ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

きょろきょろウォーク ─ 大阪中之島のこと

2024年02月11日 | 随想…散歩道

  (大川をゆく遊覧船)

 明けましておめでとうございます

 2024年も、よろしくお願いいたします

 …… もう2月でした

  ★   ★   ★

<大阪ウォーキング>

 大阪の中之島は、私のウォーキングコースの一つ。

 現役で働いていた頃、大阪の街並みには関心がなかった。京都や奈良や、いっそ遠く信州の山や高原へ出かけた。冬はスキーとか。

 しかし、仕事をリタイアした今、例えばカルチャーセンターの講義を聴くために大阪に出たとき、「勉強」の後は大阪の街をウォーキングする。

 古寺、古社が多く、自然も残るわが大和国を歩くのもいいが、高層ビルが建ち並び、多くの人々が忙しそうに行き交う都会の街を、キョロキョロとあれやこれやに興味をもちながら歩くのは、脳の活性化に良いそうだ。

      ★

<大川から中之島へ>

 毛馬洗堰(ケマ アライゼキ)で淀川の本流から分かれた大川は、南流して、大阪城の手前で大きく西へカーブする。

 そこまでの間、大川の両岸は「毛馬(ケマ)桜ノ宮公園」と名付けられ、春は桜の名所の一つ。

 もとは、この大川が、淀川の本流だったそうだ。

 地形上、大川は上町台地の北端(そこに大阪城がある) にぶつかって向きを西へ変え、まもなく天満橋の下をくぐる。

 橋をくぐると、すぐに中之島の東端にぶつかり、流れは二つに分かれる。

大阪中之島の東端

  (大阪中之島の東端)

 川は名を変え、島の北側を流れるのが堂島川、南側を流れるのが土佐堀川である。

 こういうことは小学生のときに学習する事柄かもしれない。だが、他郷で生まれ育った人間には、「あれが淀川、こちらが〇川と△川」などと耳にしても、どうも頭に残らない。全部、淀川になってしまう。子どもの頃に勉強し、しっかり身に付けることは大切なのだ。

      ★

<中之島の遊歩道>

 堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島の島の幅(南北)は、広い所でも300mほどしかない。しかし、長さ(東から西へ)は約3キロもある。

 パリの発祥の地・シテ島の長さは1キロ程度だから、サン・ルイ島と合わせても、大阪中之島にはとても及ばない。川中島としては、なかなか堂々たる島なのだ。

 シテ島がパリの要であるように、中之島は日本第二の大都市である大阪市の中心に位置し、大阪市役所も、中央公会堂も、美術館も、児童文学館も、フェスティバルホールも、明治の建築である日銀の大阪支店も、薔薇公園も、高級感あるホテルやレストランもあって、並木の遊歩道がずっと続いている。

 (中之島の遊歩道)

 大阪の街は縦(南北)に長い。その街に、2本の川と中之島が横に3キロに渡って横たわっている。

 それで、中之島と2本の川の上を、御堂筋をはじめ主なものだけでも7本の道路が縦(南北)に走り、14の大橋が架かっている。さらにやや小型の橋や人間しか渡れない小橋などもあって、ずっと遅れて敷設された高速道路の橋以外は、一つ一つに大正、昭和の趣がある。

 さて、東端から西端までの3キロの遊歩道を、一気に散策しながら歩くのはちょっとしんどい。どちらから歩くにしろ、地下鉄の駅から歩き、さらにまた地下鉄の駅まで歩かねばならないから、3キロにプラスαである。

 東端の最寄り駅は「天満橋」(地下鉄の谷町線)で、西端は「阿波座」(千日前線)である。

 真ん中あたりに「淀屋橋」(御堂筋線)或いは「肥後橋」(四つ橋線)があり、このいずれかを一方の起点にして、二つに分けて歩くと、ほどよい距離になる。

      ★

<渡辺の津> 

 東端の天満橋の下流辺りは、昔、渡辺の津と呼ばれた水運の要衝で、渡辺党という一族が支配し栄えていたらしい。もともとこの流れが淀川の本流だった。そういう説明が川岸に設置されたプレートに書かれている。

 それで思い出した。渡辺党の祖には、平安時代、大江山で鬼退治をした清和源氏の頭領・源頼光の四天王の一人、渡辺綱がいた。

 源頼光の四天王には、もう一人、有名人がいる。坂田の金時。少年時代、足柄山で熊と相撲をとって投げ飛ばしたという伝説の持ち主である。

 渡辺綱にも、大江山の活躍以外に、伝説が伝わる。

 夜、平安京の暗い大路を (当時は、月明り、星明り以外は、まことに真っ暗闇だった) 騎馬で行っていたとき、「渡辺の綱!!」という大音声とともに、いきなり巨大な手が空から伸びてきて、綱の後ろ襟をつかんだ。綱はとっさに太刀を抜いて、背後を斬り払った。

 翌日、大路に巨大な腕が転がっていたという。

 子どもの頃に少年読み物で読んだ話が、このウォーキングコースと結びついた。

 この辺りにはカフェ・テラスがあり、水際の風景を楽しみながら、ちょっと一杯もできる。いい気分だ

 (カフェのテラス席から)

      ★

<中之島の中央公会堂> 

 クラッシックな造りの淀屋橋の上流に、赤レンガ造りの中央公会堂がある。今は国の重要文化財に指定されている。近くには、これも年代物の中之島図書館もあり、ちょっと新しい市庁舎もある。

 この公会堂は大正時代に、一人の実業家の寄付で建設された。     

 (大阪市中央公会堂)

 私がまだ若かった頃はスクラップ・アンド・ビルド、大量生産・大量消費の高度経済成長の時代で、この中央公会堂もスクラップして、新しく鉄筋コンクリートの効率的なビルを建設しようという動きがあった。そういう動きは巨大で、うねりのようであった。

 詳しいことは知らないが、このとき、静かな運動が起こった。

 運動の中心にいたのは、私と同世代の若い建築家や建築家の卵の男女。当時、勢い盛んだった労働組合や革新政党の旗や幟や大音量の拡声器の声はなかった。彼らはいつもごく少人数で、淀屋橋の上などで、道行く人にビラを配り署名を求めていた。人数は少くとも、知的な雰囲気があって、新鮮だった。

 息の長い運動が実り、中央公会堂だけでなく、この辺りの幾つかの歴史的建造物が、補強工事されつつ残されることになった

 そういうこともあって、今の中之島の景観がある。

      ★

<現代的なビルの景観と歴史の継承と>

 都市美は、川の流れと、ビルのたたずまいと、樹木の緑との、ほどよいバランスにある。

 戦後の粗製乱造のビルも徐々に建て替えられ、高度経済成長の時代も終わって、新しい価値観が大阪の景観を創るようになった。

  (肥後橋付近)

 上の写真の左手、黄土色のビルは三井住友銀行大阪本店で、大正から昭和の初めにかけて建てられた、この界隈では古いビルである。今ではもう大きなビルとは言えないし、少々古びているが、クラッシックで品があり、街並みに溶けこんでいる。

 その右隣の背の高いビルは、大同生命ビル。効率主義の現代的なビル建築の中で、堂々として、かつ、エレガンスである。

 近づいてみると、玄関付近もかなり凝っていて、その装飾的な造りはやり過ぎと思われるほどだ。多分、おカネがかかっている。

 効率主義一辺倒ではなく、また、奇抜ではなく、こうした品格のあるエレガンスな建物を建て、大阪の街を美しくしてほしい。大正時代にあの中央公会堂を寄付した大阪の一実業家の心意気を見習ってほしいものだ。

  (大同生命ビル)

 さらに西へ歩けば、福沢諭吉誕生の地の記念碑もある。

  (福沢諭吉誕生の地)

 このあたりに九州の中津藩の蔵屋敷があった。中津藩は維新とともになくなったが、下級武士の子としてここで生まれた福沢諭吉の名は、こうして記念されている。

      ★

<島の西端の風情>

 中之島の西端に近づくと、ほのかに下町の風が頬に感じられる。土佐堀川の川岸には、この辺りが宮本輝の「泥の河」の舞台だったという説明板も立っている。

 中之島の西端で、堂島川と土佐堀川は合流して、また名を変え、安治川となる。

 (中之島の西の突端と船津橋)

 川幅は一気に広くなり、河口が近いことが感じられた。

 中之島の島の突端はコンクリート製の半円形で、それが船の舳のように望まれた。

 二つの川が合流した安治川の右岸には、大阪中央卸売市場がある。その前の川岸は、かつては荷揚げ港だった。日本各地の港々から積まれた特産品がここに集積され、商都大阪の殷賑の源の一つとなった。

 そういう種類の船ではないが、今も2、3艘の船が係留されて、波にたゆたっている。

 川岸近くの石の階段に腰掛けて、中之島の突端を眺めていたら、「たゆたえど、沈まず」…… 。ふと、パリのシテ島のとん先、ヴェール・ギャランを思い出した。

      ★

<国の都のこと>

 セーヌ川の川岸一帯は、ノートルダム大聖堂が聳えるシテ島やサン・ルイ島を含めて、世界遺産に指定されている。パリという街の美しさは、セーヌの流れとともにある。

(シテ島のとん先。ボン・ヌフ橋とヴェール・ギャラン公園)

 パリの歴史は古い。

 紀元前、シテ島には、セーヌ川で漁労や河川交易を営むパリシィ人(ケルトの一族)がいた。パリの名の由来である。

 BC1世紀、ユリウス・カエサル率いるローマ軍がパリにやって来た。

 ローマ軍は、シテ島とセーヌ左岸に、道路を敷設し、水道を引き、劇場や共同浴場を建設して、小規模ではあったが、街(文明)を造った。

 AD5世紀、西ローマ帝国が滅亡して、時間は逆流したように混迷の時代に入る。

 6世紀の初頭、新たにゲルマン諸族の中のフランク族の王メロヴィング家のクローヴィスが侵攻してきた。ローマ時代に既にキリスト教化していたパリの住民にとって、幸いなことに、クローヴィス王はカソリックに改宗してくれた。

 フランク王国は、カロリング家に代替わりしてさらに発展し、西ローマ帝国を引き継ぐような大国になった。ただし、王都はなかった。王はゲルマン風に諸国を巡りながら国を治めた。カロリング家の本貫の地はドイツ側にあった。

 やがて、フランク王国は3つに分裂し、今のフランス、ドイツ、イタリアの原型ができ上がった。

 987年、西フランク王国(フランス)のカロリング王家が断絶した。諸侯はパリ伯であったユーグ・カペーをフランス王に推挙した。ただし、パリ伯の領地はパリとパリ近郊部だけだった。自ずから、パリがフランス国の王都となった。王権がフランス全土に及ぶようになるのは、先のことである。

 大和の大王家も、代替わりするたびに居を移したようだ。大王家の宮(ミヤ)がある所が都(ミヤコ)である。そういう意味で、大阪に初めて都(宮のある所)が置かれたのは、AD5世紀の前半である。

 その場所は、中之島ではない。

 「オホサザキの命(※仁徳天皇)、難波(ナニハ)の高津(タカツ)の宮にいまして、天の下を治めき」(古事記)。

 「オホサザキの尊、即天皇位す。…… 難波に都をつくりたまふ。こを高津の宮とまをす」(日本書紀)。

 高津の宮が、難波のどこにあったか、正確なことは定かではない。

 当時、海は、袋のように内陸部深く入り込み、そこへ淀川と大和川が多くの支流をつくりながら流れ込んでいた。上町台地が半島のように南から北へ伸びて、その先に難波の津があった。

 大王オホサザキは、海に向かって開く難波に宮をつくった。そこから、瀬戸内海を経て、北九州、そして大陸へ。「倭の五王の時代」とも呼ばれる時代である。

 (古墳時代の倉庫の復元)

 上の写真は、もう少し後、5世紀の後半にこの辺りにあった16棟の巨大倉庫群の復元である。ただし、縮尺20分の1で復元されているから、この20倍の大きさの倉庫群が並んでいたことになる。大陸から運ばれてきた品々が収納されたのだろう。 

 さて、当時の淀川に中之島があったのかどうか、あれば、どんな姿だったのかは、わからない。

 安治川の流れを見送りながら、一度、河口まで歩いてみたいと思った。もちろん、現代の河口である。

 

 

 

   

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紅葉の奈良散歩 … 興福寺界隈

2018年12月20日 | 随想…散歩道

   ( 再建された興福寺の中金堂 )

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「興福寺という寺は、よく知られているように藤原氏の氏寺として発足し …… 規模は東大寺よりも大きかった。寺領にいたっては、中世、大和盆地一円を領し、国持大名というべき存在だった。

 私どもが、奈良公園とか奈良のまちといっている広大な空間は、あらかた興福寺境内だったといっていい。たとえば、私はこの期間、奈良ホテルにとまった。明治42年創立のこの古いホテルは、興福寺のなかの代表的な塔頭だった大乗院の庭園のなかに建っているのである」。

