シアトル~セントポール間を58時間で結ぶ1905年のオリエンタルリミテッド(列車No.1及び2)は、ライバルのノースコーストリミテッドの走行時間より4時間半早かった。ノーザンパシフィック鉄道はもちろん両都市間の本線距離も長く、ロッキーでは厳しい勾配と、より高い峠を越えていた。列車自体は非常に似通っていた。これは、両鉄道の車両とも同じ会社-プルマン、バーニィ&スミス、アメリカンカー&ファウンドリー(ACF)によって建造されたものであったから驚くには当たらない。また、数ヶ月前まで、NPは「Hill Line」の一部であり、ノースコーストリミテッドからオリエンタルリミテッドのヒントを得ていた。「単一」を示す最後尾のサインは、中国に源を発する赤と黒のデザインで1900年頃からNPのトレードマークとなっていたものである。両方の列車とも、先頭の車両(荷物車等)、座席車、食堂車、寝台車、展望車から構成され、通常8両編成であった。食堂車は「イングリッシュパブ」風の雰囲気を特徴としていたが、寝台車と展望車はビロード張りで絨毯も敷かれ、輸入木材で華美に飾りつけられていた。オリエンタルリミテッドの多くの寝台車は、東洋の地名-トウキョウ、ヨコハマ、マニラ、フーチョウ、フジヤマ-の名が付けられていた。他の車両は、Hillと一緒にSt. Paul & Pacificを設立した初期の仲間の名前が付けられ、また、そのほかの車両は、沿線の地名-タコマ、カシミア等-が付けられた。展望車は特別な名前は付けられず、単に「コンパートメント展望車」のタイトルを掲げていた。
1909年、オリエンタルリミテッドは、セントポール~シカゴ間はバーリントン鉄道を使ってシカゴまで72時間の運行を始めた。オリエンタルよりゆっくりとしたスケジュールながら、同輩のオレゴニアン(列車No.3及び4)もセントポール~シアトル間で毎日運行していた。この列車は、優等列車に比べてより多くの駅に停車していた。オレゴニアンは、セントポールを夕方遅くに出発し、シアトルとタコマには朝に着くダイヤを提供していた。一方、オリエンタルは、西の目的地に夕方到着していた。東行きは、出発時間は反対に、オレゴニアンはシアトルを朝に、オリエンタルは夕方早く出発していた。オリエンタルもオレゴニアンも、スポーカンで一部の車両を切り離し、SP&S鉄道の線路を使ってポートランドに行く運行も行っていた。ポートランドからの東行きの乗客は、SP&Sの列車NO.2及び4でスポーカンに到着した。セントポールとシカゴ行きの寝台車は切り離されて、オリエンタルとオレゴニアンに連結されるが、座席者の乗客は単に列車を乗り換えるだけであった。
1909年、オリエンタルリミテッドは、セントポール~シカゴ間はバーリントン鉄道を使ってシカゴまで72時間の運行を始めた。オリエンタルよりゆっくりとしたスケジュールながら、同輩のオレゴニアン(列車No.3及び4)もセントポール~シアトル間で毎日運行していた。この列車は、優等列車に比べてより多くの駅に停車していた。オレゴニアンは、セントポールを夕方遅くに出発し、シアトルとタコマには朝に着くダイヤを提供していた。一方、オリエンタルは、西の目的地に夕方到着していた。東行きは、出発時間は反対に、オレゴニアンはシアトルを朝に、オリエンタルは夕方早く出発していた。オリエンタルもオレゴニアンも、スポーカンで一部の車両を切り離し、SP&S鉄道の線路を使ってポートランドに行く運行も行っていた。ポートランドからの東行きの乗客は、SP&Sの列車NO.2及び4でスポーカンに到着した。セントポールとシカゴ行きの寝台車は切り離されて、オリエンタルとオレゴニアンに連結されるが、座席者の乗客は単に列車を乗り換えるだけであった。