( オロチの里へ )
縄文時代、弥生時代、古墳時代‥‥古代は霧の中にある。
日本語は、いつごろ、どのようにして生まれたのだろう?
縄文人と、弥生人とは、どのようにつながっていったのか?
「大和は国のまほろば」という。 その大和は、いつごろ、どのようにして、この国の中心に成長していったのだろう … などなど、謎は多く、知りたいことばかりである。
知りたいことは多いが、遠い時代のこの国の姿は、まだ深い霧の中にあって、見えているのはおぼろげな影ばかり。
「神々の国・出雲」。 ‥‥ ここもまた、なぞのクニである。
今回は、その神々のうちの、スサノオにまつわる伝説の地を訪ねて、ドライブの旅に出た。
☆ ☆ ☆
< すれ違う車も、人家もない … >
中国自動車道の庄原インターから少々、イザナミ伝説のある比婆山中腹の宿に一泊する。 ここはスキー場があり、今はシーズンオフのウィークデイだから、宿もひっそりしている。 土地の名酒、「比婆美人」をいただいた。
翌朝、国道314号線を宍道湖方面へ向けて北上し、スサノオ伝説の残る地を訪ねる。
「草深い」、としか言いようのない山や谷の中を、これだけは近代的な国道が走り、道は県境を越えて、島根県の奥出雲地方へ入った。
すれ違う車はめったにない。人家もない。
山々は緑で、トンネルを抜けると、「おろちループ」に差し掛かった。
二重にとぐろを巻いたヤマタノオロチをイメージしたという、日本一のループ道路を降っていく。
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< オロチの棲んだ淵 >
最初に目指したのは、「天が淵」と呼ばれる淵。
あのヤマタノオロチが棲んでいたという、伝説の淵である。
JR木次線の線路が、山の麓を縫うように、樹木や草むらのなかを見え隠れする。「備後落合」駅と松江市の「宍道」駅とを結んでいる。 鉄道ファンでなくても、この草深い中を、とことこ、のんびり旅をしたら楽しいだろうなと、想像する。
間もなく、「天が淵」に到着した。
こんもりとした山々に囲まれて、田畑があり、わずかに人家もある。人家がなければ、伝説は生まれない。
その中を、一筋の小さな流れが貫いている。斐伊川( ヒイガワ )である。流れはこの付近で淵となる。
( 「天が淵」 )
淀んだ水の一部に赤っぽい泥土が見えて、人を呑む大蛇の一匹ぐらい、棲めなくもない … か?
ここがまあ/ ついの棲み家と / 思いしに(ヤマタノオロチ作)
‥‥ 「 ヒエーッ。 スサノオめ 」
斐伊川は、スサノオがヤマタノオロチの首を切り落としたとき、その血によって真っ赤に染まったという川。
「そのみ佩(ハ)かしせる十拳(トツカ)の剣(ツルギ)を抜き、その蛇を切り散らかししかば、肥河 (ヒノカワ=斐伊川)、血に変わりて流れき」 (古事記)。
遠い古代の文章ながら、簡潔にして、力強い。
斐伊川は北上しながら、やがて大河となって、宍道湖に注ぐ。
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< クシナダヒメが出産した聖地の谷 >
次の目的地である「八本杉」を目指して、斐伊川に沿って車を走らせていると、川の対岸に川辺神社があった。
予定していなかったが、せっかくなので立ち寄ってみる。
心細げな橋を渡るが、そこから神社へ行く道がわからない。やむなく、川の堤の上の草むらの小道を、対向車に出くわさないことを祈りつつ走って、鳥居の前にたどり着いた。
小さな集落からも離れた、名のとおり、川べりにある、静かな小社である。
(川辺神社)
スサノオは、オロチを退治したあと、クシナダヒメと結婚する。 やがてヒメは懐妊。
スサノオは、産湯に使う良い水はないかと探し求め、「 いたく くまくましき 谷」 があったので、ここを産所とし、その湧き水を使ったと言う。
