ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「襟裳の春は~♪♪…」 … 岬めぐりのバスに乗って(北海道の岬をめぐる旅)7

2017年09月15日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

    ( 車窓風景…十勝平野 )

 ※ 前回、司馬遼太郎の『オホーツク街道』から多く引用しましたが、日本及び北海道の考古学時代の記述にあたっては、北海道博物館 (道立の総合博物館) のホームページ「AKA RENGA」が大変わかりやすく、大いに参考にさせていただきました。お断りしておきます。

 5月15日(月) 

 バスは釧路を出発し、国道336号線を、このツアーの5番目の岬、襟裳岬へと向かっている。襟裳岬に寄って、あとは一路、新千歳空港へ向かう。

 国道336号線は、釧路市と襟裳岬の先の浦河町とを結び、太平洋の沿岸部を走る道路である。

 バスは、広大な十勝平野にさしかかっている。

 十勝平野と言えば酪農。

 地元の酪農製品を生かし、北海道に銘菓のブランドを作ったのが「六花亭」。

 六花亭の菓子には、瀟洒な都会の風味と、野の花の趣がある。そのオシャレなイメージを作り出すのに、包装紙のデザインが寄与していることは、誰もが納得するところ。

 その包装紙の花の絵をデザインしたのは、坂本直行氏。坂本龍馬の甥の子孫で、北海道坂本家の8代目当主だそうだ。

 ── 以上も、また、バスガイドの受け売りである。

 茫々とした草はらの中を、自然のままに十勝川が流れていた。

 橋を渡り、襟裳岬へと、バスは走る。       

        ★

襟裳岬は、風の岬 >

  

  北海道の中央部から南へ向かって、急峻な背梁をもつ山脈(ヤマナミ)が伸びている。日高山脈である。稜線はナイフエッジとなって人を寄せ付けず、最南端は太平洋へなだれ落ちていく。

 その先端部が、襟裳岬である。岬の周囲は高さ60mに及ぶ断崖で、海岸段丘である。

 別名「風の岬」。全国でもまれにみる強風地帯。

 沖合は、暖流と寒流がぶつかり合う潮目で、夏は、濃霧が発生して日照時間も短い。だが、そこは豊穣の海で、サケ、マス漁のほか、海岸段丘の海で育つ昆布は質量ともに優れ、「日高昆布」として全国に知られている。

         ★

日高海岸の道の開削は近藤重蔵から >

 「高橋 (蝦夷地調査のために幕府から派遣されている旗本・高橋三平) は、荷のことに興味をもっていた。『嘉兵衛さん(高田屋嘉兵衛のこと)、ざっとみたところ亀田(箱館)の昆布ばかりではありませんな』

 高橋はよほど商品知識があるらしく、同じような昆布を見ても箱館湾のそれと他の場所のそれがわかるらしい。『これは、日高物だな』と、荷の一つを指さした。(司馬遼太郎『菜の花の沖』から)。

 北前船の船頭・嘉兵衛が、当時、ごく小さな港町に過ぎなかった箱館(函館)で、蝦夷地調査の幕臣に出会う場面である。武士のなかにも、こんなに実際的な知識と探究心をもち、しかも上方の町人にはない「志」をもつを人がいるということを知って、以後、嘉兵衛は彼らに協力することになる。

 それはともかく、この歴史小説にみるように、日高産の昆布は、江戸時代後期には本州に流通を始めたらしい。

[ バスガイドの話 ] 

 「国道336号線の、襟裳岬を挟んだ前後の道路は、「黄金道路」と呼ばれています。道路に黄金を敷き詰めるほどの費用を投じて、断崖を切り開いて、開通した道路だからです。

 トンネルが多く、景色は良くありません。天候の悪い時には波をかぶることもあります。夏には濃霧が発生し、冬は吹雪で、年間を通じて通行止めになる回数が道内で一番多い国道です。

 江戸時代、日高海岸の往来は危険で、将来の北海道のために道路開削の必要を感じて、私費を投じて工事を始めたのは、幕臣で探検家の近藤重蔵でした」。

 近藤重蔵。デジタル版「朝日日本歴史人物事典」によると、

── 1771年~1829年。江戸時代後期の北方探検家。幕臣。1798年、最上徳内と択捉島に渡り、その北端に「大日本恵土呂府」の国標を建てた。帰途、日高海岸の道が危険なので私費を投じて山道を開いた。蝦夷開道の初めという。翌年、高田屋嘉兵衛に択捉行きの航路を開かせ、…… 1807年、利尻巡視の帰路、石狩川筋を探査し、全島の本拠地を石狩に置くべきことを建議した。札幌市の端緒である。博学で著述も多く、書物奉行に挙げられたが、…… ──

 江戸時代、北海道全域(千島・樺太を含める)を統治する権限を与えられていたのは松前藩である。その権限を与えた豊臣秀吉も、徳川家康も、土着のアイヌを大切にすることを条件とした。だが、松前藩はアイヌを酷使することによって、他藩に抜きんでる裕福な藩になった。そのため、幕府の眼を恐れ、また、アイヌの反乱を恐れて、北海道の最南端、本州との距離が最も近い港町・松前に本拠を置き続けた。

 全島の本拠地を石狩(札幌)に置くべしとした近藤重蔵の視野は、大きい。藩主にしたいぐらいだ。

 江戸時代後期、老中田沼のころから、幕府はロシアの動向を知り、北海道調査を始めた。当初、調査の先頭に立ったのは最上徳内(1754~1836)である。続けて、択捉島に国標を建てた近藤重蔵(1771~1829)といい、択捉島と国後島の航路を開いた高田屋嘉兵衛(1769~1827)といい、樺太に国標を建てた間宮林蔵(1780~1844)といい、アイヌへの暖かいまなざしをもち続け「北海道」(北加伊道) の名付け親となった松浦武四郎(1818~1888)といい、いずれも博学な知識、実際的な知恵と技術、未知への探究心と行動力をもった日本の誇る先人たちである。

 今回の北海道の岬めぐりの旅で、そういう先人のことを改めて知り、良かった。

 ただ、昭和の戦争で、この江戸時代の先人たちが命がけで国標を建てた千島も樺太も、失ってしまった。 

        ★

青い海をよみがえらせた苦闘の60年 >

 バスを降りると、今にも降り出しそうな暗い空模様だった。

 襟裳岬に行く前に、岬のとっつきのレストランで昼食をとる。

 レストランに入り、食事をしていると、窓の外の四囲を烈風に包囲されているような気がした。これはすごい、と思った。

 ここは「風の岬」である。

 … こんな風の中、海に向かって、襟裳岬まで歩いて行くことに、気持ちが億劫になった。

        ★

 バスが襟裳岬に到着するまで、車内で、例によって、バスガイドの話。襟裳は彼女の母方の故郷だから、話は詳しかった。

[ バスガイドの話 ] 

( 以下の記述にあたっては、レポート「日本・北海道襟裳岬における砂防及び資源回復のためのクロマツ植林」と、後述のNHKの番組「プロジェクトX」を参照した )。 

 森進一のあの「襟裳岬」が大ヒットし (昭和49年)、「襟裳の春は何もない春です」と歌われたとき、地元住民(漁民)たちは怒った。

 当時、襟裳は本当に何もない「襟裳砂漠」だったのだ。カラスさえ飛んでこなかったという。そういう厳しい環境の中から、もう一度緑をよみがえらせ、豊穣の海を取り戻そうと立ち上がった地元住民(漁民)たちは、すでに20年以上も激しい労働に明け暮れていたのである。

 この歌は、そういう襟裳の現実を何一つ知らずに作られ、歌われた歌だった。

         ★

 江戸時代、襟裳の海は、豊饒の海だった。陸地も落葉広葉樹がおおう森が広がっていた。縄文のままの自然があった。

 明治に入り、北海道の開拓が始まると、開拓民たちは暖をとるため森の木を伐り続けた。暖を取る樹木がなくなると、根っこから掘り起こした。海岸段丘の上部では、牧場開発のために樹木を伐採した。

 襟裳は砂漠化した。(アフリカなど開発途上国で、今、起こっていることと同じである)。

 強風によって吹き飛ばされた赤土は、家の中まで侵入し、日々の食べ物の中にも入ってきた。

 海岸から10㌔に及ぶ沿岸が一面に赤く濁って、サケなどの回遊魚は寄り付かなくなった。

 海底は赤土の地層ができて、昆布は根腐れした。

 敗戦後の貧しい時代、漁民たちは、荒海に入って質の悪い昆布を採って生計を立てていくしかなかった。畑は片道4キロも先にあり、カボチャと芋しか育たなかった。

 昭和28年、地元の若い漁民たちが立ち上がった。自分たちがここで生きていくためには、もう一度森を再生するしかない。

 旧営林署が予算を確保し知恵も出したが、作業はすべて漁民とその家族の労働に負うしかなかった。

 まず草地にしなければならない。牧草用の草の種をまき、強風に飛ばされないよう、その上に葦簀(ヨシズ)をかぶせた。だが、種は、葦簀ごと、1日で吹き飛ばされた。

 いろいろ工夫したが、うまくいかなかった。土ごと種子を飛ばす強風の上、酸性の土壌も植物の生育に適さなかった。

 昭和32年、この土地に伝わる方法がヒントとなり、「えりも式緑化工法」が開発された。種をまいた上に、海岸に打ち寄せられた雑海藻を敷き詰める方法で、種の飛散を防ぐ重しとなるだけでなく、肥料の役も果たした。

 漁民たちは、来る日も来る日も、吹きすさぶ寒風の中、荒海に入って少ない昆布を採り、そのあと、家族ぐるみでもっこを担ぎ、手作業で草本緑化を進めていったのである。

 台地がやっと草地になったのは、昭和46年である。そこから本格的な植林が始まった。

 だが、漁民たちに衝撃が走った。植えたクロマツの苗木は、すぐに枯れてしまうのだ。

 地中を掘ってみると、水を貯める地層があり、水を抜いてやらなければ、樹木は育たないことがわかった。

 今までに増す重労働の日々となった。ツルハシを振り下ろし、台地を掘り、水はけを良くして、1本、1本と植林していくのである。気の遠くなるような作業で、完成するには何十年かかるかわからなかった。

 しかも、森ができても、海には赤土の地層がたまっており、青い海が戻るのに、これから先どれほどの歳月を要するのか、見当もつかなかった。

 古老の伝説があった。昔々、流氷がやって来て、海底の土をさらい、昆布の育つ肥沃な土壌にしてくれたという。そういう奇跡が起きたらいいなと、土地の人々は心のなかで思った。

 初めて取り組みを始めた20代後半の青年たちは、40代の後半になっていた。その中心になった一人の漁民の息子は、襟裳を出て町の高校に通い、大学受験を目指していた。襟裳を捨てるつもりだった。そういうとき、父親が長年の重労働で体をこわして倒れた。母に頼まれて、彼はいやいや、故郷に戻った。

 ある日、父の代わりに昆布漁に出た。海から岬を見たとき、彼は驚いた。面積はまだ少ないが、あの荒涼とした砂漠の一角にクロマツが植樹され緑が再生していたのだ。彼はここまでやり遂げた父たちの偉大さを思った。そのときから、彼も本気になって、父たちとともに働くようになった。

 やがて青年は、町からブルドーザーを導入した。作業は一気にはかどりだした。

 植林は、クロマツを中心に、広葉樹を組み合わせた。

 昭和59年、奇跡が起こった。流氷がやってきた。そして、海底にたまった赤土をすべて流し、肥沃な海にしてくれたのだ。

 実際、その翌年から、海は青くなり、立派な昆布が採れるようになった。

 植林が終わったのは、平成6年である。40年、かかった。最初に取り組みを始めた20代の若者は、すでに60代である。襟裳に帰って来た息子の世代も30代。

 飛砂の被害は大きく軽減し、海域生態系が回復し、漁業の収穫量が回復した。そして日本で一番美味しい昆布のとれる海となった。

 植林が終わった日、地域の人々は家族ぐるみで集って、祝い、皆で歌った。「襟裳の春は、世界一の春です」。

 今も、老いた漁民たちは、漁の合い間に森へ行く。完成はない。森は絶えず人の手で手入れをしてやらなければ、荒れた森になってしまう。森が荒れたら、海は死ぬ。

 自然の海岸と人為によって回復した森林・草地が組み合わさった景観は魅力的な観光資源となり、襟裳岬は北海道を代表する観光地の一つとなった。

 ── そういう話だった。

 この取り組みは、NHKの大ヒット番組「プロジェクトX」で、「えりも岬に春を呼べ~砂漠を森に・北の家族の半世紀~」として、平成15年に放映された。 

         ★ 

 ……  森進一の「襟裳岬」が好きだから、襟裳岬に行ってみたいと思ったわけではない。だが、耳に入って来る「襟裳岬」の歌を聞くともなく聞き、襟裳岬という岬のあることを知って、行ってみたいと思うようになったのは確かだ。私がそうであるように、この歌も、襟裳の観光に寄与している。

