ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

よみがえれ!! ノートル・ダム大聖堂 … 観光バスでフランスをまわる12/12

2022年08月13日 | 西欧旅行…フランス紀行

   (パリ発祥の地・シテ島/2015年撮影)

<ルーブルはノルマンディ公国への備え>

 この項は、紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』を参考にした。

 パリの街を囲む城壁が初めて造られたのは12世紀のこと。築かせたのはフィリップ2世(在位1180~1223年)。

 費用は、セーヌ右岸はセーヌ川の河川交易で繫栄していた商人たちに負担させた。セーヌ左岸はサン・ジェルマン・デ・プレ修道院などの修道院や大学の街だったから、王が出費した。

 それにしても、12世紀のパリの街はまだ小さかった。城壁で囲った範囲は、おおよそ、東はサン・ルイ島の東端、西はシテ島の西端まで。それでも、南北には田野も含まれていたという。

 フィリップ2世が仮想敵として備えたのは、あのノルマンディ公国。

  フランス王と言っても、フィリップ2世が王位に就いた時、フランス王の所領はイル・ド・フランスの範囲だった。王と主従の封建関係になってはいるが、フィリップ2世よりも遥かに大きな領地を支配する領主がフランス各地に盤踞していた。ノルマンディ公国もその一つ。いや、ノルマンディ公国はすでにイギリス王を兼ねていたのだ

 ノルマンが攻めてくるとしたら …… 必ず多数の軍船でセーヌ川を遡ってやってくる。そう考えたから、フィリップ2世は、町を囲む城壁の西側に砦も築いた。それが元祖ルーブルである。ルーブルとは砦という意味ももつらしい。

 フィリップ2世は「尊厳王」と呼ばれる。在位期間も長かったが、リアリストで、戦略に優れ、生涯かけて王権を拡大し、最後には今のフランス全土をほぼ支配した。最強の敵だったのはあの獅子王リチャード。彼の死後、リチャードの弟のジョン王はフィリップ2世に手玉に取られた。だから、ジョンは英国で「失地王」と呼ばれる。

 その後、英仏百年戦争(1339~1453)の時、フランス王シャルル5世がパリの城壁を広げた。その結果、ルーブルは城壁の中に位置することとなり、砦の役目を終えて、庭園付きのルーブル宮殿へと造り変えられた。

 もっとも、今のような立派な規模になるのは、ずっと後のことである。

   (ルーブル美術館)

    ★   ★   ★

<⑷ ストライキのヴェルサイユ宮殿>

10月12日 晴れ

 今日は、このツアーの最終日。今日の予定は、午前中、ヴェルサイユ宮殿を見学。午後は自由行動。

 朝、バスに乗り込むと、ガイドのムッシュが「今日は、サルコジ大統領の年金法案に反対するストライキが予定されています。もしストライキに突入すれば、ヴェルサイユ宮殿の研究員や職員もストライキに入ります。その場合、ヴェルサイユ宮殿はロックアウトされ、見学はできません。時間ギリギリまで交渉が行われ、まだどうなるかわかりませんので、とにかく開館時間に間に合うようにヴェルサイユへ向かいます」とのこと。

  (ヴェルサイユ宮殿の正面)

 イタリアとフランスはストライキが多い。

 1995年の視察研修旅行の時は、我々の帰国便がシャルル・ド・ゴール空港を飛び立った1時間後に、フランス全土がゼネストに突入した。ゼネストは長期間に及び、帰国後、日本でもその様子が日々、ニュースで流れた。もし1時間早くゼネストが始まっていたら、飛行機は言うまでもなく、列車も、地下鉄も、市営バスもストップし、我々は帰国の手段を失い、日常品も手に入るかどうかもわからず、ホテル代ばかりが嵩むところだった。

 2002年の個人旅行の時には、シャルル・ド・ゴール空港職員のストライキがあり、行きも帰りも空港が大混雑した。往路はロス・パッケージになり、帰国便は半日遅れで成田回りになった。同じ帰国便で席が隣り合せになった京都の人は、観光ではなく仕事でパリに来ていた。前日が帰国の予定で、空港にやって来たが、搭乗予定の便は「キャンセル」。空港のチェックイン・カウンターにいた空港職員と交渉・抗議したが、「組合がストライキをしているのであって、私たちに責任は取れない」の一点張り。仕方なく、自費でパリに戻って1泊したという。「今日もどうなるかわからなかったが、成田回りでも帰国できてうれしい」と言っていた。

 案の定、ヴェルサイユ宮殿は閉鎖していた。開場とともに入場しようと早起きしてやってきた観光客たちが、門扉越しに中を覗き込んで、やがて諦めて帰って行く。

 空は雲一つない青空なのに。

 (ロックアウトのヴェルサイユ宮殿)

 1995年の研修旅行の折にヴェルサイユ宮殿は一度見学していたから、私自身はもう十分だった。絢爛豪華だとは思ったが、2度も見学したいとは思わない。団体旅行なので、おつきあいで来ただけだ。

 フランス語に「シック(chic)」という言葉がある。粋(イキ)なさま。上品でおしゃれ。「シックな装い」など。

 ヴェルサイユ宮殿はやり過ぎ。シックなどというレベルではない。つまりは、ダサい。王も(領主も、教皇も)、質実剛健に徹している間は「われらが王」であることができる。限りなく贅を尽くし、絢爛豪華を追い求め出したら、おしまいだ。

 しかし、ツアーの一行の中には、今回のツアーで一番期待していたのはヴェルサイユ宮殿なのにと、嘆いている人が何人かいた。いろいろな物語やアニメの舞台になっているから、期待度も高く、気の毒だった。

 庭園はのぞくことができた。

 (ヴェルサイユ宮殿の庭園)

 こういう幾何学的で、人工的な、しかも、おそろしく広大な庭園では、マリー・アントワネットも心が癒されることはなかったろうと思う。実際、庭園の森の中に小屋を建て、好んでそこへ行ってお茶をしていたらしい。

 ガイドのムッシュが、時間があるからと、ヴェルサイユ宮殿の近くのノートル・ダム寺院に寄ってくれた。ふだん、観光の対象になる教会ではない。

 (ノートルダム教会)

 それでも、扉を開けて中へ入ると、外界の喧騒と切り離された静寂の空間があった。青を基調としたステンドグラスも美しかった。

       ★

<⑸ 邸宅の美術館>

 バスでパリへ戻り、免税店に寄って、そのあと遅い昼食。

 そして、各自、自由行動となった。

   パリにはもう何度も来ているので、新たに見学してみたいという所はない。だが、見学しようと思えば、いくらでも見所があるのがパリ。観光客には懐の深い街だ。

 1か所ぐらいは新しい所へ行ってみようと、地下鉄に乗って「ジャックマール・アンドレ美術館」へ。

  (パリの地下鉄)

    銀行家であったアンドレと画家であった妻のジャックマールが、19世紀に貴族趣味の邸宅を建てて、絵画、彫刻などの美術品を収集。それらを瀟洒な各部屋や廊下や階段の踊り場に飾っていった。今は、その子孫によって、そのままの姿で私立の美術館になっている。ポッティチェリやルーベンスなどの絵画の数々、彫刻、陶器、タピストリー、そして、邸宅そのもの、各部屋のしつらえや調度品なども鑑賞し楽しめるようになっている。

 以前、パリのマレ地区にあるピカソ美術館に行ったことがある。美術館の建物はサレ館と呼ばれる17世紀の貴族の邸宅で、そこに200点以上のピカソの絵画、彫刻、絵皿、版画などが飾られていた。

 貴族の邸宅に飾られたピカソの作品の数々を見ながら、…… ピカソのあの超現実的な作品が、伝統的でクラッシックな貴族の邸宅の部屋や廊下に見事に調和し、シックであることに驚き、目が覚めるような気がした。

 このことは、日本で催される「ピカソ展」の展示場に架けられたピカソを見ていたときにはわからないことだった。中世のノートル・ダム大聖堂のステンドグラスの美は、各時代の美術家たちによって引き継がれ引き継がれて、そういう流れの一つとしてピカソの絵も生まれてきた。

 伝統の中から、新しいものが生まれてくる。ピカソの絵も、ヨーロッパの美の伝統の中にあるのだ。

       ★

<⑹ シテ島とノートル・ダム大聖堂>

 ジャックマール・アンドレ美術館を出ると、もう予定は何もない。あれも見学しなければ、これも見逃してはいけないなどという強迫観念はない。あとは何度でも訪れたい自分のパリを歩くだけだ。

 まずは、パリ発祥の地のシテ島、そして、そこに建つノートル・ダム大聖堂へ。

 (ノートルダム大聖堂)

 この大聖堂前の広場に、星印のプレートが埋め込まれている。そこがパリのゼロ地点。そこを0として、パリの住所は時計回りの渦巻きで、1区、2区、3区 …… と定められている。

 BC3、4世紀頃には、ケルトの一族のパリシイ人が、セーヌ川の中の島であるシテ島に集落をつくり、船に乗って河川を使った交易業を営んでいた。それがパリという大都市の原点。パリ(paris)は、パリシイ人(parisii)に由来する。

 ちなみに、ヨーロッパの川は日本のように急流ではないから、河川を使った物流・交易は、19世紀に列車が走り、さらにトラック輸送が盛んになるまで、ずっと主流だった。フランス、ドイツ、オランダなどには、河川と河川をつなぐ運河も張り巡らされている。

 BC52年、ユリウス・カエサルのローマ軍団がやってきて、セーヌ川の左岸にローマ風の町を建設した。

 今も、セーヌ左岸はラテン地区と呼ばれる。中世から近世に到るまで、左岸はパリ大学や修道院の街で、ヨーロッパ各地から集まってきた学生や聖職者たちの間ではラテン語が共通語だった。フランスの普通科高校(リセ)で、ラテン語が必修科目から外されたのは第二次世界大戦のあとのことである。

 18世紀に、ノートル・ダム大聖堂の内陣の下から、ローマのユピテル神に捧げた石柱が発見された。その石柱は、セーヌ川の船乗りたちが、第2代ローマ皇帝ティベリウスに奉献したものだった。皇帝ティベリウスの在位はAD14~37年である。

 この発見は、キリスト教文明(ヨーロッパ文明)が、ローマ文明の上に築かれたということ、さらにその古層にケルトの文明があったことを象徴的に表している。

 そのキリスト教文明の精華は、10世紀に始まり12、13世紀に盛期を迎えたロマネスク大聖堂とゴシック大聖堂(だと私は思う)。

 そのゴシック建築の精華がパリのノートル・ダム大聖堂。そして、その窓に輝くステンドグラスの美。

 (ノートル・ダム大聖堂のステンドグラス)

       ★ 

<⑺ セーヌ左岸>

 大聖堂から、ポン・ヌフを渡って、セーヌ左岸へ。

 セーヌの川沿いに、右岸のルーブル美術館を見ながらしばらく歩き、左折して国立美術学校とフランス学士院の間の石畳の小道へ。

 美術学校御用達の文房具店、アンティーク・ショップ、アトリエ兼美術商店、小さなカフェやプチホテルなどが並ぶ小道を行くと、これも小さなドラクロワ美術館があり、その先に大修道院長の館が現れる

 (大修道院長の館/2015年撮影)

 この小さな広場と、樹木の形、そして大修道院長の館の色彩が、気に入っている。

 その先が、サン・ジェルマン・デ・プレ教会。中世のパリでは、左岸を代表する老舗の大修道院だったが、今は塔と礼拝堂しかない。

 その前の小さな広場をはさんで「カフェ・ドゥ・マゴ」。背中合わせに「カフェ・ド・フロール」がある。

 「カフェ・ドゥ・マゴ」の窓際の席に座ると、ガラス張りの向こうにサン・ジェルマン・デ・プレ教会のロマネスクの古い塔を眺めることができる。

     (サン・ジェルマン・デ・プレ教会)

   「かつてジャン・ポール・サルトルがシモーヌ・ド・ボーヴォアールと連れ立ってあらわれ、時には執筆もしたという「カフェ・ドゥ・マゴ」にすわり、夕暮れからの冬の風景を眺めていると、戦後の思想と文学、そして風俗の中心であったこの界隈のおもかげがうかんでくる。服装はみすぼらしくとも、その思想はさわやかで颯爽としていた」(饗庭孝男『フランス四季暦』から)。

 日が暮れる。もう晩飯の時間だ。

 すぐ近くに、外観がアール・ヌーボーのレストラン「ル・プチ・ザンク」がある。この界隈を歩くと気になったが、お高そうで敬遠していた。思い切って入ってみた。

 前菜に生ガキを注文。

 フランスへの視察研修旅行でル・マン市に滞在した折、添乗員氏に魚介類専門のレストランに連れて行ってもらった。その時食べた生ガキが、忘れられないほど美味しかった。

 パリのレストランでは、生ガキは料理のうちに入らない。レストランの入口の外に、おじさんが産地から運んできた新鮮な生カキを置いて立っている。客がレストランの店員に注文すると、店員は外に出てカキ屋さんから生ガキを買ってきて、ざら氷を盛った皿に殻の付いたままのカキを載せ、レモンを添えて出してくれる。白ワインによく合う。

 お会計は意外に安く、まあ、敬遠するほどのことはなかった。

       ★

<⑻ エッフェル塔のライトアップ>

 旅のフィナーレはエッフェル塔のライトアップを見よう。

 サン・ジェルマン・デ・プレから地下鉄を乗り継いだ。

 (イエナ橋と瞬くエッフェル塔)

 ライトアップされたエッフェル塔は、定時になると、暫くの間、チカチカチカと瞬く。周囲から歓声が上がる。パリは夜も楽しい。

 堪能し、タクシーでホテルまで帰った。

      ★

10月13日

 午前、パリのシャルル・ド・ゴール空港を離陸し、ドイツのフランクフルトで乗り換えて、午後、関空へ向かった。

 日没に追いかけられ、追い越されて、夜明けの日本を迎えに行く。(了)

  ★   ★   ★     

   2010年のこのツアーの後、個人旅行で、2013年に「フランス・ゴシック大聖堂を巡る旅」へ。

 2015年には「陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅」へ行った。

 それらは既にこのブログに書いている。

 …… その後、ノートル・ダム大聖堂が火災で半焼した。

 今、長い修復の時に入っている。

 再びよみがえったノートル・ダム大聖堂を私が目にすることはないと思うが、再生の日の早く来ることを心から願う。

 

(2013年撮影。曇天のセーヌ川とエッフェル塔。右端はシャンゼリゼ通り)

(2013年撮影。ノートル・ダム大聖堂東側)

(2015年に撮影。ノートル・ダム大聖堂西側)

 

     

  

 

 

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「たゆたえども沈まず」 … 観光バスでフランスをまわる11/12

2022年08月07日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ポン・デザールとルーブル美術館)

 10月11日 晴れ

 朝、モン・サン・ミッシェル近くのホテルを出て、バスでパリへ向かった。パリまで360キロ、4時間半。長時間のバスの旅も、これが最後だ。そして、この旅も、パリの2日間だけとなった。

 パリでは、昼食にエスカルゴが出た。かたつむりは初めてだ。

 食べてみると、コンガリとしてなかなかの美味。 しかし、自分から注文して食べようとまでは思わない。

      ★

<⑴ 車窓観光 ─ パリの景観>  

 昼食後、観光バスでパリの「車窓観光」。初めてのパリの定番コース。

 中年のムッシュがガイドとして乗車してきた。流暢な日本語で体育会系のあいさつ。「私、若いころ、日本に留学いたしまして、京都の同志社大学を卒業しました。在学中は応援団に所属していました。皆様の中には、同窓の大先輩のマダムやムッシュがいらっしゃるかもしれません。ご無礼があるかもしれませんが、今日と明日、何卒よろしくお願いいたします」(笑いと拍手)。

 面白いが、控えめで、知的なものも感じさせて、駆け足のパリ観光にはもったいないガイドさんだった。

   観光バスは、セーヌ河畔、ノートル・ダム大聖堂、コンコルド広場、凱旋門、シャンゼリゼ通りなどを車窓から眺めながら、パリの街を走る。

  (セーヌ河畔の二人)

 そして、定番通り、エッフェル塔で下車観光。

 ショイヨー宮のテラスからエッフェル塔とパリの景色を眺望する。季節も良く、空は晴れて、心地良かった。「(シャンソン) パリの空の下、セーヌは流れる」。

    (ショイヨー宮のテラスからエッフェル塔)

 エッフェル塔が単独で聳えているのではない。私たちが今いるのはショイヨー宮。眼下前方にセーヌ川とイエナ橋。橋を渡ればエッフェル塔が聳えている。その先は整然と広がるマルス公園、そのさらに先にはアンヴァリッドと士官学校の建物が見える。それらが一直線に配置されている。

 パリの美しさは、構成美、端正な美しさ。人工の美。そういう端正な街並みをつくり上げようという強い意志。

 神が自然をつくり、また、神は自らに似せて人をつくられた。故に、人間は自然に対するとき、神に近い存在となる。万能の人間。

 日本では、まず自然がある。人は自然から生まれて自然の中に返っていく。「自然に~なる」とか「自ずから~なる」と言う。この場合の「自然」は、西洋人の「Nateur」の意ではない。「Nateur」は万能の人間の対象物。「自然に」とか「自ずから」は、人間を超えるものを意識している。人も自然の一部に過ぎない。人が集まれば、「自ずから」町ができる。

 構成美だけではない。エッフェル塔自身も、まるで絹のレースのよう。

 ただし、「パリだ 」「エッフェル塔だ 」と、心が浮き立っていると … このテラスにも観光客にまじってスリがいる。ここは日本ではありません。

                     ★

<⑵ ルーブル美術館のカメラのフラッシュ>

 バスはエッフェル塔からルーブル美術館へ。

 ガラスのピラミッドから入場し、広大な美術館をガイドのムッシュの案内で短期決戦の芸術鑑賞。

(ルーブルのガラスのピラミッドの中)

 数限りない展示室を素通りし、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」とか、ダヴィッドの「ナポレオン1世の戴冠」とか、「ミロのヴィーナス」とかの前で説明してくれる。

 (ミロのヴィーナス)

  (サモトラケのニケ)

 私は「サモトラケのニケ」が好きだ。展示場所も、中2階の踊り場に1体だけ。かっこいい。ミケランジェロやロダンのどの彫刻よりも素晴らしいと思う。

 「サモトラケのニケ」以外では、今回は案内されなかったが、フェルメールの「レースを編む女」かな。小さな絵だし、オランダの画家だから、ルーブル美術館の扱いは「その他大勢」。

 かつて、欧米の観光客はカメラを持っていなかった。カメラをぶら下げて観光しているのは日本人だけだった。「カメラを持って旅をしているのは日本人だけだ。私たちは、自分の目で見、見たものを心に残しながら旅をする」などと言う西欧人もいて、そうかもしれない、カメラを持った旅は旅ではないのかもしれないとたじろいだ。

 ところがコンパクトカメラが普及し始め、欧米の観光客も爆発的にコンパクトカメラを持って旅行するようになった。最初は男性よりマダムやマドモアゼルが多かった。コンパクトカメラは安価。その上、絞りもピントもカメラが勝手に合わせてくれる。ファインダーを覗いてシャッターを押せば、誰でも思い出のシーンを切り取ることができる。

 欧米人観光客の中での爆発的なコンパクトカメラ普及に気づいたのが、このルーブル美術館だった

 フランスの美術館は、フラッシュを焚かなければどこでも撮影できる。欧米のマダム、マドモアゼルも、もちろん日本人のマダムたちも、有名な作品の前に群がって撮影する。ところが、室内だからフラッシュが自動発火する。「フラッシュは禁止よ」と、係員が怒って飛んでくる。ところが、あちらでも、こちらでも、フラッシュが光る。いつもは部屋の片隅に腰掛けてひっそりしていた係員が、あちらへ走り、こちらへ叱責の声。血相を変えている。ところが、どうも彼女たちは、日本人も含めて、シャッターを押す以外のカメラの操作法を全く知らないのだ。少しカメラをいじっているが、相変わらずあちらでも、こちらでも、フラッシュが光る。

 この時期のフランスの美術館の係員は、ふだんの10倍のストレスで、不眠症になったのではなかろうか??

