( 車窓風景…十勝平野 )
※ 前回、司馬遼太郎の『オホーツク街道』から多く引用しましたが、日本及び北海道の考古学時代の記述にあたっては、北海道博物館 (道立の総合博物館) のホームページ「AKA RENGA」が大変わかりやすく、大いに参考にさせていただきました。お断りしておきます。
5月15日(月) 。
バスは釧路を出発し、国道336号線を、このツアーの5番目の岬、襟裳岬へと向かっている。襟裳岬に寄って、あとは一路、新千歳空港へ向かう。
国道336号線は、釧路市と襟裳岬の先の浦河町とを結び、太平洋の沿岸部を走る道路である。
バスは、広大な十勝平野にさしかかっている。
十勝平野と言えば酪農。
地元の酪農製品を生かし、北海道に銘菓のブランドを作ったのが「六花亭」。
六花亭の菓子には、瀟洒な都会の風味と、野の花の趣がある。そのオシャレなイメージを作り出すのに、包装紙のデザインが寄与していることは、誰もが納得するところ。
その包装紙の花の絵をデザインしたのは、坂本直行氏。坂本龍馬の甥の子孫で、北海道坂本家の8代目当主だそうだ。
── 以上も、また、バスガイドの受け売りである。
茫々とした草はらの中を、自然のままに十勝川が流れていた。
橋を渡り、襟裳岬へと、バスは走る。
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< 襟裳岬は、風の岬 >
北海道の中央部から南へ向かって、急峻な背梁をもつ山脈(ヤマナミ)が伸びている。日高山脈である。稜線はナイフエッジとなって人を寄せ付けず、最南端は太平洋へなだれ落ちていく。
その先端部が、襟裳岬である。岬の周囲は高さ60mに及ぶ断崖で、海岸段丘である。
別名「風の岬」。全国でもまれにみる強風地帯。
沖合は、暖流と寒流がぶつかり合う潮目で、夏は、濃霧が発生して日照時間も短い。だが、そこは豊穣の海で、サケ、マス漁のほか、海岸段丘の海で育つ昆布は質量ともに優れ、「日高昆布」として全国に知られている。
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< 日高海岸の道の開削は近藤重蔵から >
「高橋 (蝦夷地調査のために幕府から派遣されている旗本・高橋三平) は、荷のことに興味をもっていた。『嘉兵衛さん(高田屋嘉兵衛のこと)、ざっとみたところ亀田(箱館)の昆布ばかりではありませんな』
高橋はよほど商品知識があるらしく、同じような昆布を見ても箱館湾のそれと他の場所のそれがわかるらしい。『これは、日高物だな』と、荷の一つを指さした。(司馬遼太郎『菜の花の沖』から)。
北前船の船頭・嘉兵衛が、当時、ごく小さな港町に過ぎなかった箱館(函館)で、蝦夷地調査の幕臣に出会う場面である。武士のなかにも、こんなに実際的な知識と探究心をもち、しかも上方の町人にはない「志」をもつを人がいるということを知って、以後、嘉兵衛は彼らに協力することになる。
それはともかく、この歴史小説にみるように、日高産の昆布は、江戸時代後期には本州に流通を始めたらしい。
[ バスガイドの話 ]
「国道336号線の、襟裳岬を挟んだ前後の道路は、「黄金道路」と呼ばれています。道路に黄金を敷き詰めるほどの費用を投じて、断崖を切り開いて、開通した道路だからです。
トンネルが多く、景色は良くありません。天候の悪い時には波をかぶることもあります。夏には濃霧が発生し、冬は吹雪で、年間を通じて通行止めになる回数が道内で一番多い国道です。
江戸時代、日高海岸の往来は危険で、将来の北海道のために道路開削の必要を感じて、私費を投じて工事を始めたのは、幕臣で探検家の近藤重蔵でした」。
近藤重蔵。デジタル版「朝日日本歴史人物事典」によると、
── 1771年~1829年。江戸時代後期の北方探検家。幕臣。1798年、最上徳内と択捉島に渡り、その北端に「大日本恵土呂府」の国標を建てた。帰途、日高海岸の道が危険なので私費を投じて山道を開いた。蝦夷開道の初めという。翌年、高田屋嘉兵衛に択捉行きの航路を開かせ、…… 1807年、利尻巡視の帰路、石狩川筋を探査し、全島の本拠地を石狩に置くべきことを建議した。札幌市の端緒である。博学で著述も多く、書物奉行に挙げられたが、…… ──
