グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その4)

2005年08月12日 | Wood's Book翻訳
 1909年はまた、アラスカ-ユーコン-太平洋博覧会(アラスカ-東洋-太平洋岸北西部の貿易を振興する夏期のイベント)の年でもあった。博覧会は、シアトルの現在ワシントン大学となっている場所で行われた。博覧会の建物の多くがワシントン大学キャンパスの中心核に残っている。同じ年、有名なシルクトレインがGNを走り始めた。日本とイギリスの船が生糸をアメリカの港、サンフランシスコとシアトルに運んだ。シアトルに着くと一部の貨物は第41桟橋(現在の第91桟橋)を通った。多くのシルクは第88桟橋を直接通過し、GNで東に運ばれた。当初、シルクは通常の列車で取り扱われていたが、シルクの需要が増えたために量が増え、専用の高速列車が設けられた。大体一週間前に貨物の到着通知が着き、この間に一番良い車両が準備・調整される。シルクトレインは、1912年に顕著なものとなり、1933年まで続いた。
 1922年、より安全でより耐久性の高い全鋼製化への動きにあわせて、オリエンタルリミテッドの木造車は鋼材で覆われた。この改造は、新しい車両が到着するまでの一時的な対応策であった。新しい車両が到着したら、この改造車は、オレゴニアンを予定通り取って代わるグレーシャーパークリミテッドに使用されることになっていた。
 1922年はまた、プルマン社が、それまで鉄道が所有・運営していた寝台車の運営を引き継いだ年でもあった。これは、鉄道にとって良い販売促進の動きで、旅行客に広く受け入れられるとともに、長期的には低コストであった。プルマン社の運営はグレートノーザンを大変喜ばせたので、1924年のオリエンタルリミテッドのためのすべての寝台車、食堂車、展望車(7編成分)の建造をプルマン社に任せた。
 新しいオリエンタルリミテッドは、シカゴから一番西のオレゴン州ポートランドまでの町々で1924年の春遅く披露され、6月1日から運用に入った。各列車は、発電貨物車、喫煙車、一等座席車、ツーリスト寝台車、3両の一等寝台車、食堂車、展望車で構成されていた。全ての車両は、重量鋼製車で、GNオリーブグリーンで塗装され、オリエンタルリミテッドとの豪華な金文字が書かれたオリーブグリーンのボードを掲げていた。端には、プルマンまたはグレートノーザンと小さい文字で書かれていた。
 寝台車と食堂車の東洋の名前は落とされた。食堂車は、今度はグレートノーザンが通る州の名がつけられ、寝台車は同じくGNが通る街や地域の名が付けられた。展望車は全て、北西部から北太平洋を通って東洋までの最短ルートを示して、大圏上シリーズの名が付けられた。この巨大な展望車の後ろの窓は、非常に高く広く作られ、壮大な西部の景色を良く見られるようにされていた。大きく深く後退した展望テラスは、一度に8人を収容できる広さだった。