 帰国した後のことだが、フランスの美術館が写真撮影を禁止したという報道を見た。

 それでも、1、2年で撮影禁止は解除された。さすがに自分のカメラのフラッシュを自動発火させない方法を身に付けた人が増えたのだろう。

 それに、コンパクトカメラはすぐに廃れ、誰もが旅先でアイパットやスマホのカメラで撮影する時代になった。だが、今でも、著名な美術館の不朽の絵画の前でフラッシュを光らせる観光客は結構多い。

 かつて、「写真に写すのではなく、心で旅をせよ」と批判していた西欧人も、今は皆、写真をバチバチ撮りまくっている。そして、SNSに投稿する。

 SNSが第一義で、旅はその手段になっていませんか 

      ★

<⑶ セーヌ川河畔の景観は世界文化遺産>

 ルーブル美術館の後はセーヌ川クルーズ。 

 私は個人旅行で行く海、湖、川のどこでも、遊覧船があれば乗る。それも、船室に入ることはない。デッキに立ちっぱなしで、水の上から景色を眺めるのが好きだ。

 セーヌ川の水上から見上げるパリも美しい。そもそもパリが美しいと感じるのは、セーヌ川の流れがあるからだ。

 東はサン・ルイ島に架かるシュリ橋から、西はエッフェル塔のそばのイエナ橋まで、セーヌ河岸一帯の景観は、世界遺産に指定されている。それだけの価値があると思う。

 遊覧船も各種あるが、安く上げようと思えば水上バス(バトー・ビュス)もある。遊覧船と同じコースを1周するし、乗り場も要所要所にある。1日券を買えば、乗り放題だ。ただし、遊覧船のように、天井が開いている、或いは、総ガラス張りの観光用の船ではない。まあ、市内バスと同じだから。それでも、狭いデッキはあるから、舳か艫に立てば展望は開けるし、写真も撮り放題だ。

  (サン・ルイ島)

 セーヌ川には中の島がある。まずパリの発祥の地のシテ島。その東側に小さな橋で接続して、小ぶりのサン・ルイ島。

 いつかサン・ルイ島のマンションに住みたいとあこがれているパリっ子は多いらしい。ちなみに、パリに一戸建て住宅はない。大統領でもマンション暮らしだ。

 「私はいつもポン・マリのたもとから狭い石段を下りて河べりに出る。そこには幅12、3mの散歩道があり、プラタナスの並木が河岸よりにある。石畳のこの道を私はゆっくりと歩いてゆく。秋の日、金色の落葉がすでに石畳を埋めている。ここにもベンチがあり、時折本を抱えて私はすわり、前の河をゆく遊覧船を眺めたり、本を読んだりした」(饗庭孝男『フランス四季暦』から)。

 (セーヌ河畔で考える人)

 (オルセー美術館)

 オルセー美術館はもともと、1900年のパリ万博に合わせて、花のパリの万博に押し寄せる世界の観光客を受け入れようと建てられた鉄道の駅舎だった。設計者はセーヌ川左岸にある国立美術学校の教授。オシャレなパリの街に溶け込む瀟洒な駅舎だった。

 今は、対岸のルーブル美術館と並んで、印象派を中心とした人気の美術館だ。

 私は絵もさることながら、この美術館の上階から眺めるセーヌ川の景観、そして遠くモンマルトルの丘のまでの眺望が、最高に素晴らしいと思っている。そういうことを目当てに入館する人はあまりいないから、結構、景色を堪能できる。

 (ボン・デザールの下をゆく遊覧船)

 「ポン・デザール」は、「Pont des Arts (芸術橋)」。フランス学士院や国立美術学校がある左岸の文教地区から、右岸のルーブル宮殿(美術館)へ徒歩で渡れるように架けられた橋。車は通れない。鉄骨の橋だが、床は全て木の板。途中に木のベンチも置かれ、木の枠組みの花壇もある。

 パリの街は自分の足で歩いて見てほしい、疲れたらカフェのテラス席でぼんやりと街並みを眺めてほしい。

 そういう街づくりがいい

 京都を歩いていて古都の落ち着きが感じられない理由の一つは、三条の大橋にしろ、五条の大橋にしろ、歩いて渡る人専用の橋がないこと。大阪には、京都にあってもおかしくないような、人専用の風情のある近代的な橋が幾つかある。ただし、京都と比べると、川が濁っている。

(セーヌ川からエッフェル塔を見上げる)

 エッフェル塔は1889年(フランス革命100年)のパリ万博のために建てられた。エッフェルは、設計・建設者の名。

 「歴史ある美しい町・パリに鉄塔を建てるとは何事か」と、反対運動が燃え上がり、著名な知識人・文化人たちもこぞって反対したそうだ。

 万博が開催されると、世界からやってきた人々が、連日、最新のエレベータで一気に上がって、パリの眺望を楽しんだ。

 万博の20年後には取り壊される段取りだった。

 しかし、エッフェル塔は、石造りの街並みの中に美しく軽やかに調和し、今では「花のパリ」を象徴する。

 そもそも、知識人とか文化人とか、大衆とか、世論などというものは、その程度のものだ。

 我々も、テレビとか、ネットニュースとか、世論だとかに一喜一憂するのは、もうそろそろやめた方が良い。泰然自若。ただし、覚悟も必要。

 パリ市の紋章には、かつてセーヌ川を行き来した帆掛け船が描かれ、ラテン語の銘文が添えられている。

 「たゆたえども沈まず」

 シテ島を根城にし、河川交易で栄え、パリの原型をつくった船乗りたちの心意気を表す。いかに風雨が荒れ、船が揺れても、我らの船は沈まない。

 まずはこういう心意気と覚悟。

       ★

 夜、9時にホテルに着き、それからホテルで晩飯。つまみ食いの盛りだくさんの行程だった。高校生の修学旅行でも、もう少しゆったりしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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海上に聳える聖ミカエルの岩山 … 観光バスでフランスをまわる10

2022年07月30日 | 西欧旅行…フランス紀行

    (モン・サン・ミッシェル)

 そもそもモン・サン・ミッシェルはベネディクト派の修道院。しかし、まるで海上に浮かぶ要塞のように見える。

       ★

<モン・サン・ミッシェルの堤道>

 この旅行当時(2010年)のモン・サン・ミッシェルは、陸から島へ堤道が通じていた。

 今は、この道路はない。

 堤道は、19世紀にフランス政府によって敷設された。

 それ以前、モン・サン・ミッシェルを訪れる巡礼者たちは、船で渡るか、干潮時にだけ出現する砂州を伝って島へ渡った。

 ただ、潮の干満差は、時に15m以上にもなった。しかも、大潮のとき、馬の速駆けと同じくらいの速さで潮が押し寄せたという。そのため、事情を知らぬ巡礼者たちが、満ちてくる潮にのまれて溺れ死ぬことがよくあったらしい。

    19世紀、フランス政府がモン・サン・ミッシェルを歴史的建造物として修復・整備したとき、本土と島とを結ぶ堤道を築いた。その結果、巡礼者の痛ましい事故はなくなった。

 2010年のこの旅行の当時、私たちはこの堤防の道路を通って、モン・サン・ミッシェルの城門をくぐった。

 (聖堂のテラスから撮影/右下に人が渡っている)

 しかし、その頃、既にフランスでは大きな問題になっていた。この堤道のために、ものすごい速さで島のまわりを流れていた潮流の向きが変わり、川が運んでくる土砂がどんどん堆積するようになった。湾は土砂で埋まり、干潮時には15キロの沖合いまで砂地が露出するようになった。このままでは海上の岩山という世界遺産の景観が台無しになってしまう。

 その後、工事が開始され、堤の道路は撤去されて、潮流を通しやすくするために細い橋脚が並ぶ橋が架けられた。完成したのは2014年である。

 それまで堤道の上を疾走していた乗用車も、橋のずっと手前のパーキングに入り、観光客はそこから公共のシャトルバスで渡ることになった。

 こうして、現在、世俗世界と聖地は海で隔てられ、海を渡って参詣する聖地に戻った。

       ★

  発見された「地下のノートル・ダム」

 今回のモン・サン・ミッシェルの写真は、全て堤道のある南側から撮影した写真。多分、これがモン・サン・ミッシェルの表側の顔なのだろう。中心には修道院の礼拝堂がある。

 フランス政府がここを歴史的建造物に指定して修復工事を進めていた1898年(明治30年)に、この礼拝堂の身廊の下から、地下聖堂が発見された。学術調査は20世紀半ばまで引き継がれ、この地下聖堂は「地下のノートル・ダム」と呼ばれるようになった。

 この地下聖堂の一部が、あのオベール司教が夢の中で大天使ミカエルに命じられて建てた伝説の礼拝堂ではないかと言われている。また、オベール司教の墓も発見されたという。

 ただし、「地下のノートル・ダム」の主要な部分は、10世紀のものと考えられている。

 オベールの時代から150年ほど後の847年、ヴァイキングが聖ミカエルの岩山を占領し、さらに911年にはノルマンディ公国が生まれた。

 966年、初代ノルマンディ公の孫に当たるリシャール1世が、ローマ教皇の承認の下、ここにベネディクト派の修道士を招いて修道院を設立した。

 「地下のノートル・ダム」はこの時のものではないかと考えられている。

 正規の修道院となったモン・サン・ミッシェルは、以後、修道士たちの祈りと学問の場として、ノルマンディ公国の保護と寄進を受けながら発展し続けた。

 なお、当時の多くの修道院同様に、モン・サン・ミッシェルも防御施設を備えていた。中世は王や領主の統治力は不安定で、治安は必ずしも良くなかった。実際、フランス王とノルマンディ公との戦いに巻き込まれたこともあった。

       ★

ロマネスク聖堂の建設

 西暦1000年を越えて中世後期に入ると、人々の暮らしに少し余裕ができ、また、マリア崇拝が沸き起こって、人々が巡礼に出るようになった。

 1060年、ノルマンディ公リシャール2世は、イタリア人の建築家を招聘して、「地下のノートル・ダム」上の岩の上に、この修道院のための礼拝堂をロマネスク様式で建造した。これが今、海上の岩山の上に聳える礼拝堂の原型である。

ゴシック様式の「ラ・メルヴェイユ」の建設

 12世紀から13世紀へと、モン・サン・ミッシェルはさらに発展していった。

 1228年には、ロマネスクの礼拝堂の北側(裏側)に、「ラ・メルヴェイユ(西洋の驚異)」と呼ばれるゴシック建築が完成した。切り立つ岩山の傾斜の上に建てられたので「驚異」と呼ばれた。

 「ラ・メルヴェイユ」は、東側と西側の建物に分かれ、それぞれ上下3層からなる。3層目(3階)の高さが礼拝堂と同レベルであった。

 東側は、上から下へ、③修道士たちの食堂、②迎賓館(王侯貴族が参詣に来たときの客間)、①司祭室(一般の巡礼者たちに食事が施された)。

 西側は、③回廊(修道士の祈りと瞑想の場)、②騎士の間(写本制作室)、①貯蔵庫(ワインとか食料の倉庫)である。

 こうして、13世紀にほぼ現在の形が出来上がり、多くの巡礼者が訪れるカソリックの聖地の一つとなった。

       ★

百年戦争と再建・大修理

 大天使ミカエルは「ヨハネの黙示録」の中に登場し、剣を抜いて悪魔の象徴である竜と戦う「戦う大天使」である。

 モン・サン・ミッシェルは英仏百年戦争(1339~1453)のとき、修道士がフランスの騎士たちとともに籠城して、英軍の包囲兵糧攻めや臼砲攻撃に耐えて、難攻不落を誇った。

 ちなみに百年戦争のとき活躍したジャンヌ・ダルクも大天使ミカエルのお告げによって戦いに立ち上がり、フランス王を援けて、それまでフランス王側が劣勢だった流れを変えるきっかけをつくった。

 百年戦争の後、15世紀には、崩壊したロマネスク様式の礼拝堂の内陣部分を、フランボワイアン・ゴシック様式で再建し、身廊部分も大修理した。このとき、内陣の下には、上の内陣部分の重量を支える太柱の礼拝堂が造られた。

 もともと不安定な岩山の上に建てられていたので、時に大修理を必要とした。上の礼拝堂の身廊、内陣、翼廊を支えるために、その下に頑丈な太柱の列柱を並べ、これによってできた下の空間も付属の礼拝堂等として使った。

 こうしてモン・サン・ミッシェルは、歴史的な複合建築として成長していったのだ。

       ★

 牢獄を経て国立博物館へ

 18世紀のフランス革命は、王侯貴族に対するだけでなく、或いはそれ以上に、キリスト教(カソリック)に対する革命であった。多くの修道院や大聖堂が襲撃・破壊・閉鎖され、革命を容認しない聖職者らは牢獄に収容された。

 モン・サン・ミッシェルも、そういう聖職者や王党派の政治犯らを収容する大牢獄として使われ、多いときはこの狭い空間に1万2千人が幽閉されて、「海のバスチーユ」と呼ばれた。

 ショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』に修道士たちが写本しているシーンがあった。映画では、その写本が殺人事件を解き明かすキーとなった。

 モン・サン・ミッシェルの手写本の蔵書は『フランスの宝庫』と謳われていた。だが、大革命のときの襲撃で、これらも破壊・略奪され、また、革命政府の台所を支えるために競売に出されて雲散霧消してしまった。

 今、観光客がモン・サン・ミッシェルの礼拝堂やラ・メルヴェイユの中を見学しても、石の壁と石の柱と石の階段以外には何もなく、無機質なガランドウで、それはアヴィニヨンの教皇宮殿と同じである。

 フランス大革命の痛ましい処刑(ギロチン)の数々や、投獄、そして文化財の破壊はすさまじい。

 しかし、現代のものの見方や感じ方で歴史を裁くのは良くないのかもしれない。また、こういうすさまじい一時期がなければ、人々の暮らしの隅々まで浸透し、人々を支配していた宗教(一神教=絶対神)の「世俗化」は成らなかったのかもしれないとも思う。

 19世紀になり、フランス政府は、破壊され牢獄となって荒廃していたモン・サン・ミッシェルを大修理して、「国立博物館」として復活させた。その過程の中で、「地下のノートル・ダム」が発見され、堤道が築かれ、建築群の中央に大天使ミカエルの尖塔が建てられた。

 1922年、少数ながら修道士たちが集まり、建物の一部を修道院として使うことが許された。

 城門の中で修道士の姿を見かけた。もともと修道院なのだ。私のような非キリスト教徒の観光客でも、ガランドウの無機質な「博物館」は無味乾燥に見える。

 東大寺でも法隆寺でも、私たちが知らない早朝や夕方以降に、日々、僧侶が修行し、お勤めをし、清掃も、線香も花も読経の声も絶えない。だから、観光客が押し寄せ、修学旅行生でいっぱいになっても、お堂や塔や仏像が生きてくる。

 日本では、神社や寺への観光客は、また、参詣者でもある。混然一体。融通無碍。

 1979年に、モン・サン・ミッシェルはユネスコ世界文化遺産に指定された。

   ★   ★   ★

<モン・サン・ミッシェルを見学する>

 城門をくぐって、城壁の中へ入った。

 「グランド・リュ(大通り)」という名の参道は、中世の時代なら「大通り」だろうが、世界からやってきた観光客で、人、人、人。いわゆる「門前町」で、両側には土産物屋やレストランがひしめいている。一昔前の大阪の日曜日の戎橋筋、或いは、屋台が並ぶ初詣の神社の参道の趣。人ごみの中を、ぶつからないように、流れに従って、そろそろと歩くだけ。立ち止まって写真撮影などできない。

 以後、建物の中の見学中も、人が多くて写真撮影はできなかった。

 歩きながら、首に掛けていたカメラを適当な角度にして、パチリ。

  (門前町)

