ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

塩野七生さん、ありがとう … 『日本人へ Ⅳ』 を読む

2018年01月13日 | 随想…読書

      ( ローマを流れるテヴェレ川 )

 塩野七生さんは、ローマのテヴェレ川の近くにお住まいであると、そのエッセイのなかに書いておられた。

         ★    ★    ★

 司馬遼太郎の『この国のかたち』は、総合雑誌『文芸春秋』の毎月の巻頭言を飾った文章をまとめたエッセイ集である。私は司馬さんが書いてこられた厖大な歴史文学もさることながら、このエッセイ集が好きである。日本の歴史のあれこれが深い造詣と彫りの深い日本語によって語られていて、日本国民必読の香気ある書だと思っている。

 西洋史について何の知識も見識もなかった私にとって、塩野七生さんの諸作品はヨーロッパを旅する私の基礎教養となった。もし塩野さんの本を読むことなくヨーロッパ旅行に出かけていたら、ずいぶんと薄っぺらな旅になっていただろう。

 その塩野さんが、司馬さん亡き後、『文芸春秋』の巻頭言として書いてこられたエッセイをまとめたのが、文春新書の『日本人へ』シリーズである。今回がその第4巻になった。

 ローマから日本へ向けて書かれたこれらのエッセイを読んでいると、そのことごとくにわが意を得たりと思ってしまうのである。「友」とか「知己」とか言っては畏れ多いが、こんなに意見が一致し、共感できる人は他にないのではないかとさえ思う。

 私は塩野さんのようには何ほどの社会的影響力ももたないのであるが、私もまた大和の片隅から、愛する日本にエールを送り続けている一人である。

 さて、このエッセイ集の最後の章に、塩野さんはこのように書いておられる。

 「今執筆中の『ギリシャ人の物語』の第3巻をもって、私の作家生活も50年になる。それで、本格的な、つまり勉強して考えてその結果を書くという歴史エッセイは、これで終わりにしようと決めた。

 集中力が衰えた、のではない。1年もの間集中力を持続するには欠かせない、体力が衰えたのだ」。

 ここでおっしゃる「歴史エッセイ」とは、歴史文学のことで、普通のエッセイはまだまだ書かれると思うのだが、この本の最後の最後が、「(歴史を書くことは、) … 一生の選択としては悪くなかったと思っている」という一文によって終えられているのを読んだとき、… なぜか自分が引退・退職して、職場を去った日のことが重ねあわされた。

 異郷の地で自身の命を燃焼させて歴史を勉強し執筆された日々を想像し、心からお疲れさまでしたと申し上げると同時に、終わり方までカッコいいですねという称賛と、淋しさを伴った心からの感謝の気持ちを捧げたいと思います。

 以下は、上記の書から私が共感した文章の抜粋。抜き出しているうちに、ずいぶん多くなってしまった。

      ★    ★    ★

政治家のありよう…その1(ヒラリーの敗因) > 

 「生涯の大勝負に二度も、初回の相手はオバマ、二度目の敵はトランプ、で敗れたヒラリーの政治キャリアはこれで終わりだろう。それでもなお彼女の敗因を探るのは、野望に燃えている日本の女たちへの参考になるかと。

 まず、ヒラリーにとっての最大の敵はヒラリー自身であることへの自覚の欠如。ガラスの天井とか男社会の壁とか、そんじょそこらのフェミニストが口にする薄っぺらな責任転嫁は、大統領を目ざした女ならば口にすべきでない。

 第二に、『初めての女性大統領』を強調しすぎたこと。…

 敗因の第三だが、何かをやりたいから大統領になるのではなく、何が何でも大統領になりたいという印象を与えてしまったこと。野心的であるのは、悪いことではない。だが、それだけというのでは男であっても見苦しい」。

         ★

政治家のありよう…その2(コールの場合)

 「6月17日、ヨーロッパ各国のテレビはいっせいに、ドイツの元首相ヘルムート・コールの死を報じた」。

 「その前年(1989年)、ベルリンの壁が崩壊した。これをコールは、ドイツ人の秘かな願望であった東西ドイツの統一を実現できる、好機と見たのだろう」。

 「だがあの時期、ドイツ以外のヨーロッパ諸国は、ドイツ統一に賛成ではなかったのだ。第一次、第二次と2度もの大戦によるトラウマで、強大化する可能性大のドイツ統一を喜ぶヨーロッパ人はいなかったのである」。

 「西ドイツ内でも、東と西では経済力の差がありすぎるという理由で、経済界が反対。労働界も、東独からの安い労働力が入ってくれば西独の労働市場が破壊されるという理由で反対。国民投票にかけていたならば、反対多数でポシャっていただろう

 あの当時の状況をリアルタイムで追っていた私には、西ドイツ首相のコールは孤立無援に見えた。だがここから、後年になって『外交の傑作』と言われることになる、『目的のためには手段を択ばず』と言っても良い手腕が発揮される。……」。

 「国内では、経済界の反対にも、労働界の強硬な反対にも、耳を傾けなかった。

 ドイツ連銀に至っては、反コール一色になった。コールが、強い西ドイツマルクと弱い東ドイツマルクを1対1で、つまり同等の価値での交換を公表したからである。

 たしかにこれは、経済を無視した政策であった。しかしコールは、東西ドイツの統一を、経済ではなく政治の問題であると確信していたのにちがいない。もう一つ彼が信じていたのは、ドイツ人が胸中に抱き続けてきた祖国の統一への熱い想いであったろう。

 こうして、あの当時はほとんどの人が不可能と思い込んでいた東西統一が、実現したのである」。

 「次の総選挙では、コールは大勝する。だが、この直後からコールを、統一のマイナス面が一挙に襲う。経済力の低下、大量の失業者の発生、等々。

 改革とは新しいことに手をつけることだから、それによるプラスは、初めの頃は出てこない。反対にマイナスは、すぐに現れる。だから時間と忍耐が必要なのだが、それを理解してくれる人は少ない。98年の選挙では、コール率いるキリスト教民主同盟は野に下った」。

 「 今ではそのコールを、ヨーロッパ中が、『ドイツ統一の真の功労者』と称えるように変わっている。『使い捨て』にはされた。だが、使った後で捨てられたのだから、これこそ政治家、政治屋ではない政治家、の生き方ではないだろうか」。

         ★

政治家のありよう…その3(メルケルの場合) >

 「民主主義のリーダーにこそ、大いなる勇気と覚悟と人間性を熟知したうえでの悪辣なまでのしたたかさが求められると思っているが、実際上のEUのリーダーであるメルケルとオランドだが、この2人は右にあげた資格に欠けていることでも共通している。『やってはいけません』一筋のメルケルでは、まずもって気が滅入ってしまうからリーダーにはなれない」。

 「少なくとも経済政策だけは自国内で規定する権利を堅持し続けるべきだという思いを、ますます強めている。やってはいけないと言われるままにやらずにいたら、有権者たちから愛想づかしされたのが、EU内の国々の現状であった」。

         ★

 「ドイツの首相メルケル ── EU第一の強国ドイツを率いる立場にありながら、自ら先頭に立って引っ張っていくという気概なり肝っ玉なりが、この人からはまったく感じられない。彼女の口から出る言葉は「ナイン」だけで、拒否するからには代案を出さねばならないのに、そのようなことはまずしない。強弱混じった国々で形成されているEUをまとめていくには、強国ドイツが犠牲を払う必要があるのだが、その必要をドイツ国民に納得させる言葉にも、まったく熱がない。メルケル自身が、その必要を感じていないのではないかとさえ思う」。

  「これが、イギリスがEU脱退を決める前のヨーロッパの実情であった。脱退が決まった今、ヨーロッパ中が大波に振り回されるであろうと想像するのも、たいしてむずかしいことではないのである。

 しかも、揺れ動くヨーロッパに、舵にしがみついてでも自分が、と思う政治指導者はいず、自分たちで、と思う国もないのだから哀しい」。

         ★ 

  ( ローマのポポロ広場を埋めるデモ )

EUの難民問題 > 

  「経済面での緊縮政策への不満と並んでヨーロッパ各国でEU懐疑派が台頭した理由の一つは、次から次へとやって来る不法移民に対して実効性のある対策を打ち出せないことにあった。人道的には、食べていけない国々から来る人々を助けるのは当然である。