        ★

 藤原鎌足の夫人が夫の病気平癒を祈願して、現在の京都市山科に建立した寺を起源とする。山科は中臣氏の本拠地。

 その後、藤原遷都のときに藤原京に移転し、寺名も変えた。

 さらに、710年の平城京遷都とともに、鎌足の子・不比等によって現在地に移転され、名も「興福寺」と改められた。

 藤原氏の私寺だったが、不比等の死後、興福寺の造営は国家の手で進められるようになる。

 鎌倉幕府も室町幕府も、興福寺の武力・権勢をはばかって、大和国に守護職を置くことができず、信長、秀吉が登場するまで興福寺は大和国の実質的な守護であった。

 寺領は広大で、多くの塔頭が甍を競ったが、その中心は猿沢の池の北側、今も五重塔が残る一角である。やや小高くなったこの一角も、兵火に遭ったり、再三の火災に遭って、今、残っている建築物はいずれも創建当時のものではない。

 その五重塔の一角は、全盛期の奈良時代には、南から北へ、建造物が三列に整然と並んでいた。

 中央には、南から北へ、(南大門)、中金堂(今回、再建された)、(講堂)が並んでいた。

 その東側(若草山側)には、五重塔、東金堂、(食堂 ジキドウ)が建っていた。

 西側には、南円堂、(西金堂)、北円堂である。

   (    )は、焼失して、今は存在しない。

 ( 東の列の五重塔と東金堂 )

 東の列の南にある五重塔は、東大寺の大仏様とともに、奈良を代表する建造物である。

 不比等の娘で聖武天皇の妃である光明皇后の発願で創建された。現在の塔は1426年頃の再建。高さは50mで、京都の東寺に次ぐ。

 このように屋根が三重或いは五重にリズミカルに重なる塔のスタイルは、韓国にも中国にも存在しない。日本独特の様式美である。

 東金堂は、聖武天皇が伯母の病気平癒を祈願して創建した。1415年に再建され、国宝になっている。

 食堂(ジキドウ)は今はなく、興福寺の国宝館がある。この博物館に収納・展示されている木造、塑像などの諸像は、有名な阿修羅像をはじめ、日本文化を代表する超一級品である。その一つ一つが、個性的で、見ていて飽きない。

 阿修羅像について、「どう生きたらよいか自己のアイデンティティを求めて悩む天平の青春像」と、昔、読んだ何かに書いてあったように思う。「阿修羅」の仏教的意味はあるだろうが、それだけのものであったなら、普遍性をもって、こんなに現代人を魅了することはないだろう。

 宗教は観念或いは理想から出発し、芸術は生身の人間から出発する。

 真に優れた仏師は、パトロンである宗教を超えて(脱して、ではない)、ついに芸術家となる。

 宗教は神仏に似せて人間を改造せんとし、芸術はありのままの人間に美を見出す。

 古神道の良さは、神々が人を裁かず、人とともにあり、人を支える点にある。

          ★

 話を元に戻して、

 興福寺の中央のラインには、もともと南大門、中金堂、講堂があったが、いずれも焼失した。そのため、興福寺といえば五重塔だけの、何となく草の茫々とした広場という印象があった。

 一番重要な中金堂は、藤原不比等の創建以来、7回も焼失・再建を繰り返し、享保2年(1717年)の焼失後は、仮再建はされたが、本格的な再建はされなかった。それが平城遷都1300年(西暦2010年)を迎えるに当たって、国、県、そして学者らが集まり、再建チームがつくられた。再建に要する費用が集められ、発掘調査や文献調査も行われて、可能な限り当時のままの工法で、2018年に再建された。落慶法要が挙行されたのは、つい先日、10月8日である。

  ( 中金堂 )

 話は遡り、2、3年前のお天気のいい日。今日のように春日大社からJR奈良駅へ向けてぶらぶらと興福寺のこの一角へ歩いてきたとき、「中金堂再建のための勧進のお願い」という看板が目にとまった。一番お手軽は、丸瓦、平瓦が1枚1000円。上は、棟木材1口10万円など。「勧進いただいた方には芳名帳に記載し、後世に伝えさせていただきます」とあった。

 後世に名を伝えたいとは全く思わないが、日本の文化を後世に残す一助になるならと、貧者の一灯をさせていただいた。もちろん、お手軽な瓦を何枚か。

 ところが、思いがけずもこの秋、「この度、落慶法要を行うことになったので、ご出席いただきたい」というご招待をいただいた。

 もちろん、でき上った東金堂を見たいという気持ちはあったが、あの程度の貧者の一灯に畏れ多いという思いもあり、もしかして服装もそれなりに整えなければならないだろうかとか、延々と長時間の読経に付き合わねばならないかもしれないなどと、あれこれ慮って、後日、気軽に見学に行かせていただくことにした。

 それが今日である。

 晩秋の青空の下、藤原不比等による創建当時のお堂が、壮麗に再建されていた。東西36.6m、南北23m、最高高21.2m。

 こうして、この一角が、往時の姿に次第に復元されていくのは、うれしい。

 正面の釈迦如来像は5代目だそうだ。堂内も拝観した。

         ★

 興福寺中金堂の再建に心ばかりでも協力をしようと思ったのは、少し伏線がある。

 10年ほども前だが、一生に一度くらい吉野の桜を見ておきたいものと、吉野山の中の民宿に宿をとった。

 早朝、上の千本の桜を見ながら、そぞろ歩いていたら、小さな神社に出会った。吉野水分(ミクマリ)神社である。

 ミクマリがミコモリとなり、「子守の神様」となった。子授けの神様で、豊臣秀吉も参拝して秀頼を授かったそうだ。事実、現在の社殿は秀頼による再建である。

 もともと、「水分」即ち水を配る神様だった。古くはさらに上流にあったとされるが、雨乞いの神様として、奈良の朝廷からも崇敬された。

 山の中ゆえ、敷地は広くない。そこに、ロの字型に、本殿、楼門と回廊、拝殿、幣殿が囲うように建っている。拝殿で拝むと、背後に本殿があり、神様にお尻を向けて拝んで願い事が届くのかと落ち着かなかった。

 参拝者は少なく、こんもりして、古色蒼然。ひっそりした雰囲気のある神社であった。

 掲示があった。建物が古くなり、雨漏りがひどくなっている。檜皮(ヒワダ)を葺き替えないと建物が持たないが、檜皮は高価ゆえ葺き替えも難しい。ゆえに、ご寄進をいただきたいという趣旨で、檜皮1枚につき〇〇円と書いてあった。豊臣秀頼の創建であるから、すでに相当の年月を経ている。

 朝廷の援助はとっくになく、この山奥では氏子もおらず、このまま世界遺産を朽ちさせてはいけない。この程度では何の役にも立たないかもしれないと思ったが、財布から持ち合わせのお金を出し、檜皮何枚か分を寄付した。

 何年か経ち、すっかり忘れていたある日、お陰様で葺き替え作業が終わりましたという、丁寧な礼状が届き、恐縮した。

 新しい檜皮の良い香りがするような礼状だった。

          ★

 南円堂は、西国三十三所第9番の札所である。

 そのゆえ、この興福寺の一角で、いつも参拝者で賑わっているお堂である。 

 現在の建物は、1789年に再建された。フランス革命の年だ。何のつながりもないが、認知症気味の私でも、覚えていやすい年数だ。

  ( 南円堂 )

 白洲正子『西国巡礼』(講談社文芸文庫)  に南円堂について、次のようにある。

 「弘仁4年(813)藤原冬嗣の創建で、本尊の不空羂索観音は、鎌倉時代の康慶の作である。何度も火災にあったので、現在のお堂は徳川期の建築だが、がっしりとした建築で、興福寺の五重塔が正面に望める」。

 「そういえば、この南円堂にしても、興福寺という、甚だ貴族的な大寺の一部であるとはいえ、藤原冬嗣は、弘法大師の勧めにより、一族の守り本尊だった観音を、一般民衆に開放するため、新たに造ったお堂であるという。当時の貴族としては、ずい分思い切ったやり方だが、冬嗣という人は、そんな風に心の温かい大人物であったらしい」。

 「南円堂は、今は小さなお堂に過ぎないが、嬉々として群れつどう人達を見て、私は『気宇温裕』と呼ばれた藤原の大臣の精神が、いまだにそこに生きつづけていることを知った。そして、この尊敬すべき人物が、弘法大師にまみえた時の、感動の深さを描いてみずにはいられなかった」。

 私の義弟は、四国八十八カ所も、西国三十三カ所もお参りした。

 そのご利益だろうか、大阪のアマ囲碁界の大御所の一人で、今でも、時にプロに勝ち(もちろんハンディを付けてもらってだが)、「自分は年を取ってなお進化している」と喜んでいる。

         ★

 南円堂の北の西金堂は今はなく、その北に北円堂がある。

  ( 北円堂 )

 こちらは年2回しか開帳せず、訪れる人もなく、青空を背景にひっそりと建っている。

 かつて、たまたま開帳の日に行き会わせ、お堂の中に入ったら、ここもまた、素晴らしい仏像が並んでいた。

 現在の建物は1208年の再建で、興福寺に現存している建物のなかでは最も古く、国宝である。

 ここから地面がやや低くなった所に回り込むことができる。すると、かわいい三重塔が、誰からも忘れられたかのようにひっそりと建っている。立地する地面が低いから、よけいに目立たない。

         ★ 

  この一角は全体にやや高台にあり、石段をとんとんと降りると、下に猿沢の池がある。

 その手前の三条通りを歩いてJR奈良駅に向かうのが、いつものコースである。

 遠い昔、小学校の修学旅行で来て、この三条通りのどこかの旅館に宿泊した。その宿ももうない。

 

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「奈良が大いなるまちであるのは、草木から建造物にいたるまで、それらが保たれているということである。世界中の国々で、千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集して保存されているところはないのである」。

 京都も良いが、私には、京都はちょっとよそよそしく感じる。「お邪魔します」という感じだ。

 その点、奈良は、私だけでなく、誰が訪れても、なつかしい感じがするのではなかろうか。

 京都のお寺は、表からはうかがえないが、奥に瀟洒なお庭などがあって、洗練されている。しかし、京都の文化は応仁の乱以後であり、奈良のお寺はずっと古い。

 ヤマトタケルの望郷の歌に出てくる「大和は国のまほろば」の「大和」はここではないのだろうが、「国のまほろば」という感じがするところがいい。

 唐の長安を見たければ、西安よりも奈良に行け、とも言われる。

 まだ観光客の歩いていない、朝、6時とか、7時の奈良が良い。年を経た樹木や石灯篭の間から朝の光が斜めに入り、町の人が打ち水をしたり、店開きの用意をしたりしている。

 そういえば、入江泰吉さんの写真にも、そのような景色があつたような気がする。(了)

 

 

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紅葉の奈良散歩 … 東大寺界隈

2018年12月15日 | 随想…散歩道

 11月の終わりに奈良散歩に出かけた。

 奈良公園は紅葉の名所というほどではないが、今年の紅葉をまだ見ていないので、手向山八幡宮の紅葉を見に行こうと思い立った。

 もう一つある。興福寺の中金堂が300年ぶりに再建され、10月初めに落慶法要があった。享保2年(1717年)に焼失して以来の復元である。遠くに住んでいるのならともかく、JR奈良駅まで電車で30分足らず、これは拝観に行くべきである。

         ★

 JR奈良駅から市内循環バスに乗り、大仏殿の辺りは内外の観光客と鹿センベイを求める鹿でごった返しているであろうと、一つ手前の「氷室神社」で降りた。

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「 東大寺の境内には、ゆたかな自然がある。

 中央に、華厳思想の象徴である毘盧遮那仏(大仏)がしずまっている。その大仏殿をなかにすえて、境内は華厳世界のように広大である。一辺約1キロのほぼ正方形の土地に、二月堂、三月堂、三昧堂などの堂宇や多くの子院その他の諸施設が点在しており、地形は東方が丘陵になっている。ゆるやかに傾斜してゆき、大路や小径が通じるなかは、自然林、小川、池があり、ふとした芝生のなかに古い礎石ものこされている。日本でこれほど保存のいい境内もすくなく、それらを残しつづけたというところに、この寺の栄光があるといっていい」。

 大仏殿の正面から一本西の小径をスタートし、戒壇院で北へ向きを変え、突き当りの二月堂からは若草山に沿って東辺の小径を歩き、春日大社を南下する … このように大仏様を囲うように歩くのが、私のお気に入りのコースの一つである。

 まずは大仏殿の西側の静かな小径を進む。今は奈良学園所有になっている閑静な和風大邸宅の前を通って、依水園の前に出る。

 依水園は若草山や御蓋山を借景にした池泉回遊式の名庭だ。だが、今日は先を急いで、土塀の残る小径を北へと歩いていく。

 ほどなく写真家・故入江泰吉さんの旧居の前を通る。昔、この辺りが気に入ってよく散策に来ていたころ、入江さんはまだご健在だったから、いつもご自宅の前をちょっと気にしながら通ったものだ。奈良公園で写真撮影しているところを拝見したこともある。その頃に買った『入江泰吉大和路巡礼』という6巻の写真集が本箱にある。

 その旧居に付属している公衆トイレを使わせてもらって、もう少し北へ進むと、戒壇堂に出る。この辺りは、私の特に好きな一隅である。ここまで来る観光客はちらほらしかいない。

 唐の戒律の第一人者とされる鑑真が、波濤を超えて日本にやって来たのは754年(天平勝宝6年)。翌年、鑑真のために、大仏殿の北西の地に戒壇院が建立された。入口で拝観料を払ってもらったパンフレットの「東大寺戒壇院伽藍絵図」を見ると、創建当時は回廊がめぐらされ、金堂、講堂、僧房など多くの建造物が並ぶ堂々たる一角であったことがわかる。だが、その後の三度の大火で全て焼失してしまった。今、残る唯一のお堂・戒壇堂は江戸時代に再建されたものだ。