 この「門前町」は14世紀には巡礼者たちを迎えていたらしい。その後、大革命で衰亡。牢獄に門前町は要らない。現在の建物はモン・サン・ミッシェルが再生された19世紀のもの。

 屋外のゆるやかな階段を伝って、かなりの距離を上って行くと、礼拝堂の西側のテラスに出た。ここからの海の眺望は素晴らしく、しばし陶然。

 (西のテラスからの眺望)

 (西のテラスから見上げる尖塔)

 干潟の海の方から振り返ると、礼拝堂の上に大天使ミカエルの尖塔があった。

 このあと、迷路のような見学コースを、ガイドに導かれながら、ロマネスクの身廊、続いてフランボワイアン・ゴシック様式の内陣、さらに、同じレベルの「ラ・メルヴェイユ」の最上層の「回廊」へ。

 (最上層の回廊/礼拝堂が見える)

 回廊は、修道士たちの祈りと瞑想の場。読書を許す修道院もある。

 ただ、ふつうの修道院なら地上にあるが、ここは天空の回廊である。礼拝堂と同じ標高で80mほどもあるそうだ。

 回廊の西側には窓があり、海に向かって開けていた。

 ラ・メルヴェイユの各部屋や、上の礼拝堂を支える下の礼拝堂などを見学しながら、階段を下へ下へと下りていくと、最後は「地下のノートル・ダム」。

 (地下のノートル・ダム)

 モン・サン・ミッシェルの最古の建造物だ。突き当りに祭壇があり、途中で工事をやめたのか、断念したのか、祭壇の奥に岩が露出していた。

      ★

<ライトアップされたモン・サン・ミッシェル>

 今夜の宿として予定されていたホテルはモン・サン・ミッシェルに近く、ライトアップされたモン・サン・ミッシェルの威容が望めるホテルという触れ込みだった。ところが、手違いがあったとかいうことで、遠い簡易ホテルに変更になり、観光バスで行った。

 晩飯のあと、一行の中の10人ほどの人たちが、ライトアップされたモン・サン・ミッシェルの写真を撮りたいと、真っ暗な夜道を歩いて行った。

 私は、バスが走った距離を考えてやめた。そして、少し外を歩いて、肉眼で小さく、遥かに遠く見えるモン・サン・ミッシェルを、ズームレンズを最大限の望遠にして、三脚はないので手持ちで写した。どうせ手ぶれするだろうと期待していなかったが、それなりにその感じが写せて、自分でも驚いた。最近のカメラはすごい。

 (ライトアップされたモン・サン・ミッシェル)

   ★   ★   ★

<ノルマンディの小さな町の恋物語>

 「ブルターニュ地方がどちらかといえば影のある感がするのに反して、ノルマンディ地方は『光』にみちたおだやかで明るい世界である。

    海からの影響であたたかく、平野が多いためだろう。主として牧畜が行われ、チーズは名高い。葡萄酒はつくれないが、リンゴの栽培は盛んなため、そのシードル酒はブルターニュ地方とならんでよく知られている」(饗庭孝男『フランス四季暦』から)。

 (車窓から/羊とモン・サン・ミッシェル)

 モン・サン・ミッシェルは、ロカマドゥールに似て、その規模を大きくしたような奇勝である。ツアーではこういう奇勝が好まれる。自ずからフランス第一の観光地となった。

 だが、私は、ヴァイキングの子孫が領主となった明るい風土のノルマンディ地方も、ケルト的なものが残る影のあるブルターニュ地方も、列車と路線バスと自分の足で訪ね、その日常的な街や村の景観を見、人々の歴史と暮らしを感じてみたい。率直に言って、奇勝・奇岩よりも、そういう旅がしたいと思った。

 20代の初め頃だったか?? 『シェルブールの雨傘』というミュージカル風のフランス映画を観た。シェルブールという小さなフランスの町を舞台にした若い男女の恋物語だった。ただ美しいだけの愛らしい小品だと思ったが、カンヌ映画祭でグランプリを獲得した。グランプリを取った要因は、映画のバックになった小さな町の雨の風景の美しさ、この映画で世界にデビューしたカトリーヌ・ドヌーブという若くみずみずしい女優の美しさ、そして、彼女らの歌声の美しさ。要するに、ハリウッドとは違うフランス風の粋な映画であったこと。

 今回、地図を見ていて、シェルブールという田舎の町が、コタンタン半島の突端の、イギリス海峡に突き出した町だということを初めて知った。

 どんな小さな町にも、恋はあり、人生がある。

 

 

 

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大天使ミカエルの岩山とノルマンディ地方 … 観光バスでフランスをまわる9

2022年07月23日 | 西欧旅行…フランス紀行

  (モン・サン・ミッシェル)

 ロワールのお城めぐりの後、バスでモン・サン・ミッシェルへ向かった。

 ノルマンディ地方に入ると、家々の作りも色合いも違ってきた。バスが通り過ぎる町や村の趣が、地中海側の南仏とも、ロワール渓谷の町や村とも違う。風土が変わると、文化が変わり、町並み、家並みも異なってくる。

 フランス第一の観光地であるモン・サン・ミッシェルは、ノルマンディ地方のコタンタン半島の西側、サン・マロ湾の海上に聳えている。

       ★   

<モン・サン・ミッシェルの縁起>

 「モン・サン・ミッシェル (Mont Saint-Michel) 」は、聖ミカエルの山。ミカエルはヘブライ語で、フランス語ではミッシェル。聖書に出てくる大天使の名。

 もともと、島全体が岩山だった。

 今は海岸線を堅固な城壁が囲み、城門を入ると門前町が続く。

 その上、岩山の中腹から上に聳える建造物が、大天使ミカエルに捧げられた修道院である。

 真ん中の尖塔の高さは、海面から150m。その天辺には、悪魔の象徴である竜と剣を抜いて戦う大天使ミカエルの像がある。この尖塔は新しく、19世紀の建造。

  (聖ミカエルの尖塔)

 なぜ、聖ミカエルに捧げる聖堂がこんな場所に建てられたのか それを伝える縁起がある。

 以下、今回と次回、モン・サン・ミッシェルの歴史を、見学の時にもらった日本語のしおり、バチカン学の荒井佑造先生の講義、そして紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』などを参考に書く。

       ★

「モン・トンプ」と呼ばれた巨大な岩山

 伝承では、もともと、そこは、サン・マロ湾の中の「島」ではなかったという 

 陸続きで、森に覆われていて、森の中から突き出した岩山だった。

 以前は陸続きだったのか、もとから島だったのか。いずれにしても、こういう突出した岩山は聖地となり、神域となる。それはわが国でも同じである。

 紀元前のこのあたりのケルト人たちは、そこをモン・トンブ(墓の山)と呼んでいたらしい。

 そして、ケルト人の時代にはベレンという神、その後、ローマ人が入植してケルト人がローマ化した時代にはメリクリウスという神が祀られていたという。

 ローマ時代の末期、この地方にもキリスト教の教えが伝えられ、人々はキリスト教徒になっていったが、この岩山は初期キリスト教の時代にも聖なる地として受け継がれた。

 キリスト教の2人の修道者(ケルト系の隠者)がここにささやかな礼拝堂を建て、庵を構えて修行した。ケルトの「大地の母なる神」への信仰とキリスト教の「聖母マリア」崇拝とが重ね合わされるような、素朴なキリスト教信仰の時代だった。

       ★

 夢に現れた聖ミカエル

 時代は進み、西ローマ帝国滅亡後の混乱の後、ゲルマン民族の中のフランク族がフランス(ガリア)を統治するようになった。彼らはカソリックに改宗して、先住のローマ系やケルト系の人々を安心させ、うまく統治した。

 そのフランク王国のメロビング朝(481~751)の終わり頃のことである。

 アヴランシュはこのあたりの中心となる町で、モン・サン・ミッシェルから10数キロの高台にあり、今でも町からサン・マロ湾を望むことができるそうだ。

 そのアヴランシュの町に司教座が置かれていた。

 ある夜、司教オベールの夢の中に、なんと 大天使ミカエル (仏語で聖ミッシェル) が現れた。聖ミカエルは、オベールの夢の中に3度も現れ、あの森の中に聳える岩山に、自分に捧げる礼拝堂を建てよと命じたのだ。

 それで、オベールは人を遣わして、イタリアにあった聖ミカエルに捧げる礼拝堂を調査させ、その報告を参考にして、この岩山に礼拝堂を建てた。

 これが今に伝わる「モン・サン・ミッシェル」の「縁起」で、西暦708年のこととされる。もちろん、今、見る壮大な聖堂ではないが、それなりの石造りの礼拝堂だったと思われる。

 翌年、さらに、奇跡が起こった 岩山を囲む一帯の森が沈んで、岩山は海の中の岩山になったというのだ。

 もちろん、陸地の森が海になったという話は信じがたい。いかにも中世前期らしい奇跡譚だと思われていた。

 モン・サン・ミッシェルの周囲を流れる潮の干満の差は激しく、干潮のときには陸続きのようになり、巡礼者たちは歩いて島へ渡っていた。そういうことから生まれた伝説ではないかと考えられていた。

 ところが、この湾の底の地質を調査していた学者が、ここが8世紀頃まで森だったという証拠を発見したという。つまり、地盤沈下とか津波とかで沈んだ可能性も考えられるというのだ。

 ありえない話ではない。例えば、北琵琶湖の湖底に、縄文時代の住居や道、丸木舟、石垣、石室、そして大樹の根が発見されている。何らかの地殻変動があったのだ。

 とにかく、こうして、海上に聳える「モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの岩山)」の原型が出来上がった。

 (以下、モン・サン・ミッシェルのその後の歴史は、次回にまわします)。

 (礼拝堂の竜の飾り彫り)

     ★   ★   ★

<閑話1ー1 --- ノルマンディ地方のこと>  

 フランスのノルマンディ地方は、9~10世紀に、ノルマン(北の人)、即ちスカンディナヴィアからやって来たヴァイキングが攻め入り、支配・定着した地方のことである。

 ヴァイキングは、古ノルド語でビーイング。「vik」は入り江のことらしい。ビーイング(ヴァイキング)は「入り江の人」の意。もとはフィヨルドの民で、その後勢力圏を広げて「ノルマン」となる。

 彼らはもと、深い入り江の奥で、農業や牧畜によって生計を立てていた。

 だが、もう一つの顔があった。

 吃水の浅い船で船団をつくり、北の海の島々や半島 ── アイスランド、グリーンランド、アイルランド、デンマーク、イングランド ── さらに大陸へ渡ってフランス北部へ、交易・略奪に出かけ、植民もした。ヨーロッパ大陸の河川は流れが緩やかだから、吃水の浅い彼らの船は内陸部へどんどん遡っていくことができた。町や村を守るべき領主や修道院も襲われ、襲われた町や村は廃墟になったという。

 彼らは、既にAD847年には、サン・マロ湾の海上の聖地、司教オベールが礼拝堂を建てた「聖ミカエルの岩山」を占領している。

 AD882年には、セーヌ川河口から遡って、西フランク王国(カロリング朝)のパリを包囲した。この時は、パリ伯ウードが撃退した。(ウードの子孫はやがてカロリング朝に代わってフランス王になる)。

 パリの占領はならなかったが、彼らはセーヌ川の河口地域からその西一帯の広大な地を占領し、冬を越して居ついた。

   ついに911年、西フランク王はノルマンの首領のロロと交渉し、彼をノルマンディ公にする代わりに、キリスト教に改宗し、王に臣従することを誓わせた(封建関係)。

 こうして、セーヌ川下流からコタンタン半島を含む一帯を領するノルマンディ公国が生まれた。

 ノルマンディ公国は、18世紀の終焉まで、モン・サン・ミッシェルに手厚い保護を与え続けた。

      ★

<閑話1-2 その後のノルマンの活躍>

 NHKテレビで放送されたアニメ『ヴィンランド・サガ』は、AD1000年頃のヴァイキングの物語。

 私は主人公の若者が父の仇と何度も決闘を挑むアシェラッドが好きで、彼が死んだときは「ロス・アシェラッド」になった。ちなみに、アシェラッドのキャラクターは典型的なハードボイルドだと私は思っている。クールでニヒルなリアリストだが、その魂の奥底には熱いものを秘めている。彼の出自はノルマンではなく、ウェールズ。アングロ・サクソン、そして、ノルマンに抵抗し続けた、誇り高いローマ系のウェールズ人だった。

 「サガ」とは伝承、或いは物語。北欧の口承伝承で、12世紀頃に文章化されたようだ。日本で言えば、「古事記」や「日本書紀」の原型となった帝紀・旧辞のようなものだろう。

 「ヴィンランド」は、この物語の主人公がやがて到達するアメリカ大陸のどこかの地名。カナダのニュー・ファウンドランド島ではないかと言われている。ヨーロッパ人の「アメリカ大陸発見」は、16世紀のコロンブスではなく、11世紀のノルマン人だった

 ノルマンの活動はさまざまで、フランスの北部にできたのがノルマンディ公国。ロロ(ロベール)の子や孫や曾孫はフランス語を話し、フランス流の礼儀作法を身に付け、立派なフランス貴族になっていった。

 ところが、初代のロロ(ロベール)から110年ほど。ヴァイキングの血が再び騒いだのか、7代目のノルマンディ公ギョーㇺ2世(英語ではウイリアム)は、1066年、王家の相続問題で揺れるイギリスに遠征し、あざやかにイングランドを征服してしまった。

 ギョーム(ウイリアム)は、イギリスでは国王、フランスではフランス王の臣下という奇妙な立場となり、世代交代が進み、婚姻関係も絡んで、後の英仏百年戦争の遠因となった。

 いずれにしろ、今の英国女王も、貴族も、その先祖を遥かに遡れば、ギョームと、彼の部下だったノルマンディ公国の騎士たちにたどり着くことになる。

 英語は今や国際語だが、実は1066年以後に大量のフランス語が入ったから、英語の3分の1はフランス語起源だそうだ。つまり、英語はまだ千年しかたっていない若い言語だということ。英語が論理的で優秀な言語だと思い込んでいる日本人が多いが、それはコンプレックスですよ、と、フランス文学者の篠沢秀夫教授は仰っている。

 イギリスに遠征したギョームと同じ時代に、ノルマンディ公国の一部の騎士の子弟たちは船団を組んで南下した。ジブラルタル海峡を通過し、地中海へ深く侵入して、やがてシチリア・南イタリアに王国を打ち立てる。

 第6次十字軍を率い、スルタンとの交渉によって条約を結び、平和裏にエルサレムを開放した皇帝フリードリッヒ2世。彼はシチリアで生まれ育ち、アラビア語の読み書きもできた。母親はシチリア王家で、ノルマン系である。

 (車窓のモン・サン・ミッシェル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロワールの森 … 観光バスでフランスをまわる8

2022年06月25日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ロワール川)

<ロワールのお城めぐり>

 10月10日。曇りのち晴れ。

 ロワール川はフランス第一の河川である。

   フランス中央山塊から流れ出て、北上し、オルレアンで西へ転じて、ナントの先で大西洋に出る。

 オルレアンから下流のロワール地方は、いく筋もの支流、広々とした丘、深い森が陰をつくる、地味豊かな土地である。

 英仏百年戦争 (1337~1453)のあと、フランス王家や宮廷貴族らが大小の城館を築くフランス王家の文化圏となった。現代フランス語の「標準語」(日本の「標準語」とは違い、文章語にもなる正しいフランス語の意) は、この地方の言葉と宮廷の言葉が融合したものだという。

 南仏のような雛(ヒナ)のにおいのする文化とは違い、より洗練された王侯貴族の土地柄なのだ。

 観光としては「ロワールのお城めぐり」。

篠沢秀夫『フランス三昧』(中公新書)から

 「大砲の発達で戦闘用の城は役に立たなくなって、16世紀から『シャトー』は優雅豪壮な『城館』に変わった」。

 「16世紀から17世紀にかけて、なんでこんなに次々に王家はシャトーを建てたのか。一口で言えば狩りのためである」。

 「飛び道具を使う狩りも、鷹を使う狩りもさることながら、飛び道具なしの古式ゆかしい『ヴェヌリー』(巻狩り)が関心の的だった。騎馬の狩猟隊がその日に1頭の大鹿をこれと定めたなら、それだけを何時間もかけて猟犬隊とともに追いつめる」。

 ── 森の中のちょっと開けた所で、騎士たちが吠えまくる猟犬たちとともに、一頭の大鹿を完全に包囲して円を作っている。前後左右のどの方向にも動けなくなった大鹿が、囲まれて静かにたたずんでいる。そういう絵、或いは写真を見たことがある。

 彼らにとって、狩猟は軍事訓練の場でもあった。

                      ★

<秋色のロワール地方>

 今日の行程は、トゥールのホテルを出発して、まずロワールの「お城めぐり」。

 しおりには「古城めぐり」と書いてある。しかし、私の中で「古城」とは十字軍時代のような中世の城塞のイメージ。今日、見学するのは、そういう「城塞」ではない。16世紀以後に古城を改造し、或いは新築した王や貴族の豪華な城塞風邸宅、すなわち「城館」。「宮殿」に近い。

 しかしそうは言っても、これは私の独断と偏見。「Chateau」と「Palais」の違いも私にはわからぬ。

 昼食後は、270キロ、3時間半のバス旅で、フランスの最北西部・ノルマンジー地方の海に臨む世界遺産「モン・サン・ミッシェル」を見学し、その近くのホテルに泊まる。

 フランスの空気が入れ替わったのか、或いは、私たちが北上してきたせいなのか、気温が変わった。昨日までの蒸し暑さは去り、爽やかな秋。南仏の観光途中、あまりの暑さに半袖シャツを買った。その半袖はもう要らない。

 樹々が色づいている。森には落ち葉があり、秋色のフランスだ。

 フランスの秋は短い。すぐに日照時間の少ない冬になる。

 ロワールのお城めぐりは、この旅行よりも15年も前、フランスとドイツ視察研修旅行の際、日曜日のまる一日をかけて、シャンポール城、アンボワーズ城、シュノンソー城の3城を見学した。

