ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

スポーツ界の新しい指導者‥‥村上恭和

2013年04月25日 | 随想…スポーツ

 「ドナウ川の白い雲」 も 61号になりました。このところ途絶えがちですが、まだまだがんばりますので、よろしくお願いします。

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 BS・NHK・日曜日放映『為末大が読み解く! 勝利へのセオリー』が、面白い。

 先日は、「静かなる知将」のサブタイトルで、卓球女子の全日本監督、村上恭和 にインタビュー。

 卓球女子は、ロンドンオリンピックで団体銀メダルを獲得した。福原愛、石川佳純、平野早矢香が輝いていた。

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 「どの国の代表チームにも勝てるチームを目指す、とか、バランスの取れた成長をしよう、とか、そういうのは、実は、『戦略の欠如』なんです」。

 「ロンドンオリンピックの前、日本は、世界の中でランキング5位でした。中国は圧倒的に強い。2位はシンガポール。 メダルを取るため、3位の韓国に的を絞りました」。

 「韓国は、カットのチームです。韓国の粘り強いカット打ちに、日本はずっとやられてきました。 日本の選手は、カット打ちに弱い。それで、カット打ちの選手を集めて練習相手にし、徹底的に練習しました」。

 「やがて、国際大会で、カット打ちの選手に競り勝てるようになりました。オリンピックで韓国とは当たりませんでしたけどね」。

 選手たちが練習している間の村上監督を、カメラが追う。

 村上監督は、いつも、竿のついた網をもって、卓球台の間をうろうろと歩き回り、床に転がっているピンポン玉をひたすら集める。「ピンポン玉が床に転がっていたら、危ないですからね」「それに、こうやって監督がうろうろしていたら、選手は緊張して練習するでしょう」。

 どう見ても、風采が上がらない。 田舎の朴訥なおじさん。

 ‥‥ 為末が聞く。「監督は、練習中、選手に指示を出したり、注意したりしないんですか?」

 「私は基本方針を出すだけです。個々の選手の所属チームのコーチを参加させているので、彼らが必要な指示や注意はします」。

 「私は、『考えるのは、監督』── では、ダメ だと考えています。少なくとも 卓球では、選手自身が自分の頭で考え、自分で行動しなければいけない。そういうスポーツだと思っています」。

 「今日一日の練習で何をするかも、今日は練習するか、それとも一日、買い物や洗濯の時間に当てるかも、全て選手が決めています」。

 「ここに来ている選手は、日本のトップの選手です。 卓球を極めたいと思って、参加しているのです。そういう選手に、ああせよ、こうせよと言えませんよ」。

 「試合の極点で、いつも、『 監督!指示 ( 命令 ) してください』 というような選手は、絶対に勝てません」。

 「選手は、ぎりぎりのところでアドバイスを求めてくる。 私は、アドバイスを出す。それは、あくまで参考意見です。それを採用するかどうか、それは選手自身です」。

 平野早矢香曰く、「村上監督は、選手たちが最高にやりやすい環境を作ってくれます。例えば、私たちの練習相手にカット打ちの選手を集めてくれたり、強い中国選手を呼んでくれたり‥‥」。

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 「バランスよく成長しようというのは、戦略がないのと同じだ 」。

 「『考えるのは、監督 』では、ダメなんです 」。

 「ここに来ているのは、卓球を極めたいという選手たちだ。そういう選手に、ああせよ、こうせよと、言えない」。 

  「試合のぎりぎりの場面で、『 監督、命令してください 』というような選手は、勝てない。監督の言うことは参考意見。決めるのはあくまで選手自身だ 」。

  「選手たちがやりやすい環境と条件を整えてくれる監督です 」。

 

…… 全日本女子柔道の監督・コーチは、多種目の優れた監督・コーチの話を聞きに行くべきだ、と思った。

 

 

 

 

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読書の楽しさ ・ 知る楽しさ

2013年04月11日 | 随想…読書

 

   ( 西行が愛した清楚な山桜 )

   この世界のことについて、知らないことばかりである。

 こと細かな知識のことではない。ざくっと、そのことの本質が分かっていればよしとする。そういう知識のことであるが、それが、貧しい。

 だから、本を読んでいて楽しいと感じるのは、知的発見があったときである。 「無知」 が 「知」になる読書は、わくわくする。

   「無知」を「知」にしようと思って本を読むわけではない。楽しみを求めて読むのだが、読んでいてわくわくするのは、眼前に新しい世界が開かれた、と感じるときである。

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 荒唐無稽、奇想天外、刺激過多、お涙頂戴のエンターテイメント小説などは、下りの山道を歩いている眼には、ウソウソしい。

