グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その2)

2005年08月10日 | Wood's Book翻訳
 Hillを知る人なら誰でも、運営におけるこの「傷」が長く続くとは思わなかったはずである。1900年、グレートノーザン蒸気船会社が資本金600万ドルで設立された。2隻の28,500トンの蒸気船、ダコタとミネソタ(更に2隻が続いた)の建造のための契約が調印された。1901年にスミスコーヴにグレートノーザンのアジアドックが完成した。このドックは、インターベイのGNの主ヤードに隣接していた。日本郵船がこのアジアドック、第88桟橋を占用していた。新しく建造されたミネソタとダコタは、1904年12月に第88桟橋に到着した。広い船幅と深い喫水を有するこの双子の蒸気船は、当時の大洋航路貨客船としては最大のものだった。Hillは、水上でも鉄道と同じ原則を適用した。大型の機関車と長い列車のように、大きな船は、多くの貨物を運べ、かつ、より効率的に運ぶことができた。今や、グレートノーザンの乗客も貨物もセントポールから東洋まで全てをグレートノーザンの設備で旅することが可能となった。
 しかし、Hillが世紀の折り返し時点で予想した貿易量が完全に実現することは無かった。1905年の日露戦争の終結により、太平洋航路の輸送量は減少し、運ぶものがたっぷりあったときに比べて余裕ができた。1907年、ダコタは横浜港外で座礁し、サルベージされる前に沈没した。最後の一撃は、1906年のヘップバーン法の成立であった。この法により、連邦政府は、「商品条項」の施行により、鉄道会社が競争を握りつぶすために獲得した船会社と鉱山から鉄道会社の資本を強制的に引き上げさせることが可能となった。1915年までには、ミネソタと、短かったがダコタは、GNに300万ドルの経常損失を与えていた。1917年のミネソタの売却によりグレートノーザン自身による太平洋航路は終わりを告げたが、日本郵船との契約は続き、利益の上がる東洋との貿易も続いた。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その1)

2005年08月09日 | Wood's Book翻訳
 1889年のグレートノーザンの創立と1893年の太平洋岸への大陸横断の完成との間の数年間には、セントポールとシアトルとの間のファーストクラス列車のネーミングについてはほとんど考えられていなかったようである。実際、この時期、James J. Hillは、プレステージのある旅客列車にはあまり興味は無く、それよりも主に、移民、農産物、材木、鉱産物、製品等を輸送することに興味があったことを、多くの証拠が示している。1892年には、モンタナ州ビュートまでモンタナエキスプレスが走り、更に北には、本線がロッキーに延びるのに従って各駅停車列車が走っていた。鉄道完成後に走っていたのは、グレートノーザンフライヤー、グレートノーザンエキスプレス、そして、単に列車番号が付いた列車だった。1890年代終盤、ユーコンのゴールドラッシュがブームとなり、シアトルに出入りする多くの列車や船が金を求める人たちでごったがえしていた頃には、アラスカリミテッドも走っていた。
 1905年1月、本線が開通してから12年後に、オリエンタルリミテッドが、グレートノーザンの名のある列車として走り始めた。多分、この名前は、James J. Hillが長年温めていたものだろう。カナダの彼の家を離れてから、太平洋までの道のりを建設し、そして東洋へと向うことが、少年時代からの夢であった。1,800マイルもの、平原、山岳を走り、海へと到る列車にこの名前はふさわしくないと思われるかもしれないが、James J. Hillのビジョンは、線路の終点のはるか先まで届いていた。実際、太平洋の東岸の港まで、7,000マイルにわたって伸びていた。利益の大きい東洋との貿易は主にカリフォルニアの港で扱われており、毎年増大していた。Hillは、この貿易にGNを参画させようと数年前から動いていた。
 1896年に、彼はCaptain James Griffithを日本に送り、日本郵船(NYK)との交渉に当たらせた。その結果、同年後半にはセントポールで契約調印にこぎつけた。1896年8月31日、蒸気船三池丸がエリオット湾に入り、その日、その到着を盛大なパレードで祝った。シアトルにとって最初の太平洋航路の蒸気船である三池丸は、シアトルの貿易港としての優位性を際立たせた。GNは今や、セントポールから世界の半周に渡る定期貿易路を持つに至ったのである。小麦粉、綿、木材、鋼材、そして製品が、シアトルまでGN鉄道で運ばれ、更にそこから日本の船で東洋へと運ばれた。

「Wood’s Book」翻訳「第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー」掲載開始(予告)

2005年08月08日 | Wood's Book翻訳
 グレートノーザン鉄道ファンにとって教科書とも言える本が、ファンの間では通称「Wood’s Book」と呼ばれる「The Great Northern Railway : A Pictorial Study by Charles & Dorothy Wood」です。1979年にPacific Fast Mail(PFM)社により出版されています。
 先般、この本の「第6章 蒸機:大平原から大海原へ」と「第3章 カスケードを超えて」の翻訳を掲載させていただきましたが、明日より第3シリーズとして「第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー」を2週間ほどかけて掲載いたします。
 この章では、GNで有名な特急列車であるオリエンタルリミテッド、そしてエンパイアビルダーについて詳しく解説されています。1905年に登場したオリエンタルリミテッド、1929年に登場したエンパイアビルダーはともにアメリカの鉄道がもっとも華やかな時代を飾る魅力ある列車でした。
 いずれにしましても、素人の翻訳ですので、分かり難いところ、間違っているところ等あるかとは思いますが、御笑覧頂ければ幸甚に存じます。