 だが、難民たちが食べていけると思われているヨーロッパでは、緊縮政策による不況もあって、そう簡単には食べていけない。イタリアの失業率は13%だが、若い世代になると2人に1人が失業者だ。また、政策当事者たち*は口をそろえて、移民はヨーロッパの新しい力になると言うが、この人々と直に接しなければならない層にとっては問題はそう簡単ではない」。

* 政策当事者たち = 今、EUの政策を立案・決定しているのは、優秀な大学を優秀な成績で卒業したブリュッセルにいるEU官僚たちである。選挙で選ばれたギリシャやスペインやイタリアの大統領は無力。官僚たちが顔色を窺うのはドイツのメルケルだけ…と言われている。(参照 : エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』文春新書 )。

 「一般市民は言う。かつてのイタリア人は移民先でゼロからスタートするのを覚悟していたのに対し、今の難民たちは何よりもまず、イタリア人と同じ待遇を要求するのだ、と。それに難民たちにも職を与えねばならないが、失業率13%、若年失業率に至っては40%にもなる国で、どうやれば彼らに、イタリア人並みの待遇まで保証する職を与えることができるのか、と。

 大学や大新聞から定給を保証されている有識者たちは、この種の、彼らにすれば次元の低い問題にはふれない。ごく少数のフリーのジャーナリストがとりあげるときがあるが、そのたびに彼らはファシスト呼ばわりされ、右傾化の先鋒だと非難されている」。

 「ここに紹介した一般市民の意見は、視聴者参加の時事番組をテレビで見ていて、それに参加していたイタリアの普通の老若男女の意見を拾い上げた結果にすぎない」。「言いたかったのは、昨今言われるヨーロッパ人の右傾化も、有名メディアの報道だけに頼っていてはわからないということだ」。

  「… それでも、一つのことだけは言えそうな気がする。どこからも強制されたわけではないのだから、外国人を20万人も入れるなどということは、軽々しく口にしないほうが良いのではないかということである」。

⇒ EUの一員であるギリシアには超緊縮財政を強いたメルケルは、その後、人道的見地から100万人の難民を受け入れると言い、さすがに今度ばかりはドイツ人をはじめ、EU内で反発が起こった。

 それまでは、難民受入れに疑義を出せば即「極右」(「ナチズム」)のレッテルを貼られた。最近は少し控えて、「ポピュリズム政党」。だが、「100万人の難民を受け入れます」というほうが、よほどポピュリズムのようにも思える。

 いずれにしろ、定義なしのレッテル貼りは、アジテイターのすることだ。人々を扇動してはいけない。 

         ★

一神教のこと > 

 「日本人の多くが抱いている、『宗教イコール平和的』という思い込みは捨てたほうがよい。宗教とは、それが一神教であればなおのこと、戦闘的であり攻撃的であるのが本質である。(彼らが)平和的に変わるのは天下を取った後からで、それでも他の宗教勢力に迫られていると感ずるや、たちまち攻撃的にもどる。そして代表的な一神教は、キリスト教とイスラム教とユダヤ教。」。

 「一神教は、ただ一人の神しか認めていない。ゆえに他の神を信仰する人は真の教えに目覚めない哀れな人とされ、布教の対象になる。だがそれでもまだ目覚めない者は救いようのない『異教徒』(つまり敵)と見なされ、殺されようが奴隷に売られようが当然と思われていた」。

 「一神教と多神教のちがいは、神の数にはない。古代のローマ人も、合計すれば30万になったという神々の全員を信仰していたわけではなかった。一人一人は守護神を持っていたが、それを他者に強制していない。それどころか、敗者になったカルタゴの神にも、勝者であるローマの神々の住まうカンピドリオの丘に神殿を建ててやったのだ。ローマ人の『寛容』の精神とは、他者が最も大切にしている存在を認めることにあったからである。日本人だって、お稲荷さんを信じていない人でも、境内に立つキツネの像を足蹴にしたりはしない。真の意味の寛容とは多神教のものであって、一神教のものではないのである」。

( カンピドリオの丘から見たフォロ・ロマーノ )

         ★ 

中国へ行ってきました

⇒ 塩野七生の『ローマ人の物語』は韓国、中国でも出版されている。それで、中国の出版社から招待されて中国に行った。

 「私の見た中国人はコワモテやシタタカどころか、笑っちゃうくらいに矛盾に満ちた人たちだった。なぜなら、あの大気汚染の中で、喫煙できる場所を探すのが東京以上にむずかしかったのだから」。

 「歴史認識については日を変え人を変えて何度となく質問された。こういう問題には私でも真正面から答える。即ち、歴史事実は一つでも、その事実に対する認識は複数あって当然で、歴史認識までが一本化されようものならそのほうが歴史に対する態度としては誤りであり、しかも危険である、と答えたのだった。うなずいていたから、一応にしろ納得したのかもしれない。譲れない一線は誰であろうと譲らない。いや譲ってはかえって、相手の知性を軽視することになると私は思っている」。

⇒ 中国共産党史観による歴史認識の統一。それを国民にばかりか、他国民にまで押し付ける強引さ。一種の一神教の国である。

         ★

原発事故の処理に当たって

 「福島原発事故は、なにしろ起こってしまったことなのだ。起こってしまったからにはそれをプラスに転化する努力もしないでは、ホモ・サピエンスであるはずの人間を自称する資格はない」。

 「それには、廃炉技術のナンバーワンに躍り出るのが一番である。日本は廃炉技術のエキスパートになって、その技術を世界中に売り出す」。

  「それには、若い力の加入が不可欠だ。積極的で建設的な仕事ということになれば、若い人も入ってくると思う。それもしないで廃炉も含めた原子力発電全般の技術者の温存と育成もしないとなれば、日本人は単に、福島原発事故を起こしただけの民族で終わってしまうのだ」。

         ★

福島からの避難児童へのいじめ >

 「横浜の学校で起きた、福島からの避難児童へのいじめ」。

 「食卓でこんな話が交わされる。母親が言う。『ウチは小さい子もいるし、福島産のお米も野菜も買わないことにしたわ。放射能やら何やら、バイ菌もついているかもしれないから』。父親は、それに賛成もしないが反対もしない。このような会話を聴いた子が学校で、福島からの避難児童に残酷に当たっても、誰が非難できよう。両親の会話には、『あの人たちって賠償金も相当もらったらしいわよ』、という話もあったかもしれない。『賠償金』なんて、小学生の頭から生まれる考えではない」。

 「子供は、親をまねることで育つのである。だからこそ育児は、大変だが立派なしごとなのだ。子供の無知で残酷なふるまいは、大人の無知と残酷さの反映にすぎない。福島の原発事故の直後、東京にいてさえ、放射能を恐れ、子供連れで関西や九州に避難した女流作家が2人いた。"良識派をもって任ずるマスコミ" は、この2人の行為を称賛した」。

 「日本人がよく口にする「キズナ」なんて、この程度のシロモノである。あれからの5年余り、福島の人たちがどれほどの風評被害に苦しんできたか。横浜で起きたいじめも、そのうちの一つだと思うべきである。

 たしかに、学校の対応にも問題はあった。だが、学校側にだけ責任を負わせることはできない。にもかかわらず、市当局もマスコミも、非難を向けたのは学校側に対してだけで、加害児童の親たちの責任に言及した人は皆無に等しかった。日本の "良識派 " の中身を見る想いになる」。

         ★

人口の半分の女性が働くこと >

 「経済成長時代に生きた(働いた)日本人にとっての『安定』とは、終身雇用であった」。

 「子供をもつ女にとって、安全で身近で子供を託せる場を保証されること以上の『安定』はない」。

 「子供が生まれても、仕事は絶対につづけること。私が妊娠したとき、大先輩の円地文子先生に言われた。たとえ書く量が半減しても書くのを止めてはいけない、子育て期間の後に執筆を開始したときの苦労に比べれば、子育て中の執筆続行の苦労なんて軽いものよ、と」。

 「一人でできる作家業でもこれである。仕事を持つ女性の多くは、組織の中で働いている。しかも今や、日進月歩のハイテク時代。たとえ3年の育児休暇を保証されたとしても、その後の職場復帰は現実的に無理、ということになるだろう。だから、『女性活用』を机上の空論で終わらせないためにも、保育システムの完備は、重要な国家政策にさえなりうるのだ」。

