194社寺目です。
続いて「西大寺」の愛染堂です。
平成8年5月3日御朱印いただいております。
ウィキより、伽藍画像もウィキより、
「奈良県指定有形文化財。近衛家からの寄進を受け、京都御所にあった近衛家政所御殿を叡尊の住房であった西室の跡地に宝暦12年(1762年)に移築したもの(移築年次は明和4年(1767年)とも)。
木造愛染明王坐像(重要文化財)- 宝治2年(1247年)、仏師善円作。小像ながら、日本の愛染明王像の代表作の1つ。当初の彩色や切金文様がよく残る。秘仏で、毎年10月 - 11月頃に開扉される。作者の善円は、西大寺本堂本尊・釈迦如来像の作者である善慶と同人と推定されている。像内には、小像にもかかわらず多数の納入品が納められていた。
木造叡尊(興正菩薩)坐像(国宝) - 堂内向かって左の間に安置される、西大寺中興の祖・叡尊の肖像彫刻。弘安3年(1280年)、叡尊80歳の時の肖像で作者は仏師善春である。長い眉毛、団子鼻の風貌は像主の面影を伝えるものと思われる。西大寺の鎌倉再興期の仏像には像内に多数の納入品が納められているのが特色だが、中でもこの像には叡尊の父母の遺骨をはじめとするおびただしい資料が納入されていた。」
・・・愛染明王は、煩悩即菩提 (ぼんのうそくぼだい) の象徴の仏として、真言宗では僧侶に特に信仰されています。
後に、「縁切り 縁結び 良縁成就」の仏として、一般にも人気が高まっていきました。
西大寺・愛染堂の「愛染明王像」は、蒙古襲来 (元寇) の折、叡尊(興正菩薩)が、祈祷して愛染明王の矢が元軍の方角に飛んで行き、元は退散していったと言う霊験談があります。
御朱印の「一矢 愛染明王」の「一矢」とは、蒙古軍 (元軍) を退けた霊験から来ているの「かも」しれません。
蒙古襲来 (元寇) の際は、日本中の神社仏閣で、敵国降伏祈祷が行われ、各地の神社仏閣に「霊験談」があります。
高野山・南院の「浪切不動明王」も有名です。
「私論」ですが、御祈祷を行ったのは、神職・僧侶たちですが・・・
「日本の神々」が、先導して、「神仏総動員」により、「神風」を吹かせたのだと思っています。
高野山・総本山・金剛峯寺には、
「元寇防戦に赴く図 四社明神像」があり、
説明では、「弘安四年四月二十一日、丹生都比売神社で数千羽の烏が一双を残して飛び去った。二十八日夜には社殿が鳴動し光輝いた。これ以前、四月五・十二日には丹生都比売神社の四社明神の内、気比明神のお告げがあり、「蒙古討伐の為神々が出陣することになったが、気比明神がその先陣を努めることとなった。ついては武具がないので二十一日までに武具を用意せよ、二十八日の出陣にはきっと瑞兆があろう。」とのことであった。
之を聞いた幕府は弓や剣を奉納した。二十一日には丹生酒殿神社(丹生都比売神社の元摂社)でも神殿の扉が開き神馬が西に去る鈴の音が聞こえたとされる。」と、あるそうです。
ではまた。
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