 小さなお堂の中には、天平彫刻の最高傑作とされる四天王が四隅を固めている。

 「私は、奈良の仏たちのなかでは、興福寺の阿修羅と、東大寺戒壇院の広目天が、つねに懐かしい」(司馬遼太郎『街道をゆく24』から)

 この辺りの東大寺、興福寺にゆかりのあるお堂や博物館をめぐると、四天王像にはあちこちでお目にかかる。いずれも国宝或いは国宝級の傑作であるが、戒壇堂の四天王像は、その中でも最高傑作である。

 特に、広目天。戒壇堂の広目天は、剣や鉾などの武器を持たぬ。周りの三体の激しい「動」に比し、形相も体の動きも相対的に「静」。だが、それだけに、うちに秘めた迫力を感じる。眉を顰めて遠くの敵を凝視するその手には、左手に巻物、右手に筆。私は、阿修羅像よりも、こちらのファンである。

 戒壇堂は布で覆われて工事中。どこもそうだが、堂内の像は撮影禁止。従って、写真はない。

 ヨーロッパでは、美術館内のミロのビーナスでもダ・ヴィンチやミケランジェロの作品でも、或いは大聖堂内のイエスやマリアの絵や彫刻でも、フラッシュをたかなければ撮影できる。

 寺院の側からすれば、仮に仏への信仰心はなくても、せめてはその前に静かに座り、長い歴史の中でこの仏を拝んできた多くの人々のあったことに思いを馳せ、これを造った仏師の力量に思いを致してほしい。ガヤガヤしゃべり、先を争うようにコンパクトカメラで写し、さっさと次の観光先へ去っていく内外の観光客に対して、腹立たしいと感じるのは理解できる。

 対象に対する敬意や愛情がなければ、いい写真は撮れない。写真撮影は祈りの心に近いと思う。

        ★  

 戒壇堂からさらに北へ進めば正倉院に出る。だが、そちらへは行かず、東へ向かう。若草山の方へとゆるい上り坂となり、少しばかり石段もあって、風情のある径である。

 突き当りに二月堂が見えるこのカーブした坂道は、私の好きな径である。私だけでなく、絵の会のメンバーの方々が、よくこの辺りで画架を広げて写生をしている。 

 

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

  「私は(東大寺の)この境域のどの一角も好きである。 

 とくに一カ所をあげよといわれれば、二月堂のあたりほどいい界隈はない。立ちどまってながめるというより、そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。東域の傾斜に建てられた二月堂は、懸崖造りの桁や柱にささえられつつ、西方の天にむかって大きく開口している。西風を喰らい、日没の茜色を見、夜は西天の星を見つめている」。

 ( 西方の天にむかって大きく開口している )

        ★

 二月堂からまた方向を変え、若草山の山沿いの道を、南へと歩く。

 二月堂の隣は三月堂(法華堂)で、ここの日光・月光菩薩を拝顔したくて、中に入った。

 人っ気はなく、小さなお堂に不空羂索観音像をはじめ、四天王像や金剛力士像が立っている。いずれも国宝である。

 日光・月光菩薩像はなかった。尋ねると、東大寺ミュージアムの方にあるとのこと。

 以前、ここで日光・月光菩薩を拝顔したのはいつだったのだろう。記憶が茫々として、もしかしたら、遠い学生時代だったかもしれない。ただ、いいお顔、懐かしい佇まいだった印象だけが記憶の底に残っている。

 お堂を出て、振り返って見ると、改めて、麗しい建築物だと思った。

 懸崖造りの二月堂はお水取りの行事で有名だが、三月堂は旧暦三月に法華会が開かれる。

 パンフレットによると、このお堂は、聖武天皇が皇太子であった息子の菩提をとむらうために建てたのだそうだ。後継者として期待していた皇子に先立たれて、無念であったに違いない。皇女が皇位を継いで、孝謙天皇になった。東大寺に残る最古の建物だとか。建物も国宝である。

        ★

 私ごとで恐縮だが、この頃、かなり認知症である。初めは人の名や歴史上の人物名などが出にくかったが、今では普通名詞まで出てこなかったりする。ブログを書くときも、パソコンに向かいつつ、そばに辞書・事典代わりのスマホを置いて、しばしば言葉を確認しながら書いている。

 本筋(文脈)は、覚えているのだ。筋は、例えば、「八幡さん」なら、こうなる。

 最初は宇佐八幡という地方の古代豪族の神様としてスタートした。その地方神が、大仏造営の大事業を支持する託宣を出したから、聖武天皇は大いに喜び、この神様を奈良にお呼びして、東大寺境内に手向山八幡宮を創建した。この時から八幡さんは全国区の神様になった。

 都が京都に遷都すると、清和天皇が京都に勧請して石清水八幡宮を創建した。

 清和源氏の頭領・源義家は、石清水八幡宮で元服して、自ら「八幡太郎義家」を名乗った。以後、八幡様の祭神が武神の応神天皇だったから、武士の頭領である源氏の氏神のようになった。義家は前九年の役で東国武将を率いて活躍し、鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。

 小さな神社だったが、後に、頼朝が鎌倉幕府を開くと、源氏の氏神として立派な社殿を創建した。

 … という筋はわかっているのである。だが、アンダーラインのたった4つの神社名がなかなか出てこない。スマホを見ながら何度も覚えなおしているうちに、ふと、久しぶりに手向山八幡宮を訪ねたくなった … とまあ、こういうわけで、今回の奈良散歩になったわけである。

 三月堂のそばの茶店で昼飯の親子丼を食べ、ビールも飲んで、そのあと、手向山八幡宮に参拝した。

 こうして奈良の寺社をめぐっていると、仏教寺院や仏像は、たとえて言えば漢字の世界であると思う。仏教にも仏像にも、もちろんお経にも、深淵な理屈があり、哲学があって、なかなか難しく、取っつきにくい。

 それに対して、神社はひらがなの世界である。小うるさい理屈はなく、やさしくて、簡素で、時に、艶(アデ)やかでさえある。神社には、舞楽殿で舞う巫女たちの舞や鈴の音がよく似合う。

 予想どおり、紅葉が彩りを添えていた。

 このたびは ぬさもとりあへず 手向山

  もみぢのにしき 神のまにまに

 百人一首に採られている菅原道真の歌である。碑を置くとしたら、ここしかない。

 幣(ヌサ)は、神にささげる絹や布の供え物だが、当時、旅に出る時の風習があった。錦や絹、麻、或いは色紙などを細かく切って、幣袋に入れて携行する。そして、行く先々の峠などに祀られている道祖神の前で、その美しい切片をまき散らして、旅の安全を祈るのである。

 一首の意は、今回はあわただしく京の都を出立したため、幣も携行しませんでした。幣の代わりに、この手向山の美しい紅葉を、御心のままにお受け取りください。

 全山が錦で織られているような紅葉が、風に吹かれてはらはらと散る美しさを、神前にてまく幣にたとえて歌っている。

 漢学者の道真としては、美しい歌である。

 手向山八幡宮を抜け、春日大社の手前から、観光客の多い奈良公園を通って、興福寺へ向かった。

 (次回、「興福寺界隈」へ続く)

 

 

 

 

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神々の山里・かつらぎ山麓を歩く ② … 散歩道(17)

2018年12月11日 | 随想…散歩道

 高天彦(タカマヒコ)神社の社殿は、いかにも山懐深くに建つ神社の風韻がある。 

 主神は高皇産霊神 (タカミ ムスビノ カミ)である。

 『古事記』の神様で、天地が初めてあらわれた時に、高天原に最初に成った三神のうちの一神。「ムス」は生成すること。万物生成の神である。    

 しかし、ここに元から祀られていたのは、「高天彦」というこの地の地主神であるという説がある。8世紀初めにできた『古事記』に登場する神様をムリにあてはめなくても、もっと古くからこの地に伝わってきた伝承に従ったほうがよいと、私も思う。

『この国のかたち五』の「神道」 から

 「神道に、教祖も教義もない。

 たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。

 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。

 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す(オワス)」。

 「(伊勢神宮には) 平安末期に世を過ごした西行も 参拝した。

 『何事のおはしますをば知らねども辱さ(カタジケナサ)の涙こぼるる』

 というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。 

        ★ 

 『古事記』の記す神々もそうであるが、およそ日本の神様は、天地宇宙から、自然に、或いは、自ずから、「成りし」神である。

 私の知るクリスチャンは、キリスト教のGotは天地を創造した絶対神であるから、天地宇宙から生まれ出た日本の神々より格が上である、などと形式論を言う。だが、「天地を創造し、自分に似せて人を作った絶対神」という存在自体が、いかにもウソくさく、不自然である。キリスト教的世界観では、天体も、動物や植物も、「神に似せて作られた人間」より下位の存在になる。

 日本人は、「自然に」「自ずから」という言葉を大切にする。「Nature」の意ではない。神々は、天地宇宙、万物、森羅万象の中から自ずから「成った」のである。人は、森羅万象の中に神を感じる。そして、人もまた、森羅万象に包まれ、森羅万象を構成しているのである。そう考える方が、自然である。

 高天彦神社の祭神である「高天彦」の「高天(タカマ)」も、『古事記』のいう高天原のことではない。ちなみに、『日本書紀』には、高天原という概念は基本的に出てこない。

 『万葉集』に次の歌がある。

   葛城の 高間(タカマ)の草野 はや領(シ)りて

  標指(シメサ)さましを 今ぞ悔しき (雑歌1337)

 武田祐吉博士の『萬葉集全講』によると、「葛城の高間」は、葛城山中の地名。一首の意は、葛城の高間の草の野は、早く知って、私のものというしるしをつけたらよかった。人に手を付けられてしまって残念だ、という意味らしい。それ以上の説明はないが、前後に並ぶ歌から考えると、「草野」は乙女のことかもしれないと思う。

 いずれにしろ、「たかま」はもともとこの辺りの地名のことであり、高天原ではない。その「たかま」という地に住む人々の中に古くから言い伝えられた神様が「タカマヒコ」である。

 この地に社殿ができる以前は、背後の円錐形の山・白雲岳(694m)を神体山として祀っていたそうだ。神体山即ちカンナビである。カンナビ信仰は、遠く縄文時代にさかのぼる可能性がある。8世紀初めの『古事記』などより十数世紀以上も古いのである。

         ★

 『古事記』で、「高天原」は、天照大御神をはじめとする神々の住む世界をいう。一方、人間の住む世界は葦原中つ国で、高天原の乱暴者だったスサノオは、葦原中つ国に追放された。

 江戸時代の偉大な古典研究者である本居宣長は、高天原の所在を天の上だと信じていたそうだ。『古事記』の実証的研究の道を切り開いた学者が、一方でそのような考え方をしたところが、面白い。

 これに対して、幕府の政治顧問を務めた優れた儒学者新井白石は、「高天原」は架空の存在だが、モデルになった地が実際にあったはずだと考え、候補地を挙げた。

 だが、その地として、今、人気なのは宮崎県北部の高千穂町だろう。

 宮崎県の南部の高原町は、背後に高千穂の峰があり、天孫降臨の地ではないかと言われる。

 しかし、朝廷では、中古の時代からずっと高天原は金剛山の山麓、葛城の地であると信じられてきたそうだ。だから、平安時代、高天彦神社は名神大社に列せられ、格式の高い神社として崇敬された。

         ★  

 この日の最後に訪ねたのは高鴨神社。

 金剛・葛城の山懐の奥の奥にある一言主神社や高天彦神社からは、国道24号線の方へ下った地にある。それでも、人里から離れた森のなかだ。 

 鳥居の横に神社の綺麗な境内図があった。

 鳥居を入ってまっすぐ進めば拝殿があり、左手には池がある。池の前には、浄らかな手水舎。

 池に張り出して、奉納用の舞台が設えられている。ここで白装束の巫女が舞う舞の奉納を見てみたいと思う。

 拝殿・本殿は新しく、白木のあとも初々しい。 

 鳥居のそばに掲示されていた当社の説明文に、「当地は少なくとも縄文晩期より集落が形成され祭祀が行われていたことが、近年の考古学調査で明らかとなっています」。

 「高鴨神社は全国鴨(加茂)系の神社の元宮で、古代より祭祀を行う日本最古の神社の一つです」。

 「迦毛(カモ)之大御神(オオミカミ)は、北は青森県から南は鹿児島県に至るまでの約300社でお祀りされており、妹神の下照姫命は全国約150社でお祀りされております」。

 「(県内には) … 名神大社はわずか12社しかありません。そのうちの5社がここ葛城地方にかたまっております」とあった。

 ※5社とは、高鴨神社、高天彦神社、一言主神社、鴨都波神社、葛木坐火雷神社

 葛城氏と並んで、この地には鴨氏がいたという。鴨氏の氏神を祀ったのが高鴨神社である。

 鴨氏については、よくわからない。葛城氏との関係も、よくわからない。

 イハレビコ(神武)を導いた八咫烏(ヤタガラス)の子孫だという伝説もある。イハレビコを大和まで導いて、その後、山城国(京都)に進出したのだという。一方、山城国の上賀茂神社、下鴨神社とは別系統だともいう。

 大和国の葛城の鴨一族はある種の霊的集団で、天文観測や薬学、製鉄、農耕の技術に長けていたのだという。役行者や陰陽道の賀茂忠行(安倍晴明の師)もその子孫とか。

         ★

 このあたりから北を見れば、遠い昔、政治の中心であった大和平野が一望でき、背後には、我が家からは遠くに見える秀峰・金剛山、葛城山が、驚くほど間近に、迫力をもって聳えている。

 遠い昔 … この地に蟠踞した葛城氏は、朝鮮半島まで兵を出し、朝廷に大臣も出し、妃も出した。

 しかし、今は … 少し謎めいた、しかし、簡素・素朴で、清冽な草深い山里である。

 (「かつらぎ山麓」散歩の項 終わり)

 

 

 

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神々の山里・かつらぎ山麓を歩く ① … 散歩道(16)

2018年12月07日 | 随想…散歩道

   ( 唐古鍵遺跡史跡公園の「弥生の楼閣」 )

 奈良県田原本町の「唐古鍵(カラコ・カギ)考古学ミュージアム」の近くに、遺跡の発掘現場が整備されて、「史跡公園」としてオープンしたと新聞に載った。

 10月のある日、車で、「唐古鍵考古学ミュージアム」を訪ねた。ミュージアムなどとハイカラだが、要するに出土品を展示する博物館である。

   唐古鍵遺跡は、弥生時代の前期から中期を経て後期まで、数百年間に渡って存在した日本列島を代表する大きな環濠集落の跡である。

 そこから少し南の桜井市には、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳があり、箸墓を含む纏向遺跡が発掘調査中である。唐古鍵の集落は、纏向が突如誕生すると、消滅してしまった。集団移住したのだろうか??