 なお、この翻訳掲載につきましては、天賞堂模型部様とPFM社様のご厚意によりご承諾を頂いているものです。(今後このブログに掲載される翻訳を、翻訳者及び発行者の許可を得ずに、無断で複写・複製・転載することは法律で禁じられています。Copy Right 2005 Hiroshi Suzuki and 1979 Pacific Fast Mail: All Rights Reserved)
 地名については、アメリカ地名辞典(井上謙治、藤井基精編:研究社出版)によってなるべく日本語表記をするように努めました。

(ちょっと脱線)読書感想文

2005年08月05日 | ちょっと脱線
 ちょっと寄り道して、読書感想文です。夏休みの宿題を思い出しますね。

 最近、感動してしまった本が2冊。川上弘美著「古道具 中野商店」と白石一文著「私という運命について」です。
 川上弘美のほうは、いつもと変わらず、淡々とした文章で淡々とした状況を描きながら、だんだんと切なくなっていく恋のお話。「欲で好きになっている人は、いなくなるとまずいらいらする。本当に好きな人は、いなくなると寂しくなる。」んだそうです・・・。でも、切なくって、つらくって、うまく行かなかったのに、最後の最後にあっと驚くハッピーエンドが待っていて、ずるい、涙が出てしまいました。
 白石一文は、初作の「一瞬の光」以来読み続けています。この人は、とにかく人の気持ちを、文章で書いて書いて書きまくって、状況も劇的で、感情がもうどうしようもなくなってしまうタイプの小説です。今回も普通のOLの20代後半から40代まで、これでもかっていう劇的な人生の中で、色々な人々の感情を書きまくっています。彼女の人生の節目に現れる何通かの「手紙」が、心の底からの感情を文章で伝えるものとして、小説の中で描かれますが、この手紙が涙なしには読めない(本当です)。せりふが説教臭かったり、説明調だったり、伏線の先が読めてしまったりするところもあるのですが、言いたいこと、どうしてそうなっていくかは、心の底から良く分かります。

 それにしても、小説を読んだだけで涙腺が緩むようになったら、おじさんも一人前でしょうか。「生長ければ恥多し」でしょうかね。

電気機関車Y-1のサウンド

2005年08月04日 | 実物・車両
 最近、Yahoo! Group gngoutで話題になっているのは、電気機関車のサウンドです。最近のHOスケールのサウンド化の動きにより、蒸気機関車、ディーゼル機関車、ガスタービン機関車のサウンド等はモデル化されていますが、電気機関車のものが無いようです。GNについて言えば、カスケードトンネルを中心とする電化部分は1956年に、非電化されています。そこで、50年前の電気機関車の音がどんなものであったかが、議論されています。日本でしたら、電気機関車はそこらじゅうにごろごろいますから、その音で良いような気もしますが、アメリカでは、電気機関車自体がそう簡単に捕まえられませんから大変そうです。「パンタグラフが架線をする音ってどんな音?」みたいな質問が飛び交っています。

グレートノーザン鉄道歴史協会(GNRHS)年次総会

2005年08月03日 | グレートノーザン歴史協会
 グレートノーザン鉄道歴史協会(GNRHS)の年次総会が、7月17日から20日まで、ミネソタ州Fergus Fallsで開催されました。
 内容は、理事会、レールフェア(スワップミート)、模型コンテスト、写真コンテスト、各種プレゼンテーション、トレインライド、パーティ等です。しかし、一番の目玉は、GNRHSが保有する本物のディーゼル機関車No.400(SD-45)の試乗運転です。ファン自らスロットルを握れるのはうらやましい限りです。写真は、この年次総会の荷物タグですが、写っているのが、この機関車です。この年次総会の速報が、Lindsay Korst氏のHPに掲載されました。大変楽しそうな雰囲気が伝わってきます。
http://www.gngoat.org/2005_gnrhs_con.htm
 また、年次総会の色々な場面の写真も掲載されています。
http://www.gngoat.org/2005_gnrhs_con.htm
 なお、今年の年次総会記念貨車は、カントンホッパー車(2種)でした。

(ちょっと脱線) NHKの「C62のすべて」

2005年08月01日 | ちょっと脱線
 昨晩のNHKアーカイブスで1971年放送の「C62のすべて」を見ました。感動しましたね。小樽から函館までの「ニセコ」を牽くC622号機と3号機の重連の画はすばらしいものでした。NHKもお金を惜しまず、空撮や前補機のテンダー上からの画とか、なかなかお目にかからない画像をたっぷりと見させてもらいました。また、国鉄にとっても、まだまだいい時代だったと感じさせてくれる番組でもありました。
 小生が初めて北海道に渡ったのは、1973年でそのときにはもうC62はいなくなっていましたから、残念でした。もう、数年早く生まれたかったですね。