「くまくましき谷」とは、奥まったきれいな谷という意味だそう。のちに、その場所を祀ったのがこの川辺神社であるそうな。
( 斐伊川 )
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< 打ち取ったオロチの頭を埋めた地 >
地図を見ると、目的の「八本杉」は木次町の街の中にある。
木次は、この辺りでは、ちょっとした町のようだ。
木次に着いて、住宅街の中の道をそろそろと車を走らせ、二、三度迷い、路地の奥といった場所に、やっと目指す「八本杉」を見つけた。
( 「八本杉」 )
車を停めて写真を写していたら、たまたま家から出てきたご近所のおじさんが、ここの由来などを説明してくれた。「ありがとうございます」。
こういう由緒ある地に住むことを誇りに思い、異郷の人に説明したくてたまらないというか、自慢したくてたまらないというか、出雲には、こういう人が多いのかも知れない。郷土への誇りは、良いことだ。
ここは、スサノオがオロチと戦った「古戦場」。 立て札の説明書きに、「古戦場」とはっきり書いてあった。
その退治したオロチの八つの頭を、スサノオはここに埋め、その上に八本の杉を植えた。
杉は斐伊川の氾濫などで幾度も流失したが、遠い昔からそのたびに補い植えられて、今日に至ったそうだ。
カムバックされては、困るのです。
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< ヤマタノオロチ退治の意味するもの その1>
神話とか、伝説というものは、人々を深く感動させた出来事、それゆえに人々によって語り伝えられてきた大切な出来事があって、幾世代も経て、次第にデフォルメされ、昇華され、やがて文字化されたりしたものであろう。
「英雄スサノオのヤマタノオロチ退治」という話も、このような冒険譚に結実する前の、もう少しリアルな出来事が原型としてあったのではないか?
その有力な説の一つは、ヤマタノオロチを、河川の氾濫ととらえる考え方である。
八つの頭と尾を持つオロチの形状は、支流を集めて流れる河川の姿だ。
水を支配するのは、古来から竜神である。竜は蛇。
クシナダヒメは、「古事記」では「櫛名田比売」。「日本書紀」では「奇稲田比売」。いうまでもなく美田を表す。日本の弥生文化は、水田・稲作の文化であった。
大蛇が毎年、娘をさらったのは、毎年、一人ずつ処女が治水のために生贄にされたのだ。
ゆえに、オロチ退治は、治水事業の成功を表す。
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< ヤマタノオロチ退治の意味するもの その2 >
しかし、もう一つの有力な説明がある。
中国山地、広島県から島根県に入った辺りから、車を走らせながら、あちこちに「たたら製鉄」の史跡の看板を見た。
弥生時代は、また、鉄の時代の始まりでもある。
3 世紀前半の卑弥呼のことが書かれている「魏志」の「倭人伝」は有名だが、その「魏志」に「東夷伝」がある。 朝鮮半島の南端に弁辰国(カヤ)があり、鉄を産する。 その鉄を買い付けに、周囲の国々、倭もカラもカイもやってきたと。
たたら製鉄には膨大な樹木を必要とした。古代から近世まで、朝鮮半島の山々は、丸裸になってしまったと言う。
やがて、倭でも、自力で鉄の製造が始められるようになる。その初期のころには、技術伝達のため、半島の山々を丸裸にしてしまった弁辰国の製鉄職人グループもやってきたかもしれない。
日本の中国山地には良質の砂鉄が豊富にある。その上、日本の温暖湿潤の気候は復元力が大きく、砂鉄を精錬する燃料として必要な木炭を作るため、一度に一山の樹木を伐採しても、30年かかって中国山地を一巡したときには、最初に伐採した山は、元どおり樹木の生い茂った山になっていた。
近代に入ると、汽船や巨砲を造らねばならなくなったとき、たたら製鉄ではとても間に合わなくなる。