江戸時代、北海道全域(千島・樺太を含める)を統治する権限を与えられていたのは松前藩である。その権限を与えた豊臣秀吉も、徳川家康も、土着のアイヌを大切にすることを条件とした。だが、松前藩はアイヌを酷使することによって、他藩に抜きんでる裕福な藩になった。そのため、幕府の眼を恐れ、また、アイヌの反乱を恐れて、北海道の最南端、本州との距離が最も近い港町・松前に本拠を置き続けた。
全島の本拠地を石狩(札幌)に置くべしとした近藤重蔵の視野は、大きい。藩主にしたいぐらいだ。
江戸時代後期、老中田沼のころから、幕府はロシアの動向を知り、北海道調査を始めた。当初、調査の先頭に立ったのは最上徳内(1754~1836)である。続けて、択捉島に国標を建てた近藤重蔵(1771~1829)といい、択捉島と国後島の航路を開いた高田屋嘉兵衛(1769~1827)といい、樺太に国標を建てた間宮林蔵(1780~1844)といい、アイヌへの暖かいまなざしをもち続け「北海道」(北加伊道) の名付け親となった松浦武四郎(1818~1888)といい、いずれも博学な知識、実際的な知恵と技術、未知への探究心と行動力をもった日本の誇る先人たちである。
今回の北海道の岬めぐりの旅で、そういう先人のことを改めて知り、良かった。
ただ、昭和の戦争で、この江戸時代の先人たちが命がけで国標を建てた千島も樺太も、失ってしまった。
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< 青い海をよみがえらせた苦闘の60年 >
バスを降りると、今にも降り出しそうな暗い空模様だった。
襟裳岬に行く前に、岬のとっつきのレストランで昼食をとる。
レストランに入り、食事をしていると、窓の外の四囲を烈風に包囲されているような気がした。これはすごい、と思った。
ここは「風の岬」である。
… こんな風の中、海に向かって、襟裳岬まで歩いて行くことに、気持ちが億劫になった。
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バスが襟裳岬に到着するまで、車内で、例によって、バスガイドの話。襟裳は彼女の母方の故郷だから、話は詳しかった。
[ バスガイドの話 ]
( 以下の記述にあたっては、レポート「日本・北海道襟裳岬における砂防及び資源回復のためのクロマツ植林」と、後述のNHKの番組「プロジェクトX」を参照した )。
森進一のあの「襟裳岬」が大ヒットし (昭和49年)、「襟裳の春は何もない春です」と歌われたとき、地元住民(漁民)たちは怒った。
当時、襟裳は本当に何もない「襟裳砂漠」だったのだ。カラスさえ飛んでこなかったという。そういう厳しい環境の中から、もう一度緑をよみがえらせ、豊穣の海を取り戻そうと立ち上がった地元住民(漁民)たちは、すでに20年以上も激しい労働に明け暮れていたのである。
この歌は、そういう襟裳の現実を何一つ知らずに作られ、歌われた歌だった。
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江戸時代、襟裳の海は、豊饒の海だった。陸地も落葉広葉樹がおおう森が広がっていた。縄文のままの自然があった。
明治に入り、北海道の開拓が始まると、開拓民たちは暖をとるため森の木を伐り続けた。暖を取る樹木がなくなると、根っこから掘り起こした。海岸段丘の上部では、牧場開発のために樹木を伐採した。
襟裳は砂漠化した。(アフリカなど開発途上国で、今、起こっていることと同じである)。
強風によって吹き飛ばされた赤土は、家の中まで侵入し、日々の食べ物の中にも入ってきた。
海岸から10㌔に及ぶ沿岸が一面に赤く濁って、サケなどの回遊魚は寄り付かなくなった。
海底は赤土の地層ができて、昆布は根腐れした。
敗戦後の貧しい時代、漁民たちは、荒海に入って質の悪い昆布を採って生計を立てていくしかなかった。畑は片道4キロも先にあり、カボチャと芋しか育たなかった。
昭和28年、地元の若い漁民たちが立ち上がった。自分たちがここで生きていくためには、もう一度森を再生するしかない。
旧営林署が予算を確保し知恵も出したが、作業はすべて漁民とその家族の労働に負うしかなかった。