 日本からずっと引率し通訳もしてくれた添乗員氏はたいへん優秀な人で、この日曜日の観光でも、城の歴史やエピソードを興味深く話してくれた。

 今回のツアーの「お城めぐり」は、昼食までのインスタント版だ。 

        ★

<アンボワーズ城を眺望する>

 アンボワーズ城は、バスから降車して眺めた。「下車観光」で、「入場観光」ではない。

 下の写真を撮っている場所は、ロワール川の川中島。川の中に島があるから、島を中継地として橋を架けやすい。橋があれば、そこは要衝となる。

 すでにローマ時代から橋はあり、橋の東南側の高台、即ち今、アンボワーズ城がある所に城塞が築かれていた。

 (ロワール川とアンボワーズ城)

 15世紀末から16世紀の前半にかけて、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世の時代に、このお城は中世的な城塞から近世的な城館へと増改築され、壮大な城館になった。

 だが、その後、大部分は取り壊され、今に残っているのはロワール川に面している部分と聖ユベール礼拝堂だけ。

 この城には、直径が21mの巨大な円筒があり、ラセン状のスロープを乗馬したまま、或いは馬車で上ることができるように造られている。15年前に訪れたときはそこを歩いて上り、屋上からロワール川を眺めたことを覚えている。

 ただ、お城の中は、日本のお城でも、西欧のお城でも、どこか殺風景な感じがして、味わいはない。

 城は外から眺めているのが良い。或いは、いっそのこと、荒城とか城跡。

 夏草や/兵(ツハモノ)どもが/夢の跡 (芭蕉)

 不来方(コズカタ)の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心 (石川啄木)

 かたはらに/秋草の花/語るらく/滅びしものは/なつかしきかな (若山牧水)

 スロープ状のラセン通路は、すでにローマ時代にあった。ローマのサンタンジェロ城。バチカンが攻撃された時、教皇様はここに籠城した。

 しかし、この円形状の建造物はもともと城ではない。ローマ時代に、皇帝ハドリアヌスが歴代皇帝の墓所として造ったものだ。ほのかな明るさの中、徒歩でスロープを上っていくとき、古代の静けさと安らぎを感じることができた。あれは、城にしてはいけない。墓所である。 (当ブログ「イタリア紀行」参照)。

 (ローマのサンタンジェロ城)

 話は変わって、フランソワ1世は大軍を率いてイタリアに遠征し、イタリアの都市国家を震え上がらせた。しかし、フランソワ1世の方も、今を盛りのイタリア・ルネッサンスの建築や庭園、絵画や彫刻、学術、さらには料理に到るまで、文化のレベルの高さに圧倒された。自分を大軍を率いた単なる田舎者だと思った。

 そこで、多くのイタリアの文化人をスカウトし、招聘して、そこからフランス・ルネッサンスを興した。招いた代表的な人がレオナルド・ダ・ヴィンチ。

 ダ・ヴィンチは、このアンボワーズ城から300mほどの所の館で人生の最後の3年間を過ごした。墓はアンボワーズ城の聖ユベール礼拝堂にあるそうだ。

 フランソワ1世は、ダ・ヴィンチに対して、父に対するように敬意を払い、ダ・ヴィンチとの語らいを好んだという。   

       ★ 

<シュノンソー城の女主人たち> 

 ロワールのお城めぐりで一番人気は、エレガンスなシュノンソー城。ここは「入場観光」した。

 ロワール川の支流のシェール川の流れの上に、ルネッサンス様式の端正な城館がたたずんでいる。

 水に姿を映す白鳥のような城館も、瀟洒な部屋部屋の調度類や美術品も、周囲のフランス式庭園も、美しく気品があった。

  (シュノンソー城)

 この城の持ち主は、16世紀の創建以来19世紀まで次々と代替わりしたが、6代のすべてが女性だったそうだ。

 その6代の女主人の中でも、フランス王アンリ2世の「寵姫」であったとされる2代目のディアーヌ・ド・ポアティエと、政略結婚でメディチ家から輿入れしアンリ2世の正妻となった3代目のカトリーヌ・ド・メディシスとの三角関係について、どのガイドも熱心に説明する。洋の東西を問わず「大奥もの」或いは週刊誌のゴシップ記事的な話は好まれるのだ。

 以下は、そういうガイドの話にはあまり出てこない話。 

 15年前、シュノンソー城を訪ねたときの添乗員氏の説明が興味深くて覚えていた。

 その後、同じ話を、紅山雪夫さんが『フランスものしり紀行』に書いているのを見つけた。

 この城の初代の女主人の話である。以下、紅山さんの著書から、その要点。

 初代のシュノンソー城は、上掲の写真の建物の右側の部分 ── お城らしく屋上にごてごてと塔が並び立つ部分 ── であった。ここが、城館である。

 それに接続する川を渡る建物はギャラリー(回廊)。3代目のカトリーヌ・ド・メディシスが橋の上に建てさせた。全長600m、幅は6mしかない。川や庭園を眺望する18の窓がある。舞踏会場として使われたという。

 話は、右側の城館の部分である。

 16世紀の初め、国王の財務官だったトーマ・ボイエという人がこの地を買い取った。

 彼はそれまであった中世の城塞とシェール川にかかる大きな水車台を取り壊し、水車のあった所にルネッサンス様式の城館を建てた。川の上に城館を建てたのは、独創的なアイディアである。

 しかし、彼は仕事が忙しい。城館の設計や工事の指揮をとったのは、妻のカトリーヌ・ブイソネさん。「彼女は貴族の出ではなく、富裕な銀行家の娘だったから、それまでの城館建築の伝統にこだわらないで、2つの新機軸を生み出した」。

 1つ目は、まっすぐな階段を付けたこと

 「それまで、城の階段は『上りが時計回りになるラセン階段』と決まっていた。その理由は敵の急襲を防ぐためである。まっすぐな階段だと一気に駆け上がられてしまう」。

 それに、「上りが時計回りになるラセン階段」だと、防ぐ方は上から右手で自由に刀槍がふるえるが、攻め上がる方は右手が上手く使えないし、左半身が敵の攻撃にさらされる。

 だが、もう戦いを意識した城塞づくりの時代ではない。カトリーヌさんは、ラセン階段をやめた

 お城でも、大聖堂でも、何度か長いラセン階段を上り下りしたことがあるが、怖い。特に狭い階段で上下、すれ違う時は怖かった。つま先に壁のない、空洞の階段だと、さらに恐怖心が増幅する。欧米人は体格が良く、その上太った人も多いから、ふうふうと息を切らした上に足元が不安定なおばさまにもよく出会う。そういう人とすれ違う時は、足を止め、ぴったり端に寄ってやり過ごす。

 このツアーでは行かなかったが、15年前にシャンボール城を見学したときも、ラセン階段を昇った。シャンボール城のラセン階段は、同じ軸を中心とした2つのラセン階段なのだ。「ここを上り下りする人たちはお互いに相手の姿は見えるけれども、途中ですれ違うことはない」。ダ・ヴィンチが知恵を貸したのではないかと言われている。これなら、攻め上がってくる敵と戦わずに、外へ逃げ出すことができるかもしれない、などと思った

 カトリーヌさんはそういうラセン階段を、自分のお城から追放したのだ。

 2つ目は、各階に廊下(ホール)を設けたこと。各部屋は、真ん中を通る廊下(ホール)の両サイドに並ぶように設計した。

 「中世の城には廊下がなく、部屋から部屋へと次々に通り抜けて、いちばん奥の部屋に達する方式だった。奇襲を防ぐにはこういう構造の方が良い。そしてどの城でも、入ってすぐの部屋には衛兵が詰めていた」。

 カトリーヌさんがお城に廊下を設け、どの部屋にも別個に出入りできるようにしたのは、彼女が貴族の奥方でなく、「主婦感覚」で発想したからかもしれない

 この2つのエピソードは、イノベーションがどのように起きるのかを考えさせ、面白かった。

 この新たな発想の城館を造った初代のご夫婦は、不幸にも次々他界し、「Chateau de Chenonceau」は王家の所有になる。

 このツアーでは、上記のような説明はなかった。紅山雪夫さんに感謝。

        ★

<森の中の道> 

 (シュノンソーの森)

 シュノンソー城とバスの駐車場との間は、森の中の道をたどる。

 シュノンソー城で一番心に残った所は?? と聞かれたら、この森の中の道と答える。

 水に映るシュノンソー城も、瀟洒な各部屋の作りも、フランス式庭園も、美しくエレガンスだとは思うが、もう一度、わざわざ訪ねて行きたいとは思わない。

 王や貴族の城館とか宮殿は、豪華で壮大、時に気品があって端正だが、「人間」を感じない。「博物館」化している。それなら、いっそ、廃墟の城跡の方が、「人間」や「歴史」を感じることができる。歴史とは、日々を生きる人間の生の積み重なりである。

 今もミサが行われている生きたキリスト教の聖堂には、人間と歴史を感じることができて、キリスト教徒でなくても心を動かされる。

 しかし、歴史のある壮大な大聖堂でも、今は「博物館」になってしまって、学芸員が管理しているところもある。そういう伽藍洞を見ても感動はない。

 (森の樹木)

饗庭孝男『フランス四季暦』から

 「…… ショーモンの城館もさることながら、その森のなかの散策のほうに私は惹かれた。木洩れ陽のなかを歩く時、どこの地方の森もそうだが、より深く、より遠く、森の奥を辿って行きたいという思いにかられる。野鳥の啼く声に惹かれ、走り去る兎のあとを追って行く時、クールベの絵にあるように、思いがけなく清冽な泉やせせらぎに出会うのである」。

 「森から出て河辺に出てみる。シェール河のほとりは何度佇んで眺めていてもあきない。トゥールから行けばシュノンソーをとおり、サン・テニヤンを抜け、ブールジュにいたる。…… ゆるやかな河辺に佇んで、夏の白い雲を追っていると、何故か私の好きな詩人、伊藤静雄の詩句がうかんでくる」。

 もう一度、ロワール地方を訪ねることができるなら、このような旅をしたいものだ。ただし、その場合は、自分で自由な旅を企画しなければならない。

  時々、引用させていただく饗庭孝男さん

 ウィキペディアによると、1930年~2017年。青山学院大学名誉教授など。仏文学者。「西洋の文化や風土と、その精神や思想を、時に日本と対比しつつ考察論述した」とある。

 私には心惹かれる人である。

 

 

 

 

 

 

 

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ロカマドゥールの黒い聖母 … 観光バスでフランスをまわる7

2022年06月12日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ロカマドゥールの断崖の上の城館)

 10月9日(土)。曇りのち晴れ。

 東はイタリアとの国境近くから、西はスペインとの国境近くまで、3日間かけてフランスの地中海側をバスで移動し、南仏の世界遺産を見て回った。

 今日は一気にフランスの中北部へ移動。大長距離バス旅行だ。

 途中、見学するのは、フランス中央山塊の西端にある世界遺産のロカマドゥールだけ。

 あとは、ひたすらバスに乗って、お城めぐりで有名なロワール地方の町トゥールへ。そこが今夜の宿だ。 

 ロカマドゥールまで265キロで約4時間。ロカマドゥールからトゥールまでが370キロで約5時間30分。ツアーの日程表に、そう書いてある。

 このブログで、バスの車窓から異国の風景を眺めるのが好きだと書いたが、今日は関空からパリまでの飛行時間よりもさらに長時間、バスの座席に座り続けなければならない。腰痛が悪化しそうだ。

        ★

<ロカマドゥールって??>

 フランスの人気の観光地のベスト5は、①モン・サン・ミシェル ②カルカソンヌのシテ ③エッフェル塔 ④ヴェルサイユ宮殿。その次がロカマドゥールだそうだ。年間150万人もの見学者があるとか。

 ちなみに、この5か所は全て当ツアーのコースに入っているが、私はこのツアーに参加するまで、恥ずかしながらロカマドゥールという名を聞いたこともなかった。 

 ヨーロッパの12~13世紀は巡礼の時代。ロカマドゥールはそういう時代の巡礼地の一つとして、かつて栄えた聖地らしい。

 下の写真のような奇岩絶景。

 アルズー川の谷を見下ろす150mの断崖絶壁に、聖堂や礼拝堂群が建っている。

 (ロカマドゥールの全体像)

 「ロカマドゥール(Rocamadour)」という地名が文献資料に現れたのは、ウィキペディアによると17世紀。それよりも前、14世紀頃には「la roque de Saint Amadour」と呼ばれていたらしい。「聖アマドゥールの岩(ロック)」。聖人アマドゥールゆかりの聖地ということだ。

 だが、巡礼たちがこの地を目指したのは、聖アマドゥールよりも、この聖域の中のノートルダム礼拝堂に祀られている「黒い聖母」だった。この聖母が奇跡を起こして、人々の願いをかなえてくれたのだ

 そうは言っても、我々は現代の価値観で歴史を裁いてはいけない。もし昔の人々が現代の世界を見れば、異様と思われても仕方のないことはいくらでもあるのだから。

 上の写真に見るように、ロカマドゥールは3層の構造で成り立っている。

 最上部は断崖の上で、司教の城館である。

 第2層は断崖の中腹部で、ひときわ大きい聖堂と、ノートルダム礼拝堂など6つの礼拝堂によって構成されている。ここがこの聖地の中心となる「聖域」である。

 第3層は、麓のシテ(City)。ひと筋の石畳の道がカーブしながら手前の方へ延び(写真では木陰に隠れている)、その道の両側に中世の家々が並んでいる。日本流に言えば門前町通りだ。

 現在のロカマドゥールの人口は600人余りとか。

        ★

<中世の巡礼の時代とロカマドゥールのこと>

 イエス・キリストが生まれてもうすぐ千年という頃、人々は恐れた

   「新約聖書」の最終章の「ヨハネの黙示録」は終末 ─ この世の終わりの預言である。キリストの誕生から千年後、キリストは再臨する。「最後の審判」のために

 黙示録の歴史観では、終わりの日が近づくと戦争、飢饉、ペストなどが世界を覆い、やがてすさまじい天変地異とともにイエス・キリストが再臨する。再臨したキリストは「最後の審判」を行い、死者も生者も、全ての人が裁かれる。そして、心貧しく神とともに生きてきた人々のみが永遠の命を得て天国に行く。罪深く不信心な者たちは皆、「永遠の地獄」に堕とされる

 人々は恐れおののいた。 …… ところが、紀元千年を過ぎても、何も起こらなかった なぜだろう

 これは、聖母マリアが、我々人類のために審判の日を先延ばしするよう神にとりなしてくださったのだ

 そういう観念がキリスト教世界に広がっていった。この与えられた猶予の期間を大切にしなければならない。

 ある人々は使徒的清貧の生活に入った。また、多数の人々が自己の贖罪のために、巡礼の旅に出た。

 「聖母マリアは、もはや修道のための模範ではなく、神への仲介者、すなわち神にとりなしをしてくれる新しい救済者として現れてくる」。

 「聖母崇拝の高まりとともに、多くの木造聖母子像が制作されるようになった」。

 「その頃から、西欧世界を風靡する大聖堂のほとんどが、聖母マリアに捧げられるようになる。大聖堂の出現とその発展は、聖母崇拝の高まりと、その伝播の歴史といってよいのである」(以上、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から)。

 人々が巡礼の旅の目的地としたのは、イエス・キリストが人類の贖罪のために処刑されたエルサレムの聖墳墓教会、イエスから直接に教えを受け殉教した使徒ペテロの遺骸のあるローマの聖ピエトロ大聖堂、同じく12使徒の一人として殉教した聖ヤコブの遺骸を納めるスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。

 これら3大聖地に向かう途中には、イエスの十字架の切れ端をもつ教会とか、最後の晩餐のときの聖杯をもつ教会とか、聖母マリアが身に付けていた衣をもつ教会とか、或いは、各地で布教中に殉教死した聖人の棺を納めた教会など、さまざまな「聖遺物」をもつ教会が巡礼者たちを迎えた。

 群れを成してやって来た巡礼者たちの寄進、喜捨によって、それまでの粗末な教会が「ノートル・ダム」(我らの貴婦人の意。聖母マリアのこと) の名を冠したゴシックの大聖堂に建て替えられ、巡礼の行く道筋には宿泊施設や病院も建てられ、彼らを保護するため騎士団も結成された。

 12世紀。ロカマドゥールも、そのような聖地の一つとして成立した。

 ロカマドゥールの断崖付近からは、先史時代の人々の生活の跡や地下墳墓が発見され、また、ケルト(ガリア)人たちの砦の跡も認められるそうだ。

   しかし、現在残っている文献資料によると、12世紀の初頭にこの断崖に小さな礼拝堂が造られ、すぐにチュールのベネディクト派修道院長が移り住んだという。

 12世紀の半ばには、ここに祀られていた「黒い聖母」の像の奇跡が評判になり、巡礼が群れを成して訪れるようになった。すると、ロカマドゥールの名の起源である聖アマドゥールの遺骸も発見された。

 修道院長は、巡礼者たちの寄進・喜捨によって、壮麗な聖堂や礼拝堂の建造を進めていった。

 13世紀の終わり頃が、ロカマドゥールの巡礼のピークだったようだ。教皇はロカマドゥールを巡礼した人に贖宥状を発行した。

 (聖域の建築群とその上の城館)

 14世紀になると、英仏百年戦争、ペストの流行、飢饉などがヨーロッパを襲い、巡礼者も減り、巡礼者の世話をした修道士たちも去っていった。

 16世紀の宗教改革の時代には、新教側の傭兵に襲われて、ロカマドゥールは略奪・破壊された。

 さらに、18世紀のフランス革命のとき、民衆に襲われ略奪・破壊された。

 19世紀になって、フランス政府は歴史文化財保護の取り組みを始め、19世紀の末にロカマドゥールの大修復工事が完成して、今、見るような姿を取り戻した。

       ★ 

<ロカマドゥールを見学する>

(お断り) 人口600人余りの限られた空間に年間150万人もの観光客が押しかけるのだから、写真を撮ろうと思っても、人、人、人。レンズの中は欧米人の姿ばかりになる。残念ながら、聖堂や礼拝堂の外観も、内部の様子も、満足に写真撮影できなかった。アヴィニョン教皇宮殿の内部と同様である。