 今は、邪馬台国やヤマト王権につながる纏向遺跡の発掘調査が考古学上の大きな関心事である。

 「唐古鍵考古学ミュージアム」では、ボランティアガイドの方の説明がよくわかり、面白かった。

 その後、近くの「史跡公園」に行ってみた。江戸時代に造られた池のほとりに、発掘された弥生土器に描かれていた絵に基づいて、楼閣が復元されていた。空がやや夕焼けの色を帯びて、いい雰囲気だった。

         ★

 また、別の日、電車に乗って「県立橿原考古学研究所附属博物館」に行った。近鉄橿原線の「畝傍御陵前駅」から歩いてすぐだ。県立橿原考古学研究所は、纏向遺跡の発掘調査のただ中にある。

 この博物館には、大和地方で発掘された旧石器時代から平安時代までの発掘品が展示されており、やはりボランティアガイドの説明があった。だが、肝心の古墳時代に差し掛かったところで、お昼の時間になってしまった。とにかく一回の訪問では無理である。

     ★   ★   ★

 11月初めには、葛城・金剛の山ふところ ── そこは日本の原風景のような山里だが、その山里にある3つの神社を車で巡った。前回訪ねたのは、もう30年以上も前だろうか。その頃から少し古代史の知識も増え、新鮮な目で見て回ることができた。

 まず最初は、一番北にある葛城一言主(ヒトコトヌシ)神社。神社の名が、素朴で、面白い。

 『古事記』にも『日本書紀』にも、葛城山を訪ねた雄略天皇と一言主神とのやりとりの話が登場する。高天原の神々の話ではない。人間の大王と土地の神とのやりとりは、まるでギリシャ神話のようだ。 

 田畑の中に石の鳥居があり、ここから参道が始まる。

 車を置いて、鳥居をくぐるとすぐ、木陰に「蜘蛛塚」の立札があった。

 以前なら、気にも留めず通り過ぎただろう。今は若干の知識があり、以前は見過ごしていたものにも目が留まる。

 土蜘蛛は、『古事記』の神武東征の話の中にも登場する。王権に服従しない異形のものたち。稲作文明を拒み続ける「未開の人々」 … のことであろうか??

 『古事記』の一節 ── 「そこよりいでまして、忍坂(オシサカ)の大室に至りし時に、尾生ひたる土蜘蛛の八十建(ヤソタケル)、その室に在りて、待ちいなる」。

   「室(ムロ)」は窓のない家屋のこと。── イハレビコ(神武)の一行は、宇陀よりさらに進んで、桜井市忍阪の大きな室に着いたとき、室には尾の生えた土蜘蛛という勇猛な者たちが多数、一行を待ち構えて、うなり声を上げていた。

   イハレビコに従う久米の兵士たちによって、土蜘蛛たちは成敗される。

 土蜘蛛は能にも登場する。能は文楽や歌舞伎の派手派手しさがなく、清澄な緊迫感が好きだ。場面が異界に入るときの舞台を切り裂くような笛の音。動き少なく舞うシテの能舞台を独り占めする存在感。謡や澄んだ小鼓の音に交じって打たれる大鼓(ツツミ)の甲高い音は見る者の感情を揺さぶり、物語は悲劇性を帯びつつ展開して、やがて一筋の救いとともに現実世界に戻る。

 『土蜘蛛』という演目がある。

 源頼光は、王都を守って大江山の酒呑童子を退治した源氏の頭領であるが、数日来、病に臥せっていた。深夜、土蜘蛛の精霊が頼光の命を取ろうと寝所に入り込む。気配を察した頼光は危うく刀を抜きはなって斬る。駆けつけた家来たちに、直ちに血の跡を追わせた。それは、かつて頼光によって退治された土蜘蛛の生き残りで、仇を討たんと王都に入り込んだのだ。

 血痕は葛城山まで続いていた。武者たちは山腹に怪しい塚を見つける。塚を崩すと、土蜘蛛が鬼神の姿となって現れた。

 土蜘蛛は幾筋もの蜘蛛の糸を吐き、襲いかかる武者たちをさんざんに苦しめるが、ついに討ち取られる。その間、土蜘蛛の投げる無数の糸(紐)が舞台の上に散乱して、塚も地面も白くおおい、一番前の席にいた私の所にまでとんできた。

 ワキ役者の安田登氏は『異界を旅する能』(ちくま文庫)の中で、演目『土蜘蛛』について次のように語っている。

 「確かに土蜘蛛は最後に退治される。しかし、1時間強の演能時間のほとんどは土蜘蛛の活躍に終始する。活躍して、活躍して、また活躍する」。「目立つだけ目立っておいて、朝廷軍を翻弄するだけ翻弄しておいて、最後に『負けました』と言われても、その活躍は消えない」。「その隠喩は単なる修辞法ではなかった。自分たちの理解者には伝わらなければ意味をなさず、しかし為政者にその意志を見破られれば一族の絶滅に直結するという、生死を賭けたギリギリの修辞『術』だった」。

 能は、人の心の深淵、愛や哀しみや我執を描いて、悲しくも美しい。だが、能をそのような高い境地の芸能に仕上げた室町時代の能楽師たちは、将軍や権力者の前で能を作り演じながら、一方で、自分たち能楽師を「土蜘蛛と同類の者」と意識していたのかもしれない。

 現代の能楽師・安田登氏は、この作品をそのように理解しているのであろう。

 参道を歩き、最後に石段を上がると、手水舎があった。葛城山から流れてくる水はいかにも浄らかである。 

 小高い所にたつ社は鄙びていて、その拝殿の前で参拝する。

 祭神の一言主神は、凶事も吉事も一言で言い放つ「託宣の神」であったらしい。だが、今は、託宣というより、一言で願いをかなえてくれる神さまとして信仰されている。ただし、「ひとこと」は「一事」でもあるから、願いは一つだけ。あれもこれもと欲張ってはいけないことになっている。そこが良い。

 境内に、銀杏の古木。そして、歌碑もある。

 歌の中の「其津彦(ソツヒコ)」は、碑に説明されているように葛城氏の祖。4世紀後半から5世紀初頭の、多分、実在の人で、朝鮮半島に出征した武将である。そのころまだヤマトの国には鉄素材が出ず、半島南部の伽耶(カヤ)から手に入れていた。その伽耶が周辺国から侵攻されそうになったとき、ヤマト政権はこれを援けて出兵した。神功皇后伝説もこの時代のことを伝え、また、歴史的資料としては広開土王碑が残る。

 ソツヒコの娘は磐之媛(イワノヒメ)で、仁徳天皇の妃である。

 ソツヒコのあと、雄略天皇の時代まで、大和川の水運をおさえていた葛城氏は、大王家の外戚として強い政治力をもったようだ。大和川は、難波から瀬戸内海、北九州を経て、朝鮮半島に至る際の重要な河川だった。

         ★

 橋本院という寺院に向かって車を走らせたが、道路がどんどん細くなり、対向車が来ても行き交うことができない道になった。自動車教習所のS字カーブのような所もある。地元の人に迷惑をかけてはいけないから、どこかでUターンして引き返そうと思っていたら、後ろから宅急便のライトバンが迫ってきて、それもできなくなった。

 やっとパーキング用の原っぱに出る。原っぱの先の田んぼの向こうが橋本院だ。

   表に「真言宗高野山 橋本院」とある。今は檀家も少なくなり、普通の住宅のように住みなしていらっしゃるのであろうか??

 宅急便の若い女性が何度も呼ぶが、寺院から人は出てこない。留守である。あきらめきれないのか、なかなか立ち去ろうとしない。遥々とこんな人里離れた所まで届けにやってきて、気の毒である。

 付近を少し散策して、パーキングに戻ると、宅急便のバンの運転席には、さっきの女性。できたら先に行ってもらって後ろを走りたいと思ったが、彼女もそう思っているのか、発進しない。やむを得ず走り出すと、ちゃっかり付いてきた。宅急便といっても、この道にはめったに来ないのだろう。

        ★

 高天彦(タカマヒコ)神社に向かって下りの道路を走っていると、車道から山道に入る入口に、神社の結界を示す注連縄が掛けられていた。ここから高天彦神社の参道が始まるのだろう。そう思って、道路の角に駐車して、山の中に入った。

 失敗だった。山道を延々と登ることになった。

 汗をかき、幾曲がりも回って、山道がやっと平坦になり、林と草やぶの向こうに神社のこんもりした杜が見えたときは、ほっとした。

 神社の鳥居まで来てみると、車道があり、神社のパーキングもあった。折しも小型バスが到着して、10人ほどの古代史好きのおじさん、おばさんたちが、ガイド役らしき土地のおじさん(もしかしたら神主さん)と一緒に降りてきた。

 だが、なにしろここは高天原。汗をかいて登ってきた者に、ご利益も大きいに違いない。(続く)

 

 

 

 

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2018年の春 … 散歩道(15)

2018年04月19日 | 随想…散歩道

       ( 雪柳咲く龍田川沿いの遊歩道 )

 今年の春は一気にやって来た。3月末には桜が満開で、桜の名所は花見客を受入れる準備もできていなかった。出店なども大あわてとなった。

 私も、あわてて花見に出た。これはこれでエキサイティングである。

        ★

 春を詠じた、新聞投稿の短歌、俳句を4つ。

短 歌 >

〇 丘の上の  小さき寺の  お坊さん

    町に下り来て  桜餅買う

            ( をがは まなぶさん )

※ 選者の小池光氏の評がステキですね。「ほのぼのとした童話のような一首。… 春到来のよろこびが具体的に歌われていて、読んで楽しい」。

 私には、地方の小都市の風物が思い浮かびます。 

〇 たっぷりと  白い絵の具を  含ませて

    風の形を  描く雪柳

             ( 小林真希子さん )

※ いかにも選者・俵万智氏の選んだ作品ですね。感覚的な歌です。

俳 句 >

〇 囀(サエズ)りや  二度寝に落ちて  森の中

          ( 木地 隆さん )

※ 春眠暁を覚えず。聞こえてくるのは、鶯の鳴き声でしょうか?? それとも、森の中のいろんな種類の小鳥たち?? 森の朝は、鶯の声がすぐ耳元で聞こえたり、耳につくぐらいに小鳥たちが囀ったりします。 

〇 うとうとと ひと駅過ぐる 遅日かな

     ( 山上 陽太郎 )

※ 「遅日(チジツ)」は、日あしがのびて、日暮れが遅いというところから、昼間の長い春の日。ローカル線の車窓には穏やかな春景色。差し込む陽だまりの中、読書をしていて眠気を催し、ひと駅分ほどの時間をうとうととしてしまった。

 もしや、降りるべき駅を、ひと駅乗り越してしまった?? それでは、私は何度も覚えがありますが、最終電車の酔っ払いになってしまいます。

龍田川沿いの遊歩道のウォーキング >

 「龍田公園」は、龍田川沿いに2キロに渡って整備された県営の遊歩道で、歴史的には紅葉が有名だが、今は、春の桜も素晴らしい。桜を愛でながら、7千歩ぐらいのウォーキングができる。

    ( 桜の龍田川 )

 その一角に三室山がある。

 平安時代の和歌に詠まれた名勝の龍田川と三室山は、ここではない。以前、カテゴリー「随想…散歩道」の「春の龍田公園散歩道」に書いたとおりだ。

 それでも、小高い丘が桜におおわれて、優美である。

   ( 桜におおわれた三室山 )

 三室山に登ると、あちこちでお弁当が広げられていた。

 満開の桜の下、のどやかな大和平野を一望できる。

 

 

  ( 三室山から大和平野を眺望する )

 古来、和歌に詠まれた龍田川と三室山は、わが三郷町の西端、信貴山の南側にある。

 おそまきながら、三郷町が「龍田古道コース」の整備を始めた。「伊勢物語」のなかで、在原業平(がモデルとされる「男」)が、「高安の女」のもとに通った道である。まだ作成途中のマップを役場でもらってきたから、一度歩いてみよう。