まず草地にしなければならない。牧草用の草の種をまき、強風に飛ばされないよう、その上に葦簀(ヨシズ)をかぶせた。だが、種は、葦簀ごと、1日で吹き飛ばされた。
いろいろ工夫したが、うまくいかなかった。土ごと種子を飛ばす強風の上、酸性の土壌も植物の生育に適さなかった。
昭和32年、この土地に伝わる方法がヒントとなり、「えりも式緑化工法」が開発された。種をまいた上に、海岸に打ち寄せられた雑海藻を敷き詰める方法で、種の飛散を防ぐ重しとなるだけでなく、肥料の役も果たした。
漁民たちは、来る日も来る日も、吹きすさぶ寒風の中、荒海に入って少ない昆布を採り、そのあと、家族ぐるみでもっこを担ぎ、手作業で草本緑化を進めていったのである。
台地がやっと草地になったのは、昭和46年である。そこから本格的な植林が始まった。
だが、漁民たちに衝撃が走った。植えたクロマツの苗木は、すぐに枯れてしまうのだ。
地中を掘ってみると、水を貯める地層があり、水を抜いてやらなければ、樹木は育たないことがわかった。
今までに増す重労働の日々となった。ツルハシを振り下ろし、台地を掘り、水はけを良くして、1本、1本と植林していくのである。気の遠くなるような作業で、完成するには何十年かかるかわからなかった。
しかも、森ができても、海には赤土の地層がたまっており、青い海が戻るのに、これから先どれほどの歳月を要するのか、見当もつかなかった。
古老の伝説があった。昔々、流氷がやって来て、海底の土をさらい、昆布の育つ肥沃な土壌にしてくれたという。そういう奇跡が起きたらいいなと、土地の人々は心のなかで思った。
初めて取り組みを始めた20代後半の青年たちは、40代の後半になっていた。その中心になった一人の漁民の息子は、襟裳を出て町の高校に通い、大学受験を目指していた。襟裳を捨てるつもりだった。そういうとき、父親が長年の重労働で体をこわして倒れた。母に頼まれて、彼はいやいや、故郷に戻った。
ある日、父の代わりに昆布漁に出た。海から岬を見たとき、彼は驚いた。面積はまだ少ないが、あの荒涼とした砂漠の一角にクロマツが植樹され緑が再生していたのだ。彼はここまでやり遂げた父たちの偉大さを思った。そのときから、彼も本気になって、父たちとともに働くようになった。
やがて青年は、町からブルドーザーを導入した。作業は一気にはかどりだした。
植林は、クロマツを中心に、広葉樹を組み合わせた。
昭和59年、奇跡が起こった。流氷がやってきた。そして、海底にたまった赤土をすべて流し、肥沃な海にしてくれたのだ。
実際、その翌年から、海は青くなり、立派な昆布が採れるようになった。
植林が終わったのは、平成6年である。40年、かかった。最初に取り組みを始めた20代の若者は、すでに60代である。襟裳に帰って来た息子の世代も30代。
飛砂の被害は大きく軽減し、海域生態系が回復し、漁業の収穫量が回復した。そして日本で一番美味しい昆布のとれる海となった。
植林が終わった日、地域の人々は家族ぐるみで集って、祝い、皆で歌った。「襟裳の春は、世界一の春です」。
今も、老いた漁民たちは、漁の合い間に森へ行く。完成はない。森は絶えず人の手で手入れをしてやらなければ、荒れた森になってしまう。森が荒れたら、海は死ぬ。
自然の海岸と人為によって回復した森林・草地が組み合わさった景観は魅力的な観光資源となり、襟裳岬は北海道を代表する観光地の一つとなった。
── そういう話だった。
この取り組みは、NHKの大ヒット番組「プロジェクトX」で、「えりも岬に春を呼べ~砂漠を森に・北の家族の半世紀~」として、平成15年に放映された。
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…… 森進一の「襟裳岬」が好きだから、襟裳岬に行ってみたいと思ったわけではない。だが、耳に入って来る「襟裳岬」の歌を聞くともなく聞き、襟裳岬という岬のあることを知って、行ってみたいと思うようになったのは確かだ。私がそうであるように、この歌も、襟裳の観光に寄与している。
歌は、襟裳岬をけなして、「何もない」と言っているのではない。都会的なものは何もないが、厳しい自然の中で身を寄せ合って生きる襟裳には、都会にはないぬくもりがあるよ、と歌っているのだろう。