 歌は、襟裳岬をけなして、「何もない」と言っているのではない。都会的なものは何もないが、厳しい自然の中で身を寄せ合って生きる襟裳には、都会にはないぬくもりがあるよ、と歌っているのだろう。

 ただ、この歌が発売されレコード大賞を得た昭和49年は、20年に渡る厳しい自然を相手にしての苦闘にもかかわらず、まだ希望を見い出せない時期だった。襟裳には、本当に何もなかったのである。体をこわすほどの激しい労働に明け暮れている襟裳の漁民たちにとって、この歌は、高度経済成長に沸く都会人の「涼しい顔」の歌と思えただろう。

 この歌の作り手たち (作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎) が、歌を作るに当たって、現地に取材していないことは確かだ。

 改めてこの歌の歌詞を読めばわかるが、歌の題を「襟裳岬」とする必然性は、歌詞の内容からは、ない。寒い「北の街」なら、日本中、どこの地名であろうと、岬でなく山あいの町であっても、通じるのである。

 それでも、襟裳岬という言葉の響きは、この歌の歌詞とメロディに似合っている。

         ★

襟裳岬の春は、寒風の吹きすさぶ春でした >

 レストランを出て、岬に向かう。

 春、5月中旬だというのに、すさまじい寒風が吹く。

 寒い。年配者は、暖炉のそばでコーヒーを飲んでいるほうが良さそうだ。

   ( 岬への遊歩道 ) 

 「襟裳岬」の標識があった。岬は標高60mの断崖で、太平洋に切れ落ちている。  

  

 日高山脈の名残が、未練の緒を引いて海に切れ落ちたあと、沖合7キロまで岩礁が連なる。 

 遊歩道の先端まで歩いて行きたかったが、時間がない。時間があっても、寒さと風に気持ちが萎える。

     ( 襟 裳 岬 )

 襟裳岬灯台の明かりは、海抜73mの位置から海を照らす。

 沖合で、暖流の黒潮と寒流の親潮とがぶつかり、濃霧が発生する。灯台には霧笛も備えられている。 

 日本灯台50選の一つ。

    ( 襟裳岬灯台 )  

 漁港が見えた。この厳しい自然の中に、人の営みがある。なにしろこの海は、豊饒の海なのだ。   

    ( 漁 港 )

          ★

< 岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲『襟裳岬』>

 このブログを書きながら、ユーチューブで「襟裳岬」を聞いてみた。

 歌の好みは人それぞれだろうが、森進一の歌は、私には重っ苦しい。思い入れが強すぎるというか…。

 いろんな歌手が歌っているなかで、島津亜矢の歌う「襟裳岬」が美しいと思った。特に、最後の「寒い友達が/訪ねて来たよ/遠慮はいらないから/暖まってゆきなよ」のところがいい。島津亜矢という歌手の声がこんなに綺麗だとは知らなかった。

 作曲した吉田拓郎の「襟裳岬」もみつけた。かろやかで、テンポが良くて、私にはこの程度にさらっと歌ってもらうほうがいい。

 だが、改めて歌詞を読んでみて、ええっ …… ?? となった。意味不明ではないか。読み返しても、わからない。

    襟裳岬

1 北の街ではもう/悲しみを暖炉で/

    燃やしはじめてるらしい/

  わけのわからないことで/

  悩んでいるうち/おいぼれてしまうから/

  だまりとおした歳月を/

  ひろい集めてあたためおう/

  えりもの春は何もない春です/

2 君は二杯目だよね/コーヒーカップに/

  角砂糖をひとつだったね/

  捨ててきてしまった/

  わずらわしさだけを/くるくるかき回して/

  通り過ぎた夏のにおい/

  思い出して/なつかしいね/

  えりもの春は何もない春です/

3 日々の暮らしはいやでも/やってくるけど/

  静かに笑ってしまおう/いじけることだけが/

  生きることだと/飼いならしすぎたので/

  身構えながら/話すなんて/

  ああ臆病なんだよね/

  えりもの春は何もない春です/

  寒い友達が/訪ねて来たよ/

  遠慮はいらないから/暖まってゆきなよ

疑問①

 「北の街ではもう/悲しみを暖炉で/燃やしはじめてるらしい」ということは、「私」は「北の街」にはいないということだ。ところが、「えりもの春は…」と歌い、「遠慮はいらないから/暖まってゆきなよ」と言う。いつの間にか、えりもの人になっている。

疑問② 

 それは我慢できるとしても、季節のつじつまが合わない??

   「北の街ではもう/悲しみを暖炉で/燃やしはじめてるらしい」ということは、秋である。秋のことだなと思っていると、最後になって、突然、「えりもの春は何もない春です!!」と、絶唱する。絶唱ですよ!! 何で、春なのだ!!

 2番でも、「通り過ぎた夏のにおい/思い出して/なつかしいね」というからには、秋だろう。ところが、すぐ続けて「えりもの春は何もない春です」?? となる。

   いくら詩だからと言って(散文ではないからと言って)、これは許されないだろう。

 あえて疑問②を解釈すれば、こうなる。

 今は秋である。これから長い冬にかけて、暖炉の火で、煩悩をすべて燃やしてしまおう。そうすれば、心はきれいに浄化されて、やがてくる春は、「空」或いは「無」の心で迎えることができる。春は、よみがえりの季節、すべてが新しくなる季節である。

 しかし、ムリ筋というもの。

 私なら自分の感性の方を信頼して、この歌詞は欠陥商品であるとする。

 「日々の暮らし」「だまりとおした歳月」「暖炉で悲しみを燃やす」「コーヒーカップ」「通り過ぎた夏」など、せっかく捨てがたいイメージを掘り起こしているのである。だが、イメージを並べ、投げ出しただけで終わっている。これらのイメージをどう「襟裳の春は何もない春です」につなげるか、疑問①も含めて、きちんと煮詰めるべきであった。バカな大衆相手にはこの程度でいいと、途中で2人で飲みに行ったのなら、プロとは言えない。

 少なくとも、プロであるなら(それで収入を得、生計を立てているのなら)、まずは、日本語を母語とする人たち(主に日本人)が理解できる日本語できちんと表現し、そのうえで、「受け手」にゆだねるべきである。「受け手」は時に、「作り手」の意図を超えた、優れた「読み」をしてくれることもある。しかし、日本語になっていなければ、そういうこともない。

 例えば萩原朔太郎の詩集「月に吠える」や「青猫」の詩は、わかりにくい。だが、そのわかりにくさは、イメージ化された朔太郎の病的な感覚・魂の混沌がわかりにくいのであって、詩の言葉や構成は明晰そのものである。

 プロなら、骨身を削って推敲し尽くし、「受け手」に、美しい日本語の完成品を提供するべきである。他者の批評に値する作品の提供を。これでは批評以前である。

 かく文句を言う私は、もちろんプロではないので、長々と駄文を連ねても、まあ許される

       ★   ★   ★

 バスは、一路、空港へと向かった。

 5日間、なかなか良い旅だった。

 知床岬には行けなかった。知床めぐりの遊覧船に乗って、いつか知床岬を仰ぎ見たいものだ。

 それに、バスではなく、とことこ鉄道の旅もしてみたい。(完) 

      ★   ★   ★

〇 8月29日、早朝、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが北海道の襟裳岬の上空を横切って、太平洋上に落下した。

〇 ロシア軍の東部軍管区は8月29日、クリル諸島(千島列島)で軍事演習を開始したと発表した。演習には兵士2500人以上が参加。海からの敵部隊の上陸阻止に重点を置いており、戦車や迫撃砲、対戦車砲など700以上の兵器や軍用機材が投入されるという。

〇 9月15日、早朝、北朝鮮が発射した弾道ミサイルが北海道の襟裳岬の東2200㌔に落下した。

 21世紀を迎えたときは、世界はもう少し良くなると期待したが …。

 スイスを参考にすべしと、この頃、特に思う。 

 

 

 

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日本のもう一つの源流のこと … 岬めぐりのバスに乗って(北海道の岬をめぐる旅) 6

2017年09月05日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

 

5月15日(月) 

 北海道の5月は、曇り空が多いのか?? それとも、北海道が、曇り空が多いのか??

   今日も曇天。

 旅に出て、5日目。最終日である。

 この朝も、7時半にホテルを出発した。旅寝が重なり、気楽にバスに乗っているだけとはいえ、さすがに疲労を覚える。

     ★   ★   ★

プロフェショナルなバスガイドさん

 バスガイドいわく、「本州では、縄文時代から弥生時代に移行し、それから古墳時代、さらに奈良時代、平安時代と進んでいきますが、北海道には弥生時代はありません。縄文土器文化に続くのは、続縄文土器文化。そのあと、擦文(サツモン)土器文化とオホーツク文化が並行する時代があって、アイヌ文化の時代になります」。

 バスガイドという職業が脚光を浴びたのは、高度経済成長の1960年代~70年代のころ。国内観光の全盛期。OLなど当時の他の女性の職種と同じように、高校を卒業して結婚退職するまでの仕事だった。

 若いバスガイドたちは、観光バス会社が各方面ごとに作成した、何百ページもある「バスガイドブック」を丸暗記した。だが、たいてい暗記しきれず、途中からカンニングペーパーのようにして読んでいた。その「バスガイドブック」の内容も、興味を呼び起こされるようなものではなかった。

 戦前のことだが、最初のバスガイドは東京観光のバスで、大卒の男性だったらしい。戦前の大卒は相当の高学歴だ。

 本来、こういう仕事は、それなりの教養があって、さらに、必要な情報 (知識・ネタ) を収集する能力、そこから選択し、整理し、再構成する能力、そして発信する (表現する) 能力がないと、できない仕事だ。

 つまり、高校卒業後間もない女子には、ムリというもの。

 しかし、最近のバスガイドは違う。少なくとも、大手の旅行会社の企画するツアーに参加すると、地方の空港或いは駅で迎えてくれる観光バスのバスガイドさんは、総じて年齢が高く (孫がいたりする)、職業人としての経験も豊かで、話の内容もしっかりしている。旅程を管理する添乗員は別にいるから、まさにガイドのプロフェショナルである。多分、登録制で、客や旅行会社の添乗員の評価の高い人から声がかかるのだろう。それなりの報酬があり、ふるさとの誇る文化遺産・自然遺産を説明して旅人に旅の満足を与える仕事だから、やりがいもあるに違いない。

 今回のガイドさんは、5段階評価なら5、10段階なら10である。

 女性の年はわからないが、多分40代後半、もしかしたら50代。なかなかの美貌の持ち主である。少々中年太りだが、若いころはスタイルも良かったと思われる。きれいな標準語で話し、それも、きめ細かに配慮の行き届いた言葉遣いである。ちなみに、北海道を出たことはないそうで、母方はこれから行く襟裳岬の漁師の娘だったという。

 「ガイドブック」は手にしないし、暗記した文章をそのまま口にしている話し方でもない。すべて、頭の中で一度咀嚼されて、自分の言葉で紡ぎだされている。よほどしっかり勉強し、熟成されているのだろう。

 バスが立ち寄り、或いは、通り過ぎていく地域や市町村について、その歴史、地理、産業、民俗、伝承などを語っていく。その内容は奇をてらい、客に媚びるものではなく、時に考古学から北方領土問題に及び、知的で、系統立って、興味深い。

 トイレ休憩で、半官半民の観光施設に立ち寄ったとき、市の観光課や土地の歴史博物館などが作成して観光客向けに置いているパンフレット、リーフレットから、1、2種をピックアップしているのを見かけた。なるほど、こういう現地の資料も参考にして、たえずインプットしているのだと感心した。