 それはともかく、中世の巡礼者たちは門前町を通り過ぎると、第2層の聖域に通じる216段の急峻な石の階段を昇った。それも、足ではなく、膝で昇って行ったそうだ。イエス・キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘に上がっていったときの苦しみを追体験するためである。

 一方、私たち現代の旅行者は、膝で歩くどころか、断崖をくり抜いて造られたエレベータで一気に聖域まで昇った。(文句を言っているのではありません)。

 (聖域のエレベータの昇降口)

 断崖の岩をくり抜いたエレベータには驚いた。これもまた、現代のヨーロッパ文明である。観光で生きるスイスなどはもっとすごい。

       ★

 聖域には、サン・ソヴール聖堂と付属する6つの礼拝堂がある。その2、3か所を見学した。

    (聖 域)

 こんな断崖の上に、どのようにしてこれだけの石を積み上げ、築いたのだろう。中世のヨーロッパもすごい。

   ノートルダム礼拝堂の奥まった一郭の高い祭壇の上に、「黒い聖母」の像が祀られていた。薄暗く、人々の頭越しで、よく見えなかったが、意外に小さく感じた。たぶん木彫りで、ふつうにイメージする聖母像とはかなり違う。何か原初的なエネルギーを感じさせる、アルカイックな顔・形に見えた。

 黒い聖母の像はフランス各地にその存在が認められているが、ロカマドゥールの黒い聖母は奇跡を起こし、例えば、船乗りたちの信仰も集めたそうだ。船乗りたちが海で嵐に遭ったとき、遥かに遠い山中のこの礼拝堂の鐘が鳴り、奇跡を起こして助けてくれたという

      ★

 ノートルダム礼拝堂の横から、地下礼拝堂へ降りた。

   (地下礼拝堂)

 ここは、「ロカマドゥール」のいわれとなった聖アマドゥールが埋葬されていた所だ。

 アマドゥールという人がどういう聖者であったのか、よくわからない。この地に最初に隠棲した聖者とも言われる。その聖者の遺骸が12世紀に発見され、聖遺物となった。

       ★

 エレベータで、さらに上層に昇った。

   (城 館)

 断崖の天辺に造られた建造物はツール司教の城館。巡礼者の保護にあたったという。

 (城館のテラスへ)

 内部は見学できなかったが、テラスから眺望を楽しむことができた。

      ★

 城館から聖域までの下りは、エレベータを使わず、山道を歩いて下りた。

 のどかな山の中の小道は、「十字架の道」と名付けられている。

 (十字架への道)

 道沿いの所々に14の祠が置かれ、その中にイエスの受難を描いたレリーフが納められていた。山道を歩くと、それらが小道の茂みの脇に現れて、カソリックらしい雰囲気が感じられた。

 聖域から麓までは、また、エレベータで一気に降りた。

      ★

<黒い聖母について>

 フランス文学者の田中仁彦氏は、その著『黒マリアの謎』(岩波書店)の「あとがき」に、このように書いておられる。

 「アカデミックな美術史学者アイリン・フォーサイスは、 …… 黒マリアの黒という色を『土俗信仰に属するもの』ときめつけ、『そのようなものには関知しない』と言い切っているのであるが、筆者(田中氏のこと)にとってはまさに『土俗信仰』こそが問題だった。

 土俗信仰とは、 …… 人間の心の古層である。そして、黒マリアとはまさしく、地表に露出しているこの古層なのだ。黒マリアを訪ねて歩きながら次第にわかってきたことは、この旅が、いわば、幾重にも重なった歴史の地層を通り抜けてこの古層に向かう旅だったのだということである」。

 「黒い聖母」の像は、西ヨーロッパに広く分布しているそうだ。

 だが、その多くはフランスである。

 フランス全土に広がっているが、集中しているのは、ピレネー山脈の東部(カルカソンヌを含む)、中央山塊のオーヴェルニュ地方、そして、プロヴァンスの山間部である。

 要は最もフランス的なものが残されていると言われる地方である。

 フランスの文化の地層は、3層構造になっている。

 古層には、アニミズム的な色合いの濃いケルト (フランスではガリア) の文化がある。

 第2層は、ローマ文明。ただし、ローマ文明は多神教だったから、ケルトの神々も寛容に受け容れた。

 例えば、ローマに残るパンテオン神殿は円形である。それは、全ての民族・諸族の神々を上下の別なく祭壇に祀るためである。

 第3層は、一神教のキリスト教の文明である。

 ヨーロッパがキリスト教化していくと、ローマのパンテオンも一神教のキリスト教会に変えられた。神は唯一絶対で、他者と共生しない。

 キリスト教化が進む以前の第1層と第2層のガリア(フランス)には、ケルトの神々が生きていた。

 ガリアでは、「大地」は実りをもたらすものとして敬われた。フランスの大地は豊かで黒い。黒い大地が穀物を育む。大地は、豊饒を表す母なる神であった。

 大地母神への信仰は、ローマ世界 ── ギリシャ、アナトリア (今のトルコ)、エジプト、そしてガリア地方(フランス) ── に広がっていた。

 中世になり、キリスト教の布教は自ずから人の集まる都市部を中心に進められた。司教座は都市に設けられた。

 他方、農村部には、キリスト教の教えは十分には届きにくかった。

 木村尚三郎『西洋文明の現像』から

「キリスト教は、本質的に都会人の宗教であった。…… 異教の神々、古代ケルトや古代ゲルマンの神々は、死に絶えはしなかった。…… キリスト教が都市を支配したのに対し、それぞれ不思議な力をそなえた異教の神々は、森と農村の広大な世界を意外にも17、18世紀まで支配していた。すぐれたキリスト教聖職者は都市に集中してしまい、村の司祭は長い間無学であった。異教の神々との共存や妥協なしには、キリスト教は農村に入ることができなかった」。

 農民たちは、司祭から教えられた「聖母マリア」を、「大地母神」のイメージと重ね合わせながら受け入れた。それが、黒い聖母である。

 「黒い聖母」については、そのように理解されているようだ。

 ロカマドールの黒い聖母の像を本の写真で見ると、その顔形は素朴で、原初的で、異教的である。

 しかし、ミケランジェロやラファエロの美しすぎるマリア像と比べたら、この木彫りの古拙の像にこそ、農民の思いを受けとめる大地のエネルギーが宿っていたのではないかと思った

       ★

 ロカマドゥールからさらにバスで5時間半。バス旅はこたえた。

 

 

 

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アラゴン王国と対峙した丘の上の城塞都市 … 観光バスでフランスをまわる6

2022年05月29日 | 西欧旅行…フランス紀行

(城塞の矢狭間から街の写真を撮る女性)

 20年ほども前、ヨーロッパ旅行をしていて気づいた。欧米人はカメラを持っていない。カメラを持ち歩き、行く先々で写真を撮っているのは日本人だけだ

 ところが2010年頃、様相が一変した。欧米人の旅行者の多くが、若い人からマダムたちまで、コンパクトカメラを持ち歩き写真を写すようになった。社会の変化というものは、突如、爆発的に起こるもののようだ。

 コンパクトカメラはすぐに廃れた。続いて、カメラ機能の付いた携帯電話、スマホやアイパッドに変わっていった。一眼レフを持ち歩く人もいる。

 私が一眼レフを持っているせいか、欧米人の若い旅行者から「写してください」とスマホやアイパッドを差し出されることがある。「向こうの景色をバックにして」。

 2人はまるでモデルのように上手にポーズをとる。日本人は自分を被写体にするのが苦手だ。

 ところが、私は「メカ」が苦手で、スマホやアイパットの撮影にも慣れていない。

 「そこに立つと逆光で、顔は暗くつぶれてしまいます」 ── でも、それを言葉でどう表現したらよいのか。ヨーロッパの透明感のある空気は物の陰影を際立たせる。私は渡されたスマホの露出調整の仕方がわからない。

 まあ、露出はあとで、本人がパソコンで調整することもできる。とにかくパチリと写して、お返しする。

   ★   ★   ★

<カルカソンヌの町の起源>

(以下の記述は、紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』及び『ヨーロッパものしり紀行─城と中世都市編』(新潮文庫)を参考にした)。

 今日のホテルは「城塞都市カルカソンヌ」の東側で、ナルボンヌ門まで歩いて5~6分という所にある。

 ホテルに荷物を置いて、早速、添乗員の引率のもと、見学に出た。

 現在のカルカソンヌ市は、町の西に鉄道駅があり、その近くには世界遺産のミディ運河の船着き場もある。もっとも、船着き場は今では観光船用だが。

  (ミディ運河)

 鉄道駅や運河の船着き場があったということは、この地が古くから今に到るまで、地中海と大西洋を結ぶ交通の要衝の地だったということだ。

 一方、町の東側にはオード川が流れ、川の向こうは丘陵になっている。

 その丘陵の上、オード川を見下ろす高台に、カルカソンヌの最初の町は築かれた。周りをぐるっと城壁に囲まれた城塞都市である。

 城壁の中の市街は、ラ・シテ(La Cite)と呼ばれた。パリの発祥の地であるシテ島のシテと同じで、英語ならCity。

 遥か昔、この丘の上には、ケルト人(ガリア人)の砦があったらしい。

 BC2世紀にローマ人が侵出してきて、堅固な城壁に囲まれた町を建設した。これが、カルカソンヌの起源である。今は世界遺産になっている。

 ローマは道なき道をやみくもに前進して、ただ野蛮に諸族を征服していったわけではない。ローマ軍は兵士であるとともに、土木・建築の専門家であり、技術者・職人集団だった。そして、戦略重視・兵站優先で、橋を架け、道を拡張・舗装しながら、軍を進めていった。

 平定した地域には、砦を築き、町を建設した。つまりは、文明化だ。

 (このあたりのことは、塩野七海『ローマ人の物語』に詳しい。)

 町(或いは砦)の建設にも、決められた定型があった。形は長方形で、必ず城壁で囲み、その周囲を堀で囲った。

 城門は東西南北に設け、4つの門は東西と南北を走る街道に通じる。その交差する所が町の中心広場で、地域の交易の場にもなった。町と町、砦と砦は街道網でつながれ、そして、全ての道はローマに通じる。

 ただし、町の形は長方形と言っても、土地の地形に合わせることは必要だ。

 カルカソンヌの丘の上の町も長方形ではない。長方形を基本にしたサツマイモのような、紅山雪夫氏の表現では、人間の耳のような形をしている。

 北、西、南側はオード川や谷になっているから、堀はない。広く、深い堀が掘られているのは、丘陵が延長している東側だけである。

      ★

<町の東側を守るナルボンヌ門>

 三方を谷に囲まれた丘陵の上の城塞都市カルカソンヌは、丘陵が東に延びているから、東側から攻められやすい。

  (ナルボンヌ門)

 そのため、東側の城門のナルボンヌ門の前には広く深い堀があった (今はかなり埋もれてしまった)。また、橋を渡った外城門の奥には、まるで一個の独立した城塞のような内城門があった (ピンクの屋根の塔あたり)。

 大阪の上町台地の北端に築かれた豊臣秀吉の大坂城は、北、東、西は海や川で囲まれているが、南は上町台地の続きで、こちらからは攻められやすい。それで、大坂冬の陣のとき、真田幸村は南側の城門の外に真田丸を築いて防衛に当たった。発想は同じ

 この城門を出ると、地中海岸の古都ナルボンヌへ向かうローマの街道があった。それで、ナルボンヌ門と名付けられている。

   堀の前、右わきの柱の像は、マリア像だ。どこか素朴でユーモラスなマリア像の下を通って、堀に架けられた橋を渡った。

 ただし、13世紀になると、ローマ時代の4つの城門のうちの北門と南門はふさがれた。町の北と南は谷だから交通量が少ない。それに、城塞の防衛力を強化するには、城門は少ない方が良い。ヨーロッパ中世には、ローマ帝国時代のような平和な世界は現れなかった。

       ★

<圧倒的な二重の城壁>

 (内城壁と外城壁の間のリスを歩く)

 圧倒的な景観である。見学する人間は、豆粒のように小さい。

 ラ・シテは二重の城壁に囲まれていた。ここは、二重の城壁の間の通路である。

 内城壁には29の塔、外城壁には17の塔が、城壁の防御力を強化した。

 塔にはピンクの尖がり屋根と青の尖がり屋根があって、その形と色がわずかにあたりの殺風景な景色に彩りを添えている。

 聳え建つ内城壁の高さには圧倒されるが、なんとローマ時代のものだ。(13世紀に補修されたとはいえ)。

 一方、13世紀には外城壁も築かれ、二重の城壁に囲まれた城塞になった。内城壁に比べて低く見えるが、外城壁の下は谷になっているから、城の外から眺めると、やはり高い。

 外城壁も、内城壁も、丘陵の斜面に造られたが、2つの城壁の間の斜面は平坦に整備して、通路(リス)を通している。リスによって守備兵は、敵が攻撃を集中した地点へ敏速に移動できた。

 リスを歩いて1周すれば、約1.2キロ。

 ドイツのロマンティック街道のローテンブルグも城壁の中の町だったが、まるで童話の世界のようだった。

 カルカソンヌはまさに要塞都市。辺境の地の荒涼とした風が吹き抜けるような感じがして、印象深かった。

       ★

<ラ・シテと大聖堂>

 ラ・シテは全域が「歴史的街並み保存地域」になっている。

     (ラ・シテの広場)

 中世のままの通りは狭く、石畳が敷かれている。そこに古びた家々が並び、表通りにはレストラン、カフェ、土産物店などが開いていた。

 帝国自由都市として、商工業者の町として発展していったローテンブルグのようなメルヘンチックな町ではない。町の規模も小さい。

 サン・ナゼール大聖堂があり、中へ入ってみた。

 身廊と側廊は11世紀のロマネスク様式で、袖廊と内陣は13~14世紀のゴシック様式とか。ステンドグラスが美しい。

(サン・ナゼール大聖堂の内陣とステンドグラス)

       ★

<カルカソンヌ伯の城>

   ラ・シテの中には、大聖堂のほかに城もある。城壁の中心は、当然、城である。この地の領主であったカルカソンヌ伯の城だったから「伯城」と呼ばれた。

 13世紀に、カルカソンヌの町も城もフランス王のものになったが、「伯城」という呼び方は変わらなかったそうだ。

 19世紀のドイツのノイシュヴァンシュタイン城のようなメルヘンチックな城ではない。実戦的で質朴な中世の城塞だ。

 面白いと思ったのは、城門の前に半円形の外郭(馬出し)があったこと。

   日本の戦国時代、城郭に馬出しをつくったのは真田家だ。城門を隠し、敵が城門を破ろうとしたときに邪魔になる。また、城内から騎馬隊が反撃に打って出る時にも、目隠しになる。

 伯城から内城壁の上を歩くことができた。オード川の向こうに広がる街並みが眺望できた。

 (カルカソンヌの街並)

 この丘の上の城塞都市ラ・シテにも人家が増えて、13世紀には川向こうの平地に第2の市街が造られ、商業や手工業の中心はそちらへ移った。現在、市役所も、鉄道駅も、運河の船着場も、そちらにある。

 13世紀には、新たに外城壁が築かれ、北と南の城門はふさがれ、防備が強化された。

 13世紀に何があったのか

 11世紀ごろから、南仏に、教皇や司教の贅沢で権威主義的なあり方に反発するカタリ派と呼ばれる教えが民衆の中に広まった。教皇はカタリ派の広がりを恐れて異端とし、12世紀の初め、フランス王の支援の下に十字軍を起こした。イスラム教に対してエルサレム奪還のために起こされた十字軍ではなく、南仏のキリスト教徒に向けられた十字軍である。歴史上、アルビジョア十字軍と呼ばれる。

 この地域の領主たちは、トゥールーズをはじめ、カルカソンヌの領主たちも、教皇の十字軍に反対してカタリ派の側で戦った。戦いは1209年に始まり1229年に終わる。この過程で、南仏諸侯は降伏し、或いは滅ぼされ、カルカソンヌもフランス王の支配地になった。そのあとも、カタリ派の民衆への弾圧は続き、14世紀にかけて、100万人の信者が殺されたという。

 外城壁の建設が始まったのは、アルビジョア十字軍の終わった後の1247年。完成したのは1285年である。

 南仏を制圧したフランス王は、アラゴン王国に備えたのだ。

 アラゴン王国は、のちにカスティーリア王国と合体してスペイン王国を形成するが、13世紀にその領土はピレネー山脈を越えて、現在のフランス領に入り込んでいた。

       ★

 城門はナルボンヌ門しかないと、添乗員は言う。

 そんなことはないと、自由時間に歩いて、ナルボンヌ門の反対側にオード門を見つけた。

  (オード門)

 城門を少し出た所から見ると、斜面の上に外城壁が築かれていることがわかる。外城壁の後ろに内城壁がある。その間が通路(リス)になっていて、リスを歩いていると分岐があり、オード門の方へ進むことができた。

 オード門はオード川へ下る坂道に通じている城門で、橋を渡れば13世紀の市街地になる。

 写真の左手の城のような建物が「伯城」。

       ★

<ライトアップされたカルカソンヌ>

 夜、ホテルを出て、ライトアップされたナルボンヌ門を撮影している人を撮影した。景色の中に人が点景として存在すると、写真が生きる。

 こうして見ると、ナルボンヌ門は、一個の城のように大きくて堅固だ。

  (ナルボンヌ門)

 さらにラ・シテの中を歩いて、オード門の外に出て、伯城を撮影した。

   (オード門)

 いい写真が撮れて、満足した。

 旅行社のツアーに入ると、ふつう、ホテルは旧市街から遠く離れた何もない場所になる。夜、外に出ても、コンビニやガソリンスタンドがあるだけだ。

 しかし、ヨーロッパの旧市街や景勝地は、夜景も素晴らしい。夜景も旅の一部である。

 今日は、世界遺産から歩いて数分のホテルで、ラッキーだった。

 

