これは、サンドロ・ボッティチェリのヴィーナスを元に描かれた、工房作品のディテイルです。おそらくボッティチェリの筆も入っているが、大方は工房の弟子が描いたコピーと言えるものです。
それなりに美しいが、やはりオリジナルには及びませんね。弟子も日ごろ勉強して精進はしているでしょうが、やはり師匠にはかなわない。
こんな風に、コピーはつねにオリジナルに劣るのです。たとえ技術がどんなにすばらしくて、新しい工夫を盛り込むことができても、コピーはオリジナルを凌駕することはできません。
言いたいことはわかりますね。どんなにかのじょの真似をうまくやっても、服や化粧にお金をかけても、かのじょにはかなわないということです。
霊的技術を用いれば、人間の顔というのはある程度思い通りに変えることができます。その技術を弄して、天使的に鋭く整った完璧なまでの美女の顔を作ることはできる。実際そういう女性もいました。顔もスタイルも完璧に仕上げられている人はいた。ですがそのどれも、全然美しく見えないのです。
なぜか。天使の美はオーソドックスすぎるからです。歪みが少なすぎる。端正過ぎる。そんな顔をしていれば、中身のお粗末さがそのまま見えるのです。
天使の真似をして、自分を鋭くきれいにしたい、それでみんなを負かしたい、男を引き込みたい、なんてことを考えているのが丸見えなのです。
天使がなぜあそこまできれいに見えるのか。それは形だけではなく、心が素晴らしく美しいからです。かのじょはしんから優しい気持ちで、人類を助けようとしていた。その真心が透けて見えるから、あの形がとても美しく見えるのだが。
そんなことは何も分からない馬鹿が、表面だけ真似すればいいだろうと、そのまま形だけ真似したら、まるで馬鹿になった。
天使的に完璧に整った顔をしていながら、心は、子供のように貧しい。人を馬鹿にしてやる、なんてことを思っている。それが表情に出る。すると、人間はみなおばけのようなものを見た気がして、ぞっとして逃げるのです。あまりにも醜い。
本人はきれいなつもりで、おそろしいほど自分をきれいにしているのだが、それが返ってあきれるほど嫌な奴に見えるということに、気付いていない。
これが発表される頃には、この愚かなブームも収まっていればいいのですが、馬鹿というのはなかなか歯止めがききませんから、難しいでしょう。
天使に勝ちたいなどと、考えてはいけませんよ。そんなことを考えているから、負けるのです。