 今回の旅は、既に何回か北海道を訪れた人が参加する、秘境めぐり的なコースなので、私も楽しい、と言っていた。

     ★   ★   ★

日本の源流を考える >

( オホーツクの海岸で何か収集している人 )

 以下は、バスガイドさんから北海道の考古学的時代区分を聞いて、旅の後、調べなおした事柄である。

 日本の古代史の本を読んでも、北海道の記述になると、つい本筋ではないと思って読み飛ばしてしまう。今回、北海道を旅して、北海道のバスガイドさんから「和人」以前の北海道の考古学時代のことを聞いて、もう一度本を読みなおした結果、北海道を含めた日本人の来歴ということについて改めて納得がいくところがあった。

(以下は、例によって、自分の覚えとして書き留めたものなので、興味のない方はシャットダウンしてください )。

         ★

日本列島をおおった縄文文化 >

 前回のブログで、バスガイドさんの受け売りだが、宗谷海峡は水深が浅い、と書いた。

 話は今から数万年前にさかのぼる。地球上は氷河期で、海面は低下し、日本列島は北海道の宗谷海峡付近で、サハリン、そしてユーラシア大陸とつながっていた。

 地続きのシベリア、サハリン(樺太)を経由して、打製石器をもつ人々が日本列島にたどり着き、住み着いた。一方、南からも、島々を伝ってやって来て住み着く人々がいた。

 こうした2方向からの人類の日本列島への移動は、一度ではなく、何度も繰り返されたようだ。

 もちろん、日本列島はユーラシア大陸の行き止まりで、その先は茫々とした広がりをもつ海があるだけ。流れ着いたヤシの実ではないが、アフリカを出発して何万年も旅してきたホモサピエンスが、流れ着いたユーラシア大陸の果ての日本列島で、混ざり合い、ここを終の棲家にしたのである。

 氷河期を終えて、世界が暖かくなった時、世界の他の地域と同じように、日本列島も旧石器時代から新石器時代に移行した。

 他の地域では、生きていくために、遊牧や農耕を始めたところもあったが、山と海の幸に恵まれ、四季の循環のあるこの列島では、狩猟・漁労・採集による豊かな生活が花開いていった。

 土器を発明し、食べ物を貯蔵し、煮炊きするようになったのは、画期的なことである。縄目模様の縄文を特色とする土器の文化は、この列島の独自の文化であった。この文化は1万年も続き、その模様は進化し、炎のようになって、自己を主張しあった。女性を象った土偶も少しずつ進化し、現代の考古学者が「〇〇のビーナス」などと名付けるものが生まれた。

 縄文土器の文化の範囲は、北は千島、南は沖縄に及んで、驚くべきことに現在の日本の領土の範囲と一致する。物と物とが、海峡を越えて、流通している。

 司馬遼太郎の『街道をゆく  オホーツク街道』は、北海道の考古学界 (在野の人たちを含む) と、北海道の考古学時代の1ページを飾った「オホーツク文化」との出会いを訪ね歩いた紀行である。

 例えば、知床で、司馬遼太郎は次のように書いている。

 「知床オホーツク沿岸の考古学遺跡はにぎやかで、斜里町から半島の先端にいたるまでわずか70㎞ほどの沿岸に、こんにちわかっているだけで82か所もの遺跡がある。遺跡銀座のようなものである。そのほとんどが、縄文時代早期から続縄文時代のもので、… 、縄文文化ほど、日本固有の文化はない」。

 「この固有性と、オホーツク文化という外来性がいりまじっているところに、北海道、とくにそのオホーツク沿岸の魅力がある」。

< 稲作の時代へ >

 1万年という縄文時代の長さと比べると、弥生時代に入ってから現代までの時間は、わずか2千数百年に過ぎない。紀元前5~9世紀ごろ、九州北部に稲作が入ってきて、瞬く間に西日本各地から関東へと広がった。

 北九州から、瀬戸内海を経て、近畿に至る間、同時代の縄文のムラと弥生のムラが、たいした距離を置かず、入り混じって発掘されている。が、両者が争った形跡は一つも発見されていない。共存し、共生し、次第に稲作文化に同化していったと考えられている。

 稲作が入ってきたころには、縄文土器は、既に過剰な装飾性を排して機能的になり、弥生式土器に近いものになっていた。シンプルな弥生式土器は、少し縄文的装飾を加えて、生活を豊かにしていった。

 戦いは、その後、弥生のムラとムラとの間で起こるようになり、クニへと統合されていった。腕力だけではない。この時代、鉄素材は朝鮮半島南部からしか入手できなかったから、鉄を手に入れる才覚のある者が社会のリーダーになり、ムラムラも、人々も集って、クニへと統合されていったのである。

 「倭国争乱」と中国の史書に書かれた時代を経て、やがてクニグニを調整するヤマト王権が生まれた。連合の証として、九州から関東の各地に、前方後円墳が造られるようになる。 

 一方、稲作は、東北地方になかなか根付かなかった。

 以下、『オホーツク街道』を引用しつつ、北海道の長い考古学時代を要約する。

          ★

北海道の考古学時代のこと >

 「奧羽の地が、近畿政権が成熟してからもなおこれと対立したのは、ひとつには縄文のよい暮らしを捨てて泥田を這いまわる気になれなかったのかもしれない」。

 (私なら、絶対にそうだ。農業はしんどい。工業はもっとわずらわしい。森の中で獣を追い、海で魚を獲り、木の実を探して、自然と呼吸をひとつにする生活の方が、良いに決まっている)。

 「が、東北地方はやがて弥生文化でおおいつくされる」。

 「が、当時の北海道は稲作の不適地だったので、弥生人はここまで侵入してこなかった。北海道には、ながく縄文人が残った」

 なお、縄文的生活にこだわる東北の人々のなかには、ヤマト王権の支配をいやがって、北海道に移住した人々もいたと思われる。

 北海道の考古学的時代区分は、

① 縄文時代から

② 続縄文時代 (本州では弥生時代)となる。

 「続縄文文化がおわるのはいつごろかとなると、大体、6世紀から7世紀ごろだろうという。もしそうなら、『日本書紀』に出てくる7世紀半ばの阿倍比羅夫が、秋田県あるいは青森県の十三湊の浜か、もしくは北海道南部の砂浜で接触したエミシ(蝦夷)は、続縄文文化のひとびとだったことになる」。

③ 擦文 (サツモン) 時代 (併行して、オホーツク沿岸ではオホーツク文化時代)

 「擦文とは、ヘラで擦 (コス) り付けたような文様のある土器のことである。この土器とそれに付随する文化の時代を、北海道考古学ではとくに「擦文時代」とよぶ。歴史は存外新しく、8世紀半ば(奈良朝時代) にはじまり、13世紀 (鎌倉初期) に終わってしまう」。

 「奈良朝の影響を受け、鉄器が使われている」。

 「ささやかながら、農業も行われていたらしい」。

 「(擦文文化の) 担い手はだれかとなるととむずかしいが、いまのアイヌの祖でもあり、ちょっぴり本州人もまじっていたにちがいない。なぜなら、鉄器や農業がひとりで飛んでくるとは思えないからである」。

  「注目すべきことは、擦文文化がさかえていたころ、オホーツク文化も併行していたことである」。

  「オホーツク文化人はなにものかについては、… ひろく黒龍江下流域から樺太に住むツングース系の諸民族のどれかだ、とみた人もいる」。

  「(擦文文化が) 決定的にオホーツク文化と異なるのは、東北地方の影響を受けて全き鉄器文化(鍬先、刀子(トウス)、直刀、斧など) であったことである。オホーツク文化はまだ石器をつかっていた。両者は、住み分けていたにちがいない」。

 「アイヌの祖と思われる人たちは、内陸に住み、河川や山に依存していき、一方、オホーツク文化人たちは、北から流氷のやって来るオホーツク沿岸に住んでいた」。

④ アイヌ文化の時代

 「擦文文化の終末は、12世紀末から13世紀 (平安末期から鎌倉初期) である。消えたあとは、いま私どもが知っているアイヌ文化が誕生する」。

 「アイヌは固有に日本列島にいた民族である。かれらは縄文的な採集のくらしを、弥生時代になってからも、頑固にまもりつづけた人々の後裔であることは、まぎれもない」。

   以上が、もう一つの日本の源流、北海道の考古学時代の概略である。

 ( フーッ。インプットした情報を簡潔に要約するという作業は、結構大変な作業なのです。)

     ★   ★   ★

日本人のものの見方、感じ方、考え方について >

  

 ( オホーツク海と遠くに知床の山並み )

 司馬遼太郎は、『オホーツク街道』のなかで、樺太から移住してきた一人の女性(アイ子さん)のエピソードを記述している。

 千島・樺太交換条約の後のことだが、樺太は日露戦争の結果として、南半分が日本領になった。

 日本政府は樺太庁を置き、最盛期には人口も40万人を超え、漁業、林業、製紙、パルプ工業、石炭採掘などの産業が興った。

 領有40年で、太平洋戦争の敗戦の結果、ソ連の領土となった。

 「日本時代、(樺太の) 原住民の数は、樺太アイヌ約2千人。ニブヒ (旧称ギリヤーク) とウイルタ (旧称オロッコ) とをあわせて、約3千人」。   

  「日本の敗戦のとき、かれらの多くが日本に移ることを望み、北海道のオホーツク沿岸 (北は稚内から南は網走まで) に移住した」。

 「弦巻さん (中学校の社会科の先生で、ウイルタの北川アイ子さんの外護者のひとり) は、アイ子さんが自然に対していかに敬虔であるかを語ってくれた。 

 『あるとき、札幌までお誘いしたのです』

 アイ子さんは、民族の故郷である樺太南部でうまれ、成人した。そのころ日本の敗戦をむかえ、日本人の引き揚げを手伝いつつ、結局は彼女も両親や兄たちとともに海をわたって網走に来、ここが終の棲家 (スミカ) になつた。

 都市にはあこがれない。しかし弦巻さんにすればせっかく北海道に住んでいるのにとおもい、あるとき車にのせた。

    (略) 

 『大変でした』と、弦巻さんはいう。走っていて、あたらしい山に出くわすと、アイ子さんは弦巻さんに車をとめさせる。彼女はゆっくり下車し、あたらしい山のために菓子をそなえる。

 むろん、川にも敬意を表する。あたらしい川にさしかかると、彼女は降りて拝礼し、供物をそなえる」。

 そして、司馬遼太郎は言う。

 「私は、中国をのぞいて極東の古代信仰はほぼ一つだとおもっている。縄文人がそのようにしたかどうかは証しにくいにせよ、弥生人にとっては、天も地も神だった。

 ずっと降って、江戸期の船乗りは、あたらしい岬がみえると、帆を下げて拝礼した。岬は、神だった。農民にとって里山も神だったし、山住まいのひとびとにとっては、神のふところのなかで生きていると思っていた。

 旅人にとっては、峠も、神であった。トウゲということばはタムケ(手向け)からきている。タムケとは、アイ子さんのように手を合わせて神仏に供え物をすることなのである」。

          ★

縄文時代のなごりは今に残る >

〇 北海道博物館のホームページ「AKA RENGA」から ── 縄文文化の人々の祈りとこころ ──

 「今も私たちは、森の大木や山々、海、自然の現象などにいろいろな「カミさま」がいて、恵みを与えてくれたり、悪さをしたりすると考える「文化」をもっています。一人だけ偉大な神がいるのではなく、たくさんの「カミさま」がいます」。

 「このような考え方は……縄文文化からすでに存在し、現在まで受け継がれてきた自然と人間のかかわりの思想に他なりません」。 

        ★

〇 戸矢学『縄文の神』から

 「縄文時代の縄は、何で作られた縄であったのか。農耕文化が主体となる以前のことであるので、少なくとも稲わらでも麦わらでもない」。「その素材は縄文人の暮らしにとって大いに役立つものであり、きわめて重要なものであった」。

 「その名残が、現在なお神社・神道に引き継がれている。神社の注連縄 (シメナワ) や鈴縄などは、すべて縄文土器の文様を刻んだ縄と同じ素材の縄である。縄文土器は3000年ほど前に作られなくなったが、その縄は縄文人に用いられ続け、今なお神社・神道において用いられている」。