馬見丘陵公園の散策 >

 馬見丘陵公園は、4~5世紀に築造された馬見丘陵古墳群と、その周囲の自然を保全するためにつくられた県営の広大な公園である。

 樹木に覆われた古墳があちこちにあり、森と池と、ボランティアによって日々整備されている花壇も見事で、その間を遊歩道が巡っていて、四季折々の花々を楽しむことができる。

 ( 色とりどりのチューリップの花壇もある )

     ( 梅も、桜も、ハナミズキも )

 ちなみに、この公園は、鹿と、春日大社と、東大寺や興福寺で有名な奈良公園に次いで、奈良県で2番目の県営公園だ。

 桜と紅葉の龍田公園も、何番目かは知らないが、県営公園。

 奈良万博で朱雀門や大極殿が公開された平城宮跡歴史公園も、最近、さらに整備が進められ、近畿ではいちばんのんびりしているように見えた奈良県もなかなか頑張っているのである。

 馬見古墳群は、葛城氏の墳墓群の一部とされる。葛城氏は、応神・仁徳のころ、大王家に妃を出すほどの最有力の豪族であった。大和川より南、金剛・葛城山あたりまでがその勢力圏だったようだ。

 この公園内には13の古墳があり、最大のものは、公園のはずれの巣山古墳で220m。

 その一つ、ナガレ山古墳(105m)は、当時の姿が復元されて、興味深い。

   下の写真の手前が「前方」部、奥が「後円」部。一段高くなった後円部が埋葬部で、方形の前方部分で祭祀が行われた。

           ( ナガレ山古墳 )

 後円部に立つと、あたこちの桜の雲とともに、南西には葛城・金剛山から二上山、東には遠く三輪山も霞んで見える。

 

   ( 後円部に立つ )

 ぐるっと公園のなかを歩いて1周すると、やはり7千歩少々である。

         ★

大和川の遊歩道を歩く >

 大和川沿いの遊歩道は、視界が大きく開け、自然が自然として感じられて心地いい。

 遠くに生駒・信貴連峰が横たわって、大阪府との境界となり、金剛・葛城連峰との間を、大和川が流れる。

 古代においては、ヤマトから大和川を下って難波津へ、そして、瀬戸内海を経て、朝鮮半島、大陸へと通じていた。

 若いころ、役場の職員と話していたとき、「明治~昭和の戦前、大和川はもっと水量豊富で、帆船が多数行き交っていた」と教えてくれた。古代から近代まで、この川は、有力な物資輸送の役目を果たしていたのだ。もちろん、子どもたちは、夏になるとこの川で泳いでいたらしい。

 私は流入者で、そのころのことは何も知らない。だが、土地の神様にお願いして、ここに骨を埋めるつもりだ。

 菜の花の一種が一面に咲き、草むらの中には野の花が咲いて、楽しい。

    ( 大和川 )

        ★

春、若者たちも旅立つ >

 春は、若者も巣立っていく。

〇 夢多き 名前揃ひぬ 卒業す

       ( 奥 良彦さん )

 卒業式の時に呼ばれる名前に、生まれたときの親の期待が込められている。最近は、きらびやかな名前も多い。それもこれも親心だ。

 野球の大谷翔平は大リーグで夢のような活躍をし、将棋の藤井聡太は高1にして7段を目ざす。

〇 その額  盤に付くほど  深く垂る

    師の投了に  藤井聡太は

                 ( 中島 冨美子さん )

 感動しました。とてもいい歌です。歌に詠まれた若者の姿がいい。

    ★   ★   ★

17

   今回、カテゴリー 「随想…散歩道」のうちの9と10、及び、カテゴリー「フランス・ロマネスクの旅」をメンテナンスしました。

 枠組をスマホ仕様にし、また、写真を一部差し替えたり、文章表現の手直しもしました。2015年4月から8月に書いたものです。

〇 散歩道9 「まさをなる空よりしだれ桜かな」(2015、4)

〇 散歩道10「春の龍田公園散歩道」(2015、5)

以下、「フランス・ロマネスクの旅」から(2015、5~8)

1 旅の前夜に

2 ジュネーブへ、失敗を二つ

3 メルヘンチックなドイツ、空気の澄んだ瀟洒な町ジュネーブ

4 レマン湖畔の散策(鈴懸の花の旅)

5 日本のロマンティシズムと永世中立国スイスのリアリズム

6 ブルゴーニュ公国の都ディジョン

7 この旅の目的の一つフォントネー修道院へ

8 ソーヌ川沿いの小さな町トゥルニュ

9 イブは、若く健康なブルゴーニュの女性

10 ヨンヌ川の青い空と白い雲

11 ヴェズレーの丘はブルゴーニュ・ロマネスクの至宝 

12 陽春のセーヌ左岸を歩く

 (以上です)

 

 

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梢の花を見し日より …… 散歩道(14)

2016年04月28日 | 随想…散歩道

          (春の大和川と信貴山)

 いささか時季外れだが、この春に撮りためた写真の中から。

(1) 遍照院の枝垂れ桜

 この枝垂れ桜については、「まさをなる…(散歩道9)」で触れた。

 信貴山の山の麓、旧村のりっぱな邸宅が思い思いに建つ、そのいちばん奥まったところに、遍照院という小さな寺院がある。その枝垂れ桜である。

 

                   (遍照院の門)  

 三郷町の指定文化財になっているが、あまり知られていない。というよりも、山里のため車で入ることができないから、自分がそうであったように、訪ねてみようという気にならないのだろう。

 樹齢は、「推定250年を経過している」と、町の教育委員会の立てた看板にある。

 ソメイヨシノより少し早く開花し、気品のある寺の境内に、春になると妖艶な彩りを添える。

 昨年は、うまく満開のときに行き合わせたが、今年の訪問はかなり早すぎた。それでも、ちらほらと訪れる風流人はいる。そして、それなりに風情はある。

 

(昨年の遍照院の優艶な枝垂れ)

  (今年の遍照院の枝垂れ)

 (2) 八幡神社の杜 (モリ)

 八幡社は全国津々浦々にあるが、わが家から徒歩15分の所にも、小さな社がある。この社については、「里の春…(散歩道7)」で書いた。

 

           (八幡神社)

 町の教育委員会が立てた説明板によると、かつて、本殿改修の折、棟木に「永正拾壱年甲戌九月十五日」の銘があるのが発見された。西暦1514年創建ということで、すでに500年を超えている。故に、村の小さな八幡社といえども、国の重要文化財である。

 最近では、昭和25年に全面解体修理され、平成19年に屋根の檜皮を葺き替えた、とある。 

 日本の場合、地中海文明のような石の文明ではないから、かつての「夢の跡」が朽ちずに残るということはない。

 しかし、伊勢神宮や出雲大社の式年遷宮に見るように、日本文化の特徴は、世代から世代への「継承→更新→継承」であるから、モノだけでなく心も一つになって、更新されながら幾世代もつながっていくことになる。

 だが、日本列島に生きてきた人々の心は、社よりも、社の周りの杜 (モリ)にあった。杜があってこその神社である。

 

           (八幡神社の杜) 

                                                                                   (3) 信貴山寺 (朝護孫寺) の桜

 信貴山寺 (朝護孫寺) については、「信貴山…(散歩道3)」で紹介した。

 かつて、近鉄の「信貴山下」駅からケーブルカーが出ていて、ケーブルを降りると、「信貴山寺」に至る参道 (門前町) があり、年始年末は言うまでもなく、日頃からそれなりに賑わっていた。

 近鉄が、採算が取れないとケーブルカーから撤退し、今は町営のバスが、かろうじて、上の住人と近鉄の駅や役場をつないでいる。

 それで、観光客や、参詣に訪れた人々は、観光バスやマイカーで一気に信貴山寺の駐車場に至るから、参道 (門前町) は寂しくなってしまった。

 今日は、車を、昔のケーブルカーの終点近くの駐車場に置いて、久しぶりに参道(門前町)を歩いてみた。

  (参道と山門)

 緩やかな上りの参道には、今も、旅館や食堂があり、ひっそりと営業している。 

 春、古武士の立ち姿のような山門は、桜で、ほのかに彩られていた。

 山門近くに、草餅を作って売る店がある。草餅はスーパーでも買えるが、知る人ぞ知る、昔からここの草餅は旨い。年のせいか、洋菓子よりも、こういうものの方が旨いと思う。

 やがて、信貴山寺の名物の張り子の大トラがある。その向うには、高く、本堂の毘沙門天堂がその姿をのぞかせる。いつもと違うのは、あちらこちらに桜、桜、桜で、華やいでいることだ。 

    (毘沙門天堂と張子の虎)

 毘沙門天堂に上がると、右下方に歩いてきた参道、左手には桜の大和平野が見渡せた。

 

    (毘沙門天堂からの眺望)

 帰り道に、古来からの山桜を見かけた。ソメイヨシノは、江戸期の終わりごろに生まれた掛け合わせの雑種で、「桜と旅」を愛した中世の歌人・西行が見た桜は、このヤマサクラだ。

        ( 山 桜 )

 花と葉が同時に出る。同じ場所の木であっても、開花に1週間くらいズレがある。ソメイヨシノより長寿で、巨木になる。

 北面の武士で、武芸にも秀でた佐藤義清 (ノリキヨ) =西行が23歳の若さで出家したのは、高貴の女性に恋をしたからだと言われる。待賢門院説、美福門院説、上西門院説など諸説あるが、それが誰であるかを詮索することにたいして意味はない。

 いずれにしろ、西行にとって、それはこの花のような感じの女性だったのであろう。

 葉のやわらかい緑と、花の白さがコントラストになって優美であり、ソメイヨシノよりも一段と清楚である。

        ★

(4) 桜

辻邦夫「詩人であること」から

 「先日も旅の疲れを休めようと、信州の山小屋で谷の斜面を渡ってゆく風の音を聞きながら『山家集』を開いていたら、ふと、

   吉野山 梢の花を 見し日より 

     心は身にも そはずなりにき

という歌が眼にとまって、半日というもの、しきりと『梢の花を見し日より』が頭について離れなかった。たしかに私たちの生涯のある一日、『梢の花』を見てしまうような瞬間があるのである。それを見たら、恋と同じくもうお終いであって、私たちは、日常の世界から、向こう側の世界 ── 花や雲や月の世界 ── へ移り住むことになる。心はこの世の興亡利害とは無縁となり、勝手に浮かれてゆく」。

 

大仏次郎「帰郷」から 

 「『年をとったのだ、俺たち』と、恭吾はつぶやいた。

 『桜がきれいに見えるようになったのだ。桜、桜、と言うが、俗悪で、つまらぬ花だと思っていたがなあ』

 『花と、人間の年齢とは、あまり関係ないだろう』

と、言うのに抗議して、

 『いや、そうじゃない。若いうちは、花を見ることをたぶん知らずにいるのだ』」

        ★   

(5) 庭周辺に自生する草花からの拾遺集

  

 

 

 

 

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上町台地を歩く (3)真田幸村の最期の地を訪ねる……散歩道(13)

2016年03月26日 | 随想…散歩道

 以前から心ひかれながら、まだ訪ねていなかった所があった。

 大坂夏の陣で討ち死にした、真田幸村最期の地である。

 天王寺の茶臼山近く、上町台地の一角にある安居神社が、その地。

          ★

幸村の最期 >

 すでに大阪城の外堀は埋められていた。冬の陣で大活躍した「真田丸」も、今は撤去されて、ない。強力な攻撃・防御施設を失った今、城の外へ討って出て野戦をする以外に活路はない。

 こうして大坂夏の陣は始まった。

 1615年5月7日。幸村は、最後の決戦を挑んで、陣を置いた茶臼山から出撃する。全騎一丸となって、圧倒的な敵軍を突破し、目指すは家康の本陣。幸村の懐には、家康を狙撃するための小型の連発銃があったという。

 夏の陣は野戦と判断し、家康の本陣は、冬の陣より遥かに後方、今の北田辺駅付近に置かれていた。茶臼山からの距離は、直線にして約2.5キロ。途中、いくつもの敵陣を突破しなければならず、迎え撃つ諸大名・旗本の軍勢との激突は避けられない。

 激戦を戦い、友軍の将も倒れ、部下も次々討ち死にし、あと一歩のところまで家康を追い詰めるが、ついに届かない。

 無念の退却命令も、手柄を立てんと追いすがる無数の敵兵を振り切りながらの退却行であった。

 茶臼山の小さな神社の境内にたどり着いたとき、49歳の幸村の腕は鉛のごとく重く、立つこともできないほどに疲労困憊していた。精根尽きて松の根方に腰を下ろしているところを、越前松平勢に囲まれる。自ら名乗り、手柄にせよと言って、討たれたという。

 我ながらここまでよく戦った。もう、亡父のところへ逝ってよかろう。

 死の瞬間、心は晴れやかであったに違いない。

          ★

堀越神社 >

 地図を見ると、天王寺駅から谷町筋を北へ歩く。たいした距離ではない。

 ほどなく道の脇に、小さな神社があるので、寄ってみた。「堀越神社」とある。

 車の行き交う谷町筋のこのあたり、今まで徒歩で通り過ぎたこともあったはずだが、立ち寄ったことはなかった。

 

      ( 堀越神社 )

 谷町筋に沿いながらも、境内に入れば、騒音は遠い。石段を上がってわずかに道路から高くなっているせいか、或いは、背後に天王寺公園・茶臼山が控えているせいか。

 ひっそりと清浄な神社らしいたたずまいに、どこか粋な風情を感じるのは場所柄だろうか??