 世界は、それ自体、十分に美しいのだから。

 或いはまた、本屋に山積みされている上野千鶴子だとか、五木寛之だとか、斉藤孝だとかいう売れっ子の人生論めいた本も、最初の一冊は優れていたのかもしれないが、「柳の下」をねらって矢継ぎ早に次々書かせるものだから、文章も雑で、底が浅く、何でこの程度のものにカネを出さねばならないのかと思ってしまう。

 読んでも、何の発見もない。

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 一方、若い女性作家、三浦しをんの『舟を編む』(光文社)は、出版界で脚光を浴びること少ない辞書づくりという仕事に天職を見出し、長い歳月をかけ、情熱を傾けて辞書を作っていく主人公たちを描いていて、身近な辞書がこのようにして作られるのかと興味深く、心温かい主人公たちに思わずエールを送りたくなった。 

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   司馬遼太郎の作品、対談集、講演集のほとんどを読んだが、そのいずれにも、大いにわくわくさせられた。私は、司馬さんの造詣の深さに感動させられる対談集、講演集がより好きだ。

 小説でも、一例であるが、北条早雲を主人公にした『箱根の坂』は、守護大名の時代の中から、何故戦国大名という新しいリーダーが生まれてきたのかということが、時代のダイナミックな動きとともに生き生きと描かれている。

  「戦国時代」という日本史上の新時代と、「戦国大名」 の歴史的意味を教えられる。

 知るとは、その意味を知ることなのだ。

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 事実を羅列しただけの歴史教科書でしか歴史を学んでいない高校生は、例えば戦国時代という時代についても、自ずから現代に引き付けて、 現代日本の「平和」の観念の対極にある恐ろしい 「戦国」をイメージしてしまう。

 こうして歴史を学んでいくうちに、日本人は何と暗い歴史を歩いて来たのだろう‥‥となる。 日本の歴史を学んで、そういう感想しかもてなかったとしたら、悲しいことだ。

 かと言って、あの大河ドラマに描かれた主人公たち、渡辺謙や阿部寛のような現代的でかっこいい戦国大名像を思い描くのも、やはり妙である。

 塩野七生は、「私は日本人としてローマを書いているのではなく、古代のローマ人になって、古代のローマを書いているのである」(『想いの軌跡』新潮社) と言っているが、歴史とはそういうものであろう。

 平賀源内がエレキの実験をしました、と高校生が学んでも、「ふーん」で終わる。電気もない時代に生きた江戸時代の人々はお気の毒でした、ということだ。

 そうではなく、その時代のなかに入っていって、平賀源内の好奇心や探究心や実験精神を生き生きと感じ取ってこそ、初めて歴史の事実を学んだということになるのではなかろうか。江戸時代とは、こういう人物を生み出す時代でもあった、と知ってこそ、歴史との出会いである。

 鹿児島の知覧から、小さな特攻機に乗り込んで飛び立ち、上空から父母や弟妹たちの幸あらんことを祈り、 祖国の大地に別れを告げ、 沖縄の海に向かって飛んで行った若者たち。彼らと同じ時代状況の中に入り、同じ苦悩を感じ、それでも飛び立って行った心情を感じ取ってこそ、歴史がわかったと言えるのであり、 平和の意味も深く理解できるようになるのである。

 歴史は事実の羅列ではなく、物語りである。

 そして、知るとは、その意味がわかる、ということである。

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   (丘の上の大きな木)

 仕事の上でも、何かについて、「無知 」を「知」にする必要が生じることがしばしばあった。無精者にとって、調べるという行動を起こすのがなかなか面倒くさい。そこが、趣味で気楽に読む読書との違いで、いやでもやらねばならない。

 それでも、調べて、なるほどと腑に落ちたときは、うれしい。

 分からなかったことが分かるようになるのは、何歳になってもうれしいものだ。 分かれば、人に教えたくもなる。

   組織を運営する立場になったとき、「経営」 ということについて、その理念や方法の基本をそれなりに知りたくなって、本を読んだ。

 読んだなかで、一番、心を動かされたのがP,F,ドラッガーだった。そのドラッガーの中でも一番分かりやすく、味わいがあったのは、その箴言集であった。

 『ドラッガー名言集 仕事の哲学』 (ダイヤモンド社)

 『ドラッガー名言集 経営の哲学』 ( 同上 )

 『ドラッカー名言集 歴史の哲学』 ( 同上 ) 

 『ドラッガーの遺言』 ( 講談社 )

 ドラッカーやその亜流学の、こまごまとした精緻な方法論を真似する気はなかったから、箴言集は最適であった。この4冊は、その任にあった間、座右の書として、日々味わい、そこから知恵を得、考えを深め、我慢してじっと待たねばならないときには待つ勇気をもらった。