 「暫定措置法でよいから、政府が決めてまずはスタートさせる」「保育士の資格などは不可欠ではない。育児の経験者ならば、誰でもできる。… 要は、泣かれたぐらいで右往左往しないことなのだ」。

 「出勤と退社時の交通事情だが、1時間後の出勤と1時間前の退社を認める方法もあるし、育児中の女性専用の車両を加えるとか、頭を働かしさえれば解決策は見つかる。なにしろ、育児中に限っての措置にすぎないんですよ」。

 「中高年世代も、… 20年後の年金の保証はこの子たちが働いて稼ぐことにかかっていると肝に銘じ、近所の保育園に週の数時間でもボランティアで働いてみてはどうだろう。赤ちゃんの甘い匂いくらい、子育て時代に戻らせてくれるものはないのだから」。

 「子育ては、政府の対策を待つだけでなく、日本人全体で取り組むに値する問題だと思う」。

⇒ 私に言わせれば、「保育園おちた、日本死ね」はだめですよ。「お上」にしてもらうことばかり考えてはいけません。「お上」も努力しなければならないが、当の本人であるあなたも動かなければいけません。自分はじっとしていて、してもらうことばかり考え、不満ばかり言っていては世の中は良くなりません。保育園には地域的片寄りがありますから、職場と保育園を優先し、住むマンションを移動するというのも、一つの手です。私たちの世代は、保育園なんてほとんどありませんでしたから、地域に保育園をつくる運動から始めました。認可を得られない共同保育園から始めた人もいました。今ある保育園は、そういう、次の世代の人のためにもと思って頑張ってきた人々の成果であるという一面ももっているのです。あなたは、あなたの子どもの世代のために何を残すのですか。「日本」とはあなたそのものですよ。

         ★

書き終えて、初めてわかる >

 「ついに脱稿。とはいえ昨年から始めていた『ギリシア人の物語』3部作の2巻目を書き終えたにすぎないのだが、私の場合は、脱稿後に感じる想いは、書き終えたというより、わかった、という想いのほうが強い」。

 「あるときのインタビューで、『学者たちとあなたではどこがちがうのか』と問われたことがある。それに私は、こう答えた。

 『その面の専門家である学者たちは、知っていることを書いているのです。専門家ではない私は、知りたいと思っていることを書いている。だから、書き終えて初めて、わかった、と思えるんですね』」。

⇒ 疑問を抱いて旅を終え、そこから書き始める私のブログと同じです。旅 → ブログ(紀行文) → わかった!!

         ★

大切なことは負けないでいること >

 「なぜドイツ人は、落ちるとなると頭から落ちてしまうのか。おそらくドイツ民族は、あらゆる面で優れた才能に恵まれていながら、落下には慣れていないのかも」

 「反対にイタリア人は、慣れすぎである。落ちても足から落ちられるんだからと思っているので、落ちないで済むための配慮さえも怠ってしまう」。

 「単純素朴な愛国者である私は、わが日本が、このドイツとイタリアの中間を行ければと切に願っている。つまり、勝たなくてもよいが絶対に二度と負けないこと。安全保障問題とは、これに尽きるとさえ思う」。

 「日本人の大半は、第二次世界大戦を知らない世代で占められるようになった。この彼らに対して、『なぜ日本は負けるとわかっていた戦争をはじめたのか』よりも、『どうすれば日本は、今後とも長く負けないでいられるか』のほうが、より関心を呼ぶテーマになっている」。

          ★

   ( フィレンツェの花の聖母教会 )

歴史から知る危機克服の鍵

 「今執筆中の『ギリシャ人の物語』の第3巻をもって、私の作家生活も50年になる。

 それで、本格的な、つまり勉強して考えてその結果を書くという歴史エッセイは、これで終わりにしようと決めた。

 集中力が衰えた、のではない。1年もの間集中力を持続するには欠かせない、体力が衰えたのだ。(塩野さんは年1冊と決めて書いてきた) 

 そういうわけかこの頃は、50年間西洋史を書いてきて、何を学んだのかと考えるようになっている」。

  「それは次のことだ。長期にわたって高い生活水準を保つことに成功した国と、反対に、一時期は繁栄してもすぐに衰退に向かってしまう国があるが、このちがいはどこに原因があるのか、という問題である。

 前者の典型は、古代のローマ帝国と中世・ルネサンス時代のヴェネツィア共和国。

 後者の好例は、古代ではギリシア、中世・ルネサンス時代ではフィレンツェ。

 1国の歴史は、個人の一生に似ている。上手くいく時期ばかりではなく、上手くいかない時期もあるという点で似ている。

 そして前者と後者を分ける鍵は、上手くいかなくなった時期、つまり危機、に現れてくる。言い換えれば、危機をどう克服したかが、前者と後者を分ける鍵になるというわけ」。

 「それは、持てる力や人材を活用する、ということだ」。

 「人材が飢渇したから、国が衰退するのではない。人材は常におり、どこにもいる。ただ、停滞期に入ると、その人材を駆使するメカニズムが機能しなくなってくるのだ。要するに、社会全体がサビついてしまうんですね」。

 「… 反対にギリシアやフィレンツェでは、サビを取り除くのを、リストラという方法に訴える。歴史的に言えば、国外追放。おかげでギリシア時代のアテネやルネサンス時代のフィレンツェでは、テミストクレスやレオナルド・ダ・ヴィンチのような、頭脳流出の先例を作ってしまうことになる」。

 「この頃の難民問題が人道的な感情だけでは解決できないのは、難民とは国家によるリストラだからである」。「国家が黙認している『難民』なのだから、今や経済大国になっている中国も例外ではない。中国からの不法入国者がいまだに後を絶たないのも、その辺りに真の事情がひそんでいるからだろう」。

 「リストラ主義だと短期に回復を達成できるが、それとて長くは続かない」。

 「自分たちがもともと持っていた力と、自分たちの中にいる人間を活用するやり方の方が、最終的にはプラスになってくるのだ」。

 「なぜこうも簡単なことを、学界もマスコミも指摘しないのだろう。あまりに平凡で簡単なことで、識者とされている人の口にすることではないと思っているのだろうか。

 だが、歴史を書くこととは、人間世界ならばそこら中に散らばっている、平凡で単純な真実を探し出して読者に示すことでもあるのだ。有閑マダムもよいが、一生の選択としては悪くなかったと思っている」。

     ★    ★    ★

 

   ( 海の都…ヴェネツィア )

 『ローマ人の物語』全15巻も、『海の都の物語』2巻も、『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』3部作も、『神の代理人』も、本当に面白くわくわくさせられました。今は遅ればせながら『ローマ亡き後の地中海世界』の「下」を読んでいます。続けて『十字軍物語』3巻にもいずれ取り掛かります。

 読書の楽しさを教えてくれたのも塩野さんです。ありがとうございました。

 

 

 

 

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『谷 干城 ─ 憂国の明治人』 … 読書独り言2

2017年07月06日 | 随想…読書

 最近読んだ本3冊。

〇 高村正彦/ 三浦瑠麗 『国家の矛盾』 (新潮新書)

〇 ピーター・ナヴァロ 『米中もし戦わば』 (文藝春秋)

〇 小林和幸 『谷 干城 ─ 憂国の明治人』 (中公新書)

 

 『国家の矛盾』は面白かったが、今回は触れない。

 ピーター・ナヴァロの 『米中もし戦わば』 は、読み続けるのがかなり苦しかった。だが、ここに書かれていることは事実かもしれないし、これが事実なら、眼をそらすわけにはいかないと思って、読み切った。

 文章は明快で、読みやすい。

 オバマの8年間でアメリカの軍事費は縮小され、軍事力は停滞ないし弱体化した。

 一方、中国の軍事力は、質量ともに、隔世の感と言えるほどに伸張した。ここに書かれていることが事実であれば、世界の予想を遥かに超えている。

 中国の戦略目標は明確である。

 中国から中近東を経て西欧までの、陸・海の道を、中国の「道」にしてしまうことである。

 中国の道にするとは、アメリカが仮に中国に対して経済封鎖をしようとしても、それを許さないよう、中国の軍事的優位下に置くということである。言い換えれば、この「コース」からアメリカ軍には撤退してもらうということである。

 とりあえずは、東シナ海、南シナ海から、中東(石油)への出入り口に当たるマラッカ海峡に至る海を、中国のコントロール下に置く。つまり、この海域から、アメリカ軍を追い出す。