 綺麗な立札があり、創建は聖徳太子。祭神は崇峻天皇とある。

 聖徳太子が、四天王寺創建の折、叔父の崇峻天皇をしのんで、「風光明媚なここ茶臼山の地」に、神社を建てたという。

 明治の初めごろまでは、境内の南に美しい堀があり、人々は堀を渡って参詣したので、堀越神社と呼ばれるようになったともある。なかなかゆかしい。

 境内の一隅に、熊野第一王子の宮が祀られている。

   ( 熊野第一王子の宮 )

 この宮にも、説明の立札があった。

 熊野詣でが盛んになるのは、平安時代末期であるが、もちろん、当時は徒歩、あとは舟。

 出発は京の都。淀川を舟で下って、上町台地 (半島) の北端、天満の港に上陸し、そこからは徒歩になるのだが、その天満の港に、「窪津王子」があった。99の王子の第一王子である。

 熊野詣では、99の王子の一つ一つに参詣しながら、熊野本宮大社にお参りし、そこから舟で下って、新宮に参拝。さらに那智に参拝する。

 その「窪津王子」が遷されて、最終的に、ここ堀越神社に合祀されたとある。

 「窪津王子」が、いつごろ、誰の命で、流浪の旅に出されたのかは、わからない。

 ともあれ、「開発」という大津波が大坂を襲うのは、豊臣秀吉による城づくり、町づくりのときが最初だ。このとき、上町台地の由緒ある大きな神社は、杜を削られ、他の土地に移転させられ、とり壊された。

 そんなことをしなくても、城づくり、町づくりはできたはずだし、その方が美しい町づくりができたはずだ。

 近年では、大阪空襲もあるが、戦後の開発の大波があった。

 大阪で最も古い由緒をもつ、ある神社は、樹木少なく、ガランとした境内の一角に、社よりも大きな鉄筋コンクリートの結婚式場が建てられている。

 そういう神社の拝殿で手を合わせても、木立を洩れてくる日の光もなければ、樹木をそよがせる風の音も、小鳥のさえずる声も聞こえない。目を閉じて聞こえてくるのは、車の騒々しい音ばかりだ。

 元々、日本の神々は、社にではなく、杜にいらっしゃる。古代の日本人が、森の中でふと聖なるものを感じて、しめ縄を引き、そこに立ち入らないようにした。それが鎮守の杜だ。その領域の中の、日のきらめきや、耳元をそよぐ風や、小鳥のさえずりが、神を感じさせた。周囲の森は開発されて田となっても、杜には手を入れなかった。

 ゼニばかり追い求めても、町は発展しないし、人は豊かにならない。

 郷土への愛や文化がなければ、人は育たず、経済はひからびていく。

          ★

一心寺 >

 堀越神社から、谷町筋をもう少し北へ歩くと、「四天王寺南」の交差点に出る。右前方に四天王寺があるが、ここを左折する。すると、すぐに一心寺の大きな門が見えてくる。

 宗派を問わず、納骨された遺骨でお骨佛を造立する寺である。

 その昔、浄土宗の開祖・法然が四天王寺に招かれた際、ここに立って難波の海に沈む夕日を見て感動し、小さな庵をつくってしばし滞在した。その庵が一心寺の開基であるという。

  

       ( 一心寺 )

 位置的には、大坂冬の陣で家康が本陣を置き、大坂夏の陣では真田幸村が本陣を置いた茶臼山のすぐ北側に当たる。

 従って、大坂夏の陣の折には、このあたり、激しい戦場となった。一心寺にも、徳川方を含め、当時の武将の墓がある。国道25号線を隔てた向かいには、真田幸村が戦死した安居神社がある。

        ★

最期の地・安居神社 >

  

 国道側に、「安居神社」の石碑。その横に由緒が書かれた立札。「安居天満宮」の看板もあり ( 安居天神とも言われる )、その横に「真田幸村戦死の地」と書かれている。

 背後に真田の赤い幟も立つ。今、大阪の町のあちらにも、こちらにも、翻っている。

 いつ創建されたのかは、わからない。お椀の舟で海を渡って来て、オオクニヌシの国づくりを助けたという薬学や知恵の神様・スクナヒコナを祀り、後、菅原道真も祀る。

 901年、菅原道真が筑紫に左遷されるとき、船待ちをする間、四天王寺に参拝した後、ここで休んだから、安居神社と呼ばれるようになったという。その後、菅原道真が祭神と祀られて、安居天満宮、安居天神とも呼ばれた。また、天王寺3名水の井戸があったので、安井神社とも書く。

 境内は奥まっており、巨木に囲まれて、都会の中にあることを感じさせない。

 「真田幸村戦死跡之碑」があり、「真田幸村公の像」がある。銅像の幸村は、兜を脱ぎ、松の根方に座っている。当時としてはそろそろ初老といってもよい年だが、顔になお壮年のエネルギッシュな覇気を感じる。

 ( 境 内 )

 

       ( 本 殿 )

 本殿でお参りして、しばらく雰囲気に浸り、北側の鳥居から出た。

 鳥居の前の坂道は、安居天神にちなんで天神坂と呼ばれる。

 昔、上町台地の西は急峻に切れ落ち、海が開けていた。もう少し北には、新古今集の撰者の一人・藤原家隆が、晩年に庵を結んで、西方浄土の方角に沈む夕日を眺めたという跡もある。

 今は、海はずっと西方に退き、高台の谷町筋と低い松屋町通りを結ぶ坂道が、いくつかある。その一番南の坂が、天神坂だ。

 閑静な住宅街を上って谷町筋に戻ると、すぐ北側には大阪の私立男子校トップの星光学院があり、谷町筋を渡ると、四天王寺さんがある。四天王寺さんには、私立女子校トップの四天王寺高校がある。

 上町台地は、北端の大手前高校から、清水谷高校、大阪女学院、明星高校、高津高校、上の宮高校、清風高校、夕陽丘高校、星光学院、四天王寺高校、天王寺高校、阿倍野高校、住吉高校など、大阪を代表する名門校が並んだ、一大文教地区でもある。

     ( 四天王寺の通用門 )

 四天王寺さんの東側の通用門から入り、下町風の境内の中を通って、南側の正門を出た。そこから先は、賑わう門前町を通って、天王寺駅の北口へ出る。

 

  

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上町台地を歩く。その2)真田丸の跡を訪ねて……散歩道(12)

2016年03月24日 | 随想…散歩道

 上町台地のわが散歩道が、急に脚光を浴び始めた。原因はNHK大河ドラマ「真田丸」である。

 ひっそりした閑静な散歩道だったが、今年に入ったころから、歴史愛好家の中高年グループが、ぞろぞろと歩くようになった。

 最近は、日本人に連れられて、青い目の外国人も参詣している。綺麗な作法で参拝して、なかなかよろしい。

 人けのないしんとした通りは、年寄りくさい。人が行き来すれば、雰囲気も明るくなる。ここ、上町台地は、古墳時代から大王 (オオキミ) の宮が置かれ、大宮人が行き来した、いわば大坂の発祥の地なのだから、人の往来が増えることは、良いことである。

 さかのぼれば昨年の夏ごろだったろうか。時折、若者の一人旅を見かけるようになった。男女は問わず。リュックを背負って、小さな三光神社の石段や手水の付近を、仔細ありげに歩いて、遠慮がちに拝殿で手を合わせる。

      ( 三光神社 )

 来年の大河ドラマが早くも始まったな、と思って、心の中で微笑みながら見ていた。いつの時代でも、ブームを先取りするのは、若者たちである。

     ★   ★   ★

これは面白い!! 大河ドラマ『真田丸』 >

 再来年の大河ドラマが真田幸村と聞いたときは、何で と思った。

 最近は、吉田松陰の妹や、新島襄の妻など、女性を主人公にしたものも増えた。歴史上の有名人ではないが、それはそれなりに意味があると思う。いつまでも信長や秀吉や家康でもあるまい。

 だが、滅亡する豊臣家の側に立って、負けるとわかっている戦いを戦って死んだ一武将の生に、どれほどの現代的意味があるだろうか??。

 しかし、放送が始まって、考えを改めた。これは講談だ。面白い 面白いことは、良いことだ

         ★

 脚本が良い。スピーディな筋の展開で、飽きさせない。しかも、細部に注意しながら見ると (時には二度) 、実に用意周到にドラマが組み立てられ、脇役の一人一人まで、丁寧に描かれていることがよくわかる。

 俳優の一人一人が生かされている。主人公の若き信繁も、そのお兄ちゃんも、ウメちゃんも、若々しく、未熟で、しかし、役立つ人間になろうと頑張っている。

 過去の大河ドラマは、主人公の父  (時に、兄) が魅力的で、味があった。平清盛の父の中井貴一、坂本龍馬の父の児玉清 … 文さんの兄・吉田松陰役の伊勢谷友介もよかった 。ただし、彼らが死ぬと、急にドラマは精彩を欠き、退屈した。

 今回の草刈正雄も、土豪風に毛皮を着たオヤジで、大大名の上杉、北条、徳川を相手に、生き延びるためにはどんな謀略も厭わない。今のところ、存在感・NO1の主役だ。

 真田一族のあまりの謀略や残酷さに、「あなたたち、これでいいの」と、きりちゃんが、現代の若い女性の言葉で抗議する。このとき、きりちゃんは、現代人 (視聴者) を代表しているのだ。視聴者は、きりちゃんに共感しつつ、かえって、「でも、この時代の、この状況では、仕方ないだろう」と真田のドラマに納得する。三谷幸喜の脚本は、実にうまい

 明智の乱のとき、徳川家康は服部半蔵に導かれて命がけの伊賀越えをする。逃げる家康殿の演技は、カリブの海賊・ジョニー・デップのパロディ。事がうまくいけば、スポーツ選手のように、「よっ・しゃー」とやる。

 主役級ばかりでなく、脇役もそれぞれに存在感をもって描かれている。

 滅亡する武田家の当主・武田勝頼は、悲劇的で、切なく美しかった。

 真田の父の幼友達・室賀殿の「 黙れ!! 小童!! 」 も、真田の長男への愛が感じられてカッコよかったし、その室賀殿にとどめを刺す出浦殿も、絶対に闘いたくない恐ろしいオジサンです。

        ★

 話は変わって、大河ドラマの長いイントロには、いつも辟易していたものだ。毎回、毎回、約5分間もイントロがある。しかし、今回の「真田丸」の5分間は、カッコいい。

 日本の左官のすごさを世界に知らしめた挟土秀平の、「真田丸」 という題字が良い。真田丸の運命を予感させて、題字は壁とともに崩壊する。

 音楽が最高。世界で活躍する若きヴァイオリニスト・三浦文彰のソロ演奏である。

 「オーケストラが控えて、ヴァイオリンだけで始まる曲というのは、あまりありません」。「服部先生からは、2分30秒間、始めから終りまで戦闘場面をイメージして弾くようにと言われました。こんなかっこいいメロディがあるのかと思いました」。ヴァイオリンという甘美な音色を出す楽器が、見事、武士の戦いを描き切って、クラッシックファンもきっと増えることでしょう。

 赤備えの騎馬軍団が疾走するプロローグの映像もカッコいい。作成者いわく、「『ロード・オブ・リング 』が下絵になっています 」。━━━ そうだと思いました。

 言うまでもなく、この映像は、大坂夏の陣の、家康本陣へ突撃する信繁最期の戦いである。「いわば最終回の予告編です。『敵陣まで200m』を隠しテーマにしました」。━━━ 敵陣まで200m 勇壮ですねえ

  題字といい、音楽といい、映像といい、全てが最終回のクライマックスに向けて、作られている。

 真田幸村のイメージとは、そういうことだと思う。

 もう一人を挙げれば、函館戦争で戦死した土方歳三。

 歴史は彼らの思いのようには動かなかったけれど、今も、日本人の心を揺さぶり続ける。

     ★   ★   ★

真田丸の跡を歩く >

 前回は、玉造駅から上町台地を北へとって、難波の宮跡から大阪城を歩いたが、今回は上町台地を南へ行く。

 JRの玉造駅を西へ、「玉造」の交差点を通り越して、もう少し西へ行くと、地下鉄の玉造駅に出る。

 この辺りからぶらぶらと南下すると、すぐに三光神社の鳥居が見えてくる。

 

   ( 三光神社鳥居 )

 木立に囲まれた小さな神社。お参りする人を見かけることはほとんどなかったが、さきほど書いたように、去年の夏ごろから、ぼつぼつと見るようになった。近所の人ではない。わざわざ旅をして訪ねてきたのだ。

 いつものようにお参りを済ませて神社の横に出ると、真田の抜け穴がある。

 信繁やその伝令がこの抜け穴を通って大阪城と行き来した、ということらしい。そばに、真田信繁 (幸村) の像が建つ。知将というよりも、豪胆無比の勇将の風格がある。

 

   ( 真田の抜け穴 )

 

      ( 真田幸村像 )

 この神社から、あとで訪ねる心眼寺という寺の一帯が、真田丸の跡だと言われてきた。しかし、最近の調査で、この一帯も真田丸の城塞の一角を形成していたことは確かだが、中心部ではなかったということがはっきりしてきた。