 企業だけでなく、役所でも、病院でも、学校でも、クラスや部活動でも、ボランティア組織でさえも、そこで活動する人々が輝き、躍動するには、マネージメントが必要であること、そのマネージメントには、「権力」や「カリスマ」や体罰などは全く必要ない、ということを学んだ。

 司馬遼太郎を知ったことも、ドラッカーを知ったことも、自分の人生において、一つの出会いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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散歩道3 … 信貴山

2013年04月01日 | 随想…散歩道

 信貴山の本堂は舞台造り。毘沙門天を祀る。舞台からは、遥かに大和盆地が見渡せる。

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 寅年の元日は、信貴山へ続く道路が朝から大渋滞になる。

 タイガースファンが、タイガースの優勝祈願の初詣のために信貴山へ参詣する。タイガースの選手たちもやってくるらしい。

 それにしても、なぜ、信貴山は、トラなのか?

 言い伝えによると、6世紀、古くからの勢力・物部氏と、新興の蘇我氏の対立が沸点に達した。蘇我氏に味方した若き日の聖徳太子は、大阪の河内に陣を敷く物部守屋を攻めるため、軍を率いて斑鳩から進撃し、この山で戦勝祈願した。

 すると、天空に、虎を供にした毘沙門天が現れ、必勝の秘法を太子に授けたという。太子はこの武神の加護によって、守屋との戦いに勝利した。

 戦いののち、太子は自ら毘沙門像を彫って祀り、「信ずべし,貴ぶべき山」として、この山を信貴山と名付けた。

 その毘沙門天が虎を従えて太子の前に顕現したのも、寅の年、寅の日、寅の刻であったという。  

  (参道の途中にある武装した聖徳太子像)

        ★

 戦後、高野山真言宗から独立し、信貴山真言宗の総本山となる。正しい名称は、信貴山寺、或いは、朝護孫子寺。

 密教や修験道の影響が濃い。お正月に参詣すると、修験道の装いの修行僧が鉦を激しくうち鳴らし、焚火に護摩を焚き、全山に響くような大音声で祈祷し、まことに勇壮にしてかつ呪術的である。

 信貴山の中腹のパーキングに車を置いて、石の鳥居をくぐる。

 本堂までの途中、石灯籠や塔やいくつものお堂や宿坊の前を通って行く。 宿坊では、民間の研修などもできる。郵便ポストもある。

  

クリック 

(参道のポスト)

 上へ上へと坂道の参道を歩いていけば、自然に本堂に着く。寄り道しなければ、パーキングから、徒歩約20分。

  ( 本道への階段 )

 クリック 

(本道の前の舞台)

  本堂の本尊は毘沙門天。毘沙門天は別名、多聞天。仏法を守る四天王の一。日本では、鎧を着た武神ということになっている。

 有名なのは上杉謙信。自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていたという。 旗印に「毘」を用いた。

        ( 舞台からの眺望 )

        ★

 ここから、信貴山雄嶽の頂上にある空鉢護法堂へ向かう。

 信貴山が人々の信仰を集めだしたのは平安時代、醍醐天皇のころからで、中興開山をしたのは命蓮上人という高僧。

 その命蓮上人の伝説がある。けちん坊の長者を懲らしめるため、上人が自分の托鉢を空に投げると、何と鉢は長者の蔵を乗せて持ってきた。蔵を召し上げられて涙を流す長者に、上人は、もっと慈悲の心を持つようにと諭したという。

 その後、上人は、竜王を祀る空鉢護法堂を建てた。

 この話が12世紀に絵巻物になった。「信貴山縁起絵巻」。信貴山の国宝である。

 山頂の空鉢護法堂には水がないので、手水舎で缶に一杯の水を汲んで、持って登る。ささやかなご奉仕である。

 ( 鳥居の連なる空鉢護法堂への急坂 )

 かなりの急坂で、信貴山に参詣しても、ここまで上がろうという人は少ない。よほどの願いのある人だ。

 途中、朱の鳥居をいくつもくぐり、いくつもの小さな祠の横を通り過ぎていく。空気が神秘的になり、神や仏の気配になっていく。

 ( あちこちに祠 ) 

 標高433m、信貴山雄嶽の頂上にある空鉢護法堂のすぐ手前に、信貴山城跡がある。

 1577年、松永久秀が織田信長に背き、50日間の篭城の末、落城した。

 空鉢護法堂に祀られている竜王は、庶民からの信望のあつい「一願成就」の霊験あらたかな神様。ただし、願い事は、一つだけ。

      ( 空鉢護法堂 )

 ここは山頂だから、天気さえ良ければ、金剛、葛城、二上の連山が見える。大和三山の方も見えるが、三山は遠すぎて識別できない。

 本堂からここまで20分。帰りは下りなので、駐車場から往復して約1時間の散歩である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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