 「それは『麻縄』である。麻縄でなわれた縄である。

 実は、神社の鈴縄や茅(チ)の輪は麻で作られている。そして何よりも、注連縄は麻わらで作られるのが本来である。近年では麻が貴重で高価であるため、稲わらや麦わらで作られることが少なくないが、上等なものは麻縄、麻糸で作られている。しかも、枯れたものではなく、若く青い新しい茎を用いる。だから、作られたばかりの注連縄や茅の輪は薄い緑色をしており、青草の香りが匂い立つ」。

 「麻は、すでに縄文時代の遺跡から発掘されており、1万数千年以前からわが国に根付いている。縄文土器の文様に使われていた縄は、麻縄である。そして縄文人の衣服も麻織物・麻布であった」。   

         ★

〇 司馬遼太郎『この国のかたち五』から

 「この島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根 (イワネ) の大きさをおもい、奇異を感じた。

 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。

 三輪の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている」。

        ★

〇 司馬遼太郎『この国のかたち五』から

 「『葦原の瑞穂 (ミズホ) の国は神 (カン) ながら 言挙 (コトア) げせぬ国』

という歌がある (万葉集巻13)。他にも類似の歌があることからみて、言挙げせぬとは慣用句として当時ふつうに存在したのにちがいない。

 神ながらということばは、"神の本性のままに" という意味である。言挙げとは、いうまでもなく論ずること。

 神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性として ── 神ながらに ── 生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。

 例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社の一つである大和の三輪山は、すでにふれたように、山そのものが神体になっている。山が信徒にむかって法を説くはずもなく、論をなすはずもない。三輪山はただ一瞬一瞬の嵐気をもって、感ずる人にだけ隠喩 (メタフア) をもって示す」。

        ★

 大神神社のご神体は三輪山であり、熊野三山のご神体は熊野川、神倉山(ゴトビキ岩)、那智の滝である。上賀茂神社は神山、下賀茂神社は糺の森、出雲大社は八雲山。

 古くからある神社はみな、山、川、岩、森、巨木などに聖なるものを感じて畏れた縄文人の信仰から始まり、弥生人の神として受け継がれているのである。

 日本の各地に、春になれば山に神を迎えに行き、秋の収穫が終われば里から山へ神を送るという祭りが残っている。これは、縄文の神から弥生の神へという時間の流れを、1年に集約した行事であろう。

      ★   ★   ★

 紀行が足踏みしてしまった。

 次回は、この旅のおわり、襟裳岬を訪れます。

 

 

 

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残雪の知床の山並み、そして、北海道東岸の岬へ … 岬めぐりのバスに乗って (北海道の岬をめぐる旅)5

2017年08月26日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

   ( 知床の車窓風景から…海別岳の麓 )

      ★    ★    ★

残雪の知床連山を望む >

5月14日(日) 晴のち曇り 

   今朝も7時半出発。

 早朝の澄んだ空気。森や畑、そして、雪を戴いた知床の連山が、車窓に展開する。

 残雪の山は、心がときめく。

 

 昨夜は知床のホテルに泊まり、今日は、まず、知床五湖の一つ、一湖を観光する。

 パークサービスセンターのある駐車場で下車した。原生林に囲まれた駐車場からも、残雪の連山が見えた。 

 五湖というが、このあたりは湿地帯。融雪期には、知床の山々から、雪解け水がせせらぎとなって流れ込む。湖の数はさらに増えるそうだ。

 一般の観光客が入れるのは、高架木道が整備されている一湖だけ。他の4湖を訪ねたければ、ガイドツアーに入らなければならない。自然保護のためであり、また、ヒグマの被害を避けるためでもある。1日の入山数も、300人までと制限されている。

 一帯がヒグマの生息地で、頻繁に出没し、高架木道には電気柵も付けられているが、ヒグマが現れたら、入山禁止になることもある。この地の主人公は、ヒグマを含めた動植物と神々であって、都会の観光客ではない

 草原の丘に、高架木道が延びている。出発地点のパネルを詠むと、全長800m。一湖の展望台まで、往復15分とある。たいした距離ではない。

 さわやかな5月の青空。湿原の水蒸気が、霧となって立ち上っている。

 残雪の山並みに感動しながら歩いていると、一湖の展望台に到着した。

 湖から盛んに霧が立ち上って、絵に描いたような幻想的な光景である。

 と思う間に、霧が晴れ、湖が鏡となって、原生林の木立や、残雪の山並み、そして、青い空を映し出した。これもまた、一幅の絵のようである

 この旅で、こんな美しい景色に出会えるとは、思ってもいなかった。

         ★

 若いころは、夏になると、よく信州に行った。北アルプスのアルペン的景観に心ときめいて登山もした。堀辰雄や立原道造が愛した白樺や落葉松の高原を、マツムシソウやクルマユリ、オダマキやナデシコを愛でながら散策した。

 北海道に初めて行ったのは、人生の半ばをとっくに過ぎてからだった。

 短い夏休みを使って、知らない北海道を訪ねる旅だったから、ツアーに入った。

 その夏はことさらに暑く、北海道も、バスから降りると炎暑だった。遥々とバスに揺られて、オシンコシンの滝を見たときは、がっかりした。この程度の滝を見るために、長時間バスに揺られたのかと。

 この一湖にも来た。夏、山々に残雪はなく、眠っているようで、湿原は茫々と見渡す限り草が生え、その中に小さな池が、草に埋もれるようにあるだけだった。

 かなりがっかりした。

 今回、期待せずにやって来て、予想外に美しい景色にふれた。自然の景観は、訪れる季節と、お天気に恵まれなければいけないのだ。今回、知床は、カムイがほほ笑んだ。 

 体力、体調が許せばだが、いつか四湖めぐりのガイドツアーに参加するのも良いかもしれない。

[ 知床斜里町観光協会のホームページから ]  

 ユネスコの自然遺産登録について、このように書かれている。

 「海に荒く削られた海岸線、世界でもっとも南端に接岸する流氷、流氷によりもたらされる豊富な魚介類、その魚介類を捕食するヒグマやオジロワシと、海、陸の食物連鎖を見ることができる貴重な自然環境を有する点が評価され、日本で初めて海洋を含む自然遺産の登録となりました」。

 3000万年前、ユーラシア大陸から切り離され、黒潮洗う列島となったこの島国は、世界でも類例のない豊かな自然に恵まれているらしい。現代人から見れば寒冷の地である北海道も、生き物からみれば豊穣の海と陸なのだ。

 冬季には、ウトロ港から流氷船が出ている。

 春から秋にかけては、ウトロ港から、知床半島のオホーツク海沿岸を巡る3種類の観光船が出ている。

 1時間コースがカムイワッカの滝コース、2時間コースがヒグマウォッチングコース、3時間コースが知床岬コース。

 とりあえず「流氷」はパス。人生、あれもこれもはムリというもの。

 今回の旅のテーマは、北海道の岬である。

 「知床岬 … 岬の上は標高30m~40mの台地で、周囲は断崖になっています。特別保護地域に指定されているため一般の観光客は上陸することができません。晴天時には太平洋に浮かぶ国後島を望むことができます」。

 せめて海からであろうと、知床岬を見なければ、北海道岬めぐりの旅は完結しないのではないか。いつか、良い季節のときに、3時間コースの観光船に乗りに来たいものである。

        ★

知床の山懐を峠越えする > 

 バスは、オホーツク海側の斜里町と、根室海峡側の標津(シベツ)町とを結ぶ国道244号線に入って、知床半島の背骨の部分を横断する。

 右手の車窓には斜里岳(1545m)、左手には海別岳(1419m)が、入れ替わり見え隠れした。このあたりに生活する人々は、朝も昼も夕も、知床連山を仰ぎ見るのであろう。

 下の写真は、── 残雪の知床連山を映す一湖の写真とともに ── 、この旅で写した写真のなかで、特に好きな1枚である。

 走るバスの中から、しかも、紫外線カットの窓ガラス越しの撮影だから、多少のブレや画質の悪さは致し方ない。

 大自然のなかに、人間の営みを感じる風景は、心安らぐ。

     ( 海別岳の麓 )

         ★

野付半島でトラクターバスに乗る

 根室海峡に出ると、空はどんよりと曇ってしまった。

   標津町の先の野付半島に寄り、観光する。

     ( 野付半島から野付湾を望む )

 野付半島は、砂嘴(サシ)である。

 砂嘴で最も有名なのは、丹後の「天橋立」であろう。博多湾の志賀海神社のある志賀島と九州本土とを結ぶ「海の中道」も有名である。

 だが、ここは、28㎞もの長さがあり、日本最大規模の砂嘴なのだそうだ。

 ( フラワーロードを走るトラクターバス )

 駐車場のあるネイチャーセンターから突端近くまで歩いて行くことができるが、料金を払って、「乗合バス」に乗ってみた。自然道だから、トラクターがゴロゴロと、牽引する。客を乗せる貨車も、どこかの廃品置き場から拾ってきたようなシロモノだ。だが、もしかしたら運転している長靴のお兄さんは、ネイチャーセンターの一番若い研究員かもしれない。

 横を、同じツアーの健脚の人たちがさっさっと歩いて行く。「バス」の方がわずかに速く、追い抜いた。

 この道も季節になると、原生花園のフラワーロードになるそうだ。

 3千万年をかけて自然がつくった砂嘴も、近年は浸食が激しく、海面の上昇もあり、いずれは寸断されて、島となり、やがてはなくなってしまうらしい。

 海水の侵食によって、トドマツが枯れている。トドワラと言うらしい。

    ( トドワラ )

 野付湾には干潟があって渡り鳥の飛来が多い。渡り鳥の天下であるだけでなく、オオワシやオジロワシ、それに、アザラシが昼寝したり、海水の深い所にはイルカもやって来るそうだ。

 人間の目には荒涼としているように見えるが、ここも、生き物たちにとっては豊穣の海なのであろう。

    ( 野付湾の干潟 )

         ★

日の出ずる岬 … 納沙布岬 >

[ バスガイドの話 ]  根室は暖流と寒流がぶつかり、霧が発生して、夏の気温は、北海道でも一番低いのです。農業には向きません。

   農業ができないから、不毛の地というわけではない。暖流と寒流がぶつかる所は、豊かな漁場でもある。

 根室という北海道の果ての町について、遠い遠い少年の日の思い出がある。

 まだ敗戦の跡をとどめ、日本人がみな貧しかった時代、瀬戸内海の中都市の小学校に通っていた。

 5年生の時、20代中ごろという若い先生が赴任してきて、私たちの担任になった。

 長身痩躯。自分は、予科練から特攻隊にいって死ぬつもりだった、と語られたことが印象に残っている。大人にもいろんな人がいるが、一度は死を心に決めて生きたことのある大人にはかなわないと、少年たちは心の奥で感じていた。

 周囲の大人たち(保護者たち)の評は、「純情で、生一本な先生」。

 私たち教え子にとっては、自分たちと真っすぐに向き合う「大人」だった。

 「勉強せよ」と言う大人は、たくさんいる。子どもに対する愛や心配から出る言葉かもしれないが、すでに少年になった年齢の心には、まず響かないものだ。この先生が、「勉強せよ」と言ったかどうかは、覚えていない。

 覚えているのは、クラスの日々の活動や生活の中の具体的な場面で、子どもたちが何かを仕出かしたとき、時に激しく叱責し、またある時は一生懸命問いかけ諭して、ついには、事に当たって持つべき人としての処し方、「倫理」、守らなければならない姿勢などといったことに及んだことだ。

 私が、少年期を通じて、「倫理」を教えてもらった、と思う大人は、この先生だけである。

 だが、5年生の1年間が終わると、先生は転勤して、遠くへ去って行かれた。「日本の最北端の北海道の、その果てにある根室の小学校へ行きます」と、挨拶された。どうして1年で転勤することになったのか、どうしてそんなに遠くへ行かれるのか、何も語られなかった。もちろん、少年たちには何となく理由がわかっていた。ただ、誰もそれを口にしなかった。それは、大人の世界のことだから。

