グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その8)

2005年08月16日 | Wood's Book翻訳
 1934年11月、バーリントン鉄道(GNとNPにより共同で保有されている)は、リンカーンとカンザスシティの間でパイオニアゼファーによる流線型列車の運行を開始した。シカゴ~ミネアポリス間のツインゼファーがすぐ後に続き、1936年11月にはデンバーゼファーが導入された。運行に入る前に十分に宣伝されていたこともあって、このBudd製の流線型列車は多くの見物客を集めた。誰しもが、太平洋岸北西部の人々も含めて、この流線型列車に乗りたがった。
 地元の新聞の社説がピュージェットサウンド地域にも流線型列車を導入することを後押しした。ミルウォーキー鉄道は、すぐに反応し、心地よく落ち着いたオリンピアンに流線型軽量客車を何両か加えた。そもそもは、これらの客車は、新しい車両が来るまでは、ハイアワサに使われていたものだった。グレートノーザンは、1935年にエンパイアビルダーの全ての車両にエアコンを設置した。そして1937年には、ローカル旅客用のバーニィ&スミス(1914年)の客車を改装して、新しいプルマン製の半流線型の豪華な車両を長距離旅行客用に加えた。ノーザンパシフィック鉄道もまた、豪華な客車をノースコーストリミテッドに加えた。しかし、所要時間は全く変わらなかった。シカゴまでの所要時間は、シアトル/タコマを出発する3つの大陸横断鉄道ともに60時間ほどに留まったままだった。ある編集委員は、GN、NP、ミルウォーキーの三社の間に、太平洋岸北西部の安定を乱さないという「紳士協定」があるのではないかと示唆した。
 実際には、1930年代の太平洋岸北西部における流線型列車の運行開始は、良い投資とは考えられていなかった。米国は深い不況の真只中にあり、多くの鉄道が存亡の危機にあった。グレートノーザン鉄道とノーザンパシフィック鉄道はエンパイアビルダーとノースコーストリミテッドに多額の投資を行った。第一次世界大戦の直後に管財人が出たり入ったりしていたミルウォーキー鉄道は、その限られた資金を非常に有名なハイアワサに投資する必要があった。そしてまた、西部の輸送密度は、中西部や東部に比べると軽いものだった。ノースダコタ州、サウスダコタ州、モンタナ州、アイダホ州の人口の合計は250万人だった。ワシントン州は160万人、オレゴン州は100万人であった。対照的に、イリノイ州は700万人、ミネソタ州とウィスコンシン州はそれぞれ300万人であった。1940年初頭、状況が変化した。ヨーロッパの戦争により、中西部と太平洋岸北西部間で、より良くより早い運輸への緊急な必要性が高まった。大量の船、飛行機、製品への大量の発注は、前例のない、西海岸ブームを引き起こした。造船所や飛行機工場、他の工場が需要に対応して拡張を始め、求人需要が太平洋岸北西部の雇用能力を追い越していったので、企業は、求人、雇用を中西部で行い始めた。米国政府は、各州軍を連邦政府の支配下に置き、北西部に大規模な訓練キャンプを開設した。そして、1941年には、ビルダーは、2つの地域の間を走り、民間人、軍人双方の輸送需要を充足しようとしていた。米国の1941年12月7日の世界大戦への参戦により、北西部の3鉄道は、扱い可能な輸送量より多い旅客・貨物の輸送量を求められていた。ビルダー、ノースコーストリミテッド、オリンピアンは、シカゴまで2泊3日の旅であるが、通路に立ち客を乗せてシアトルを出発することもしばしばだった。大陸横断輸送には何年も見たことの無い客車が、そのできる限りの速さでシカゴとシアトル間を往復した。エンパイアビルダーは、非常に重量化したので、新しい貨物用ディーゼル機関車さえも、マリアス峠の補機に投入された。明らかに、重量客車によるビルダーが、時代遅れになるというだけでなく、擦り切れてしまう日が急速に近づいてきていた。そしてまた、戦争が終わるまでは終わることの無い成長の時代を北西部が経験していることも明らかであった。1929年バージョンのエンパイアビルダーを交代させる日が来ていたのである。