ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

上町台地を歩く (3)真田幸村の最期の地を訪ねる……散歩道(13)

2016年03月26日 | 随想…散歩道

 以前から心ひかれながら、まだ訪ねていなかった所があった。

 大坂夏の陣で討ち死にした、真田幸村最期の地である。

 天王寺の茶臼山近く、上町台地の一角にある安居神社が、その地。

          ★

幸村の最期 >

 すでに大阪城の外堀は埋められていた。冬の陣で大活躍した「真田丸」も、今は撤去されて、ない。強力な攻撃・防御施設を失った今、城の外へ討って出て野戦をする以外に活路はない。

 こうして大坂夏の陣は始まった。

 1615年5月7日。幸村は、最後の決戦を挑んで、陣を置いた茶臼山から出撃する。全騎一丸となって、圧倒的な敵軍を突破し、目指すは家康の本陣。幸村の懐には、家康を狙撃するための小型の連発銃があったという。

 夏の陣は野戦と判断し、家康の本陣は、冬の陣より遥かに後方、今の北田辺駅付近に置かれていた。茶臼山からの距離は、直線にして約2.5キロ。途中、いくつもの敵陣を突破しなければならず、迎え撃つ諸大名・旗本の軍勢との激突は避けられない。

 激戦を戦い、友軍の将も倒れ、部下も次々討ち死にし、あと一歩のところまで家康を追い詰めるが、ついに届かない。

 無念の退却命令も、手柄を立てんと追いすがる無数の敵兵を振り切りながらの退却行であった。

 茶臼山の小さな神社の境内にたどり着いたとき、49歳の幸村の腕は鉛のごとく重く、立つこともできないほどに疲労困憊していた。精根尽きて松の根方に腰を下ろしているところを、越前松平勢に囲まれる。自ら名乗り、手柄にせよと言って、討たれたという。

 我ながらここまでよく戦った。もう、亡父のところへ逝ってよかろう。

 死の瞬間、心は晴れやかであったに違いない。

          ★

堀越神社 >

 地図を見ると、天王寺駅から谷町筋を北へ歩く。たいした距離ではない。

 ほどなく道の脇に、小さな神社があるので、寄ってみた。「堀越神社」とある。

 車の行き交う谷町筋のこのあたり、今まで徒歩で通り過ぎたこともあったはずだが、立ち寄ったことはなかった。

 

      ( 堀越神社 )

 谷町筋に沿いながらも、境内に入れば、騒音は遠い。石段を上がってわずかに道路から高くなっているせいか、或いは、背後に天王寺公園・茶臼山が控えているせいか。

 ひっそりと清浄な神社らしいたたずまいに、どこか粋な風情を感じるのは場所柄だろうか??

 綺麗な立札があり、創建は聖徳太子。祭神は崇峻天皇とある。

 聖徳太子が、四天王寺創建の折、叔父の崇峻天皇をしのんで、「風光明媚なここ茶臼山の地」に、神社を建てたという。

 明治の初めごろまでは、境内の南に美しい堀があり、人々は堀を渡って参詣したので、堀越神社と呼ばれるようになったともある。なかなかゆかしい。

 境内の一隅に、熊野第一王子の宮が祀られている。

   ( 熊野第一王子の宮 )

 この宮にも、説明の立札があった。

 熊野詣でが盛んになるのは、平安時代末期であるが、もちろん、当時は徒歩、あとは舟。

 出発は京の都。淀川を舟で下って、上町台地 (半島) の北端、天満の港に上陸し、そこからは徒歩になるのだが、その天満の港に、「窪津王子」があった。99の王子の第一王子である。

 熊野詣では、99の王子の一つ一つに参詣しながら、熊野本宮大社にお参りし、そこから舟で下って、新宮に参拝。さらに那智に参拝する。

 その「窪津王子」が遷されて、最終的に、ここ堀越神社に合祀されたとある。

 「窪津王子」が、いつごろ、誰の命で、流浪の旅に出されたのかは、わからない。

 ともあれ、「開発」という大津波が大坂を襲うのは、豊臣秀吉による城づくり、町づくりのときが最初だ。このとき、上町台地の由緒ある大きな神社は、杜を削られ、他の土地に移転させられ、とり壊された。

 そんなことをしなくても、城づくり、町づくりはできたはずだし、その方が美しい町づくりができたはずだ。

 近年では、大阪空襲もあるが、戦後の開発の大波があった。

 大阪で最も古い由緒をもつ、ある神社は、樹木少なく、ガランとした境内の一角に、社よりも大きな鉄筋コンクリートの結婚式場が建てられている。

 そういう神社の拝殿で手を合わせても、木立を洩れてくる日の光もなければ、樹木をそよがせる風の音も、小鳥のさえずる声も聞こえない。目を閉じて聞こえてくるのは、車の騒々しい音ばかりだ。