 霧の多い、暗い波濤の聞こえる根室という淋しい町のことが、私の頭の中に定着したのは、そのときからである。

 6年生になると、また新しく、若くて元気な先生がやって来て、私たちの担任になった。その6月ごろのことだったか?? クラスに、約束どおり、スズランの花がいっぱい送り届けられた。新担任が読んでくれた手紙には、綺麗なままのスズランを送るのに苦労したと書かれていた。今、思えば、宅急便はおろか、家庭に冷蔵庫もない時代、新幹線も走っていない時代のことである。飛行機便をつかうにしても、どのようにされたのだろう。新担任から、ぼそっと、「1か月分の給料をはたかれたみたいだよ」と、聞いた記憶がある。

          ★

 バスは根室半島をひたすら東進し、ついに納沙布岬に到達した。

 バスを降りると、いきなり「四島のかけはし」というかなり無粋な建造物が目に飛び込み、違和感を覚えた。

 愛国的建造物だというかもしれないが、本当の愛国者は日本の美しい自然景観を壊したりしないものだ。

     ( 「四島のかけはし」 )

 歯舞群島の貝殻島まで3.7㎞だが、今日は曇天で何も見えない。

 「四島のかけはし」の先に、「本土最東端 納沙布岬」と書かれた木の標柱が立っていた。この方が、ずっと心に響くものがある。

 さらに行くと、納沙布岬灯台があった。

 パネルがあり、「日本は、古来より『日出ずる国』とされてきましたが、納沙布岬は本土最東端の地で、一番早く朝日が昇ります」。「納沙布岬灯台は、1872年(明治5年)に北海道で最初に設置した灯台(木造)で、1930年(昭和5年)に現在のコンクリート造りに改築されました」とあった。

 日本の灯台50選の一つ。

      ( 納沙布岬灯台 )

 昨年は、ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルのロカ岬に立った。そこにも灯台があった。

        ★

霧多布岬を経て釧路へ >

 すでに日は傾きかけていたが、バスは、本日の2つ目の岬、霧多布(キリタップ)岬へ向かって走る。

 旅の初めは、日本海側をひたすら北上した。最北端の宗谷海峡を回って、今度は豊穣の海、オホーツク海の沿岸を走り、根室海峡に到達した。そして、今、車窓の海は、太平洋である。

 途中、根室本線の小さな踏切を越えた。キタキツネが出てきそうな単線の線路だった。

 

      ( 根室本線 )

 霧多布岬は、人けのない、いかにも最果ての岬だった。それでも、木でつくられた遊歩道があり、きれいに整備されている。

 名のとおり、霧の名所らしい。

         ★

  江戸時代の国防の最前線基地であった厚岸を経て、日が暮れてから、釧路の町に入った。北海道で4番目に大きな町である。サンマ、シシャモなどの漁業の町。積出港。

 故郷を追われるように出た石川啄木は、函館、札幌、小樽と、職を求めて転々とし、ついに雪の釧路に来て、しばらく荒れた生活をした。やがて、意を決して、東京に出る。

 今夜の宿は、釧路のシティホテル。ホテルの部屋の窓から、釧路港がよく見えた。かつて、銀幕のスターであった高倉健や、石原裕次郎や、小林旭が出てきそうな町だ。

 

 

 

 

 

 

 

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宗谷岬からオホーツク海沿岸を走る … 岬めぐりのバスに乗って(北海道の岬をめぐる旅) 4

2017年08月18日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

     ( 宗谷岬…「日本最北端の地」の碑 )

※ ご無沙汰しました。このブログは、北海道の岬をめぐる旅の途中です。

日本最北端の岬に立つ >

 5月13日(土) 曇天。

 3日目は、宿を7時半に出発した。

 あわただしい旅はいやだなあ。せめて8時出発にしてほしい。早い出発でもいいが、それなら、朝食をもっと早く準備してほしい、などと思っているうちに、日本最北端の岬、宗谷岬に到着した。

 ( 日本の最北端は択捉島のカモイヨッカ岬だが、今、日本国民が行くことのできる日本国の最北端が宗谷岬である )。

 バスから降りると、まだ冬。5月中旬とは思えない寒さだ。冬のコートを持ってきてよかった。

 初日に行った積丹半島の神威岬とか、昨年訪れた津軽半島の龍飛崎は、山の峰が延々と海に突き出し、最後は断崖になって、未練の緒を引きながら、海の中に切れ落ちている。

 ここは、そういう抒情的な岬ではない。

 大きな半円を描いたような岬だ。断崖絶壁はなく、波打ち際のそばを道路が通り、どこが突端かもわかりにくい。

 昨日行った野寒布岬や、昨年訪ねた下北半島の大間崎がそうだった。あっけらかんとしている。ここで、大地が尽きた、という感動がない。

 晴れていて空気が澄み、40キロ先に雪を戴いたカラフトの山並みが見える日なら、もっと国境の岬の感を抱くのかもしれないのだが。

 宗谷 = ソウヤとは、アイヌ語で、岩礁や暗礁の多い所の意らしい。

[ バスガイドの話 ]  樺太と北海道とを分ける宗谷海峡は、北海道と本州とを分ける津軽海峡と比べて、海が浅い。そのため、海面が低くなる地球の寒冷期には、北海道、樺太、そしてユーラシア大陸は、陸続きになった。その時期も、津軽海峡によって隔てられた北海道と本州とは、陸続きにならなかった。

 帰ってから調べると、宗谷海峡は最深部でも60mほどしかない。

 「宗谷海峡」は日本名である。国際的な名称は、ラ・ペルーズ海峡。フランスの航海家ラ・ペルーズが1787年にこの海峡を通過し(発見し)、その名が冠せられた。ヨーロッパは絶対主義の時代の終わりに差し掛かり、世界の隅々までも調査し、植民地化しようという時代だった。日本やそこに住む日本人は、無知な野蛮人として、存在しないかの如く無視された。

 宗谷岬の海と反対側は丘となり、丘の上に宗谷岬灯台があった。日本最北端の灯台である。「日本の灯台50選」の一つ。

 海は、波打ち際で眺めるより、少し高い所から見たほうが味わいがある。灯台のある丘は、海を眺めるには手ごろな高さだし、逆方向から、即ち海をバックにして灯台を撮影したいのだが、20分の自由時間に、丘を上がって、下りてくるのは、ちょっと苦しい。

 それに、烈風も吹き、寒い。

     ( 宗谷岬灯台 )

         ★

間宮林蔵のこと > 

  近くに、間宮林蔵の像が建っていた。像は、樺太の方を見つめていた。

 この像は、昭和55年に、林蔵の生誕200年を記念して、岬の南西3キロほど稚内寄りにある「間宮林蔵渡樺の地」に建てられたそうだ。その後、宗谷岬に「日本最北端の地」の碑が建立されたとき、像もここに移された。

 

      ( 間宮林蔵の像 )

 間宮林蔵が樺太に渡った地点には、今も「間宮林蔵渡樺の地」と書かれた自然石の小さな碑と、旅立ちに当たって自ら建てたとされる小さな墓がある。

 先ほど、バスで通った。そこを通りかかったとき、バスガイドが教えてくれので、一瞬、バスの窓から撮影することができた。

 

   ( 渡樺に際して自ら建てた墓 )

 写真の右側の立派な碑は、関係ない。左端の縦長の石が、「間宮林蔵渡樺の地」の碑。その右横の小さな石が墓石である。 

 間宮林蔵は、幕府の命により、1808年と09年の2度、ここから海を渡って、樺太を探索した。1度目のとき、彼の地での死を覚悟し、故郷の筑波から持ってきた石を置いて、自分の墓石代わりにした。故郷にも、同様にささやかな墓を建てて出発した。

 以下の「 」内は、司馬遼太郎『街道をゆく オホーツク街道 』からの引用である。

 「当時の日本は鎖国をしていたために、欧州人に探検されたり、発見されたりするだけの存在だった。

 ただ、幕府や民間の知識人のあいだに、対外的な危機感はひろがっていた。

 とくに、幕府は、北海道の島主である松前藩の対アイヌ酷使の政策が気に入らなかった。

 ラ・ペルーズが宗谷海峡を通過する(1787年)2年前、老中田沼意次が大規模な蝦夷地 (樺太・千島をふくむ) 調査を開始した。

 一方において、ロシア人がしきりに南下運動をつづけていた。ついに根室までやってきて松前藩に通商を申し出たのは、ラ・ペルーズが宗谷海峡を通過する10年前のことである」。

 樺太については、松前藩もすでにその150年ほども前の1635年に調査を始め、翌年には南半分を調査し、その後も数次に渡って調査した。

 これに対して、1792年から最上徳内らによって始められた幕府の樺太調査は、「幕府は世界意識の上に立って樺太を見た。調査の方法も、欧州の技術におとらなかった」というものであった

 間宮林蔵は、常陸の国筑波郡の農家の出身だが、幼少のころから数理に明るく、江戸に出て、地理学者村上島之允に付いて学び、また、幕命によって蝦夷地を調査した師の従者として、調査に同行した。さらに測量家伊能忠敬に見いだされ、その門人となった。

 伊能忠敬に代わって、西蝦夷地 (北海道の日本海岸、オホーツク海岸)を測量し、さらに国後、択捉からウルップ島までの南千島の地図を作製している。

 彼が択捉島にいた1801年、ロシア軍艦2隻が、樺太で暴虐を働き、翌年、択捉島の番屋を襲い略奪した。このとき、間宮林蔵も番屋にいた。彼は徹底抗戦を主張したが、この時代の侍=官僚は事なかれ主義である。林蔵の主張は受け入れられず、幕吏たちは撤退した。事後、幕吏たちは間宮林蔵を除き、処罰を受けた。

 そして、1808年、林蔵は幕府の命を受け、上司の松田伝十郎とともに、樺太の探検に出発する。

 大先輩の最上徳内の助言により、アイヌの小舟に乗って樺太を北上しながら調査した。そして、2人で樺太が島であるという確証を得て、「大日本国国境」の標柱を立て、翌年、宗谷に帰着した。 

 欧州の探検家や地理学者は樺太が半島であると考えていたが、日本人は、もともとここが島であると思っていた。

 調査報告書を提出し、翌月、願いを出して許され、間宮は、再び、今度は単独で樺太に渡る。

 昨年の到達点をさらに北上し、島であることを確認した後、鎖国を破れば死罪であることを承知のうえ、原住民ギリヤーク人とともに、「間宮海峡」を大陸に渡って、アムール川下流域を踏査した。

          ★

 「樺太はその後、日露の雑居地になった」。

 「明治8(1875)年、日露間で条約がむすばれ、樺太全島はロシア領に、千島全島は日本領になった」。

 「ロシアは樺太をさほどには開発しなかった」。

 「1905年、日露戦争の結果として、樺太の南半分が、日本領になった。日本はここに樺太庁を置き、積極的に開発した。主要産業は漁業のほか、林業、製紙、パルプ工業、石炭採掘などで、日本人人口も増え、最盛期には40万を超えた」。

 稚内港駅で列車を降りた乗客たちが、樺太への連絡船に乗り換えた時代のことである。

 「太平洋戦争の敗戦で、日本はすべてを失った」。

 「1875年の日露間の条約により千島全島は法的に日本領であったのに、それまで不法に奪われた。 

 このような変転のなかで、歴史的存在としての間宮林蔵の影は薄くなった」。

          ★

オホーツクの沿岸を走る >

 昨日走った日本海側もそうだが、オホーツク海岸の車窓風景も、単調である。

 例えば、紀伊半島の太平洋岸の車窓風景は、岩礁や島々があり、岬があり、入り江があり、磯があって、日本庭園のように繊細である。

 一方、オホーツクの海岸は汽水湖が多く、今は枯草の原だが、もう少し夏に近づくと、原生花園となるそうだ。

      ( オホーツクの海 )

 北海道らしい直線道路がある。

 風力発電の風車が並んでいるところもある。

 このような民家のない原っぱ (大陸型の風土の場所) なら、よろしい。里山は、ダメ。それは日本の自然・景観の破壊になる。

 どちらにせよ、生み出しているエネルギーはたかが知れている。  

   ( 北海道らしい直線道路 )

 バスガイド曰く、「オホーツク海沿岸地方の風土は、農業には向きません。昔からこのあたりの町や村は、漁業と牧畜で生きています」。

 立ち寄った道の駅のそばに牧場があり、木曽駒のような馬が草を食んでいた。

   ( オホーツク海のそばの牧場 )

