのは、資金豊富なサンチャゴ騎士団である。外観は、左右対称、ルネッサンス様式の、壮麗な建築物だ。
(パラドールのサン・マルコス修道院)
中に入って、昼下がりのレストランで、グラスワインを飲んだ。柱も、壁も、床も、調度類も、クラッシックで格調の高いものばかりだった。
外に出ると、巡礼者らしき像が柱にもたれ、修道院の建物を見上げていた。
あたりの写真を撮っているうちに、さっき通り過ぎたお嬢ちゃんが、引き返してきていた。巡礼者の像が気になるらしい。
「おそくなったよ。早く帰りましょう」。きれいなママでした。
( サン・マルコ修道院の前で )
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< 町の中心はゴシックの大聖堂 (カテドラル) >
旧市街の中心部に引き返し、大聖堂の前の広場に立って、ゴシック大聖堂の威容に圧倒された。広場の端に寄って広角レンズを構えても、なかなかうまく全貌が収まらない。さすが、スペインを代表する、かつての王都の大聖堂である。
( 大聖堂のファーサード )
中に入ると、建物の柱や壁や床の石はかなり古びて、修復が追い付いていないといった感じがあった。どこの国でも、文化遺産を保護・補修する予算は、少ない。レオンという、すっかりローカルになった町にとって、この大聖堂は荷が重すぎるのかもしれない。
それでも、スペインで最も美しいと言われるステンドグラスは、本当に美しく輝いていた。これを見るためだけに、遠くからやって来る人もいるという。
( バラ窓のステンドグラス )
(側面の窓を飾るステンドグラス)
内陣の奥の飾り衝立に描かれた絵も、色彩感がすばらしかった。
( 内陣の飾り衝立とステンドグラス )
回廊と美術館はガイド付き見学だが、手が離せないということで、自由に見て回ることができた。ガイドの説明を聞いてもどうせわからないから、その方がありがたかった。
見事な空間だった。ただ、これほどのものなのに、見学する人がほとんどなく、ガランとしていた。
大佛次郎の小説に、『帰郷』という有名な作品がある。外国で亡命生活をしていた主人公は、焦土と化した敗戦後の日本に帰国し、戦災の被害に遭っていない京都・奈良を訪ねて、寺社や庭園を巡りながら感動するのだが、同時に、このような感想を抱く。
「恭吾が見てきたフランス、イタリアの古い寺院は、現代でも庶民の生活とともに生きていた。薄暗い堂内に跪いて付近の男女が、祈っている姿はいくらでも眺められたし、信仰に冷淡な観光客でもその人たちを煩わさぬように心をつかって、帽子も入り口で脱ぎ、靴の音を立てない用意があった。拝観と名だけものものしくて、国宝となっている仏像を保存し陳列してあるだけの場所ではない。… 奈良でも京都でも、それが案外であった。… 夏の日ざかりに大きな空き家に入ったような感じで、埃や湿気がにおい、寂寞としていた … 」。
戦後、70年。フランスでもイタリアでもスペインでも、「拝観と名だけものものしくて、国宝となっている仏像を保存し陳列してあるだけの場所」が、すっかり多くなった。この大聖堂の回廊も、中庭も、柱の聖人像も、ガランとして、まるで博物館にいるような感じだった。
今は、日本の神社などの方が、まだ、現代に生きている、と思うことがある。日本では観光で訪れた人も、柏手を打ち、手を合わせている。欧米人までが、そのようにしている。
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< 素朴なロマネスクの聖イシドロ教会 >
大聖堂から歩いて10分のところに、聖イシドロ教会はある。
旧市街を歩いていると、ガウディが設計したという建築物があった。ガイドブックによると、4隅に尖塔があるのが、ガウディの特徴なのだそうだ。
( ガウディの設計 )
聖イシドロ教会は、11世紀にロマネスク様式で着工した。
ロマネスク様式の教会は、素朴で、温かみがある。特に、青い屋根の塔がいい。
聖イシドロという日とセビーリャの大司教で、死後、聖人に列せられた。この教会は、聖イシドロに捧げられ、聖人の名を冠している。だが、建てられた目的は、レオン王国 (914年~1109年) の歴代国王や王の一族を埋葬する霊廟としてである。
ここは、厳格に、ガイドツアーで見学する。入場料を払い、ガイド料金も要するということは、今は博物館化しているということだ。それでも、歴史的文化遺産として遺してほしい。
霊廟 (パンテオン) の低い丸天井には、色鮮やかに、素朴なフレスコ画が描かれ、床には石棺が置かれていた。
( 聖イシドロ教会 )
今日、宿泊するホテルも、元は聖イシドロ教会の敷地内の僧院で、門を入り、庭を歩いて、その先の建物に入ると、フロントがあった。
驚くほど宿泊料は安く、申し訳ないぐらいだ。
部屋の窓を開けると、僧院の中庭を見下ろすことができ、向かいの建物の上には、聖イシドロ教会の青い塔ものぞいていた。
夕食のレストランも、元僧院の食堂で、周囲の壁もテーブルや椅子も、がっしりして、古び、中世的な僧院の雰囲気があった。
グラスワインを注文したら、ボトルを1本出された。こんなに飲めない、と言ったら、好きなだけ飲めと言う。周りの宿泊客を見たら、みんなボトルを1本置いて、食事をしていた。
(塔がのぞく、ホテルの中庭)
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夜、大聖堂まで歩いてみた。人通りは少なかったが、表通りは不安を感じるような街ではない。
昨日までの、大西洋側の温暖な気候と比べて、この地方の夜は、空気がピーンと冷たく、ダウンのコートを着ていても、しんしんと冷えた。
カテドラルは盛大なライトアップだ。
( ライトアップされた大聖堂 )