 すでに、沖縄の米軍基地(第1列島線)も、グァムの米軍基地(第2列島線)も、時速50キロで航行する米空母群も、中国大陸から雨あられと発射されるミサイル群や、米軍のコピーである航空機、或いは潜水艦によって、捕捉され、射程に入っている。この地域における米軍の優位は覆りつつあると、著者は言うのである。

 かつて日本は、10倍の生産力を擁するアメリカと戦って、国土は焦土と化したが、今、「世界の工場」はアメリカではなく、中国である。

 著者はカリフォルニア大学の教授で、トランプの政策顧問。専門は経済だから、ここに書かれている具体的な軍事的状況の一つ一つは、その筋の第一人者のあれこれの論文を紹介したものであり、「また引き」である以上、すべて正しいとは言えない。

 だが、中国軍の実態について、本当のところは、誰も知らないのである。軍事的に世界で最も不透明な国が中国である。

 例えば、核軍縮というと米露であり、両国の実態はとっくに、互いに丸裸になっている。が、中国の核兵器については、反核勢力もほとんど問題にしないし、その認識は50年も前のままである。

 だが、実態はすでに米露に匹敵する質量があるとも言われる。分厚いコンクリートの地下道の中に貯蔵されているから、米露の核ミサイル基地と違って、衛星では見えない。(北朝鮮でさえ、今やそうなっている!!)。万里の長城のような地下道の中は、道路や鉄道が張り巡らされ、高速で移動できる。米国が、中国大陸から核ミサイルが米国本土へ向けて発射されたと気づいたときには、もう手遅れなのである。

 危機意識を煽るのはよろしくない。

 この本については、これくらいにしておきたい。

     ★     ★     ★ 

< 小林和幸 『谷 干城 ─ 憂国の明治人』を読む >

 今、中公新書が売れているそうだ。お堅い中公新書がなぜ?? と、出版界で話題になっているらしい。

 この本 ── 『谷 干城 ─ 憂国の明治人』を買ったのは、そういうこととは関係なく、書評を読んで、谷干城という人に興味をもったからである。今、日本に必要なのは、こういう政治家なのだと思う。

 著者は、小林和幸という人で、奥付を見ると青山学院大学の歴史学の先生である。ご専門は、明治立憲政治。お堅い研究者が書いたものだから、血沸き肉躍る歴史小説、という種類の本ではない。

 谷干城は、幕末から明治の時代に登場する歴史上の人物、例えば伊藤博文、山県有朋、大隈重信、黒田清隆、板垣退助などという人たちと比べて、一般には知られていない。私自身、西南戦争のとき、熊本鎮台司令長官として、西郷軍を相手に籠城し、熊本城を死守したことぐらいしか知らなかった。

 最近、会津藩の山川浩に興味をもった。そのことは、以前、ブログに書いたが (2016、8、25「本州最北端への旅 5」) 、そこに、谷干城が少し登場する。そういうことも、この本を手にした要因の一つである。

          ★

< ブログ「本州最北端への旅 5」から >

 「その兄 (のち、東京帝大総長になった山川健次郎の兄) 山川浩は、藩の家老格の家柄であり、1866年、20代の初めに渡欧して、見聞を広めた。戊辰戦争のとき、日光口 (会津西街道) で土佐の谷干城が率いる政府軍と戦い、これを見事に防いだ。

 谷干城は、以後、終生、山川浩を尊敬し、戊辰戦争のあと、浩は谷の推挙で政府の軍人になる。元会津藩士が官途に着くのは難しかったころで、山川浩がこれを受けたのは斗南藩 (会津藩が下北半島に移されてつくった藩) の窮状の助けにならんとしたのである。

 明治10年の西南戦争のとき、熊本城にあって司令官を務めていた谷干城は、薩摩から破竹の勢いで攻め上ってきた西郷軍に包囲され、長期の籠城を強いられた。このとき、敵の包囲を打ち抜いて、最初に熊本城に援軍として入城したのは、中佐・山川浩であった。山川ら会津人にとって、自分たちが「朝敵」であったことなどは一度もなく、薩摩は、多くの死んでいった会津藩士たちの仇敵であった。

 のち、少将まで進み、貴族院議員になったのも、苦境にある元会津人を援助するためであった。

 「なお、山川浩は、私の母校である東京教育大の前身、東京高等師範学校の初代の校長になっている。文部大臣・森有礼に任じられた。今回、『街道をゆく』を再読するまで、知らなかった」。

           ★

激動の幕末のなかの谷干城 >

 谷干城は、土佐に生まれた。小姓組の家柄で、土佐藩の身分制度では、郷士に対しては上士。ただし、藩政を運営できるのは馬廻組以上で、 後藤象二郎や板垣退助は馬廻組の身分だった。

 坂本龍馬(郷士)は2歳年上、板垣退助は同年、後藤象二郎と中岡慎太郎(庄屋)は1歳下である。

 幕末の激動の時代を、彼はどのように生きていたのか。ここでは本書からその1シーンのみ写す。 

 「坂本龍馬、中岡慎太郎が、京都で襲われ殺害される事件が起こった。土佐藩にとって大きな打撃だった。… 干城らにとって二人は導きの頼りであった」。

 「干城は、事件の発生直後に現場に駆けつけている。まだ息のあった中岡は、はじめ干城方を訪ねたが留守であったので坂本のもとに来て話をしているときに襲われたなどと干城に語り、また『速くやらなければ君方もやられるぞ。…』と挙兵の早期実現を促したという」(p50)。

          ★

熊本城籠城戦 …  封建主義との戦い >

   谷干城と言えば、西南戦争である。熊本鎮台司令長官として、3千の農民出身の兵を指揮し、西郷軍1万3千(その後、加わった兵を合わせると3万を超えると言われる)の士族軍を引き受け、50余日間籠城して、熊本城を死守したことで知られる。

   西南戦争が勃発する1877年の前年に、谷干城は二度目の熊本鎮台司令長官になっているが、一度目の1873年のときの前任者は、西南戦争のとき、西郷軍を実質的に指揮した桐野利秋であった。桐野は、西郷隆盛が、どんな大事も任せられる最高の逸材と評していた男で、激動の幕末期からいつも西郷に寄り添い、維新後の陸軍における出世も早かった。

 だが、「桐野は元来、古武士風で陸軍省の法規に従わない傾向にあり、徴兵令に対しても『彼れ土百姓らをあつめて人形を作る』と評し、農民兵を忌み、士族兵を重んずる考えであった」(p74)。

 そのため、軍行政に携わっていた山県有朋が困って、熊本鎮台を谷干城と入れ替えたのである。

 「干城が(1回目の)熊本鎮台司令長官となったとき、最も苦心したのはわがままな士族兵たちの統御であった。干城の司令長官としての仕事は、鎮台から士族兵を除き、統率が容易で、訓練された兵に替えることであった。そうした尽力の結果として熊本鎮台があった」。

 戦いの当初、西郷軍は、熊本鎮台に向かうに際して、「台下通行の節は、兵隊整列して、西郷大将の指揮を受けらるべし」という通牒を発した。これは、元熊本鎮台司令長官の桐野が、農民兵を見くびって出した通牒だろうが、西郷軍は、戦いの最初の段階で、大きなミスを犯したのである。

 鎮台幹部は、まったく動じなかった。副司令長官をはじめ、西郷や桐野の影響を受けていたが、「すでに鎮台兵として、国家の正規軍としての自負が私情を凌駕していたのである」(p91)。

 「干城は、徴兵制度の成否が問われるこの戦いに負けるわけにはいかなかった」。「干城にも、士族兵との戦いを封建主義との戦いと考えるところがあった」

 「抜刀して戦う接近戦では士族兵に後れをとったが、最新式のスナイドル銃や大砲や地雷を装備し、訓練された鎮台兵の守りは堅かった」。(p94)。 

 「政府軍の総進撃により、4月14日山川浩中佐の一隊が熊本城に入り、攻囲は解かれた。かくして干城は守城に成功したのである。籠城50余日に及ぶ守城の意味、功績はもちろん、明治国家にとって甚大なものがあったことは言をまたない。西郷軍の猛攻に耐え、徴兵の軍隊が士族軍隊よりも優秀なことを証明し、軍事的な反乱が政府の軍隊を倒すことができないことを示したからである」(p96)。

