● イエス・キリストは,富んだ人が王国に入ることの難しさを,らくだが針の穴を通ろうとすることになぞらえました。
イエスは文字通りのらくだと,本物の縫い針のことを念頭に置いておられたのでしょうか。
イエスのこの話を引用した聖句は三つあり,そのうちの二つには同様の表現が用いられています。
マタイの記述によるとイエスはこう言われました。「富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」。
(マタイ 19:24)
マルコ 10章25節も同じくこう述べています。「富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」。
幾つかの参考資料には,この「針の穴」はエルサレムの大きな門の一つに付随する小さな門であるとの見方が示されています。
夜間に大きな門が閉じられても,小さな門を開けることができ,らくだはその小さな門を通れるとされています。
では,イエスはこの小さな門のことを念頭に置いておられたのでしょうか。
そうではないでしょう。イエスは縫い針のことを指しておられたに違いありません。
この地方では古代に使用された骨製の針と金属製の針の両方が見つかっているので,縫い針は普通の家庭用品だったはずです。
ルカ 18章25節を読むと,イエスの言葉に関する疑問は全く除き去られます。
そこにはこうあります。「実際,富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが縫い針の穴を通るほうが易しいのです」。
辞書編集者(聖書翻訳者)たちも「縫い針」という訳を支持しています。
マタイ 19章24節とマルコ 10章25節に出ている「針」に相当するギリシャ語(ラフィス)は,「縫う」という意味の動詞から派生しています。
また,ルカ 18章25節に出て来るギリシャ語(ベロネー)は,文字通りの手術用の針を指すのに使われています。
「バインの旧新約聖書用語解説辞典」(英語)はこう述べています。「『針の穴』が小さな門を指しているとするのは,新しい考え方のようである。
そうした考えが昔からあったことを示すものは何もない。
主がそのことを言われた目的は,人間にとって不可能だという点を表現することであり,針が普通の道具以外のものを意味すると考えてその難しさを和らげようと努める必要はない」。
―1981年,第3巻,106ページ。
*塚本訳(1963)「金持が神の国に入るよりは,駱駝が縫針のめどを通る方がたやすい」。
一部の人たちは,これらの聖句で「らくだ」を「綱」と訳すべきだとの見方を示しています。
綱に相当するギリシャ語の言葉(カミロス)とらくだに相当するギリシャ語の言葉(カメーロス)はよく似ています。
しかし,マタイの福音書の現存する最古のギリシャ語写本(シナイ写本,バチカン写本1209号,およびアレクサンドリア写本)を見ると,
マタイ 19章24節に,「綱」ではなく「らくだ」を指すギリシャ語が出ています。
マタイは元々その福音書をヘブライ語で書いたと伝えられており,次いでそれを自らギリシャ語に訳したものと思われます。
マタイはイエスが何を言われたかを正確に知っていたので,適切な語句を用いることができました。
ですからイエスは,文字どおりの縫い針と本当のらくだに言及しておられました。それらを用いたのは,何かが不可能であることを際立たせるためでした。
ではイエスは,富んだ人はだれも決して王国に入ることはできないと言っておられたのでしょうか。
いいえ,イエスの言葉は文字どおりに受け止めるよう意図されたものではありません。
イエスは誇張法を用いて,ちょうど文字どおりのらくだが実際の縫い針の穴を通れないように,「富んだ人が自分の富にずっとしがみついて生活の中で神(ヤハウェ,エホバ)
を第一にしないなら,王国に入るのは不可能であると」の例えを話されたのです。
(ルカ 13:24)
「今の世で富んでいる人々に対して命じなさい,思い上がらず,不確かな富に希望を置かず,むしろ,あらゆるものを私たちが享受すべく私たちに豊かに与えて下さった神に希望を置き,
善を行ない,立派な行ないに富み、気前が良く,他人に分け与えるに積極的であり,真の命を摑み取るべく,将来のために立派な基礎となるべき善行を自分自身のために蓄えるように,と」。
(テモテ第一 6:17~6:19)
イエスがこの話をされたのは,富んだ若い支配者がイエスの追随者となる大きな特権を退けたすぐ後のことでした。
また,ある支配者が彼に質問してこう言った。
「善い師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」。イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとりの方,神のほかには,
だれも善い者はいません。あなたはおきてを知っています。『姦淫を犯してはいけない,殺人をしてはいけない,盗んではいけない,偽りの証しをしてはいけない,あなたの父と母を敬いなさい』」。すると彼は言った,「わたしはそれらをみな若い時からずっと守ってきました」。それを聞いてから,イエスは彼に言われた,「あなたには足りないことがまだ一つあります。
あなたの持っている物をみな売って,貧しい人々に配りなさい。そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。それから,来て,わたしの追随者になりなさい」。これを聞いて,彼は深く悲しんだ。彼は非常に富んでいたからである。イエスは彼をじっと見て,こう言われた。「お金を持つ人々が神の王国に入って行くのは何と難しいことなのでしょう」。
(ルカ 18:18~24)
「富裕な人が霊的な事柄よりも所有物により大きな愛着を感じるなら」,王国の取り決めのもとで永遠の命を得ることは期待できません。
とはいえ,一部の富んだ人たちはイエスの弟子となりました。
「夕方になると,アリマタヤ生まれの金持でヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子であった」。
(マタイ 27:57)
「そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で,金持ちであった」。
(ルカ 19:2)
ですから,「霊的な必要を自覚し,神の助けを求めるなら,富んだ人でも神の救いを得ることができるのです」。
(マタイ 5:3)
『すると,ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには,どんな良いことをしたらよいのでしょうか」。
イエスは彼に言われた。「なぜ,良いことについて,わたしに尋ねるのですか。良い方は,ひとりだけです。もし,いのちにはいりたいと思うなら,戒めを守りなさい」。
彼は「どの戒めですか」,と言った。そこで,イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな,守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」。イエスは,彼に言われた。「もし,あなたが完全になりたいなら,帰って,あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば,あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで,わたしについて来なさい」。ところが,青年はこのことばを聞くと,悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。それから,イエスは弟子たちに言われた。「まことに,あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに,あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは,らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。弟子たちは,これを聞くと,たいへん驚いて言った。「それでは,だれが救われることができるのでしょう」。イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし,神にはどんなことでもできます」』。
(マタイ19:16~19:26)