京都府 京都市左京区大原勝林院町 勝林院宝篋印塔
三千院門前を北に進み、律川を渡ると正面に見えるのが勝林院の本堂である。来迎院と並ぶ天台声明の聖地である勝林院は、文治2年、法然上人が並み居る諸宗の学僧を論破したとされる「大原問答」の舞台としても著名である。本堂向かって右手、境内東側の小高い場所に観音堂と鎮守社の小さい祠があり、その奥に大きい宝篋印塔が見える。緻密で良質な花崗岩製。二重の切石基壇の上に立ち、高さは246cmに及ぶという。(大きすぎてコンベクスでの高さ計測は不能です)背が低く幅の広い基礎は、幅約98cm、大小2石で構成され、大きい方は幅約56cmと小さい方は約42cmである。各側面とも素面。側面高は約35.5cm。基礎上には別石の反花を置く。別石の反花と合わせた基礎全体の高さは約60cm。別石反花は幅約79cm、高さ約24.5cm、反花上端の塔身受座の幅は約55cm。反花は抑揚感のある左右隅弁と側面中央に主弁1枚、隅弁と中央主弁それぞれの中間に小花を配している。基礎の東側面に3行の刻銘がある。いわく「正和五秊(1316年)丙辰/五月日造立之/金剛仏子仙承」とのこと。肉眼でも紀年銘は何とか確認できる。面白いのは基礎を構成する大小2石の切り合いである。両石の接合部は北側面はまっすぐ縦に一直線であるが、南側面ではクランク状になっている。また、どちらの面も東側の小さい方の石の下端接合部側が斜めに角が落とされている。外からは見えない大小の部材の接合面が単純な平面でなく、複雑な構造になっていることが推定できる。何のためにこのような構造になっているのかは不明だが、少なくともクランク状にすることで構造的にずれにくくなることは容易に思いつく。下端の角を落とした三角形の穴も意図的なものなのだろうか。少し想像を逞しくすれば、基礎の内部か切石基壇の下に何らか奉籠構造が隠されている可能性も指摘できる。塔身は少し大きめで高さ約47.5cm、幅約49.5cm。側面中央に径約28cmと控えめの月輪を陰刻しその中に胎蔵界四仏の種子を薬研彫している。書体は端正ながら側面の面積に比して文字は小さい。東方・宝幢如来「ア」は北面、南方・開敷華王如来「アー」が東面、西方・無量寿如来「アン」は南面、北方・天鼓雷音如来「アク」が西面にあり、本来の方角からは90度ずれている。月輪には蓮華座は伴わない。笠は上6段、下2段。軒幅約90.5cm。軒と軒下の段形2段を一石でつくり、それそれ別石の隅飾を四隅に置く。珍しいのは別石笠上の手法で、笠上段形の一段目の半ばまでは軒と同石とし、一段目の上半以上を別石としている。各部別石とする大形の宝篋印塔は京都に比較的多く、笠上段形を別石とする例も見受けられるが、たいていは段と段の間で石が分かれる。このように段の途中で石が分かれるものは管見の及ぶ限り外に例をみない。各段形の彫りは的確かつシャープで、笠下の段形が笠上に比べるとやや大きい。直線的に外傾する隅飾は三弧輪郭式で、基底部幅約26cm、高さ約39.5cmと長大な部類に入り、左右の隅飾先端間の幅は約95㎝ある。隅飾輪郭の幅は約3cm。輪郭内は素面である。笠全体の高さは約50cm、軒の厚みは約12cm。相輪も完存し九輪の8輪目で折れたのをうまく接いでいる。伏鉢の側線はやや直線的、下請花は複弁、上請花は小花付単弁。伏鉢と下請花、下請花と宝珠の各接合部はややくびれが目立つ。宝珠の曲線は円滑である。安定感のある低い基礎と大きめの塔身、全体の規模の大きさからくる雄大な印象に加え、適度に外傾する三弧輪郭式の大きい隅飾には開放感がある。さらに基礎上の優雅な反花が華を添え、まさに意匠的には最盛期の宝篋印塔と言える。京都でも屈指の名塔に数えられ重要文化財指定。宝篋印塔の基礎上に見るこの種のむくりが目立つ抑揚のある反花としては、正和2年(1313年)銘の誠心院宝篋印塔やこの塔などが最も古い在銘品になる。基礎上反花としては弘長3年(1263年)銘の奈良県上小島観音院塔や13世紀末頃と考えられている生駒市円福寺南塔が古いが、単弁でむくりは目立たない。この種のむくり形の複弁反花が宝篋印塔の基礎上に採用され始めるのは14世紀初め頃の京都が最初ではないかと思うがいかがであろうか。
参考:川勝政太郎「京都の石造美術」
〃 新装版「日本石造美術辞典」
例により文中全高以外の法量値はコンベクスによる略側値ですので多少の誤差はご容赦ください。写真左中:基礎のクランク状になった接合線と下端の角を落とした三角形の穴がわかりますでしょうか。写真右下:笠の特殊な別石構造にご注目ください。写真左下:相輪の請花の彫りも的確でシャープです。特に上請花の花弁先端中央に設けた稜が何とも美しいです。とにかく見飽きない素晴らしい出来映え、これまた最高です最高。また、「京都の石造美術」にある川勝博士が初めてこの塔を見つけた時のエピソードは誠心院塔との因縁も絡めて面白いお話です。こういうことがあるとますます没頭していくものです。当時の若い川勝博士の気持ちの高ぶりが行間に窺え共感できる気がします。なお、隣接する小さい観音堂の石積壇の西側左右一番上にある四角い石材は、よくみると梵字が刻んであり、中型の五輪塔の地輪を転用していることがわかります。
余談ですが「ろれつが回らない」という言葉の「ろれつ」というのは、この天台声明の聖地魚山大原寺(来迎院や勝林院は大原寺の主要子院)の南北を流れる呂川と律川の「呂律」から来ているんだそうです。声明というのは読経や念仏に音階をつけて声に出す修業のようなものらしいです。だからうまく声に出してしゃべれないことをこう言うんだそうです。佳境に入ってきた大原シリーズはまだまだ続きます。