 西郷軍が熊本城を素通りしていたら、或いは、熊本鎮台がやすやすと陥落されていたら、西郷軍は下関海峡を渡って、東京を目指し、その結果「全国的な反政府的挙動を誘発」(p91)して、日本の近代史は全く変わったものになっていたかもしれない。

       

          ★

洋行体験と立憲思想の深化 ── モデルはスイスにあり > 

 1885年(明治18年)、日本で最初の内閣である第一次伊藤博文内閣が成立し、谷干城は学習院長から初代農商務大臣として入閣した。薩長以外での大臣就任は、榎本武揚と2人だけであった。

 翌年、干城は、1年3か月に及ぶ欧米視察に赴く。

  人間には、「気質」というようなものがあると思う。例えば、谷干城は、幕末のころからずっと同郷の板垣退助と合わない。多分、板垣の「オレが、オレが」という気質がいやだったのだろう。自由民権運動に対しても、「(彼らが)めざすのは士族の跋扈(バッコ)であって、平民のための民権の伸張にはつながらない」として、反対した。彼は、個人の不平、「私」の利益追求から発する不純な運動を嫌い、「公」のための民権を「真民権」と呼んで、これを進めようとした。(p102)。

  1年3か月の欧米視察で、谷干城は、エジプト(イギリス統治下)、フランス、スイス、ギリシャ、バイエルン(ドイツ)、トルコなどを視察し、オーストリアでは、ウィーン大学教授ローレンツ・フォン・シュタインのもとにとどまって、質疑と議論を行った。シュタインは、憲法起案のために伊藤博文や山県有朋などが訪れ、大きな影響を受けた学者である。

 さらにイギリスの議会政治やアメリカの民主政治を視察して帰国するが、これらの国々のなかで干城が最も感銘を受け、これからの日本のモデルにすべきと考えたのは、スイスであった。

 「『真の民権』が実現した国はどこか。干城が実見したところ、その理想となる国はスイスであった」。

 「市街が清潔でよく整頓されており、国民が自ら政治を行い、過酷な法もなく、人々は純朴にして農・工に従事する『自主自由』のある国と見て、『開化世界の桃源』と称賛した。

 また、スイスは、成年男子がみな兵士となり、大国に挟まれても他国の干渉を受けず、中立を守っている。そうした国防のあり方についても感動した」。

 「さらに、中央政府が22州の州政治に干渉せず、それぞれの州が適宜に政治を行い、選挙によって政治を託すから、人々に不平が起こらない。こうした"自治"を『共和政府の最上』としている」(p122)。

 この時代、欧米を訪れた日本人政治家や知識人の多くは、或いは破竹の勢いで国力を増強しつつある新興のプロシャに学ぶべしとし、或いは世界の海を支配する立憲君主国・イギリスを理想とし、或いはまた、反権力思想花盛りのフランスの自由主義にあこがれたが、スイスこそ理想とした谷干城は珍しい。

 スイスについては、このブログの「西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅5」の日本のロマンティシズムと永世中立国スイスのリアリズムをご参照ください。

 私は西欧史の中で、中世以降ならヴェネツィア、近世以降ならスイスが好きである。人々に独立の気概と市民共同体の一員としての自覚があり、党利党略で足を引っ張り合って国政を過つ、というところが少ない。

          ★

貴族院議員として立つ 

 谷干城は農商務相を辞任し、以後、谷干城びいきの明治天皇による再三の任官の勧めも辞退し続けた。

 そして、明治憲法が発布され、帝国議会が開かれると、満を持して自らの活躍の舞台を貴族院議員に求めた。

 彼が目指したのは、日本の立憲政治を実りある実質的なものにし、それによって国を発展させ、国民を豊かにすることにあった。モデルはスイスである。

 貴族院議員としての彼の活動は、実に活発だった。

 「貴族院の大勢は政府寄りであったが、干城をはじめその同調者──村田保、三浦安、山川浩、小幡篤次郎、植村正直らは、政府と対立しても貴族院の審議権を守り、貴族院の意思を示そうとした。彼らは貴族院での言論を通じて国政を動かそうと考えていた」(p161)。

 彼が育てようとした貴族院は、薩長藩閥政府による政治の偏りを正し、また、衆議院が国家・国民のことを忘れ、政党の党利党略の場になり、権力闘争に終始するの是正することにあった。

         ★

日清戦争を通じて > 

 日清戦争の開始にあたって、干城はきわめて慎重であった。

 その終結に当たっては、伊藤博文首相に書簡を呈している。

 「日清戦争は、朝鮮の独立の確保を目的とする『義戦』である。その目的を果たせば、政府内や民間に広がっている講和条件の過大な要求を首相は拒否すべきで、講和が延びれば列強の干渉を招く」として、毅然として終戦に導くよう、首相の決意を求めたものであった (p188)。

 だが結局、議会も世論も強硬で、陸奥宗光が締結した講和条約は、清に対して多額の賠償金を支払わせ、台湾と遼東半島を割譲させるものであった。その結果、干城がおそれたように、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉を招く。

 ところが世論は、三国干渉に屈した政府の弱腰を非難し、より一層の軍備の増強を迫った。

 このころ、足尾銅山鉱毒事件が起こる。

 干城は、1897年に、農学者を伴って実地調査に出かけ、惨状を目撃した。それ以後、農商務相の榎本武揚、続いて大隈重信らに働きかけて、現地調査をさせ、田中正造と連携し、議会で訴えた。

 干城にとって国民は、スイスの国民のように、貧しくても幸せに暮らしていなければならない。そのような国民こそが、大国からの侵略に対して、毅然として戦いに立ち上がるのである。

         ★

日露戦争と、孤立する谷干城 >

 ロシアとの戦争の機運が高まるなか、干城は主戦論者との間で激しい論争を展開した。

 孫へ宛てた手紙の中で、日露開戦を説いた東大7博士を「腐儒」と呼び、道理に反していると痛烈に批判している。

 7博士に呼応して日露開戦を説いた別の東大教授の妻は、干城の愛娘であった。彼女は日露戦争後、離縁している。

 戦争の終わりに至って、干城は、国内世論の大半を向こうにまわし、サハリン割譲の撤回、旅順も中国に返し、大連・ハルビン間の鉄道の権利だけ得れば足りるとして、講和条約の条件に領土の獲得を挙げることを避けるよう主張した。

 だが、国内世論の大半は、干城が否定した講和条約さえ日本にとって不十分で、弱腰であるとして、日比谷焼き討ち事件など講和反対の騒乱を起こした。

 このころから、日本は大きく道を踏み外していくことになる。 

 谷干城が理想とする国は、軍備は防御に徹して強固であること、海外膨張政策は取らず、外交は固有の国権を維持することに専念し、国と民を富ませ、国民の総力で国家の独立を保守する、というものであった。これは当時の政治家や識者の多くがモデルとしたプロシャでもなく、イギリスでもなく、フランスでもなく、まさにスイスであった。 

 だが、議会の内外において、彼の主張を支持する者はなくなり、彼は孤立を深めていった。

 晩年の干城は言う。「(世と自分と) どちらが馬鹿であるか、狂気じみているかは、将来における事実の審判を受けねば知れぬが、一度は必ずわかる時節が来るに相違ないから、刮目して見ているがよいさ」。

 それから40年後、干城が言ったとおり、日本は行きつくところまで行き、焦土のなかからもう一度立ち上がらなければならなくなる。

 だが、そこに至るには、もう少し、経過がある。国政の大局を忘れ、政権を争って党利党略に走る政党政治、部数を売るため大衆に迎合して騒ぎ立てるマスコミ、そして、それに踊らされる国民大衆が、軍人を政治の舞台に呼び込み、日本を軍国主義化させていったのである。いきなり軍人が登場したわけではない。

         ★

干城の生き方を貫くもの >

 だが、干城は、伊藤博文、山県有朋、松方正義、黒田清隆、大隈重信といった元勲たちと、時に厳しく対立しても、同じく維新の困難を経験した者としての国家建設に向き合う共通した精神をもっていた。

 とりわけ伊藤博文については、「彼は日本第一流の政治家なり、また博学なり。種々の非難ありといえども、我が国の管仲として尊敬せざるべからず」と日記に書いている(p224)。

