石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 木津川市 加茂例幣 海住山寺水船(石風呂)

2009-04-25 23:36:18 | 京都府

京都府 木津川市加茂例幣 海住山寺水船(石風呂)

解脱房貞慶上人が晩年止住したことで知られる補陀洛山海住山寺は観音信仰の古刹である。眼下に恭仁京跡を見下ろし、奈良方面に連なる山並を南に望む山の中腹にある。このように南方に広がる遥かな遠景を意識したロケーションは、壺阪寺などでもそうだが、補陀洛信仰のひとつのあり方を示唆するものかもしれない。01静かで落ち着いた境内に建つやや小振りながら姿の良い鎌倉時代の五重塔が特に印象深い。正確なところはわかっていないが、創建は奈良時代に遡り良弁僧正の開山と伝えられ、当初は観音寺と称したという。平安時代末の回禄後、鎌倉時代の初め、承元2年にこの地に移った貞慶上人と高弟覚真上人の尽力により寺観が回復されたとされる。爾来貞慶上人の出身母体であった南都興福寺の末寺として栄え、現在の真言宗智山派となったのは近世以降のことである。境内や参道、参道途中の墓地に見るべき石造美術がいくつか知られるが、今回取り上げるのは本堂前の芝生の中に据えられている水船(石風呂)である。長さ約210cm、奥行き約110cm、下端は埋まって確認できないが高さ60cm以上ある平面ほぼ長方形の花崗岩の岩塊の上端面を幅約15cm程の縁を残し内側を刳りぬいてある。内刳り部は長さ約173cm×奥行き約84cm×深さ約60cmを測る。縁部は平らに調整され縁から内側にかけての表面は滑らかに仕上げられている。外側は粗造りのままで鑿跡も残っている。02表面は全体に茶褐色を呈し、摩滅が進んだ印象で、ところどころに大きいクラックが入っている。内刳りの向かって左側手前(南東側)の底面に径8cm程の穴が東側外面に貫通している。これは水抜き穴であろう。右側(北側)縁部上端面に「正嘉二年(1258年)戊午十二月日」の刻銘があり肉眼でも確認できる。いわゆる手水鉢としては大き過ぎ、用途を考えると浴槽と思われる。03つまり石風呂である。川勝政太郎博士の記述を引用すると「浴室の土間に石風呂を据え、側面半ばほどの高さに床板を張り、床は洗い場とし、釜でわかした湯を樋によってか、桶によってかして水船に注ぎいれたのかも知れない。また、冷水を入れて水浴用にしたことも考えられる。」とのことである。表面の摩滅状況や損傷状態を観察すると火中したようにも見える。その可能性も否定しきれないが、恐らくは湯を注ぎ熱されては冷却されるということを何度も何度も繰り返した結果、さしもの堅固な花崗岩の組成組織が劣化して今日みるような損傷状態になったのではないかと推定したい。僧侶が身を清めたのか民衆を対象にした施行に使用したのか、そのあたりは不詳とするしかないが、旧加茂町内にはこうした石風呂と思われる水船が割合多くみられる。岩船寺門前のものはその代表的なものひとつである。そうした点も踏まえると、ここに見る鎌倉時代中期、正嘉2年の紀年銘は貴重で、在銘の石風呂では最古のものとされている。なお解脱上人貞慶(1155年~1213年)は保元、平治の乱の主人公の一人藤原通憲、信西入道の孫にあたる。興福寺法相宗の学僧としてその俊才を期待されながら俗化した仏教界の状況を嫌って笠置寺に隠遁し、最晩年を海住山寺で過ごした。戒律を重視したことでも知られ、後の唐招提寺覚盛、西大寺叡尊らによる戒律復興運動の礎を築いたことでも著名。また、高山寺の明恵上人高弁(1173年~1232年)とも親交があり、両上人ともに当時台頭してきた法然上人の専修念仏の普遍性に潜む危うさに警鐘を鳴らしたことでも知られる。また、明恵上人とともに春日明神から我が太郎・次郎と思うと託宣されたとも伝えられ、いわば鎌倉時代初め頃における南都系仏教界のエースと目される人物。笠置寺の奥には上人の墓所と伝える秀逸な五輪塔が残っている。

参考:川勝政太郎「新版日本石造美術辞典」47ページ

例により文中計測値はコンベクスによる略側値ですので少々の誤差はご容赦ください。


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