森友・加計問題のことではない。
オウム事件の7人の死刑執行が行われた。
死者29人、負傷者6000人超をだした地下
鉄サリン事件。坂本弁護士一家殺人事件、
長野サリン事件、上九一色村事件など数々
の凶悪事件が続いた。
執行された松本智津夫死刑囚は、最後まで
部下がやったことだと認めなかった。
そして、なぜ殺人が正当化される教義にま
でなり、それに従っていったのか。
解明されなければならないことは、まだま
だたくさんある。
若者が「空中浮揚」などのトリックにひっ
かかり、のめり込んでいったか。そこに神
や仏の悪用によるカルト化が進み、無差別
大量殺人の集団になっていったか。
だからこそ、「被害者の会」や「脱カルト
協会」は、死刑執行の延期を求めていた。
また当時の警察や行政の動きも検証されな
ければ。
上九一色村でオウムによる住民への脅しや
被害に真正面からたたかい、長野サリン事
件で犯人はオウムだと訴えてきたが、取り
上げてもらえなかった。
さらに坂本一家の事件も、警察は事件性な
しとして動かなかった。
カルト宗教
いまでも若者がとりこまれている。
自然と社会への見方をどう身につけるか。
私たちに提起されている課題は、あまりに
も大きい。
追記
オウム事件の15年経過のときのホームページのひとことを再掲載します。
2010年3月20日
ポア・・・サリン事件から15年
あれから15年もたった。13人が死亡し6千余人の被害者を出した地下鉄サリン事件である。
しんぶん赤旗に「家族の会」会長(オウム被害者の会会長)の永岡弘行さんの長文のインタビューが掲載されている。
永岡さん自身もVXガスによって生死の境をさまよった方で、「サリン事件を回避する機会は何回もあったと思えてなりません。例えば2年前の松本サリン事件、山梨県の上九一色村の竹内精一さん(共産党の支部長)らの村民の決死的な調査、県も警察も立ち入り調査をしなかった」など思いを述べていました。
この5年前には坂本弁護士一家がオウムによって殺害されていたのであった。この時も警察の調査は「事件性なし」としてほとんど動かなかった。
当時、竹内精一さんの書いた本などを読むと「なぜ警察は動かなかったのか」と疑問をもつ。
「ポア」
オウムが使っていた言葉である。チベット仏教の「死後の魂を高い世界に移す」ことだそうである。
だからオウム真理教のなかでは、殺人が正当化されていた。「輪廻転生」論から導きだされるひとつの悪しき帰結ではないだろうか。
私はよく「仏教の迷路」という言葉を使う。2千年以上の多くの人類によって営々と積上げられ、マンパワーによって作り上げられた「教義」は、あらゆるものを含んでいる。無数の「教義」のなかにさ迷えば、日常生活、市民生活からかけ離れてしまう危険性がある。
その結果が「教義と教義の衝突」であって、どちらが正しいかの結論は絶対にでてこない。無理やり白黒をつけようとすると鎌倉や江戸時代のように「お上の裁断」を求めることになる。日本共産党が「教義論争」に係わらない理由のひとつでもある。
いまも被害者を生み出す「新興宗教」に囚われの身になる人が後をたたない。
マインドコントロールはなかなか解けない。そして、なぜか共産党は彼らの最大の敵にされてしまうので、生活相談で共産党議員が直接対応するのは非常に難しい。
やはり日常生活のなかで、多くの人たちのなかで、社会性を身につけることではなかろうか。といっても、戦前は国民全体が戦争遂行という「マインドコントロール」にかかっていたのではないか。本当に難しいことだと思う。
当時、大学のある哲学教授がオウムと共産主義を同列に論じた記事を新聞に掲載したが、このとき、上九一色村では、共産党員が命の危険を感じながらたたかっていたのである。また、オウムの反社会的実態を追求していたのが赤旗新聞であった。
社会的事実に目を閉じ、ひたすら自らの観念のなかに閉じこもったものの恐ろしさとともに哀れさを感じた。
大学で宗教哲学などを論じていた教授のなかにもオウム真理教を高く評価し持ち上げていたものもいた。こうした知識人は反省しているのだろうか。そういえばサリン事件の被告たちは医師など高学歴者が多かったことも特徴であった。
地下鉄サリン事件、二度とあってはならない。そして、被害者の救済を手厚くしなければならない。
2010年3月21日
「真理」と神秘性
ときどき「真理を究めたい」という人がいますが、二つの方向性を思わずにはいられません。
科学的な「真理」は、研究や実験などの繰り返しのなかに「新しい発見」や「法則性」が見えてきます。
私たちが普通に使っている「真理」です。ところが、神秘という衣にくるまれた「真理」は危険な香りがします。この「真理」は社会性からどんどん離れて行き、迷路に迷い込み、独善的な穴に落ち込む危険性があると考えます。
科学的社会主義の哲学の「真理論」は、人間の意識・思考や観念が客観的実在と一致することを表します。
これ以外の意味はありません。「認識論」とともに考えることが必要であり、だからこそ、そこに向って相当な努力が求められるわけです。ロシアの革命家レーニンは「唯物論と経験批判論」の中で「電子といえども汲みつくすことができない」と述べています。粒子だと思っていた電子が「波」でもあったことは衝撃でした。
日常の世界では粒と波は一緒ではありませんから。
さらに「絶対性と相対性」の弁証法的理解もかかせません。「絶対はどこまでいっても絶対、相対はどこまでいっても相対」という思考は形而上学的思考の最たるものです。
オウム事件のことにふれるたびに考えることです。
「悟り」はわかったこと、「神秘」は楽しむこと程度に留めておいた方が無難ですね。