タツノヒノエ

神仏への道-神社仏閣巡りから、古代の神々との出会い

トンビの空中三連蹴り・・・

2022-03-05 20:12:12 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

6年くらい前の話。

うちの家から見て、東南の方向で、三羽のトンビが空中で遊んでいた。

三羽が、それぞれ空中で「かかかっ」と、「三連蹴り」を出し合っていた。

最初はケンカしているのかと思ったが、なにやら遊んでいただけみたいだった。

「能あるタカは爪を隠す」の諺 (ことわざ) 通り、トンビは滅多に戦闘でカギ爪を出さない。

トンビがカギ爪を使って蹴りを出すのは初めて見た。

以後、左右と後ろをカラスさんに囲まれて追われているときなど、最接近したカラスに、カギ爪で蹴りを出すところも見た。

猛禽類同士も本気でケンカはしない。

大きいのが強いのではなく、「上をとった方が有利」みたいである。

他人様のブログとか見ていると、ミサゴがオオワシにモビングしかけることもあるが、速く飛べるミサゴが上を取ったら、巨大なオオワシは、防戦一方になる。

猛禽類の防戦・・・下になった方が、上の猛禽類から仕掛けられたら、「でんぐり返って」、自分の鍵爪を見せて防戦する。

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熊野那智大社・・・

2022-03-05 17:58:53 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

145社寺目です。

「熊野那智大社」。

平成15年6月7日御朱印いただいております。

飛瀧神社の後、訪れました。

その時、私は緊張していたのですが、

何かの御寄付をした時、私の緊張が神職に伝染したのか・・・

若い神職たちが、全員すごく気を使ってくれました。

その後に訪れる「青岸渡寺 (せいがんとじ) 」では、僧職たちは逆に「いぶかしんだ」表情で私を見ていました。

ウィキより、伽藍画像もウィキより、

熊野那智大社拝殿

熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また、熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社

熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年平成16年〉7月登録)の構成資産の一部」

元は一つであったことからか、隣の青岸渡寺と雰囲気はよく似ていると思いましたが、熊野那智大社は明るく、青岸渡寺は重厚感を感じました。

 

ではまた。

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外道 (げどう)②・・・

2022-03-05 17:54:32 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

外道 (げどう) 続きです。

ウィキより、

⑤ サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子) - 懐疑論、不可知論:真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である[8]。問いに確答せず、つかみどころのない議論を行った[9]。抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の態度表明といえる

⑥ マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ Nigantha Nataputta 尼乾陀若提子、本名ヴァルダマーナ) - ジャイナ教の開祖。相対主義、苦行主義、要素実在説[10]。:サンジャヤの懐疑論が実践の役に立たないことを反省し、知識の問題に関しては相対主義(不定主義)の立場を取り、一方的な判断を排した[11]。宇宙は世界と非世界からなり、世界は霊魂(ジーヴァ)・物質(プドガラ)・運動の条件(ダルマ)・静止の条件(アダルマ)・虚空(アーカーシャ)の五実体または時間(カーラ)を加えた六実体からなるとする[12]。宇宙はこれらの実体から構成され、太古よりあるとして、創造神は想定しない[12]。霊魂は永遠不滅の実体であり、行為の主体として行為の果報を受けるため、家を離れて乞食・苦行の生活を行って業の汚れを離れ、本来の霊魂が持つ上昇性を取り戻し、世界を脱してその頂上にある非世界を目指し、生きながら涅槃に達することを目指す[12]。全ての邪悪を避け、浄化し、祝福せよ

・・・

⑥のジャイナ教は、人によっては、仏教と相互に影響し合っていたとか、似ているとか言う人もいる。

原始仏典の翻訳で有名な、故・中村元 博士もそう言っておられた。

しかし、表面的には、言葉じりとか似ている部分も少しはあるが、中身は全く似ていない。

「現代語佛教聖典 (釈尊編) 昭和33年8月10日 第一版発行 日本仏教文化協会」には、「ジャイナ教」の信徒が、たびたびブッダのもとを訪れて議論したりするシーンが多い。また、ブッダがジャイナ教のことを「誤った教え」と仰っておられる。

私見であるが、ブッダが、出家弟子を無条件に受け入れるのを途中から止めて、一定の審査期間を設けて試し、「本当に出家したい」「出家としての資格があるかを」吟味してから正式に弟子として受け入れるようになったのに、異教徒が関係していたと思う。

と言うのも、「短期間」だけ出家して弟子になったフリをして、「法 (ブッダの教え) 」を盗む者がいたからである。

「短期間」ブッダのもとにいて、「生かじり」状態で教団に帰り、「釈迦はこうこう言ってました」と告げる。要するにスパイであるが、「悟りを開いていない異教の教祖は、弟子に盗ませたブッダの法 (教え) を、さも、自分が悟ったように宣伝するから、表面上の上っ面だけ「少し似ている」のである。ただし、中身は全く似ていない。