 1909年、伊藤博文がハルビンで韓国人テロリストに暗殺されたとき、病を押してその葬儀に参列したが、伊藤の死は干城の気力を衰えさせた。

 1911年(明治44年)、谷干城は死去した。

 「多くの弔辞が寄せられている。それらには、干城の赫々たる軍功、政治的業績、功績が記されている。しかし最も干城への思いが伝わるのは、干城が丹精を込めて解決に尽くした足尾鉱毒事件の被害地方青年代表のもので」あったと、著者は書いている(p226)。

 彼が目指したのは、政治のための政治ではない。日本国と日本国民のための政治であった。

         ★

 著者はこの本の最後をこのように結んでいる。

 「公を求める強い独立した精神によって創られた時代が明治であった。干城は、その精神がひときわ際立っている。だからこそ、昭和の国粋主義を代表するのではなく、明治を代表する人物なのである」。

 「最後に、ここまで、干城の思想を見てきて、(スイスをモデルとし) 平和と自由を求めた干城が、自ら『保守主義』と称する理由は、理解できる」。

 干城は、大切な日本を守りたかったのである」。

         ★

< 閑 話 >

 最近の国会も、マスコミも、ネットの世界も、つまらぬ小事に1億総興奮状態。私には異常としか思えない。

 国の大事を忘れ、政権奪取の党利党略に走り、小賢しい元官僚を引っ張り出し、憎悪を拡散している。

 現代のギルド組織・獣医師会も、50余年もの間、獣医学部の新設を門前払いし続けた文科省官僚も、そこの課長補佐が書いたというパソコン書きのメモをふりかざす蓮舫代表も、テレビや週刊誌も、「大切な日本を守りたい」と思っているようには、私にはどうしても見えない。

 7/6 「讀賣新聞」── 政治学者 御厨 貴さんから

 「それにしても都民ファーストという新勢力は、あまりにもアモルフ(無定形態)でよく分からない。イデオロギーとか政治的信条といった面はほとんど不明な一群だ。

 『小泉チルドレン』『小沢ガールズ』『安部チルドレン』そして『小池チルドレン』と繰り返される状況もまた、次々と現れては消え、忘れ去られる一発屋芸人を見ているようで、政治のあり方としては極めて危うい。

 小池知事も今回持ち上げられたのと同じ速度で、落とされるかもしれない。政治に奥深いものがなく、一発芸しか持ち合わせていないのであれば、有権者はより過激な一発屋芸人を求め続けるだろう」。

 

         ★   ★   ★ 

 9

 今回は、カテゴリー 「国内旅行 … 心に残る杜と社」の4編を更新しました。写真を更新して、一新できたと思います。

1 心に残る杜と社1 … 厳島神社 (2012、12、09)

2 心に残る杜と社2 … 熊野本宮大社 (2012、12、11)

3 心に残る杜と社3 … 金刀比羅宮 (2013、2、18)

4 心に残る杜と社4 … 靖国神社 (2013、2、24) 

の、4編です。

        ★ 

 「心に残る杜と社」は、旅の紀行のなかで折にふれて取り上げていますが、ここでは紀行文から漏れた拾遺集という感じで書いています。

 厳島神社はさすがに世界遺作。素晴らしいと感じましたが、その良さは、観光ツアーでさっと見たのではなかなかわからないと思います。島に一泊し、朝夕のたたずまいを知ってこそ、厳島神社に行ってきた、と言えるのではないでしょうか。

 先入観で、誤解していましたが、山腹にある金刀比羅宮は本当に神社らしい神社でした。ただし、山頂の奥社までは行けませんでした。

 日本の神さまはもともと「山」にいらっしゃいます。弥生時代になって、野にもお迎えするようになりましたが、本来、山、山頂・山腹の岩や、高い樹木のあたりで遊んでいらっしゃるのです。

 山や森を大切にしましょう。そこは、神々の世界です。

 

            ( 満潮の厳島神社 )

 

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『永遠のゼロ』 を読む

2013年06月30日 | 随想…読書

 スペイン旅行の帰り。アムステルダムで乗り継ぎ、関空へ向かう機内で眠れないまま文庫本を広げていたら、通路を隔てた隣の席の中年女性も、同じ文庫本を広げていた。

 百田尚樹『永遠のゼロ』(講談社文庫)。よく読まれているようだ。

 自分の都合の良いところだけ見て都合の悪い歴史はまったく見ない、そういう偏狭な歴史観の国から、「歴史を直視せよ」と言われても、その薄っぺらさに辟易してしまう。

 歴史は直視する。だから、「あの戦争」と向き合うことは、今でも心が重い。本を読むことも、話を聞くことも、議論することも‥‥できたら避けたい。

 重いのは、もちろん、あまり見たくない日本の歴史の1ページを直視しなければならないからだ。

 「人は、自分が見たいと欲するものしか、見ない」 (ユリウス・カエサル)。                              

 にもかかわらず、この本が売れて、読まれているということは良いことだ。

     ★   ★   ★                   

 職に就かずぶらぶらしている若者と、ジャーナリストを目指すその姉が、母の依頼で、太平洋戦争で戦死した実の祖父(祖母の最初の夫)の足跡を尋ねる。 

 あの戦争で生き残り、すでに80歳、90歳になった祖父を知る証言者を探し出し、聞き取りをしていくという過程を経て、一人の、優秀な、実にかっこいい、零戦パイロット (祖父=主人公) の戦場における生き方が次第に鮮明になっていき、途中で涙、読み終えて涙

 同時に作者は、このすがすがしい主人公の足跡を追うことを通して、それと対比させながら、真珠湾攻撃に始まり、ミッドウェイ海戦、最大の激戦地ガダルカナルの戦い、マリアナ沖海戦など、日本海軍の戦史をたどっていく。そこには、日本軍の全体としての、どうしようもない情けなさ、この戦争を指導したエリート参謀、指揮官らの、どうしようもない無能さがあぶりだされる。

 ノモンハン事件のあと、ソ連のジューコフ元帥が言ったという。「日本の兵士は世界一、下士官も優秀だ。しかし、将軍は愚劣で、上にいくほどだめだ」。この言葉に言い尽くされている。

 さて、この作品のテーマは、何? 

  「愛」。だから、読まれる。

   西太平洋を舞台にした過酷な戦場の中を必死で生き抜こうとした一人の日本人下士官・宮部の、真摯な生き方と、その愛が、かっこいい。

          ★

 「私が宮部さんに命を救われたのはこれで二度目です。

 ガダルカナルに戻ったとき、私は宮部小隊長に言いました。

 『小隊長、今日は有り難うございました』

 『いいか、井筒』

と、宮部小隊長はにこりともせずに言いました。

 『敵を墜とすより、敵に墜とされない方がずっと大事だ』

 『はい』

 『それともアメリカ人一人の命と自分の命を交換するか?』

 『いいえ』

 『では、何人くらいの敵の命となら、交換してもいい?』

 私はちょっと考えて答えました。

 『十人くらいならいいでしょうか』

 『馬鹿』

 宮部小隊長は初めて笑いました。そして珍しくざっくばらんな調子で言いました。

 『てめえの命はそんなに安いのか』

 私も思わず笑ってしまいました。

 『たとえ敵機を討ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃墜する機会はある。しかし‥‥』

 小隊長の目はもう笑っていませんでした。

 『一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ』

 『はい』

 小隊長は最後に命令口調で言いました。

 『だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ』

     ‥‥(略)‥‥

 私がこの後、何度も数え切れないほどの空戦で生き延びることが出来たのも、このときの宮部小隊長の言葉のお蔭です」。(p167~168)

         ★

 「ぼくは初めて祖父の無念を少し理解できたような気がした。日中戦争からずっと戦わされ、最後は、特攻として使い捨てられたのだ。あれほど生きて帰りたがっていた祖父にとってどれほど悔しかったことだろう。

 『一つだけ聞かせてください』とぼくは言った。『祖父は、祖母を愛していると言っていましたか』

 伊藤は遠くを見るような目をした。

 『愛している、とは言いませんでした。我々の世代は愛などという言葉を使うことはありません。それは宮部も同様です。彼は、妻のために死にたくない、と言ったのです』

 ぼくは頷いた。

 伊藤は続けて言った。

 『それは私たちの世代では、愛しているという言葉と同じでしょう』(P120~121)  