 元々、日本の神々は、社にではなく、杜にいらっしゃる。古代の日本人が、森の中でふと聖なるものを感じて、しめ縄を引き、そこに立ち入らないようにした。それが鎮守の杜だ。その領域の中の、日のきらめきや、耳元をそよぐ風や、小鳥のさえずりが、神を感じさせた。周囲の森は開発されて田となっても、杜には手を入れなかった。

 ゼニばかり追い求めても、町は発展しないし、人は豊かにならない。

 郷土への愛や文化がなければ、人は育たず、経済はひからびていく。

          ★

一心寺 >

 堀越神社から、谷町筋をもう少し北へ歩くと、「四天王寺南」の交差点に出る。右前方に四天王寺があるが、ここを左折する。すると、すぐに一心寺の大きな門が見えてくる。

 宗派を問わず、納骨された遺骨でお骨佛を造立する寺である。

 その昔、浄土宗の開祖・法然が四天王寺に招かれた際、ここに立って難波の海に沈む夕日を見て感動し、小さな庵をつくってしばし滞在した。その庵が一心寺の開基であるという。

  

       ( 一心寺 )

 位置的には、大坂冬の陣で家康が本陣を置き、大坂夏の陣では真田幸村が本陣を置いた茶臼山のすぐ北側に当たる。

 従って、大坂夏の陣の折には、このあたり、激しい戦場となった。一心寺にも、徳川方を含め、当時の武将の墓がある。国道25号線を隔てた向かいには、真田幸村が戦死した安居神社がある。

        ★

最期の地・安居神社 >

  

 国道側に、「安居神社」の石碑。その横に由緒が書かれた立札。「安居天満宮」の看板もあり ( 安居天神とも言われる )、その横に「真田幸村戦死の地」と書かれている。

 背後に真田の赤い幟も立つ。今、大阪の町のあちらにも、こちらにも、翻っている。

 いつ創建されたのかは、わからない。お椀の舟で海を渡って来て、オオクニヌシの国づくりを助けたという薬学や知恵の神様・スクナヒコナを祀り、後、菅原道真も祀る。

 901年、菅原道真が筑紫に左遷されるとき、船待ちをする間、四天王寺に参拝した後、ここで休んだから、安居神社と呼ばれるようになったという。その後、菅原道真が祭神と祀られて、安居天満宮、安居天神とも呼ばれた。また、天王寺3名水の井戸があったので、安井神社とも書く。

 境内は奥まっており、巨木に囲まれて、都会の中にあることを感じさせない。

 「真田幸村戦死跡之碑」があり、「真田幸村公の像」がある。銅像の幸村は、兜を脱ぎ、松の根方に座っている。当時としてはそろそろ初老といってもよい年だが、顔になお壮年のエネルギッシュな覇気を感じる。

 ( 境 内 )

 

       ( 本 殿 )

 本殿でお参りして、しばらく雰囲気に浸り、北側の鳥居から出た。

 鳥居の前の坂道は、安居天神にちなんで天神坂と呼ばれる。

 昔、上町台地の西は急峻に切れ落ち、海が開けていた。もう少し北には、新古今集の撰者の一人・藤原家隆が、晩年に庵を結んで、西方浄土の方角に沈む夕日を眺めたという跡もある。

 今は、海はずっと西方に退き、高台の谷町筋と低い松屋町通りを結ぶ坂道が、いくつかある。その一番南の坂が、天神坂だ。

 閑静な住宅街を上って谷町筋に戻ると、すぐ北側には大阪の私立男子校トップの星光学院があり、谷町筋を渡ると、四天王寺さんがある。四天王寺さんには、私立女子校トップの四天王寺高校がある。

 上町台地は、北端の大手前高校から、清水谷高校、大阪女学院、明星高校、高津高校、上の宮高校、清風高校、夕陽丘高校、星光学院、四天王寺高校、天王寺高校、阿倍野高校、住吉高校など、大阪を代表する名門校が並んだ、一大文教地区でもある。

     ( 四天王寺の通用門 )

 四天王寺さんの東側の通用門から入り、下町風の境内の中を通って、南側の正門を出た。そこから先は、賑わう門前町を通って、天王寺駅の北口へ出る。

 

  

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上町台地を歩く。その2)真田丸の跡を訪ねて……散歩道(12)