 

 

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「風立ちぬ、いざ、生きめやも」 … 観光バスでフランスをまわる5

2022年05月22日 | 西欧旅行…フランス紀行

     (モンペリエのトラム)

     ★   ★   ★

<モンペリエの街のトラム>

 ガールの水道橋を見学した後、バスはプロヴァンス地方に別れを告げ、モンペリエという町まで走って、昼食をとった。

 広場の片側の、木陰にテラス席がある、南欧らしい風情のレストランだった。

 この町は大学町で、モンペリエ大学があり、卒業生にフランスを代表する詩人、ポール・ヴァレリーがいる。2つの大戦の時代を生きた文学者だ。生涯、「狭き門」の作者アンドレ・ジイドと親友だった。

 古風な街並みの中を、面白いデザインのトラムが走っていた。

 ヨーロッパのトラムは車体がスマートで、ステップが地面に近く、乗り心地もなめらかである。

      ★

<世界一高い吊り橋>

 昼食後、カルカッソンヌへ向かう途中、バスは中央山塊の方へ迂回し、ミヨー大橋を渡った。

 「世界一高い吊り橋」ということで、CMにも取り上げられているそうだ。

  (車窓から/ミヨー大橋)

 さすがフランス。デザインが美しく、オシャレだ。車窓から仰ぐと、高さに圧倒される。

 だが、設計者はイギリス人だ。

 橋を渡り終えた所に日本でいう道の駅があり、深い峡谷に架かる橋の全景を眺めることができた。

 だが、バスの車窓から見た高度感や視覚的な美しさに及ばない。

 朝霧(雲海)の中の大橋は幻想的だという。なるほど、さもありなん。CMに使われているのはその映像らしい。

 しかし、フランスの皆さん。十津川村の谷瀬の吊り橋も、渡るときのスリル感、横からの眺望、いずれもなかなかですぞ!! ただし、徒歩でしか渡れませんが。

 ミヨー大橋は、自然を超越した、神のごとき人間の手による巨大な人工美。

 八瀬の吊り橋は、神々の宿る大自然にとけこみ、その一部と化した橋である。

       ★

<ラングドック地方へ>

 フランスの地中海側を、東から西へと3等分すると、第1日目は、一番東側のイタリアとの国境に近い紺碧のコート・ダジュールを観光した。

 第2日目と3日目の午前は、ローヌ川の水運によって古代ローマ時代から開けたプロヴァンスの町や遺跡を訪ねた。

 そして、第3日目の午後は、3等分した一番西側、スペイン国境に近いラングドックと呼ばれる地方へ。

 地図でフランスの全土を俯瞰的に見ると、南西部がくびれて地中海と大西洋が接近している。くびれた部分の南西部にピレネー山脈が横たわり、その向こう側はイベリア半島で、再び大きな広がりとなる。

 くびれ部分のピレネー山脈よりこちら側は平地で、大西洋と地中海という2つの海の間を隔てる山脈がない。そのため、古代ローマ街道の時代から、現代の高速道路や新幹線に到るまで、交通の要衝となってきた。

 そのくびれの地中海側と少し内陸部に入った地域がラングドックである。

 フランスを良く知る人は、パリはフランスではないと言う。

 本当のフランスを知りたければ、プロヴァンスや、ラングドックや、オーヴェルニュや、ブルゴーニュ地方を歩けと。

 ラングドックは、岩肌の山と、緑の起伏が波打つ豊饒な地である。

 すでに先史時代、洞窟から鹿の絵が発見されている。ピレネー一帯には巨石文化やケルトの遺物が残される。

 プロヴァンスとともに、フランスで最も早くローマ化された地域であり、また、キリスト教が最も早く伝わってきた地域でもある。

 中世には地中海の光に満ちたおおらかで情熱的な文化があり、ロマネスクの土着的なにおいのする教会が建てられた。しかし一方では、禁欲主義のカタリ派の教えが広がって、教皇は異端として十字軍を差し向け、多くの人々が弾圧され殺された。

      ★

<3千㌔の航路を短縮したミディ運河>

 カルカッソンヌの町の中のホテルに荷物を置き、カルカッソンヌの城壁の中を見学した後(次回のブログ)、鉄道駅近くのレストランで晩飯を食べた。

 レストランの近くにミディ運河があった。世界遺産である。

 (ミディ運河)

 この運河は、地中海から、カルカッソンヌを経てトゥールーズに到る240キロの大運河である。トゥールーズの先は、ピレネー山脈に端を発すガロンヌ川が、トゥールーズ、ボルドーを経て、大西洋に流れ出る。

 この運河がない時代、大西洋側のボルドーを出港した船は、遥々とイベリア半島を回って、ジブラルタル海峡で高い通行税を払い、やっと地中海へ入ってきた。17世紀、ルイ14世の時代に建設されたこの運河のお陰で、ボルドーのワインを運ぶのに3000キロの航路が短縮されたという。

 鉄道ができて輸送ルートとしての役目を終え、今は運河クルーズで、人気の観光資源になっているそうだ。

 途中、閘門(オウモン)(ロック)で水位を上げ下げし、船を上下させる個所もある。両側には、建設時に4万5千本の樹木が植えられ、林や森となって、水沿いのウォーキングも楽しめるそうだ。森の中を行く船の写真を見ると、絵のように美しい。

  (ミディ運河)

       ★

<ポール・ヴァレリーの詩>

 ミディ運河の地中海側の出口は、セートという漁村だ。詩人ポール・ヴァレリーの故郷である。

饗庭孝男『フランス四季暦』から

 「モンペリエから海沿いに南下すると、セートという漁港がある。海にそそぐ(ミディ)運河の両側から山手にかけて家がならんでいるが、それ自体、何の変哲もない町だ。もっとも、海にのぞんだレストランでとった魚料理は抜群においしかった。

 しかし、この小さな町も、詩人ポール・ヴァレリーの名前によって日本や外国にまで知られている。海を見下ろすサン・クレールの丘に、彼の詩『海辺の墓地』で有名になった墓地がある。樹々と墓石のあいだから見える海が詩人に喚起したものは、思考が渦巻き、沈潜してゆく『死』への想念と、その内的な劇の果てに、風が立って生きようとつとめる『生』への強い意志であったことはいうまでもない。

  風が立つ、生きようとつとめなければならない

   (La vent se leve, il faut tenter de vivre)

という一句には、キリスト教的な『永遠』の生の幻をすて、『自然』の『永遠』のリズムにみずからを同化させようとした詩人の決意がみなぎっている」。

 堀辰雄の小説『風たちぬ』の冒頭部に、上記の詩が引用されている。

 「そのとき不意に、どこからともなく風が立った。私たちの頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それとほとんど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私たちは耳にした。それは私たちがそこに置きっぱなししてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。……

      風立ちぬ、いざ、生きめやも。」 

(宮崎駿『風たちぬ』のポスター)

 

 

 

 

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須賀敦子のポン・デュ・ガール (プロヴァンス2)… 観光バスでフランスをまわる4

2022年05月14日 | 西欧旅行…フランス紀行

  (アヴィニョンの教皇宮殿)

      ★

<教皇庁が置かれたアヴィニョン>

 「フランスの美しい村」のゴルドから約40キロ。

 アルル同様、アヴィニョンもローヌ川の水運で発展した町だ。ただ、ローマ時代の遺跡はあまり残っていない。

 ここは、昔、世界史で勉強した「アヴィニョンの幽囚」で有名な中世の町である。

 「幽囚」とはいえ、教皇さまは、中世において「神の代理人」。

 ヨーロッパ世界に広がるカソリック教界の全組織を統治し、上は王侯貴族から下は商工業者やその使用人まで、この世の全ての神の子羊たちから徴収した巨万の財を運用する。当然、日々、典礼祭祀を執り行い、また、時に世俗の王侯貴族と激しい権力闘争も戦う。

 そのためには、上から下、さらにその下まで、それぞれの分野に精通し経験を積んだ膨大な数の人材を必要とした。

 教皇がローマからアヴィニョンへ引っ越せば、当然、上は枢機卿以下の官僚組織、下は日々のお召し物を用意したり、料理を作ったりするシモジモまで、オール「教皇庁」で引っ越さねばならない。その数は7千人とも言われ、ローヌ川の水運で開けた町を再開発しても、道路の幅は狭くて入りくみ、上下水道も不十分で、邸や家屋は言うまでもなく、何もかもが収まりきらなかった。それでも、再開発によって古代ローマの跡はなくなり、中世の町になっていった。

 とはいえ、 …… 遥々と日本からやって来て、ローヌ川を隔てて望む教皇宮殿の姿は、「幽囚」などという言葉にそぐわない雄姿に見えた。

 日本で幽囚などと聞くと、城下の端の林の中の隠居小屋暮らしのイメージだ。

   (法王庁宮殿)

 手前の低い連なりは旧市街を囲む城壁で ── 「低い」と言っても、観光バスの大きさと比べると聳え建つ城壁だが ── その上に連なる巨大堅固な城塞風建造物が教皇宮殿である。

 教皇「座」がアヴィニョンにあったのは1309年~1377年の期間。この間の7人の教皇はすべてフランス人。この時代、フランス王の力が強かった。「幽閉」されていたわけではない。ただ、実質、フランス王の目の届く所に置かれた。それは、神の代理人を自称するカソリック教会の側からみたら、屈辱の期間だった。教皇座は、使徒ペテロが殉教したローマに置かれなければならない。

  (宮殿内の見学へ)

 アヴィニョンのガイドの案内で、宮殿の内部も見学した。

 欧米人の観光客が多く、写真を撮ろうとしても人の姿に邪魔されてうまく撮れなかった。だが、とにかく内部も外観の印象と同じで、分厚い石の壁に囲まれた大広間や教皇の礼拝堂などの空間は、広く、高く、厳(イカ)つく、威圧的だった。

 それにしても、この冷え冷えとした印象は何だろうと思っていたら、ガイドの説明があった。かつて壁面を飾っていたフレスコ画、タペスリー、絵画などの豪華な内装、宗教的彫刻・彫像の数々、椅子やテーブルやその他教皇の調度品などは、フランス革命のときに革命派の民衆によって破壊・略奪されてしまったという。だから、寒々として、殺風景な、がらんどうの空間なのだ。世界史で勉強したフランス革命の美しいイメージとは違い、「民衆」とか、自由、平等、博愛などという理念の衝動にかられた「革命」という行動は、時に恐ろしいものなのだと思った。

 その後、一部は牢獄や兵舎として使われたというが、今は無宗教の国営ミュージアムとして、世界文化遺産に登録されている。

 教皇宮殿を出てローヌ川の岸辺に立つと、サン・ベネゼ橋が見えた。「アヴィニョンの橋」で知られている。

 「アヴィニョンの橋の上で、踊ろよ、踊ろよ

  アヴィニョンの橋の上で、踊ろよみんな輪になって

 (アヴィニョンの橋)

 この橋は、1190年にローヌ川の川中島をまたいで架けられた。

 当時としては大変な大工事だった。完成したとき、21の橋脚と22のアーチがあり、全長は900mだった。しかし、1669年の大洪水で流されて、4つのアーチのみが残った。

 橋のたもとには、サン・二コラ礼拝堂が建っている。

 二コラは一介の羊飼いだったが、ある日、天使のお告げを受けて、ここに橋を架けるように大司教さま以下、町の有力者たちを説得した。のちに、天使のお告げを受けた人ということで、聖人に叙せられ、サン・二コラと呼ばれた。

  (サン・ベネゼ橋の先端)

 「橋の上からは、ローヌ川、ドンの岩山、法王宮、そしてアヴィニョンの町の眺めがよい」と紅山雪夫の『フランスものしり紀行』にある。

 橋の上に観光客の姿が小さく見えた。こうして見れば、大きな橋なのだ。

 日が傾いて、やや赤みを帯びた空気に透明感があり、ローヌ川の向こうに望む教皇宮殿は印象的だった。

 ヨーロッパに来ていつも感じるのだが、光と陰の差が強い。空気が澄んでいる。日本のように空気が水分を含んでいないのだ。黄昏から夜にかけて、深い紺青になっていく空の色は本当に美しい。

 その代わり、おぼろ月や、陽炎や、秋の霧の風情はない。

    ★   ★   ★

<ガール川に架かるローマの水道橋> 

 2010年10月8日  晴れ 午後 曇り

 今日は8時半出発だから、ゆっくりだ。にもかかわらず、6時に部屋の電話が鳴って、何事かと驚いた。添乗員が間違ってモーニング・コールをかけたそうだ。

 今日は、アヴィニョンのホテルを出発して、世界遺産のボン・デュ・ガールへ。プロヴァンス地方の最後の見学地だ。

 午後は、南仏をさらに西へと走り、スペインとの国境のピレネー山脈も近いカルカッソンヌへ。城壁に囲まれた中世の町を見学する。

 (ブログのこの回はポン・デュ・ガールまでとし、カルカッソンヌは次回のブログに回します)。

        ★

 ポン・デュ・ガール。

 「ガール」はガール川。ローヌ川に流れ込む支流。

 「ポン」は橋。ただし、この橋は、人や馬車も通れるが、架橋の主目的は水道橋。

 ニームという町は、フランスのローマ時代に建設された町の中でも最古とされる。にもかかわらず、保存状態の良い古代闘技場をはじめ、多くのローマ遺跡が残るそうだ。ただし、今回、ニームは見学しない。

 そのニームの町に水を供給するため、ローマ人は長さ50㎞の導水路を建設した。

 途中、ガール川の深い渓谷を越えるために、水道橋が架けられた。紀元前19年のことである。

 12世紀に架けられたアヴィニョンのサン・ベネゼ橋は17世紀に崩れたが、1100年も前に架けられたポン・デュ・ガールは今もそのまま遺っている。

    (ガール川に架かるローマの水道橋)

 以下、引用文は、須賀敦子『時のかけらたち』(青土社) 所収の「ガールの水道橋」から。

 「この橋が、ふくよかな女神をたたえるためでも、まして同時代人たちが愛したウェルギリウスやホラティウスの詩に対抗するためにでもなく、水を通す、という単純で日常的な用途のために築かれた事実が、私の心を捉えた。

 当時、5万の人口に賑わっていたとはいえ、広大なローマ帝国にとってのニームは、やはりひとつの『地方』都市にすぎなかったはずだ。

 その都市に水を引いて、市民ひとりにつき1日400リットルからの水を供給するという構想、いや、ローマ帝国の都市には水が流れ溢れていなければならないという『思想』のために、この橋は構築されたのだ。

 コロッセオやパンテオンのような記念碑的な建造物の才能には感嘆しても、それまで道路や橋などについては、単なる土木工事と、なにやらみくびっていた私は、どうやら回心を迫られているようであった」。

 上の写真に見るように、ポン・デュ・ガールはアーチの列を3層に積み重ねた形になっている。

 一番上が導水路。水面からの高さは49m、川底の基礎からの高さは52mで、現代の13階建てのビルより高いという。長さは275m。

 下段は人や馬が通る橋を兼ねている。長さは142m。

 私たちも歩いてみた。

 (下段の橋を歩く)

 中段、下段に使われている石材の中でも最も大きな石は、1個の重さが約6㌧もあるそうだ。 

 (川に映る橋脚)

 「水道を敷設するのがむしょうに好きな皇帝といえば、ふつう初代のアウグストゥスを指すが、構築の企画、施工に直接かかわったのは、『クラトール・アクアールム』、水道管理局といった役所を開発した、アウグストゥス皇帝の女婿、アグリッパのはずだった。

 ローマのパンテオンを最初に建立したのと同じ人物である」。

 導水路の全長50㌔には、途中、岩山をくり抜いたトンネルもある。

 導水路には、全て石造りの蓋がしてあり、清掃を行うための縦穴まで掘ってあった。ローマ人はいつもメンテナンスのことを考えて建設する。

 山の泉とニームの町との間は50㌔だが、高低差は17mしかない。平均すれば1㌔当たり34㎝である。どのような方法で勾配を計測しながら大工事を進めていったのか。とにかく水は滔々と流れてニームの町まで運ばれた。ローマ人の技術力はすごい。

 「雨の多い季節に(川の)流れが深く激しくなる部分はアーチを広く取り、浅瀬には小さいアーチに造られているという。この変化は、工事を軽減する目的でえらばれたのかもしれないが、ローマの構築者たちは、全体の印象をかろやかに仕上げるという美学的な要素をすでに意識していたにちがいない。

 私の疑問への答えが否定的な場合、すなわち、橋を構築したひとたちが美学を意識していなかったとすると、若いころどこかで読んだ、もうひとつの厳粛で基本的な概念が浮上する。すなわち、ぎりぎりまで計算しつくされた構造は、心を打つような造形と必然的に合致するはずだという考えだ」。

    (水道橋)

      ★

<須賀敦子の世界> 

 「昼間だと、あの上を渡れます。ジャックがいった。いいのよ、わたらなくても、このままで。これまで見た、いちばん美しいものみたいな気がするわ。ジャックが頬をあからめたのが、月の光でわかった。もういちど、彼がいった。あなたをここに連れてきて、よかった」。

 引用してきた須賀敦子の短編「ガールの水道橋」は、旅行案内でも、紀行文でもない。彼女の作品には、文学の話や紀行などもあるが、なつかしい思い出の人々のことを書いたものも多い。彼女の作品のファンは、そういうものを読んで感動した人たちだ。…… 若くして病死したイタリア人の夫の思い出。夫の従弟や叔父さんのこと。二人に共通の友人、知人のこと。自分の父のこと ……。いずれも、須賀敦子にとってなつかしく、いとしい人たちだ。

  (水道橋の橋脚)

 この「ガールの水道橋」は、ジャックというフランス人の青年の思い出を書いている。

 彼は、南仏の小さな町の職人の息子として生まれた。義務教育を終えると、当時はフランスでもドイツでもそうだったが、父は息子が自分と同じように職人としての技術を身に付けるため徒弟生活に入るものと思っていた。だが、ジャックは父の意に反して、文学を学ぶためにエクス・アン・プロヴァンスの普通科リセに進学し、さらに大学に進む。もちろん、自分で生活費を稼がなければならなかったから、卒業するのに人より多くの年月を要した。