          ★

 しかし、その愛を主旋律にしながら、作者が書きたかった、もう少し広い意味の主題もあるように思う。

  「死を覚悟して出撃することと、死ぬと定めて出撃することとはまったく別ものだった。これまでは、たとえ可能性は少なくとも、一縷の望みをかけて戦ってきたのだ」。(p337)

 「どんな過酷な戦闘でも、生き残る確率がわずかでもあれば、必死で戦える。しかし必ず死ぬと決まった作戦は絶対にいやだ」。(p352)

 神風特攻隊と言えば沖縄戦だが、実は、史上、最初の特攻は、フィリピンで行われた。

 命じられたのは、関行男大尉を隊長とする5機。

 「彼は出撃前に親しい人に『自分は国のために死ぬのではない。愛する妻のために死ぬのだ 』 と語ったそうだが、その心境はわかる。関大尉以外の隊員たちもみんな死を前にして、自分なりの死の意味を考え、深い葛藤の末に心を静めて出撃したと思う」。

 「関大尉は軍神として日本中にその名を轟かせた。関大尉は母一人子一人の身の上で育った人だった。一人息子を失った母は軍神の母としてもてはやされたという。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として、人々から村八分のような扱いを受け、行商で細々と暮らし、最後は小学校の用務員に雇われ、昭和28年に用務員室で一人さびしく亡くなったという。『せめて行男の墓を』というのが最後の言葉だったという。戦後の民主主義の世相は、祖国のために散華した特攻隊員を戦犯扱いにして、墓を建てることさえ許さなかったのだ 」。

  関大尉については、城山三郎 『指揮官たちの特攻』 (新潮文庫)に比較的詳しく描かれている。

 特攻というような作戦を考え出し、命令したエリート参謀や幕僚たちに憤りを感じるが、それだけではない。関大尉は、二度、殺されている。戦後の関大尉の「二度目の死」に対する憤りは、誰に向けたらよいのだろう?

 あの戦争へと日本を導き、戦争を指導した、エリート参謀、幕僚、将官クラスの、どうしようもない愚劣さに加えて、作品の中で姉の恋人として登場するジャーナリストの高山のような、戦後現れた主張に対する憤りがなければ、この愛の物語は生まれなかったと思う。    

 

 

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読書の楽しさ ・ 知る楽しさ

2013年04月11日 | 随想…読書

 

   ( 西行が愛した清楚な山桜 )

   この世界のことについて、知らないことばかりである。

 こと細かな知識のことではない。ざくっと、そのことの本質が分かっていればよしとする。そういう知識のことであるが、それが、貧しい。

 だから、本を読んでいて楽しいと感じるのは、知的発見があったときである。 「無知」 が 「知」になる読書は、わくわくする。

   「無知」を「知」にしようと思って本を読むわけではない。楽しみを求めて読むのだが、読んでいてわくわくするのは、眼前に新しい世界が開かれた、と感じるときである。

         ★

 荒唐無稽、奇想天外、刺激過多、お涙頂戴のエンターテイメント小説などは、下りの山道を歩いている眼には、ウソウソしい。

 世界は、それ自体、十分に美しいのだから。

 或いはまた、本屋に山積みされている上野千鶴子だとか、五木寛之だとか、斉藤孝だとかいう売れっ子の人生論めいた本も、最初の一冊は優れていたのかもしれないが、「柳の下」をねらって矢継ぎ早に次々書かせるものだから、文章も雑で、底が浅く、何でこの程度のものにカネを出さねばならないのかと思ってしまう。

 読んでも、何の発見もない。

         ★

 一方、若い女性作家、三浦しをんの『舟を編む』(光文社)は、出版界で脚光を浴びること少ない辞書づくりという仕事に天職を見出し、長い歳月をかけ、情熱を傾けて辞書を作っていく主人公たちを描いていて、身近な辞書がこのようにして作られるのかと興味深く、心温かい主人公たちに思わずエールを送りたくなった。 

         ★ 

   司馬遼太郎の作品、対談集、講演集のほとんどを読んだが、そのいずれにも、大いにわくわくさせられた。私は、司馬さんの造詣の深さに感動させられる対談集、講演集がより好きだ。

 小説でも、一例であるが、北条早雲を主人公にした『箱根の坂』は、守護大名の時代の中から、何故戦国大名という新しいリーダーが生まれてきたのかということが、時代のダイナミックな動きとともに生き生きと描かれている。

  「戦国時代」という日本史上の新時代と、「戦国大名」 の歴史的意味を教えられる。

 知るとは、その意味を知ることなのだ。

         ★ 

 事実を羅列しただけの歴史教科書でしか歴史を学んでいない高校生は、例えば戦国時代という時代についても、自ずから現代に引き付けて、 現代日本の「平和」の観念の対極にある恐ろしい 「戦国」をイメージしてしまう。

 こうして歴史を学んでいくうちに、日本人は何と暗い歴史を歩いて来たのだろう‥‥となる。 日本の歴史を学んで、そういう感想しかもてなかったとしたら、悲しいことだ。

 かと言って、あの大河ドラマに描かれた主人公たち、渡辺謙や阿部寛のような現代的でかっこいい戦国大名像を思い描くのも、やはり妙である。

 塩野七生は、「私は日本人としてローマを書いているのではなく、古代のローマ人になって、古代のローマを書いているのである」(『想いの軌跡』新潮社) と言っているが、歴史とはそういうものであろう。

 平賀源内がエレキの実験をしました、と高校生が学んでも、「ふーん」で終わる。電気もない時代に生きた江戸時代の人々はお気の毒でした、ということだ。

 そうではなく、その時代のなかに入っていって、平賀源内の好奇心や探究心や実験精神を生き生きと感じ取ってこそ、初めて歴史の事実を学んだということになるのではなかろうか。江戸時代とは、こういう人物を生み出す時代でもあった、と知ってこそ、歴史との出会いである。

 鹿児島の知覧から、小さな特攻機に乗り込んで飛び立ち、上空から父母や弟妹たちの幸あらんことを祈り、 祖国の大地に別れを告げ、 沖縄の海に向かって飛んで行った若者たち。彼らと同じ時代状況の中に入り、同じ苦悩を感じ、それでも飛び立って行った心情を感じ取ってこそ、歴史がわかったと言えるのであり、 平和の意味も深く理解できるようになるのである。

 歴史は事実の羅列ではなく、物語りである。

 そして、知るとは、その意味がわかる、ということである。

         ★

  

   (丘の上の大きな木)

 仕事の上でも、何かについて、「無知 」を「知」にする必要が生じることがしばしばあった。無精者にとって、調べるという行動を起こすのがなかなか面倒くさい。そこが、趣味で気楽に読む読書との違いで、いやでもやらねばならない。

 それでも、調べて、なるほどと腑に落ちたときは、うれしい。

 分からなかったことが分かるようになるのは、何歳になってもうれしいものだ。 分かれば、人に教えたくもなる。

   組織を運営する立場になったとき、「経営」 ということについて、その理念や方法の基本をそれなりに知りたくなって、本を読んだ。

 読んだなかで、一番、心を動かされたのがP,F,ドラッガーだった。そのドラッガーの中でも一番分かりやすく、味わいがあったのは、その箴言集であった。

 『ドラッガー名言集 仕事の哲学』 (ダイヤモンド社)

 『ドラッガー名言集 経営の哲学』 ( 同上 )

 『ドラッカー名言集 歴史の哲学』 ( 同上 ) 

 『ドラッガーの遺言』 ( 講談社 )

 ドラッカーやその亜流学の、こまごまとした精緻な方法論を真似する気はなかったから、箴言集は最適であった。この4冊は、その任にあった間、座右の書として、日々味わい、そこから知恵を得、考えを深め、我慢してじっと待たねばならないときには待つ勇気をもらった。

 企業だけでなく、役所でも、病院でも、学校でも、クラスや部活動でも、ボランティア組織でさえも、そこで活動する人々が輝き、躍動するには、マネージメントが必要であること、そのマネージメントには、「権力」や「カリスマ」や体罰などは全く必要ない、ということを学んだ。

 司馬遼太郎を知ったことも、ドラッカーを知ったことも、自分の人生において、一つの出会いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『舟を編む』ほか

2013年02月13日 | 随想…読書

 三浦しをん『舟を編む』(光文社)は、辞書づくりの世界を描いた題材そのものが新鮮で、面白かった。

 読後感もすがすがしい。

  世間では頼りないと思われるであろう主人公も、辞書づくりの責任者としては大いに頼もしく、やがて妻となる女性の登場の仕方も鮮やかで、お互いをリスペクトしあう結婚後の二人がカッコいい。