2016年03月24日 | 随想…散歩道

 上町台地のわが散歩道が、急に脚光を浴び始めた。原因はNHK大河ドラマ「真田丸」である。

 ひっそりした閑静な散歩道だったが、今年に入ったころから、歴史愛好家の中高年グループが、ぞろぞろと歩くようになった。

 最近は、日本人に連れられて、青い目の外国人も参詣している。綺麗な作法で参拝して、なかなかよろしい。

 人けのないしんとした通りは、年寄りくさい。人が行き来すれば、雰囲気も明るくなる。ここ、上町台地は、古墳時代から大王 (オオキミ) の宮が置かれ、大宮人が行き来した、いわば大坂の発祥の地なのだから、人の往来が増えることは、良いことである。

 さかのぼれば昨年の夏ごろだったろうか。時折、若者の一人旅を見かけるようになった。男女は問わず。リュックを背負って、小さな三光神社の石段や手水の付近を、仔細ありげに歩いて、遠慮がちに拝殿で手を合わせる。

      ( 三光神社 )

 来年の大河ドラマが早くも始まったな、と思って、心の中で微笑みながら見ていた。いつの時代でも、ブームを先取りするのは、若者たちである。

     ★   ★   ★

これは面白い!! 大河ドラマ『真田丸』 >

 再来年の大河ドラマが真田幸村と聞いたときは、何で と思った。

 最近は、吉田松陰の妹や、新島襄の妻など、女性を主人公にしたものも増えた。歴史上の有名人ではないが、それはそれなりに意味があると思う。いつまでも信長や秀吉や家康でもあるまい。

 だが、滅亡する豊臣家の側に立って、負けるとわかっている戦いを戦って死んだ一武将の生に、どれほどの現代的意味があるだろうか??。

 しかし、放送が始まって、考えを改めた。これは講談だ。面白い 面白いことは、良いことだ

         ★

 脚本が良い。スピーディな筋の展開で、飽きさせない。しかも、細部に注意しながら見ると (時には二度) 、実に用意周到にドラマが組み立てられ、脇役の一人一人まで、丁寧に描かれていることがよくわかる。

 俳優の一人一人が生かされている。主人公の若き信繁も、そのお兄ちゃんも、ウメちゃんも、若々しく、未熟で、しかし、役立つ人間になろうと頑張っている。

 過去の大河ドラマは、主人公の父  (時に、兄) が魅力的で、味があった。平清盛の父の中井貴一、坂本龍馬の父の児玉清 … 文さんの兄・吉田松陰役の伊勢谷友介もよかった 。ただし、彼らが死ぬと、急にドラマは精彩を欠き、退屈した。

 今回の草刈正雄も、土豪風に毛皮を着たオヤジで、大大名の上杉、北条、徳川を相手に、生き延びるためにはどんな謀略も厭わない。今のところ、存在感・NO1の主役だ。

 真田一族のあまりの謀略や残酷さに、「あなたたち、これでいいの」と、きりちゃんが、現代の若い女性の言葉で抗議する。このとき、きりちゃんは、現代人 (視聴者) を代表しているのだ。視聴者は、きりちゃんに共感しつつ、かえって、「でも、この時代の、この状況では、仕方ないだろう」と真田のドラマに納得する。三谷幸喜の脚本は、実にうまい

 明智の乱のとき、徳川家康は服部半蔵に導かれて命がけの伊賀越えをする。逃げる家康殿の演技は、カリブの海賊・ジョニー・デップのパロディ。事がうまくいけば、スポーツ選手のように、「よっ・しゃー」とやる。

 主役級ばかりでなく、脇役もそれぞれに存在感をもって描かれている。

 滅亡する武田家の当主・武田勝頼は、悲劇的で、切なく美しかった。

 真田の父の幼友達・室賀殿の「 黙れ!! 小童!! 」 も、真田の長男への愛が感じられてカッコよかったし、その室賀殿にとどめを刺す出浦殿も、絶対に闘いたくない恐ろしいオジサンです。

        ★

 話は変わって、大河ドラマの長いイントロには、いつも辟易していたものだ。毎回、毎回、約5分間もイントロがある。しかし、今回の「真田丸」の5分間は、カッコいい。

 日本の左官のすごさを世界に知らしめた挟土秀平の、「真田丸」 という題字が良い。真田丸の運命を予感させて、題字は壁とともに崩壊する。

 音楽が最高。世界で活躍する若きヴァイオリニスト・三浦文彰のソロ演奏である。

 「オーケストラが控えて、ヴァイオリンだけで始まる曲というのは、あまりありません」。「服部先生からは、2分30秒間、始めから終りまで戦闘場面をイメージして弾くようにと言われました。こんなかっこいいメロディがあるのかと思いました」。ヴァイオリンという甘美な音色を出す楽器が、見事、武士の戦いを描き切って、クラッシックファンもきっと増えることでしょう。