ただ、この歌が発売されレコード大賞を得た昭和49年は、20年に渡る厳しい自然を相手にしての苦闘にもかかわらず、まだ希望を見い出せない時期だった。襟裳には、本当に何もなかったのである。体をこわすほどの激しい労働に明け暮れている襟裳の漁民たちにとって、この歌は、高度経済成長に沸く都会人の「涼しい顔」の歌と思えただろう。
この歌の作り手たち (作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎) が、歌を作るに当たって、現地に取材していないことは確かだ。
改めてこの歌の歌詞を読めばわかるが、歌の題を「襟裳岬」とする必然性は、歌詞の内容からは、ない。寒い「北の街」なら、日本中、どこの地名であろうと、岬でなく山あいの町であっても、通じるのである。
それでも、襟裳岬という言葉の響きは、この歌の歌詞とメロディに似合っている。
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< 襟裳岬の春は、寒風の吹きすさぶ春でした >
レストランを出て、岬に向かう。
春、5月中旬だというのに、すさまじい寒風が吹く。
寒い。年配者は、暖炉のそばでコーヒーを飲んでいるほうが良さそうだ。
( 岬への遊歩道 )
「襟裳岬」の標識があった。岬は標高60mの断崖で、太平洋に切れ落ちている。
日高山脈の名残が、未練の緒を引いて海に切れ落ちたあと、沖合7キロまで岩礁が連なる。
遊歩道の先端まで歩いて行きたかったが、時間がない。時間があっても、寒さと風に気持ちが萎える。
( 襟 裳 岬 )
襟裳岬灯台の明かりは、海抜73mの位置から海を照らす。
沖合で、暖流の黒潮と寒流の親潮とがぶつかり、濃霧が発生する。灯台には霧笛も備えられている。
日本灯台50選の一つ。
( 襟裳岬灯台 )
漁港が見えた。この厳しい自然の中に、人の営みがある。なにしろこの海は、豊饒の海なのだ。
( 漁 港 )
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< 岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲『襟裳岬』>
このブログを書きながら、ユーチューブで「襟裳岬」を聞いてみた。
歌の好みは人それぞれだろうが、森進一の歌は、私には重っ苦しい。思い入れが強すぎるというか…。
いろんな歌手が歌っているなかで、島津亜矢の歌う「襟裳岬」が美しいと思った。特に、最後の「寒い友達が/訪ねて来たよ/遠慮はいらないから/暖まってゆきなよ」のところがいい。島津亜矢という歌手の声がこんなに綺麗だとは知らなかった。
作曲した吉田拓郎の「襟裳岬」もみつけた。かろやかで、テンポが良くて、私にはこの程度にさらっと歌ってもらうほうがいい。
だが、改めて歌詞を読んでみて、ええっ …… ?? となった。意味不明ではないか。読み返しても、わからない。
襟裳岬
1 北の街ではもう/悲しみを暖炉で/
燃やしはじめてるらしい/
わけのわからないことで/
悩んでいるうち/おいぼれてしまうから/
だまりとおした歳月を/
ひろい集めてあたためおう/
えりもの春は何もない春です/
2 君は二杯目だよね/コーヒーカップに/
角砂糖をひとつだったね/
捨ててきてしまった/
わずらわしさだけを/くるくるかき回して/
通り過ぎた夏のにおい/
思い出して/なつかしいね/
えりもの春は何もない春です/
3 日々の暮らしはいやでも/やってくるけど/
静かに笑ってしまおう/いじけることだけが/
生きることだと/飼いならしすぎたので/
身構えながら/話すなんて/
ああ臆病なんだよね/
えりもの春は何もない春です/
寒い友達が/訪ねて来たよ/
遠慮はいらないから/暖まってゆきなよ
疑問①
「北の街ではもう/悲しみを暖炉で/燃やしはじめてるらしい」ということは、「私」は「北の街」にはいないということだ。ところが、「えりもの春は…」と歌い、「遠慮はいらないから/暖まってゆきなよ」と言う。いつの間にか、えりもの人になっている。
疑問②
それは我慢できるとしても、季節のつじつまが合わない??