 オホーツク海は、樺太 (サハリン)、カムチャッカ半島、それに続く千島列島に囲まれた海域である。

 陸に囲まれ、閉じ込められたような海には、黒竜江 (アムール川) が大量の真水をそそぎ込む。そのため、淡水が海水の上層を成して凍りやすい。

 冬になると、厳しい寒気団・シベリア高気圧が居すわり、12月に結氷が見られ、2月にはオホーツク海の7、8割が海氷でおおわれる。それが、流氷となって北海道の北東岸に押し寄せる。

 北半球で、最も低緯度で見られる海氷だそうだ。 

 オホーツク高気圧が強い夏には、東北地方のイネが実らない冷害を生んだ。

 「オホーツク海は、稲作社会にとってはおそろしい海である」。

 「ただし、漁業者にとっては、別である。宝の海であり、いまもなおホタテ貝の養殖や昆布の採取という、大きな富をもたらしてくれる …… 要するにオホーツク海は漁民の海である」。(『オホーツク街道』から)。

 冬になると流氷船も出るという紋別市。

 紋別市はこの辺りでは大きな町で、8世紀から12世紀ごろ、「オホーツク海文化」人が一大集落をなしていたらしい。市内に遺跡が50か所以上あるという。    

 紋別セントラルホテルで、昼食をいただいた。寒い戸外から暖かい食堂に入り、出されたのはホタテ貝のホタテ尽くしである。新鮮な造りをはじめ、ホタテ貝の数々の料理が実に美味であった。それで、昼間から、燗酒1合を注文してしまった。

 旅のあと、『オホーツク街道』を読んでいたら、司馬遼太郎もこのホテルに宿泊していた。

          ★

知床半島が近づく >

 サロマ湖や能取湖などの汽水湖のそばを通り、車窓から、知床半島と、雪を戴いた斜里岳(1545m)が見えるようになった。

   網走の町を走り、網走刑務所を車窓に見て、網走と釧路を結ぶ釧網本線の線路に旅情を感じる。

  ( 釧網本線の線路 )

 今夜の宿は、知床半島の山懐である。

 

 オシンコシンの滝を過ぎると、高台に登り、今夜のホテルに着いた。

 ホテルから少し歩くと、ウトロ港が見下ろせた。知床岬めぐりの遊覧船が出ているが、今回は乗らない。 

     ( ウトロ港 )

 

 

 

 

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日本の最北端へバスは走る … 岬めぐりのバスに乗って (北海道の岬をめぐる旅) 3

2017年06月08日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

第2日 (5/12)  日本の最北端へ向かって  

 バスはサロベツ原野に入った。良いお天気で、日本海には利尻富士が浮かんでいた。

 

    ★    ★    ★

 朝、キロロの高原を出発し、小樽から札幌自動車道に入った。

 札幌から道央自動車道に入ると、石狩平野が広がり、車窓に北海道らしい田園風景が展開した。

   ( 車窓風景 : 石狩平野 )

 所々にある赤やピンクの屋根も、色がパステルカラー調に抑えられ、周囲の緑と調和してオシャレである。

 やはり、本州とは違う。北海道の景色は新鮮だった。

 バスは空知地方に入った。

        ★

< 空知川のほとりで > 

 「空知」「空知川」という、漢字のイメージや語感の響きから、北海道の原野を流れる川、その上に浮かぶ白い雲といったイメージが浮かんでくる。

 遠い昔、東京で過ごした学生時代、キリスト教(プロテスタント)と、日本近代文学の黎明期との関係について、関心をもち、勉強したことがある。

 プロテスタントは、幕末から明治の初めに、横浜、札幌、熊本に入ってきた。

 明治の初め、政府は北海道の開拓のために、まだ原野の札幌に、札幌農学校(北海道大学の前身)を創って開校した。  

 教頭としてアメリカから招聘されたクラーク博士が、数か月の1期生との交流の後、別れに際して、「Boys be ambitious」(少年たちよ、各自、大いなる志をもて」)という言葉を残したことは有名である。

 だが、彼はまた、その在任中に、開校に当たって作られた校則をすべて廃止して、「Be gentleman」の1つだけにした。生徒たちは、「gentleman」の意味・イメージがわからない。クラークが教えたかったのは、多分、「自立、自存」の人間であれということであったろう。遥か北海道の地に創られた官費支給の学校に学んでいた若者たちの多くは、元旗本・御家人など、維新の敗者の側に立たされた没落士族の子弟であった。彼らはそれを「武士」と置き換えて理解した。「各自、行動に当たっては、武士の心をもて!!」である。

 特に、その第2期生から、内村鑑三や新渡戸稲造という優れた明治人が育った。のちに新渡戸は国際連盟事務次長として活躍し、また、「太平洋の懸け橋」になろうと志した。彼が英文で書いた『武士道』は、アメリカ大統領をはじめ、多くの人々から称賛を受けた。

 話は少し下って、明治20年代。東京帝大初め、中・高等教育学校が整備され、また、私立のミッションスクールも開校した。この時期、若く知識欲にあふれた青年の間に、キリスト教(プロテスタント)に対するある種のブームが起こった。男女七歳にして席を同じうせずという儒教道徳で育った若者たちにとって、ハイカラなオルガンの音や、男女が同じフロアーのベンチで歌う讃美歌の歌声は新鮮で、プロテスタントのもつストイックな清教徒的開拓者的精神が、明治前期の「坂の上の雲」を目指す時代の精神に合っていたのであろう。牧師・植村正久(横浜バンド)、元一高の教師・内村鑑三(札幌バンド)、思想家・徳富蘇峰(熊本バンド・同志社系)らの門を、多くの青年が叩いた。

 そういう若者たちのなかに、島崎藤村、国木田独歩、正宗白鳥といった青年たちがいた。彼らは作家になる前の20代前半のころ、みな、植村正久のもとでクリスチャンになっている。

 国木田独歩は、教会で、佐々城信子というお嬢さんと知り合い、たちまち恋におちた。そして、彼女とともに北海道・空知川のほとりの原野に小屋を建て、額に汗する開墾生活を夢見る。清教徒的な夢で、いわば明治日本版の「大草原の小さな家」である。土地購入のため、遥々と歌志内(現在は市)の原野までやってきたが、信子嬢の母の猛烈な反対に遭って、挫折する。それでも紆余曲折の末、二人は植村正久牧師のもと、徳富蘇峰を仲人として結婚するが、その結婚生活は長続きしなかった。 (国木田独歩「欺かざるの記」、「空知川の岸辺」)。

 明治26年、日本語のなかに「恋愛」という言葉を創った北村透谷らが雑誌『文学界』を発刊。明治30年、島崎藤村が処女詩集『若菜集』を刊行。明治31年、国木田独歩が『武蔵野』を刊行。

 彼らは、キリスト教からも自立して、それぞれの道を歩み始める。

 明治初年代の札幌農学校の青春と、その影響下に育った島崎藤村、国木田独歩ら明治20年代の青春は、時代の若々しさと重なり合って、みずみずしい。

 「空知地方」…… その言葉の響きから、昔、勉強した、若き日の国木田独歩が夢見た「空知川」のことが思い出されて、少し書き留めた。

          ★

小平の道の駅で >

 留萌(ルモイ)で高速道路を降りたバスは、日本海沿いの国道232号線をひたすら北上する。

 途中、小平(オビラ)という町の道の駅で昼食休憩。

 道の駅に、国の重要文化財「花田屋にしん番屋」があった。

      ( ニシン小屋 )

[ バスガイドの話 ] 小平町は、江戸時代から昭和30年ごろまで、ニシン漁で栄えた町だった。

 「にしん群来(クキ)」は春の季語。ニシンは、春告魚とも呼ばれ、春、産卵のため海岸に押し寄せた。ニシンがやって来ると、遠くから海が盛り上がり、海岸近くの藻に産卵して、海面が一面に乳白色になったという。網元たちはニシン漁によって巨万の富を得た。

 しかし、それも昭和20年代までで、昭和30年代以降、群来はぱったりとなくなった、そうだ。

     ( 「花田屋にしん番屋」 )

 ニシンは加工して〆粕にし、本州の菜種、綿花、藍などの肥料として使われた。江戸時代から、北前船によって盛んに運ばれたことが、司馬遼太郎の『菜の花の沖』にも描かれている。

 すっかり収獲量が減った今は、…… 「ニシン蕎麦」が旨い。しかし、何といっても、お正月の一番の御馳走は数の子である。子どものころ、母がよく、「数の子は庶民の食べ物だったのに、今は高級食品になってしまった」と言っていたのを思い出す。 

 番屋の前に設置されているパネルの説明によると、花田家は北海道屈指の鰊漁家だった。番屋の建物は、間口40m、奥行き23m。奥に親方と家族の居住部分があり、最盛期には、漁夫のほか、船大工、鍛冶屋など総勢200人を収容した。戦後、花田家は断絶し、小平町が建物を保存管理してきた、そうだ。

 海沿いの小公園には、幕末・明治の探検家、松浦武四郎の像が建っていた。「北海道」の名付け親である。

    ( 松浦武四郎の像 )

 もう一つ、石碑があった。「三船遭難慰霊の碑」である。

 [ バスガイドの話 ] 1945年8月22日(ポツダム宣言受諾後)、樺太(サハリン)から引き揚げてきた5000人を乗せた3隻の日本船が、番屋の沖の海上で、ソ連潜水艦の攻撃を受けて、1708人が亡くなった。

 石碑は、このことを忘れないよう、遺族らの努力によって、事件から30年後に建てられた、そうだ。

 降伏し、武装放棄した国の民間人をこのように襲う。言葉を失う。

 ソ連は何をしようとしていたのか??

   もし、当時、アメリカ軍という「存在」がなかったとしたら、千島列島だけでなく、最低でも、北海道は、ソ連(ロシア)の領土になっていただろう。アメリカ軍の存在があるから、手を引いたのだ。

 ロシアばかりではないが、その後の70年も、事情は同じだった。

 

        ( 日本海の海 )

         ★

サロベツ原野を経て日本最北の町へ >

 車窓の右手に天塩山地の山並みが見えた。

   ( 天塩山地 ) 

 天塩川を渡ると、サロベツ原野が広がった。

 原野の向こうの青い海に、形の良い利尻山(利尻富士) が浮かんでいる。標高1721m。ここは、「利尻礼文サロベツ国立公園」である。

   ( サロベツ原野と利尻富士 )

バスガイドの話 ] サロベツは、アイヌ語で「アシの生える川」の意。湿地帯で、6月に入ると次々に花が咲く。また、鳥の集団渡来地でもあり、鳥の種類も動物の種類も多い ── そうだ。

  …… 5月の北海道は、まだ季節外れなのだ。「岬めぐり」のツアーは、どうやら観光の閑散期を乗り切るために組まれているのだ。6月に入ると、北海道はやっと寒い時期が終わり、次々と花が咲き、シーズンを迎え、もちろん、「岬めぐの」ツアーは終了し、例えば礼文島にお花畑を見に行くツアーが脚光を浴びたりする。

 それでも、礼文島のお花畑より、岬めぐりに行きたいという、変わり者もいる。

 車窓を、利尻富士がずっと追いかけてくる。もうほとんど日本最北の地である。

     ( 車窓風景:利尻富士)

          ★

最北の町・稚内で >

 バスは稚内(ワッカナイ)の町に入った。今朝、小樽の南にある高原を出発して、ここまで延々と380キロのバスの旅だった。 

     ( 稚内港 )

 [ バスガイドの話 ] 空気が澄んでいれば、サハリンがよく見える。稚内港にはロシアの船も入り、ロシア人が歩く町 ── だそうだ。

 JR稚内駅に隣接する土産店に、バスは寄った。

 小さな駅の、ついに日本の線路がここで終わった、という所に、看板が立っていた。

 「最北端の線路」、「最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。」とあり、最南端が「指宿枕崎線西大山駅」、そして、ここが「宗谷本線稚内駅」と書かれていた。

  

   ( 日本の線路の終わる所 )