 赤備えの騎馬軍団が疾走するプロローグの映像もカッコいい。作成者いわく、「『ロード・オブ・リング 』が下絵になっています 」。━━━ そうだと思いました。

 言うまでもなく、この映像は、大坂夏の陣の、家康本陣へ突撃する信繁最期の戦いである。「いわば最終回の予告編です。『敵陣まで200m』を隠しテーマにしました」。━━━ 敵陣まで200m 勇壮ですねえ

  題字といい、音楽といい、映像といい、全てが最終回のクライマックスに向けて、作られている。

 真田幸村のイメージとは、そういうことだと思う。

 もう一人を挙げれば、函館戦争で戦死した土方歳三。

 歴史は彼らの思いのようには動かなかったけれど、今も、日本人の心を揺さぶり続ける。

     ★   ★   ★

真田丸の跡を歩く >

 前回は、玉造駅から上町台地を北へとって、難波の宮跡から大阪城を歩いたが、今回は上町台地を南へ行く。

 JRの玉造駅を西へ、「玉造」の交差点を通り越して、もう少し西へ行くと、地下鉄の玉造駅に出る。

 この辺りからぶらぶらと南下すると、すぐに三光神社の鳥居が見えてくる。

 

   ( 三光神社鳥居 )

 木立に囲まれた小さな神社。お参りする人を見かけることはほとんどなかったが、さきほど書いたように、去年の夏ごろから、ぼつぼつと見るようになった。近所の人ではない。わざわざ旅をして訪ねてきたのだ。

 いつものようにお参りを済ませて神社の横に出ると、真田の抜け穴がある。

 信繁やその伝令がこの抜け穴を通って大阪城と行き来した、ということらしい。そばに、真田信繁 (幸村) の像が建つ。知将というよりも、豪胆無比の勇将の風格がある。

 

   ( 真田の抜け穴 )

 

      ( 真田幸村像 )

 この神社から、あとで訪ねる心眼寺という寺の一帯が、真田丸の跡だと言われてきた。しかし、最近の調査で、この一帯も真田丸の城塞の一角を形成していたことは確かだが、中心部ではなかったということがはっきりしてきた。

 神社の西側の小高い丘陵部は陸軍墓地で、道はその脇を巡る。この道は真田丸の空堀の跡だという。

    ( 空堀の跡 )

 右折して西へ、上り坂を進めば、その名もゆかし、真田山小学校。その前を過ぎると、明星高校の南東の角に出る。

         ★

   ( 明星高校 )

 明星高校のフェンス脇に、「真田丸顕彰碑」。「あれっ、こんなものがあったのか 」と思って見ると、平成28年1月に設置とある。設置者は天王寺区役所。協力は大阪明星学園。ムムッ、NHK大河ドラマは、区役所も動かすのだ

 碑には、秀頼の招きに応じて大阪城に入った幸村が 「すぐに大阪城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが『 真田丸』で、幸村は慶長19年12月4日、ここ『 真田丸』を舞台に前田利常……ら徳川方の大軍を手玉に取った」とある。さらに、「『真田丸』 の場所については、…… 現在の大阪明星学園の敷地がその跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、云々」 と書かれている。

 碑の中に紹介されている図面1は、大阪城と真田丸の位置関係を示す。信繁 (幸村) は、真田丸を、大阪城から700mの南に築いた。

  

 大阪城は北・東・西の三方を川に囲まれ、天然の要害を呈していた。だが、南側は上町台地が伸び、この方面からの攻撃に弱い。そこで、南側に惣構えと言われる空堀が掘られ城壁が築かれていた。しかも、その堀の100m先は崖となって切れ落ちている。秀吉の構想した大坂城の防御は相当に完璧であった。

 信繁は、その谷のさらに先に、真田丸を築いたのである。

 歴史家は、これは、防御と言うより、超攻撃型の砦だと言う。信繁はもともと大阪城を出て戦うことを主張したが、首脳部に受け入れられなかった。そこで築いたのが、この出城である。大阪城からは完全に孤立し、徳川軍を一手に引き受けようとしたのである。

 実際、大阪城を囲んだ徳川軍は、天然の要害を攻めようがなく、南側の真田丸を集中的に攻めた。が、それは鉄砲の狙い撃ちに遭い、犠牲者を出すばかり。一説によると、1万5千人の死傷者を出し、家康は撤退命令を出すほかなかったという。