 神社の西側の小高い丘陵部は陸軍墓地で、道はその脇を巡る。この道は真田丸の空堀の跡だという。

    ( 空堀の跡 )

 右折して西へ、上り坂を進めば、その名もゆかし、真田山小学校。その前を過ぎると、明星高校の南東の角に出る。

         ★

   ( 明星高校 )

 明星高校のフェンス脇に、「真田丸顕彰碑」。「あれっ、こんなものがあったのか 」と思って見ると、平成28年1月に設置とある。設置者は天王寺区役所。協力は大阪明星学園。ムムッ、NHK大河ドラマは、区役所も動かすのだ

 碑には、秀頼の招きに応じて大阪城に入った幸村が 「すぐに大阪城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが『 真田丸』で、幸村は慶長19年12月4日、ここ『 真田丸』を舞台に前田利常……ら徳川方の大軍を手玉に取った」とある。さらに、「『真田丸』 の場所については、…… 現在の大阪明星学園の敷地がその跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、云々」 と書かれている。

 碑の中に紹介されている図面1は、大阪城と真田丸の位置関係を示す。信繁 (幸村) は、真田丸を、大阪城から700mの南に築いた。

  

 大阪城は北・東・西の三方を川に囲まれ、天然の要害を呈していた。だが、南側は上町台地が伸び、この方面からの攻撃に弱い。そこで、南側に惣構えと言われる空堀が掘られ城壁が築かれていた。しかも、その堀の100m先は崖となって切れ落ちている。秀吉の構想した大坂城の防御は相当に完璧であった。

 信繁は、その谷のさらに先に、真田丸を築いたのである。

 歴史家は、これは、防御と言うより、超攻撃型の砦だと言う。信繁はもともと大阪城を出て戦うことを主張したが、首脳部に受け入れられなかった。そこで築いたのが、この出城である。大阪城からは完全に孤立し、徳川軍を一手に引き受けようとしたのである。

 実際、大阪城を囲んだ徳川軍は、天然の要害を攻めようがなく、南側の真田丸を集中的に攻めた。が、それは鉄砲の狙い撃ちに遭い、犠牲者を出すばかり。一説によると、1万5千人の死傷者を出し、家康は撤退命令を出すほかなかったという。

 死傷者は多く、やがて兵糧も尽きかけ、寒さは厳しく、士気は上がらず、家康も和睦にもち込まざるを得なかった。

 ただし、戦さに負けても、外交には勝った。真田丸取り壊され、外堀も埋められた。…  一武将に過ぎない信繁にとって、歯がゆい豊臣方首脳部であった。

         ★

 明星高校と通りをはさんだ東側には寺が並んでいる。この辺りは、当時も今も、寺町である (図面2)。

   

 大徳寺の境内はいつも美しく整えられていて、ゆかしい。散歩のときには、いつもちょっと覗かせてもらう。

     (大徳寺境内)

 隣の心眼寺の門の脇には、大きな自然石に「真田幸村出丸城跡」と書かれた碑が建つ。門扉には六文銭。

   ( 心眼寺の門 )

    ( 出丸跡の碑 )

 真田丸の中心部は明星高校だが、これらの寺を含む東側の高台の一角も、真田丸の城塞に取り込まれていた。

 真田丸を巡る戦いは、実は、寺町一帯を巻き込んだ市街戦であったという。市街戦だから、少数にとって守りやすく、多数にとって攻めにくい戦いであった。

 環状線・鶴橋駅の方へ、真田山公園を通って、下って行く。振り向くと、真田山小学校が見えた。

     ( 真田山小学校 )

  

 

 

 

 

 

 

 

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上町台地を歩く。その1)難波の宮跡を経て大阪城公園へ……散歩道(11)

2016年03月12日 | 随想…散歩道

 週1回程度は、大阪へ出る機会がある。

 出たついでに、運動不足を補う意味もあり、その日の気分と体調で好きなコースを散歩する。

 大阪は、40年以上も仕事をした町だが、振り返ってみると、大阪の町を散歩する遊び心というか、心のゆとりはなかった。今は、それができる。そういうことを幸せだと感じる。

          ★

細川ガラシャのことなど >

 上町台地とその周辺を歩くことが多い。

 環状線の玉造駅から西へ向かい、空堀町の交差点を右折して、大阪城の方へと歩いて行くと、上町台地らしい雰囲気になる。

 私立の名門校・大阪女学院は、アールヌーボー調の門が、ミッションスクールらしい。

 

    ( 大阪女学院 )

 その先に聖マリア大聖堂、そこから100mほども行った三叉路の中に「越中井」がある。

         ( 聖マリア大聖堂 )

 聖マリア大聖堂は、「大聖堂」と名が付くから、司教座のある教会だ。ヨーロッパの大聖堂のもつ中世風の荘厳さはないが、清楚なたたずまい。左右に高山右近の像と細川ガラシャの像があり、側面に二人のことを記したパネルも掲げられている。

 キリシタン大名であった高山右近は、豊臣秀吉のバテレン追放令で前田利家の客将になり、徳川家康の禁教令のときに、追放されて、フィリピンのマニラで客死した。

 明智光秀の娘・玉子 (後、洗礼名ガラシャ) は、細川家の長男・忠興に嫁ぐ。媒酌したのは織田信長。美人で、かつ才媛であり、夫との仲は睦まじかった。

 しかし、実父が本能寺の変を起こす。この折、細川家は彼女を離縁、幽閉することによって、謹慎した。

 その5年後、秀吉のバテレン追放令のあと、洗礼を受けて、信仰の人となる。洗礼名のガラシャは恩恵の意、とある。 

     ( 越中井 )

 「越中井」と書かれた石碑と石の井戸は、地蔵堂とともに、道路の三叉路の真ん中にあり、樹木に囲まれている。「越中井」の文字は徳富蘇峰の手。碑の側面の説明の文章は 『広辞苑』 の新村出博士。

 大阪城の南の地のここに、細川越中守忠興の屋敷があった。井戸は、焼失した細川屋敷の台所にあったもので、火を放ったのは、ガラシャ夫人である。

 設置されたパネルの説明によると、細川忠興は、徳川家康が会津上杉の討伐に向かったとき、これに従って出陣。その後、家康を撃つべく石田三成が挙兵し、出陣に際して、各大名の妻子を人質として大阪城中に入れた。細川ガラシャはこれを聞き入れず、石田勢に屋敷を包囲され、火を放って、果てたという。 

         ★

難波の宮跡と難波の津 >

 このあたり、北と西に向けて、ゆるやかな上りになっている。

 気持ちの良い歩道を北に歩いて行けば、上町台地の最北端・大阪城公園に出る。

 

 道の西は法円坂という地名で、ここには難波の宮跡がある。

    ( 難波の宮の大極殿の跡 )

 難波の宮跡の遺跡公園は、大極殿の柱跡のある石の壇を除けば、何もない広場である。発掘調査の後、再びこの下に多くのものを眠らせたのであろう。

   大きな樹木があり、その木陰で腰を下ろしている人、草地でサッカーボールを蹴る親子、石壇の上にいる10人ほどのグループは古代史愛好家のおじさん、おばさんたち。古代史愛好家は、年配者に多い。「歴女」などと呼ばれる若い女性歴史愛好家は、坂本龍馬だとか、土方歳三だとか、伊達政宗だとかがお好みである。

   ここには2度、宮殿が置かれた。

  1度目は、645年の大化の政変の直後。皇極天皇 (中大兄皇子の母) は皇位を軽皇子 (孝徳天皇) に譲り、都は飛鳥から難波に遷された。長柄豊碕宮 (ナガラ・トヨサキノミヤ) である。ただし、3年後には孝徳が亡くなり、都も再度、飛鳥に遷される。

  2度目は、聖武天皇の726年である。

 難波の宮跡の、ロータリーを挟んだ北西に、大阪歴史博物館のカッコイイ建物があるが、その前に、およそ周囲にそぐわない建物が建てられている。

   ( 5世紀の高床式倉庫の復元模型 )

 5世紀後半 (古墳時代中期) のものと推定される高床式倉庫の復元である。ただし、これは20分の1の復元模型。1棟の大きさ90平方メートルの倉庫が等間隔で16棟も整然と並んでいたという。いったい何を納めたのであろうか??

 なぜ、ここなのかは、わかる。このすぐ北、現在の天満橋のあたりに、難波津があった。津(港)があれば、交易があり、倉庫が必要である。

 縄文時代から弥生時代、古墳時代のころ、上町台地は、南から北へ、海の中に突き出た細長い半島であった。

 上町台地 (半島と言うべきか) の北縁は、大阪城の北縁から難波津のあった天満橋の辺りである。その先は海であった。

 上町台地 (半島) の西側は、すぐに海に切れ落ちて、瀬戸内海の浪が岸を洗い、天気の好い日には、難波の宮からも行き交う船の姿が見えたはずだ。

 上町台地 (半島) の東側は、西側よりもややなだらかに下るが、それでも現在のJR森ノ宮駅の東側は、海であった。その海は、上町台地 (半島) によって瀬戸内海と遮断された、波静かな入江・「河内湾」である。

 河内湾には淀川水系と大和川水系が流れ込んでいたから、時代を経るにつれ、これらの河川から流入する堆積物によって、河内湾は河内湖となり、淡水湖が湿地帯となり、やがて河内平野となった。

 だが、古代においては、河内湾は、流れ込む大和川とともに、大和と瀬戸内海を結ぶ重要な交易路であった。

 河内湾の東縁は、生駒山脈の麓、今の東大阪市である。

 河内湾の南縁は、近鉄線の鶴橋駅から瓢箪山駅のあたりまで。

 北九州や、遠く朝鮮半島から、難波津に運ばれてきた物資は、若江、菱江、豊浦、日下江などの河内湾南縁の港を経て、大和川を遡り、大和の国の卑弥呼の都や崇神天皇の宮殿へと運ばれたのである。(『東アジアの巨大古墳』の中の水野正好「古代湾岸開発と仁徳天皇陵」を参照)

          ★

首都はそうあらねばならない >

 大阪城公園は、大きな樹木が繁って森の風情があり、まだ寒い時季から梅林の梅が優美な花を開き、春には桜、秋には紅葉、黄葉が美しく、目を上げれば、天守閣が青空に映える。日本のあちこちのお城を見る機会があったが、大阪城の堀の規模にしても、石垣の石の大きさやその高さにしても、やはり他に類を見ない壮大な城郭であると思う。

  ( 堀を隔てて望む天守閣 )

       ( 梅  林 ) 

   ( 近代的なビルと城壁 )

 「南蛮文化の正確な受けとめ手であった織田信長は、近江の安土城にあって大坂の地を欲し、石山本願寺に退去を命じ、これと激しく戦った。ようやくその湾頭の地を手に入れたものの、ほどなく非業にたおれた。大坂に出るべくあれほどに固執した信長の意図は、想像するに、ポルトガル人たちから、リスボンの立地条件についてきいていたからであろう。リスボンは首都にして港湾を兼ね、世界中の珍貨が、居ながらにして集まるようにできている。信長にすれば、

 『首都はそうあらねばならない』

と思ったにちがいなく、その思想を秀吉がひきうつしに相続した。」 ( 司馬遼太郎 『街道をゆく23 南蛮のみちⅡ 』)。

 かつては、修学旅行の小・中学生が訪れ、近隣の人たちの散歩コースでもあり、市民ランナーが昼休みにひと汗かき、放課後には近くの高校の運動部が走りに来る、やや閑散とした空間で、一時はブルーシートが乱立したこともあったが、この数年、観光バスが激増し、バスから観光客が次々と降りてきて、天守閣に上がるにも行列ができ、我々とよく似た顔立ちであるが、聞こえてくる言語は日本語ではない。

 どのような知識を得て、「豊臣秀吉」の城の跡を見学しているのであろうか?? ちょっと気になるところである。

 それはともかく、公園内のあちこちに、一昨年から昨年にかけては 「大阪城落城400年祭」の幟り、昨年から今年にかけては六文銭の幟りがはためいて、なかなか元気がいい。

 今や、天守閣をいろんな色模様に彩色するライトアップのる夜も、あるらしい。

 

 

 

 

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春の 「竜田公園」 散歩道……散歩道10

2015年05月05日 | 随想…散歩道

  「竜田・三室・神奈備といった万葉故地にかかわる地名は、斑鳩町にある。しかしそれらは後世のコピーであって、竜田のオリジナルは、やはり竜田大社を中心にすえた地域一帯 ( 奈良県の三郷町から大阪府の柏原市 ) に求めるべきであろう」 (犬養孝監修 『万葉の道…明日香編 』)。 

 生駒山 (642m) から南へと尾根が続く山並みの、その最南端が大和川に切れ落ちるところに、竜田山がある。その竜田山の一部を指して三室山と言うらしい。龍田大社の神域である。