 卒業してパリに出るが、彼の夢にかなうような就職先は見つからなかった。

 「私」が彼と出会ったのは、東京の外国語学校(専門学校)の講師として働いていたときだった。授業を終えたある晩、同僚教員のジャックから晩飯に誘われた。

 それから月に1、2度、夜の授業を終えたあと、近くの食堂で晩飯を共にするようになった。彼は、10歳も年上の「私」に、とりとめもなく話をした。生い立ちのこと、故郷の両親のこと、今、同棲している美人の日本人女性のこと、文学のこと、旅行のこと、夢のこと。 …… 彼は文学青年で、「私」から見れば地に足がついていないように見えた。やがて、美人の彼女とも、愛し合っているのに口喧嘩ばかりするようになり、そういう愚痴もとりとめもなく聴かされた。「私」は二人のことに介入したくなかったから、ただ聴き役だった。

 そして、ある年度末、彼は突然決断してフランスへ帰った。もちろん、彼女との関係も清算して。

 ところが、故郷の南仏には帰らず、パリで生活した。「私」が仕事でフランスに行くことになったとき、会いたいというのでパリの地下鉄の駅で落ち合った。そして、彼の「下宿」に案内され、東京で別れて以来の話を聴かされた。倉庫の一室のような部屋での孤独な暮らしは貧しく、幸せとは縁遠いように思えた。

 時がたち、また「私」が仕事で南仏に行くと聞いて、ホテルに訪ねて行くという連絡があった。そのとき、彼は、故郷に近い南仏の町で教職に就いていた。

 再会したとき、彼はうれしそうに「今度、結婚することになりました」と言った。「私」は彼が長い旅の末に、やっと居場所にたどり着いたのだと感じた。

 彼は、その夜、あなたに見せたいものがある、と言った。

 そして、彼に連れられてきたのが、ここである。

 月光に照らされた「ガールの水道橋」。「私」は息をのむほど感動した。

 「昼間だと、あの上を渡れます。ジャックがいった」。

 今までさんざん愚痴を聴いてくれた「私」に対する、ジャックの心のこもった感謝の贈り物なのだと思ったから、「私」も答えた。「これまで見た、いちばん美しいものみたいな気がするわ」。

 「ジャックが頬をあからめたのが、月の光でわかった。もういちど、彼がいった。あなたをここに連れてきて、よかった」。

 …… 須賀敦子が描く人は、名もない、そして、なつかしい思い出の人である。

 この小品は、ジャックの「あなたをここに連れてきて、よかった」という言葉の紹介の後、その数行あと、突然、次のような叙述で終わる。

 「ジャックの妻からの電話で、彼が重い病気で急逝したという報せがとどいたのは、それから2年後の、つめたい冬の夜だった。ふたりのあいだには、男の子が生まれたばかりだった」。

 人はまよいながらも、けなげに生きる。そして、多くの場合、何も話さず、まわりの一人一人にわずかな思い出だけを残して死んでいく。

 ジャックの両親や、妻や、その他の誰かよりも、自分がジャックのことを深く知っているわけではない。しかし、自分だけが知っているジャックもある。

 ジャックのことを書いたのは、「私」の弔辞かもしれない、と思った。ジャックの美しい贈り物のことは、自分が語らなければ、誰も知らないのだから。

 やはり、教会の鐘の音ような弔辞だと思った。

      ★

 この作品紹介には、私の勝手な「読み」が入っていると思います。興味のある方は、作品そのものをお読みください。

 さて、フランスのバスの旅から、すっかり離れてしまった。もう脱線はやめて、このあと南仏を西へ西へと走り、カルカッソンヌに到る。

 

 

 

 

 

     

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プロヴァンス(1) <アルルとゴルド> … 観光バスでフランスをまわる3

2022年05月08日 | 西欧旅行…フランス紀行

    (天空の村・ゴルド)

<プロヴァンスとは>

 フランスの地図を広げて見る。広大な平野が広がるが、南部に山塊がある。

 山塊の東部はスイスから延びてきたアルプス山脈で、アルプス山脈が切れると、その西には中央山塊がでんと控えている。

 パリから飛行機に乗ってフランスの平野の上を遥々と飛び、やがてアルプス山脈にさしかかって、白い峰々の聳える山脈の上空を越える。越えるとすぐに地中海の青い海。そこが、イタリアとの国境に近いコート・ダジュールである。

 フランス南部の山塊の、東がアルプス山脈で西が中央山塊。その間は峡谷となり、 ── 調度、南仏の東西の真ん中あたりになるが ──  その峡谷をローヌ川が流れて、地中海に注いでいる。

 この河川は、スイスのローヌ氷河に発し、レマン湖を東から西へ抜けて、さらに西へ流れ、フランス第3の都市・リヨン付近でソーヌ川を合わせる。そこから流れを南に向けて、最後はアルル付近で三角州をつくりながら、地中海に流れ込んでいる。

 プロヴァンスとは、行政的にはフランスの地中海沿岸部の東半分、即ち、ローヌ川を境とする東の地域を指す。従って、コート・ダジュールもその範囲に入る。

 しかし、プロヴァンスという言葉には、遥かに遠い昔から開けた地というイメージがある。歴史的には北のパリなどよりずっと早くから文明の光があった地だ。南仏でも、ローヌ川の河口付近。フランスの地中海沿岸部を3等分したら、その中央部あたりを指す。

 プロヴァンスについて、饗庭孝男『フランス四季暦』(東京書籍)の中で、このように書いている。

 「1年をとおして250日余が晴天のこの地中海沿岸は、 …… 時に氷雨が降る暗い北のパリとくらべて、すでに3月の中ごろから、杏や桜の花が、防風用の糸杉やオリーブの樹にかこまれた赤褐色の農家のまわりで咲き、春の趣を見せてくれる。…… 」。

 「この地方は、地中海に沿って、東から古代文化がいち早く伝えられたところである。またフランスのキリスト教化の出発点でもあった。

   アルル、ニーム、アヴィニヨン、それにサン・レミ等、どこを歩いても古代遺跡を目にすることができる。

 紀元前600年ごろに、すでにギリシャ人はマッサリア (フランス第2の都市・マルセイユ) に都市をつくっている。やがてそれをカルタゴ人が攻めて60余年を統治し、紀元前218年には (カルタゴの) ハンニバルが (ローマを攻略しようと) プロヴァンスをとおってアルプスに達した。

 のちにケルトの支配する内陸部をローマ軍が攻めて追い払い、1世紀の終わりには、ローマのアウグスト皇帝がこの地方を統一し、ローマ文化が具体的な建物となって、この光にみちた野にあらわれてくる。

 本来、プロヴァンスという名前は、プロヴィンキア・ローマ (ローマの属州) に由来する」。

    ★   ★   ★

<セザンヌの山>

2010年10月7日㈭ 晴

 朝食を食べ、荷造りもして、バスに乗り込み、7時45分に出発した。あわただしい

 今日は、ニースのホテルを出発して、アルルゴルドアヴィ二ョンを見学し、宿泊地はアヴィニョン。(今回のブログ ― 第3回はゴルドまで)。

 ニースからアルルまでは250キロ、3時間半のバス旅だ。

   バスの中で眠る人が多いが、私は車窓風景を眺めて飽きない。その土地の風土を感じることが好きだ。バスの車窓の高さがちょうど良い。乗用車では、たとえベンツであろうと、こうはいかない。

 バスはプロヴァンス地方に入り、エクス・アン・プロヴァンスという町の近くを走る。

 ローカルな都市だが、プロヴァンス地方の政治や学問の中心都市だ。大学町でもある。

 私の好きな画家の一人・セザンヌ(1839~1906)は、この緑豊かな町に生まれ育ち、若い頃の一時期パリに出たが、都会の水になじめず、すぐに故郷に帰って、この町の身近な自然や静物を描き続けた。よく、キャンバスと椅子を背負ってサント・ヴィクトワール山が見える野に行き、三角錐の岩塊を繰り返し描き続けた。

 車窓から、サント・ヴィクトワール山に連なる岩塊が見えた。白い石灰質の岩山で、日本の山とは趣が違う。

 (車窓から/セザンヌの山塊)

 この町で、セザンヌは、子ども時代にエミール・ゾラと仲良しだった。成人して、二人は喧嘩別れしたと思われていたが、手紙が発見されている。偉大な画家と文豪は、晩年まで、お互いに敬愛の情をもち続けていた。

      ★ 

<古代ローマが残るアルルの町>

 アルルは、地中海からローヌ川を20キロほど遡った河港として発展した町だ。

 ガリア(フランス)の内陸部に通じるローヌ川の水運と、地中海の水運が、アルルによって結ばれていた。

 さらに、ローマから南フランスを経てイベリア半島に達する、アウレリア街道の要衝でもあった。全ての道はローマに通じる。

 AD1世紀には、初代皇帝アウグストゥスが、交易港の町だったアルルを、ローマの都市らしく整備した。

 この町の円形闘技場は、ローマのコロッセオより100年ほども古く、保存状態の良さでは3指に入るという。

 周囲の外壁は2層(もとは3層だった)の60のアーチからなり、収容人員は2万6千人。 

  (円形闘技場の外壁)

 今も、夏の夜、オペラやコンサートなどのイベント会場として使われている。残念ながら、このツアーは入場観光しない。

 この旅の前、イタリア紀行で、ローマのコロッセウムの迫力ある外観を眺め、中に入ってその構造や柱やアーチなどの圧倒的な存在感を目にしていたから、良しとしよう。

 すぐそばにアウグストゥス時代の古代劇場もあったが、ここも素通りした。

 レピュブリック広場はこの街の中心。真ん中に記念塔が建ち、市庁舎やサン・トロフィーム大聖堂がある。

 (レピュブリック広場)

 サン・トロフィーム大聖堂は、南仏を代表するロマネスク大聖堂の一つだが、やはり素通りだった。

※ その後、2015年の「陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅」で、ブルゴーニュ地方のロマネスク大聖堂をめぐった。

 アルルはまた、画家ゴッホ(1853~1890)が才能を花開かせた地でもある。

 「北方に生まれたゴッホが、このプロヴァンス地方の光に惹かれたのも無理はない。1年余の短いアルル滞在にもかかわらず、彼が多くの作品を描いたのも、この光にみちた風物のせいだろう」(饗庭孝男『フランス四季暦』) 

 ゴッホが右耳を切って入院した市立病院の跡地は、今、「エスバス・ヴァン・ゴッホ」という施設になっている。ゴッホ時代の病院の復元された庭だけ見た。

 さらに、ゴッホの絵に描かれた「跳ね橋」のレプリカを見学した。

 跳ね橋よりも、その先にあった古代ローマの運河の方に興趣があった。

   (ローマ時代の運河)

 アルルから地中海へと流れるローヌ川の下流は、流れが激しく船の航行に難儀した。そこで、BC1世紀の初め、共和制時代のローマの実力者マリウスが運河を掘った。2千年も前の運河である。19世紀のゴッホの時代、運河はまだ使われおり、ゴッホの描いた跳ね橋はこの運河に架かっていたものだ。

      ★

<「フランスで最も美しい村」のゴルド>

 アヴィニョンへ行く途中、「フランスで最も美しい村」に選ばれたゴルドに寄った。

 「美しい村」は、最近、日本のツアー会社も注目し、フランス・ツアーに組み込まれるようになった。

 その立候補条件は、人口2千人以下、2つ以上の遺跡・遺産があり、開発を制限して景観を保護し、村の議会が登録を承認していること。いかにもヨーロッパらしい取り組みだ。観光ばかりでなく、そういう村で暮らしたいと、大都会から転居してくる人たちもいる。

 ゴルドは「天空の城」と言われる。家々は、岩山の山頂から山麓へとへばりつくように建てられている。

 (天空の城のようなゴルド)

 遠い昔、最初にケルト人がこの岩山に城塞の村を築いた。

 その後、この村もローマのプロヴァンス(属領)となり、山頂部にはローマ神殿が建てられた。

 ローマが滅亡し、ローマ化されたガリア人の住む南仏にもゲルマン人(フランク族)が侵攻してくる。そして、侵入者も含めて、人々の中にキリスト教が広がると、ゴルドの山頂のローマ神殿は、修道院に変えられた。

 だが、中世前期の西ヨーロッパ社会の統治機能は虚弱で、ゴルドにもアラブの海賊が侵攻して、村も山頂部の修道院も略奪・破壊された。北アフリカの海賊は、地中海を越え、ローヌ川を遡って、この岩山の上の村まで襲っていたのだ。

(メインストリートの正面は城)

 しかし、中世も11世紀になると、山頂部には城が築かれ、村にも防衛設備ができていく。

 14世紀の百年戦争の時期には、岩山の麓を囲う城壁も築かれた。

 今、山頂部にある城は、16世紀のルネッサンス期のものだそうだ。

 一般の家々は、平たい石を積み重ね漆喰で固めた壁でできている。

  (ゴルドの小道)

 昨日も、今日も、暑い

 出発前にネットで調べたフランス各地の気温は日本よりかなり低く、添乗員からも寒さ対策が必要との電話連絡があった。

 だが、大陸の気候の変化は激しい。長袖シャツの袖を肘の上まで捲り上げているが、歩いていても、体に汗がにじみ出てくる。

 ゴルドの村の麓近くまで歩いて下りたとき、木綿の手作り工房を営む家があった。そこで白木綿の半袖シャツを買い、包装は断って、その場で着た。

 袖が長袖か半袖かの違いだけのようだが、半袖シャツがこんなに爽やかで快適だとは思わなかった。

 化繊ではなく、木綿にこだわって工房を営むところも、「美しい村」らしくて良い。

 (この日は、このあと、アヴィニョンへ。続く)

 

 

 

 

 

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紺碧のコート・ダジュール … 観光バスでフランスをまわる2

2022年05月01日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ニースの青い海)

    日本は四囲を海に囲まれた島国だが、フランスは大陸の国である。それでも、国土の北西側は (イギリス海峡を含む) 大西洋に臨み、南(東)側は地中海だ。

 このツアーは、地中海沿岸のコート・ダジュールからスタートして、北はイギリス海峡に臨むモン・サン・ミッシェルまで行き、ゴールはパリ。正味6日間のバスの旅である。

 スタートのコート・ダジュールは、南フランスの地中海沿岸部のうち、イタリアとの国境に近い、東部の海岸線を言う。

 19世紀になって、雨の少ない温暖な気候と青い海が、北欧やスラブ圏の国々、英国、オランダ、ドイツやフランスの北部の人々の憧憬の地となり、貴族や富豪が別荘を構えるようになった。

 やがて超高級ホテルやレストランも進出して、国際的なリゾート地へと変貌していった。

 日本語では「紺碧海岸」と言われる。

   ★   ★   ★

<旅先のホテル>

 2010年10月6日

   昨日の朝、関空を出発し、フランクフルト経由で、夕刻、ニースに着いた。

 ニースは高級リゾートのイメージがあるが、宿泊したのは高級ホテルではない。ごく安いツアーだから、ホテルも三流である。

 私のヨーロッパの旅は、リッチなホテルに泊まったり、星付きレストランで食事をしたり、ブランド品を買ったりすることとは無縁である。ホテルは静かであれば、狭くて古い、ヨーロッパらしい一室で充分である。欲を言えば、旧市街の中のホテルでも、田舎であっても、窓からその土地らしい眺望が少しでもあれば、最高である。

 ただ、このホテルのバスタオルの饐(ス)えたような臭いには閉口した。

 相当に使い込んだものらしく、布地は肌が痛いほどにざらざらしているが、洗いざらしで清潔そうに思えた。もしかしたら環境に配慮した自然洗剤の臭いなのかもしれない。そう思って、我慢した。

      ★

<国際映画祭の町・カンヌ>

 。8時半、観光バスに乗り込んだ。昨夕、空港に迎えに来たのと同じバスだが、今日からの6日間、7日目のパリの空港まで、ずっとこのバスに乗るのかもしれない。

 関空から同行の中年の女性添乗員のほか、現地女性ガイドも同乗した。

 今日は、ニースから西へ走ってカンヌを見学し、ニースに引き返してニースを観光。午後は東へ走ってモナコを見学し、再びニースのこのホテルへ帰って連泊する。

 10月初旬の地中海の陽光は爽やかで、バスは所々で海を望みながら快調に走って、50分ばかりでカンヌに到着した。

 バスを降り、ガイドに引率されて、クロワゼット大通りを歩く。海岸沿いのプロムナードで、カンヌの目抜き通りだそうだ。

 片側の建物は超高級ホテル、高級レストラン、ブティック。海側はプライベート・ビーチだという。ただ、季節外れなのか、人々の朝がおそいのか、人は少なかった。

 午前の透明な光の中、そういう高級リゾートの街路を、観光バスを降りた30人ほどの日本人がぞろぞろと歩いて行く。歩きながら、団体で見学するような場所ではないのではないか、という多少の違和感を感じた。

 クロワゼット大通りの西端の建物が、カンヌ国際映画祭の会場のパレ・デ・フェスティバル。外見はちょっとオシャレだが、まあ普通の現代建築で、玄関ホールは2階にあり、そこからプロムナード前の広場へ「大階段」が降りてくる。

 カンヌ映画祭の日、この階段には赤い絨毯が敷かれ、世界の大スターたちが、或いはモーニング姿で、或いは華麗なロングドレスを引きながら、優雅に上がっていき、また、降りてくる …… のだそうだ。