 死傷者は多く、やがて兵糧も尽きかけ、寒さは厳しく、士気は上がらず、家康も和睦にもち込まざるを得なかった。

 ただし、戦さに負けても、外交には勝った。真田丸取り壊され、外堀も埋められた。…  一武将に過ぎない信繁にとって、歯がゆい豊臣方首脳部であった。

         ★

 明星高校と通りをはさんだ東側には寺が並んでいる。この辺りは、当時も今も、寺町である (図面2)。

   

 大徳寺の境内はいつも美しく整えられていて、ゆかしい。散歩のときには、いつもちょっと覗かせてもらう。

     (大徳寺境内)

 隣の心眼寺の門の脇には、大きな自然石に「真田幸村出丸城跡」と書かれた碑が建つ。門扉には六文銭。

   ( 心眼寺の門 )

    ( 出丸跡の碑 )

 真田丸の中心部は明星高校だが、これらの寺を含む東側の高台の一角も、真田丸の城塞に取り込まれていた。

 真田丸を巡る戦いは、実は、寺町一帯を巻き込んだ市街戦であったという。市街戦だから、少数にとって守りやすく、多数にとって攻めにくい戦いであった。

 環状線・鶴橋駅の方へ、真田山公園を通って、下って行く。振り向くと、真田山小学校が見えた。

     ( 真田山小学校 )

  

 

 

 

 

 

 

 

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花道みたいだった

2016年03月14日 | 随想…文化

 今朝 (3月14日) のスポーツ欄。名古屋マラソン。「 田中1秒差 夢つかむ 」という大きな見出しの横に、「野口23位 『悔いなし』」。

 「 5キロ過ぎて先頭集団から遅れ、10キロ付近から右足に痛みが出ても前に進めたのは、沿道を埋めるファンの声援があったからだ。『 花道みたいだった。最高の42.195キロでした 』」。

 「 スタート地点に向かう直前に泣いた。『 無事に戻ってこい 』と送り出す広瀬永和総監督も泣いていた 」。

 「『 悔いはない。これからのことは、ゆっくり考えたい 』」。

 アテネ五輪のマラソン金メダリスト野口みずき。

 トップで、大歓声の中、オリンピック会場に帰って来て、残りのコースを飛ぶように走り抜けた小柄な姿を、今も覚えている。

 今、37歳。最後のレースは、沿道のファンの暖かい声援があって、「花道みたいだった。最高の42.195キロでした」。

 良い言葉だ。桜の春も近い。

 まだ37歳。いろんなことができる年齢である。

    ★   ★   ★

 今朝の新聞で、もうひとつ。

 囲碁の人工知能に対して、世界トップクラス・韓国棋院のイセドル9段が、3連敗の後、1勝した。拍手で記者会見場に迎えられたイ九段「 1局勝ったのに、こんな祝福を受けるのは初めて。何ものにも代えがたい1勝だ 」。

 その記事の見出しが面白かった。

 「人類の意地 見せた」!!

 コンピュータに対して、とにかく、人類を代表して、ナマミの人間の意地を見せた。

 この記事を書いた讀賣新聞の記者に、「見出し賞」を上げます。 

 我々は、みんなけなげなナマミ。

 昨日、トルコで、自動車爆弾テロで40数人を殺したテロリストも、不気味な国の不気味な指導者たちも、ナマミの人間たちの命のけなげさに思いを致してほしい。

 

 

 

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上町台地を歩く。その1)難波の宮跡を経て大阪城公園へ……散歩道(11)

2016年03月12日 | 随想…散歩道

 週1回程度は、大阪へ出る機会がある。

 出たついでに、運動不足を補う意味もあり、その日の気分と体調で好きなコースを散歩する。

 大阪は、40年以上も仕事をした町だが、振り返ってみると、大阪の町を散歩する遊び心というか、心のゆとりはなかった。今は、それができる。そういうことを幸せだと感じる。

          ★

細川ガラシャのことなど >

 上町台地とその周辺を歩くことが多い。

 環状線の玉造駅から西へ向かい、空堀町の交差点を右折して、大阪城の方へと歩いて行くと、上町台地らしい雰囲気になる。

 私立の名門校・大阪女学院は、アールヌーボー調の門が、ミッションスクールらしい。

 

    ( 大阪女学院 )

 その先に聖マリア大聖堂、そこから100mほども行った三叉路の中に「越中井」がある。

         ( 聖マリア大聖堂 )

 聖マリア大聖堂は、「大聖堂」と名が付くから、司教座のある教会だ。ヨーロッパの大聖堂のもつ中世風の荘厳さはないが、清楚なたたずまい。左右に高山右近の像と細川ガラシャの像があり、側面に二人のことを記したパネルも掲げられている。