そこで、早くも幕末期、開明的な大名であった佐賀の鍋島や島津の斉彬は、西洋式の反射炉を造らせた。
これらの藩は、一人の西洋人の専門家を呼んでくることなく、西洋の書物を入手して、これを読解し、自らの力だけで反射炉も蒸気汽船も完成させたのである。
気位ばかり高く、ただ惰眠を貪っていた当時の東アジアの中華世界において、こうう実践力は瞠目に値する。
しかし、近代以前においては、鉄の需要は刀剣や農機具のレベルだったから、たたら製鉄で十分であった。
それでも、現代の製鉄では不可能なほど良質の鉄製品、例えば「長船の名刀」を作り出していく。
さて、話は古代日本の山陰地方に戻る。新しく興ったたたら製鉄には問題があった。
たたら製鉄は、牧歌的な古代の田園風景において、かつてなかったような大規模な集団と組織を必要とした。山から膨大な木を伐り出す人間、それを炭焼きする人間、川から砂鉄を取り、より分ける人間、ふいごで風を送ったり、鉄を叩いたりして、直接に製鉄作業に参加する人間など、古代といえども、何百人という集団が必要であったと考えられる。(宮崎駿の『もののけ姫』を見た人はわかるだろう)。
彼らの仕事は、稲作農民などと比べると、遥かに荒々しい。
中には、山々に囲まれた谷間や、川の下流域に広がる平野で穏やかに暮らす農耕民に対し、徒党を組んで、ならず者集団のように振る舞うグループも、いたかもしれない。
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以下、司馬遼太郎 『 この国のかたち 五 』 から引用。
この怪物(オロチ)の描写が、古代製鉄集団のあらあらしさに似ていることが、早くから島根県の郷土史家のあいだで指摘されてきた。
八岐大蛇の目はホオヅキのように赤い。 このあたり、精錬のときタタラで酸素を送ったときの火の熾さ(サカンサ)を思わせる。
また砂鉄採鉱で山を掘りくずし、カンナ流しでたかだかと水を流し、一方、山や谷の木を伐るなどのたけだけしさは、それ以前の人間の営みにはなかったものである。 怪物としか言いようがない。
それにこの大蛇は八つの頭と八つの尾をもち、その身にヒノキやスギがはえ、全体の長大さは八つの谷と八つの峰にわたっていた。 腹はつねに血でただれている、というから、製鉄現場のあちこちに砂鉄で赤錆びた水が流れている情景を連想させる。
この八岐大蛇のために土着の水田耕作民が難渋していた。 スサノオは、農耕民の首長らしい老夫婦から訴えをきき、やがて大蛇を退治して、その夫婦の娘、奇稲田(クシイナダ)姫をめとる。 奇稲田というのは、「すばらしい水田」という意味である。
( 宍道湖 )
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< スサノオのイメージ >
水田耕作は、当時、何よりも大事な産業であったから、これを保護し、その豊作を土地の神々に祈る者が王であった。
同時にまた、古代にあっては、鉄を制する者が王となる。 鉄は、後の貨幣のように、重要で貴重な物資であった。
故に、「カレ」は、もちろん軍事的組織を作って、一部の製鉄集団を掣肘した。「古戦場」とあったのは、正しい。
が、製鉄集団一般を滅ぼしたわけではないだろう。
彼ら製鉄集団を支配下に置き、無法をさせず、水田耕作民と調和させ、川の川上を使う際の制限を設け、伐採した山には植林させ、或いは、彼らが伐り開いた土地を田畑にして耕作地を増やしてやり、鉄製品で農機具の歯を作らせるなど、農民にとっても役に立つ存在へと彼らを導いていったのだ。
スサノオは、そういう新しいリーダーとして、この地方に頭角を現していった首長(王)ではなかろうか。
出雲地方におけるそのような力強いリーダーの登場が、古老によって語り継がれ、幾世代も経るうちに、スサノオのヤマチノオロチ退治の話として、結実していったに違いあるまい。( 続く )