  小さな改札口の上に電光掲示があった。「17:46 特急宗谷 札幌行き」。駅員に、札幌には何時に着くのか聞いてみた。「22時57分です」と丁寧に答えてくれた。

          ★

もう一つの岬・野寒布岬へ >

 今夜の宿は、駅前ではないが、駅前旅館の風情である。部屋も狭い。しかし、古い木賃宿にはヨーロッパ旅行で慣れているから、寝られたらよい。

 外は、まだ、十分に明るい。「野寒布岬へ行って、写真撮影して、また旅館まで帰ってくる」ということで、旅館のご主人に、タクシー会社へ電話してもらった。

   タクシーが来るまでの間、宿の主人が話してくれた。

 1983年に公開された映画「南極物語」のロケが、ここ稚内の真冬の野寒布岬近くの丘で行われた。主演の高倉健さんの付き人が来られて、「ロケの期間、この旅館に泊めてほしい」と言う。「見てのとおり、そんな大スターが何日も宿泊されるような立派な旅館ではない」と断った。ところが、「高級旅館は要らない。高倉健はこういう旅館に泊まりたいんだ」と言われて、お泊めした。ロケの期間、ずっと、狭い部屋に寝泊まりされ、この旅館からロケ地に通われた。そういう俳優さんなんですねぇ。

 映画そのものだ。

        ★

 タクシーの話に戻る。

 宗谷海峡に、入り江を挟んで、双耳のように、2つの岬が突き出している。

 日本最北端の岬は、宗谷岬。明朝に行く。

 もう一つの岬が、野寒布岬。バスガイドが言っていた。「ノシャップ岬」。4日目に行く、日本最東端の岬は、「納沙布岬」、「ノサップ岬」だと。

 どんな岬かわからないが、ツアーも行かない、名もない岬だ。だが、せっかく日本の最北端まで遥々とやって来た。この先、もう2度と来ることはないだろう。がっかりするかもしれないが、それでも、日本の最北端の、ナンバー2の岬も見ておきたい。ただ、観光バスで運ばれ、降りて、見学して、またバスに乗るだけの旅はつまらない。どんなに平凡な町でも、岬でも、自分で歩いたら、もっと印象が深くなる。名所、名勝めぐりばかりが、旅ではない。「たーどりー、着いたらー、岬のはーずーれ」というのが、旅らしい旅だ。

 タクシーで20分ほど走って、岬に到着した。港の延長のような半円の場所で、沖へ突き出しているわけではない。風が突風のように吹き、冷たい。

  トン先は小公園になっており、イルカがいた。赤と白の野寒布岬灯台がある。日本の灯台50選の1つ。 

  ( イルカの公園と野寒布岬灯台 )

 この岬からも、海上に利尻富士が見えた。明日、宗谷岬を回りこめば、もう見えなくなるだろう。

 

   (利尻富士が見えた)

 タクシーの運転手は、初老、瘦身。話すと、感じのいい人だ。利尻島に渡る船は稚内港から出るそうだ。スマホで利尻観光の写真をいくつか見せてくれた。

 「いつもなら、サハリンも見えるのですが…」。

 この岬一帯に、季節になると、たくさんのサケがやって来るそうだ。稚魚を放流して、どれくらい帰って来るかを調査している。だから、漁業権などない。誰でも釣っていいそうだ。本州からもやって来る。このあたりの海岸は、竿をもった人で鈴なりになる。

 「竿さえ持ってこられたら、私、一日、お付き合いしますよ」「何匹くらい、釣りますか?」「さあ、シーズン中に百匹以上。大きいですから、手ごたえがあって、楽しいんです。もちろん、夫婦二人では食べきれません。親戚はじめ、いろんな人に、全部上げるんです」。

 サケ釣りなんて、イギリスの紳士の遊びだ。

         ★

 「せっかくですから、『防波堤ドーム』もご案内しましょう」と言って、タクシーを走らせ、稚内港のはずれに連れて行ってくれた。

 タクシーを降りた途端、これは、ヨーロッパを舞台にしたハリウッドのアクション映画のロケ地みたいだ、と思った。ここに誘い出された主人公が銃撃され、犯人を追う。或いは、カーチェイスでもいい。…… ここでカーチェイスは、ちょっと不謹慎かな。

 

    ( 防波堤ドーム )

 戦前、樺太が日本の領土であったころ、稚内駅は終着駅ではなく、線路はここまで延びて、「稚内桟橋駅」があった。ここで列車を降りた乗客は、この波除のドーム状の通路を通って、稚内港まで歩き、樺太行きの汽船に乗船したのだそうだ。

 今は、稚内桟橋駅も、樺太(サハリン)行きの汽船もなくなったが、防波堤としての機能は維持している。

 「映画のロケに使えそうな雰囲気ですね」と言ったら、運転手が、「吉永小百合主演の『北のカナリアたち』のロケが、ここで行われました」と言う。「その期間、会社の指示で、吉永小百合をここまで送迎したのは、私です。あこがれの女優さんでしたから、感激しましたよ。でも、サインを頼んだりしてはいけないと、会社に言われていまして。プロに徹せよと」。

 この運転手さんなら、会社も安心して任せられるだろう。

 ドームのすぐ横の港に、海上保安庁の巡視船が停泊していた。思っていたよりずっと大きい。

 ここは、国境の町である。

   ( 列車の動輪と海上保安庁の巡視船 )

 旅は自分で行動しなければ、発見はない。発見がなければ、感動もない。

 あのまま旅館で風呂に入って、晩飯までゆっくりしたり、外に出て、土産物をあさったりしていたのでは、決して経験できない、いい時間を過ごせた。ありがとう、運転手さん。

 

 

 

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地果てる所・神威岬 … 岬めぐりのバスに乗って (北海道の岬をめぐる旅 ) 2

2017年05月31日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

 宗谷岬は、晴れた日にはくっきりとサハリンが見えるという。隣の大国が意識される岬である。

 納沙布(ノサップ)岬の沖には、本来、日本の領土である島々が続く。

 それらと比べ、積丹半島の神威(カムイ)岬は、地果てる所という感じがする。その地形というか、たたずまいが、そういう感慨をもたらす。「カムイ」は、アイヌ語で「神」のこと。神の岬である。

     ★    ★    ★ 

< 第1日 (5/11) 積丹半島・神威岬へ >

 11時過ぎ、新千歳空港に着く。

 今日の昼食は各自で用意せよということなので、空港の売店で弁当を買って、観光バスに乗り込んだ。

 ほぼ満席で36人。今回のツアーの参加者である。それに添乗員の明るいお兄さんと、なかなかの美人の中年のバスガイド、無口でかっこいい運転手。

 北海道の風光明媚な名勝をめぐり、海の幸や、乳製品を土産に買い、カニを食べて秘湯に入るという、よくあるツアーではない。5日間もかけて、広大な北海道の岬から岬を巡ろうというツアーである。ほとんどがバスの中で、岬以外には何もない。それでも、これだけの参加者がある。もちろん、その多くは、それなりの年恰好の人たちである。それぞれどういう思いで参加されたのだろう?

         ★ 

 バスは空港からすぐに「札幌自動車道」に入り、やがて、左手に広々とした札幌の街並みを眺め、高速道路の終点の小樽で、国道229号線に降りた。

 見覚えのあるガラス工芸品店や小樽運河の横を、今日は車窓に眺めるだけで、素通りして行く。

 5月の北海道は、やっと春が訪れたという季節だ。

 ピンク色の山桜が車窓を流れていく。シラカバ、ダケカンバはすっかり芽吹いて、やわらかな緑が目に心地よい。だが、多くの樹木は、まだ冬枯れの黒っぽい枝のままである。所々の土のくぼみに、残雪が残っていたりする。

 余市の街に入り、トイレ休憩。

[ バスガイドの話 ] 余市町は、会津藩が開拓した町。… 1934年(昭和9年)には、ニッカウヰスキーの工場が創業した。

 かつてはおじさんたちの社員旅行が立ち寄る町だった。それが、NHKの朝ドラ「マッサン」の舞台になって以来、女性や家族づれの観光客がやって来る町に一変した。ニッカウヰスキー余市蒸留所は、「行って良かった工場見学、社会見学」の全国第1位 になった、そうだ。

 バスが、ニッカウヰスキーの工場群の横を通った。赤煉瓦の美しい建物が並び、オシャレだった。これからの日本は、地方の町や村が、生き生きと、それぞれに個性を発揮して、輝かねばならない時代だ。頑張って

 余市の街並みを過ぎると、バスは海岸線を走るようになる。

[ バスガイドの話 ] 北海道と言えば、ホッケ。そのホッケが獲れず、高級魚になった。タラも、イカも獲れない。ホタテ貝も昨年の台風で大きな被害を受けた。マグロが獲れる。だが、北海道では、マグロを売りさばくノウハウがない。市場ができていない。台風の影響と、遠因は地球温暖化…。

 … そればかりではないだろうと思う。太平洋一人ぼっちの有名なヨットマンが言っていたそうだ。昔は、日本の港を出てからサンフランシスコに着くまで、ほとんど一人ぼっちだった。今は、驚いたことに、日付変更線のあたりの真っ暗な海に、中国の巨大な漁船がずらっと並んで、煌々と明かりを灯して魚を獲っている … まるで根こそぎさらっている感じで、恐ろしい光景だと。

 残念ながら、小雨が降り、海は鉛色で、半島も、岬も、小島も、岩礁も、霞んでいる。

[ バスガイドの話 ] 積丹半島には、入り江を挟んで、2つの岬がある。積丹岬と神威岬。向こうに霞んで見えるのが、積丹岬。

 …… などと聞くと、積丹岬にも行ってみたくなる。

 やがて、神威岬のパーキングに着いた。季節外れのせいか、トイレ以外は何もない原っぱだ。

     ★   ★   ★

小雨の中、神威岬の先端まで歩く >

 (斜めに登った先に「女人禁制の門」が見える)

 [ バスガイドの話 ] 2時間ものサスペンスドラマのように、自分の罪を思わず全部告白してしまいたくなるようなステキな岬です(笑い)。ただし、岬の先端まで、写真撮影などせず、どんどん歩いても片道20分。語らいながらゆっくり歩いたら、30分かかります。かなりの登り下りがあって、足元が悪く、風の強い日は入山禁止になる道です。先端まで行かれるという方も、決して無理をしないで、十分注意して、集合時間に遅れないよう、帰りの時間を計算しながら、歩いてください。

 ここでの自由見学時間は50分。だが、旅に出る前に、ネットで写真を見て、5つの岬のなかでも、一番岬らしい風情のある岬だと思ったから、何とか先端まで行ってみたかった。5日間の行程で、体力を必要とするのは、ここだけだ。

 それで、気を付けながらも、役の行者か烏天狗のように、進んだ。

 少し雨に濡れ、それ以上に登りで汗をかき、下りで左膝に痛みを感じ、何回か写真撮影し、40分で往復した。

 ちょっと堪えたが、一行のなかで先端まで行った人は数少ないようだから、年齢を考えれば、これぐらいのダメージは仕方ない。

          ★

   ( 女人禁制の門 ) 

 「江刺追分」のながーい歌詞に、こんな一節がある。

 「松前江差の津花の浜で / 好いた同志の泣き別れ / 連れて行く気は山々なれど / 女通さぬ場所がある」。… 「蝦夷地海路のお神威さまは / なぜに女の足止める」。

 「波の上飛ぶカモメを眺め / 目には思わずひとしずく / 翼あるならあの山越えて / 飛んで行きたい主のそば」。「音に名高いお神威さまは / なぜに女の足とめた」。「出船入り船数あるなかに / わしの待つ船ただ一つ」。

   このツアーは、明日、一路、日本海の海岸線を北上し、稚内・宗谷岬へ向かう。だが、国防の観点から1855年、幕府直轄地になるまでは、海路であろうと陸路であろうと、宗谷岬方面へ向けて、積丹半島・神威岬より北へ、女性を連れて行くことはかたく禁じられていたのである。

 「音に名高いお神威さまは / なぜに女の足とめた」。… 止めたのは、「お神威さま」、ということになっている。(実際は、和人の経済的進出をいやがった松前藩ではないかと言われる)。

 伝説がある。義経伝説である。東北北部でも、北海道でも、… 奥州平泉で炎のなかで自害して果てた義経は、影武者なのである。義経は落ち延びて、大陸に渡る。

 去年、「本州最北端の旅」に行った。日本海側から龍飛岬に出て、車で東海岸に差し掛かったとき、三厩(ミンマヤ)という所があった。ここに伝説が残り、高台には義経寺まであった。