 キリシタン大名であった高山右近は、豊臣秀吉のバテレン追放令で前田利家の客将になり、徳川家康の禁教令のときに、追放されて、フィリピンのマニラで客死した。

 明智光秀の娘・玉子 (後、洗礼名ガラシャ) は、細川家の長男・忠興に嫁ぐ。媒酌したのは織田信長。美人で、かつ才媛であり、夫との仲は睦まじかった。

 しかし、実父が本能寺の変を起こす。この折、細川家は彼女を離縁、幽閉することによって、謹慎した。

 その5年後、秀吉のバテレン追放令のあと、洗礼を受けて、信仰の人となる。洗礼名のガラシャは恩恵の意、とある。 

     ( 越中井 )

 「越中井」と書かれた石碑と石の井戸は、地蔵堂とともに、道路の三叉路の真ん中にあり、樹木に囲まれている。「越中井」の文字は徳富蘇峰の手。碑の側面の説明の文章は 『広辞苑』 の新村出博士。

 大阪城の南の地のここに、細川越中守忠興の屋敷があった。井戸は、焼失した細川屋敷の台所にあったもので、火を放ったのは、ガラシャ夫人である。

 設置されたパネルの説明によると、細川忠興は、徳川家康が会津上杉の討伐に向かったとき、これに従って出陣。その後、家康を撃つべく石田三成が挙兵し、出陣に際して、各大名の妻子を人質として大阪城中に入れた。細川ガラシャはこれを聞き入れず、石田勢に屋敷を包囲され、火を放って、果てたという。 

         ★

難波の宮跡と難波の津 >

 このあたり、北と西に向けて、ゆるやかな上りになっている。

 気持ちの良い歩道を北に歩いて行けば、上町台地の最北端・大阪城公園に出る。

 

 道の西は法円坂という地名で、ここには難波の宮跡がある。

    ( 難波の宮の大極殿の跡 )

 難波の宮跡の遺跡公園は、大極殿の柱跡のある石の壇を除けば、何もない広場である。発掘調査の後、再びこの下に多くのものを眠らせたのであろう。

   大きな樹木があり、その木陰で腰を下ろしている人、草地でサッカーボールを蹴る親子、石壇の上にいる10人ほどのグループは古代史愛好家のおじさん、おばさんたち。古代史愛好家は、年配者に多い。「歴女」などと呼ばれる若い女性歴史愛好家は、坂本龍馬だとか、土方歳三だとか、伊達政宗だとかがお好みである。

   ここには2度、宮殿が置かれた。

  1度目は、645年の大化の政変の直後。皇極天皇 (中大兄皇子の母) は皇位を軽皇子 (孝徳天皇) に譲り、都は飛鳥から難波に遷された。長柄豊碕宮 (ナガラ・トヨサキノミヤ) である。ただし、3年後には孝徳が亡くなり、都も再度、飛鳥に遷される。

  2度目は、聖武天皇の726年である。

 難波の宮跡の、ロータリーを挟んだ北西に、大阪歴史博物館のカッコイイ建物があるが、その前に、およそ周囲にそぐわない建物が建てられている。

   ( 5世紀の高床式倉庫の復元模型 )

 5世紀後半 (古墳時代中期) のものと推定される高床式倉庫の復元である。ただし、これは20分の1の復元模型。1棟の大きさ90平方メートルの倉庫が等間隔で16棟も整然と並んでいたという。いったい何を納めたのであろうか??

 なぜ、ここなのかは、わかる。このすぐ北、現在の天満橋のあたりに、難波津があった。津(港)があれば、交易があり、倉庫が必要である。

 縄文時代から弥生時代、古墳時代のころ、上町台地は、南から北へ、海の中に突き出た細長い半島であった。

 上町台地 (半島と言うべきか) の北縁は、大阪城の北縁から難波津のあった天満橋の辺りである。その先は海であった。

 上町台地 (半島) の西側は、すぐに海に切れ落ちて、瀬戸内海の浪が岸を洗い、天気の好い日には、難波の宮からも行き交う船の姿が見えたはずだ。

 上町台地 (半島) の東側は、西側よりもややなだらかに下るが、それでも現在のJR森ノ宮駅の東側は、海であった。その海は、上町台地 (半島) によって瀬戸内海と遮断された、波静かな入江・「河内湾」である。

 河内湾には淀川水系と大和川水系が流れ込んでいたから、時代を経るにつれ、これらの河川から流入する堆積物によって、河内湾は河内湖となり、淡水湖が湿地帯となり、やがて河内平野となった。