「北の街ではもう/悲しみを暖炉で/燃やしはじめてるらしい」ということは、秋である。秋のことだなと思っていると、最後になって、突然、「えりもの春は何もない春です!!」と、絶唱する。絶唱ですよ!! 何で、春なのだ!!
2番でも、「通り過ぎた夏のにおい/思い出して/なつかしいね」というからには、秋だろう。ところが、すぐ続けて「えりもの春は何もない春です」?? となる。
いくら詩だからと言って(散文ではないからと言って)、これは許されないだろう。
あえて疑問②を解釈すれば、こうなる。
今は秋である。これから長い冬にかけて、暖炉の火で、煩悩をすべて燃やしてしまおう。そうすれば、心はきれいに浄化されて、やがてくる春は、「空」或いは「無」の心で迎えることができる。春は、よみがえりの季節、すべてが新しくなる季節である。
しかし、ムリ筋というもの。
私なら自分の感性の方を信頼して、この歌詞は欠陥商品であるとする。
「日々の暮らし」「だまりとおした歳月」「暖炉で悲しみを燃やす」「コーヒーカップ」「通り過ぎた夏」など、せっかく捨てがたいイメージを掘り起こしているのである。だが、イメージを並べ、投げ出しただけで終わっている。これらのイメージをどう「襟裳の春は何もない春です」につなげるか、疑問①も含めて、きちんと煮詰めるべきであった。バカな大衆相手にはこの程度でいいと、途中で2人で飲みに行ったのなら、プロとは言えない。
少なくとも、プロであるなら(それで収入を得、生計を立てているのなら)、まずは、日本語を母語とする人たち(主に日本人)が理解できる日本語できちんと表現し、そのうえで、「受け手」にゆだねるべきである。「受け手」は時に、「作り手」の意図を超えた、優れた「読み」をしてくれることもある。しかし、日本語になっていなければ、そういうこともない。
例えば萩原朔太郎の詩集「月に吠える」や「青猫」の詩は、わかりにくい。だが、そのわかりにくさは、イメージ化された朔太郎の病的な感覚・魂の混沌がわかりにくいのであって、詩の言葉や構成は明晰そのものである。
プロなら、骨身を削って推敲し尽くし、「受け手」に、美しい日本語の完成品を提供するべきである。他者の批評に値する作品の提供を。これでは批評以前である。
かく文句を言う私は、もちろんプロではないので、長々と駄文を連ねても、まあ許される。
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バスは、一路、空港へと向かった。
5日間、なかなか良い旅だった。
知床岬には行けなかった。知床めぐりの遊覧船に乗って、いつか知床岬を仰ぎ見たいものだ。
それに、バスではなく、とことこ鉄道の旅もしてみたい。(完)
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〇 8月29日、早朝、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが北海道の襟裳岬の上空を横切って、太平洋上に落下した。
〇 ロシア軍の東部軍管区は8月29日、クリル諸島(千島列島)で軍事演習を開始したと発表した。演習には兵士2500人以上が参加。海からの敵部隊の上陸阻止に重点を置いており、戦車や迫撃砲、対戦車砲など700以上の兵器や軍用機材が投入されるという。
〇 9月15日、早朝、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが北海道の襟裳岬の東2200㌔に落下した。
21世紀を迎えたときは、世界はもう少し良くなると期待したが …。
スイスを参考にすべしと、この頃、特に思う。