 辞書づくりという目的に向かって、それぞれがそれぞれの個性とやり方で貢献し、悪い人が一人も登場しないのも良い。

             ☆

 宮本輝『約束の冬』(文春文庫)は、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した作品のようだが、ちょっと冗長な感じ。登場人物も類型的かな。

             ☆

 紅山雪夫『魅惑のスペイン』(新潮文庫)を、他のものと並行して読んでいる。

 サブタイトルに「添乗員‥ヒミツの参考書」とあるが、この人のヨーロッパ旅行ガイドは、本当にすごいと思う。

 その博識ぶりに感動するが、そればかりでなく、例えばスペインの歴史といった込み入った話を、わかりやすく、かつ面白く、かつ要領よく叙述する力量に感心する。

 博識といっても、枝葉の細切れ知識ではなく、かなり本質的なところで知識欲を満足させられるから、読んでいてわくわくする。

 

 

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塩野七生と、 『ローマ人の物語』 のこと

2012年10月05日 | 随想…読書

 ドナウ川沿いに、ローマの最前線基地であった町レーゲンスブルグからパッサウへ向かう列車の中のことである。

      ( レーゲンスブルグとドナウ川 )

 初夏の車窓風景は明るく、ぼんやり眺めていると、横に座っていた、定年退職後ヨーロッパを自転車で回っているというマッチョな白人男性が、すっかり日焼けしたたくましい顔に悪戯っぽい笑いを浮かべて、「あの丘陵の向こうは、バーバリアン(蛮族)の地だよ」と、教えてくれた。

 ── でも、私たち東アジア人には、あなたもゲルマンに見えますよ (笑)。

 地図を開くと、田園の彼方の丘陵の向こうはチェコのようだ。冬のプラハに二度、行った。ヴルタヴァ川の流れる美しい都が、スメタナの 「我が祖国」 の感動的な曲とともに浮かんでくる。

 男性の言うバーバリアンの蠢動が始まったのはAD2世紀。ローマ帝国の防衛線であるドナウ川を越えて、蛮族の大規模な侵入が繰り返された。5賢帝の最後の皇帝、哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウスは、皇帝に選ばれた者の責務として、病身を顧みず、寒く遠い、当時ローマ軍団の基地のあったウィーンに赴き、総司令官として戦いを指揮する。が、そのままかの地で病に倒れ、死去。(ハリウッド映画では、息子に殺されることになっているが、全く史実に反する)。

 西ローマ帝国の滅亡は5世紀だが、塩野七生は5賢帝の最後・マルクス・アウレリウスからを、ローマの「終わりのはじまり」とした。

        ( ローマが防衛線としたドナウ川 )

          ★

 15年以上も前のことだ。たまたまテレビをつけると、塩野七生というおばさまが画面に映っていた。

 「おばさま」とは、このような女性を言う言葉であろう。

塩野七生 『 男たちへ 』(文春文庫)から                             

 「ほんとうの女は、男と同等になろうなどというケチなことに、必要以上に固執しないものである。必要、というのは、法律面に属する事柄である。それよりも、男を越えることのほうに情熱を燃やすものだ。同等や平等よりも、越えるほうが、よほど刺激的ではないですか」。

 「アレクサンダーもそうだったが、シーザーも、かわいいだけが取り得の女に惚れていない。シーザーの場合は典型だが、クレオパトラのような、男に伍しても立派にやっていける女を愛している。これは、異性の才能に敬意を抱くのが普通の環境に育った、男の特色ではないだろうか。なかなかのできの母親を見なれているものだから、なかなかのできの女に、抵抗感をいだかないのである」。

 「日本でスタイルと言うと、あの人はスタイルがいい、とか、スタイルが悪い、とか使われることが多い。…… 私の考えるスタイルは、スタイルがあるか、またはないか、の問題なのである。…… どちらの用法が、英語のスタイルという言葉の用法に近いかというと、残念ながら、私のほうに軍配をあげるしかない。また、そのほうが、ずっとステキだ。若い女の子も、『あの人、スタイルがある』なんて言ってみてはいかが? 

         ★

 とにかく、カッコいいおばさまだと思う。すでに、イタリアを舞台にした血湧き肉踊る歴史小説を書いていたが、ついに1年に1冊のペースで、ローマ史を書き始めたのである。

 大ローマ帝国史ですぞ!! 快挙である!!

 なにしろ近代日本では長い間、文学といえば私小説か、教科書に登場する「舞姫」「こころ」「山月記」など、インテリ青年の傷つきやすい屈折した自我の話だった。

 で、このたび、『ローマ人の物語』第Ⅳ巻、第Ⅴ巻までが上梓され、テレビインタビューとなった。第4巻、第5巻は、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の物語である。

 このときの塩野おばさまの話は、インパクトがあった。

 「ヨーロッパはカエサルが創った」。

 「ローマ史上最高の先見性、構想力、実行力をもった、男たちのなかの男であるカエサルが、女たちにとっても最高に魅力のある男であったことは当然だろう。当時、カエサルを愛した女たちは、マダムからマドモアゼルまで、列をなしてお行儀よく順番を待つほどであった」。(→ちょっと信じがたい!)。

 「しかし、私は、それらのどの女よりも、ユリウス・カエサルという男のことをよく知っている」。

 「直接にカエサルと逢い引きしていた2000年前のどの女よりも、私は、ユリウス・カエサルという男のことをよく知っている」。

 テレビカメラの前で臆面もなくこう言い切る塩野おばさまの自信と思い入れに圧倒され、第Ⅳ、Ⅴ巻だけは読もうと思い立った。

 読んで、第Ⅰ巻~第Ⅲ巻に戻り、以後、毎年1冊、心待ちし、わくわくしながら15巻を読み通した。真の文学は、読者をわくわくさせるものだ。

         ★ 

 欧米の子どもたちは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」などのローマ史を、わくわくしながら読んで成長すると言う。学校で持たせる歴史教科書も、日本の歴史教科書の何倍も分厚く、面白い読み物になっていて、興味のある子はどんどん先へ読み進めることができるようになっている。

 イタリアの高校の国語の教科書には、カエサルの簡潔、的確な文章がいまだに模範文として掲載されている。

 外交や、企業活動や、国際ボランティア活動などを通して、世界で出会う欧米人が、西ヨーロッパから中東、北アフリカに至る大ローマ帝国の、外交戦略や、戦争の仕方や、講和の仕方や、征服と統治のやり方や、国家への忠誠心や、政争と反乱のこと、そしてパクス・ロマーナについて、子どものころから学んで成長した人たちであるということを、知っておくことは大切なことであろう。EUも、ローマの昔に戻しただけともいえる。彼らは長けているのだ。

          ( フォロ・ロマーノ )

         ★

 塩野七生の文体は、日本の男性作家の誰よりも、骨太で、凛として力強い。このおばさまの文章に対抗できるのは、司馬遼太郎ぐらいかな。

 自分たちの既得権益を守ろうとする守旧派・元老院に対して、ついにカエサルは、国法を犯し、軍を率いてルビコン川を渡る、かの有名な場面である。

「ローマ人の物語」(第Ⅳ巻の終わり)から                            

 「ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐに渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ちつくしていた。従う第十三軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。

 『ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅』

 そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向かい、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。

 『進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!』

 兵士たちも、いっせいの雄叫びで応じた。そして、先頭で馬を駆るカエサルにつづいて、一団となってルビコンを渡った。紀元前49年1月12日、カエサル、50歳と6月の朝であった。                            

 「‥‥一団となってルビコンを渡った」。カッコいいですねえ。

  今は、文庫本がある。

 私見を言えば、第Ⅺ巻「終わりのはじまり」まででよい。このあと、ローマは衰退へと進んでいくのみ。

 衰退へと進んでいくローマ帝国内で、キリスト教がアメーバーのように増殖し、民衆のなかだけでなく、元老院のなかにも浸透し、非キリスト教徒の政治家は次々罪状を負わされて処刑され、親キリストでなければ生きられなくなる。

 そのあたりを描いたものとしては、辻邦生の『背教者ユリアヌス (3巻) 』(中公文庫)が素晴らしい。辻邦生の最高傑作と言ってよい。

              ( コロッセオ )

 

 

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