 だが、古代においては、河内湾は、流れ込む大和川とともに、大和と瀬戸内海を結ぶ重要な交易路であった。

 河内湾の東縁は、生駒山脈の麓、今の東大阪市である。

 河内湾の南縁は、近鉄線の鶴橋駅から瓢箪山駅のあたりまで。

 北九州や、遠く朝鮮半島から、難波津に運ばれてきた物資は、若江、菱江、豊浦、日下江などの河内湾南縁の港を経て、大和川を遡り、大和の国の卑弥呼の都や崇神天皇の宮殿へと運ばれたのである。(『東アジアの巨大古墳』の中の水野正好「古代湾岸開発と仁徳天皇陵」を参照)

          ★

首都はそうあらねばならない >

 大阪城公園は、大きな樹木が繁って森の風情があり、まだ寒い時季から梅林の梅が優美な花を開き、春には桜、秋には紅葉、黄葉が美しく、目を上げれば、天守閣が青空に映える。日本のあちこちのお城を見る機会があったが、大阪城の堀の規模にしても、石垣の石の大きさやその高さにしても、やはり他に類を見ない壮大な城郭であると思う。

  ( 堀を隔てて望む天守閣 )

       ( 梅  林 ) 

   ( 近代的なビルと城壁 )

 「南蛮文化の正確な受けとめ手であった織田信長は、近江の安土城にあって大坂の地を欲し、石山本願寺に退去を命じ、これと激しく戦った。ようやくその湾頭の地を手に入れたものの、ほどなく非業にたおれた。大坂に出るべくあれほどに固執した信長の意図は、想像するに、ポルトガル人たちから、リスボンの立地条件についてきいていたからであろう。リスボンは首都にして港湾を兼ね、世界中の珍貨が、居ながらにして集まるようにできている。信長にすれば、

 『首都はそうあらねばならない』

と思ったにちがいなく、その思想を秀吉がひきうつしに相続した。」 ( 司馬遼太郎 『街道をゆく23 南蛮のみちⅡ 』)。

 かつては、修学旅行の小・中学生が訪れ、近隣の人たちの散歩コースでもあり、市民ランナーが昼休みにひと汗かき、放課後には近くの高校の運動部が走りに来る、やや閑散とした空間で、一時はブルーシートが乱立したこともあったが、この数年、観光バスが激増し、バスから観光客が次々と降りてきて、天守閣に上がるにも行列ができ、我々とよく似た顔立ちであるが、聞こえてくる言語は日本語ではない。

 どのような知識を得て、「豊臣秀吉」の城の跡を見学しているのであろうか?? ちょっと気になるところである。

 それはともかく、公園内のあちこちに、一昨年から昨年にかけては 「大阪城落城400年祭」の幟り、昨年から今年にかけては六文銭の幟りがはためいて、なかなか元気がいい。

 今や、天守閣をいろんな色模様に彩色するライトアップのる夜も、あるらしい。

 

 

 

 

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スポーツ界の新しい指導者……村上恭和(2回目)

2016年03月01日 | 随想…スポーツ

 讀賣新聞2月28日のスポーツ欄 「road to リオ … 導く」 に、「違う個性束ねる戦略家……卓球女子日本代表監督・村上恭和」という記事が掲載されていた。

 村上恭和監督については、以前も、取り上げた。一流の指導者の言行は、興味深い。

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━━ 記事からの引用 ━━

 「(村上監督は) 今も勉強の日々を送る。サッカー日本女子代表の佐々木則夫監督、プロ野球の野村克也元監督ら、他のスポーツの指導者の著書を読み、講演を聞く。

 最近、気付いたことがあるという。

 『成功した指導者は、みんな選手目線なんですよ。昔のような指示・命令型はもういない。(一人一人の選手の) 個性を生かし、対話重視の人が多いし、成功しています』」。

         ★

選手の目線で

 「選手目線」とは、言うまでもなく、「上から目線」ではない、ということだ。

 記事の中に、村上監督は 「こんな人」 という福原愛選手の言葉が紹介されていたが、彼女は、「 (村上監督は) 全力で選手の相談に乗ってくださる」、「いい意味で監督っぽくないです」と語っている。

 福原愛の言う「監督っぽくない」とは、「昔のような指示・命令型」ではないということであり、それは例えば、選手一人一人の相談に「全力で乗る」という態度のことである。

 根底にあるのは、日本代表選手一人一人へのリスペクトであろう。

          ★

一人一人に目標(課題)を持たせる

  「奇跡のレッスン」というテレビ番組があった。世界のトップレベルの指導者が、1週間だけ、日本の子どもたちのスポーツ活動を指導する。その子どもたちとのやりとりや指導の様子をカメラが追うのである。