 北海道に落ち延びようとした義経主従は、津軽海峡を前にして途方に暮れ、3晩、観音に祈ったところ、3頭の龍馬を与えられ、無事海峡を渡ったという。(参考 : 「本州最北端の旅(4)…「龍飛岬で『津軽海峡冬景色』を歌う」)。

 その続編のような伝説が、ここ北海道に残っている。 

[ バスガイドの話 ] 義経は日高の平取という集落にたどり着く。平取は新千歳空港の東方にある津軽海峡に近い里だ。この村で義経は傷の手当をし、疲れを癒やした。そのアイヌの村の首長の娘チャレンカが義経に恋をする。

 しかし、兄、頼朝の手は執拗に蝦夷地にも伸びてくる。義経は秘かに平取を抜け出し、西へ西へと走る。

 気づいたチヤレンカは義経の後を追った。積丹半島にたどり着き、さらに西へと神威岬の先端まで追って行くが、義経らを乗せた船は、すでに海上遥かに、点のようにしか見えなかった。

 悲しみのあまり、チヤレンカは、海に身を投じて、自ら命を絶ってしまった。海に身を投じるとき、「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐれば、すなわち覆沈せん」という恨みの言葉を残した。 

 神威岬の沖合に、今も岩が屹立する。チヤレンカの悲しみが形になり、この岩になったという。神威岩という。

 以来、神威岬周辺で女性を乗せた船が通り過ぎようとすると、必ず転覆し、そのため、これより北は女人禁制の地になった、という。

 現在でも、神威岬は潮流が速く、岩礁が多く、海難事故の多い場所である。

          ★

 「女人禁制の門」をくぐると、前方に視界が広がり、岬の尾根を縫うようにして、遥かに小道が続いていた。

 「チヤレンカの小道」と名付けられている。

 はるばると、遥かに続く尾根の道。この遥けさが、いかにも地の果ての岬という感じを起こさせるのだろう。

 昔は、もっと荒々しい道で、荒磯まで降り下ったり、そこからまたよじ登ったり、したらしい。

          ( チャレンカの小道 )

 この積丹半島の海は透明度が高く、「積丹ブルー」と言われるそうだ。あいにくの天気だったが、それでも、片鱗は感じられた。

        ( 積丹ブルーの海 )

 岬の先端近く、灯台が見えた。

 JAFの選んだ「灯台のある岬50景」の一つ。

  ( 神威岬灯台 ) 

 灯台の前に説明のパネルがある。

 この灯台ができたのは明治21年(1888年)。

 職員3名が勤務し、余別の集落からここまて片道4㌔の難路を歩かねばならなかった。水は天水を貯め、ランプを灯し、米、味噌、醤油などは備え付けの木船で買い出しに行った。

 大正元年(1912年)、食料を買い出しに行った灯台長の妻、3歳の次男、補助員の女性の3名が、波にさらわれて死亡した。これに心を痛めた村人たちが、ハンマーやタガネで、7年もかけて、遭難個所を迂回するトンネルを掘り抜いた。

 昭和35年(1960年)に無人化になるまで、職員90人とその家族により、この灯台は守られてきた、と書いてあった。

 昔、灯台守の夫婦の半生を描いた『喜びも悲しみも幾年月』という映画があった(1957年作)。主演・佐田啓二(中井貴一の父)と高峰秀子。監督は名監督といわれた木下恵介。公務員として、11の灯台を異動している。「名もなく、貧しく、美しく」という、かつての日本人の一つの典型が描かれていた。

 「貧しくても、美しい」ということが、美徳かどうかは、わからない。だが、そのころから、日本は高度経済成長、そしてバブルへと時代は進み、人々も、都市も、田園も、日本中がギラギラとして、金持ちになり、心が荒廃した。

 戦後の70年だけでも、日本はいろんな経験をしてきた。

          ★

  灯台のすぐ先が、神威岬の先端の展望台だった。駐車場から20分。距離は770m。

   ここまで延々と伸びてきた尾根が、そのまま一気に海へ落ち込んでいるという感じだ。

 300度の展望があるが、あいにくのお天気である。

               ( 神威岬 )

 それでも、積丹ブルーの海に、神威岩が立っているのが、見えた。

 積丹半島の尾根の続きが、なお、海中に残る。神の岩である。

   ( 神威岩 )

          ★

 その夜は、余市のキロロというリゾートホテルに泊まった。以前、泊まったことがあるような既視感があった。

 

 

 

 

 

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岬めぐりのバスに乗って ( 北海道の岬をめぐる旅 ) 1

2017年05月24日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

< 青春のフォークソング ── 「岬めぐり」 >

 1970年代はフォークソングの時代だった。歌うのは苦手で、聞くともなしに聞いていたが、心に響き、いつまでも耳に残っている曲もある。そんな一つが、「岬めぐり」である。

 今は、たいていのことはネットで調べられる。歌は昭和49年 (1974年) の作品で、作詞は山上路夫、作曲と歌は山本コータローとあった。

あなたがいつか/話してくれた

岬をぼくは/たずねて来た

ふたりで行くと/約束したが

今ではそれも/かなわないこと

岬めぐりの/バスは走る

窓にひろがる/青い海よ

悲しみ深く/胸にしずめたら

この旅を終えて/街に帰ろう

 田舎のバスに乗って、漁村や、入り浜や、漁港や、岬を、とことこ走っていく … そんな軽やかなリズムで歌われる青春の歌である。

         ★        ★   ★

北海道の岬をめぐる旅 >

 2016年5月、「本州最北端の旅」で龍飛岬や大間崎をたずね、秋には「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」で、ロカ岬やサン・ヴィセンテ岬に立った。

 そうすると、西の山際にかかる三日月のように、心の隅にかかっていたイメージが、しだいに大きくなってきた。

 (北方領土は別にして) 日本の最北端・最東端の岬をめぐる北海道の旅は、実現しがたいがゆえに、あこがれであった。

 実現しがたいと思うのは、自分で車を運転し、何日も何週間もかけて、岬をめぐって行く旅であるから。

 「たどり着いたら岬のはずれ … 」 (「北の岬」石原裕次郎)。 「たどり着いたら」というのは、なかなか良い言葉だ。当てのない旅である。放浪の末に、岬のはずれに来ていたのである。

 リタイアして、日々自足。時間は十分にある。だが、残念ながら、最近、長時間のドライブに自信がない。腕はまだ確かなのだが、車を長時間、運転していると、眠くなる。旅に出て、枕が変わって、夜、眠れないまま、翌日、北海道の単調な道路を長時間運転することに不安がある。

 そういうとき、「北海道五大岬めぐり・5日間」というツアーを見つけた。

 思い切って、このツアーに参加することにした。

        ★

  

 送られてきた日程表は、次のようになっていた。

[第1日目 ] (走行距離240㌔)

 伊丹空港→新千歳空港 

 →積丹 (シャコタン) 半島・神威 (カムイ) 岬→赤井川

[第2日目 ] (走行距離390㌔)

 →サロベツ原野→稚内

[第3日目 ] (走行距離405㌔)

   →宗谷岬→サロマ湖→知床ウトロ

[第4日目 ] (走行距離410㌔)

   →知床一湖→野付半島→納沙布 (ノサップ) 岬霧多布 (キリタップ) 岬→釧路

[第5日目 ] (走行距離375㌔)

   →えりも岬→新千歳空港→伊丹空港

 全走行距離 1820㌔ の遥かなる旅である。

 自分が運転しないだけに、この行程を運転するドライバーの大変さを思った。いくら仕事とはいえ、たった一人でこの距離を運転するドライバーに、バス会社は、それに見合うだけの給料を出してほしいものだ。

 それにしても、旅というものの半分は、青春のやり直しかもしれない。そう思いながら、飛行機に乗った。

        ★

「岬めぐり」の歌詞について > 

 ネットで「岬めぐり」の歌詞を調べたとき、歌詞の解釈をめぐって若干の議論があることを知った。

 「古い曲のことですみません。 『岬めぐり』 で 『あなた』 と呼ばれている人ですが、亡くなったという設定なのだと思い込んでいました。友人に何気なく話したら、 『ちがう。フラれたの』 と、にべもない。理由は 『曲が明るい』 というのですが、何人にもこう言われて自信がなくなりました。それなら、『悲しみ深く海に沈めて』 という表現が、妙に大げさな気がします」 という投稿があり、次の投稿がベストアンサーに選ばれていた。

 「『ふたりで行くと/約束したが/今ではそれも/かなわないこと』 ですから、『あなた』 は亡くなったと考えるのが普通じゃないでしょうか。失恋の場合だと、『約束したのに…今は一人で…』 という感じになると思います。2番の 「幸せそうな/人々たちと/岬を回る/ひとりでぼくは」 というのも、失恋だと、仲の良いカップルを見る気にはならないでしょう。『あなたをもっと/愛したかった』 とか、『ぼくはどうして/生きてゆこう』 というのも、失恋じゃ、女々しすぎますよ」。  

 失恋の喪失感を抱えて岬めぐりの旅をしているのか、相思相愛の若いカップルの相手が不治の病の結果、亡くなってしまって、その喪失感のゆえに旅に出たのか。人それぞれに、自分の思いの中で受け止めて歌えばよいのであろう。

 ただ、いくつか反論を試みると、

 あえて反論したくなったのは、ベストアンサー氏が、「『 ぼくはどうして/生きていこう』 というのは、失恋じゃ、女々しすぎますよ」 と書いていたから。

 私に言わせれば、青春とは、傷つきやすく、女々しく、あとで振り返れば、みっともないものなのです。そう、半年か、1年もたてば、立ち直れるにもかかわらず、です。青春とはそういうもので、感受性が豊かなのです。それを 「女々しすぎる」 というのは、すでに「おっちゃん」 「おばちゃん」になってしまった人の感想だと思いますね。 (私は、ベストアンサー氏よりも年上だと思いますが)。

 逆に、愛する女性が亡くなった喪失感から旅に出たとして、そういう悲痛極まりない旅で、「悲しみ深く/胸にしずめたら/この旅を終えて/街に帰ろう」 となりますかねえ。そんなに簡単に、「旅を終え」ること、「街」に帰ることを、歌いますかねえ。もっと切々と悲しみが歌われ、旅を終える歌詞など登場しないのではないでしょうか。

 なお、質問者が、「それなら (失恋の場合なら)、『悲しみ深く/海に沈めて』 という表現が、妙に大げさな気がします」と書いていますが、正しい歌詞は「悲しみ深く/胸にしずめたら」です。もちろん、散骨の旅などではありません。

 ベストアンサー氏も、読み違えをしています。このバスは、ローカルな路線バスです。田舎の路線バスです。ですから、「幸せそうな/人々たちと/岬を回る/ひとりでぼくは」 の 「幸せそうな/人々たち」 とは、ベストアンサー氏が言うような、都会からやって来た何組もの「カップルではありません。地元のおばちゃんや、もしかしたら親子連れ、地元の高校生たちであって、日常性のなかにいる人たちです。旅をしている、しかも失恋の旅をしている 「ぼく」 は、今、一人、非日常の世界にいるのです。

 最後に、私の主観的なイメージを書きます。

 「きみ」 ではなく、「あなた」 と言っているのは、高校時代、大学時代を通じて上級生であった「あこがれの人」であったかもしれないと、私は想像します。今の人は、女性に「かわゆさ」 を求めますが、「あなた」 は、多分、知性や教養や気品のある年上の女性です。そして、「ぼく」 から見ても、彼女にふさわしいと思える、「大人の」男性と相思相愛になったのだろうと想像します。

 ですから、今は、敗北を自らに認め、彼女の幸せを祝い、一人で、悲しみを克服して、また「街」 (日常性) に帰らないといけないのです。

 青春とは、そういうものです。

 そういう青春の愛おしい一コマと考えたら、歌の軽やかさも、明るさも、理解できると思います。 

 ただし、「亡くなった」説を否定しているわけではありません。少なくとも、そういう悲痛な経験をもって旅に出た人にとって、この歌の明るさ、軽やかさは、かえって口ずさみやすいかもしれません。自分のつらさとは少々異質の歌の方が、口ずさみやすいと思います。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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