 龍田大社には、秋の女神である龍田姫も祀られているが、紅葉で有名な竜田川は、大和川の竜田山近くを流れる部分を言った、とされる。

         ★

 「後世のコピー」とされる斑鳩町のその辺りは、近年、「奈良県立竜田公園」としてきちんと整備された。

 竜田川沿いに2キロ。その一角には三室山があり、春の桜、秋の紅葉の名所である。

 ただし、地元の人たちが楽しむローカルな名所で、観光客が押しかけるようなことはないから、桜をのどかに楽しむにはなかなかに良いところである。

 本日のテーマは、この竜田公園。

 ただ、コピーを本物のようにして紹介しているように思われるのは気が咎めるから、斑鳩町には悪いが、もう少しコピーであることを言っておきたい。

 その三室山の麓に石碑があり、

   ちはやぶる / 神代も聞かず / たつ田川 /

        からくれなゐに / 水くくるとは

                                   ( 在原業平)  

   嵐ふく / 三室の山の / もみぢ葉は /

        たつ田の川の / 錦なりけり ( 能因法師 )

の二首が紹介されている。

 二首目は、上三句と下二句の関係が「原因→結果」の関係で、眼前の景としては、おびただしい紅葉の落ち葉が竜田川を錦に染めて美しい、と言っている。そして、その源に思いを馳せ、三室の山を強い風が吹いて、紅葉を盛んに落葉させているからであろうと、推測しているのである。

 もっとはっきりと、眼前の竜田川の錦を見て、三室の山奥を想像する歌に、次のようなものもある。

   たつた川 / もみぢ葉ながる /

   神なびの / みむろの山に / 時雨ふるらし

                              ( よみ人知らず )

 この歌の場合、竜田川と三室山では気象現象が違っている。眼前のたつた川の紅葉を見て、三室山の時雨を推定しているのである。このように三室山は、竜田川に対して、いかにも奥深い山である。

 下の写真のような、川のそばの小さな「丘」では、いかに作歌上の誇張としても、不自然である。

  ( 斑鳩町の竜田川と三室山 )                

         ★

 とは言え、それはそれとして、三室山の桜は本当に素晴らしい。丘全体が桜におおわれ、竜田川の流れに沿う桜の林につながり、お天気が良いと、橋の上では、かなりの人数の人が、画架を立てて写生をしている。              

 山頂まで、5分も歩けば達するが、桜越しに見る春の大和平野ものどやかである。古代の豪族の長が、ここから国見をしたであろうか? このあたり、平郡氏という有力な豪族がいたらしい。

 

   ( 三室山から見た大和平野 )

  川沿いの2キロに散歩コースが整備され、地元の老若男女が、花見を楽しんでいる。

 まだひんやりした空気の漂う川沿いの散歩道には、桜だけでなく、椿や雪柳も咲いて、楽しい。 

  

    ( 雪 柳 )

        ★

 3月末から4月初めの桜の時期を過ぎ、4月下旬の晩春のウォーキングも良い。

    ( 2キロの散歩道 )

 大和の田舎道には石仏があるが、ここでも大切に祀られている。その周りの新緑や山吹の明るくやわらかな彩りもよい。

 

   ( 新緑と山吹 )

     ( 石 仏 )

 付近の山も新緑で、遠くに山桜がひっそりと咲いている。

 近くには、辛夷の一種だろうか、白い花びらが優雅である。

     ( 辛夷?)

 この時期は、歩いていると、うっすらと汗ばんでくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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まさをなる 空よりしだれざくらかな……散歩道(9)

2015年04月02日 | 随想…散歩道

  

  梅がふくらむ頃は、まだ寒く、空気はきゅんと冷たい。

         ★

 椿が次々と、咲き始めると、春がそばまで来たと感じる。

 椿は漢名では「山茶」 (サンチャ)。庭のワビスケ (侘助) も清楚で可憐だが、山里に自生している椿も風情があっていい。

 仰向きに  /  椿の下を  /  通りけり     

            池内たかし

  

         ★

 つぼみのときの白いモクレンが好きだ。

   春の花の中では、最も好きな一つである。青空に、つぼみがふっ、ふっと浮き出した様子が、高貴なお姫様のようで可愛い。

 モクレンが咲き始めると、気候は一気に暖かくなり、春が来たと実感する。

 ところが、俳諧歳時記を見ていると、モクレン (木蓮) は落葉灌木で、紫の花が咲くらしい。

   単なる色違いと思っていたが、私の言うモクレンは、「白木蓮 (ハクモクレン) 」のことで、こちらは落葉喬木。高さは5メートルほどに達し、木蓮とは別種だそうだ。本当に知らないことばかりで恥ずかしいが、姉妹ではなくても、親戚ではあるだろう。

 白木蓮に似ているコブシ(辛夷)も、早春の信州など山国で見かけて、春の訪れを感じる。

         ★

 明るさの / 彼岸桜や / ひと恃まず

            山口草堂

 桜でいちばん早く、彼岸のころに咲くのが彼岸桜。「ひと恃まず」とは? 間違っていたらみっともないから書かないことにするが、この花の風情として、何となく、わかる気がする。

         ★

 この時期になると、八幡神社の小さな社の上の杜の木々の中から、ウグイスの声が聞こえるようになる。静寂の中に、まるで神の使いのようだ。

         ★

 本物のカエルも、冬眠から覚めて、庭に見かけるようになるが、置物の蛙の周辺にも、春の到来を告げる野の花が咲く。

 

         ★  

 私が住む町に、遍照院という小さなお寺がある。その寺に、町の指定文化財になっているシダレザクラがある。

 寺は山懐にあり、わが家から離れていて、車も入らないので、長年、行きそびれていた。

 それが近頃は散歩をするようになり、その距離は気にならなくなった。

 だが、昨年も、開花とタイミングが合わなかった。

 今年こそはと思って、二度、出向いた。

 二度目は、青空が美しく、ぽかぽかとした陽気で、山里を歩くには絶好の日よりだった。

         ★

 シダレザクラはほぼ満開だった。

 「ソメイヨシノに先立ち開花する。樹齢は250年を経過していると思われる」と町の教育委員会の立てた看板に書いてあった。

 まさを(真っ青)なる /

  空よりしだれ / ざくらかな

          富安風生

 土地の人と思われる写真機を持ったおじさんが同行の人に、「この木も、元気がなくなってきたなあ」と言っていた。

 そういわれれば、見た感じ、そうかもしれない。でも、ここまでがんばって生きてきたのだから、これからあと、さらに250年はがんばってほしい。

        ★

 エドヒガンと呼ばれる桜があり、山野に自生し、また観賞用として栽培される。その園芸品種の一つが枝垂 (シダレ) 桜。ソメイヨシノもその一つ。名に「ヒガン」が付くが、彼岸桜とは全く別種のものらしい。

 20メートルにも及ぶ高木にもなり、横に広がった太い枝から細い枝が垂れ下がって、優美である。京都にはこの名木が多く郷土の花になっている、と俳諧歳時記にある。

 

 

 

 

 

 

 

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山笑ふ … 散歩道 8

2014年04月24日 | 随想…散歩道

 山笑ふ……以前、物知りの国語の先生から聞いた言葉。改めて調べてみた。

 『俳句歳時記  春の部』 (角川書店編) によると、

  山笑ふ……冬山の蕭条たる感じを 「山眠る」 というのに対し、春の山の明るい感じを 「山笑ふ」 という、とある。

  「春山淡冶(タンヤ)にして笑ふがごとく、夏山蒼翠にして滴るごとく、秋山明浄にして装ふがごとく、冬山惨淡として眠るがごとし」 (臥遊録) が出典らしい。

  春は「山笑ふ」、夏は 「山滴る」、秋は 「山装ふ」 、そして冬は「山眠る」 と、 会話の中ですらすら話す先生の知識に感心した。

 世界は言葉によって広がる。

          ★

  桜が散ると、今まで蕭条としていた山が、もこもことふくらんでくる。

 近くで見る樹木が新緑を着けて美しくなるから、山のすべての木々がこのように新緑で装い始め、それで山全体がもこもこという感じに見えるのだろう。

   (大和川の向こうの信貴山)

 大和川の河原も、一面に黄色の花でおおわれる。

          ★

 大和川に架かる橋の上から見下ろすと、流れが変わるあたりの浅瀬に、鯉がたくさん泳いでいる。

 ( 橋の上から望遠で撮影 )

 以前、大和川の水は汚く濁り、その濁った川べりで鯉を釣っている人をよく見かけたものだ。最近は、鯉釣りをする人を見ない。透き通った流れの中で、鯉たちは増え、悠々と遊んでいるように見える。

 

  ( たんぽぽ )

 たんぽぽは、円い綿毛が面白い。

 京生まれ、はんなり美人の女性写真家が、写真技術指導のテレビ番組に出演した時、「写欲をそそる」 という言葉を使って、なるほどと印象に残ったが、たんぽぽの綿毛は 「写欲をそそる被写体」 である。

                             ★

 今日の散歩は、春日神社まで。

 「春日大社」では、ありません。小さな、人けのない、旧村の神社です。

  (春日神社の鳥居)

 社の上の新緑のなかで、鶯が正調で鳴いている。

 小鳥の鳴き声以外には聞こえるものがなく、小鳥が神々のように感じられる。

   

  ( 春日神社の小さな社 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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里の春 … 散歩道 7

2014年04月22日 | 随想…散歩道

 4月上旬、桜のシーズンを迎えたときの散歩の写真をいく枚か掲載する。

 うららかな陽気に誘われて、いつもとはちょっとコースを変え、旧村の方へ足を伸ばした。

      ( 畑の桜 )

 あちらにも、こちらにも、椿や桜が咲いて、それが青空に映え、今さらながら「日本の春」はいいなあと思う。

 自宅の家の前の畑で農作業をする人も。

      ( 石垣の農家の桜 )

 江戸時代の庄屋さん級の立派なお屋敷もある。

   ( 立派なお屋敷 )

 先日、近鉄特急に乗って、お伊勢さんに参拝した。その折、上六から伊勢へ向かう車窓風景を眺めていて、思った。

 列車が大都会の大阪から、やがて緑豊かな奈良県に入って、三重県に至るのだが、車窓を流れる大和の農村風景がいかにも豊かなのである。大小の農家の家ものいずれも、構えがしっかりしており、村里、山里のそこここに古木の桜が今を盛りと咲き誇って、目を楽しませてくれた。

 遠い昔、奈良に都があった時代、大和は国のまほろばだった。

 平安時代になって都が山城の国に遷されても、大和の国には朝廷に重んじられた有力寺社が数多く存在し、開明的な土地であり続けた。

 やがて世は武士の時代になったが、大和の国に守護職は置かれず、興福寺がその役を担ったという。

 250年続いた江戸時代も、大和の国は徳川譜代の大名や幕臣によって分割統治されていた。

 平安時代以後、華やかな京都、武士の鎌倉や、町人の大坂、天下の諸大名が邸を構えた江戸の陰に隠れて、大和の国にこれという商業都市は誕生せず、農業と林業と、寺社仏閣に頼って生きてきた国であったが、気候も温暖、災害も少なく、何よりも統治者に恵まれ、経済的にはそこそこ豊かに歩んできたのであろう。 

    ( 山里の満開の桜 )

   桜は、青空を背景に、静かに、うららかに咲いているのが良い。見物者が増えると、俗なるものになる。

 或いはまた、やわらかい緑にも、映える。

       

      ( 竹藪に桜 )      

 桜がなくても、竹林は、透過光をうけて、爽やかだ。

     ( 春の竹林 )

 ぐるっと回って、いつのまにか、いつもの小さな、人けのない神社にやってきた。

     ( 八幡社 )

 神社とは、本来、木々の鬱蒼とした杜であった。社が造られるようになったのは、ずっと後世のことだ。

 里の春は、まことに神々の宿る春である。

 

 

 

 

 

 

 

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秋になり、散歩復活です

2013年10月09日 | 随想…散歩道

 これから色付こうとする柿の実の下に彼岸花・曼珠沙華。

 むらがりて / いよいよ寂し / ひがんばな

                               (日野草城)

 森に入らんとして / 径細し / 曼珠沙華

                            (楠本憲吉)

         ★

 暑い夏の間はさすがに散歩はひかえた。

 もっぱら近くの公営プールに通う。

 屋外には25mのプールのほか、大きな流水プール、子供用の小さなプールなどがあり、夏休みの間、家族連れで大いににぎわう。

 だが、かんかん照りの屋外は敬遠して、年中開いている屋内の温水プールに行く。12mしかない小さなプールだが、冬でも年配者には大人気で、泳いだり、水中ウォーキングしたり。

 それでも、夏の間は子供や中学生、高校生などが屋外プールに飽きて、屋内プールにやってくる。来るときはグループだ。水しぶきがはなはだしい。かさばる。落ち着かない … と、年配の常連客はみんな心の中で思っている。

         ★                                          

 やっと少し涼しくなったので、散歩を復活する。

 夏の間は、村の社に行っても、境内に入った途端、汗のにおいをかいで、蚊の大群に襲われる。その蚊も夏と比べれば減ってきた。

 秋の蚊の / よろよろと来て / 人を刺す

                                   (正岡子規)

 まだまだ油断はできません。「よろよろ」なんて、そんなヤワな生き物ではない。

 

 秋の七草の一つ。どこかのお家の垣根から覗いていた白萩がきれいでした。

 「初秋のころに、…… 紅紫色の花を開く。 栽培変種が多く、白色花のものはことのほか美しい」(『俳句歳時記』角川書店編)。

  

 農家の軒先近くにある石仏にも、三種類の菊が供えられ、石仏様はすっかり隠れてしまいました。

  

 散歩の途中、すこし開けた所に出ると、双耳形の姿を見せる信貴山。だいぶ日が傾いてきた。今日は、70分、歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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