 町の小学生のサッカークラブ、テニスクラブ。中学生の部活動では、バレーボール部、バスケットボール部、チアガール部などが取り上げられた。「選ばれたチーム」ではない。市のトーナメントで、1回戦、2回戦で敗退するようなチームばかりである。

 例えば、小学生のサッカークラブの指導にやって来たのは、フットサル日本代表チームのスペイン人コーチである。指導に当たったチームは、同じ市内の隣のサッカークラブに、一度も勝ったことがない。

 結論を言えば、1週間の指導のあと行われた隣のチームとの試合で、10対0の圧勝をした。

  しかも、チームの中で一番小柄で、一番下手くそで、存在感のなかった少年に、2点も得点させた。

 もちろん、このスペイン人コーチは、週の半ばからは、今まで一度も試合でシュートを打ったことがないというこの少年に、次の試合で1点取ろうという目標を持たせた。それは個人の目標であるが、チームの目標でもあった。今までただ一人のチームの得点源であったナンバーワンの選手は、一人で得点を取りに行くのではなく、他を生かすという選択肢もあることを教えられた。良いポジションにいるこの少年にスルーパスを出して、1点を取る楽しさだ。少年は、このパスを受けてシュートをねじ込み、ネットを揺らす練習を繰り返した。

        ★

ポケット(引き出し)の多さ

 「世界のトップレベルの指導者」が、元名選手だったというわけではない。サッカーのザッケローニ監督は、選手としては全く芽が出なかったが、監督としては一流だった。たとえ選手時代の実績が金メダルであっても、一人の人間の「経験」など、小さくて狭いものだ。人は一人一人違うし、チームもそれぞれに特色を持つ。村上恭和監督は、成功した指導者は選手一人一人の個性を生かしている人だと言っている。  

  例えば、小学生のテニスクラブの指導にやって来たマエストロは、スペインの大学のスポーツ学の教授である。練習中も、一人一人と対話する。気が弱く、自分の意思を表現することの苦手な女子がいた。しかし、テニスはかなり上手い。テニスへの向上心も高い。彼は、その女子に近づいて聞く。「〇〇(必ず名を呼ぶ)、きみの願いは?」「サーブを上手くなりたい」。「good!! それは正しい目標だよ。きみはテニスが上手い。だが、サーブが正確に入らない。少しくせがあるせいだ。こういう練習をしなさい。( 繰り返し、やらせる )。そう、その練習を自分で繰り返しするんだ。きみは背も高いから、サーブを磨けば、すごい選手になるよ」。

 「世界のトップレベルの指導者」の特徴の一つは、どの指導者も、みんな「子ども目線」で、小学生や中学生の子どもの背丈になって子どもの目を見、一人一人の子どもの気持ちや考えをしっかり聞き、誉めて自信を持たせながら、目標 (課題) を確認し、そのために必要な練習方法を与えていることだ。誰かと比較されることはない。一人一人の性格や個性や技量に合わせてくれるから、楽しい。子どもたちは、サッカーやテニスをきっと好きになるだろうと思える。

 もちろん、勝利至上主義ではない。保護者の一人が、子どもの育て方について考えを改めさせられた、と言っていたが、親たちも、本当に教えられたと思う。

 「世界のトップレベルの指導者」のもう一つの特徴は、その子その子に何が必要かを見抜き、それを目標 (課題) とさせ、「こういう練習をしなさい」という練習メニュを示すことができるということだ。

 いろんなポケットを持っている。メニュが豊富なのである。しかし、考えてみれば、それは指導者として当たり前のことであって、上達するために必要な適切な練習方法を、一人一人に対して、また、チーム全体に対して、時宜に応じて示すことができる人が、指導者である。金メダルを取った人が指導者ではない。

 ポケットが少ないと、いつもワンパターンの一斉指導になり、ミーティングでも、練習でも、試合中でも、ただガミガミと精神論で怒鳴りつけ、選手の自信を喪失させ、やる気を失わせる。子どもがいやになって辞めていくと、「最近の子どもは、扱いが難しい」などと、子どものせいにする。

 「(村上監督は) 今も勉強の日々を送る」とは、そういうことである。

 ポケットを増やすには、一に勉強、二に研究、それしかない。

 中学校のチアガール部を指導したアフリカ系アメリカ人女性が、おとなしすぎるキャプテンに与えていた言葉は、(私の好きな)マネージメント学のF.ドラッガーの言葉だった。その種目に関することだけではない。医学、身体生理学などは言うまでもなく、スポーツはメンタリティが重要で、心理学も、また、マネージメント学までも、学ぶべきことは多い。

        ★

指導者は勉強あるのみ

 それは、スポーツ指導者ばかりでなく、何かをやろうとしたとき、誰にでも必要なことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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