 5月の映画祭の開催期間、この小さなカンヌの町は世界からやってきたスターや映画関係者やメディア関係者らでいっぱいになり、ホテルもなかなか取れないとか。

 …… などと説明されても、クローズされた現代風の建物を外から眺めるだけである。わざわざ見学に来る価値があるのだろうかと思った。

 旅が終わって帰国してから少し調べてみた。

 カンヌ映画祭の特徴は、その期間、見本市も同時に開催されること。つまり、映画のコンクールだけでなく、世界の映画のスーパーマーケットになるのだ。

 世界から1千社近い企業や数千人のプロデューサーが集まってくる。コンクールに参加した映画ばかりでなく、まだ構想段階で日の目を見ていない映画まで、誰が監督で、主演は誰で、あらすじはなどということがプレゼン・PRされ、大量のおカネが動き、資本が投じられる。優雅に見えるが、その裏はまさに市場経済の投資の場となる。

 資本主義の発祥の地はヨーロッパ。ファッションでも、観光でも、スポーツでも、映画・芸術でも、建築でも、カジノでも、自動車産業でも、現代の環境問題にかかわる産業に到るまで、いろいろ大がかりな「しかけ」がつくられ、投資の大渦が作られる。そういう一面ももつのが、ヨーロッパの今に至る歴史である。

 カンヌは、19世紀まで陽光きらめく普通の漁村だったそうだ。まさに新興の開発都市である。

 映画『太陽がいっぱい』の若き日のアラン・ドロンが演じたような、欲望がぎらぎらした青年の姿もあったに違いない。  

 シーズン・オフの映画祭の会場よりも、どこか、もっとコート・ダジュールらしい風景・景観、人々の営みと歴史を感じさせるところへ案内してほしい。そう思ったのは、多分、私だけではないだろう。

 せめて記念にと、1枚だけ、旧港のヨットハーバーの写真を撮った。

  (旧港のヨットハーバー)

      ★

<コート・ダジュールの中心都市・ニース>

 ニースに戻り、ニースの海岸から離れた山の手側にあるシャガール美術館へ行った。今日一日の見学で一番良かったのは、ここ

 彼は晩年をコート・ダジュールで過ごした。

 「シャガールは<光>に惹かれて『コート・ダジュール』へ来たのであろう。彼の心のなかで、スラブの深い靄が少しずつ<光>に透かされ、晴れてきたにちがいない」。(饗庭孝男『フランス四季歴』)

 「スラブの深い靄」と、南仏の「光」…。

 ステンドグラスの青が美しい。シャガールの青は地中海の青だ。 

 (シャガールのステンドグラス)

 (シャガールの絵)

 ヨーロッパの美術館は、フラッシュを発光させなければ、ルーブルの「モナ・リザ」でさえ自由に写真撮影できる。

 そのあと、バスに乗って、古代ローマの遺跡が少し残るシミエ地区を通った。

 素通りしただけだが、実は港としてのニースの歴史は古い。BC5世紀ごろに、ギリシャ人によって建設された。

 フェニキア人やギリシャ人は航海術に長け、紀元前の地中海の各地に港湾都市を築いた。その代表がフェニキア人のカルタゴだった。

 その後、この地はBC2世紀にローマが支配した。

 ローマはカルタゴを滅ぼして、地中海を「ローマの海」にしたが、もともとは陸の民である。ローマが進出するところ、舗装道路は延び、町が造られ、交易が進み、「面」としてのパクスロマーナが広がっていった。

 ローマ滅亡後の5世紀以降の地中海世界については、塩野七海の『ローマ亡き後の地中海世界』に詳しい。

 サウジアラビアに起こったイスラムは、地中海の北アフリカ側を席巻し、イベリア半島まで進出した。イタリアやフランスの地中海沿岸部は、長い歳月、海賊に荒らされ続けた。海賊を恐れ、人の住む村や教会は「鷹の巣」と呼ばれる断崖の丘の上に築かれた。

 19世紀になって、青い海と温暖な気候を求めて、大英帝国の貴族や金持ちがニースにやってきた。

 今のニースの中心は、3.5キロの海岸沿いの「プロムナード・デ・ザングレ」だが、「イギリス人の散歩道」の意である。超一流ホテルやプライベート・ビーチが並んで、第二次世界大戦まではヨーロッパの王侯貴族の社交場だったそうだ。

 昼食は、旧市街のレストランでとった。

 旧市街のあたりは、毎朝立つという市、レストラン、海岸でのんびりする観光客も、庶民的に見えた。

  (ニースの海)

       ★

<世界で2番目に小さな国・モナコ>

 そのあと、モナコへ向かった。

 モナコと言えば、私の世代にとって、ハリウッド女優のグレース・ケリーが王妃として嫁いだ国である。それ以外のことは知らなかった。

   ニースから観光バスで30分少々。イタリア国境まで30キロという所に位置する。

 モナコ公国の面積は2平方㎞。バチカン市国に次ぐ小国とか。しかも、海岸から数百メートルの背後にフランス国境の山が迫っている。

 ジェノヴァの貴族グリマルディ家が、13世紀末以来、支配してきた。今は立憲君主制だが、君主(元首)の権限は強い。

 もともと領土と言っても岩山ばかりの所だった。19世紀にカジノを導入して以来、高級リゾートへと発展していった。

 所得税はなく、消費税のみ。タックス・ヘイブンの国で、そのため国民の人口よりも外国人の居住者が多い。居住者は億万長者のセレブばかりだ。彼らの落とすおカネのお陰で、一人当たりの国民所得は世界一というのだから驚く。

      ★

 大公宮殿は、波打ち寄せる岩礁の岬の上に建っている。

 (大公宮殿)

 岩に打ち寄せる波と宮殿の壁がマッチングして見飽きなかった。

 宮殿前広場では、折しも衛兵交替が行われていた。

 

   (儀仗兵の交替)

 モナコの公用語はフランス語。通貨はユーロ。防衛もフランスに依存する。

 軍隊は大公の警護や儀仗を行う1中隊のみ。

 その分、住民の数に比して警察官の数が多く、治安は極めて良い。治安が良いから、世界のセレブが居住する。

 大公宮殿に隣接して、美しい大聖堂があった。金箔のビザンチン風ドームが美しい。

 (モナコの大聖堂)

 大公宮殿や大聖堂のある岬の岩山から、パノラマのような眺望があった。

 開発され尽くされている。モナコの人口密度は世界有数だとか。国民の数より外国人の居住者が多く、地価は高い。我々庶民がここに住みたいと思っても、買える価格ではない。

 ストリート・サーキットの「モナコグランプリ」も、この街で開催される。カジノもサーキットも、モナコの映画祭と同じように、「しかけ」である。

  (モナコの全景)

 今や、モナコ大公は、封建領主というより、きわめて有能な資本家・投資家である。

 モナコからニースへの帰路。絶景ポイントに寄るという口実で、崖の上の小さな町・エズの村に近い香水店に寄った。他にも観光バスが停まっていて、広い店内は客で賑わっていた。ここにもおカネが落ちる「しかけ」がある。

 バスの車内で、現地ガイドの女性(フランス人)がお勧めの商品を2、3品、熱心に言葉巧みに紹介していたから、おばさまたちはほとんど全員が幾つも買いこんでいた。

 まだ、旅の初日ですぞ!!

   国内・国外を問わず、この当時の団体ツアーではよく見かけた光景で、店からのリベートがガイドの懐に入る仕組みになっているのだろう。

 そのあと、ニースの海辺のレストランで夕食をとって、夜、ホテルに帰った。

      ★

 今日は3つの町を回ったが、コート・ダジュールはやはりリゾート地だと思った。

 観光バスで乗り付けて、集団でぞろぞろ歩き、また次へ移動するというような所ではない。2、3日でも滞在して、のんびりと紺碧の海を眺めて過ごすとか、列車や路線バスに乗って小さな町 ─ 例えば、まだ漁村の名残りをとどめる町だとか、地中海を見下ろす崖の上の村だとか、晩年のマティスが造ったロザリオ礼拝堂のある町だとか ─ を訪ねたりするのがふさわしい。

 またいつか来ることがあれば、今度はそういう旅にしたいと思った。                                                               

 

 

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旅のはじめに…観光バスでまわるフランスの旅1

2022年04月24日 | 西欧旅行…フランス紀行

   (モナコの街の風景)

<「観光バスでまわる」とした意味>

 10年以上も昔のことになるが、2010年10月、旅行社企画のフランス旅行のツアーに参加した。

 今回はその旅の記録である。「観光バスでまわるフランスの旅」という題にした。

 「観光バスでまわる」としたのは、少々の否定的な気持ちも込められている。

  「もっとじっくり見たい」とか「この町で1泊して、歴史や文化や町の雰囲気を味わいたい」と思う場所も、「こんな所はパスしようよ」と思う見学先もあるが、そういう個人的な思いとは関係なく、旅行社のツアーは、客を観光バスに乗せて、定番とされる観光スポットを目まぐるしく連れまわす。

 だが、そういうことはツアーに申し込むときからわかっていた。それでも  、もの足りないことはわかっていても、フランスという国をざざっと、駆け足で見て回るのには、こういうツアーは便利なのだ。

 一度、自分の目で見ておくと、ガイドブックを読んでも、さらにその地の歴史や文化を知ろうと本を読んでも、よくわかるのだ。

 一度も実際を見ずに、ガイドブックや歴史の本を読んでも、活字を追うばかりでなかなか頭には入ってこない。

 以前、このブログに「早春のイタリア紀行」を書いたが、この旅も、はじめ旅行社のイタリアツアーに参加して、そのあといろいろと勉強して、何を見たいかが明確になって、自分で計画を立てた旅だった。

      ★

<パリでカメラを盗られたこと>

 なお、前回の終わりにも書いたが、私がフィルムカメラからデジタルカメラに変えたのは、世間から相当に遅れて、2009年のことだった。

 実は、旅行中、パリでカメラを盗られた。

 個人旅行でプラハとパリへ行った最後の夜、シャンゼリゼを歩き、その後、エッフェル塔を見に行こうと、凱旋門で地下道に降りた。そして、世界からやってきた観光客で混雑する地下鉄の改札口で、4人組の若者たちにバッグからカメラを抜き盗られた。カメラは一眼レフで、ズームレンズも装着していたし、さらにその日に撮影したフィルムも入っていた。

 強奪されたわけではない。パリにはもう何度も来ていたから、シャンゼリゼや凱旋門のあたりは世界一、スリの跋扈する所だと十分に知っていた。だが、巧妙なチームプレイに鮮やかにやられてしまった。その手口を詳述すれば、これからヨーロッパ旅行に出かけようと思っている人の参考になると思うが、長くなるのでここでは書かない。だが、彼らが狙っていたのはカメラではない。さらに財布を盗ろうとしたので、私も気づいた。気づかれたと知ると、彼らは脱兎のごとく地下道を走って逃げた。そのとき、若い4人組だとわかった。

(フィルム写真から/シャンゼリゼと凱旋門)

 ホテルのフロントでも、警察に行くタクシーでも、警察署でも、「犯人を見たか??」と聞かれた。「見た」と答えると、誰もが「アラブか??」と言った。アラブだろう、と確信を持っている。多分、パリの人たちは、そういう話をたくさん、見聞きしているのだろう。

 EUが難民を受け入れることを大変美しいことのように思っている日本人は多い。だが、日本人が思うほど、移民・難民が大切にされているわけではない。

 私が目撃した若者たちは、パリに多い黒人の若者たちではなく、また、中東系の若者たちでもなく、10代の終わりぐらいの白人の若者たちだった。多分、もとからのフランス人やパリっ子ではないだろう。人は白昼、自分が生まれ育った地元で、スリやかっぱらいを働いたりはしないものだ。

 EUは拡大し、しかも地続きだから、人々はいくらでも豊かな方へ流入してくる。EU内ならパスポートも要らない。しかし、流入してきても、フランスやドイツの社会の基盤(中流以上)は、日本以上に固定化している。フランスやドイツで3Kの仕事をしている人の多くは、EU内の貧しい国からやってきた労働者、そして、「アラブ」や、旧植民地からやってきた黒人などの移民、難民たちである。技術もなく、言葉も話せず、ツテもなければ、生きていくのは難しい。

 あるとき、パリの旧市街から郊外へ向かう地下鉄に乗った。日本の小学校で言えば、4、5年生ぐらいと思われる白人の細身の男の子が、器を持って車内を回ってきた。乗客の3人に1人ぐらいがコインを入れていた。駅に着いてドアが開くと、男の子は車両からホームへ出た。窓から見ていると、ホームの反対側に行き、器の中から小銭(セント)を選り分けて、ポンポンと線路に投げ捨てた。1ユーロコインや2ユーロコインだけを残したのだろう。そして、発車間際に隣の車両に乗った。今度は隣の車両を回るのだ。その子の無表情な顔つきや機敏な動作を見ていて、多分、同年齢の日本人のどんなガキ大将でも、この子と喧嘩したらやられるだろうな、と思った。

 日本には、地下鉄の車両で器を回す小学生はいない。

 ヨーロッパや日本の知的エリートが書いた本を読んで、ヨーロッパを理想化して思い描いている人がいる。だが、そういう本とは別の現実もあるのがヨーロッパだ。

 ただし、優しい人、親切な人、見ず知らずの老人を手助けする人、一日が明るくなるような優雅な挨拶をしてくれる人、そういう人にも出会えるのがヨーロッパである。

 さて、カメラを盗られたあとの経緯。

 翌朝は、帰国の飛行機に乗らねばならなかった。それでも、とにかくホテルから保険会社のパリ支店に電話した。すると、「〇〇警察に行け」という指示。もう夜も遅かったし、そもそも持っているガイドブックのマップには警察署の位置まで書かれていない。それで、ホテルでタクシーを呼んでもらった。その警察署がどこだったのか、今でもわからない。

 警察署では、若い警察官たちは、私が東洋人であることを見て、みな尻込みした。それを見て、彼らの上司である中年の穏やかな警察官が、「私がやろう」と言って聴取してくれた。彼は英語ができた。こちらは少しばかりの英語と身振り手振りで説明して、何とか調書を書いてもらった。終わったら、午前0時を回っていたので、警察官にタクシーを呼んでもらってホテルに帰った。心身ともに疲れ果てていたが、それから帰国の荷づくりをし、シャワーを浴びて、寝た。

 しかし、パリの警察署が作ってくれた調書のお陰で、盗られたカメラと同レベルの、しかも、新品のデジタルの一眼レフとズームレンズを買うお金が、保険会社から送金されてきた。

 というような経緯で、私もデジタルカメラになった。この事件がなければ、未だにフィルムカメラにこだわっていたかもしれない。

 2012年にブログを始めたが、デジタル写真のお陰でブログに写真も簡単に入れることができた。

 ブログ開始以前のヨーロッパ旅行の写真も、2009年以降のものはパソコンに残っているから、2009年10月の「ドイツ・ロマンチック街道の旅」と、2010年3月の「早春のイタリア列車の旅」は既に当ブログに書いた。

 そのあとに続くのが、今回の2010年10月の「フランス紀行」である。

  ★   ★   ★

<これまでのフランスの旅>

 フランス旅行は、今回のツアー参加が初めてではない。

 最初は1995年。視察研修旅行でドイツとフランスへ行った。

 フランスの視察先はルマンという中都市だった。日曜日の1日、研修仲間でバスをチャーターし、ロワール河畔のお城巡りをした。 

 もちろん、研修の最終日にはパリ観光もした。

 だが、ロワールのお城よりも、花の都パリよりも、私はフランスの大地(或いは風土)に感動した。

 当時の私の記録から ── 「なだらかな丘陵はあるものの、緑の牧草地や黒っぽい耕作地は地平線まで続き、その中を道路はどこまでも延びている。車窓から遠くに見える農家の家々は、古い石づくりだ。日本では夕日は山の向こうに沈み、フランスではどこまでも続く畑の向こうに沈む。夕日を背にして、教会の尖塔とそれを取り巻くような村のシルエットが地平に望まれる」。

       ★

 初めてのパリは、大阪や東京とたいして変わらぬ大都会だと思った。

 その後、パリには、フランス語は言うまでもなく、英語もできないのに、個人旅行で4回も行った。そして、訪ねるたびに、次第にパリの美しさがわかるようになっていった。

 特にセーヌ河畔は、端正で美しい。

 パリとシャルトル、パリとヴェネツィア、パリとウィーン、パリとプラハというふうに、パリを起点にして、ヨーロッパ個人旅行の経験を広げたいった。

 そして、フランスの全体を、ざっとでよいから、一度見て回りたいと思うようになり、今回の旅行社のツアーに参加したのである。

       ★

 それにしても、コロナになってこの2年。ヨーロッパはすっかり遠くなってしまった。

 さらにその上、プーチンが戦争を始めた。

 オランダ航空やドイツ航空やフランス航空で、シベリアの上を延々と飛んでヨーロッパに到る、そういうことは、もうかなわなくなってしまった。

 ウクライナは自分たちの「根っこ」の地を守ろうとしているだけだ。根を張る土壌さえあれば、そこから新しい命が芽吹く。

 だから、この戦いは簡単には終わらない。

   ★   ★   ★

<旅の行程> 

 「自由」とは、道に迷ったり、時にスリの被害に遭ったりしても、心のままに、自由に、どこへでも、行けること。

 また、いつか、そういう世界になってほしい。

 さて、この旅の行程は、以下のようであった。     

第1日>  (10月5日)

 関空→フランクフルト

 →ニース(泊)

第2日> (10月6日)

 カンヌ─ニース─モナコ

    ニース(泊)

第3日> (10月7日)

 ニース→アルル→ゴルド

 →アヴィニョン(泊)

(アヴィニョンの橋)

第4日> (10月8日)

 アヴィニョン→ボンデュガール

 →カルカッソンヌ(泊)

  (カルカッソンヌの城)

第5日> (10月9日)

 カルカッソンヌ→ロカマドール

 →トゥール(泊)

第6日> (10月10日)

 トゥール→ロワールの古城

 →モン・サン・ミッシェシェル

 モン・サン・ミッシェシェル(泊)

(車窓からモン・サン・ミッシェル)

第7日> (10月11日)

 モン・サン・ミッシェシェル

 →パリ(泊)

第8日> (10月12日)

 パリ→ベルサイユ→パリ(泊)

 (夕暮れのパリ)

第9日> (10月13日)

 パリ→フランクフルト→関空

 

 

 

 

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