ブッダは、梵天との高度な会話も、インドラはじめ神々との対話も、バラモンや在家の王との会話も、「機根に応じて変化する」対機説法応病与薬の姿勢で、「完璧に」受け答えしておられる。まさに、「宇宙の核が、人の形をとって話している」かのようである。対して、ジャイナ教は、表面上は仏教に少しだけ似ていても、中身は空っぽに見える。

ブッダが、「法 (教え) が盗まれる」のを、警戒しておられるシーンもある。

悟ってもいない「生かじり」の者に盗まれたら、表面だけ似ていて中身がまるで違うモノになってしまうからだ。

ブッダを「ぎゃふん」と言わせようとして、ブッダのもとを訪ねて問答を挑んだジャイナ教徒は、知る限りで、(現代語佛教聖典 (釈尊編) 昭和33年8月10日 第一版発行) では、

「長苦行」・・・「長苦行」は、ブッダとの会話をジャイナ教開祖「ニガンタ・ナータプッタ」に報告した。ナータプッタは、「長苦行」がブッダを論破したと勘違いして、「よく説明してやった」と「長苦行」を褒めた。

「ウパーリ」(逆に、心酔して信者になった)

「サッチャカ」(逆に、論破されて帰るも、後も三宝 (ブッダと、ブッダの教えと弟子) を非難する。のち、また法論を挑んできて、やはり完璧に論破されて去る)

また、釈迦族の王、マハーナーマとブッダの会話で、「イシギリ山の側面にある黒岩で、多くのジャイナ教徒たちが立ち通しの苦行をしていて、ブッダは彼らに近づいて「その苦行の理由」を質問する。ジャイナ教徒たちは、「師のニガンタ・ナータプッタの教えに従って苦行をしている」と言い、また、ブッダがジャイナ教徒たちに質問する。そして問答になり、ジャイナ教徒が「ビンビサーラ王は、ゴータマ (ブッダのこと) より遥かに幸せな生活を送っています」と言うと、ブッダが「ビンビサーラ王は、余より幸せであろうか」と問い、「ゴータマよ、失言でした。お二人の中、どちらが幸せでしょうか」と問いかけ、ブッダが比喩を用いて説明し、質問し直すと、ジャイナ教徒は「ゴータマ (ブッダのこと) よ、幸せなのは、御身 (ブッダ) であります」と答えた。

また、ブッダが、釈迦族の国に赴き、ペーダンニャ樹の林におられた時、チュンダは、バーバーの町に雨季を過ごしていた時、ジャイナ教の開祖ニガンタ・ナータプッタの死後、その徒が両派に分かれて争うのを見た。チュンダは、アーナンダにこのことを告げ、アーナンダはブッダに「ジャイナ教徒が二派に分かれて争ったため、勢力が非常に衰えた」ことを報告した。ブッダは、「チュンダよ、誤った教え (ジャイナ教) の最後は、そのようにあることが当然である」と仰った。

これら、「六師外道」と比べたら、まだ、

お釈迦さま (ブッダ) が、出家した当初師事した2人の仙人の方が、だいぶ上である。

① アーラーラ・カーラーマ・・・無所有処定と言う、高い禅定の境地にあったが、若き日のお釈迦様はすぐ、同じ境地になり、仙人のもとを去る。

(私論であるが、曹洞宗の開祖「道元禅師」の「身心脱落」の境地ではないかと推察)

② ウッダカ・ラーマプッタ・・・非想非非想処定と言う、さらに高い禅定の境地にあるが、若き日のお釈迦様はすぐ、同じ境地になり、仙人のもとを去る。

そして、壮絶な苦行に入り、「苦行では悟りを開けない」と悟り、菩提樹の下で深い瞑想に入り、完全なる悟りを開くのである。のち、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタ、かつての師匠なら、お釈迦様が悟った法をただちに理解してくれると思い、天眼通で2人を探すと、すでに亡くなっていることを知る。残念だったが、苦行時代、ともに修行した五比丘に法を説きに行くのである。

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外道 (げどう)・・・

2022-03-05 10:15:22 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

外道 (げどう) とは、仏教用語である。

外道・・・仏教者が、仏教 (仏道) 以外の道を学ぶ者を指す。

仏教自体が、「排他性が全くない」ため、差別性は無い。

ブッダご在世中の、有名な「六師外道」。

ウィキより、

① プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那(不蘭)迦葉)) - 無道徳論、道徳否定論:殺人や盗み、虚言などの悪行も悪をなしたことにはならず、祭祀、布施、修養、真実を語ること、感官の制御(ヨーガ)、自制などのいかなる善行を積んでも善をなしたことにならず、善悪いずれの報いも存在しないとした釈迦と同時代人で、奴隷の子であったという

② パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩馱迦旃延) - 要素集合説[4]、七要素説:人は地・水・火・風の四元素と、苦・楽および命(霊魂)の七つの要素の集合により構成されていると考え、霊魂の独立性を認めない[3]。七要素は作られるものでも他を作るものでもなく、不変不動で、互いに影響はない[4]。よって世の中には、殺すものも殺されるものもなく、聞くものも聞かれるものもなく、知るものも知らしめるものも存在しない[4]。宇宙あるいは人間が多元の要素の集合で構成されているという積集説(アーランバ・ヴァーダ)、唯物論的思考の先駆

③ アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅) - 唯物論感覚論快楽主義[5]:プーラナ・カッサパのような道徳否定論者の思想には、程度の差はあれ、ウパニシャッドに説かれるアートマンを否定し、霊魂と身体の不可分年子の霊魂の非存在を主張する唯物論的な思考があるが、ケーサカンバリンはそうした唯物論者の代表である[6]。人間は地・水・火・風の四元素から成り、各元素は独立して実在し、死によって人間を構成していた四元素は各元素の集合へと戻り、ゆえに人間は死ぬと空無となり霊魂も何も残らない[6]。来世もなく、善の報いも悪の報いもなく、よって宗教も道徳も不要である[6]。現世の快楽・享楽のみを説く[5]。 このような思想をローカーヤタ(順世派)、チャールヴァーカ(Carvaka、ブリハスパティを祖とする)と呼ぶが、その先駆的な例

④ マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利) - アージーヴィカ教(邪命外道と呼ばれた)。運命決定論宿命論):パクダ・カッチャーヤナの七要素に虚空・得・失・生・死を加え、生きているものはこの一二要素から構成されるとした[6]。得以下の六要素は、それぞれの作用を原理化したものである[6]。一切の生き物は輪廻の生存を続けるが、輪廻から抜け出せないものも、そこから解脱するものも、すべて無因無縁であり、自己の意志による行いは何一つない[6]。一切はあらかじめ決定されており、定められた期間は流転する運命である[5]。八四〇万大劫という計り知れない年月の果てに苦しみの終焉に達するまで、どのような修行をしても解脱することはできない[6][7]。よって、道徳を否定し、宗教を無用とする考えが含まれる

・・・

この中では、①は「言語道断」

そして、①~④までを、ブッダ (お釈迦様) の十大弟子の一人、アーナンダ尊者が、ピラツヤ窟院に、大勢の弟子と共に住んでいた「サンダカ」と言う遊行者のもとを訪ねた時に、こう述べておられる。

サンダカよ、かかる四種の主張に対し、心ある者は思うであろう。「もし、それ (上記①~④) が真実とすれば、私はなさずしてなし、行わずして行うことになる。しからば、なんのために師の下で修行をするのであろうか? と。彼は、かかる主張 (①~④) の誤りを知って、捨て去るであろう。これが四種 (①~④) の邪説である

 

続きます。

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那智飛瀧 (なちひろうじんじゃ) 神社・・・

2022-03-05 07:48:46 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

144社寺目です。

那智飛瀧神社。

平成15年6月7日御朱印いただいております。

直瀑 (ちょくばく=直線の滝) 落差日本一、「那智大瀧」。

数ある名瀑を訪れた私も、存在感は「日本一」の滝です。(段瀑なら、落差で上回る滝はあります)

ウィキより、伽藍画像もウィキより、

Hirou shrine01s2048.jpg鳥居境内

飛瀧神社(ひろうじんじゃ)は、和歌山県那智勝浦町那智山にある神社。御祭神は大己貴神熊野那智大社の別宮。那智滝自体が大己貴神が現れた御神体となっており、本殿は存在しない。拝殿もなく、直接滝を拝むこととなる。滝の飛沫に触れることによって、延命長寿の霊験があるという伝説がある。

毎年7月14日に扇祭(那智の火祭)が開かれる。また毎年7月9日と12月27日に御滝注連縄張替行事が行われる。

境内地及び那智滝は、ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年平成16年〉7月登録)の構成資産の一部となっている」

那智滝(国指定名勝) - 当社の御神体。那智御瀧、一の瀧とも呼ばれている。滝壺までの落差は133メートルある。

〇お滝拝所舞台、護摩堂、社務所

和歌山県那智勝浦町那智山

今は神社ですが、「神仏習合の気」に満ち満ちた境内です。

社務所で購入した純銀の御守り今でも持っています。社務所で「このお守りは、ずっと持っていていいですか?」と聞くと、「いいですよ」と言われました。

また、お土産屋で買った那智黒の「八咫烏 (ヤタガラス) 」も持っています。

ではまた。

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